或る告白

2017年の作

 わたしは薄情な人間です。家族、友人、誰にわたしのことを訊ねても、あいつは薄情なやつだと、口を揃えるでしょう。自分でもそう理解しています。兎に角、わたしは薄情であるのです。どうしようもない、とんでもない薄情者なのです。
わたしが九つの頃、自宅で可愛がっていた犬が息を引き取りました。十一の頃、五年間を共に過ごした、近所に住む友人が、不慮の事故で亡くなりました。十四の頃には、三つ下のかわいい弟が、肺の病で還らぬ人となりました。その都度涙など出ませんでした。そればかりか、可哀想とも、悲しいとも思いません、ああそうか、いなくなったのかと、ただそれだけでした。周りの人間がそうしているように、眉を寄せて俯いたり、手で顔を覆ったり、或いは声をあげて泣いたりするべきなのでしょうが、どうにもできないのです。ぼうっと顔を上げて、鼻と、半開きの唇の間から、ふうんと息を漏らすのが常でした。すきだった動物や人間がいなくなったときは、涙を流して悲哀に沈む、それが正しい在り方だということが、不思議でたまりませんでした。肩を震わせて次々と涙を垂らしている様子を、滑稽とさえ思っていました。今は決して、そのようなことはありませんが。そういう人々は、わたしに、なにやら常識と呼ばれているものを与えました。
もともと、わたしは望んで薄情でいるのではありません。こういう性格を天から授かって、それが母の胎内で育まれて、もう充分であるとお認めになられたから産まれてきたのであって、そこにわたしの意思がないのは当然のことです。幼少期の環境が酷いものであっただとか、感情を欠落するような事件を経ただとか、そんなことはありません。ですから、薄情だ薄情だと咎めらても、こういう人間なのだから仕方が無いだろうと思います。わたしに、いいえ、人類に於いて、情が薄いということは、欠陥ではないのです。欠陥があるとすれば、それはわたしをつくるときに杜撰な工事をした、かみさまの方にあるでしょう。しかし、かみさまは一等偉いので、幾らわたしがそう思えども、世間には薄情は悪いことだという風潮が生まれます、さも当然の如く! 全く世知辛い世の中でありますこと……。こういうことがあるので、わたしはどうしても、かみさまに不信感を抱いてしまいます。

