Blue Spring

 三年前、三年ほど前程度だった頃に私たち人間の背中に拡張子が付いた。まさに最近流行りのAIの反乱という出来事なのかもしれない、ようで、違うような、そんな詳しくない。つまりだ。ニュースでは観るけども、少しだけ調べるとするとネットの検索表示で冒頭にある文章を適当にクリックするそんなもので、どのように考えても人類にとっては驚く事が必要な内容である。しかしながら、人は慣れ、調べる事をしないのだから、窓ガラスに己の指紋が幾つ付いているのか興味がないほどに、背中にある拡張子には興味がなかった。

「明日、消えてなくなりたい」
 そのような言葉を駅前で発する女生徒がいた。隣には二人の友人らしき人がいる。その友人の顔の皮膚は白熱灯のようにツルツルに白く光っている。口はニヤニヤとしている。それから手には流行りのスマホのカバーを付けた猫の形状の尻尾を引っ張っていた。
「いーじゃん! いーじゃん! 拡張子変えよう! そうしたら、また、大丈夫だよ! 私たちも一昨日変えたばっかだから、めちゃ、調子いいいい!」
 二人の友人は身体をくにゃくにゃと動かして言う。
「そうだよね。でもこれで、54回目だよ」
「ダメならさ。また変えればいいんだよねぇえ」
 その言葉を聞いて今にも消えそうな女生徒は背中にある拡張子を引っ張って、手に持っているスマートフォンに繋いだ。スマホのカバーはまったく流行っていない、無流行りのトンカツカバーだった。何やら画面を触り、アプリを開いて入力する。すると背中に書いてあるアルファベットの文字が勢いよくぐるぐると回転する。それと同時に女生徒の顔の皮膚が上下にグルグルと回転した。女生徒は「あ、あ、あ」と言い、それから「ぐおっすあかいうぁおあうえおあおあおおあお……」と小さな口から音を漏らした。
「いっけ! いっけ! それそれ! 次はもっといい子になるんだぞ!」
「やっばい、やっばい、めっちゃ、可愛い」
 二人の女生徒は両手を振って応援する。数十秒後に拡張子を変えた女の子は別人の顔になっていた。とても笑顔でニコニコとした所謂可愛い子だ。
「うぇい! とってもスッキリで気持ちい! これからカラオケいこ!」
 二人の女生徒も「いいね! 行こ行こ」と言って身体に抱きついた。トンカツのスマホのカバーは流行りの猫カバーになっていた。

