あの時

 この駅は八年ぶりである。
 あの時。始発駅で偶然、美代子と出会った。高校卒業以来、これまでにかの女と顔を合わせたのはわずかに一度きり。大学の実習で行った瀬戸内海に面した港町でのこと。太郎の属する学科でこれに参加したのは女子ばかり。知った顔のなかったから、その女子たちと夕食に出かけたところで鉢合わせた。やはり同級だった良子と二人連れ。宿まで同じであった。きまりの悪い思いをしたのである。その時以来の邂逅である。
 あの時。車内ですこし言葉をかわした。「タロちゃん、女の子たちの中でにやけてた」と、からかわれた。弁解まがいのことを言ったはずだ。いま、思い出せない。弁解だけでない。そのあとの会話も憶えていない。それほど狼狽していた。
 あの時。いっしょにこのホームに降りた。太郎の家の最寄り駅はまだ先であった。かの女は怪訝な顔で太郎を見つめている。伝えようとした言葉のあるはずだった。が、これを太郎は声にせぬままいた。意気地がなかった。
 あの時。別れぎわに「春には卒業だよね」と美代子が訊いた。かの女の真っ直ぐなまなざしを忘れない。ホームを改札へと向かうかの女の、外套をまとってさえ華奢な後ろすがたも。
 あの時かの女の立ち去った軌跡を、いま、知らず識らず辿っている自分に太郎は気づく。
 どうしているか。


 この駅は八年ぶりである。
 いまはこの町からずっと東の、都会(まち)に住む。よく揺れる。地震が日常茶飯事とは恐れ入る。あわてる者もない。いずれ大きなのが来る。来ると言われて久しいが、まだ来ない。あ、また。だれもが慣れっこになっている。少々のことで騒いだりしない。
 あの日。通勤途中。いつもと雰囲気のちがう。高速道路。火事。断片的に耳にされた言葉を集約するなら、どこかで惨事らしい。職場に着くと、テレビまわりに同僚たちが群がっている。午前五時四十六分。マグニチュード七・三。震度七。家屋倒壊。ビル全壊。道路陥没。高架構造の駅舎や高速道路が崩落。火災発生。いまなお火のおとろえることなく、延焼拡大。……断片的な情報がかたちをなす。太郎が高校、大学と過ごした西の町でのことだった。
 あの日。電話はつながらない。詳細は報道を追うよりない。現地の状況が明らかになるにしたがい、惨状は深刻さを増す。友人の福崎とつながったのは、ずいぶん(あと)のこと。こうしていま太郎が訪れたのも、あの日からすでに半年を経ている。


 この駅は八年ぶりである。
 改札を出るのは、はじめて。周囲を見るかぎり、このあたりはさほど酷くなかったようすである。それでも瓦が落ちたり壁の崩れたり窓硝子の割れたりしたのだろう。垣間見られるブルーシートに覆われた家屋が痛々しい。あれか。指定された店をみとめて、太郎が歩みを進めようとした矢先、背を叩かれた。福崎。連れは良子である。
 珈琲が味気ない。二人のはなしがこたえる。この地から遠く、安穏に暮らす身を()じ入らずばすまない。あの日。この町では世界が一変した。
 あの日。二人はスキー旅行の帰途だった。福崎がバスを降車したとき。北西に連なる山脈(やまなみ)(あお)く光ったかに見えたという。途端、すさまじい揺れに襲われた。立っていられない。咄嗟に福崎は良子に覆いかぶさるようにして、その場にしゃがみ込んだ。背中を次々と落下物が()つのを感じた。揺れがおさまったとき、彼らの周囲は白く(けぶ)り、礫で覆われていた。化粧タイルの剝がれ亀裂の入った外壁、鉄骨の剝き出した柱など、傷痕も生々しい。転倒したか打ちどころの悪かったか。倒れたままの人。足をひきずる人。流血している人もあった。
 この町を大地震が襲うとは、だれしも思いの(ほか)だった。八十年前に大震災のあり、その後も大地震の注意喚起された東の都会とは異なる。地震への備えも心構えも乏しい。災害なら台風を意識していたろう。東にくらべ瓦の重いのもそのためだ。屋根を飛ばされない工夫である。これがあだとなった。尋常でない揺れにあっては荷重の大きい屋根を柱も壁も支えきれない。耐えきれない。その重みに家屋は押し潰された。人びとは下敷きとなり、生き埋めとなった。これを火災が襲う。町を炎がなめつくした。
 「美代ちゃんも」と良子が言う。
 太郎は耳を疑った。
 美代子はこの駅が最寄りのはず。
 「会社の寮が、川向こうにあって、そこに住んでいたから。」
 古い木造の女子寮はひとたまりもなかった。多くがまだ起床前。寮住まいの全員が逃げ遅れ、犠牲となった。救助にあたった消防隊員の話では、生き埋めを数人確認したものの、火のまわりが早く、救助の間に合わなかったという。川を境に、彼岸は焼尽、此岸の延焼は免れた。


 この駅は八年ぶりである。
 あの日。川向こうまでは焼けたのか。
 「あなたの所為(せい)よ。」
 良子が太郎を睨んだ。
 「あなたがちゃんとしてないからよ。」
 福崎が良子の手を握り、制するのを見た。良子は唇をふるわせている。
 あの時。伝えようとした言葉。……
 「あの子は、あなたを好きだったのよ。」
 良子の瞳はいまにもあふれんばかりに潤んでいる。煌々と怒りとかなしみとを映している。
 あの時。まだ学生。その後。まだ一年。まだ三年。ようやく五年、まだ落ち着かない。まだまだ。十年も経たない。まだまだ。自分への口実。自分に言い訳する自分。きょうの、いま。いま、この時までも。
 昂奮を抑えようと握った福崎の手をはねのけ、
 「あなたが殺したのよ。」
 良子は太郎の襟首を両の掌で摑んでいた。
 「よせ。」
 福崎があわててこれを(ほど)いて、「地震だ。だれの所為でもない。自然災害なんだ」と諭す。
 「あの子は、あなたが卒業するのを待っていたのよ。あなたが卒業したら、って待っていたのよ。」
 良子は、解かれた両手で顔を覆い、号泣した。
 あの時。「春には卒業だよね。」美代子は訊いた。真っ直ぐなまなざしを忘れない。迂闊であった。


 この駅は八年ぶりである。
 二人と別れ、太郎は一人改札を抜ける。
 歔欷する良子の途切れ途切れもらしたのが耳を離れない。美代子が家庭の事情により進学をあきらめ就職を選ばざるを得なかったこと。短大に進んだ良子との交友は、良子が就職しても続いたこと(だから港町で邂逅した)。良子のほかに友人らしい友人もなかったこと。家族は離散していたこと。
 太郎との二度の偶然の邂逅が、生きるよすがであったという。「また会えるわ。きっと。」根拠のない確信は、かの女の願いでもあった。
 「あなたがちゃんとしていれば、あの子は地震に遭うこともなかったはずよ。」
 良子が責めるのも当然と思われる。この町を離れて七年。ぐずぐずと自分を自分で甘やかしてきたにすぎない。真っ直ぐなまなざしを忘れない。これに相応しくない自分。いま思い知った。意気地のない自分が恨めしい。羞恥しかない。
 あの日。
 あの時。……
 この日、太郎は真実、後悔というものを知った。

あの時

あの時

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-01

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