彼の幸福

2017年の作

 その日、彼は深い絶望の底へと突き落とされた。前日、県外に暮らす彼の友人から半年ぶりに手紙が届いたときには、まさか翌日にその送り主の手によってこういう風になるとは予想だにしていなかった。それは手紙を送った張本人もそうであるし、もっとも彼の精神力を削り取るつもりは毛頭なかった。
 手紙には、いついつの正午頃にそちらの駅に到着する予定だから、急なことで申し訳ないがもし都合がつくようであれば会って話をしたいということと、午後二時にあの喫茶店にて、村内、とだけ書かれていた。村内というのは手紙の送り主のことで、彼と幼いころより親交があり、中学校、高校、芸術専門学校時代を共に過ごした唯一無二の人間である。自分で日付を指定しておきながらぎりぎりに連絡を寄越す姿勢には苦笑したが、彼は喜んで村内の誘いに乗ることにした。
 翌日、彼が胸を弾ませ指定の時間に店へ入ると、静穏な店内の最奥部、隅の席に果たして友人は煙草をふかして座って居た。紫煙を燻らせ窓の外を眺めるその精悍な横顔は長旅の疲れを滲ませていたが、ひとたび彼の姿を捉えると先程までのようすが幻影であったかのようにがらりと表情を変えた。ニコニコと人懐こい笑みを浮かべ手招きする記憶の中の友人よりすこし大人びた姿は、この場所へ毎日のように入り浸っていたかつての日々を彼に彷彿とさせた。
「やあ、君ならきっと来ると思った。その様子じゃあ相変わらず暇しているようだね」
「久方振りに手紙を寄越すものだから何事かと思って来てやったら。やはり君も君だ、おれが暇でなかったらずっと一人で煙草をぷかぷかさせる羽目になっていただろうに。だいたいこの店だって、おれが覚えていなかったらどうするつもりだったんだい」
 まあ掛けろよと向かいの席を指す村内に従った矢先に飛んで来た、二年振りの再会を感じさせない歯に衣着せぬ物言いは、一言交わしただけであっても彼を心底愉快にさせた。互いに変わりのない姿に安堵して、珈琲を啜りつつ近況を報告し合い、そのまま流れるようにむかしの話に花を咲かせた。そうして気が付いたときには窓の外は薄暗くなっていた。彼が時計に目をやるとどうしてか針はすっかり止まっていたので、仕方なしに村内に時間を問うと、あと五分程で丁度六時になると返ってきた。いつの間にやら四時間も話し込んでいたとは、全く話が積もると時の流れを忘れてしまうものである。そろそろ出ようかと持ち掛けると、村内はすこし考える素振りを見せたが直ぐに口を開いた。「若し君さえよければこの後夕飯も共にしたいのだが、どうだろう」彼は間髪容れずに首を縦に振った。是非そうしたかった。このまま家へ帰っても一人寂しく食事をするだけなのである。
 勘定を終え喫茶店を出ると、早速二人は彼の馴染みの居酒屋の暖簾を潜った。店内には既に仕事終わりの地元の会社員で賑わっていて、煙草と酒とが混じりあった独特の匂いが充満していた。彼も村内もこの匂いを嫌ってはいなかった。彼のほうは特別な理由はないが寧ろこれを好いていた。頭にすっぽりと被せる様に手拭いを巻いた、店主らしい中年の男が空いている席に座れと言うので、入口横の席を選び向かい合うかたちで腰を下ろした。彼が側に居た従業員に酒と幾つか肴を注文すると、空いている隣の席に荷物を置いた村内は店内をぐるりと見渡して「愛想を欠いた店員ばかりだな」と漏らした。彼にしてみればそこが魅力で通っているので些か閉口した。妙に口角を吊り上げた従業員に大声で案内され、あれやこれやと喋られるよりも、勝手に席に着いて適当なものを注文し運ばれてきたそれらをつまむほうが性に合うのであった。数分の後に彼らの前に酒と肴はやって来た。村内は下戸であったので、二杯目の酒のコップを空にした時点で酔い出し顔を赤く染めていた。対して彼は呑む量が少ない為誤解されがちだが実際は幾ら呑めども酔えない質、所謂ザルであった。このおかげと言うべきか、人と呑むときには酔って我を失い粗相をはたらくことや、挙句記憶を飛ばすようなことは今まで一度も経験していなかったのだが、この日は不幸にしてはっきりと自我を保った頭が自身を絶望の淵へと引きずり落とすこととなったのである。それは四杯目の酒を煽った村内が、酔った勢いに任せ口にしたことが皮切りとなった。
「ほんとうはまだ黙っているつもりだったのだけれど……別れ間際に打ち明かし、驚かせて言い逃げてやろうと思っていたのだけれど、もう堪え切れん。きいてくれ、わが友よ! そしてどうか共によろこんでくれ! ぼくにはとうとう、かねてより抱いていた望みを果たす術と、金と、時間と、ゆるしとが与えられた……向こうで個展を開催することになったのさ! これをきみがよろこんでくれたならば、今日はぼくの生涯のうち、きっと最も幸福な日となるだろう。どうか、よろこんでくれ、親友よ。この食事の代金はぼくがもとう。さあ、どんどん食えよ。料理も酒も、うんとよいものをもってこさせよう。特段舌が肥えているわけでもないぼくたちには、いつもの料理とのちがいがわからないと思うがね。遠慮なんてしてはいけないよ、このぼくがよいと言っているのだからね、たらふくよいものを食って飲んで、最もとはいかなくとも、今日をきみにとっても幸福な日にしてくれなければ。……エエ、オイオイ、箸が止まっているじゃあないか」
 彼は絶望していた。だがべらべらと喋る上機嫌な彼の友人は、己の幸福のために彼の絶望に気がつかないでいた。彼はその深い絶望のなかで、必死に友人に勘付かせまいと努力し、固まった肉を操り、にこやかな顔面を演出しようと試みた結果、なんとか表情は動かせたものの、顔面にばかり気をつかったおかげで手元が固まったままであった。村内はめざとくそれを見つけて指摘した。そうしてはじめて彼は自覚し、瞬間、どう取り繕うべきか悩んだ。
「なに、驚きすぎて、おれの脳みそはからだじゅうの神経と細胞を道連れにして、ひととき、筋肉と内臓の動きを止めてしまったようだよ。心臓さえ止まったんだぜ……ほんとうだ……いやいやうそだよ、そんな気がしたってだけさ……そんなら今ごろあの世にいるってね。いやはや、それにしてもよかった、おめでとう。なにせおれは中学のころよりきみの望みをきいていたからね、どうか果たされますようにとそりゃあもう切に願っていたのだよ。きみに最大の幸福が訪れておれもうれしい。それじゃあね、有頂天なきみのお言葉に甘えさせてもらうこととしよう」
「是非そうしてくれたまえ」村内は彼の目の前のコップに酒を注いだ。「君は普段あまり呑まないが、弱い人間ではないのだろう……そら、啜らなければ零れてしまうよ」
「いけねえ、おまえさまにお酌をしていただいちゃ」
 彼は茶化すので精一杯であった。村内は声をあげて笑った。