さて、わたしがどのような人間であるか、理解していただけたところで、そろそろ彼の話をしなければなりませんね。え、彼とは、誰かって? ……つい昨日まで、わたしの夫であった、村内のことです。
村内と出会ったのは二年前、わたしが実家に戻った日のことです。数日前に大学を卒業して、寮から実家へ帰ってきたわたしは、両親との再会で気分が高揚していました。薄情と言われても、わたしは両親のことを嫌いにはなりませんでした。両親もわたしを疎遠にするようなことはありませんでした。それが親と子というものなのだろうと思います。特にこれといった問題のない関係を築いていました。
懐かしいかおりのする玄関に、粗方荷物を運び終え、二階にある自室へ向かうと、外から声が聞こえました。耳を澄ましてみると、おおい、おおいと、誰かを呼んでいるようでした。それが随分と続くものですから、煩くてたまりません。とうとう耐えかねて、ひとつ文句を言ってやろうと窓を開けると、こちらを見上げる青年と目が合いました。
瞬間、存外整っていた顔立ちに目を奪われました。体内を隈無く流れる血液が途端に温度を増し、顔が火照るのを感じました。何か言おうとも、口がぱくぱく動くだけで声が出ません。青年は暫くじっとこちらを見ていましたが、暫く沈黙が続いた後に勝手に喋り始めました。
「きみは、この家のお嬢さんか。いや、いい、何も言わなくていい。お嬢さんなのだろう。ぼくはね、きみが帰って来るのを、ずっと心待ちにしていたんだよ。……ぼくは隣に住んでいる村内というんだ。きみの御両親にはいろいろと良くしてもらっている。一段落ついたら、こちらへ来てくれないか。話がしたい」
 気がつけば、はい、という二文字が喉の奥から流れ出ていました。村内は目を細めてにっこりと笑いました。「待っているよ」そう聞こえたとき、一刻も早く残りの荷物を運び入れなければと思いました。すぐさま移動を済ませ、心を落ち着かせて外に出ると、村内は手招きしてわたしを呼びました。
「随分と早かったじゃあないか。嬉しいよ。ぼくは少し目が悪くてね、さっきははっきり顔を見たわけではないから、実のところあまり確信を持てていなかったんだ。ね、きみはひろ子さんというのだろう。違う?」
「ええ、わたし、ひろ子です。両親が、何か?」
「うん、御両親はきみのことをよくお話してくださる。それで知っているんだ。とても綺麗でよくできた子だと言うから、気になっていたんだよ。実際、ひろ子さんはうつくしいね。それに、てきぱきと動くようだ」
「そんなに言わないでください。わたしは良い人間ではありません。恥ずかしいではありませんか」
わたしは自分が薄情なことを知っていましたから、どうにも自分に褒められる価値があるとは思えませんでした。両親は良い風をつくって教えたのでしょう。ですからこのように本心を伝えたのですが、村内は謙遜と受け止めたらしく、破顔してわたしの手を取りました。「ぼくは阿呆だった。うつくしいのは容姿だけではないね、すまない」ぎゅうと握られて、わたしの心音はどくん、どくんと大きく波打ちました。つい先程出会ったばかりのこの人のことを、何にも知らないことを悔しく思いました。村内のすべてを知りたがっている自分に、既に気が付いていました。
「ぼくは、ひろ子さんと親しくなりたいと思っている。きみさえよければ、またこうして会えないか」
翌日の夕方に会う約束をして、その日は別れました。彼を知る機会を与えてくださったかみさまに、このときばかりは感謝しました。

それから何度か会って、話をして、仲を深めていくうちに、自然と所謂男女の仲というものになっていきました。村内は過去に女性との関係が豊富であったので、そういう扱いに熟れていました。わたしもそれなりに男性とのお付き合いは経験していたので、初々しいことはありませんでしたが、村内との関係以上に胸躍ることは知りませんでした。密かに教師と関係を持っていたときの心臓の鼓動ですら、これ程激しく打ち鳴ったことはありません。村内は今まで出会ったどの男性よりも、鯔背で、優しく、真面目でした。薄情なわたしであれども、彼にだけは情が深まるばかりで、体調が悪そうであれば何処までも気を回しましたし、怪我をしたとなれば、如何に小さな傷であろうと手当をしました。
 わたしは特に、彼が仕事にしているという絵の、絵具をのせる瞬間の、カンバスに向かっている横顔が好きでした。時に時間を忘れて絵に没頭するのを、献身的に支えました。そんなわたしを見て、村内はより一層愛情を注いでくれるようになりました。
 村内は時折、重苦しい空気を纏い、薄暗い表情を貼り付けて現れました。話を聞くと、きまって思うような絵が描けないと言いました。
「ぼくにはね、それはそれはとても絵の上手い友人がいて……彼は素晴らしく絵が上手くて……あんまりにも高すぎる目標だった……」
わたしは絵というものに関心があるほうではありませんから、その道を志して精進してきた人に注ぐ言葉を持ち合わせていません。慰めの文言をつくって言うのも悪いような気がしました。だからといって黙って聞いているのも忍びないので、適当に相槌を打ちました。村内は度々顔を上げつつ、話を続けます。「彼でない以上、彼にはなれないんだ」寂しそうなその横顔を見ると、何だかいたたまれなくなりました。
出会って半年が過ぎたころ、彼と結婚して、わたしは村内の家で共に暮らし始めました。わたしの両親は交際に反対しませんでした。寧ろ喜んで彼を家族として迎え入れました。そうして早く孫の顔が見たいと騒ぐのです。わたしは恥ずかしくてたまらくて、まだ大学を卒業したばかりだからと照れ隠しをするのが常でした。村内はそんな様子を、唯笑って見ていました。しかし実のところ、彼のご両親はどんな風に仰っているのか、それは知りません。村内は両親には承知してもらっていると言って、わたしを決して会わせようとはしませんでした。御挨拶をしたいと持ち掛けても止められ、結局御顔すら拝見できていないままなのです。
わたしたちがどのような暮らしをしていたのか、詳しいことは割愛します。唯、村内が絵を売って得る収入だけでは到底暮らしては行けず、わたしの両親に支援をしてもらいつつ、わたしは地元の青果店で働いて家計を支えました。村内の家はちいさな借家でしたが、狭い食卓で二人きり、何時の日か子どもと暮らせたらなどと夢を語らう、あの時間がわたしは特にすきでした。貧乏ながら、確かに幸福な生活を送っていました。