 僕は財布にお金が入っていない事に気づいた。それで隣にいる君に言った。
「ごめん。奢るつもりだったのに、お金ないんだ。貸して」
 けど、君は僕の言葉に対して反応せずに言った。
「あれ、昨日出たばかりの最新のやつ」
「何が?」
「あの女の子が変えた拡張子」
「え? 何が?」
「だから駅前に三人の女の子がいたでしょ? その一人が拡張子を変えたのよ。ホント、いとも簡単に拡張子を変えまくって頭の中大丈夫なのかしら」
「でもさ、普通じゃん。それやってんの」
 僕はテーブルに置いてあるチョコレートカフェにストローを突っ込んで答えた。
「普通なわけないでしょ。あんなの可笑しいわよ。自分を別人に変えるのよ」
「今の世の中、自分を変えて救われる、そんな奴が増えてるらしいから、幸福度は上がっているらしいよ。世界中で」
「私は許せない」
「許す許さないって、何をどう思って君が決めるのさ」
「だってキツくても苦しくてもその状況で頑張るから生きてるんでしょ。私が私じゃないのは絶対いや」
 そういうと君はドロドロに苦い真っ黒でパソコンの画面に似た珈琲をすすった。
「それは君が今の状況で満足しているからそう言えるのであって、僕は拡張子を変える人のことを否定も正定もしない」
「貴方は人の心を物体だと思っているからそんなふうに言えるのよ」
「なんだよそれ」
 僕は失笑した。
「それより、君から借りたこの本、ようやく読み終えた」
「おっそい!」
「そんなことはないよ」
 僕は反論した。
「一年と三か月」
「何が?」
「貴方が読み終えるのに掛かった時間よ」
「仕方ないだろ。僕は基本的に本は嫌いなんだよ。あんなもん、結局の所、誰かの影響受けて書いてあるものを感謝せず切り刻んで貼り付けた物に過ぎない落書きだ」
「ひどい言い方すぎる」
「うるさい」
「でも、最後まで読んでくれた」
 僕は無言になった。それで丸くて固いガラスのテーブルを指で叩いた。
「君が書いた物語だ。嫌でも読むさ」
「ふうん。ありがと」
「良い」
「ん? 何よ」
「とても良くて面白くて、素晴らしい内容だった。君以外に書けないし、君以外の文章は退屈に思える。そんなストーリーだった」
 僕の言葉を聞いて彼女は両眼をネイビー色の夜の空を透かして見つめる。黒目が上まつ毛に、白目が大きく広がっていた。
「貴方に、やっぱりね。私、貴方のそういうところが……」
 君はそう何かを言おうとして言葉を止めた。
「そういうところが?」
 でも君は話を変えた。
「生まれて初めて、ゴッホが描いた夜のカフェテラスを見た時、私の肌の境界線が滲んだ。滲んで、歪んで、落ちた。それで私も、絵描きになろうと思った。それからずっと、一人でペンと画用紙だけを頼って生きてきた。あの境界線を描いて私の空間と人の空間を混ぜた絵を描きたかった。でも、私には才能がなかった」
 君は前かがみになって甘い吐息をゆっくりとしながら僕に話した。
「それで私はペンを折って普通の会社で働いた。そんな時、私は貴方に出会った。貴方は貴方にし描けない立体的で綺麗な絵を描いていた。小熊とかイワシとか森林とか雲とか。私が貴方を取材に行った或る日、なぜか、貴方は私の事を知っていた。昔、発表していた絵の事を貴方は知っていた。誰にも評価されなかった私の絵をね。熊がハチミツを食べているそんな絵……」
「君は、僕が知っている君じゃない……。もしかして、拡張子を変えたのか?」
 僕は思い出す。とても大人しくて、恥ずかしがり屋で、優しくて、寂しがりやな女性の面影を。
「良く分からない感情を持って、でも、違うベクトルの世界の話だから、本当に悩んだの。それで私はもう、消えた。今度は新しい、二度とと傷つかないモノに触れたかった」
「消す必要はなかった。あの頃の君は本当に素晴らしい才能があった。全ての人に理解なんてされなくても……どうして」
 君は僕の顔をジッと見て「そんなの、弱いからに決まっているからじゃない」と言った。そしてゆっくりと息を吐いてから「これから、全ての人の拡張子をハッキングするわ」と言った。
「それは僕の事もかい?」
「いいえ、私と貴方以外よ。最後の絵を描くの世界に、世界をキャンパスにして貴方に見せるの生きるもの全ての境界線を。ネイビーの空と黒のアスファルト」
「そして苦いコーヒー」
「貴方、苦いのは苦手だったわね」
「ああ、僕は甘いのが好きなんだ。君もそうだろ」
「私はもう、違うわ」
 それから彼女はスマートフォンを取り出して、街通りを歩いているカップル、酒を飲む若者、テスト勉強をする学生、ストレスフルなサラリーマン、ロケットから落ちる人、マダムに憧れる子供、ジーパンが切れている事がカッコイイと思っているおじさん、花壇を歩く猫、咳をするカエル、舌の長い鹿をも、全ての拡張子を変えた。
 冷たい風が吹いた。
 そしてバリバリと音が鳴り、空中に金色の火花が散る。彼岸花のような花火が周囲にあって、拡張子が勢いよく回転している。
「水彩ペンでペンギンを描いたんだ。昨日、それを住んでいるアパートの下の子供にあげたらダサいって言われた。もう少し、紫色を深くするべきだったかな」
「貴方のそういうところ嫌い」
 ガチッガチッと音が鳴る。拡張子が表示されていく。そこには人の姿はなく、上はネイビー、下は黒、その表面に青い桜が延々と散って舞っている。それを青白い月が照らしていた。
「本当はもっと綺麗に想像していた……のに……」
 彼女は泣きながら、でも真っすぐに僕を見て言った。僕は空から散る薄くて水色の花びらを手のひらに載せて「また、描いてよ。そうだ。瞼を閉じても眠れなくて、大好きな音楽を聞いた時にたまたま思いついた、思い描いた時に。そんな感じの」
 夏は炭酸で冬は寂しくて秋は冷たくて春は青い。

Blue Spring

Blue Spring

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-02

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