  *

 彼は未だ絶望していた。深く、ただひたすらに深く絶望していた。見よ、この曇天を! まるで鬱々とした心中を具現しているかのようである。天空を覆いどこまでも広がる鼠色は、波打ち、辺り一面に影を落としていた。彼も例外なく影の下敷きとなり、その全身は鼠色に染め上げられた。彼は自宅の庭に置かれた古びた木製の椅子に深く腰掛け、自分に影を落とすかたまりをぼんやりと見上げていた。背凭れにあずけられたからだの肉は弛緩し、だらりと腕は垂れ下がり、時折意味もなくぶらぶらと揺れた。眼は最早視点が定まっておらず、半開きの口元からは溜まった涎が今にも溢れそうであった。思考などなかった。からっぽのからだがひとつ、置かれていた。椅子のきしきしという鳴き声がこの空間の唯一の音であった。
 あるとき彼は酷い空腹をおぼえはっと我に返った。どれほどの時間が経ったのかはわからなかった。唇に湿っぽさを感じた。涎が顎を伝い、首筋を濡らし、すこしが鎖骨に溜まり、襟元に染みをつくっていた。苦笑して拭い、立ち上がろうとすると、うまく力がはいらず、腰を浮かせたものの勢いよくもどり背凭れに背をぶつけた。長年外気に晒されもろくなったそこはぶつけた拍子にこわれ、瞬間大きな音がして後ろに一回まわって転げた。鈍痛がからだを支配した。それでなにか枷のようなものが外れた気がした。
「村内よ、おれを笑ってくれ。きみは幸福のなかにいるだろうが、おれはこんなにも不幸だ。絶望、わざわい、そのどれもが降りかかってきているような気がしてならない。村内、この地と、家族と、おれとをすてて飛び出した親友よ。きみは今どこにいる。もどってくれ。いや、もどるな。決してもどるな。きみはおれの苦悩を知らない。きみが望みに近づく度に、どれほどおれは苦しんだことか。幾度きみの望みが叶わなければよいと思っただろう。ああ、きみよ! 親友よ! どうかおれを殺さないでくれ!」
 彼は頬に涙が流れるのを感じながらけもののように友の名をさけび、連呼した。脳裏にはまだ学生だった村内が呟いた言葉が浮かんだ。「ぼくなんぞよりもきみのほうがよほど絵の才能がある、絵で食えるようになるのにそう時間はかからないよ……ぼくは一生きみの背を追って生きてゆくのだろうなあ」――この大噓吐きめ! おまえは唯世辞を吐いただけであって、内心おれを嘲笑していたに違いない、違いないのだ。馬鹿にされているとも気が付かずに、あのとき何故おれは素直に受け止めよろこんでしまったのか。忌々しい。最早思い出すだけでも忌々しい。脳裏によぎるだけでも忌々しい。やつの声が頭蓋骨の内側で再生されるだけでも忌々しい。忌々しい。忌々しい。……忌々しい。
 いつしか胸中で憤りを産んだ彼は歯を折れんばかりに食いしばり、眼は血走り、蹲って血管の浮き出る両手で生えたばかりの若々しい、薄黄緑色がうつくしい草を爪の先が白くなる程力強く握りしめていた。草は彼が掴んでいる部分から徐々に青黒く変色していった。草は草、うつくしくあっても所詮雑草、日頃草花を愛で観察記を作成する彼もこのときばかりは手元の草を愛せなかった。遂にブチリと鈍い音をたてて草は切れた。それを放り投げた途端無性に虚しくなって地面に寝転がった。双眼からは矢張り塩辛い水がだらだら流れ出て顔中を濡らしていたので、土が付着して泥だらけになったが、それがお似合いだと気にしなかった。風が吹いて湿った皮膚に寒気をもたらした。急に冷え始めた皮膚を指先で擦ったが一向にあたたかくならず、内側から冷えてしまっていると思い何となしに周囲の草木に目を泳がせた。体勢を変え仰向けになったことで次に目前に広がったのは自然と灰色の空となった。何故だか心臓がキュウと鳴いた。
「きみのあの言葉がほんとうに力を喪ったとしたら、おれはこれから何を支えに生きてゆけばいいのか」

