あなたが好き

 お気に入り動画をぼんやりと観ていると、カフェで作業をするシーンがやたらカッコいいように感じた。
 そうだ。これよ。これをやってみよう。
 周囲の喧騒などお構いなしに、ひたすらキーボードを叩くのだ。疲れたら注文しておいたホットコーヒーを口にする。ちょうどいい冷め具合だ。さて今日の作業はどこれくらい進んだかな。5000字か。まあまあだな。
 その境地に浸るために、貯金からノートパソコンを買った。
 少しでも安い商品を手に入れるために、外国の通販サイトに何度もアクセスした。なぜかその都度エラーが出て、泣きたくなった。
 自分というモノがありながらという、長年の相棒であるデスクトップからの反乱かと疑ったほどだ。
 数日掛けてやっと注文が通り、それから2週間後、晴れてノートパソコンは私の元にやって来た。

 

 数年前から、私は『人生ほんとに詰んでるわ』状態だった。
 それなりにスキルを積んで来た職場は、親の介護の為に辞めざるを得なかった。最初はチーム皆で協力するから辞めないでと言っていたチーフも、介護の期間が長くなるといい顔をしなくなった。チーフだけでなく同僚の顔つきも何となく冷たくなって来て、結局、空気を読んで辞めた。それでなくとも介護は精神的にも肉体的にもきつかった。むしろ辞められてよかった。ほっとした。これからは介護一本に専念できると思った。
 交代で体調を崩す両親を、ケアマネさんに助けてもらいながらなんとか少しでも長く生き永らえるように奔走した。そのうちどちらの主治医がどちらだったか。予約はどちらだっけ? この手続きは誰の為? あれ? この異常な数値は誰の? ひょっとして自分の頭の方が異常な数値になってるんじゃないの?と混乱して来た。疲れてるんだ。でも私が倒れたら両親はどうなるのか? だから疲れていないと思い込むことにした。そうすれば何とか身体は動いた。

 
 頻繁に実家に泊まりに行っている間に、同居しているパートナーに逃げられた。
 これには驚いた。
 「できる間にできる事をしてあげたほうがいいよ」
 成人する前に両親を亡くしている彼ならではこその進言だ。ありがたく頂戴して、心置きなく留守を任せた。そういう生活が半年も経った頃、後ろ姿がどこか寂しそうだなと気づいた。でもまさか今さら私がいなくて寂しいなんてないよなと、自分に言い聞かせた。私たちは籍こそ入っていないが、学生時代からの長い長い付き合いだ。もう互いに空気のような存在だった。ことさらに好きだとか愛してるとか、そういう生々しい感情はない。少なくとも私は。そう信じていた。
 だからこの人はずっと普通に家にいると思っていた。いつでも私が疲れて帰ってきたら出迎えてくれると。別に優しくもなく、普段通りにソファに凭れてゲームをしながら「あ、帰って来たの。おかえりー」と言ってくれるだろうと。
 それなのに両親の四十九日の法要(結局ふたりは相次いで亡くなった)が終わり帰宅したら、彼の姿はなかった。
 法要に出ないの?と訊ねた時の曖昧な表情で、察しなければならなかったのだ。
「ま、親戚も来るもんね。いろいろ言われたらうるさいし」
 今時と思うのだが、高齢者の中にはこういう曖昧な関係を嫌う人もいる。そういうのがこの人は煩わしいのだろうと思った。私の両親にすらほとんど会おうとしなかった人だし。
「ねえ、四十九日が終わったらウナギ食べに行きたい。国道沿いの向こうの、ほら、店の前を通ったことがあるでしょ」
「へえ、ウナギ食べる元気あるんだ」
「この辺りでエネルギーを付けておかないとね。まだこれから残務整理が一杯あるし」
 実家を畳むという大仕事が待っている。考えただけで身がすくんだ。
 彼はまた曖昧に笑った。
 それが、私が見たパートナーの最後の笑顔だった。


 
 昼下がりのカフェ。
 ノートパソコンが来て作業するなら、絶対にここだと以前から決めていた。
 それなりに空いていて、隠れ家的な席があって、ほどほどの喧騒がある。
 朝から雨が降り続いているからどうだろうと思っていたが、普段と変わらない混み具合にほっとした。あちこちの座席で作業をしている人達がいる。カウンターではスタッフがのんびりとおしゃべりをしている。ゆったりとした優しいピアノのBGMが流れている。
 私はホットコーヒーを頼むと、おもむろにバッグを開けて真新しいノートパソコンを取り出した。それをテーブルに置き、画面を開く。電源を入れる。音もなくトップページが現れる。すぐに執筆用のサイトに繋ぐ。
 そこで私の指は止まった。
 
 いったい何を書けばいいのか。
 
 真っ白いモニターを呆然と眺める。
 書きたいことはいっぱいあったのに、何も言葉が出て来ない。
 どうして? 焦りから思わず周りを見渡してしまった。作業している人達は、私よりずっと若くてきれいでいかにも仕事ができるという感じだった。場違い感が胸を締め付けて来た。私が親の為に病院や施設を駆けずり回っている間に、こんなにも時は流れたのだ。私だけが取り残された。それなのにノートパソコンなんか持ち込んで……恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。
 ひとり赤面してこのおばさんは何をやってるんだ。
 そんな風に見られてるんじゃないのかな。
 取り敢えず何かを打つんだ。別に文章でなくてもいい。とにかく何かを。

 

 ――すき

 

 気が付いたら画面には一杯の文字が並んでいた。

 
 猫が好き。雨上がりの空気が好き。新しい文房具が好き。
 卵かけご飯が好き。緑の公園を歩くのが好き。
 お父さんの分厚い掌が好き。お母さんの縫ってくれたワンピースが好き。
 あなたの優しい声が好き。ずっと見守ってくれていた温かいまなざしが好き。


 夕刻の時間を迎え、店内は少し混雑して来たようだ。空気を読んで、作業をしていた人達が次々と席を立ち始める。
 私もまた画面を閉じると、そっと身支度を始めた。続きの作業は家に帰ってやろうと思った。
 わずか1キロほどのこの端末の中に、もっともっと私の好きを注ぎ込みたい。
 好きで一杯にしたい。



  end

あなたが好き

あなたが好き

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-02

Copyrighted
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