御守

2018年の作

 初秋の日暮れ時、幸吉が川辺をのろのろ歩いていると、正面から同じ歳ほどの青年が小走りしながら向かってきた。青年は何やら慌てた様子で首を回し辺りを見ては、望みのものが見つからないといった風に息を吐いていた。しかし幸吉の姿を視界に収めるや否やまるで主人の姿を捉えた忠犬のように飛んで走ってきた。
「どうか、何も言わずにこれを受け取ってください。」
 青年が差し出したのはちいさな白色の巾着袋だった。「は。」幸吉は驚くばかりでただそれだけが唇から漏れ出た。「御守です。どうか。」その小巾着には何ひとつとして文字が書かれておらず、ただ薄っぺらの布の繊維だけが波を立てていた。幸吉は突然見ず知らずの青年が御守を差し出してきたことが不可解でたまらず、また彼が御守と称したそれがほんとうは良くない何かなのではないかと疑った。わけもわからず押し付けられるのも如何なものかと突き返そうとしたが、青年の爛々とした眼を見るやそのようにするわけにもいかず控えめに手を広げ受け取った。
「あの、何だって急にこのようなものを。」渡された手の中のちいさなものをまじまじと見つめた後、幸吉はようやく言葉を放った。それからはっとした面持ちで青年を見やった。「もしやあなた、ぼくの知っている方ですか。」
「いいえ。おれとあなたとは今しがた初めて会いました。しかしおれはあなたを探していたのです。」
「あなたはぼくを知っていたのですか。あなたの名前は? もしやわかるやもしれません。」
 青年は急に押し黙った。
「渾名でも。いやでしたら結構。」
「ヤ、そうではなく。すみません。」
「それで、一体これはどういうことです。」
「おれは明日いなくなるのです。ですからそれをお譲りしたいのです。」
 幸吉はいやな聞き間違いをしたと思って一度聞き返したが、まったく同じことが返ってきた。今度は幸吉が黙り込み、それを横目に青年は俯いて足元に視線をやった。丁度爪先に蟻が張り付いて忙しなく脚を動かしていた。よく見れば蟻は真っ白の卵を抱えていて、自らとそれを食わんとする涎を垂らしたおそろしい魔物に怯えているようだった。
「揶揄うとは碌でもないひとだ。」
「揶揄うなんて、まさか。」
「……なんだって、なにか病ですか。しかし、エ、あなた、まったくピンピンしているじゃありませんか。とても弱っているようには見えませんが。」
「ええ、病などではありません。何ともありません。しかしいなくなるのです。どうしたっていなくならねばならぬのです。そう決まっているのです。」
「一体どうして。」
「どうだっていいでしょう。」
「この御守を置いて帰ってもよろしい。」
「そういうわけには。」
「哀れな男だ、あなたは。」
「そうでしょう、そうでしょう。ですからどうか、貰ってください。」
「いやですよ。」
「なんとか。」
 二人の間では初めて会ったとは思えないほどポンポンと会話が弾んだ。幸吉はいなくなるとかどうとか言う青年をはじめ訝しんでいたが、冗談と踏んでみると楽しくなって仕方がなかった。そのうちきりがないと悟って仕様がないと御守を持って帰ることにした。青年は幸吉が胸ポケットにしまうのを見届けると「ありがとう。」と笑った。
「それで、どうです。今の御気分は。」
「案外悪くないものですよ。」
「そうですか。いいなあ。」
 川を振り返るとカッと目の前が明るくなった。夕日が水面に反射してランプ灯の如く眩しく輝いていた。しばらく眺めていると、幸吉はふと、自分の期限を知っているのは嫌だなあと思った。或る日突然パッタリといなくなりたい。
 夕日は二人をも照らしていた。空の下で幸吉のからだは紅く染まった。何となくポケットから御守を出した。御守も紅く輝いていた。
「ああ、なんてうつくしい、やさしい朝日。」
 青年はしあわせそうに呟いた。白い肌が淡く光っていた。

御守

御守

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-02

Copyrighted
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