 *

 彼は幼い時分より絵を描くことを好んだ。他に趣味という趣味をもたない彼にとって、それが最も楽しく熱中できることであり、心を慰める手段でもあった、それは奇しくも村内も同じであったが。相違であることといえば、彼にとってそれは自身が評価される唯一であり、村内にとっては自身が評価される多くのもののうちのひとつであるということだ。そして何に於いても村内に敵わない彼が一歩先を歩く唯一でもあった。村内自身が発した言葉があったこともあり少なくとも彼はそう認識していた。
 彼は村内を友人として気に入っていたし、言わずとも二人の関係は親友の域にまで達していて周囲もそれを理解していたが、哀れみの目で見られる度、内臓には少なからず親友に対する憎悪と嫉妬と羨望とが巣喰った。時には友人という地位さえ取っ払ってしまいたい念に駆られ苦しんだ。空いた時間を全て勉強にあてても、夜な夜な人気の無い場所で体育競技の練習をしても、素質の備わった村内の前では無駄な足掻きと化した。加えて顔面やからだの造形でさえ哀れみの対象となるものだからたまったものではなかったが、それでも学生時代は絵を中心に過ごしていたから左程大きな創傷には至らなかった。村内の夢であった個展開催、それは確かに卒業後定職に就かず、親の脛を齧りながら絵を仮職として、修業と称し県外へ移り生活していたことを思慮すれば、ご清栄おめでたくと祝うべきことなのであろう。しかし、彼自らも目指すべく掲げた目標としていたこと、また自分の背を追っていた筈の者に追い越され一種の裏切りの類を認めたことで、与えられた衝撃から生じた絶望は並のものではなかった。彼は無気力感に襲われめっきり絵は描かなくなり、それは私生活だけに留まらず仕事にも身が入らなくなり、先日とうとう首を切られてしまった。