今日は、何曜日ですか。……金曜日。ありがとう。そうしたら、丁度一週間前になるでしょうか、村内があのようなことを言い出したのは。
夕食後、食器を洗っていたとき、背後からひろ子さん、ひろ子さんと頻りに呼ぶ声がするので振り返ると、ちゃぶ台の前に胡座をかいた村内が、神妙な面持ちでこちらを見ていました。直ぐに手を止め、側へ寄り、なんでしょうと声を掛けると、彼は一言。
「ひろ子さん、ぼくは、そろそろ死のうと思っている」
わたしは、はあ、そうなんですね、と返しました。村内は黙ってわたしを見つめ続けました。どのくらいでしょうか、それはわかりませんが、幾らか時計の針が進んだころ、村内はちゃぶ台の木目をなぞるように眼球を動かすと、またちらりとわたしを見て、口角を歪めました。それは見るに耐えない醜いものでしたが、彼は笑っているつもりのようでした。
「きみは少しくらい、驚くものだと思っていたよ」
「あなたのような人間は、大抵早く死ぬものです」
 わたしは未だ冗談と思っていました。それでこう言いました。村内がこれをどう受け取り、咀嚼し、飲み込んだのか、今となっては分かりません。また暫く黙り込んだ後、首を左右に大きく振って、先に伸びた爪の張り付いた、骨張った、長い指で髪を掻き回しました。
「ああ! 駄目だ! ぼくはもう駄目だ! 独創性とは失われていくものだね、何にも描けなくなってしまった。自分の作品を見ているといやになる。どれもこれも、同じような色彩、同じような構図、同じような技法のものばかりだ。新しいものを生み出すことができない!」
「それでも、買ってくださる方はいるじゃありませんか。家計の足しになっているのは確かです」
「違う、違う! 違うんだよ。ぼくはそもそも、売るために描いていたわけではないんだよ。そのことすら今の今まで忘れていた。ぼくは何をやってもそれなりに出来たけれど、それまでだった。絵を描くことに奮闘していたころのぼくは、いつの間にかいなくなっていたんだ。売れれば良いとそればかり考えて、情熱も何もかも失ってしまった!」
「気づいたのなら、新たに気持ちを持てば良いだけではありませんか。あなたの言う、新しいものを目指して」
「いいや、一度でも忘れたことに、恐怖を抱いてしまった。それもむくむく膨らんで、心臓を狙って襲いかかってくる。もう、筆を持つことすら恐ろしい……」
わたしには、村内が考えていることがよくわかりませんでした。彼は家庭のために絵を描くこと、絵に対する熱を失った自身に耐えきれないようでした。そう言っていることはわかります。しかし思考はわたしにはわかりかねます、今考えてみても理解できません。
「それにね、ぼくが死のうと思うのは、そのためだけではないんだよ」
……わたしは、愛する者に尽力するのは至極当然と思っています。ですから、そのために幾らかのものを失うことを、致し方ないことと思います、それに自分が重きを置いていたとしても。彼に出来うる限り何かを与えられるならば、喜びにすらなるのです。わたしはそれ程村内を愛していました。わたしの最上は村内であったのです。
「ぼくは、終ぞきみを心から愛することができなかった……」
幾らわたしが愛せども、彼は自身以上にわたしを愛することが出来ませんでした。悲しいったらありません、愛する人に同じだけ愛されないというのは、かくにも悲しく、苦しい。

彼は、手紙で友人が結婚したことを知り、羨望の眼差しを向けていたところに、うつくしく良い人であるという評判を聞いて、わたしに声を掛けたのだと話しました。それから、わたしにも、わたしの両親にも酷い仕打ちをしたと嘆きました。ただ寄り添ってくれる人がほしくて婚約までして、禄に稼ぐこともできず、散々御両親に金を無心したと床に頭を擦り付けました。
彼は善良です。過ちを認め、すべてを明らかにしました。わたしは死ぬなと言いました。村内からは、何と言われようと死ぬつもりである、唯無かったことにはできないので、犯した過ちの分だけ働いて、金を稼いでから死ぬと返ってきました。何処までも良い人でした。加えて彼は、結婚してもきみ一人養うことができず、勝手に死んで半ばで責任を放り出そうとしているのに、これ位のことしか負えなくてすまないと謝罪しました。わたしはこういう人をすきになったのでした。そう言うのなら、村内と結婚したことはわたし自身の責任です。彼は唯一人で良心の呵責に苦しんでいました。それならば妻としてわたしもその苦しみを負うべきであります。
 考えて、考えて、何日か経って、わたしは村内と共に死のうと決めました。世間では心中と呼ぶのでしょう。これが最も幸福に思えました。苦しみと悲しみを与えられ、悩ませられたのですから、これ位の我儘は叶えられても良い筈です。早速提案しようと寝室に居る村内の元に向かうと、彼は既に眠っていました。長い睫毛に縁どられた瞼は閉じられていました。わたしは拍子抜けして、戸を開けたきり暫く立ち尽くしました。そして、彼が仰向けで、息を吸い、吐き、胸を上下しているのを見ました。……生きている、と思いました。ふと、死んだらもう彼とは会えなくなることが浮かび、物悲しくなりました。わたしはかみさまを好いてはいませんから、死んだら必ず地獄へ行くでしょう。しかし村内は違います。彼は良い人間です。優しい人間です。真面目な人間です。うつくしい人間です。恐らく極楽浄土へ向かうでしょう。生まれ変わったって、わたしは下等なものになり、村内はまた素晴らしく立派な人間になります。そうしたら今生が最後です。
 もうすっかり恐ろしくなりました。わたしは心底彼を愛していましたから、姿すら見られなくなるのは、何より辛いことです。彼の望み通りかみさまに魂を捧げたとして、そのうつくしい器だけはこちらに残しておきたいと思いました。
 気がつくと、わたしは台所に立っていて、手には包丁を握っていました。刃が月光を受けて煌めいていました。寝室に入ると、村内はちいさな寝息を立てていました。わたしが枕元に立っても起きません。迷わず、彼の胸元に包丁を振り下ろしました。

 何時の間に気を失っていたのか、目を開けたときには朝になっていました。眩い白い光が窓から差し込んでいて、清らな空気が漂っていました。目の前には胸に包丁の突き刺さった村内が横たわっていました。彼の顔は青白く、口元と胸には紅黒く乾いた血液がこびり付いていました。決してうつくしいなどとは言えません。途端にわたしの中からはなにか大きなものが消え去り、浮かんだのは、ああ死んでしまった、唯それだけでした。
 矢張りわたしは薄情な人間でした。そうして、何て馬鹿なことを仕出かしたのだろうと己を省みて、こうしてすべてをお話しに参った次第なのです。

或る告白

或る告白

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-02

Copyrighted
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