 *

「もし、大丈夫ですか……アラお顔が泥だらけ……」
 突如頭上から舞い降りた細い声に驚き彼は跳ね起きた。瞬間、目の前に白い女の顔が現れ慌てて後ずさりしたが、思わずジッと見つめたまま固まっていると彼女はちいさく笑った。
「いやだ、寝ておられるだけでしたのね。勝手にお庭に入って御免なさい、倒れていらっしゃるから体調が優れないのかと思ったのですが杞憂でしたわ」
「はあ、すみません」
彼がやっと発した声は掠れていてか細いものだったが、彼女には届いたようで、かたちの良い紅いくちびるはゆるりと弧を描いた。彼女は真白いブラウスに藍色のスカートを身に纏っており、後頭部で緩やかに纏められた艶やかな黒髪が目を引いた。身なりと口調から育ちの良さが察せられ、彼は自分が土にまみれべそべそ泣いたことで目を腫らし、碌な礼も言えないことに羞恥心が大きくなるのを感じた。一刻も早くこの典雅な女性の前から姿を消したかったが、「そういえばもう絵は描かれないのですか」という他でもない彼女の問いによってそれは叶わなかった。
「この辺りを訪れると、よくこのお庭で筆を動かす姿をお見掛けしたのですが、最近はめっきり拝見しなくなったものですから」
 思いがけず琴線に触れられ彼の思考は一瞬動きを止めたが、思い悩むことにも疲れたのか諦めに似た感情が渦巻いた。そうなると口からはすらすらと音が躍り出た。
「ええ、もう仕舞いにするつもりなのです、描く目的も自信もすっかり喪失してしまったものですから……そうだ、こうして言葉を交わすことができたのも何かの縁、今まで描いたものを直ぐ持って来ますから、よければ幾つか、とは言いませんから一つでも是非連れ帰ってくれませんか」
 そう言うや否や彼は縁側から家の中に膝を引きずるようにして入り、手の届く場所にあった数枚の絵を引っ張り出した。手元にあってもこの調子ではいずれ処分される運命、しかし一枚一枚自身が確かに生命を吹き込みながら描いた作品であるから、せめて少しでもだれかの側で生き永らえたらと思っての行動だった。しかしいざこうして見返してみると、気分の所為もあるだろうが駄作ばかりに感じられ、彼女の手前躊躇したが、自ら懇願したことを引き下がる訳にもいかず俯きながら数枚を渡した。彼女は彼から手渡されたそれらを手にすると、一枚一枚にじっくりと目を通した。「……私、こういったものには精通していないので、形容する語彙を持ち合わせていないのですが……」彼は駄作を押し付けたことが何だか申し訳なくなって、処分しても構いませんからと付け加え目線だけを上げた。彼女が目を見張っているのを確認し、不思議に思っていると彼女は震える声でぽつり、
「とても、すきです」

 *

 彼女との出会いは、彼の人生に多大なる影響をもたらした。そのうち最大のこととしては、彼は純粋に愛されるよろこびを知った。それは彼の描いた作品のことであって、彼自身のことでもある。彼女が絵をすきだと言ったとき、彼の内臓を喰い散らかしていた憎悪とか嫉妬だとかいうものは嵐が過ぎた日のように晴れ渡った。同時に初めての内側の変化に戸惑った。これこそ哀れかな、彼はそのときまで、村内をはじめとした友人達、学校の教師、或いは家族にさえも、そのような言葉を投げ掛けられたことが無かったのである。作品に対しての言葉であっても、彼の胸を高鳴らせ晴れやかにするのには十分すぎる程であった。彼女一人にそう言ってもらえるというだけで絵を描いてきたことが正しいことに思え、絵に費やした全ての時間を、有意義かつ然るべきものに感じられた。それ以外は何だかもうどうでもいいとさえ思った。そして再び絵筆を握り真摯に絵と向き合うその姿に彼女が惹かれていき、彼も彼女への好意を自覚したとき、彼は自分の生きる道を見つけたような気がした。幸いにも元の職場へ復帰し、彼女と同棲を始め、次第に生活の歯車が回り出したとき、ふと村内のことが頭に浮かんだ。きみは今どうしているだろう? 振り向くと女と目が合い微笑まれた。そこには幸福な空間があった。「村内、きみは今も幸福のなかで生きているのだろうか」考えてもそれは彼には決してわからない、村内には彼女のような存在がいなくとも一人絵と向き合うことが幸いなのかもしれないし、もし絵で成功していたらば彼がそうであったかもしれない。勿論学生時代絵と向き合っている時間は、彼にとって確かに慰めであり、楽しく過ごせる幸福な時間であった。唯、絵に向き合い、彼女に愛されるよろこびを知ってからというもの、今が最大の幸福を感じられる時間なのである。落ち着いたころ、久しぶりにこちらから村内へ手紙を送ろう、そう思える程に。

 *

 澄み渡った雲ひとつない青空の下、彼は黙々と絵筆を動かしていた。イーゼルに立てかけられたカンバスの向こうには、鮮やかな色合いを惜しみなく晒す草花で埋め尽くされた庭を背景に、やわらかく微笑む彼女が真新しい木製の椅子に腰掛けて居た。日を浴びて輝く彼女の黒髪は、特に見る者の目を引いた。数十分が経った頃、彼女はその薄いくちびるを開き細く優しい声を発した。
「こうして私を描いてくださるなんて思ってもみませんでしたわ。もしやお気遣いなさって?」
「まさか。おれは描きたいと思ったものしか描かないさ」
 それは寸分違わず本心であるということを示そうと、彼は目を細めて笑った。

彼の幸福

彼の幸福

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted