拝啓、あしながおじさん。 ~令和日本のジュディ・アボットより~
アメリカ文学の不朽の名作、『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター作)の世界が現代の日本によみがえる――。
1910年代のアメリカが舞台の名作文学・『あしながおじさん』。施設出身の少女がとある資産家の援助を受けて進学、そして年上男性との恋を経験し、作家として羽ばたいていくという基本的な設定はそのまま残し、舞台を令和の日本に置き換えました。
ヒロインは児童養護施設から全寮制の名門女子高校に進学し、幼い頃からの夢だった小説家を目指しますが、ヒロインはある出来事から〝あしながおじさん〟の正体が誰なのか気づいてしまいます……。
そして明らかになる両親の死の真相、彼女はなぜ施設で暮らすことになったのか。原作とは違うクライマックスにもご注目下さい。
ゆううつな水曜日……
「――はあ……」
ここは山梨県のとある地方都市。
秋も深まったある日、一人セーラー服姿の女子中学生が、学校帰りに盛大なため息をつきながら田んぼの畦道をトボトボと歩いていた。
それは決して、テストの成績が悪かったから……ではない。彼女の成績は、学年ではトップクラスでいいのだから。
彼女の悩みはもっと深刻なのだ。進路決定を控えた中学三年生にとって、進学するか就職するかは一大事である。
彼女は県外の高校への進学を望んでいるけれど、それが難しいことも分かっている。
なぜなら、彼女は幼い頃から施設で暮らしているから。
彼女――相川愛美は、物心つく前から児童養護施設・〈わかば園〉で育ってきた。両親の顔は知らないけれど、聡美園長先生からはすでに亡くなっていると聞かされた。
〈わかば園〉は国からの援助や寄付金で運営されているため、経営状態は決していいとはいえない。そのため、この施設には高校卒業までいられるけれど、進学先は県内の公立高校に限定されてしまう。県外の高校や、まして私立高校の進学費用なんて出してもらえるわけがないのだ。
進学するとなると、卒業までに里親を見つけてもらうか、後見人になってくれる人が現れるのを待つしかない。
「進学したいなあ……」
愛美はまた一つため息をつく。希望どおりの高校に進学することが普通じゃないなんて――。
学校の同級生はみんな、当たり前のように「どこの高校に行く?」という話をしているのに。
(どうしてわたしには、お父さんとお母さんがいないんだろう?)
実の両親は亡くなっているので仕方ないとしても、義理の両親とか。誰か引き取ってくれる親戚とかでもいてくれたら……。
「――はあ……。帰ろう」
悩んでいても仕方ない。施設では優しい園長先生や先生たちや、〝弟妹たち〟が待っているのだ。
「ただいまぁ……」
〈わかば園〉の門をくぐると、愛美は庭で遊んでいた弟妹たちに声をかけた。
そこにいるのはほとんどが小学生以下の子供たちだけれど、そこに中学一年生の小谷涼介も交じってサッカーをやっている。
「あ、愛美姉ちゃん! お帰りー」
「……ただいま。ねえリョウちゃん、先生たちは?」
「先生たちは、園長先生の手伝いしてるよ。今日、理事会やってっから」
「そっか。今日、理事会の日だったね。ありがと」
この施設では毎月の第一水曜日、この〈わかば園〉に寄付をしてくれている理事たちの会合があるのだ。
ここで暮らす子供の中では最年長の愛美は、毎月自主的に園長や他の先生たちの手伝いをしている。――〝手伝い〟といっても、お茶を淹れたりするくらいのもので、理事たちの前に出ることはめったにないのだけれど。
「――さて、わたしも着替えて手伝おう」
玄関で靴を脱ぎ、散らかっている子供たちの靴と一緒に自分の靴も整頓してから、愛美は階段を上がって二階の六号室に向かった。
ここは彼女の一人部屋ではなく、他に五人の幼い弟妹たちも一緒に暮らしている部屋。
幸い、この部屋のおチビちゃんたちは食堂でおやつの時間らしく、部屋には誰もいなかった。
(今日は進路のこと話すヒマなさそうだな……。園長先生、忙しそうだし)
そんなことを思いながら制服から、お気に入りのブルーのギンガムチェックのブラウスとデニムスカート・白いニットに着替えた愛美は、一階に下りておチビちゃんたちがおやつ中の食堂を横切り、台所に入る。
「先生たち、ただいま! わたしもお手伝いします!」
「あら、愛美ちゃん。おかえりなさい。いつも悪いわねえ。――じゃあ、理事会の人たちにお出しするお茶、淹れてもらえる?」
「はーい」
施設の麻子先生にお願いされ、愛美はテキパキと動き始めた。
急須にお茶っ葉を量って入れて、その上からお湯を注ぐ。しばらくすると、いい香りのする美味しい緑茶ができ上がった。
「今日は何人の方が来られてるんですか?」
「えーっと……、確か九人だったかな。だから、園長先生の分も合わせて十人分ね」
「分かりました」
ということだったので、上等な湯飲みを十人分食器棚から出してお盆に載せ、急須から出でき立ての緑茶を淹れていく。
「できました! わたし、運んできます!」
「いいから、愛美ちゃん! ありがとう。あとは私たちでやるから、部屋で休んでていいわよ。晩ごはんの時間になったら呼ぶから」
「……はーい」
愛美はしぶしぶ頷いた。本当は「お茶を運ぶ」という口実で、理事たちの顔を確かめたかったのだけれど……。
毎月こうなのだ。愛美が「お茶を運ぶ」と言うたびに、先生たちに止められる。そのため、愛美はこの施設の理事がどんな人たちなのか、全然知らないのである。
――ただ一つ、ハッキリしていることがある。
(……まあ、お金持ちなんだろうな。こういう施設に寄付できるくらいなんだから)
愛美はそういうお金持ちとか、セレブとかいわれている人たちの生活を知らない。学校の友達にもいないし、どれだけ想像力を働かせても思い浮かばない。
彼女は幼い頃から、本を読むのが好きだ。想像力も豊かで、将来は小説家になりたいと思っている。その豊かな想像力をもってしても、具体的なイメージが浮かばないのだ。
――窓際の学習机で学校の宿題を終わらせ、一息ついた愛美は何げなく窓の外に視線を移す。
もう夕方の六時前。外は暗くなり始めている。
理事会は終わったらしく、門の外には黒塗りの高級リムジン車やハイヤーが何台も列を作っている。
「いいなあ……。わたしも乗ってみたいな」
愛美はちょっと憧れを込めた眼差しでその光景を眺め、机に頬杖をつきながら想像してみた。――ピカピカに磨かれた高級リムジンに乗り込む自分の姿を。
高級ブランドスーツに身を包み、後部座席にゆったりもたれてお抱え運転手に「家までお願い」とか言っている――。そう、自分はお金持ちの令嬢だ。
そして高級リムジンは立派なゲートを抜け、大豪邸の敷地内へ入っていく――。
けれど。愛美の空想はそこまでで止まってしまった。
「……あれ? 大豪邸の中ってどんな感じなんだろう?」
一度も入ったことのない、大きなお屋敷の間取りがどんな風になっているのか、インテリアはどんなものなのか? 全くもって想像がつかない。
友達の家に遊びに行ったことはあるけれど、そこだってごく普通の民家。〝豪邸〟と呼べるほど立派な家ではないのだ。
「はあ…………」
なんだか虚しくなった愛美は、空想を打ち切った。ちょうど、おやつタイムが終わったおチビちゃんたちが戻ってきたからでもある。
――これが愛美の現実。高級リムジンで送迎してもらえるようなお嬢様にはなれないし、そんな人たちと自分は住む世界が違うんだ。彼女はそう思っていた。
――この日の夜、聡美園長先生から思いがけない話を聞かされるまでは……。
* * * *
「――ごちそうさまでした」
晩ごはんの時間。愛美は半分も食べないうちに、箸を置いてしまった。今日のメニューは、大好物のハンバーグだったというのに。
「あら、愛美ちゃん。もういいの?」
照美先生が、心配そうに愛美に訊いた。
「うん、なんかあんまり食欲なくて……。先に部屋に行ってます」
「そう? あとでお夜食に、おにぎりが何か持って行ってあげましょうか?」
「ううん、大丈夫です。ありがとう」
ぎこちなく笑いかけて、愛美は食堂を出た。重い足取りで階段を上がっていく。
(……結局、園長先生に進路のこと話せなかったなあ)
理事会はもう終わっているはずなのに、園長先生は晩ごはんの席にも来なかった。その前にでも、話そうと思っていたのに。
部屋に戻ると、愛美はしおりが挟まった一冊の本を手に取った。
『あしながおじさん』――。彼女が幼い頃からずっと愛読している本で、もう何度読み返したか分からない。
この本の主人公・ジュディも愛美と同じように施設で育ち、ある資産家に援助してもらって大学に進学。作家にもなった。
――もし、この本みたいなことが自分にも起こったら? 進学問題だって簡単に解決できちゃうのに……。
「……まさかね。そんなこと、あるワケないか」
愛美は一人呟く。これではあまりにも妄想が過ぎる。
それは、ジュディが物語のヒロインだから起こり得た奇跡だ。現実に起こる確率は限りなくゼロに近いと思う。
「……でも、ゼロだとも言えないよね」
希望は捨てたくない。自分の境遇を憂いて、手を差し伸べてくれる人がきっと現れる――。いつもそう思っているから、愛美はこの本を読むことをやめられないのだ。
――弟妹たちが食堂から戻ってきたことにも気づかず、愛美が読書に夢中になっていると……。
「――愛美姉ちゃーん! 園長先生が呼んでるよー!」
部屋の外から涼介の声がした。愛美はすぐ廊下に出て、彼に訊ねる。
「園長先生が? わたしに何のご用だろう?」
「さあ? オレはそこまで聞いてないけど。ただ『呼んできて』って頼まれただけだよ」
「……そっか、分かった。ちょっと行ってくるね。ありがと、リョウちゃん」
涼介はこの施設の子供の中で、愛美と一番歳が近いので、話も合うし仲がいい。だからこうして、たまに愛美の呼び出し係にされることもある。
でも、彼は「イヤだ」と言わない。彼にとって愛美姉ちゃんは、血は繋がっていなくても実の姉のような存在だから。〝姉ちゃん〟の役に立てることが嬉しくて仕方ないのだ。
――それはさておき。
(園長先生、わたしにどんな御用なんだろ……?)
一階まで階段を下りながら、愛美は首を傾げた。これといって思い当たることがないのだ。
叱られるようなことは何もしていない。……少なくとも愛美自身は。
でも、同じ六号室の幼い弟妹たちの誰かが、理事さんに失礼なことでもしていたら……? それは一番年上の愛美の責任でもある。
(ああ、どうしよう……?)
――でも。もしも、そうじゃなかったとしたら。
(もしかして、わたしの進路の話……とか?)
愛美は今日、学校で担任の先生と面談したのだ。卒業後の進路について、まだ決められないのでどうしたらいいか、と。
その連絡が、園長先生に入っていてもおかしくない。この施設の園長が、愛美の保護者にあたるのだから。
(……いやいや! まさか、そんなこと――)
愛美は首をブンブンと横に振った。
もしそうだとしたら、この展開は愛美の愛読書・『あしながおじさん』のエピソードにそっくりじゃないか!
でも、「ない」と否定しきれない自分がいて、愛美はソワソワしながら暗くなった一階の職員用玄関の前を通りかかった。
――と、そこには一人の人影が見える。
暗いので顔は見えず、見えるのはシルエットだけ。その後ろ姿から分かることは、背の高い男性だということだけだ。
(……わ、すごく背の高い人だなあ。それに……結構若い?)
どうしてそう思ったのかは、愛美にもよく分からない。けれど、何となく「この人、そんなに年齢いってないんじゃないか」と思ったのである。
愛美が彼の後ろ姿にしばらく見入っていると、外が一瞬パッと明るくなり、愛美はまぶしさに目がくらんだ。外に迎えの車が停まり、ヘッドライトで照らされたらしい。
次に彼女が目を開けた時、目にしたのは壁に映ったヒョロ長い影――。
(……えっ!? 待って! これって……同じだ!)
愛美にはピンときた。『あしながおじさん』の本の中に、同じシチュエーションが登場するのだ。
あの時、ジュディはそのコミカルな影を目にして笑い出した。愛美も笑顔になったけれど、理由は違う。
(もしかして、奇跡……起きちゃうかも!)
ジュディのような幸運が、自分にも待っていそうな気がして嬉しかったのである。
* * * *
「――失礼しまーす……」
家と同じなので、愛美がノックせずに園長室のドアを開けると、園長先生はニコニコ笑って彼女を待っていた。
「愛美ちゃん、待ってたのよ。お座りなさいな。急に呼んじゃって悪いわねえ」
「はい。――園長先生、わたしに何かご用ですか?」
愛美は応接セットのソファーに、聡美園長と向かい合う形で浅く腰かけた。
若葉聡美園長は六十代半ばの穏やかな女性で、愛美を始めとするここの子供たちにとっては優しいおばあちゃんのような存在である。
「ええ。あなたに大事な話があるの。――その前に、今しがたお帰りになった方、愛美ちゃんも見かけたかしら?」
「あ、はい。後ろ姿だけチラッとですけど……。あの方、理事さんなんですか? ずいぶんお若く見えましたけど」
「ええ。二年くらい前に理事になられて、この施設に多額の援助をして下さってる方なの。ただ、ご事情がおありだとかで、本名は伏せてほしいって言われてるんだけれど」
「はあ……、そうなんですか」
愛美は面食らった。先ほど見かけただけのあの理事は、聞いた限りではちょっと変わり者のようだ。
けれど、園長先生だってわざわざ「あの理事さん、変わっててねぇ」なんて世間話をするためだけに愛美を呼んだわけではないだろう。
「あの方、これまでここの男の子たちには目をかけて下さって、二人ほどあの方のおかげで私立に進学できた子がいるの。ただ、女の子はその対象からは外れてたのよ。理由は分からないけれど、もしかしたら女の子が苦手なのかしらねぇ」
「はあ……」
愛美が何だかよく分からない相槌を打っていると、園長はガラリと口調を変え、真剣そのものの表情で愛美に訊いた。
「愛美ちゃん。あなたは確か、県外の高校への進学を希望してるんだったわね?」
「……はい。難しいっていうのはよく分かってますけど」
愛美もいよいよ本題に入ったのだと察し、姿勢を正して答えた。
「実は今日、あなたの担任の先生からお電話を頂いてね。今日の理事会でも、あなたの進路について急きょ話し合うことになったの」
「はい……」
一体、どんな話し合いがされたんだろう? ――愛美は固唾を飲んで、園長先生の話の続きを待った。
「愛美ちゃんも知ってるでしょうけれど、この〈わかば園〉は経営が苦しくて、愛美ちゃんの希望どおり、私立の高校へは進ませてあげられないの」
「それは分かってます」
愛美が堅い表情で頷くと、園長先生は表情を少し和らげ、申し訳なさそうに続けた。
「愛美ちゃん、あなたには本当に感謝してるし、申し訳ないとも思ってるのよ。私たち職員の手が回らない分、小さい子たちのお世話や施設の仕事も手伝ってもらって」
「いえ、そんな! わたしが進んでやってることですから、気にしないで下さい!」
それは、弟妹たちやこの施設が大好きだから。ただみんなの役に立ちたくてやっているだけだ。
「そう? それならいいんだけれど……。でもね、私はあなたの夢を知ってるし、応援してあげたいの。だから、進学はするべきだと思うわ」
「えっ!? でも――」
「話は最後まで聞きなさい、愛美ちゃん」
言っていることが矛盾している、と抗議しかけた愛美を、聡美園長がたしなめる。
「私が理事会のみなさんにそう言ったらね、先ほどのあの方が私に賛同して下さって。『彼女の文才をこのまま埋もれさせるのは惜しい』って」
「えっ? いま、〝文才〟って……」
「そうなの。あの方ね、中学校の担任の先生からお借りしてきたあなたの作文をここで読み上げられたの。あれには他の理事さんたちもビックリされてたわ」
「作文?」
「ええ。夏休みの宿題で書いていたでしょう? 『わたしの家族』っていう題名の」
「ああ、あれかぁ」
「そう。あの人、その作文の内容にいたく感動されてね、『彼女は進学させるべきだ!』って強く主張なさって。自分が援助するとまでおっしゃって下さったのよ」
「え……。じゃあわたし、進学できるんですか!?」
聞き間違いかと思い、愛美がビックリして大きな声を出すと、園長は大きく頷いた。
「ええ。あの方も、あなたの夢を応援したいそうよ。そのための援助は惜しまないっておっしゃってたわ。……ただね、あの方からは色々と条件を出されたんだけれど」
「条件……ですか?」
進学できると浮き足立っていた愛美は、園長先生のその言葉を聞いて改めて背筋を伸ばした。
「まず、受験するように勧められた高校なんだけれど。横浜にある女子大付属高校なの。――ここよ」
園長がそう言って、ローテーブルの上にパンフレットを置いた。それは、高校の入学案内。
「私立……茗倫女子大学付属……。横浜ってことは県外ですよね」
愛美は表紙に書かれた文字を読んだ。
本当は県内の高校がよかったのだけれど、そんなわがままを言っていい立場ではないことくらい、彼女自身も分かっている。
「そうなの。ここは名門の女子校でね、全寮制なの。寮に入れば、住むところには困らないだろうって。それでね、愛美ちゃん。学校や寮の費用は全額あの方が負担して下さって、直接学校に振り込まれるんだけれど。そのうえで、あなたにも毎月お小遣いを下さるそうなのよ。一ヶ月で三万五千円も」
「さ……っ、三万五千円!? すごい大金……」
高校生のお小遣いにしては、多すぎはしないだろうかと愛美は目をみはった。
「そうよねえ。ここにいる間、あなたには十分なお小遣いをあげられてなかったものねえ。でもね、あの学校でやっていくには、その金額が最低ラインなんじゃないかってあの方がおっしゃるのよ」
「そうなんですか」
そういえば、〝名門〟だと園長先生がさっき言っていたっけ。お嬢さま学校でみんなと同じように生活していくには、やっぱりそれくらいのお金が必要なのだろうか。
「とりあえず、高校三年間は援助を続けて下さるそうよ。卒業後にそのまま大学へ進むか、就職するかはあなたに任せたいって」
「そうですか。……もし大学に進んでも、援助は続けて頂けるんでしょうか?」
大学までとなると、学費もバカにならない。そこまで見ず知らずの人の厚意に甘えていいものかと、愛美は思ったけれど。
「ごめんなさい、そこまでは聞いてないわ。その時が来たら、またあなた自身から相談すればいいんじゃないかしら」
「そうですね……」
まだそんな先のことまでは考えられない。まずは、進学できることになったことを喜ぶべきだろう。
「――それでね、あなたに出された条件は、毎月お手紙を出すことだそうよ。それもお金のお礼なんていいから、あなたの学校生活のことや、日常のことを知らせてほしいんですって」
(……あ、やっぱり同じだ。『あしながおじさん』のお話と)
愛美はふとそう思った。あの物語の中でも、ジュディが院長から同じ内容の話を聞かされていたのだ。
「このデジタル全盛期の時代に変わってるでしょう? でも、あの方のお話では、文章力を養うには手紙を書くのが一番だって。それに、あなたの成長を目に見える形で残すには、メールよりも手書きの文字の方がいいからって」
「へぇー……。あの、手紙はどなた宛てに出したらいいんでしょうか? お名前、教えて頂けないんですよね?」
多分、何か偽名を指定されているはずだと愛美は思った。
あのお話の中では「ジョン・スミス」だけれど、あの人は一体どんな偽名を考えたんだろう……?
「一応、仮のお名前は『田中太郎』さんだそうよ。いかにも偽名って感じのお名前でしょう?」
「はい」
園長先生が笑いながらそう言うので、愛美も思わずつられて笑ってしまう。
「でも、それじゃ郵便が届かないから。宛て名は個人秘書の久留島栄吉さんにして出すように、って」
「分かりました。秘書さんからその〝田中さん〟の手に渡るってことですね? そうします」
個人秘書がいるなんて……! どれだけすごい人なんだろう?
「残念ながら、お返事は頂けないそうなの。自分からの手紙が、あなたのプレッシャーになるんじゃないかと心配されてるみたいでね。だから何か困ったことがあった時には、同じように久留島さん宛てにお手紙を出して相談するように、ともおっしゃってたわ」
「はい」
そして多分、秘書の名前で返事が来るはずだ。それも、今の時代だからパソコン書きの。
「愛美ちゃん。私も田中さんも、あなたの夢を心から応援してるのよ。だからあなたは何も心配しないで、安心して高校生活を楽しみなさい。あなた自身が信じる道を歩みなさい。あなたの人生なんだから」
園長先生はまっすぐに愛美を見つめ、真剣な、それでいて愛情に満ちた声でそう言った。
「はい……! 園長先生、ありがとうございます!」
愛美は嬉しさで胸がいっぱいになった。
――自分の人生。今まで、そんなこと一度も考えたことがなかったし、考える余裕もなかった。
いつも弟妹たちや施設のことばかり考えて、自分のことは二の次で。でも、「これでいいんだ」と思ってきた。
けれど、進路と向き合うということは、自分のこれからの人生と向き合うということなんだと、愛美は気づいたのだ。
――ボーン、ボーン ……。園長室の柱に取り付けられた、年季の入った振り子時計が九時を告げた。
「長い話になってしまってごめんなさいね。明日も学校があるでしょう? そろそろお部屋に戻りなさい」
「はい。園長先生、おやすみなさい。失礼します」
聡美園長にお辞儀をして、愛美は退室した。
(ウソ……? 信じられない! ホントに奇跡が起きちゃった……!)
二階の部屋まで戻る途中、愛美は春から訪れるであろう新しい生活に、ワクワクと少しの不安とで胸を膨らませていたのだった――。
旅立ち、新生活スタート。
――それから半年が過ぎ、季節は春。愛美が〈わかば園〉を巣立つ日がやってきた。
「――愛美ちゃん、忘れ物はない?」
「はい、大丈夫です」
大きなスポーツバッグ一つを下げて旅立っていく愛美に、聡美園長が訊ねた。
「大きな荷物は先に寮の方に送っておいたから。何も心配しないで行ってらっしゃい」
「はい……」
十年以上育ててもらった家。旅立つのが名残惜しくて、愛美はなかなか一歩踏み出せずにいる。
「愛美ちゃん、もうタクシーが来るから出ないと。ね?」
園長だって、早く彼女を追いだしたいわけではないので、そっと背中を押すように彼女を促した。
「はい。……あ、リョウちゃん」
愛美は園長と一緒に見送りに来ている涼介に声をかけた。
「ん? なに、愛美姉ちゃん?」
「これからは、リョウちゃんが一番お兄ちゃんなんだから。みんなのことお願いね。先生たちのこと助けてあげるんだよ?」
この役目も、愛美から涼介にバトンタッチだ。
「うん、分かってるよ。任せとけって」
「ありがとね。――園長先生、今日までお世話になりました!」
愛美は目を潤ませながら、それでも元気にお礼を言った。
――動き出したタクシーの窓から、だんだん小さくなっていく〈わかば園〉の外観を切なく眺めながら、愛美は心の中で呟いた。
(さよなら、わかば園。今までありがとう)
駅に向かう道のりは長い。朝早く起きた愛美は襲ってきた眠気に勝てず、いつの間にか眠っていた――。
* * * *
JR甲府駅から特急で静岡県の新富士駅まで出て、そこから新横浜駅までは新幹線。
そこまでの切符は全て、〝田中太郎〟氏が買ってくれていた。
(田中さんって人、太っ腹だなあ。入試の時の往復の交通費も出して下さったし)
新幹線の車窓から富士山を眺めつつ、愛美は感心していた。
自分が指定した高校を受験するからといって、一人の女の子に対してそこまで気前よくするものだろうか? もし合格していなかったら、入試の日の交通費はドブに捨てるようなものなのに。
(ホントにその人、女の子苦手なのかな……?)
園長先生がそんなことを言っていた気がするけれど。自分にここまでしてくれる人が、女の子が苦手だとはとても思えない。
もしも本当にそうなのだとしたら、何か事情があるのかもしれない。
愛美が目指す私立茗倫女子大付属高校は山手の方にあるので、新横浜からは地下鉄に乗り換えなければならないのだけれど。
「……あれ? 乗り換えの駅はどこ~?」
早くも複雑怪奇な地下街で迷子になってしまった。
スマホがあれば行き方を検索することもできるけれど、残念ながら愛美はスマホを持っていないし持ったこともない。
目の前にはパン屋さんがあり、美味しそうな匂いがしてくる。
「お腹すいたなあ……」
お昼を過ぎているし、昼食代わりにパンを買って食べるのもいいかもしれない。
愛美は美味しそうな焼きたてメロンパンを買うついでに、店員さんに山手に行く路線の駅を訊ねた。店員のお姉さんは親切な人で、愛美にキチンと教えてくれた。
券売機で切符を買い、改札を抜け、ホームでメロンパンをかじりながら電車を待つ。
施設にいた頃には、こんな経験をしたことがなかった。自分で切符を買うのも、人に道を訊ねるのも初めての経験で、愛美はドキドキしっぱなしだ。
「次は、どんなドキドキが待ってるんだろう?」
自動販売機で買ったカフェラテを飲みながら、愛美はワクワクする気持ちを言葉にして言った。
* * * *
――茗倫女子大付属高校は〝名門〟というだけのことはあって、敷地だけでも相当な広さを誇っている。愛美が通っていた地元の小中学校や、それこそ〈わかば園〉とは比べものにならない。
「わあ……! 大きい!」
その立派な門を一歩くぐるなり、愛美は歓声を上げた。
敷地内には、大きな建物がいくつも建てられている。高校と大学の校舎に体育館、図書館に付属病院まである。さすがは大学付属だ。
そして、愛美がこれから生活を送る〈双葉寮〉も――。
「こんにちは! ……あの、これからお世話になる相川愛美です。よろしくお願いします」
寮母さんと思われる女性に、愛美はおそるおそる声をかけてみる。――果たして、これが寮に入る新入生の挨拶として正しいのかは彼女にも分からないけれど。
「はい、相川愛美さんね。ご入学おめでとうございます。――これ、校章と部屋割り表ね」
「ありがとうございます。――えーっと、わたしの部屋は、と。……ん?」
渡された部屋割り表でさっそく自分の部屋番号を確かめた愛美は、そこに自分の名前しか載っていないことに驚く。
「わたし……、一人部屋なんですか?」
「ええ。入学が決まった時に、保護者の方からご要望があったそうよ。あなたには一人部屋を与えてやってくれ、って」
(保護者って……、〝田中さん〟だ!)
もしくはその秘書の久留島という人だろう。愛美が施設ではずっと六人部屋だったことを知っているから、せめて高校の寮生活では一人部屋を……と希望したに違いない。
「まあ、この先一年だけだから。学年が上がれば部屋替えもあるし」
「はあ……。ありがとうございます」
「私はここで寮母をしている、森口晴美です。よろしく、相川さん」
「はい、よろしくお願いします」
「荷物はロビーに届いてるから。そこにいる用務員の先生に声をかけてね」
森口さん言われた通りに〈双葉寮〉の玄関ロビーに行ってみると、そこには他の新入生の女の子たちがみんな集まっている。
「あの、新入生の相川愛美ですけど。わたしの荷物、届いてますか?」
その中に一人混じっている用務員さんとおぼしき中年男性に愛美は声をかけた。
「相川愛美さん……ですね。入学おめでとう。君の荷物は……と、あったあった! これに間違いないですか?」
彼が持ち上げたのは、ピンク色の小さめのスーツケース。ちゃんと荷札が貼ってある。
施設の部屋にはそんなにたくさんものが置けなかったため、愛美個人の荷物は少ない。だからこれ一つでこと足りたのだ。
「――あ、それからもう一つ、小包みが届いてますよ」
彼はそう言って、箱を愛美に手渡した。
けっこう大きな段ボール箱で、しっかりと梱包されている。
「えっ、小包み? ありがとうございます」
愛美は小首を傾げながらも、お礼を言って受け取った。
「誰からだろう? ……ウソ」
貼られている伝票を確かめて、目を丸くする。差出人の名前は、〝久留島栄吉〟。――あの〝田中太郎〟氏の秘書の名前だ。
(一体、何を送ってくれたんだろう……?)
「こわれもの注意」のステッカーが貼られているけれど、品物が何なのかまでは皆目見当がつかない。
「まあいいや。部屋に着いてからゆっくり開けようっと」
箱をスーツケースに入れ(実は中がスカスカで、それくらいの余裕はあった)、部屋に向かおうとすると――。
「ちょっと! 私が相部屋になってるってどういうことですの!? 父から『一人部屋にしてほしい』と連絡があったはずでしょう!?」
一人の女の子の金切り声が聞こえてきて、愛美は思わず足を止めた。
先ほどまで自分がいた方を見れば、声の主はスラリと背の高い、モデルみたいにキレイな女の子。彼女はあの男性職員に何やら食ってかかっている様子。
「辺唐院珠莉さん。申し訳ありませんが、一人部屋はもう他の新入生が入ることになっていて。今更変更はできません」
「ええっ!? ウソでしょう!?」
(一人部屋……、って私が使うことになった部屋だ……)
二人の口論を耳にして、愛美は何だかいたたまれなくなった。
自分に一人部屋が当たったことで、この子の希望が叶わなくなったんだ。
――もっとも、愛美が望んでそうなったわけではないので、彼女が責任を感じる必要はないのだけれど。
――と。
「まぁったく、ヤな感じだよねえあの子」
「……え?」
嫌悪感丸出しで、一人の女の子が愛美に声をかけてきた。とはいっても、その嫌悪感の矛先は愛美ではなく、用務員さんともめている長身の女の子の方らしい。
身長は百五十センチしかない愛美より少し高いくらい。肩まで届かないくらいの黒髪は、少しウェーブがかかっている。
「あの子ね、あたしと同室になったんだけど。それが気に入らないらしいんだよね。ったく、あたしだってゴメンだっつうの。あんな高ビーなお嬢がルームメイトなんて」
「あの……?」
多少口は悪いけれど、突っ張っている風でもない彼女に愛美は完全に気圧されている。
「――あ、ゴメン! あたし、牧村さやか。よろしくね。アンタは?」
「あ、わたしは相川愛美。よろしく。『さやかちゃん』って呼んでもいい?」
「うん、いいよ☆ じゃああたしは『愛美』って呼ぶね。あたしたち、部屋となり同士みたいだよ」
「えっ、ホント? ――あ、ホントだ。よろしく」
部屋割り表を見れば、確かにそうなっている。
早くも友達になれそうな子ができて、愛美はますますこの高校での生活が楽しみになってきた。
その一方で、辺唐院珠莉と男性職員との口論はまだグダグダと続いていた。
「あの……。よかったら、わたしと部屋代わる?」
見かねた愛美が、おずおずと珠莉に部屋の交換を申し出たけれど。
「いいよ、愛美。そんな子のワガママに付き合うことないって。――ちょっとアンタ! あたしと同室なのがそんなに気に入らないの!?」
どうやらさやかは、言いたいことをズバズバ言うタイプの子らしい。
(さやかちゃん……、そんなにはっきり言わなくても)
愛美は絶句した。これ以上話をこじれさせてどうするのか、と。
〈わかば園〉にいた頃はケンカらしいケンカもなかったので、愛美は基本的に平和主義者だ。人のケンカやもめ事に首を突っ込むのは苦手である。
けれど、この場では愛美も当事者なのだ。珠莉の怒りの矛先が愛美に向くこともあるかもしれない。そうなった時の対処法を彼女は知らない。
(わ……、なんかすごい人集まってる!)
愛美が驚いた。気づけば、「周りには大勢の新入生や在校生と思われる女の子たちが騒ぎを聞きつけて、「なんだなんだ」と集まってきていたのだ。
「……同室? じゃあ、あなたが牧村さやかさん?」
「そうだけど。なんか文句ある?」
仁王立ちで言い返すさやかに、珠莉は毒気を抜かれたらしい。というか、人前で悪目立ちしてしまったことが格好悪かったらしい。
「……いいえ。別に、気に入らないわけじゃないけど。もういいですわ。私は二人部屋で」
プライドが高そうな珠莉は、こんな下らない理由で目立ってしまったことを恥じているらしく、あっさりと折れた。
「――で、あなたが一人部屋を使うことになった相川愛美さん? お部屋はあなたにお譲りするわ」
「え……? う、うん。ありがとう」
これって喜ぶべきところなんだろうか? 愛美は素直に喜べない。というか、上から目線で言われたことが癪に障って仕方がない。
「――ま、これで部屋問題は解決したワケだし。早く自分の荷物、部屋まで運ぼうよ」
さやかが愛美と珠莉の肩を叩いて促す。
……のはいいとして、愛美は荷物が少ないからいいのだけれど。二人の荷物はかなり多い。どうやって運ぶつもりなんだろう? 愛美は首を傾げた。
「牧村さん、辺唐院さん。カートがありますから、使って下さい。後で回収に回りますから」
「「ありがとうございます」」
二人がカートに荷物を乗せてから、愛美も合流して三人で二階の部屋まで移動した。
幸い、この建物にはエレベーターがついているので、荷物を運ぶのはそれほど大変ではなかった。
* * * *
「じゃ、改めて自己紹介するね。あたしは牧村さやか。出身は埼玉県で、お父さんは作業服の会社の社長だよ」
「えっ? さやかちゃんのお父さん、社長さんなの? スゴーい☆」
愛美はさやかの父親の職業を知ってビックリした。こんなに姉御肌でオトコマエな性格の彼女も、実は社長令嬢だったなんて……!
「じゃあ、さやかちゃんもお嬢さまなの?」
「いやいや。そんないいモンじゃないよ、あたしは。お父さんの会社だってそんなに大きくないし。〝お嬢さま〟っていうんなら、珠莉の方なんじゃないの? ね、珠莉?」
「えっ、そうなの?」
確かに、珠莉は初めて見た時から、住む世界の違う人のように感じていたけれど。
「うん。だってこの子、超有名な〈辺唐院グループ〉の会長さんのご令嬢だもん。そうだよね、珠莉?」
「ええ。確かに私の父は〈辺唐院グループ〉の会長だけど」
「へえ……。っていうか、〈辺唐院グループ〉って?」
山梨の山間部で育ち、しかも施設にいた頃はあまりTVを観る機会もなかった愛美にはピンとこない。
「旧財閥系の名門グループだよ。いくつも大きな会社とかホテルとか持ってるの。すごいセレブなんだー」
「スゴい……」
(やっぱり住む世界が違うなあ。わたし、ここでやっていけるのかな?)
中にはさやかみたいな子もいるかもしれないけれど、この学校の生徒は多分、ほとんどが名門とかいい家柄に生まれ育ったお嬢さまだ。
その中に一人、価値観の違う自分が放りこまれたことを、愛美は不安に感じた。
「――ねえ、愛美さんはどちらのご出身ですの? ご両親は何をなさってる方?」
「…………え?」
(ああ……、一番訊かれたくないことなのに)
珠莉がごく当たり前のように質問してきて、愛美の表情は曇った。
その様子に気づいたさやかが、助け船を出してくれる。
「ちょっと珠莉! ちょっとは空気読みなよ! 人には答えにくいことだってあるんだから!」
(さやかちゃん……、わたしに気を遣ってくれてる)
愛美はそれを嬉しく思う反面、彼女に対して申し訳ない気持ちになった。
「……さやかちゃん、いいの。――わたしは山梨の出身。両親は小さいころに亡くなってて、中学卒業まで施設にいたの」
「施設? あー……、そりゃあ大変だったねえ。じゃあ、学費とかは誰が出してくれてんの? 施設?」
愛美を気遣うように、さやかが言う。けれど、それは同情的な言い方ではなかった。
施設で育ったことを卑下していない愛美は、「かわいそうだ」と同情されるのが嫌いだ。県内の公立高校に進みたくなかったのも、中学時代の同級生から同情を広められるのがイヤだったから。
〈わかば園〉には、両親が健在でも様々な事情で両親と一緒に暮らせない子も何人かいた。涼介もそのうちの一人だ。
彼は実の両親からネグレクト、つまり育児放棄を受けていて、児童相談所に保護されたのちに〈わかば園〉で暮らすことになったのだ。
「ううん、施設にはそんな余裕ないって。でもね、施設の理事さんの一人が援助を申し出てくれたんだって。その人がいなかったら、わたし高校に入れないところだったの」
「そうなんだ……。よかったね」
「うん。名前は教えてもらってないんだけどね。その代わり、わたしはその人の秘書っていう人に毎月手紙を出すことになったの」
「へえ……、そうなんだ。――あ、着いた。じゃあまた、晩ごはんの時にねー」
「はーい」
部屋に着くまで、珠莉はほとんど愛美に話しかけてこなかった。
愛美にそれほど興味がないのか、それとも一人部屋を愛美に取られたことをまだ根に持っているのか……。
(まあ、いいんだけど。わたしは気にしないし)
珠莉に興味を持たれなくたって、さやかとは仲良くなれそうだからいいか。愛美はそう自分に言い聞かせた。
一歩部屋に足を踏み入れると、愛美は室内をしげしげと見回す。
ベッドや勉強机・椅子、クローゼットなどの大きな家具は一通り揃っている。こまごましたインテリアはまた買い揃えるとしても、とりあえずは生活していけそうだ。
クローゼットの扉を開けると、白い襟とリボンがついたダークグレーのセーラー服とスカートがかけられている。これがこの学校の制服である。
――それにしても、と愛美は思う。
「やっぱり似てるなあ、『あしながおじさん』のお話と」
これだけ同じようなことが起きれば、もう狙ってやっているとしか思えない。――さやかや珠莉と部屋が隣り同士になったのは偶然だとしても。
「でも、これ以上の偶然は起きないよね……。いくら何でも」
――そう、あれは物語の中の出来事。現実ではあんなに何もかもがうまくいくはずがないのだ。
愛美はいったんスーツケースをフロアーに置き、ベッドにダイブした。
低反発のマットレスに、ふかふかの寝具一式。寝心地もよさそうだ。
〈わかば園〉では畳の部屋に布団を敷いて寝ていたので、ベッドで寝るのが愛美の憧れでもあった。
「――あ、そうだ。小包み開けよう」
愛美はガバッ起き上がり、スーツケースを開いた。部屋に入るまでのお楽しみに取っておいたのを、ふと思い出したのだ。
「田中さんは何を送ってくれたのかな……?」
ワクワクしながらダンボール箱を開けると、クッション材が詰め込まれた中に大小一つずつの箱が入っている。小さい方の箱に書かれているのは携帯電話会社のロゴマーク。
もう一つはB4サイズくらいの箱で、こちらは少し重量がある。
「わあ……! スマホだ! ……あ、手紙も入ってる」
横長の洋封筒に入っている手紙を、愛美は開いた。
『相川愛美様
ささやかな入学祝いの品をお送りいたします。
料金は田中太郎氏が支払いますので、安心してお友達とのコミュニケーションツールとしてお使い下さいませ。
もう一点は作家を目指される愛美様のために、田中様が購入したものでございます。どうぞお役立て下さいませ。
改めまして、高校へのご入学おめでとうございます。 久留島栄吉』
「――どこまで太っ腹なんだか。田中さんって人」
入学祝いにスマホをプレゼントして、しかも料金まで支払ってくれるなんて……!
「もう一つの箱は……ノートパソコンだ。この寮、Wi―Fiついてるんだよね。さっそくセッティングしちゃおっと♪」
愛美はよく施設の事務作業を手伝っていたので、パソコンの扱いには慣れているのだ。壁紙やパスワードなどの初期設定は簡単にできてしまった。
――ところが、ここで一つ問題が起きた。
「スマホって、どうやって使うんだろう?」
パソコンの扱いには慣れているけれど、スマホどころか携帯電話自体を持つのが初めての愛美には、使い方が分からないのだ。
こういう時は説明書、と箱の底の方まで見てみても、入っているのは薄っぺらいスターターガイドだけ。読んでも内容がチンプンカンプンだ。
(使い方くらい、手紙に書いといてくれたらいいのに)
八つ当たり気味に、愛美は思う。けれど、それもあえて書かなかったのだろうか? 愛美がこういう時、どうするのかを試すために。
「う~ん……、どうしよう? ――あ、こういう時は……」
愛美はスマホを持ったまま部屋を飛び出し、隣りの部屋――さやかと珠莉の部屋である――のドアをノックした。
「さやかちゃん、愛美だけど! ちょっと助けて~!」
「どしたの?」
出てきたさやかは迷惑そうな顔ひとつせず、愛美に訊ねる。
「あのね、保護者の理事さんがスマホをプレゼントしてくれたんだけど。使い方が分かんなくて……。さやかちゃん、お願い! 教えてくれない?」
「スマホの使い方? もしかして初めてなの?」
「うん、そうなの。そもそもケータイ持つこと自体、初めてなんだ」
それは施設にいたから、ではない。愛美には親も親戚もいないから。
同じ施設にいても、親や親せきがいる子はケータイを持たせてもらっていた。愛美はそれを「羨ましい」と思ったことがなかったけれど……。
「いいよ、教えてあげる。愛美の部屋に行ってもいい?」
「うん! ありがと、さやかちゃん!」
愛美は大喜びで、さやかの両手を握った。さやかは成り行き上ルームメイトになった珠莉に一声かける。
「じゃあ珠莉、あたしちょっと隣りに行ってくるから」
「あらそう。どうぞご自由に」
珠莉は素っ気ない返事をしただけ。――まあ、まだ知り合ったばかりだし、そう簡単に打ち解けるわけがないだろうけれど。
「何あれ? カンジ悪~! ……まあいいや。行こう、愛美」
「う、うん」
戸惑う愛美を連れ、さやかは愛美の部屋へ。
「おっ、パソコンあるんだ。でもスマホは使えないの?」
「うん……。さやかちゃん、分かる?」
「スマホって、手に持ってるそれ? ちょっと貸して?」
「うん」
愛美が手渡すと、さやかは自分のスマホと見比べる。
「あ、これ、あたしのとおんなじ機種だ。だったら何とかなるかも」
「ホント?」
さやかは手際よく、いくつかの操作をして愛美にスマホを返した。
「とりあえず、取扱説明書のアプリ入れといたから。困った時はそれ開くといいよ。あと、あたしと珠莉のアドレスも登録しといたから」
「ありがとう、さやかちゃん」
「いいってことよ☆ 友達じゃん、あたしたち」
友達……。まだ今日出会ったばかりなのに、さやかは愛美のことをそう言ってくれた。
「うん……、そうだよね」
高校生活スタートの日に、早くも友達が一人できた。愛美は早速、この喜びを〝田中太郎〟氏に手紙で知らせようと思った。
――夕食と大浴場での入浴を済ませると、愛美は机の前に座った。
ちなみにこの寮にはそれぞれの部屋にも浴室があり、どちらで入浴しても自由なのだけれど、それはともかく。
新品の横書き便箋の表紙をめくり、ペンを取ってしばし悩む。
(手紙ってどう書いたらいいんだろう?)
考えてみたら、愛美はこれまでに手紙らしい手紙を書く機会がほとんどなかった。そのため、ちゃんとした書き方を知らないのだ。
悩んだ末、思ったことをそのまま書こうと結論づけ、便箋にペンを走らせた。
****
『拝啓、心優しい理事さま
横浜の茗倫女子大付属高校に到着しました。ここに来るまでは初めての経験が多くて、ワクワクしました。
この学校は大きくて、まだどこにどんな建物があるのか把握しきれていません。ちゃんと分かったら、お知らせしたいと思います。
そして、学校生活についても。今はまだ土曜日の夜です。入学式は月曜日ですが、「これからよろしくお願いします」とまずは一言ご挨拶したくてこの手紙を書き始めました。
このお話を聞いてから半年間、わたしはあなたのことをずっと考えてきました。「一体どんな人なんだろう?」って。
でも、あなたに関する情報がほとんどないので困っています。偽名だって、〝田中太郎〟なんて「いかにも偽名です!」みたいなお名前でしょう?
他に知っていることといえば……。
・長身だということ
・お金持ちだということ
・どうやら女の子が苦手らしいということ
の三つだけなんです。
というわけで、他の呼び方をわたしなりに考えてみました。
まずは「女性恐怖症さん」。でも、これじゃわたしの自虐になってしまいますね。本当にそうなのかもわかりませんし。
次に「リッチマンさん」。でも、これじゃあなたがお金持ちだということを皮肉っているみたいですよね。この不景気で、どれだけ頭の切れる人だって投資や株で失敗しますから。
でも、長身だということだけはずっと変わらないと思うので、わたしはあなたのことを「あしながおじさん」とお呼びすることにしました。勝手に決めてしまってすみません。お気を悪くしないで下さい。親しみをこめたニックネームですから。
最後に、スマホを送って下さってありがとうございます。早速できたばかりのお友達に使い方を教わりました。
もうすぐ消灯時間です。寮という一つの建物で大勢で生活していくんですから、ルールはきちんと守らないと。
では、失礼します。これからよろしくお願いします。 かしこ
四月三日 双葉寮二〇六号室 相川 愛美
田中あしなが太郎さま
P.S. こうしてきちんとルールを守っているの、偉いってほめて下さいますか? 施設で長く暮らしてきたの、伊達じゃないんですよ。』
****
――〝あしながおじさん〟こと田中太郎氏の住所は聡美園長から教えてもらっていて、手帳にメモしてある。
東京都世田谷区。住所からして、高級住宅地に住んでいるらしい。
(この住所で秘書さんの名前にして届くってことは、もしかして同じ家に住み込んでるのかな……?)
そんな疑問を抱きつつも、愛美は書き終えた手紙を四つ折りにして封筒に入れ、あて名を〈久留島栄吉様方 田中太郎様〉と書いた。
切手はここまで来る途中の郵便局で買った、きれいな切手シート。十枚が一シートになっていて、八百四十円だった。
果たしてこの切手シートがいつまでもつか。きっと新しい発見があるたびに、あしながおじさんに手紙を書くんだろうなと愛美は思った。
* * * *
この手紙は翌日にポストに投函し、そのさらに翌日――。
クローゼットの鏡の前で、愛美は真新しい制服に身を包んだ自分の姿を感慨深げに見つめていた。
(いよいよ、わたしの高校生活が始まるんだ――!)
「愛美ー、そろそろ行くよー」
「うん、今行く!」
廊下からさやかの呼ぶ声がする。黒のハイソックスのよれを直してから、愛美は返事をした――。
恋の予感……
――愛美の高校生活がスタートしてから、早や一ヶ月が過ぎた。
「愛美、中間テストの結果どうだった?」
授業が終わった後、二〇六号室に遊びに来ていたさやかが愛美に訊いた。
最初は殺風景だったこの部屋も、さやかと二人で買い揃えたインテリアのおかげで過ごしやすい部屋になった。
カーテンにクッション、センターラグに可愛い座卓。三年生が開催していたフリーマーケットで安く買えたものばかり。さやかのセンスはピカイチだ。
「うん、よかったよ。学年で十位以内に入った」
「えっ、マジ!? スゴいじゃん!」
愛美やさやかの学年は、全部で二百人いる。その中の十位以内というのだから、大したものだ。
「そうかなあ? でもね、あしながおじさんが援助してくれなかったら、わたし住み込みで就職するしかなかったんだ」
「へえ、そうなんだ……。じゃあ、そのおじさまにはホントに感謝だね」
さやかにも珠莉にも、あしながおじさんのことは打ち明けてある。二人とも、愛美のネーミングセンスは「なかなか個性的だ」と言っている。
……もっとも、このニックネームの出どころがアメリカ文学の『あしながおじさん』だということは話していないけれど。
「うん、ホントにね。――ところで、さやかちゃんと珠莉ちゃんの方はどうだったの? 中間テスト」
「…………う~~、ボロボロ。というわけで明日、補習あるんだ。二人とも」
「あれまぁ、大変だねえ……」
「そうなのよ~。高校の勉強ってやっぱ難しくなってるよね」
さやかだって、中学まではそれほど成績も悪くなかったはずだ。……珠莉の方はどうだか知らないけれど。
「でもさ、愛美は勉強はできるけど流行には疎いじゃん? こないだだって『〝あいみょん〟ってこの学年の子?』って訊いてたし。タピオカも知らなかったでしょ?」
さやかが愛美のやらかしエピソードを暴露した。
人気シンガーソングライター〝あいみょん〟を「この学年の子?」と言ってしまったのは、入学して間もない頃のことである。その話が学年全体に広まってしまったせいで、愛美は〝ボケキャラ〟認定されてしまったのだ。
「あれは……、ボケとかじゃなくてホントに知らなかったの! 施設にいた頃はあんまりTVも観られなかったし、近くにコンビニもなかったから」
流行に疎い愛美は、周りの子たちの会話になかなかついて行けない。さやかがいてくれなかったら、きっとクラスで一人浮いていただろう。
「あのさ、愛美。周りの子の話にピンとこない単語が出てきた時のアドバイス。そういう時は、スマホでググるといいよ」
「〝ググる〟?」
「うん。スマホ貸して?」
さやかにスマホを手渡すと、彼女は画面を操作しながら愛美に教えた。
「ここに〝G〟のついてる検索エンジンあるじゃん? この部分に調べたい単語を打ち込んで、検索のキーを押すの。そしたら検索した結果がいっぱい出てくるから」
「なるほど……。ありがと、さやかちゃん! わたしもやってみる!」
愛美はさやかにスマホを返してもらうと、早速検索エンジンに「あいみょん」と打ち込んでみた。
「へえ……、こういう人なんだ。一つ知識が増えた。ありがとね、さやかちゃん!」
「いいのいいの。また何か分かんないことあったら訊いてね」
「うん!」
知らなかったことを一つ知れたことももちろんだけれど、スマホを通じてまたさやかと親しくなれたことが、愛美は嬉しかった。
「っていうか、部屋にパソコンあるんだからさ、そっちでも調べものできるじゃん?」
「あ、そっか。そうだよね」
言われてみればそうだ。パソコンにも検索機能はついているのに、愛美はまだうまく活用できていない。
「――ところでさ。夏休みの予定ってもう決まってる? 行くとこあんの?」
さやかが唐突に話を変えた。まだ五月の半ばだというのに、早くも夏休みの話題を持ち出す。
「ううん、まだ何も。おじさまに相談しようとは思ってるけど……。施設に帰るわけにもいかないし」
「だよねえ」
どうやらさやかも、愛美がそう答えるらしいことは予想していたようだ。
「? 何が訊きたいの、さやかちゃん?」
「いや、せっかく女子高生になったのにさあ、女子校だと出会いがないなあと思って。夏休みになれば、恋のチャンスもあるかなーって」
「恋……」
愛美の口からは、それ以上の言葉が出てこない。何せ、恋の経験が全くないのだから。
「ねえ、愛美のいた施設って男の子もいたよね? そこから恋に発展したりは?」
「ええっ!? ないよぉ。施設にいた男の子はみんな兄弟みたいなもんだったし」
「じゃあ、中学までの同級生とかは? 男女共学だったんでしょ?」
さやかはなおも食い下がる。
「それもないよ。だって、学校の男の子たちからは同情しかされなかったもん。わたし、施設で育ったからって同情されるの大っキライなの」
「そうなんだ……。じゃ、今まで一度も恋したことないの?」
「うん、まあそうなるよね。……でも、初恋がまだって遅いのかな? 世間的には」
自分が世間的にズレていることは愛美自身も分かっていたし、ずいぶん気にしてもいた。
中学時代の友達の中には、好きな人どころか「彼氏がいる」という子もいた。愛美は「自分は自分、焦る必要なんかない」と自分に言い聞かせていたけれど、やっぱり少しくらいは焦るべきだったんだろうか?
「まあ、それは人それぞれでしょ。気にすることないよ。あたしもおんなじようなもんだし」
「えっ、そうなの?」
「うん。なんかねえ、同世代の男ってガキっぽく見えるんだよね。だから異性に興味なかったの」
さやかはクールに答えた。
確かに愛美も、同じ年代でも女子の方が考え方が大人で、男子の方が子供っぽいと雑誌か何かで読んだことがあったかもしれない。
「そっか。でも、そうだね。これから先、わたしたちにもいい出会いがあるかもね」
「うん、そうだねー。――あ、あたしはそろそろ部屋に戻るよ。宿題やんなきゃ」
さやかは学校が終わるなり、制服のまま愛美の部屋に来ていた。
おしゃべり夢中になっているうちに、夕方の五時半になっていたのだ。あと三十分ほどで夕食の時間になる。
「うん。またご飯の時にねー」
愛美も立ち上がって、部屋の入り口までさやかを見送りに行った。……といっても、部屋は隣り同士なのでけれど。
「わたしも着替えなきゃ」
愛美も制服のままだったので、長袖のカットソーとデニムパンツに着替えると、勉強机の上に国語の宿題を広げる。
(……そういえば今日、国語の先生に褒められちゃったな……)
宿題を片付けながら、愛美は思い出し笑いが止まらない。
それは、この日の国語の授業が終わった後のこと。愛美は国語の教科担当の女性教諭に呼び止められたのだ。
――『相川さん、ちょっといい?』
『はい。何でしょうか?』
女性教諭はニコニコしながら、愛美にこう言った。
――『中間テストの最後の問題に出したあなたの小論文なんだけど、着眼点が面白かったわ。なかなか独創性豊かだったわよ。あなたは確か、小説家になるのが夢だったわね?』
『はい、そうですけど』
『やっぱりね。だからなのね、発想がユニークなのは。あなたになら、面白い小説が書けそうね。私も楽しみだわ』
『ありがとうございます!』
定年間近の女性教諭は、どことなく〈わかば園〉の聡美園長に似ている。愛美のお気に入りの先生の一人だ。
そんな先生から期待されたら、愛美にもますます「頑張ろう!」という意欲が湧いてくるというものである。
「よぉーっし! これからもっと文章力磨くぞー♪」
愛美は俄然やる気になったのだった。
* * * *
――その翌日。六限目までの授業が終わり、愛美がスクールバッグを持って寮に戻ろうとしていたところ。
「――ええっ!? 今からいらっしゃるんですの!?」
スマホで誰かと電話をしているらしい珠莉の戸惑う声が、廊下から聞こえてきた。
(……珠莉ちゃん? 誰と話してるんだろう?)
愛美は首を傾げた。でも、誰か珠莉の知り合いがこれからこの学園を訪ねてくるらしいことだけは何となく分かる。
「もう近くまで来てらっしゃる!? ムリですわ! 私、これから補習授業がありますのに!」
珠莉は相当困っているらしい。
補習を受けなければならないのは中間テストの成績が思わしくなかったからで、それは自業自得なのだけれど。相手は珠莉の都合などお構いなしのようで、愛美としてもちょっと彼女がかわいそうに思えてきた。
「……分かりましたわ。私は案内して差し上げられませんけど、誰かに代わりをお願いします。それでも構いません? ……ええ、そうですか。じゃあ、失礼致します」
通話を終えた珠莉は、大きなため息をついていた。
「珠莉ちゃん。電話、誰からだったの?」
「あら、愛美さん。叔父からですわ。これからこの学校を訪問するから、案内を頼みたいっておっしゃられて」
「叔父さま……」
(……あれ? 確か『あしながおじさん』にもこんなシチュエーションが出てきたような)
愛美はふと思い当たり、そして次の展開の予想もできた。
(この流れだと、もしかして……)
「ねえ愛美さん。あなたは今日、これで学校終わりよね?」
「えっ? ……あー、うん。補習受けなくていいし」
(やっぱり)
愛美の予想は的中したようだ。珠莉はどうやら、愛美に叔父の案内役を頼むつもりらしい。
「なになに? 何のハナシ?」
いつの間にか、さやかも廊下に来ていた。
「じゃあ、あなたに叔父の案内をお願いするわ。補習は四時半ごろ終わる予定だから、その頃に私を電話で呼んで下さいな」
「ちょっと珠莉! 愛美にだって断る権利くらいあるでしょ!? そんな一方的に――」
さやかが愛美を擁護する形で、二人の間に割って入った。
「いいよ、さやかちゃん。珠莉ちゃん、わたしでよかったら引き受けるよ」
とはいえ、嫌々でもなかった愛美は快く珠莉の頼みを受け入れた。
実は内心、珠莉の叔父という人物がどんな人なのか興味があったのだ。
「いいの、愛美? 引き受けちゃって」
「うん、いいの。今日は宿題もないし、部屋に戻っても本を読むくらいしかやることないから」
「あら、そうなの? ありがとう、愛美さん。じゃあお願いね。――さやかさん、補習に遅れますわ。行きましょう」
「え? あー、うん……。いいのかなあ……?」
さやかは少々納得がいかないまま、後ろ髪をひかれるように珠莉に補習授業の教室まで引っぱっていかれた。
愛美は一旦部屋に戻ると、私服――デニムのシャツワンピース――に着替え、寮の管理室の隣にある応接室のドアをノックした。
「失礼しまーす……」
中に入ると、そこにいたのは寮母の晴美さんと、スラリとした長身らしい三十歳前後の男性だった。
整った顔立ちをしていて、落ち着いた雰囲気の持ち主だ。高級そうなベージュのスーツをキッチリと着こなしている。彼が珠莉の叔父という人だろうと愛美には分かった。
「あら、相川さん。いらっしゃい」
「晴美さん、こんにちは。――あの、珠莉ちゃんの叔父さま……ですよね? わたし、珠莉ちゃんの友人で相川愛美といいます」
「ああ、君が珠莉の代わりか。僕は辺唐院純也です。珠莉の父親の末の弟で、珠莉とは十三歳しか歳が離れてないんだ」
彼の爽やかな笑顔からは、とてもイヤなセレブ感は感じ取れない。
(なんかステキな人だなあ……。珠莉ちゃんとは似てないかも)
「愛美ちゃん……だったね? 早速だけど、学校内の案内をお願いできるかな?」
「相川さん、お願いね」
晴美さんにまで頭を下げられ、愛美は快く頷いた。
「はいっ! じゃあ行きましょう、純也さん」
(あ……、しまった! いきなりコレは馴れ馴れしすぎたかな)
愛美は初対面の彼を〝純也さん〟と呼んでしまい、ちょっと反省してしまった。今までこの年代の男性とはほとんど接点がなかったため、距離感がうまくつかめないのだ。
……けれど。
「ありがとう、愛美ちゃん。行こうか」
純也に不快そうな様子はなく、彼の笑顔が崩れることもなかったので、愛美はホッとした。
純也と二人、応接室を出た愛美は彼を案内して歩きながら、彼と話をしていた。
「――あれが体育館で、あの建物が図書館です。で、あの大きな建物は大学の付属病院で、その先は大学の敷地になります」
「へえ、大学はまた別の敷地なんだね。じゃあ、学生寮も高校とは別?」
「はい。だから、進学したら寮も引っ越すことになるそうです」
もう入学して一ヶ月以上が経過しているので、愛美も学園内の建物の配置はほぼ頭に入っている。
「――ところで、純也さんってすごく背がお高いんですね。何センチくらいあるんですか?」
まず彼女が訊ねたのは、彼の身長のこと。
応接室のソファーに腰かけていた時の座高も高かったけれど、こうして並んで歩いていると四十センチはありそうな彼との身長差に愛美は驚いたのだ。
「百九十センチかな。ウチの家系はみんな背が高くなる血筋みたいでね」
「ああ、分かります。珠莉ちゃんも背が高いですもんね」
ちなみに、珠莉の身長は百六十三センチらしい。
「わたしは百五十しかなくて。だから珠莉ちゃんが羨ましいです」
愛美はよく、「小さくて可愛い」と言われるけれど。本人はあまり嬉しくない。「せめてあと五センチはほしい」と思っているのだ。
「まだ成長途上だろう? これからまだ伸びるんじゃないかな。だから気にすることないと思うけどな、僕は」
「はい……。そうですよね」
「ご両親も小柄な人だったの?」
「さあ……。わたし、施設で育ったんです。両親はわたしがまだ物心つく前に亡くなったらしくて」
「そっか……。何だか悪いこと聞いちゃったみたいだね。申し訳ない」
「いえ! そんなことないです。わたしが育った施設はいいところでしたから」
純也に謝られ、その口調から同情が感じられなかったので、愛美は笑顔でそうフォローした。
そしてこう続ける。
「その施設を援助して下さってる理事のお一人が、わたしが中学の宿題で書いた作文を気に入って下さって。その方のおかげでこの学校に入れたんです、わたし。小説家になるっていう夢も応援して下さってるみたいで」
「小説家を目指してるの?」
「はい。幼い頃からの夢なんです。わたしが書いた小説を一人でも多くの人に読んでもらって、『面白い』って感じてもらえたら、と思って。――あ、すみません! つまらないですよね、こんな話」
つい熱く自分の夢を語ってしまった愛美は、ハッと我に返った。
(からかわれるかな、コレは……)
もしくは呆れられるだろうか? 「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見た方がいい」とか。
――ところが。彼の反応は愛美のどちらの予想とも違っていた。
「いや、ステキな夢だね。僕も読書が好きだから、君の夢が叶う日が楽しみだよ」
(え……?)
いかにも現実的そうな珠莉の叔父なのに、純也も自分の夢を応援してくれるらしい。――愛美の胸が温かくなった。
「はい! ありがとうございます!」
(やっぱりこの人、珠莉ちゃんと似てないな)
「純也さん、次はどこがご覧になりたいですか?」
愛美は彼と一緒にいられるこの時間を、もっと楽しもうと思った。
* * * *
――学校内の広い敷地を歩き回ること、三十分。
「愛美ちゃん、この学校は広いねえ。ちょっと疲れたね。どこか休憩できる場所はないかな?」
純也が愛美を気遣い、そう言ってくれた。
実は愛美も、少し休みたいと思っていたところだったのだ。
「はい。じゃあ……、あそこの松並木の向こうにカフェがあるんで、そこでお茶にしませんか? 行きましょう」
「うん」
純也が頷き、二人は歩いて三分ほどのところにあるカフェに入った。
「――なんか、今日は空いてるね。いつもこんな感じなの、ここは?」
月半ばのせいか、店内はガラガラに空いていた。
「いえ。多分、月半ばだからみんな金欠なんじゃないですか。お家から仕送りがあるの、大体二十五日以降ですから」
「ああ、なるほど」
(そういうわたしのお財布の中身も、そろそろピンチなんだけど)
愛美は自分の財布を開け、こっそりため息をつく。
〝あしながおじさん〟から今月分のお小遣いが現金書留で送られてくるのも、それくらいの頃なのだ。
「愛美ちゃん、支払いのことなら心配しなくていいよ。ここは僕が払うから」
「えっ? ……はい」
またも表情を曇らせていた愛美を気遣い、純也はそう言ってくれたけれど。全額彼に払ってもらうのは愛美も気が引けた。
金額次第では、自分の分くらいは自分で……と思っていたのだけれど。
「すみません。ここのオススメは何ですか?」
純也はテーブルにつくなり、女性店員に声をかけた。
「そうですね……。季節のフルーツタルト、シフォンケーキ、あと焼き菓子やアイスクリームなんかも人気ですね」
「いいね、それ。じゃ、イチゴタルトとシフォンケーキと、マドレーヌとチョコアイスを二人分。あと紅茶も。ストレート……でいいのかな?」
「あ……、はい」
愛美は訊かれるまま返事をしたけれど、メニューも見ないでドッサリ注文した純也に肝が冷えた。
店員さんはオーダーを伝票に書き取り、さっさと引き上げていく。
(えーっと、コレ全部でいくらかかるの?)
彼女はメニューに書かれた価格とにらめっこしながら、頭の中で電卓を叩いてみた。
(イチゴタルトが六百五十円、シフォンケーキが四百円、マドレーヌが百五十円、チョコアイスが二百円、紅茶が四百五十円。これを二倍すると……、三千七百円! 一人前で千八百五十円!?)
先ほども言ったけれど、愛美は現在金欠である。「自分の分だけでも払おう」と思っていたけれど、この金額ではそれもムリだ。
「純也さん……。ちょっと頼みすぎじゃないですか?」
「大丈夫だよ。支払いは僕が持つって言っただろう? それに、僕は甘いものが好きでね。いつもこれくらいの量は平らげちゃうんだ」
「はあ、そうですか。――じゃあせめて、珠莉ちゃん呼びましょう。そろそろ補習も終わる頃だと思うんで」
愛美がポケットからスマホを取り出し、珠莉に連絡を取ろうとすると、純也に止められた。
「いや、いいよ。高校生がカフェインを摂りすぎるのはよくないし、あまり姪には気を遣わせたくないんだ」
「あの……、それ言ったらわたしも同じ高校生なんですけど」
今日知り合ったばかりの相手なのに、ついツッコミを入れてしまう愛美だった。
「……ああ、そうだったね。でも、それは建前で、本当は僕、あの子が苦手でね」
「えっ、そうなんですか? 身内なのに?」
純也の思わぬ言葉に、愛美は目を丸くした。仮にも姪の友人に対して、何というカミングアウトだろう。
「うん。珠莉は小さい頃からワガママで、僕の顔を見るなり小遣いの催促をしてきて。その頃から『可愛くない子だな』と思ってたんだ」
(……やりそう。あの珠莉ちゃんなら)
入寮の日の一件を目の当たりにしていた愛美である。自分の部屋が一人部屋ではないことが気に入らないと、学校職員にかみついていた彼女なら、幼い頃からワガママだったと聞いても納得できる。
……けれど。
「そんなこと、わたしに言っちゃっていいんですか?」
愛美の口から、珠莉の耳に入るかもしれないのに。
「ハハハッ! マズいかな、やっぱり。珠莉にはこのこと内緒で頼むよ」
「はい、分かってます」
純也は話していると楽しい人物のようだ。愛美も自然と笑顔になった。
そして何故か、愛美は彼に対して妙な懐かしさのような感情をおぼえた。
「――でも、いいなあ。その年でもうやりたいことがあるなんて。正直羨ましいよ。僕は経営者の一族に生まれたせいで、夢なんて持たせてもらえなかったからね」
注文したものがテーブルに届き、紅茶をストレートで飲みながら、純也がしみじみと言った。
「えっ? じゃあ純也さんも社長さんなんですか? そんなにお若いのにスゴいですね」
〈辺唐院グループ〉の一員ということは、当然そうなるだろう。――もっとも、ここにいる彼は一見そう見えないのだけれど。
「いやあ、僕はそんなに大したもんじゃないよ。グループの一社の経営を任されてるだけでね。でも、僕の好きなようにはさせてもらってるよ。身内はうるさいけどね」
彼は淡々と語っているけれど、それって他の親族たちから浮いているということじゃないだろうか? 疎外感を感じたりしないのだろうか? ――愛美はそう考えた。
(ある意味、この人もわたしと同じなのかも)
「そもそも、ウチの親族は僕のことをあんまりよく思ってないみたいなんだ。でも愛美ちゃんは、亡くなったご両親からちゃんと愛されてたみたいだね」
「……えっ? どうして分かるんですか?」
思いがけないことを言われ、愛美は目を瞠った。
彼に自分の亡き両親と面識があったとは、とても思えないのだけれど。
「珠莉から教えてもらったんだけど、愛美ちゃんの名前って〝愛されて美しい〟って書くんだよね? そんなキレイな名前、君のことを大事に思ってなければ付けられないよ、きっと」
「……はあ」
「ほら、『名前は両親が我が子に与える最初の愛情だ』っていうだろう? 〝愛美〟って名前、すごくステキだね。僕は好きだな」
「あ…………、ありがとうございます」
(なんか……すごく嬉しい。お父さんとお母さんのこと、こんなに褒めてもらえて)
それに……、愛美は純也に初めて会った時から、心が妙にザワザワするのを感じていた。
まだ名前も分からないこの感情は、一体何なんだろう――? と。
「こんなに可愛い一人娘を遺して亡くなってしまって。ご両親はさぞ無念だったろうなあ……」
「…………可愛いだなんて、そんな。でも嬉しいです」
(――あ、まただ。何だか胸がキュンって。コレって何? わたし、どうなっちゃってるの?)
彼に優しい言葉をかけられるたび、笑いかけられるたびに、愛美の心はザワつく。
でも、それは決して不快ではなくて。むしろ心地よい感覚だった。
* * * *
――信じられないことに、注文した品を二人がすっかり平らげてしまった頃。
「すみません、純也さん。わたし、ちょっとお手洗いに」
「ああ、うん。どうぞ」
――ものの数分で愛美が戻ってくると、純也はスマホに誰かからの電話を受けていたようで、せわしなく通話を終えようとしているところだった。
「愛美ちゃん、すまない。僕はここの支払いを済ませたら、急いで帰らなきゃならなくなったんだ。だから今日、珠莉に会う暇がなくなった」
「えっ、そうなんですか? 大変ですね」
純也は急いで席を立つと、レジで二人分の支払いをしてくれた。愛美も後ろからついていく。
「愛美ちゃん、今日はありがとう。楽しかったよ。珠莉によろしく伝えておいてくれるかな?」
「はい、もちろんです」
「よろしく頼むよ。じゃあまた」
「……はい。また」
純也は車が迎えに来るらしく、駆け足で校門の方まで行ってしまった。
(…………また? 〝また〟ってどういうこと?)
彼をポカンと見送っていた愛美は、首を捻った。
普通に考えたら、今日は会えなかった姪の珠莉に会うために〝また〟来るという意味だろう。でも、もしもそういう意味じゃないとしたら……。
(……なんて考えてる場合じゃなかった! 珠莉ちゃん待たせてるのに!)
しかも、彼女に会わずに純也は帰ってしまった。どちらにしても、怒られることは予想がつく。けれど、彼女の元に戻らないわけにもいかない。
(はぁー……、珠莉ちゃんになんて言い訳しよう?)
足取り重く、愛美が寮に帰っていくと、ちょうど補習授業を終えたさやかと珠莉も戻ってきた。
「愛美ー、おつかれ。補習終わったよー」
「愛美さん、今日はどうもありがとう。ムリなお願いをしてごめんなさいね。――ところで愛美さん、純也叔父さまはどちらに?」
(う……っ!)
珠莉に痛いところを突かれ、言い訳する言葉も思いつかない愛美はしどろもどろに答える。
「あー……、えっと。なんか急に帰らないといけなくなったっておっしゃって、ついさっき帰っちゃった……よ」
「はあっ!? 『帰られた』ってどういうことですの!? 私、言いましたわよね。補習が終わる頃に知らせてほしい、って」
(ああ……、ヤバい! めちゃくちゃ怒ってる!)
怒られる、と覚悟はしていた愛美だったけれど、予想以上の珠莉の剣幕にはさすがにたじろいだ。
「純也叔父さまはあの通りのイケメンですし、気前もいいしで女性からの人気スゴいんですのよ! あなた、叔父さまを横取りしましたわね!?」
「別にそんなワケじゃ……。珠莉ちゃんには連絡しようとしたの。でも、純也さんに止められて」
「純也さん!?」
「まあまあ、珠莉。もしかしてアンタ、叔父さまにお小遣いねだろうと思ってたんじゃないの? だからそんなに怒ってるんだ?」
さやかは、珠莉が怒っている原因を「彼女自身が疚しいからだ」と見破った。
「そ……っ、そんなんじゃありませんわ! さやかさん、何をおっしゃってるんだか、まったく」
(こりゃ図星だな)
さやかの読みは多分当たっているだろうと愛美も思った。
「言っとくけど、純也さんとは学校の敷地内歩きながらおしゃべりして、カフェでお茶しただけだから。――おごってもらっちゃったけど」
「なんですって!?」
「はい、どうどう。――それより愛美、アンタ顔赤いよ? どしたの?」
さやかはまだ怒り狂っている珠莉をなだめつつ、愛美の変化にも気がついた。
「えっ? ……ううん、別に何もないよ?」
慌ててごまかしてみても、愛美の心のザワつきはまだおさまらなかった。
(ホントにもう! わたし、どうなっちゃったの――?)
* * * *
――それから数日間、愛美は純也のことばかり考えていた。
夜眠ろうとすれば夢の中にまで登場し、土日は寝不足で欠伸ばかり。三日経った今日は一限目から上の空で授業なんて耳に入らない。
「愛美、なんかここ数日様子がヘンだよ。ホントにどうしちゃったの?」
普段は大らかなさやかも、さすがに心配らしい。けれど、愛美自身にはその原因が何なのか分かっていないため、答えようがない。
六限目までの授業を全て終え、寮に戻ってきた愛美・さやか・珠莉の三人はまず寮監室に立ち寄った。普通郵便は個人の郵便受けに届くけれど、書留や小包みなどは寮監の晴美さんが預かり、本人に手渡されることになっている。
そして今日は、愛美が待ちに待った〝あしながおじさん〟からの現金書留が届く日なのだ。
「お帰りなさい。相川さん、現金書留が来てますよ」
「わあ! 晴美さん、ありがとうございます!」
愛美は満面の笑みでお礼を言い、晴美さんから封筒を受け取った。開けてみると、中身はキッチリ三万五千円!
「コレでやっと金欠から脱出できる~♪」
何せ、財布の中には千円札が二・三枚しか入っていなかったのだから。
「――あ、それから。辺唐院さんには荷物が届いてますよ」
「はい? ……ありがとうございます。――あら、純也叔父さまからだわ」
珠莉が受け取ったのは、レターパック。差出人は純也らしい。
「えっ、純也さんから? 何だろうね?」
愛美もワクワクして、珠莉とさやかの部屋までついていった。彼女も中身が気になるのである。
何より、理由は分からないけれど気になって仕方がない純也からの贈り物なのだから。……自分宛てじゃないけれど。
「あら、チョコレートだわ。三箱もある。しかもコレ、ゴディバよ! 高級ブランドの」
開封するなり、珠莉が歓声を上げた。
「えっ、マジ!? 一粒五百円もするとかいう、あの!? っていうか、なんであたしの分まで」
「あ、待って下さい。メッセージカードが付いてますわ。――『金曜日はありがとう。珠莉と愛美ちゃんにだけお礼を送るのは不公平だと思って、珠莉のルームメイトにも送ることにした』ですって」
「なぁんだ、義理か。でもあたし、チョコ好きだし。ありがたくもらっとくよ。でもコレ、もったいなくていっぺんには食べられないね。……ね、愛美?」
「…………えっ? あー、うん。そうだね」
さやかに話を振られ、愛美の反応が1テンポ遅れる。そこをさやかが目ざとくツッコんできた。
「やっぱりヘンだよ、愛美。どうしちゃったのよ?」
「うん……。ねえ、さやかちゃん。わたしね、金曜日からずっと純也さんのことが頭から離れないの。夢にも出てくるし、授業中にもあの人のことばっかり考えちゃって。……この気持ち、何ていうのかな?」
さやかはその言葉を聞いて、全てを理解した。
「それってさあ、〝恋〟だよ。愛美、アンタは純也さんに恋しちゃったんだよ」
「恋? ――そっか、これが〝恋〟なんだ……」
愛美もそれでしっくり来た。生れてはじめての感情なのだから、誰かに教えてもらわなければこれが何なのか分からないままだったろう。
「にしても、初恋の相手が友達の叔父で、十三歳も年上なんて。大変かもしんないけど、まあ頑張って。……ところで珠莉、純也叔父さんって独身なの?」
確かに、彼くらいの年齢なら既婚者でもおかしくはないけれど。愛美は彼からそんな話は聞いていない。
「ええ、そのはずですわ。叔父の周りには打算で近づいてくる女性しかいらっしゃらないから、そもそも女性不信ぎみなんですって」
「女性……不信……」
愛美の表情が曇る。自分だって女の子だ。好きになってもらえるかどうか。
「大丈夫だって、愛美! アンタに打算なんてないでしょ? 彼がお金持ちだからとか、名家の御曹司だからって好きになったんじゃないでしょ?」
「うん。それはもちろんだよ」
お茶代だって、金欠でなければ自分の分は払うつもりでいたのだから。
「だったら可能性あるよ、きっと。だから自信持ってよ」
「うん! ありがと、さやかちゃん!」
愛美は大きく頷くと、チョコレートの箱を大事そうに抱えて自分の部屋に戻った。
――初めての恋。このドキドキの体験を、〝あしながおじさん〟に知ってもらいたい。愛美は便箋を広げ、ペンを取った。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
この学校に入学してから早いもので一ヶ月半が経ち、学校生活にもだいぶ慣れてきたところです。
わたしは勉強こそできますが、どうも流行には疎いらしくて、クラスの子たちの話題になかなかついていけません。そんな時はさやかちゃんに訊いたり、スマホで調べたりするようにしてます。
ところでおじさま、聞いて下さい。わたし、どうも初めて恋をしてしまったみたいです。
お相手の方は、珠莉ちゃんの親戚で辺唐院純也さんという方。珠莉ちゃんのお父さまの一番下の弟さんだそうで、手短にいえば珠莉ちゃんの叔父さまにあたる人です。
彼はおじさまと同じくらい背が高くて、優しくて、ステキな方です。ご自身も会社の社長さんらしいんですけど、お金持ちであることをまったく鼻にかけたりしないんです。「むしろ、自分は一族の中で浮いてるんだ」なんておっしゃってたくらいで。
金曜日、学校を訪れた彼を、補習があって抜けられない珠莉ちゃんに代わってわたしが案内してさしあげて、学園内のカフェでお茶もごちそうになりました。
本当はわたし、自分の分だけでも払いたかったんですけど、残念ながら金欠で。一人分で千八百五十円もかかったんですもん。
ところが、彼は珠莉ちゃんに会う前に急にお帰りになることになっちゃって。わたしに「またね」っておっしゃって行かれました。
多分、本当は珠莉ちゃんに会いたくなかったんじゃないかとわたしは思ってるんですけど。どうやら彼は、珠莉ちゃんのことが苦手らしいので。
珠莉ちゃんは叔父さまに会えなかったから、わたしが叔父さまを横取りしたってめちゃくちゃ怒ってました。
あの叔父さまはものすごくイケメンで、気前がいいから女性にすごく人気があるんだそうです。そして、彼女はどうも、叔父さまにお小遣いをねだろうと思ってたみたいです。
それ以来、珠莉ちゃんはわたしと口もきいてくれなかったんですけど。今日純也さんから「金曜日のお礼に」って高級なチョコレートが三箱届いて(さやかちゃんの分もありました)、すっかり彼女の機嫌は直ったみたいです。
わたしはというと、あの日からずっと純也さんのことが頭から離れなくて。夜眠れば夢に出てくるし、授業中もついついあの人の顔が浮かんできて、得意なはずの国語の授業中に先生の質問に答えられなくて注意されました。
こんなこと、生まれて初めての経験で。「これはなんていう感情なの?」って二人に訊いたら、さやかちゃんが教えてくれました。「それは〝恋〟だよ」って。
恋をするって、こういうことだったんですね。本では読んだことがあったけど、実際に経験するのはまた別の感覚です。ドキドキしてワクワクして、フワフワした気持ちです。
もちろん、おじさまはわたしにとって特別な存在です。なので、いつかおじさまもわたしに会いに学校まで来て下さらないかな。校内を案内しながらおしゃべりしたり、お茶したりして、わたしとおじさまの相性がいいのか確かめたいです。それで、もしも相性が悪かったら困っちゃいますけど、そんなことないですよね? おじさまはきっと、わたしを気に入って下さるって信じてます。
では、これで失礼します。大好きなおじさま。
五月二十日 愛美より 』
****
手紙の封をし終えると、愛美は純也が送ってくれたチョコレートを一粒口に運んでみた。
「美味しい……。こんな美味しいチョコ食べたの初めてだ」
それが高級ブランドのチョコレートだからなのか、好きな人からの贈り物だからなのかは分からない。
でも、愛美はできれば後者であってほしいと思った――。
ナツ恋。
――六月。横浜もすっかり梅雨入りしており、茗倫女子大付属の制服も夏服――リボン付きの白い半袖ブラウスにグレーのハイウエストのジャンパースカート――へと衣替えした。
「はい、愛美。じっとして、動かないで!」
ここは〈双葉寮〉の二〇七号室。さやかと珠莉の部屋である。
放課後のひととき、長い黒髪が自慢(?)の愛美は、さやかの手によってそのロングヘアーをいじられ……もといアレンジされていた。
「――はい、できた! 愛美、鏡見てみなよ。すごく可愛くなったから」
「えっ、どれどれ? ……わあ、ホントだ!」
さやかから差し出されたスタンドミラーを覗き込んだ愛美は、歓声を上げた。
鏡に写っている愛美の髪形は、プロの美容師がやってくれるような編み込みが入った可愛いヘアスタイルになっている。TVの中のアイドルや女優・モデルなどがよくしているのを、愛美も見ていた。
「スゴ~い、さやかちゃん! 手先、器用なんだね。もしかして美容師さん目指してるの?」
「ううん、そんなんじゃないんだけどさ。ウチ、小さい妹がいてね。中学時代はよく妹の髪いじってたんだ」
さやかの口から、父親以外の家族の話題が出たのは初めてだ。
「妹さん? 今いくつ?」
「今年で五歳。この春から幼稚園に通ってるよ」
「へえ……。可愛いだろうね」
愛美はそう言って、山梨にある〈わかば園〉の幼い弟妹たちに思いを馳せた。
施設を出るまで、愛美がずっと世話してきた可愛い弟妹たち。みんな元気かな? 今ごろみんなどうしてるんだろう――?
「――っていうかさ、愛美。たまには違うヘアースタイルにするのもいいもんでしょ? いつも下ろしてるから。暑くなってきてるしさ」
「うん。たまにはいいかもね。だってわたし、中学の頃はずっと三つ編みかお下げしかしてなかったんだよ」
「え~、もったいない。こんなにキレイな髪してるのに。好きな人もできたことだしさ、ちょっとはオシャレに気を遣ってもいいかもよ?」
さやかが茶化すように言って、ウシシと笑う。〝好きな人〟というフレーズに、愛美の顔が赤く染まった。
まだ恋を自覚して半月ほどしか経っていないのだ。しかも初恋なので、この状況に慣れるにはまだまだ時間がかかるのである。
「もうっ! さやかちゃん、からかわないでよっ! わたし、まだ恋バナとか慣れてないんだから!」
「はいはい、分かった! 悪かったよ! でもあたし、アンタの髪いじるの楽しいんだ。だから、時々はアレンジさせてよね。だって、珠莉はイヤっしょ? あたしみたいな素人に髪いじられんの」
珠莉も少し茶色がかってはいるけれど、愛美に負けないくらいキレイなロングヘアーなのだ。さやかとしては、愛美と同じくらいいじり甲斐がありそうなのだけれど……。
「ええ。私は行きつけのヘアサロンの美容師さんにしか、ヘアケアはお任せしませんの。私の髪はデリケートなのよ。素人が触ろうものなら、すぐに傷んでしまうわ」
「……あっそ。だろうと思った」
当初は珠莉といがみ合っていたさやかも、もう二ヶ月もルームメイトをしていたらすっかり彼女の扱いに慣れたようだ。多少のイヤミや高飛車な態度くらいはスルーできるようになったらしい。
「そういえば、もうじき夏休みですけど。お二人はご予定決まってらっしゃるの?」
珠莉がやたら得意げな顔で、二人に訊いてきた。これはもう、自慢話をする気満々だと、愛美にもさすがに分かる。
「そういうアンタはとっくに決まってそうだね? 珠莉」
「ええ。私はヴェネツィーアに行くんですのよー。ああ、今から楽しみだわー♪」
「……ふーん。よかったね」
イタリアの都市ヴェネチアをイヤミったらしくイタリア語風に発音し、歌うように答えた珠莉を、さやかは鼻であしらった。「コレだからセレブは」とかなんとかブツブツ言っている。
「さやかちゃんは?」
「ああ、ウチは長瀞でキャンプ。お父さんがキャンプ場の会員でね、毎年行ってんだ。あとは実家でまったり、かな」
「へえ、キャンプか。いいなあ……」
愛美も実は、施設にいた頃に一度だけ、施設のイベントでキャンプをしたことがあるのだ。みんなで力を合わせて火をおこしたり、ゴハンを炊いたり、カレーを作ったり。すごく楽しかったことを覚えている。
「愛美は? まだおじさまに相談してないの?」
「うん……。もうそろそろ相談してみようかなーとは思ってるけど」
実は、つい数日前に〝あしながおじさん〟に手紙を出したばかり。その時には、夏休みをどうするか相談するのを忘れていた。
(おじさまもお忙しいだろうし、あんまりしょっちゅう手紙出されても困っちゃうよね……)
「最悪、寮に居残るのもアリかなーとも思ってたり」
「ダメダメ! せっかくの夏休みなんだよ!? 高校生活で最初のバケーションなんだからさあ、思いっきり楽しまないと!」
「う、うん……。そうだね」
ついついさやかのペースに乗せられ、頷いてしまう愛美だった。
さやかは周りを自分のペースに巻き込みがちだけれど、愛美はそれが楽しくて仕方がないのだ。
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ ……
「……あれ?」
愛美の制服のポケットで、スマホが震えている。この長い震え方からして電話みたいだ。
「――あ、ゴメン! 電話かかってきてるみたいだから、わたしは部屋に戻るね! じゃあまた後で、ゴハンの時にねっ」
「あー、うん……」
(電話? 誰からだろう?)
愛美は首を傾げた。〝あしながおじさん〟からこのスマホを持たされてもう二ヶ月になるけれど、電話をかけてくるような相手に心当たりがない。
大急ぎで自分の部屋に戻り、おそるおそるディスプレイを確かめると――。
(コレ……、山梨の番号だ。もしかして……)
そこに表示されているのは、〇五で始まる電話番号。山梨の番号で、愛美に思い当たるのは一件しかない。
「……もしもし? 相川ですけど」
『愛美ちゃん? 私、〈わかば園〉の聡美です。分かる?』
通話ボタンをタップして応答すると、聞こえてきたのは懐かしい、穏やかな年配女性の声。
「園長先生!? お久しぶりです! でも、どうしてこの番号ご存じなんですか?」
『田中さんがね、あなたにスマホをプレゼントしたっておっしゃってたから、一度かけてみようかしらと思ってね。……あら、〝あしながおじさん〟だったかしら?』
フフフッ、と茶目っ気たっぷりに笑う園長に、愛美はバツが悪くなった。
「ゴメンなさい、園長先生! わたし、勝手にあの人にあだ名つけちゃったんです。まさか園長先生までご存じだったなんて……」
『あらあら、謝ることなんてないのよ。あの方ね、「面白いニックネームをつけてもらったんですよ」って嬉しそうにおっしゃってたんだから。「僕より愛美ちゃんの方がネーミングセンスいいですね」って』
「そうなんですか……」
怒られる、と身構えていた愛美は、逆に褒められて嬉しいやら照れ臭いやら。
(でもおじさま、怒ってないんだ。よかった)
思えば、彼女が一方的につけたニックネーム。返事がもらえないから、相手の反応すら分からなかった。怒らせていたらどうしようかと、内心ヒヤヒヤしていたのだけれど。
『どう? 学校は楽しい?』
「はい。すごく楽しいです。お友達もできましたし、寮生活も初めての経験が多くてワクワクしっぱなしで。――みんなは元気ですか?」
まだ〈わかば園〉を巣立って二ヶ月ほどしか経っていないのに、愛美は兄弟同然に育ってきた他の子供たちのその後が気になっていた。
『ええ、みんな元気にしてますよ。あなたがいなくなって、最初のころは淋しがる子もいたけど、今はもう落ち着いてきてるわ。涼介くんがすっかりお兄ちゃんになって』
「そうですか。よかった」
あの施設を出る日、愛美は涼介に後を託したのだ。しっかり自分の務めを引き継いでくれているようで、ホッとした。
『――ところで愛美ちゃん。もうすぐ夏休みでしょう? 予定はもう決まってるの?』
「……あ、いえ。まだなんです。そろそろ田中さんに相談した方がいいかな、って思ってるんですけど」
家族がいる子なら、実家に帰るとかどこかに旅行に行くとか、すんなり休みの予定も決められるのだけれど。家族のいない愛美は、どう決めていいのか分からない。
かといって、名目上の保護者でしかない〝あしながおじさん〟に相談するしかないのも、何だかなあと思う。――とはいえ、他に相談する相手がいないのも事実なのだけれど。
『そうなの? だったら愛美ちゃん、ここに帰ってこない?』
「……えっ?」
『夏休みの間の里帰りってことで、ね? 前みたいに小さい子たちの面倒見たり、施設のお仕事を手伝ってくれたらいいわ。大した金額じゃないけど、アルバイト代は出すから』
「……そんな」
愛美は困ってしまった。せっかくの厚意なので、甘えたい気持ちはある。
けれど、あの施設の経営が苦しいことは、愛美がよく知っている。バイト代を出す余裕なんてないはずなのに……。そんな口実がないと帰れない場所なんだと思うと、何だかやるせなかった。
「園長先生、ホントはそんな余裕ないんですよね? だったら、見栄はらないで下さい。わたしはもう、そこに帰る資格なんてないんです。せっかくのご厚意ですけど、ゴメンなさい」
『…………そうよね。私の方こそ、あなたの気持ちも考えないで差し出がましいことしてゴメンなさいね。夏休みの過ごし方については、田中さんにご相談してお任せした方がいいわね。おせっかいを許してね』
少し言い方がキツすぎたかな、と愛美は反省したけれど。逆に園長に謝られ、心がチクリと痛んだ。
「そんな、おせっかいだなんて! 電話下さって嬉しかったです。ありがとうございました。それじゃ、失礼します」
電話を切った愛美は、ベッドにバタンとひっくり返った。園長の厚意を断った今、夏休みの予定を相談する相手はもう一人しかいない。
「こういう時こそ、あしながおじさんに相談しよう!」
愛美は着替えを済ませると、急いで机に向かった。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
実は先ほど、〈わかば園〉の聡美園長からお電話を頂きました。『夏休みの予定が決まってないなら、アルバイトとして施設に帰ってこない?』って。
わたしはあの施設の経営状態をよく知ってます。それなのに、バイト代につられてのこのこ帰るなんてできません。
あの施設がキライだったわけじゃないですけど、そんな口実で帰るしかないなんて哀しいです。
他にいい過ごし方があれば、園長先生も安心されるんじゃないかな、と思うんですけど。おじさま、わたしはどうしたらいいでしょうか?
お返事、お待ちしてます。
六月七日 愛美』
****
――その四日後。午前中の授業を終えて寮に戻ってきた愛美が郵便受けを覗くと……。
「……あ! 来てる来てる! おじさまの秘書さんからの手紙!」
一通の封書が届いていた。茶色の洋封筒で、差出人の名前は〈久留島栄吉〉となっている。
「それって、こないだ愛美が出した手紙の返事?」
「うん。夏休みの過ごし方について相談してたの。――さて、何て書いてあるのかなー♪」
さやかの問いに答え、封を切って文面を読んだ愛美はすっかりテンションが上がってしまった。
「……へえ。わあ! スゴーい! 信じらんない!」
「ちょっと愛美! 何て書いてあんの? 教えてよー!」
「フフフッ♪ それよりお昼ゴハン行こう♪ お腹すいたよー♪」
「……ダメだこりゃ」
ルンルン♪ とスキップしながら食堂に向かう愛美を、さやかはただ呆れて見ているしかなかった。
――五限目は英語の授業。でも愛美は授業を聞く傍ら、せっせとレポート用紙に〝あしながおじさん〟へのお礼状を認めていた。
もちろん授業は大事だけれど、彼女としては一秒でも早く感謝の気持ちを伝えたかったのだ。
****
『拝啓、あしながおじさん。
おじさまはとてもいい人ですね!
信州の高原へのお誘い、本当に嬉しかったです。ありがとうございます!
〈わかば園〉にアルバイトとして帰るのは、わたしには切なすぎました。卒業した後まで、あそこに迷惑をかけたくありませんでしたから。
レポート用紙にシャーペン書きでゴメンなさい。実は今、英語の授業中なんです。いつ先生に当てられるか分からないので、近況はパス。 ――』
****
「――では、相川さん」
「はっ、ハイっ!」
英語担当の女性教師に指名された愛美は、レポート用紙に一言書き記してから慌てて姿勢を正した。
****
『あっ、今当てられました!』
****
「この一文の助動詞〈should〉は、どう訳すのが適切か分かりますか?」
「えっと……、『~すべきである』……でしょうか」
ちゃんと授業は耳に入っていたので、答えることはできたけれど。
「正解です。でも、授業はちゃんと集中して聞きましょうね」
「……はい。すみません」
集中して聞いていなかったことを注意され、愛美は顔から火を噴いた。
****
『先生の質問にはちゃんと答えられましたけど、注意されちゃいました。
では、これで失礼します。 愛美』
****
――五限目と六限目の間の休憩時間に、愛美はレポート用紙に書いたお礼状を封筒に入れておいた。
「――で? あの手紙、一体なんて書いてあったのよ?」
六限目までの授業が全て終わり、寮に帰る途中でさやかが愛美に訊いた。もちろん珠莉も一緒である。
「あのね、おじさまの知り合いが信州の高原で農園とかやってるんだって。だから、夏休みはそこで過ごしたらどうか、って。もう根回しは済んでるらしいよ」
「へえ、そうなんだ。よかったね、やっと行くとこができて」
「うん!」
「信州っていうと……、長野か新潟あたりかしら?」
「うん、長野らしいけど。……珠莉ちゃん、もしかしてその場所に心当たりあるの?」
突然口をはさんできた珠莉に、愛美は何か引っかかった。
彼女はずっと、愛美には興味がないと思っていたけれど。愛美が純也と関わってから、急に愛美にご執心らしい。
「……いいえ、何でもないわ」
けれど、何か言いかけた珠莉はすぐに口をつぐんでしまった。
「ところでさ、その手紙そのまま出すの? 清書しなくていいワケ?」
さやかは愛美と教室の席が近いので、愛美が英語の授業中にせっせとこの手紙をかいていたのを知っているのだ。
「うん、いいの。だって、書き直したらせっかくの臨場感が台無しになっちゃうもん」
授業中に書いたことが分からなければ、「早くお礼が言いたかった」という愛美の気持ちも伝わらない。
「手紙に臨場感なんて必要なのかしらね? さやかさん」
「さあ? あたしにも分かんない」
二人して首を傾げるさやかと珠莉だけれど、愛美にとって〝あしながおじさん〟への手紙はSNSの書き込みのようなものなのだ。
――結局、そのお礼状は書き直されないままポストに投函されたのだった。
* * * *
――そして、七月の半ば。
「さぁて、期末テストも無事終わったことだし。夏休みに向けての荷作り始めようかな」
「そうだねー。今回はあたしも珠莉も成績まずまずだったし」
ちなみに、愛美は今回も十位以内。珠莉が五十位以内、さやかも七十位以内には入った。
「はー、私もこれでやっとお父さまとお母さまに顔向けができますわ」
ホッとしたように珠莉が呟けば。
「それ言ったら、あたしもだよ。中間の時ボロボロだったからさあ、お母さんに電話で泣かれちゃって大変だったよー」
珠莉よりも順位が下だったさやかも、うんうん、と同調した。
「今回も成績悪かったら、夏休みも補習ばっかりで楽しめなかったもんねー」
愛美がしみじみと言う。……まあ、彼女にそんな心配はなかっただろうけれど。
初めての恋を知ってから、愛美は時々妄想がジャマをして勉強に集中できなくなっていた。それでもこの好成績だったのは奇跡的である。
「――にしたって、アンタの部屋も荷物増えたねえ……。特に本が」
さやかが愛美の部屋の本棚を見て、感心した。
ちなみに、さやかと珠莉の部屋の本棚の蔵書は二人分を合わせても、この本棚の三分の二か四分の三くらいだろう。
愛美の部屋にある作りつけの本棚には教科書や参考書のほか、小説の単行本や文庫本・雑誌類がビッシリ入っている。
まだ入学して三ヶ月でのこの増えようからして、彼女がかなりの読書家だということが窺える。
「えへへっ。古本屋さんでコツコツ買い集めたの。新書もあるけどね」
「ほぇー……。大したモンだわこりゃ。っていうか、『あしながおじさん』率高くない?」
さやかが目ざとく指摘する。
本棚にはもちろん、他の本もたくさん並んでいるのだけれど。『あしながおじさん』のタイトルだけで十数冊もあるのだ。これはこの本棚の蔵書の中でもっとも多い。
「うん。小さい頃からこの本好きなんだよねー。よく見て、さやかちゃん。翻訳してる人、全部違うでしょ? 一冊一冊、文体が違うの。読み比べするのも面白いんだ」
愛美はその中でも一番のお気に入りを一冊手に取った。
「コレね、施設にいた頃からずっと読んでたの。もう表紙とかボロボロなんだけど。で、コレを読みながら、わたしの境遇をこの本のジュディと重ねてたんだよね」
でも、と愛美は続ける。
「現代の日本に生きてるわたしの方が、ジュディより色々と恵まれてるよね……」
この令和の日本では、憲法であらゆる権利が認められているし、「施設出身だから」といって社会的に差別されることもない。
一九一〇年代の、差別や偏見がまかり通っていたアメリカに生きていたジュディとは、似て非なる境遇だ。
「……なんか、よく分かんないけど。〝あしながおじさん〟に援助してもらえなかったら進学できなかったっていうのは、ジュディもアンタもおんなじじゃん? だから、アンタが『恵まれてる』って思えるのはおじさまのおかげなんじゃないの?」
「…………あ、そっか。そうだよね」
自分とジュディの境遇を重ねるなんておこがましい、と思っていた愛美は、さやかの言葉にハッとさせられた。
「――あとね、洋服とか靴とかも増えたの。先々月のお小遣いで買いまくっちゃって。……で、金欠に」
愛美はえへへ、と笑った。
横浜といえば「オシャレの街」である。可愛い洋服や靴、バッグなどのショップも多い。
山梨時代にはこんなにオシャレなショップに入ったことがなかった彼女は、すっかりテンションが上がってしまって思わず爆買いしてしまったのだ。
そして、こういう服や靴はたいてい値が張る。本を買い漁った分の金額も合わせると、三万円以上があっという間に消えてしまったのだ。
「アンタ、買いすぎだよ。服とか買うなら、もっと安く買えるお店あるんだし。ファストブランドとかさ」
「へえ……、そうなの? じゃあ、次からそうしてみる」
――話し込んでいると、荷作りがちっとも進まない。
「ねえねえ愛美。荷物、一ヶ月分でしょ? スーツケース一個で入るの?」
「う~ん、どうだろ? 一応、スポーツバッグもあるけど」
入学して三ヶ月でここまで増えてしまった洋服類と本を前に、愛美は唸った。
もちろん、全部持っていくわけではないけれど。一ヶ月分となると、荷物も相当な量になるはずだ。本はお気に入りの分だけ持っていくとして、服はどれだけ詰めたらいいのか愛美には目安が分からない。
「じゃあさ、スーツケースとスポーツバッグに入らない分は箱に入れよう。あたしと珠莉とでいらない段ボール箱もらってくるから。――珠莉、晴美さんのとこ行くよ」
「ええ!? どうして私まで――」
「あたし一人じゃムリに決まってんでしょ!? アンタもちょっとは手伝いなよ!」
手伝わされることが不満そうな珠莉を、さやかがピシャリと一喝した。
「…………分かりましたわよ。手伝えばいいんでしょう、手伝えばっ」
プライドの高いお嬢さまも、さやかにかかれば形無しである。渋々だけれど、彼女についていった。
――数分後。さやかが二つ、珠莉が一つ段ボール箱を抱えて愛美の部屋に戻ってきた。
「愛美、お待たせ! これだけあったら足りるでしょ」
「まったく、感謝してほしいものですわ。この私に、こんな手伝いをさせたんですから」
(珠莉ちゃんってば! 〝手伝い〟ったって、段ボール箱一コ運んできただけじゃん)
珠莉の態度は恩着せがましく、愛美もさすがにカチンとはきたけれど。ここは素直に感謝すべきだろうと大人の対応をして見せた。
「ありがと、二人とも。じゃあ、荷作り始めるね。あとはわたし一人でできるから」
二人も荷作りやら準備やらがあるだろうし、これ以上手伝わせるのは申し訳ない。……特に、珠莉にこれ以上文句を言われるのはたまらない。
「そっか、分かった。んじゃ、あたしたちはこれで」
さやかと珠莉が部屋を出ていくと、愛美は早速荷作りにかかるのかと思いきや。
(おじさまに、手紙書こうかな)
ふとそう考えた。とりあえず、期末テストが無事に終わったことと、夏休みの準備を始めたことを報告しようと思ったのだ。
いつもは勉強机の上で書くのだけれど、今日はピンク色の座卓の上にレターパッドを広げ、ペンを取った。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
一学期の期末テスト、無事に終わりました。わたしは今回も学年で十位以内に入ることができましたよ。喜んでくれるといいな。
もうすぐ楽しみな夏休み。しかも、高原の農園で過ごす一ヶ月間! すごくワクワクしてます。
畑や田んぼは山梨の施設にいた頃、毎日のように見てきましたけど。実際に農場で生活するのは初めてです。すごく楽しそう!
この夏はのびのび過ごして構わないんですよね? 誰に遠慮することなく?
おじさまだって、わざわざわたしの生活態度を千藤さんご夫妻に監督させたりしないでしょう? だって、わたしはもう高校生なんだから!
では、おじさま。これから荷作りがあるので、これで失礼します。
夏休み、思いっきり楽しんで、いろいろ学んできますね。 かしこ
七月十七日 夏休み前でワクワクしている愛美』
****
――その後、無事に荷作りも完了し。それから四日後。
「じゃあねー、愛美! また二学期に! 夏休み、楽しんでおいでよ!」
寮に居残る生徒以外はみんな、それぞれの行き先へと向かって校門を出ていく。
さやかは学校の最寄り駅までは愛美と一緒だったけれど、駅からは行き先が違うのでそこで別れた。――ちなみに、珠莉は今ごろ、とっくに成田空港に着いているだろう。実家所有の黒塗りリムジンが迎えに来ていたから。
「うん! ありがと! さやかちゃんもいい夏休み送ってね!」
「サンキュ! 夏の間にメールかメッセージ送るよ」
「うん、楽しみにしてる! じゃあ、バイバ~イ!」
――さやかは埼玉方面に向かうホームへ。愛美はここから地下鉄で新横浜まで出る。そこから東京まで出て、そして――。
「東京駅からは、北陸新幹線か。おじさま、新幹線の切符まで送ってくれてる」
新幹線に乗るまでの交通費はお小遣いで何とかなるけれど、新幹線の切符代はさすがに高い。高校生が自腹を切るのはかなり痛い。
(自分が行くように勧めたんだから、新幹線の切符くらいは自分で負担してあげようって思ったのかな? おじさまって律儀な人)
愛美は切符を見つめながら、フフフッと笑った。
――「東京駅は乗り換えのためだけ」という、他の人が見ればもったいない経験をして、愛美は北陸新幹線の車両に乗り込んだ。
切符は指定席で、眺めのいい窓際の座席。しかもリクライニング機能付きだ。
新幹線に乗るのはこれが二度目だけれど、今回は始発からの長旅。駅ナカのお店で買ってきたジュースやサンドイッチで昼食を済ませながら、愛美は車窓からの景色を楽しんでいた。
熊谷を過ぎたあたりから、外の景色は徐々に田園風景に変わっていく。
(懐かしいな……。山梨にいた頃の景色によく似てる)
まだ三ヶ月しか経っていないのに、愛美はどこか懐かしさを覚えていた。
――高崎・軽井沢などの観光地を通過し、愛美は長野駅で列車を降りた。
改札を出たところで、スーツケース(キチンとパッキングしたノートパソコンも入っている)と段ボール箱三つを積んだキャリーを引っ張った彼女は切符と一緒に送られてきた久留島氏からのパソコン書きの手紙をもう一度読みながら、キョロキョロとあたりを見回す。
「確か、駅まで迎えの車が来てるはずなんだけど……」
手紙には、「新幹線が長野駅に到着する頃、千藤さんが迎えに来ているはずですので」と書かれている。
農園は駅からだいぶ遠いので、迎えに来るなら車に間違いない。
「――あ、あれかな?」
愛美は何となくそれっぽい、白いライトバンを見つけた。自分からその車に近づいていき、運転席の窓をコンコンとノックする。
「……あの、千藤さんですか? わたし、今日から夏の間お世話になる相川愛美ですけど」
「ああ、君が! 千藤です。田中さんから話は伺ってますよ。さ、後ろに乗って! 母さん、荷物を乗せるの手伝ってくれ!」
千藤さんが助手席に乗っている女性に声をかけた。夫婦ともに、六十代後半だと思われる。
「はいはい。ちょっと待ってね」
千藤夫人――名前は〝多恵さん〟というらしい――に手伝ってもらい、愛美はスーツケースと段ボール箱三つ分の荷物をライトバンのトランクに積み込み、自分はスポーツバッグだけを抱えて後部座席に乗り込んだ。
「――さっきはありがとうございました。改めて、相川愛美です。今日から一ヶ月間よろしくお願いします」
「愛美ちゃんね? こちらこそよろしく。あなたには一ヶ月間、農園のこととか色々覚えてもらうから。お手伝いお願いね」
「はいっ! 頑張ります!」
多恵さんの言葉に、愛美は元気よく返事をした。
これは社交辞令なんかではなく、彼女は本当に張り切っているのだ。誰だって、初めてのことを覚える時はワクワクドキドキする。
さすがに横浜に住んで三ヶ月半も経つので、都会での暮らしやスマホの使い方には慣れてきたけれど。農園での生活や農作業は初めての経験なので、どんなことをするのか楽しみなのである。
「いやぁ、『横浜のお嬢さま学校に通ってる女子高生を一ヶ月預かってほしい』って田中さんに頼まれた時は、どんなに気取ったお嬢さんが来るのかと思ったけど。愛美ちゃんは全然気取ってないからホッとしたよ」
「そうなんですか? わたし、全然お嬢さまなんかじゃないですもん。育ったのは山梨の養護施設ですよ」
「養護施設? ――じゃあ、ご両親は……」
多恵さんが表情を曇らせたので、愛美は努めて明るく答えた。
「わたしが幼い頃に、事故で亡くなったって聞かされてますけど。でも、それを悲観したことなんかないですから。ちゃんと人並みに育ててもらって、義務教育を卒業できたから」
それに、両親が亡くなる前に自分に精いっぱいの愛情を注いでくれていたことも分かっているから。
「それに、今じゃいい高校に入学させてもらえたし、いいお友達にも恵まれましたし。わたしは幸せ者です」
それもこれも、全て〝あしながおじさん〟のおかげだ。愛美は彼に、どの瞬間も感謝の念を抱いている。
(あと、この夏、ステキな一ヶ月間を過ごせるのも……ね)
――愛美の期待とほんの少しの不安を乗せた白いライトバンは、ガタガタの田舎道を車体を揺らしながら走っていった。
「――さ、着いたよ」
千藤夫妻が農園をやっているのは、長野県の北部にある高原。近くには温泉もあり、少し北に行けばもう新潟県というところである。
「わあ……! ステキなお家ですね!」
愛美は千藤家の外観に、歓声を上げた。
そこはいわゆる〝昔ながらの農家〟という感じの日本家屋ではなく、洋風の造りの二階建てで、壁の色はペパーミントグリーンだ。
「ここは元々、〈辺唐院グループ〉の持ち物で、純也坊っちゃんの別荘だったのよ」
「えっ、純也さんの!?」
多恵さんの口から思いがけない名前が飛び出し、愛美は目を丸くした。
「ええ、そうだけど。愛美ちゃん、純也坊っちゃんのことご存じなの?」
「はい。五月に一度、学校を訪ねて来られたことがあって。わたしがその時、姪の珠莉ちゃんに代わって校内を案内して差し上げたんです」
愛美は純也と知り合った経緯を多恵に話した。――ただし、実はその時から彼に恋をしている、という事実は伏せて。
「そうだったの。――私は昔、あの家で家政婦をやっててね。そのご縁で、私が家政婦を引退した時に坊っちゃんが私にこの家と土地を寄贈して下さって。それでウチの人とここで農園を始めたのよ」
(ここがまさか、純也さんの持ち物だったなんて。……あれ? じゃあ、おじさまはどうやってここのこと知ったんだろう?)
愛美は首を傾げる。〝あしながおじさん〟――つまり田中太郎氏と純也は知り合いということだろうか? もしくは、秘書の久留島栄吉氏と。
(……あれ? ちょっと待って。確か『あしながおじさん』では――)
あの小説では、〝あしながおじさん〟=ジュリアの叔父ジャーヴィスだったはず。でも、まさか純也が〝あしながおじさん〟だなんて! あまりにもありきたりな展開だ。「あり得ない」と、愛美の頭の中でもう一人の愛美が言っているような気がする。
(……まあいいや。おじさまに直接手紙で確かめよう)
「――愛美ちゃん、荷物を部屋まで運ぼう。車から降ろすから、手伝っておくれ」
考えごとをしていると、千藤さんが愛美を呼んだ。
「はいっ!」
愛美の荷物なのだから、千藤さんに手伝ってもらうのはいいとしても、愛美が彼を手伝うのはお門違いだ。
「ヨイショっと。――先に荷物だけ送っといてもらってもよかったんだけどね」
「ありがとうございます。すみません。なんか、先に荷物だけ届いてもご迷惑かな、と思ったんで。……っていうか、そもそも思いつかなくて」
本が詰め込まれた重い箱を持ち上げた千藤さんを手伝いながら、愛美は「その手があったか」と目からウロコだった。
「いやぁ、迷惑なんてとんでもない。本人が後から来るんだったら同じことだよ。……や、ありがとうね」
多恵さんにも手伝ってもらい、三人でどうにか全ての荷物を降ろし終えると、次は二階にあるという愛美の部屋にこれらを運ぶという大仕事が。
そこで、千藤さんは畑で何やら仕事をしている若い男性に呼びかけた。
「おーーい、天野君! ちょっと来てくれ!」
「――はい、何すか?」
呼ばれてやって来たのは、よく日に焼けた二十代前半くらいのツナギ姿の男性。彼が〝天野〟さんだろう。
「このお嬢さんが、今日から一ヶ月ウチで面倒を見ることになった相川愛美ちゃんだ。天野君には、この子の荷物を二階の部屋まで運ぶのを手伝ってやってほしいんだ」
「相川愛美です。よろしくお願いします」
天野という青年は、愛美から見るとちょっと取っつきにくいタイプの人みたいに見えるけれど。
「よろしく。――運ぶのコレだけ? じゃ、行くべ」
はにかんだ顔でペコリと愛美に会釈すると、段ボール箱を三つともヒョイッと抱えて階段を上っていく。
愛美もスーツケースと折りたたんだスチール製のキャリーだけを持って、彼の後をついて行った。
「――天野さんって、いつからここで働いてらっしゃるんですか?」
「んー、もう三年になるかな。親父さんもおかみさんもいい人でさ、居心地いいんだよな。ちなみにオレ、下の名前は〝恵介ってんだ」
ちなみに、年齢は二十三歳だという。
「ここが、愛美ちゃんの部屋だ。眺めは最高だし、ここは何て言っても星空がキレイなんだ」
「へえ……。わ、ホントだ! すごくいい眺め」
窓から見渡せる限り山・山・山。とにかく自然が多い。それに、冷房もついていないのに涼しい。
山梨の山間部で育った愛美には、確かに居心地がよさそうな環境である。
「もうちょっと中心部まで行けば観光地で、店もいっぱいあるし。冬はスキー客で賑わうんだけど、夏場はホタルを見に来る人くらいかな」
「ホタル? 近くで見られるんですか? ロマンチック……」
「うん。オレも夏になったら、よく彼女と見に行くんだ」
「彼女……いらっしゃるんですか?」
愛美がギョッとしたのに気づいた天野さんは、ちょっと気まずそうにプイっと横を向いた。
「あー……、うん。ここで一緒に働いてる、平川佳織っていうコ。――まあいいじゃん、その話は。荷物置いとくから、適当に片付けて。じゃ、オレはまだ畑での仕事残ってっから」
「あ、はい。ありがとうございました」
ぶっきらぼうに言い置いて、愛美の部屋を出ていく天野さん。
(もしかして、照れてる……?)
愛美は彼の態度の理由をそう推測した。見かけによらず、シャイな青年なのかもしれない。
「――さて、と。荷物片づける前に」
愛美はスポーツバッグから、レターパッドとペンケースを取り出し、部屋の窓際にあるアンティークの机に向かった。
「あしながおじさんに、『無事に着きました』って報告しよう。あと、さっきのことも確かめないとね」
レターパッドの表紙をめくり、そのページにペンを走らせる。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
ついさっき、長野県の千藤農園に着きました。まだ荷解きもしてないんですけど、ここに無事に着いたことをおじさまに知らせたくて。
ここは自然がいっぱいの場所で、昼間の今でも冷房なしですごく涼しいです。横浜の暑さがウソみたい。同じ日本の中とは思えません。
ここで三年働いてる天野さんのお話によると、中心部は観光地で、スキー場に近いので冬はスキー客で賑わうそうです。でも、夏場はホタルの見物客くらいしか来ないみたいです。あと、星空もキレイなんだそうです。
すごくロマンチックでしょう? わたしもいつか、純也さんと一緒にホタルが見られたらいいな……。
あ、そうそう。〝純也さん〟で思い出しました。わたし、おじさまにお訊きしたいことがあって。
おじさまはどうやって、この農園のことをお知りになったんですか? もしくは、秘書さんかもしれませんけど。
どうして知りたいかというと、こういうことなんです。
この農園の土地と建物は元々、辺唐院グループの持ち物で、純也さんの別荘だったそうです。
で、千藤さんの奥さまの多恵さんは昔、辺唐院家で家政婦さんとして働いていらっしゃって、家政婦さんをお辞めになる時に純也さんからこの家と土地をプレゼントされて、ご夫婦でこの農園を始められたそうなんです。
まさか、ここに来て純也さんの名前を聞くとは思わなかったんで、わたしは本当にビックリして。「もしかして、純也さんが〝あしながおじさん〟!?」とか思っちゃったりもしたんですけど……。まさか違いますよね? だってそれじゃ、『あしながおじさん』の物語そのままですもんね?
とにかく、自然がいっぱいのここの環境は、山で育ったわたしには居心地がよさそうです。千藤さんご夫妻が、農業のこととか色々教えて下さるそうで、わたしはそれがすごく楽しみです。
おじさま、こんなステキな夏をわたしにプレゼントして下さって本当にありがとうございます! 感謝の気持ちを込めて。 かしこ
七月二十一日 愛美』
****
――荷解きをしているうちに、夕方の六時を過ぎていた。
「愛美ちゃん、ゴハンにしましょう!」
多恵さんが二階の部屋まで、愛美を呼びに来た。
「はーい! 今行きます!」
すっかりお腹がペコペコの愛美が一階のダイニングキッチンに下りていくと、キッチンでは多恵さんの他に若い女性も料理の盛り付けをしているところ。
肩にかかるくらいのセミロングの髪をした、身長百六十センチくらいの女性。――彼女が佳織さんだろうか?
「――あの、わたしも何かお手伝いしましょうか?」
愛美が声をかけると、多恵さんがニコニコと指示を出してくれた。
「あらそう? じゃあ、盛り付けたサラダとスプーンとフォークをテーブルまで運んでもらえる? ――佳織ちゃん、食器のある場所、愛美ちゃんに教えてあげて」
「はい、おかみさん」
〝佳織ちゃん〟と呼ばれたその女性が、快く返事をした。
「愛美ちゃん、食器棚はコレ。スプーンは左の引き出し、フォークは真ん中ね」
「はい。――えっと、平川佳織さん……ですよね? 天野さんとお付き合いしてるっていう」
人数分のカトラリーを取り出しながら、愛美がそれとなく訊いてみると。
「……んもう。あの人ってば、もう愛美ちゃんに喋っちゃったんだ?」
佳織さんは、顔を真っ赤に染めてそう言った。どうやら、天野さんの話は本当らしい。
「あたしと彼の関係は、ご主人とおかみさんには内緒なの。……まあ、気づいてらっしゃるかもしれないけど。彼はあたしより三つ年上なんだけど、農業に対する姿勢とか、そういうところがステキだなって思ったんだ」
「それで恋しちゃったんですね。天野さんも、佳織さんも」
佳織さんは照れながらも、「うん」と頷いた。
「恋する気持ちだけは、誰にも止められないからね。――愛美ちゃんは、好きな人いるの?」
「……はい。実は、純也さんなんです。ここの元の持ち主だった」
「えっ!? そうなの? うーん、そっか。頑張ってね」
「はいっ!」
まさかこの場で、ガールズトークが盛り上がるとは。愛美は佳織さんのことを、この短時間で身近に感じられるようになった。
「――さて、早く夕飯の支度終えないと。テーブルでウチの腹ペコどもが騒ぎ出しちゃうね」
「そうですね。じゃあサラダとコレ、お盆に載せて運びます」
「うん、お願い」
* * * *
――夕食のメニューは夏野菜たっぷりのカレーライスとサラダ、デザートにはこの農園の果樹園で採れたフルーツ入りのヨーグルト。
そして、農業が初体験の愛美のおかしな質問によって、とても賑やかで楽しい食卓となった。
「――多恵さん。昔の純也さんのお話、もっと聞かせてもらえませんか?」
多恵さんと佳織さんと一緒に、食後の洗いものの片付けを手伝いながら、愛美は多恵さんに頼んでみた。
「えっ、坊っちゃんの話?」
「はい。わたし、大人になってからの純也さんのことしか知らないから。もっとあの人のこと知りたいんです。多恵さんなら色々ご存じなんじゃないかと思って」
好きな人のことなら、何でも知りたい。そして、ここには昔のあの人のことをよく知っていそうな元家政婦さんがいる。
「いいわよ。じゃあ、ここが片付いたら私について来てちょうだいな」
「いいんですか? ありがとうございます!」
多恵さんは愛美の頼みを快諾してくれた。彼女に聞こえないように、佳織が声をひそめて愛美にささやく。
「よかったね、愛美ちゃん。純也坊っちゃんのお話、聞かせてもらえて」
「はい。――あ、このお皿、どこにしまったらいいですか?」
愛美は張り切って、水切りが終わったカレー皿を取り上げた。
* * * *
――愛美が多恵さんに連れられて来たのは、この家の屋根裏部屋だった。
「純也坊っちゃんはね、子供のころ喘息を患ってらして。十一歳くらいの頃の夏に、ここでご静養なさってたの。私も一緒にここに滞在して、坊っちゃんのお世話をしてたのよ」
「えっ? 喘息……」
つい最近会った純也さんからは、そんな様子は感じ取れなかったけれど。
「今はもう何ともないそうよ。それに、発作さえ起きなければ、普段はお元気そうだったし。冒険好きのお子さんでね、ほとんど毎日外を走り回ってらしたわ。それで、泥だらけになって帰ってらしたの」
「へえ……、そうなんですか。子供らしいお子さんだったんですね。……っていうのもヘンな言い方ですけど」
愛美の言い方は、ある意味的を射ていたのかもしれない。
お金持ちのお坊っちゃん、それもあの辺唐院家の子息なら、もっとツンケンしていて大人びている子供でもおかしくなかったはずなのに。珠莉を知っているから、余計にそう思うのだろうか。
「そうね。正義感もお強かったし、それでいていたずらっ子なところもおありだったわ。でも、そこが憎めないのよ。私も、母親になったみたいな気持ちで坊っちゃんのお世話をさせて頂いてたわ」
「フフフッ。多恵さん、純也さんが可愛くて仕方なかったんですね」
愛美は微笑ましくその話を聞いていた。これが実の母親だったら、なんという親バカだろうか。
(なんか、今でもここに純也さんがいそうな感じがする。それも、無邪気な子供時代の)
――泥んこになるまで遊びまわって、帰ってきたら多恵さんに「お腹すいたー! おやつま~だ~?」とねだっている純也少年の姿が、愛美の脳裏に浮かんだ。
「中学を卒業されてからは、ここにはあまり来られなくなったんだけど。最近はきっと、お仕事がお忙しいのかしらねえ」
「そうですか……。でも、連絡は来るんでしょう?」
彼はきっと、情に厚い人のはず。昔お世話になった恩人に連絡をしないわけがない。
「ええ。毎年、夏になるとお電話を下さるわよ。でも今年はまだだわね」
「そうなんですか。――多恵さん、色々教えて下さってありがとうございました」
これだけ話を聞かせてもらえれば、愛美は満足だ。彼の幼い頃を知ったおかげで、彼のことをもっと好きになれる気がしたから。
「いえいえ、どういたしまして。――ねえ愛美ちゃん、もしかして坊っちゃんに恋してるんじゃないの?」
「……はい。でも、どうして分かったんですか?」
「フフッ。だって、私もオンナだもの。この年齢になってもね」
多恵さんにも、愛美の彼への恋心はバレバレだったらしい。自分では、うまく隠していたつもりだったのだけれど。
(は~~~~、もうヤダヤダ! なんでこんなにダダ漏れなの!?)
初恋ってこんなものだろうか? 「好き」という気持ちがうまく隠せなくて、思いっきり顔に出ているとか。
(もうちょっとオトナになって、感情をうまく隠すスキルを身につけないと……)
愛美はそう固く決心した。――それはさておき。
「多恵さん、わたしはもうちょっとここに残っててもいいですか? 多恵さんは先に下りて休んで下さい」
愛美は彼女にそう言った。
幼い頃の純也さんと、もう少し〝二人きりで対話〟したくなったのだ。彼の人となりをもっと知りたい。そして持ち前の想像力で、自分なりにその頃の彼のイメージを膨らませたい。
「ええ、どうぞ。じゃあ、私は先に休ませてもらうわね。愛美ちゃん、おやすみなさい」
――多恵さんが下の階に下りていくと、愛美は広い屋根裏部屋の隅から隅まで歩き回ってみた。
「……ん? 何だろ、コレ? 本……かなあ」
手に取ったのは、ホコリを被った小さなテーブルの上に無造作に置かれていた一冊のハードカバーの本。タイトルは聞いたことがないけれど、どうも海外の冒険小説の日本語翻訳版らしい。
表紙を開き、見開きの部分に見つけたおかしな落書きに、愛美は思わず笑ってしまった。
そこには、子供が書きなぐったような字でこう書かれていた。
『この本が迷子になってたら、ちゃんと手をひいてぼくのところに連れて帰ってきてほしいです。辺唐院じゅんや』
「やだ、なにコレ? 可愛い」
ここで静養していた頃に、純也が気に入って読んでいた本らしい。もうページはどこもクタクタだし、あちこちに小さな手形がついている。
「純也さんって、子供の頃から読書好きだったんだ……」
初めて学校で愛美に会った時に、彼は「読書好きだ」と言っていたけれど。その原点がここにあったとは。
この屋根裏に残されている彼の痕跡は、これだけではない。
水鉄砲、飛行機の模型、野球のボールやグローブ……。男の子が外で喜んで遊びそうなものがたくさんある。
(わたしも、子供の頃の純也さんに会ってみたかったな……。そうだ! 今度会った時、ここのこと彼に話してみようかな)
彼はどんな顔をするんだろう? 照れ臭そうにするかな? それとも得意そうに微笑むのかな……?
愛美は本を手にしたまま、自分の部屋に戻った。彼が夢中になって読み耽っていた本。その面白さを共有したいと思った。
――そしてその夜、愛美が昼間に書いた手紙には続きが書き足された。
****
『おじさま、今は夜の九時です。
この手紙は午後に一度書き上げてましたけど、あのあと書きたいことが増えたので少し書き足します。
夕食の後、多恵さんから純也さんの子供の頃のお話を聞かせて頂きました。
彼は昔喘息があって、十一歳くらいの頃にここで静養してたそうです。でも発作が起きない時はお元気だったそうで、ほとんど毎日泥んこになるまで外で遊び回ってたらしいです。
この家の屋根裏には、彼のお気に入りの本や遊び道具がたくさん残ってます。きっと、雨降りで外で遊べない時に、そこで過ごしてたんじゃないかな。
彼は子供の頃から読書好きだったみたい。そして無邪気で素直で、正義感も強かったんだと多恵さんは教えて下さいました。
わたし、彼の幼い頃のことを知って、ますます彼のことが好きになりました。お金持ちの御曹司で青年実業家の純也さんではなく、〝辺唐院純也〟という一人の男性として。決して打算なんかじゃありません!
今度こそ、これで失礼します。おじさま、おやすみなさい。 』
****
――夏休みが始まって約一ヶ月が過ぎた。
愛美も農作業にすっかり慣れ、夏野菜の収穫や採れた野菜での簡単なピクルスの作り方などをマスターした頃。千藤家に一本の電話がかかってきた。
「――はい、千藤でございます」
『もしもし、多恵さん? 僕だよ。純也だよ』
「純也坊っちゃん! お元気そうで何よりです。――あ、今こちらに相川愛美さんがいらしてるんですよ。ちょっと代わりますね」
多恵さんは大はしゃぎで答えたあと、キッチンで手伝いをしていた愛美を手招きした。
「愛美ちゃん、純也坊っちゃんから。ハイ」
リビングで彼女から受話器を受け取った愛美は、嬉しさと緊張半々で電話に出た。
「……も、もしもし。愛美です。あの、お久しぶりです」
何せ、彼と言葉を交わすのは五月以来のことなんだから。
『うん、久しぶり。元気そうだね。そっちでの夏休みは楽しい?』
「はい! すごく楽しいし、色々と勉強になってます。千藤さんも多恵さんもよくして下さってるし」
電話に出るまでは緊張していたのに、彼の声を聞いた途端にそれはすぐに解れてしまう。
『そっか、それはよかった。――あのさ、愛美ちゃん。僕は今年の夏も仕事が立て込んでてね。悪いけどそっちには行けそうもないんだ。そう多恵さんに伝えてもらえるかな? 申し訳ないんだけど』
「……はい、お忙しいんじゃ仕方ないですよね。分かりました。伝えておきます。――もう一度、多恵さんに代わりましょうか?」
すぐ側で、多恵さんがまだ話したそうにソワソワと待っている。
『うん、そうしてもらえる? 悪いね』
「いえいえ。――多恵さん、純也さんがもう一度多恵さんに代わってほしいそうです」
愛美は受話器の通話口を押さえ、多恵さんに受話器を差し出したのだった。
二学期~素敵なプレゼント☆
――夏休みが終わる一週間前、愛美は〈双葉寮〉に帰ってきた。
「お~い、愛美! お帰り!」
大荷物を引きずって二階の部屋に入ろうとすると、一足先に帰ってきていたさやかが出迎えてくれて、荷物を部屋に入れるのを手伝ってくれた。
「あ、ありがと、さやかちゃん。ただいま」
「どういたしまして。――で、どうだった? 農園での夏休みは。楽しかった?」
さやかはそのまま愛美の部屋に残り、愛美の土産話を聞きたがる。
愛美はベッドに腰かけ、座卓の前に座っているさやかに語りかけた。
「うん、楽しかったよ。農作業とか色々体験させてもらったし、お料理も教えてもらったし。すごく充実した一ヶ月間だった」
「へえ、よかったね」
「うん! いいところだったよー。自然がいっぱいで、空気も澄んでて、夜は星がすごくキレイに見えたの。降ってくるみたいに。あと、お世話になった人たちもみんないい人ばっかりで」
「星がキレイって……。アンタが育った山梨もそうなんじゃないの?」
〝田舎〟という括りでいうなら、長野も山梨もそれほど違わないと思うのだけれど。――ちなみに、ここでいう〝田舎〟とは「〝都会〟に対しての〝田舎〟」という意味である。
「そうかもだけど。ここに入るまでは、星なんてゆっくり見てる余裕なかったもん」
施設にいた頃の愛美は、同室のおチビちゃんたちのお世話に職員さんのお手伝い、学校での勉強に進路問題にと忙しく、心のゆとりなんてなかったのだ。
「あ、そうだ。あのね、わたしがお世話になった農園って、純也さんとご縁があったの。昔は辺唐院家の持ちもので、子供の頃に喘息持ちだった純也さんがそこで療養してたんだって」
彼の喘息が完治したのは、あの土地の空気が澄んでいたからだろう。
「でね、純也さんと電話でちょっとお話できたんだ♪」
「へえ、よかったじゃん。……で? 愛美はますます彼のこと好きになっちゃったんだ?」
「……………………うん」
さやかにからかわれた愛美は、長~い沈黙のあとに頷いて顔を真っ赤に染めた。思いっきり図星だったからである。
(ヤバい! また顔に出ちゃってるよ、わたし! もうホントにスルースキルが欲しいよ……)
純也さんとは電話で話しただけだったけれど、あの時でさえ胸の高鳴りを抑えられなかった。もしも本人と対面して話していたら……と思うと、何だか怖くなる。
ちなみに、あの家の屋根裏で見つけた本は、そのままもらってきた。「愛美ちゃんが気に入ったなら、持ってっていいわよ」と多恵さんが言ってくれたからである。
「――あ、ねえねえ。このノートなに?」
荷解きを手伝い始めたさやかが、愛美のスポーツバッグから一冊のノートを取り上げた。
「ああ、それ? 小説のネタ帳っていうか、メモっていうか。これから小説書くときに参考になりそうなこと、色々と書き溜めてきたの」
「小説? 愛美、小説書くの?」
さやかが小首を傾げる。
(……あ、そういえばさやかちゃんにも珠莉ちゃんにも、まだ話してなかったっけ。わたしが小説家目指してること)
入学してそろそろ五ヶ月になるのに、自分の大事な夢をまだ友達に話していなかったのだ。
「うん。実はわたし、小説家になりたくて。中学時代も文芸部に入っててね、三年生の時は部長もやってたんだよ」
「へえ、そうなんだ? スゴイじゃん! 頑張って! 愛美の書く小説、あたしも読んでみたいなー」
夢とかいうとバカにされるこのご時世に、さやかはバカにすることなく、素直に応援してくれた。
「うん! いつか読ませてあげるよ。わたし、頑張るね!」
純也さんに夢を応援してもらえることも嬉しかったけれど、親友のさやかというもう一人のファンができたこともまた、愛美は同じくらい嬉しかった。
(よし、頑張ろう! 二人に喜んでもらいたいもん)
夏休み前まではこの学校に慣れること・流行に追いつくことで精いっぱいで、小説を書くヒマなんてなかった。
でも、半年近く経った今は少し時間的にも心にもゆとりができてきたから、書き始めるにはちょうどいい時期かもしれない。
「――あ、そうだ。ご家族の写真、送ってくれてありがとね」
さやかは夏休みの間に、約束通り愛美のスマホにメッセージをくれた。キャンプ先で撮った、家族全員の写真を添付して。
『これがウチの家族全員だよ('ω')』
そんなメッセージとともに送られてきた写真には、さやかと彼女の両親・大学生くらいの兄・中学生くらいの弟・幼い妹・そして祖母らしき七十代くらいの女性が写っていて、「さやかちゃん家ってこんなに大家族なんだ!」と愛美は驚いたものだ。
「いやいや、約束してたからね。ウチ、家族多くて驚いたでしょ?」
「うん。今時珍しいよね。あれで全員なの?」
「そうだよ。あと、ネコが一匹いる」
「へえ……、ネコちゃんかぁ。可愛いだろうなぁ」
ちなみに祖母は父方の祖母で、祖父はすでにこの世にいないらしい。
「わたし、普通の家庭って羨ましい。将来結婚して家庭を持ったら、そんなあったかい家庭にしたいな」
あの写真からも、牧村家の温かさが伝わってきた。さやかの家は、愛美の理想とする家庭そのものだ。
「それ言うんなら、あたしはアンタの方が羨ましいよ。兄弟姉妹がいっぱいいるじゃん」
自分だって四人兄妹の二番目なのに、さやかは施設でたくさんの〝兄弟姉妹〟と育ってきた愛美を羨んだ。
「まあ……、そうだけど。さやかちゃんのとこだって兄弟多いじゃん。お兄さんいるんでしょ?」
愛美は施設を卒業する時、一番上のお姉さんだったのだ。下の年齢の子たちの面倒を見るのは、楽しかったけれど大変でもあった。
上にもう一人兄弟がいる彼女はまだ恵まれている、と愛美は言いたかったのだけれど。
「まあ、いるにはいるんだけどさあ。頼んないんだもん。二番目のあたしの方が、一番上のお兄ちゃんよりしっかりしてるってどうよ? って感じ」
「…………あー、そうなんだ……」
(さやかちゃん……、わたしにグチられても……)
兄弟のグチをこぼされてもどう反応していいか分からない愛美は、苦笑いで相槌を打つしかなかった。
「――あれ? さやかちゃん、そういえば珠莉ちゃんは?」
愛美は話題を変えようと、さやかのルームメイトであるお嬢さまの名前を持ち出した。
彼女がなかなか自分の部屋に戻ろうとしないのは、珠莉がいないからだろうと思ったのである。
(最初は仲悪そうだったけど、この二人って意外と気が合うんだよね……)
この半年近く、隣室の二人を見てきたからこその、愛美の感想だった。
「ああ、珠莉? 帰国は明後日になるらしいよ。さっき本人からメッセージ来てた。コレね」
さやかはデニムのハーフパンツのポケットからスマホを取り出し、珠莉から届いたメッセージの画面を表示させる。
『さやかさん、お元気? 私は今、ローマにおりますの。日本に帰国するのは明後日になりますわ。でも二学期のスタートには間に合わせます』
「……だとさ。だからあたし、明日まで部屋で一人なの! ねえ愛美、お願い! 明後日の朝まで、この部屋に泊めてくんない?」
「えー……? 『泊めて』って言われても」
さやかに懇願された愛美はただただ困惑した。
「わたしは……、そりゃあ構わないんだけど。いいのかなぁ? 勝手にそんなことして。晴美さんに怒られない?」
もちろん、愛美自身は親友の頼みごとを聞き入れてあげたい。けれど、寮のルールでは「他の寮生の部屋に泊まってはいけない」ことになっているのだ。
真面目な愛美は、そのルールも破るわけにはいかないのである。
「だよねえ……。でもさ、晴美さんの許可が下りれば……って、下りるワケないか」
寮母の晴美さんは普段は気さくな人柄で、温厚な性格から寮生に慕われてはいるのだけれど。ことルールに関しては厳しいのだ。
「……いいや。ムリ言ってゴメン。愛美が悩む必要ないからね」
「うん。わたしこそゴメンね。ホントはさやかちゃんとこの部屋で寝るの、楽しみだったんだけど」
同い年の女の子、それも親友とのピロートーク。これまで年下の子たちとしか同室になったことがない愛美の、密かな憧れだった。
「そうなんだ? じゃあさ、来年は一緒の部屋にしようよ」
「うん! そうしよ!」
(来年の部屋替えでは、さやかちゃんと同室にしてもらえるようにお願いしてみよう。それまでは淋しいけど、一人部屋でガマンガマン!)
愛美に、次の学年に向けての一つの楽しみができた。
(……あ。もしかしたら、珠莉ちゃんも「さやかちゃんと同室がいい」って言うかも。そしたら三人部屋か……)
ちなみに、一年生の部屋が並ぶこの階には三人部屋はないけれど、二年生から上の学年のフロアーには三人部屋が何室かあるらしい。
(ま、いっか。賑やかな方が楽しいし)
愛美は来年度、三人部屋になる可能性を前向きに考えた。
彼女は元々、どちらかといえばポジティブな方なのだ。落ち込むことがあったとしても、すぐにケロリと立ち直ることができる。愛美の自慢の一つである。
「――んじゃ、あたしはそろそろ部屋に戻るわ。荷解き、あとは一人で大丈夫?」
さやかは愛美の荷物をしまうのをだいぶ手伝ってくれ、ほとんど片付いた頃にそう訊ねた。
「うん、ありがとね。助かったよ。―あ、そういえばさやかちゃん。夏休みの宿題、もう終わった? わたしは全部終わらせたけど」
「それがねぇ……、数学の宿題が全っっ然分かんなくて。愛美、明日でいいから教えて?」
「いいよ。わたしでよければ」
「サーンキュ☆ じゃあ、また晩ゴハンの時に食堂でね」
愛美が頷くと、さやかは淋しそうにルームメイトがまだ戻っていない自分の部屋に帰っていった。
――一人になった部屋で、愛美は半袖のカットソーから伸びた自分の細い腕をまじまじと眺めた。
「わたし、あんまり焼けてないなあ」
幼い頃から愛美は色白で、夏に外で遊んでもあまり日焼けしなかった。それが元々の体質のせいなのか、育った環境によるものなのかは彼女自身にも分からない。
夏休みに海へ行ったという友達は真っ黒に日焼けしていて、「健康的でいいなあ」と愛美は羨んだものである。
農園へ行って毎日健康的に夏を過ごせば、自分もこんがりいい色に日焼けすると思っていたけれど――。
「……まあいっか。日焼けはオンナのお肌の天敵だもんね」
あとからシミやそばかすとして残ることを思えば、焼けない方がよかったのかもしれない。
「――さて、片付けが終わったらまたあの本読もうっと。それまでもうひと頑張りだな」
愛美は腰を上げ、残りの荷物の片付けに取りかかった。
* * * *
――その二日後に無事珠莉がイタリアから帰国し、九月。二学期が始まった。
「――いやー、助かったぁ。愛美が宿題教えてくれたおかげで、あたしも恥かかずに済んだわ。ありがとね」
三限目終了のチャイムが鳴るなり、さやかが愛美の席までやってきた。
「そう? 役に立ててよかった」
始業式の日は授業がなく、ホームルームが終わるとあとは生徒たちの自由時間。寮にまっすぐ帰るもよし、街へショッピングに出るもよし。
なので、さやかが愛美に放課後の予定を訊ねた。
「愛美、このあとどうする? 寮に帰る? それともどっかに買いもの行く?」
「う~ん。お買いものは行きたいけど、制服のまんまはちょっと……。一度寮に帰って着替えて、お昼ゴハンが済んでからにしようよ」
他の同級生は、何の抵抗もなく制服のままで街に繰り出しているらしいけれど。愛美はそれに抵抗があるのか、まだ慣れないでいる。
服を着替えることで、学校とそれ以外のスイッチを切り替えたいのかもしれない。
「あたしはどっちでもいいけど……。愛美がそうしたいんなら、あたしもそうするよ。ねえ、珠莉も行く?」
さやかはいつの間にか近くに来ていた珠莉にも話を振った。
「お二人が行くのなら、もちろん私もご一緒するわ」
珠莉という子は初対面の時はツンケンしていて、あまり好きになれないタイプだと愛美は思っていたけれど。半年近く付き合ってきて分かった気がする。
本当の彼女は、淋しがり屋なんだと。――そう思うと、彼女に対する反感とか苦手意識がなくなってきた。
「うん。じゃあ三人で行こう」
「しょうがないなぁ。愛美がそう言うんなら」
さやかもやっぱり、なんだかんだ言っても愛美と仲良しでいたいし、珠莉との距離も縮めようと努力しているんだろう。
――というわけで、この日の放課後は三人で、街までショッピングに繰り出すこととなった。
三人は教室を出て、寮に向かうべく校舎二階の廊下を歩いていく。
その途中、文芸部の部室の前を通りかかると――。
「……ん? 見て見て、愛美! コレ!」
さやかが一枚の張り紙の前で立ち止まり、愛美に呼びかけた。
「どしたの、さやかちゃん? ――『短編小説コンテスト、作品募集中』……」
愛美の目も、その張り紙に釘付けになった。
それは、この学校の文芸部が毎年秋から冬にかけて行っている短編小説のコンテストの張り紙。よく読んでみると、「部員じゃなくても応募可」とある。
「ねえ愛美、ダメもとで出してみなよ。どうせ小説書くんなら、何か目標あった方が張り合いあるでしょ? チャレンジしてみて損はないと思うよ」
「そうねえ。愛美さんのお書きになる小説を読んでもらえる、いいキッカケになるかもしれないわよ?」
二人の友人に勧められ、愛美は考えた。
(わたしの書いた小説を、読んでもらえる機会……)
中学時代は文芸部に入っていて、部誌に作品を載せていたから、多くの人の目に自分の作品が触れる機会があった。そのおかげで〝あしながおじさん〟の目にも止まり、愛美は今この学校に通えている。
それに、施設の弟妹たちに向けてもお話を書いて読ませてあげていた。
高校に入ってから約半年、やっと巡ってきた機会だ。乗るかそるか、と訊かれれば――。
(もちろん、乗るに決まってる!)
「うん。――さやかちゃん、珠莉ちゃん。わたし、これに挑戦してみる!」
愛美は二人の友人に、高らかに宣言した。
「愛美っ、よくぞ言った! 頑張ってね!」
「私も応援するわ! 頑張って下さいな」
「うん! 二人とも、ありがと! わたし頑張って書くね!」
張り切る愛美は、このあと街で買うものを決めた。
(原稿用紙とペンが要るなあ。あと、資料になる本も)
当初の予定では、秋物の洋服や靴だけを買いに行くつもりでいたのだけれど。これで立ち寄る店が二軒増えた。
「ねえねえ、百円ショップと本屋さんに寄らせてもらっていい?」
原稿用紙とペンなら文房具店で買うよりも百均の方が安上がりだし、本は図書館で借りるよりも買ってしまった方が返却する手間が省ける。
「いいよ。じゃ、十二時に食堂に集合ね」
「うん、分かった」
* * * *
「――それにしても、スゴい荷物だねえ……。愛美、重たくないの?」
すべてのショッピングを終えて寮に帰る途中、重そうな袋をいくつも抱えた愛美に、さやかが心配そうに訊ねた。
「うん……、大丈夫!」
愛美は気丈に答えたけれど、本当はものすごく重かった。
五十枚入りの原稿用紙が五袋とペンが入っている百円ショップの袋と、資料にしようと買い込んだ本が何冊も入っている書店の紙袋、それプラス洋服や靴などが入った紙袋。
重いけれど、どれも必要なものだから愛美は自分で持って帰りたいのだ。
「あたし、どれか一つ持ってあげようか? ムリしなくていいから貸してみ」
「…………うん、ありがと。お願い」
少し迷った末、愛美はさやかの厚意に甘えることにした。本の入った紙袋を彼女に手渡す。
「愛美ってば、友達に意地張ることないじゃん。こういう時は、素直に頼ればいいんだよ」
「うん……。でもわたし、『周りに甘えてちゃいけない』って思ってるの。だから、今のこの状況も実は不本意なんだよね」
愛美には身寄りがない。〝あしながおじさん〟だって元を質せば赤の他人。いつまでも頼るわけにはいかない。――だから彼女は、「早く自立しないと」と思っているのだ。
「んもう! 愛美はいいコすぎるの! まだ子供なんだから、もっとワガママ言っていいんだよ? 『ツラい』とか『淋しい』とかさあ。あたしたちにはどんどん弱音吐いちゃいなよ」
さやかが姉のように、愛美を諭す。
彼女は頼られる方が嬉しいんだろう。だから、もっと愛美に「頼ってほしい」と思っているのかもしれない。
「そうですわよ、愛美さん。困っている時に誰かを頼ったり、甘えたりできるのは子供だけの特権ですわ」
「それに、おじさまだって愛美に『甘えてほしい』って思ってるかもよ? わが子も同然なんだし」
「……うん、そうだね」
と頷いてはみたものの。これまで培われてきた性格というのは、なかなか直らないものである。
そして彼女の〝甘え下手な性格〟が、この先彼女自身を苦しめてしまうことになるのだけれど、それはさておき。
「――さて、ボチボチ帰ろっか。それともどっかで一休みして、お茶でもしてく?」
「そうですわねえ。それなら私、いいお店を知ってますわよ」
(お茶……)
盛り上がっている二人をよそに、愛美はその一言に過剰に反応してしまった。初めて純也と二人でお茶した日のことを思い出し、彼女の顔はたちまち真っ赤に染まる。
「……ん? 愛美、どした? 顔赤いけど」
「…………なんか今、純也さんのこと思い出しちゃった」
「あらまあ、叔父さまのことを?」
珠莉が目を丸くした。けれど、気を悪くした様子はない。
「うん……」
「恋するオトメは大変だねえ」と、さやかは笑った。
「オッケー。お茶は寮に帰ってから、ウチの部屋でやることにして。帰ろ。その代わり――」
「えっ?」
「愛美が書こうとしてる小説の構想、聞かせてよ。……あっ、もしかして恋愛小説書くつもりだったり?」
さやかが愛美をからかってきた。ただし、彼女に悪意はない。女子高生は、人の恋バナを聞きたがるものである。
「ぇえっ!? まだ何にも決まってないよ、ホントに!」
恋愛小説なんて、今の愛美に書けるわけがない。今まで恋愛経験が全くないんだから。
「あー、そっか。今が初恋だったね。でもさ、これで恋愛小説も書けるようになるんじゃないの?」
「…………まあ、そのうちね。考えとく」
さやかに食い下がられ、愛美はそう答えた。
今も想像でなら、書けないこともないかもしれないけれど。とりあえず今は自分の気持ちだけでいっぱいいっぱいで、この経験を小説にしようなんて発想は浮かばないのだ。
「うん……、そっか。まあ、今回はどんなの書くかわかんないけどさ、頑張ってね。書けたらコンテストに出す前に、あたしたちに一回読ませてよ」
「私も読んでみたいわ。楽しみにしてますわよ」
「うん、もちろん!」
小説というのは、自己満足で終わってはいけないと愛美は思っている。
自分では「いい作品が書けた」と思っていても、客観的に読んで評価してくれる人に一度は読んでもらわないと、それが本当に〝いい作品〟かどうか分からないのだ。
親友になりつつある二人が最初の読者になってくれるなら、これ以上喜ばしいことはない。
「その代わり、忖度ナシでズバズバ批評させてもらうから。覚悟しといてね」
「ええ~~~~!? お手柔らかにお願いっ!」
「ハハハッ! 冗談だよ、冗談っ! ――さ、帰ろっ」
愛美のブーイングをさやかが笑って受け流し、三人は改めて寮への帰路についた。
* * * *
寮のさやかたちの部屋でお茶を飲み、自分の部屋に帰ってきた愛美は、荷物をすべてしまい終えると机に向かった。
開いたのは買ってきたばかりの原稿用紙……ではなく、ネタ帳兼メモ帳として使っているあのノート。開いたページには、夏休みに千藤農園で書き留めてきた小説のネタがビッシリだ。
「よしっ! 書こう」
まずは真新しいノートに、プロットを作成する。
書こうと決めたのは、子供時代の純也さんのエピソードをもとにした短編である。都会で育った男の子が、あるキッカケで農園で暮らすことになり、そこで色々な初めての〝冒険〟をする、というストーリーだ。
愛美があの時に感じたドキドキ感を、そのままこの小説の主人公に投影しようと思ったのだ。……もっとも、愛美自身は元々都会っ子ではないのだけれど。
(このプロットがひと段落ついたら、おじさまに手紙書こう)
無事に寮に帰ってきたこと、二学期が始まったこと、小説のコンテストに挑戦することを報告しなきゃ。愛美はそう決めた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
夏休みも終わって、寮に帰ってきました。そして今日から二学期です。
先生たちが「二学期から勉強が難しくなるよ」って言ってたので、わたしもほんのちょっとだけ不安です。本当に、ほんのちょっとだけ。
おじさまに、わたしから一つご報告があります。さやかちゃんの勧めで、わたしは毎年この学校の文芸部が行ってる短編小説コンテストに挑戦することにしました! いよいよわたし、作家への一歩を踏み出したんです!
このコンテストは文芸部員じゃなくても応募できるそうで、わたしも部員じゃないけど出すことにしたんです。入選したら、賞金も二万五千円出るそうです。
題材は、千藤農園でお世話になってる時に書き溜めておきました。
豊かな自然、農園での生活風景、農作業、それから子供の頃の純也さんのこと。これを全部組み立てたら、「都会育ちの男の子が初めて暮らすことになった農園での冒険」のお話ができました。
まだプロットができたところですけど、これから頑張っていい小説にします。
書きあがったら、まずはさやかちゃんと珠莉ちゃんに読んでもらうことになってますけど、ぜひおじさまにも読んで頂きたいです。
また進み具合をお知らせしますね。ではまた。 かしこ
九月一日 愛美 』
****
――それからあっという間に二ヶ月半が過ぎ、十一月の終わり頃。
「よしっ! 書けたぁ!」
夕食後の部屋で、愛美は達成感の中、原稿を書いていたペンを置いた。
授業の合間や夜の自由時間、学校がお休みの日に少しずつ書き進めていたので、原稿用紙三十枚分の短編を書くのに二ヶ月もかかってしまった。
でも、かかった時間と引き換えに「いい作品が書けた」という満足感が得られるなら、この時間も無駄ではなかったと思える。
『――ねえ。愛美は小説、パソコンで書かないの?』
書き始めの頃、愛美はさやかからそう訊かれたことがある。
『うん。わたしは手書きで勝負したいんだ。今までもそうしてきたし』
愛美はそう答えた。
部屋には〝あしながおじさん〟がプレゼントしてくれたパソコンがあるんだから、そのパソコンで執筆することもできたと思う。文章を書くことは、施設にいた頃にもうマスターしていたから。
でも、愛美は自分の書く字の丁寧さに自信を持っているし、何より手書きの方が心が込もるはずだから、あえて手書きで勝負することにしたのだ。
文芸部の短編小説コンテストの応募締め切りは十一月末なので、何とかギリギリ間に合ったようだ。
「さて。コンテストに出す前に、二人に一度読んでもらおうっと」
愛美は書き上げたばかりの原稿を手に、隣りの二人部屋へと向かった。
それが書き始める前の親友たちとの約束だったし、自分では満足のいく作品になったと思っているけれど、二人の客観的な意見も聞いてみたいと思ったのだ。
小説とは、人の目に触れて初めて評価されるものだから。今回のことも、今後小説家を目指すうえでのいいトレーニングになる。
コンコン、とドアをノックして――。
「さやかちゃん、珠莉ちゃん。愛美だけど。入っていい?」
「愛美? ――いいよ。入んなよ」
さやかの声で返事があったので、愛美はドアを開けて二人の部屋に入った。
「どしたの?」
「あのね、小説できたから。まずは約束通り、二人に読んでもらいたくて。で、感想とか、アドバイスとかもらえたらなーって」
そう言いながら、愛美はダブルクリップで綴じた原稿を、二人が寛いでいるテーブルの上に置いた。
「そっか、書けたんだ。頑張ったね! 分かった。さっそく読ませてもらうね」
原稿を取り上げたさやかは、テーブルの向かいにいた珠莉を手招き。
「珠莉もこっち来て。一緒に読もうよ」
「ええ、いいですわよ。愛美さん、私も僭越ながら、読ませて頂くわ」
「うん。じゃあわたし、自分の部屋で待ってるから」
「えー? いいじゃん、ここにいなよ。ここにあるミルクティー、飲んでていいからさ。お菓子もあるし」
一度部屋に戻りかけた愛美を、さやかが部屋に引き留める。
愛美としては、誰かに自分の小説を読んでもらう時、その場にいると落ち着かないので離れていたいのだけれど……。
「……うん、分かった」
自分がお願いしたことだし、こう手厚い待遇だと「イヤ」とも言いづらいので、この部屋に留まることにした。
(っていうか、この寮のルールでお菓子の持ち込みってどうなってたっけ?)
原稿を読む二人をチラチラ気にしながら、テーブルの上のクッキーをつまんでいた愛美は小首を傾げた。
多分、「お菓子の持ち込みはなるべく控えましょう」くらいしか書いていなかったような気がする。もし見つかっても、人に迷惑さえかけなければ寮母の晴美さんも何も言わないだろう。
――小説は原稿用紙三十枚ほどの短編なので、読み終えるのに三十分もかからなかった。
「――ねえ、どう……だった?」
さやかが原稿を置いたタイミングで、愛美はおそるおそる彼女に訊いてみた。
本物の編集者とかなら、ここはもったいぶって間を作るところだけれど。さやかはド素人なので、すぐに感想を言った。
「いいじゃん! 面白いよ、コレ。コレならコンテストでもいいところまで狙えるんじゃない?」
「えっ、ホント!?」
「うん。あたし、難しいことはよく分かんないけどさ。愛美らしさが出てていいんじゃないかな。文章で大事なのって、他の人には書けない文章かどうかってことだと思うんだよね。個性……っていうのかな。この小説には、それがちゃんと出てる」
「そっか。ありがと。――このお話はね、子供の頃に、私が夏休みにお世話になった農園で過ごした頃の純也さんがモデルになってるの」
愛美はそこまで言ってから、はたと気がついた。
(……あ、そういえば、珠莉ちゃんにはまだ話してなかったな。農園で純也さんの子供時代の話聞いたこと)
さやかには夏休みが終わる前に話して聞かせたけれど、珠莉には話す機会がなかった。さやかから彼女の耳に入っているかな……とも思ったけれど、どうやらそれもないようで。
「純也叔父さまが? ――そういえば、私もお父さまからそのお話聞いたことがありますわ。純也叔父さまは子供の頃、喘息持ちだったって」
「うん、そうらしいの。その頃はまだ農園じゃなくて、辺唐院家の別荘だったらしいんだけどね。そこのおかみさんが昔、辺唐院家の家政婦さんだったんだって」
それで、純也が病気の療養のために長野に滞在する際、彼女も同行していたのだと愛美は話した。
「へえ……、そうでしたの。その家政婦さん、多恵さんっておっしゃったかしら? 私が物心ついた頃にはもういらっしゃいませんでしたけど」
「なんかね、五十代でお仕事辞めて、ご夫婦で長野に移住されたらしいよ。せっかくあの家と土地を純也さんが譲って下さったから、って」
千藤夫妻には子供がいない、と愛美は聞いた。我が子も同然の純也さんから譲り受けたあの広い土地を、早く有効活用したいと思った多恵さんの気持ちは、愛美にも分かる。
「確か純也さん、中学卒業まではよく多恵さんたちに会いに行ってたって聞いたよ。その頃にはもう、農業始めてたんじゃないかな」
珠莉が生まれたのが十六年前。その頃にはもう辺唐院家にいなかったということは、純也さんが中学生になった頃にはもう長野に移住していたことになる。
「……私、愛美さんが羨ましいですわ。私の知らない叔父さまのことをご存じなんだもの。……あっ、別に嫉妬じゃありませんわよ!? ただ単に姪として羨ましいだけですわ!」
(珠莉ちゃん……、なんか可愛い)
顔を真っ赤にして、ムキになって言い訳する彼女に、愛美は好感が持てた。
いつもはツンとしていて澄ましているけれど、こういう姿を見ると「やっぱり彼女も一人の女の子なんだな」と思うから。
「――で、珠莉ちゃん。小説の感想は?」
「えっ? ええ、面白かったですわよ。私、あなたにこんな文才があったなんて驚きましたわ」
「あ……、ありがと。二人とも、読んでくれてありがと! わたし、さっそく明日の放課後、コレ文芸部に出してくるね!」
「そっか。あ、じゃああたしも付き合ったげるよ。一人じゃ心許ないっしょ?」
「いいの? さやかちゃん、ありがと!」
頑張って書いた小説を、久しぶりに褒めてもらえた。しかも、親友二人に。
愛美にはものすごく心強くて、「これなら本当にいけるかも!」と根拠のない自信が彼女の中に溢れてきていた。
* * * *
――そして、翌日の放課後。
「じゃあ、さやかちゃん。ちょっと行ってきます!」
文芸部の部室の前で、愛美は原稿が入った茶封筒を抱え、付き添ってくれたさやかに宣言した。
「うん、行っといで。あたしはここで待ってるから」
さやかに背中を押され、部室のスライドドアを開けようとするけれど、ためらってしまう。
(うわぁ……、緊張するなあ。でも、頑張れわたし!)
深呼吸して、もう一度スライドドアに手をかけた。
「……失礼しまーす」
「はい? ――あ、入部希望者?」
出てきたのは、ポニーテールの落ち着いた感じの女の子。多分、三年生だと思われる。彼女の左腕には〝部長〟と刺しゅうが入った白い腕章がある。
「あ……、いえ。入部の予定はないんですけど。――あの、わたし、一年三組の相川愛美っていいます。コレ、短編小説のコンテストに出したいんですけど……」
緊張でしどろもどろになりながら愛美は答え、抱えていた封筒を文芸部の部長に差し出す。
「ああ、コンテストの応募ね。ご苦労さま。確かに受け付けました」
彼女は愛美から原稿を受け取ると、笑顔でそう言った。
「部外の人の応募って珍しいのよねー。応募要項には書いてあるんだけど、なかなかハードル高いみたいで。あなたの勇気、心から歓迎するわ。結果は一月に出るから、少し待っててね」
「はいっ! よろしくお願いしますっ! じゃ、失礼します」
部室を出た愛美は、書き上げた時以上の達成感を感じながら、意気揚々とさやかの元へ。
「おかえり。――ちゃんと渡せた?」
「うん! ちょっと緊張したけど、なんとか」
「そっか、お疲れ。よく頑張ったね、愛美! じゃあ帰ろ」
実は、初めて上級生と話したのでものすごく勇気が要ったのだ。そんな愛美は、自分の頑張りをさやかが労ってくれたことがすごく嬉しかった。
「結果は一月になるんだって」
――寮に帰る途中、愛美はさやかに文芸部の部長さんから聞いたことを伝えた。
「そっか。楽しみだねー」
「うん……。でもちょっと不安かな。だって、部外の人からの応募って珍しいらしいもん。いつも部活で書いてる人たちに比べたら、わたしなんか素人だよ」
部長さんも言っていた。「部外の人からの応募はハードルが高いみたいだ」と。だから、結果が貼り出された時、その中に自分の名前があるという光景が想像できないでいるのだ。
「そんなことないよ。文芸部の部員っていったって、プロってワケじゃないっしょ? みんなアンタとおんなじ高校生なんだからさ。文章書くのが好きなのは変わんないじゃん。もっと自信持ちなって」
「……うん、そうだね」
愛美は頷く。
この高校に入れることになったのだって、〝あしながおじさん〟が自分の文才を認めてくれたからだった。それを、愛美自身が「自信がない」と言ってしまうと、彼に人を見る目がなかったということになってしまう。
愛美が自分の文才に自信を持つということはつまり、「〝あしながおじさん〟の目は正しかったんだ」と肯定することになるわけで。
(こうして目をかけてもらった以上、ちゃんと認めてもらいたいもんね。おじさまだって、期待してくれてるワケだし)
愛美だって、期待には応えたい。だからといって、その才能に驕るつもりはない。もちろん、ずっと努力は続けていくつもりでいるけれど――。
「まあ、やれるだけのことはやったからね。あとは運任せってことかなー」
「そうなるね。あたしも、愛美が入選できるように一生懸命祈っとくよ。珠莉にも言っとくから」
「……うん、ありがと。そこまでしてくれなくてもいいけど、気持ちだけもらっとくね」
ちなみに、さやかはクリスチャンでも何でもないらしい。珠莉はどうだか知らないけれど。
* * * *
――それから数週間が過ぎ、十二月半ば。世間ではクリスマスの話題で溢れかえっていた。
「二学期の期末テストも終わったし、やれやれって感じだね―」
「……うん。っていうか、さやかちゃんってそればっかりだよね」
ある日の放課後、テストの緊張感から解放されたさやかが教室の席で伸びをしていると、それを聞いた愛美が吹き出した。
ちなみに、短縮授業期間に入っているので、学校は午前で終わり。解放感に満ち溢れているのは何もさやかや愛美だけではない。
「まあねー。でも、今回は結構よかったんだ、テストの結果。珠莉も前回より順位上がってたみたい。愛美はいいなー、いっつも成績上位で」
「それは……、援助してもらって進学した身だし。成績悪いと叔父さまをガッカリさせちゃうから。最悪、愛想尽かされて援助打ち切られちゃうかもしれないもん」
もちろん、中学の頃の愛美は成績がよかったけれど。高校の授業は中学時代よりも難しくて、ついていくのは簡単なことじゃない。それでも成績上位をキープできているのは、「おじさまをガッカリさせたくない」と愛美が必死に努力しているからなのだ。
「愛美の考えすぎなんじゃないの? 本人からそう言われたワケでもないんでしょ? もっと肩の力抜いたらどう?」
「うん……」
確かに、それはあくまでも愛美の勝手な想像でしかない。「成績が悪いと援助が打ち切られる」というのは、杞憂なのかもしれない。
でも……、愛美は〝あしながおじさん〟という人のことをまだよく知らないのだ。ある日突然、手のひらを返したように冷たく突き放されてしまう可能性だってないとも限らない。
(……わたし、まだおじさまのこと信用できてないのかな……?)
彼女にとっては、たった一人の保護者なのに。信用できないなんて心細すぎる。
「――愛美、どしたの? 表情暗いよ?」
ずーんと一人沈み込んでいる愛美を見かねてか、さやかが心配そうに顔を覗き込んできた。
「……あー、ううん! 何でもない」
(ダメダメ! ネガティブになっちゃ!)
愛美は心の中で、そっと自分を叱りつける。さやかは心の優しいコだ。余計な心配をかけてはいけないと、自分に言い聞かせた。
「そう? ならいいんだけどさ。――そういえば、愛美は冬休みどうすんの? 夏休みみたいにまた長野に行くの?」
「う~ん、どうしようかな……。冬場は農業のお手伝いっていっても、そんなにないだろうし。それに寒そうだし」
長野県といえば、日本屈指の豪雪地帯である。あの農園はスキー場にも近いので、それこそ降雪量もハンパな量じゃないだろう。
「だよねえ……。あ、じゃあさ、冬休みはウチにおいでよ」
「えっ、さやかちゃんのお家に? ……いいの?」
思ってもみなかった親友からのお誘いに、愛美は遠慮がちに訊いた。
中学時代はよく友達の家に遊びに行ったりもしていたけれど、それは同じ学区内で近かったからだった。
でも、高校に入ってからできた友達の家に招かれたのは、これが初めてだ。
「うん、モチのロンさ☆ ウチの家族がね、夏にあたしのスマホの写メ見てから、愛美に会いたがっててね。特にお兄ちゃんが、『一回紹介しろ』ってもううるさくて」
ちなみに、さやかが言っている〝写メ〟とは入学してすぐの頃に、クラスメイトで関西出身の藤堂レオナがさやかのスマホで撮影してくれたもので、真新しい制服姿の三人が写っている。
「……お兄さんが? って、この写メに写ってるこの人だよね?」
肩をすくめるさやかに、愛美は自分のスマホの画面を見せた。その画面には、夏休みに彼女が送ってくれた家族写真。そのちょうど中央に、大学生だという彼女の兄が写っているのだ。
「うん、そうそう。ウチのお兄ちゃん、治樹って名前で早稲田大学の三年生なんだけど。写メ見ただけで愛美に一目ぼれしちゃったらしくてさあ」
「…………え?」
愛美は絶句した。一目ぼれなんてされること自体初めての経験で、しかも直接会ったこともない人からなんて。
……確かに、自分でも「わたしって可愛いかも」と少々うぬぼれているかもしれないけれど。
「もう、ホントしょうがないよねえ。あたし、『愛美には好きな人いるよ』って言ったんだけど。『本人から聞くまでは諦めない』って言い張って。もう参ったよ」
「ええー……?」
そこまでいくと、立派なストーカー予備軍である。愛美の恋路の妨げになりそうなら、さっさと諦めてもらった方が平和だ。
「……ねえ。お兄さん、早稲田に通ってるってことは、東京に住んでるんだよね?」
「うん。実家からでも通えないこともないんだけど、大学受かってからは東京で一人暮らししてるよ。――そういえば、純也さんも東京在住だったっけ」
そこまで言って、さやかはようやく愛美の質問の意図を理解したらしい。
「愛美は……、もし東京でウチのお兄ちゃんと純也さんが出くわすことがあったら、って心配してるワケね?」
「うん。だって、わたしが片想いしてる人と、わたしに好意持ってる人だよ? 明らかに修羅場になるよね」
愛美は実際の恋愛経験はないけれど、本からの知識でそういう言葉だけはよく知っているのだ。
「考えすぎだよー。お互いに顔も知らないじゃん。街で会ったって誰だか分かんないって。東京だって広いしさ、住んでるところも全然違うだろうし」
「そうだよね……。それはともかく、わたしはさやかちゃんのお家に行ってみたいな。おじさまに許可もらわないといけないかもだけど」
きっと、おじさまも反対しないだろうと愛美も思っていた。
彼女の手紙から、〝あしながおじさん〟が受けているさやかへの印象は、好ましいものでしかないだろうから。
「わたし、さっそくおじさまに手紙書くよ。返事来なかったらOKだと思うから」
あの久留島秘書のことだから、反対だとしたらまたパソコン書きの手紙を送りつけてくるだろう。――ひどい言い草だけれど。
「分かった。じゃ、分かり次第、あたしも実家に連絡する。一緒に来られるといいね。きっとウチの家族、愛美のこと大歓迎してくれるよ」
「うん! わたしも楽しみ!」
(おじさまが、偏屈な分からず屋じゃありませんように……!)
愛美は心の中でそう祈った。そして、もしも彼がそういう人だったら縁切ってやる、と的外れなことを誓ってもいた。
(実際には縁切らないけど。っていうか切れないし)
愛美の学費や寮費は彼が支払ってくれているのだ。万が一縁を切ったらどういうことになるかは、愛美自身がよく分かっている。
「――ところで、珠莉は冬休みどうすんの? また海外?」
さやかがやっと思い出したように、珠莉に話を振った。
「いいえ。我が家は毎年、クリスマスから新年まで、東京の家で過ごすことになってますの。一族のほぼ全員が屋敷に集まるんですのよ」
愛美はその光景を想像してみた。――〈辺唐院グループ〉の一族、その錚々たる顔ぶれが一堂に会する光景を。
(……うわぁ、なんかスゴい光景かも)
でも、その中にあの純也さんがいる光景だけは、どうしても想像できない。
「……ねえ珠莉ちゃん。純也さんも来るの?」
「いいえ、純也叔父さまはめったに帰っていらっしゃらないわね。叔父さまは一族と反りが合わないらしくて。タワーマンションで一人で暮らしてらっしゃるわよ」
「へえ……、一人暮らしなんだ」
彼がひとクセもふたクセもありそうな(あくまでも、愛美の想像だけれど)辺唐院一族の中にいる姿も想像できないけれど、タワーマンションでの暮らしぶりもまた想像がつかない。
(ゴハンとかどうしてるんだろう? もしかして、料理上手だったりするのかな?)
まあ、お金持ちだからそうとも限らないけれど。外食とかケータリングも利用しているだろうし。
「ウチはねえ、毎年お正月は家族で川崎大師に初詣に行くんだよ。愛美も一緒に行けたらいいね」
「うん」
初詣といえば、愛美も〈わかば園〉にいた頃には毎年、園長先生に連れられて施設のみんなで近所の小さな神社に行っていた。
おみくじもなければ縁起物もない、露店すら出ていない、本当に小さな神社だった。でも、そこにお参りしなければ新しい年を迎えた気がしなくて、愛美もそれがお正月の恒例行事のように思っていた。
「――さて、お腹もすいたし。そろそろ寮に帰ろっか」
「そうだね」
――寮の部屋で着替えて食堂に行き、お昼ゴハンを済ませると、愛美はさっそくさやかの家に招かれたことを報告する手紙を〝あしながおじさん〟宛てに認めた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
期末テストも無事に終わって、わたしは今回も一〇位以内に入りました。
そして、学校はもうすぐ冬休みに入ります。それで、さやかちゃんがわたしを「冬休みはウチにおいで」って誘ってくれました。
さやかちゃんのお家は埼玉県にあって、ご両親とお祖母さん、早稲田大学三年生のお兄さん、中学一年生の弟さん、五歳の妹さん、そしてネコ一匹の大家族です! ものすごく賑やかで楽しそう!
わたし、この高校に入ってからお友達のお家に招かれたのは初めてなんです。それでもって、お友達のお家にお泊りするのは生まれて初めてです。わかば園では、学校行事以外での外泊は禁止されてましたから。
さやかちゃんのお父さんは小さいけど会社を経営されてて、クリスマスは従業員さんのお子さんを招いてクリスマスパーティーをやるそうですし、お正月にはご家族で川崎大師に初詣に行くそうです。さやかちゃんだけじゃなくて、ご家族もわたしのこと大歓迎して下さるそうです。
わたし、さやかちゃんのお家に行きたいです。おじさま、どうか反対しないで下さい。お願いします!
十二月十六日 愛美 』
****
――それから四日後。
「……ん?」
寮に帰ってきた愛美は、郵便受けに一通の封筒を見つけて固まった。
(久留島さん……、おじさまの秘書さんから? まさか、さやかちゃんのお家に行くの反対されてるワケじゃないよね?)
差出人の名前を見るなり、愛美の眉間にシワが寄る。
「どしたの、愛美?」
そんな彼女のただならぬ様子に、さやかが心配そうに声をかけてきた。
「あー……。おじさまの秘書さんから手紙が来てるんだけど、なんかイヤな予感がして」
「まだそうと決まったワケじゃないじゃん? 開けてみなよ」
「うん……」
さやかに促され、愛美は封を切った。すると、その中から出てきたのはパソコンで書かれた手紙と、一枚の小切手。
「いちじゅうひゃくせんまん……、十万円!?」
そこに書かれた数字のゼロの数を数えていた愛美は、困惑した。
毎月送られてくるお小遣いの三万五千円だって、愛美には十分な大金なのに。十万円はケタが大きすぎる。
(こんな大金送ってくるなんて、おじさまは一体なに考えてるんだろ?)
「……ねえ、さやかちゃん。コレってどういうことだと思う?」
「さあ? あたしに訊かれても……。手紙に何か書いてあるんじゃないの?」
「あ……、そっか」
愛美はそこで初めて手紙に目を通した。
****
『相川愛美様
Merry Christmas!
この小切手は、田中太郎氏からのクリスマスプレゼントです。
お好きなようにお使い下さい。 久留島栄吉 』
****
「えっ、コレだけ? クリスマスプレゼント……がお金って」
愛美は小首を傾げ、うーんと唸った。ますます、〝あしながおじさん〟という人のことが分からなくなった気がする。
(プレゼントは嬉しいけど、お金っていう発想は……どうなの?)
彼の意図をはかりかねているのは、さやかと珠莉も同じようで。
「まあ、なんて現実的なプレゼントなんでしょ。一体どういう発想なのかしらね?」
「何を贈っていいか分かんないから、無難にお金にしたんじゃないの? ほら、女の子の援助するの、愛美が初めてらしいし」
「あー、なるほどね」
さやかの推測に、愛美は納得した。
娘がいる父親なら、愛美くらいの年頃の女の子が欲しがるものも大体分かるはず。ということは、彼には子供――少なくとも娘はいないということだろうか。
(もしいたとしても、まだ小さいんだろうな。まだ若い感じだったし)
「――んで? あたしの家に来ることについては、何か書いてないの?」
「ううん、何も書いてないよ。ってことは、おじさまも反対じゃないってことなのかな?」
愛美はこの手紙の内容を、そう解釈した。
それだけではない。反対していないどころか、自由に使えるお金まで〝プレゼント〟という名目で送ってくれたのだ。
「そうなんじゃない? よかったね、愛美」
「うん!」
愛美は笑顔で頷いた。
一番の心配ごとが解決し、愛美の新しい悩みが生まれる。
「――さてと。このお金で何を買おうかな……」
使いきれないほどの大金の使い道に、愛美は少々困りながらもワクワクしていたのだった。
* * * *
――あの十万円が贈られてきた日の午後、愛美は街に買い物に出かけた。
『それだけの金額あったら、欲しかったもの何でも買えるんじゃない?』
というさやかの提案に乗り、自分へのクリスマスプレゼントをドッサリ買い込むことにしたのだ。
ひざ掛けのブランケットに腕時計、大好きな作家の本をシリーズで大人買い。暖かそうなモコモコのルームソックス、新しいブーツ、洋服。そして……、テディベア。
「わぁー、ずいぶんいっぱい買い込んできたねえ。……っていうか、他のものは分かるけど、なんでテディベア?」
「実は、前から欲しかったの。施設にいた頃、毎年理事さんからのクリスマスプレゼントの中に可愛いテディベアがあったんだけど、わたしは遠慮して小さい子たちに譲ってあげてたんだ」
自分はお姉さんだから……、と遠慮して、自分は欲しいものをもらわなかった。本当に、自分はさやかに言われた通りの甘え下手だと愛美も思ったのだった。
そして、それだけの買い物をしても、まだまだ大きな金額が愛美の手元に残っていた。
* * * *
――それから五日が過ぎ、あっという間に冬休み。
「愛美ー、そろそろ出よっか」
時刻は午前十時。夏休み前とは違い、すっかり荷作りを終えた愛美の部屋に、さやかが呼びに来た。
「うん、そうだね。電車で行くんだよね?」
「そうだよ。品川駅から乗り換えるの。今日は新幹線には乗らないからね」
新幹線なら、新横浜から一駅で品川に着くけれど。たった一駅を新幹線で行くのはもったいないので、今回は「総武線で行こう」ということになったのだ。
「あたしの家、浦和駅からわりと近いから。そこからは歩きでも十分行けるんだよ」
「へえ、そうなんだ」
二人がスーツケースと大きめのバッグを携えて愛美の部屋を出ると、ちょうど東京の実家に帰ろうとしてる珠莉と合流した。
「ねえ、珠莉ちゃんはどうやって東京に帰るの? 電車で?」
愛美は珠莉に訊ねる。もしも電車で帰るのなら、途中までは自分たちと一緒かな、と思ったのだけれど。
「いいえ。校門の前まで迎えの車が来ることになってるわ。お抱えの運転手がハンドルを握ってね」
「お抱えの運転手…………。アンタん家ってマジでスゴいわ」
さやかが思わず漏らした感想に、愛美もコクコクと頷く。
(わたし、そんな車って施設の理事さんたちの車しか見たことない……)
しかも、「あれに乗ってみたい」と憧れを込めた空想を膨らませて、だ。
「……ねえ、もしかして純也さんにもいるの? お抱えの運転手さん」
彼だって一応、辺唐院一族の一人である。他の親族との折り合いは悪いと聞いたけれど、その辺りはどうなんだろう?
「いないと思いますわよ。純也叔父さまはご自分で運転なさいますから。乗用車だけじゃなくて、バイクも」
「そうなの? カッコいいなぁ」
彼が車を運転する姿は想像がつくけれど、バイクに乗る姿までは想像がつかない。
「愛美、そろそろ。ね」
さやかは「夕方までには家に着くはず」と実家の母親に連絡を入れてあるのだ。長々とお喋りをしていたら、着くのが遅くなってしまう。
「……あ、そうだった。じゃあ珠莉ちゃん、よいお年を。また三学期にね」
「よいお年をー」
「ええ、よいお年を。来年もよろしくお願い致しますわ」
愛美とさやかの二人は、そこで珠莉と別れて新横浜の駅に向かった。
「――ねえ、お昼ゴハンはどうする? 品川駅前にある美味しいお店、あたし知ってるけど」
総武線の車両に揺られながら、二人は昼食の相談をしていた。
「えっ、そうなの? じゃあ、そこでお昼にしようかな。わたし、東京のお店は知らなくて」
「あれ? 夏休みに長野行った時、東京駅で乗り換えたんじゃなかったっけ?」
さやかの言う通り、愛美が東京に立ち寄るのはこれで二度目なのだけれど。
「……うん、そうなんだけど」
確かに、愛美は夏休みに長野へ行った際、東京経由で行ったのだけれど。
「あの時は、新幹線に乗り換えるために東京駅で降りただけだったから」
「えーっ!? そうなの? もったいない!」
さやかが驚嘆の声を上げた。
「あたしなんか、中学時代までしょっちゅう東京で遊んでたよ。埼玉と東京、すぐ隣りだし」
埼玉県からなら、最短電車一本で東京まで出られる。
「いいなぁ……」
「んじゃ、愛美は今日が本格的な東京デビューなんだね。これから行くお店、ホントに美味しいとこだから。ハンバーグで有名なんだ♪」
「わぁ、楽しみ☆」
もちろん、美味しいハンバーグも楽しみだけれど、初めての東京にワクワクしていた愛美なのだった。
* * * *
――予定通りに品川の駅前でお昼ゴハンを済ませ、愛美とさやかの二人が電車で浦和駅に着いたのは午後三時前。
そこから五分ほど歩いたところに、牧村家はあった。
「――愛美、着いたよ。ここがあたしん家」
「うわぁ……! 大っきなお家だねー」
牧村家は大通りから少し路地を入ったところにあり、愛美が思っていた以上に大きな家だった。
〝豪邸〟とまではいかないけれど、愛美がよく知っている中学時代の友達の家よりはずっと大きくて立派だ。
「わたし、もっと小ぢんまりしたお家かと思ってた。……ゴメンね、さやかちゃん」
「ううん、いいよ。ここら辺、東京より土地安いからさ。ウチは家族多いし、これくらいでちょうどいいんだ」
「そうなんだ? ……あれ?」
愛美は牧村家の外観を眺めながら、首を傾げた。
(この家……、どこかで見たような。どこだっけ?)
「ん? どしたの?」
「あー……、えっとねえ。わたし、このお家をどこかで見たような気がして。来るの初めてのはずなのに」
初めてのはずなのに、どこかで見たような感じ。それは愛美にとって、不思議な既視感だった。
(えーっと、どこだったかなぁ……? う~ん……)
愛美は自分の記憶を一生懸命たどっていく。高校に入ってからではないはずだから、多分その前だ。きっと、まだ施設にいた頃――。
「……あ、思い出した!」
「えっ、どこで見たか分かったの?」
「うん。わたしね、施設にいた頃によく理事さんたちの車眺めながら空想してたの。自分があのリムジンに乗って、お屋敷に帰っていくところ。その中に、ここにそっくりなお家が出てきてたんだ」
……そうだ。この家の外観は、あの時の空想に出てきた豪邸にそっくりだったのだ。
あの頃の愛美は、こんな大きな家に住むことに憧れていた。その光景が今、現実に自分の目の前にある。厳密には、友達の家だけれど。
「そうなんだ? けどまあ、ウチは立派なのは外観だけで、中はホントに普通の家と変わんないよ? 珠莉の家の方がずっと豪華なんじゃないかな。あたしも行ったことないけど」
「そうなの? あんまり立派すぎると、わたし萎縮しちゃうな……」
「まあ、そうなるかもね。とにかく中入ろ? ――お母さーん、ただいまぁ! 友達連れてきたよー」
さやかが玄関のドアを開け、愛美にも「おいでおいで」と手招き。愛美は「おジャマしまーす」と礼儀よく声をかけ、玄関の三和土で脱いだウェスタンブーツをキレイに揃えた。ついでに、さやかの編み上げショートブーツも揃えておく。
「さやか、おかえりなさい。あら! 愛美ちゃんね? いらっしゃい」
「はい。冬休みの間、お世話になります」
出迎えてくれたさやかの母親に(写真を見せてもらっていたので、顔は覚えていた)、愛美は丁寧に頭を下げた。
彼女は四十代半ばくらいで、髪はサッパリとしたショートボブカット。身長はさやかとほぼ同じくらいに見える。千藤農園の多恵さんや〈わかば園〉の聡美園長に似た、優しそうで温厚そうな顔立ちだ。
「さやかから話は聞いてるわ。ここを自分の家だと思って、寛いでいってね」
「はいっ! ありがとうございます!」
(さやかちゃんのお母さん、いい人だなぁ)
きっと彼女は、愛美に両親がいないことも、施設で育ったことも娘から聞いているんだろう。まさに、愛美の理想の母親像そのものだ。
「ねえお母さん。お兄ちゃん、もう帰ってきてんの?」
「ええ、昨日帰ってきてるわよ。大学は冬休みが長いから」
と、母親が言うのが早いか。
「よう、さやか! おかえり。……おっ!? キミが愛美ちゃんか。いやー。マジで可愛いじゃん♪」
さやかの兄・治樹がリビングから玄関まで出てきて、デレデレの顔で愛美を出迎えた。
「……あー、ハイ……」
そのあまりのチャラ男ぶりに、愛美も困惑する。というか、ドン引きしているといった方が正しいだろうか。
「もう、お兄ちゃん! やめなよ、みっともない! 愛美も引いてんじゃん! ――ゴメンね―、愛美。お兄ちゃん、こんなんで」
「ううん、大丈夫。……ただ、ちょっとビックリしたけど」
驚いたのは本当だった。愛美は今まで、こういうチャラ男系の男性と接したことがなかったのだ。
写真だけではそこまで分からなかったので、実際に会って初めて分かった事実に引いてしまっただけだ。
「さやか、お前なぁ……。兄ちゃんに向かって〝こんなん〟ってなんちゅう言い草だよ」
「だって事実じゃん。長男なのに頼んないし、女の子見たらデレデレ鼻の下伸ばすし。〝こんなん〟呼ばわりされても仕方ないっしょ」
そんな愛美をよそに、兄妹で言い合い(というか漫才?)を始めたさやかたちに、愛美は思わず吹き出した。
「はははっ、面白ーい! さやかちゃんって、お兄さんと仲いいんだね―。わたし羨ましいな」
こうして遠慮なく言い合えるのは、実の兄妹だからだ。施設で育った愛美にとっては、こういう光景も憧れだった。
「愛美っ! もう……。ここ笑うとこじゃないって。……まあいっか」
さやかは笑っている愛美に抗議しながらも、どこか楽しそうだ。というか、初めて家に来た友達の前で兄とやりあったことがよっぽど恥ずかしかったらしい。
「――あ、お兄ちゃん。そういやお父さんは?」
「今日はちょっと遅くなるって言ってたけど。父さんも愛美ちゃんに会えるの楽しみにしてたから、晩メシには間に合うんじゃねえの?」
「そっか……。四月から新年度だから、今からあちこち注文入るんだよね」
さやかの父親が経営しているのは、作業服メーカーである。自社製品だけではなく外部の企業からユニフォームの注文も受けているため、この時期は忙しくなるのだ。
特に、社長の忙しさは他の社員の比ではない。
「――あの、治樹さん……でしたっけ。わたしからちょっとお話があるんですけど」
「ん? なに?」
治樹が自分に好意を持っているらしいことを思い出した愛美は、思いきって自分から「好きな人がいる」と打ち明けることにした。
「あの……、さやかちゃんからも聞いてると思うんですけど。わたし、他に好きな人がいて。わたしのこと気に入ってくれてるのは嬉しいんですけど、お付き合いとかそういうのは……、ちょっと……。ゴメンなさい」
本当は、もっとキッパリ言うつもりだったのだけれど。愛美は恋も初めてなら、異性をフるのもこれが初めてだ。治樹がいい人そうなので、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。
「…………あー、こんなに早くフられるとはなぁ……。ちょっとショックだわ、オレ」
「ホントにゴメンなさい。でもわたし、自分の気持ちにウソつきたくなくて」
「いや、もういいよ。謝んないで。愛美ちゃんがすごくいいコだってことは分かったから。さやかにも何割か……いや何パーセントか分けてやってほしいわ」
「ちょっとお兄ちゃん! それ、どういうイミよ!?」
目くじらを立てた妹に、治樹はしれーっと言い返す。
「愛美ちゃんの優しさを、お前もちったぁ見習え、っつってんの」
「はあっ!?」
(……ヤバ。わたしのせいで兄弟ゲンカ始まっちゃった)
この状況に責任を感じた愛美は、どうにかこの場を収めるためにフォローを入れた。
「あの……、治樹さん。さやかちゃんはすごく優しいし面倒見もいいですよ。わたしなんか、いつもさやかちゃんに助けてもらってばっかりだし」
「そうなんだ……。あ、じゃあさ、これからもさやかと仲良くしてやってよ。こんなヤツだけど」
「だーかーらぁ、〝こんなヤツ〟ってどういうイミなのよ!?」
「まあまあ。さやかちゃん、落ち着いて!」
またケンカになりそうな牧村兄妹を、愛美は必死になだめた。
「――あ、姉ちゃん。おかえりー。そのお姉さん、誰?」
愛美がさやかと治樹と一緒にリビングへ入ると、あの家族写真に写っていた父親以外の家族がズラッと揃っていた。
そして、その中で中学一年生だというさやかの弟が口を開く。
「ただいま、翼。このコはお姉ちゃんの友達で、相川愛美ちゃんだよ」
「翼くんっていうの? よろしくね」
「っていうかアンタ、また靴脱ぎ散らかしたまんまにしてたでしょ。『脱いだ靴はちゃんと揃えなさい』って、いっつもお母さんに言われてるでしょ?」
「あ、ゴメン! 忘れてた」
翼というさやかの弟は、ボサボサ頭を掻きながらペロッと舌を出す。
(素直なコだなぁ)
中学生の男の子なら、反抗期に入っていてもおかしくないのに。両親の育て方がいいからなんだろうか。
(さやかちゃんも治樹さんも優しいし)
「おねえたん、おかえりなさぁい。ココたんも『おかえり』っていってるよー」
「ただいま、美空。ココもただいま」
五歳の妹・美空に微笑みかけたさやかは、彼女が抱っこしている三毛猫の頭を撫でた。
(可愛いなぁ……)
愛美はその光景にホッコリした。
美空は写真で見ても十分可愛かったけれど、実物はそれ以上に可愛い。猫のココを抱っこしているので、今はその可愛さが二倍になっている。
「美空ちゃんっていうんだね。初めまして。わたしはお姉さんのお友達で、愛美っていうの。仲良くしてね」
「うんっ! まなみおねえちゃん、よろしくおねがいしますっ」
美空が舌足らずで一生懸命言うのを待って、ココも「にゃあん」と一鳴き。
「かぁわいい~~!」
思わずほわぁんとなってしまう愛美だった。
「――さやかちゃん、おかえりなさい。愛美ちゃんも、よく来てくれたわねえ」
次にさやかと愛美の二人に声をかけてくれたのは、さやかの祖母・雪乃だった。
歳は七十代初めくらいで、髪は肩までの長さのロマンスグレー。物腰の柔らかそうな、おっとりした感じの女性である。
「おばあちゃん、ただいま。しばらく帰ってこられなかったけど、元気そうだね。安心した」
「相川愛美です。さやかちゃんにはいつもよくしてもらってます」
「そう? よかったわ。ウチの孫たちはみんな、いいコに育ってくれて。私も嬉しいわ」
このリビングにいる面々に一通り挨拶を済ませた頃、さやかの母・秀美がティーカップの載ったお盆を手にしてやってきた。
「愛美ちゃん、あったかい紅茶をどうぞ。ストレートでよかったかしら? お砂糖はコレね」
お盆にはシュガーポットとスプーンも載っていた。さやかの分もある。
「わあ、ありがとうございます。頂きます」
カップを受け取った愛美は、シュガースプーン二杯のお砂糖を入れて紅茶に口をつけた。紅茶は甘めが好みである。
さやかは甘さ控えめで、お砂糖は一杯だけだ。
「――あ、そうだ。明日は午後からクリスマスパーティーするから。愛美ちゃんもぜひ参加してよ」
「ああ、さやかちゃんから聞いてます。従業員さんのお子さんたちを招いて開くんですよね。もちろん、わたしも参加します」
愛美は頷く。この家に来る時の楽しみの一つだったのだ。
「そうそう。中学生以下のコたち限定なんだけどね。毎年、お兄ちゃんがサンタさんのコスプレしてプレゼント配るの。んで、あたしもトナカイコスで手伝ってるんだよ。今年は愛美にも手伝ってもらおっかな」
「わあ、楽しそう☆ わたしも手伝うよ!」
「んじゃ、愛美はサンタガールコスかな。トナカイじゃかわいそうだもんね」
「おお、いいじゃん! ぜってー可愛いとオレも思う」
兄妹が盛り上がる中、愛美は自分がミニスカサンタになった姿を想像してみる。
(わたし、小柄なんだけど。似合うのかな……? でもまあ、トナカイよりは……)
「…………そうかな? じゃあ……、それで。でもいいの? さやかちゃん、今年もトナカイだよ? たまにはミニスカサンタのカッコしてみたいとか思わない?」
「あー、いいのいいの。もう慣れたし」
(慣れたんだ……)
この兄と一緒に育ってきたら、きっとそうなるだろうと愛美も思った。
「あとね、お母さんが毎年クリスマスケーキ焼いてくれるんだ。それが超美味しいんだよねー」
「へえ、そうなんだ。それも楽しみだなあ」
クリスマスは毎年ワクワクしていた愛美だけれど、今年は友達のお家で過ごす初めてのクリスマス。いつも以上にワクワクしていた。
(この楽しい時間は、あしながおじさんが下さった最高のプレゼントかも!)
彼は十万円という大金と一緒に、友人と過ごす冬休みというこの有意義な時間もプレゼントしてくれたんだと愛美は思ったのだった。
「――愛美ちゃん。今日の晩ゴハンはハンバーグなんだけど、好き? あと、嫌いなものとか、アレルギーとかはない?」
秀美さんが愛美に訊ねる。一家の主婦として、我が子の友人が家に連泊するとなれば色々と気を遣うんだろう。
「あ、はい。ハンバーグ、大好物です。好き嫌いもアレルギーもないです。何でも食べられますよ」
施設で育ったので、好き嫌いなんて言っていられなかった。幸い、生まれつき食品アレルギーもないようだし。
「っていうか愛美とあたし、今日ハンバーグ二回目だね。お昼も食べてきたじゃん?」
「……あ。そうだった」
お昼に品川で食べたハンバーグも美味しかった。でも、家庭のお母さんハンバーグはまた別である。
「あら、そうだったの? ゴメンなさいねえ、気が利かなくて。でもね、ウチのは煮込みハンバーグだから、また違うと思うわよ?」
「お母さんの煮込みハンバーグはソースが天下一品なんだよ。愛美も気に入ると思う」
「わあ、楽しみ☆ じゃあ、わたしもお手伝いします」
お呼ばれした身とはいえ、上げ膳据え膳では申し訳ない。それに、実は料理が得意な愛美である。
「じゃ、あたしも手伝うよ」
「そうねえ。愛美ちゃんはともかく、さやかはこの家の子なんだから、手伝ってもらわなきゃね」
「……お母さーん、それ言う?」
母と娘の何気ない会話だけれど、それだけでも愛美は微笑ましく感じるのだった。
* * * *
――翌日の午後、治樹が言っていた通り、クリスマスパーティーが開催された。
とはいっても、牧村家ではスペースが限られるので、自宅から徒歩数分のところにある〈作業服のマキムラ〉の工場にある梱包スペースを借り切って、である。
この縦長の広いスペースをキレイに片付け、飾りつけし、クリスマスツリーを飾ったらクリスマスパーティーの会場の出来上がり。
「中学生以下のコ限定」とさやかが言っていたわりには、二十人近い子供たちが集まって、とても賑やかになった。
「――やあやあ、みんな。サンタのお兄さんだよ。みんないい子にしてるかね?」
そこへ、サンタクロースのコスプレをした治樹が、白い大きな袋を担いで参上した。ミニスカサンタのコスプレをした愛美と、トナカイの着ぐるみでコスプレをしたさやかも一緒である。
「お兄ちゃん……、〝サンタのお兄さん〟はないんじゃない? 子供たち、リアクションに困ってるって」
トナカイさやかから、すかさずツッコミが入る。
彼女の言う通り、子供たちは〝サンタのお兄さん〟の登場にポカーンとしている。……特に、小学校高学年から上の子たちが。
「まあまあ、細かいことは気にするな☆ ……ほーい、じゃあみんな、プレゼント配るぞー。サンタのお姉さんも手伝ってな」
「はーい。サンタのお姉さんだよー。みんなよろしくねー」
ミニスカサンタになれた愛美もノリノリである。一人冷静なさやかは、「……ダメだこりゃ」と呆れていた。
ちなみに、用意したプレゼントは百円ショップで買ってきたおもちゃや文房具、手袋や靴下などだ。これまた百円ショップで仕入れてきたラッピング用品で、三人で手分けして可愛くラッピングしてある。
トナカイさやかも一緒に、三人で子供たちにプレゼントを手渡していく。小さい子たちは「わーい、ありがとー」とはしゃぎながら受け取り、大きい子たちは比較的クールに、それでも嬉しそうに受け取っていた。
(……なんか、不思議な気持ち。〈わかば園〉の理事さんたちもきっと、こんな気持ちだったのかな)
子供たちの喜ぶ顔を見ると、自分も嬉しくなる。理事さんたちも、それが嬉しくて援助してくれていたのかな、と愛美は思った。
(きっと、今のあしながおじさんだってそうなんだ)
愛美が自分のおかげで楽しい高校生活を送れているんだと、彼だって思っているに違いない。だから、愛美が困っていたりした時には、色々と手を尽くしてくれるんだろう。
「――みんなー、クリスマスケーキを持ってきたわよー。みんなで分けて食べてねー」
そこへ、大きなケーキの箱を持った秀美さんもやってきた。箱の中身は、白いホイップクリームと真っ赤なイチゴでデコレーションした大きなホールケーキだ。
「わあ、キレイ! 食べるのもったいない。でも美味しそう☆」
「お母さん、ありがと☆ みんなで食べよ♪」
「はーい。じゃあ切り分けるわね。治樹、紙皿とフォーク出してくれる?」
「ほいきた」
秀美さんがケーキを切り分けてくれ――ケーキは実は二つあった――、治樹が出した紙皿に取り分けて、さやかと愛美が二人がかりで子供たちに配って回った。もちろん、三人の分もある。
「じゃあみんな、いただきま~す!」
「「「いただきま~す!」」」
ケーキを食べ始めると、そこはもう大変なことになっていた。
愛美たちお兄さんお姉さんの三人はそうでもないけれど、小さい子たちの食べ方といったらもう。愛美は母性本能をくすぐられた。
「あーあー、クリームでお顔がベタベタだねえ。お姉さんが拭いてあげる」
すぐ隣りに座っている小さな男の子の、クリームまみれになった顔を、愛美はテーブルの上のウェットティッシュでキレイに拭いてあげた。
「愛美、やっぱ手馴れてるね―」
「施設にいた頃、よく小さいコたちにやってあげてたからね。――はい、いいお顔になったよ」
「愛美ちゃん、いいお母さんになりそうだな」
「……いやいや、そんな」
愛美は治樹の言葉を謙遜で返した。
「お兄ちゃん、まだ愛美のこと諦めてないの?」
「……うっさいわ。オレはただ、素直に褒めただけ。なっ、愛美ちゃん?」
「えっ、そうだったんですか?」
愛美が素でキョトンとしたので、さやかが大笑い。
「愛美、さぁいこー! めちゃめちゃ天然じゃんー!」
「……えっ、なにが?」
今まで「天然だ」と言われたことがなかったし、自分でもそう思ったこともなかったので、愛美にはいまいちピンとこない。
「いいのいいの。愛美はもうそのまんまで」
「…………?」
愛美が首を傾げたので、さやかはまた大笑い。治樹もつられて笑い、兄妹二人で大爆笑になったのだった。
* * * *
――新年を迎え、冬休みも終わりに近づいた頃、愛美は一通の手紙を〝あしながおじさん〟に書き送った。一枚の写真を添えて。
****
『拝啓、あしながおじさん。
あけましておめでとうございます。少し遅くなりましたけど、今年もよろしくお願いします。
今年の冬休みは、埼玉県さいたま市のさやかちゃんのお家で楽しく有意義に過ごしました。色々ありすぎて、何から書こうかな。
まず、お家にビックリ。わかば園にいた頃、わたしが空想していたお家にそっくりだったんです。まさか自分があのお家の中に入れるなんて、夢にも思いませんでした! でも今、わたしはこのお家にいます。もうすぐ寮に帰らないといけないのが淋しいです。
そして、ご家族もステキでいい人ばかりです。さやかちゃんのご両親にお祖母さん、早稲田大学三年生で東京で一人暮らし中のお兄さん(治樹さんっていいます)、しょっちゅう脱いだ靴をそろえ忘れる中学一年生の弟の翼君、五歳ですごく可愛い妹の美空ちゃん、そして三毛猫のココちゃん。
ゴハンの時もすごく賑やかだし、みんな楽しい人たちで、すごくあったかい家庭です。わたしも将来結婚したら、こんな家庭を作りたいなって思います。
さやかちゃんのお父さんは作業服メーカーの社長さんで、お家のすぐ近くに工場があります。クリスマスには、その工場の梱包スペースを飾りつけしてクリスマスパーティーをしました。
従業員さんのお子さんたちを招いて、治樹さんがサンタさんのコスプレをして、お子さんたちにプレゼントを配りました。さやかちゃんはトナカイの、わたしもミニスカサンタのコスプレをして、それをお手伝いしました。
何だか不思議な気持ちになりました。きっと、わかば園の理事さんたちもこんな気持ちなのかな、って。もちろん、今わたしを援助して下さってるおじさまも。
大晦日はみんなで紅白歌合戦を観て、除夜の鐘の音を聴いてから寝ました。
元日にはさやかちゃんのお父さんの車で、川崎大師まで初詣に行きました。何をお願いしたのかは、おじさまにもナイショです。
そこでおみくじを引いたら、治樹さんは凶、さやかちゃんは吉で、わたしはなんと大吉でした! 今年もいい一年になりそうです。
治樹さんは「なんで自分だけ凶なんだ!?」って大騒ぎしてて、わたしとさやかちゃんは二人で大爆笑しました(笑)
そして、さやかちゃんのお父さんからお年玉を頂きました。おじさま、気を悪くなさらないで下さいね。さやかちゃんの友達だから、娘も同然みたいに思って下さってるんです。
ところで、同封した写真に気づかれました? これは入学して間もない頃、クラスメイトの一人にさやかちゃんのスマホで撮ってもらった写真を、コンビニでプリントアウトしてきてもらったものです。わたしとさやかちゃん、珠莉ちゃんが写ってます。わたし、この写真をスマホとパソコンの壁紙にしてるんですよ。
鼻がちょっと上を向いててニコニコ笑ってるのがさやかちゃん、背が高くてちょっと澄ましてるのが珠莉ちゃん、そして真ん中にいる一番小柄なのがわたしです。
最後にもう一度、本年もどうかよろしくお願いします。おじさまにとっても、よい一年になりますように……。 かしこ
一月五日 愛美 』
****
バイバイ、ネガティブ。
――三学期が始まって、一週間ほどが過ぎた。
「見てみて、愛美! 短編小説コンテストの結果が貼り出されてるよ!」
一日の授業を終えて寮に戻る途中、文芸部の部室の前を通りかかるとさやかが愛美を手招きして呼んだ。
「今日だったんだね、発表って。――ウソぉ……」
珠莉も一緒になって掲示板を見上げると、愛美は自分の目を疑った。
「スゴいじゃん、愛美! 大賞だって!」
「…………マジで? 信じらんない」
思わず二度見をしても、頬をつねってみても、その光景は現実だった。
【大賞:『少年の夏』 一年三組 相川愛美 〈部外〉】
「確かに愛美さんの小説のタイトルね。あとの入選者はみんな文芸部の部員さんみたいですわよ?」
「ホントだ。ってことは、部員外で入選したの、わたしだけ?」
まだ現実を受け止めきれない愛美が呆然としていると、部室のスライドドアが開いた。
「相川さん、おめでとう! あなたってホントにすごいわ。部外からの入選者はあなただけよ。しかも、大賞とっちゃうなんて!」
「あー……、はい。そうみたいですね」
興奮気味に部長がまくし立てても、愛美はボンヤリしてそう言うのが精いっぱいだった。
「表彰式は明日の全校朝礼の時に行われるんだけど。あなたには才能がある。文芸部に入ってみない?」
「え……。一応考えておきます」
「できるだけ早い方がいいわ。あなたが二年生になってからじゃ、私はもう卒業した後だから」
「……はあ」
愛美は部長が部室に引き上げるまで、終始彼女の勢いに押されっぱなしだった。
「――で、どうするの?」
「う~ん……、そんなすぐには決めらんないよ。誘ってもらえたのは嬉しいけど」
「まあ、そうだよねえ」
今はまだ、大賞をもらえたことに実感が湧かないけれど。気持ちの整理がついたら、文芸部に入ってもいいかな……とは思っている。
「そうだ愛美。このこと、おじさまに報告しなくていいの?」
さやかに言われるまで、そのことを忘れかけていた愛美はハッとした。
「そっか、そうだよね。わたし、そこまで考えてなかった。ありがと、さやかちゃん!」
愛美の夢に一番期待してくれているのは、〝あしながおじさん〟かもしれないのだ。だとしたら、この喜ばしい出来事を真っ先に彼に報告するのがスジというものである。
「きっとおじさまも、愛美さんの入選を喜んで下さいますわよ。私も純也叔父さまにお知らせしておきますわ」
「……ありがと、珠莉ちゃん」
純也さんに知らせると聞いて、愛美は照れた。彼ならきっと、手放しに大喜びして飛んでくるだろう。
(いやいやいやいや! そんなの純也さんに申し訳ないよ。忙しい人みたいだもん)
ちょっと遠慮がちに思う愛美だった。飛んできて「おめでとう」を言われるなら、純也さんよりも〝あしながおじさん〟の方がいい。……まだ顔も本名も知らないけれど。
(……そうだ。今回の手紙には、さすがのおじさまも「おめでとう」ってお返事下さるよね)
普段は自分で返事の一通も書かず、必要な時には秘書の久留島氏にパソコンで返事を書かせる彼も、自分が目をかけた女の子が夢への大きな一歩を歩みだしたとなれば、何かしらのアクションを起こすだろう。
(どうしても手紙書きたくないなら、スマホにメール送ってくれればいいんだし)
いくら忙しい身でも、メールの一通くらいは送信できるだろう。――それにしても、便利な世の中になったものである。
――というわけで、部屋に戻って着替えた愛美は夕食前のひと時、座卓の上にレターパッドを広げてペンを執った。
****
『拝啓、大好きなおじさま。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
それはさておき、聞いて下さい! 秋に応募した文芸部の短編小説コンテストで、わたしの小説が入選したんです! しかも大賞!
今日の放課後、部室の前に貼り出されてる自分の名前を見ても、信じられませんでした。だって、入選した人の中で一年生はわたしだけ。しかも、他の人はみんな文芸部の部員さんだったんですよ。
そして、部長さんにベタ褒めされて、文芸部への入部を勧められました。部長さんはもうすぐ卒業されるので、早めに返事がほしいみたいでしたけど、わたしはひとまず保留にしました。もしかしたら、二年生に上がってから入るかもしれませんけど。
どうですか、おじさま? わたしは小説家になるっていう夢へ向けて、大きな一歩を歩み始めました。それはおじさまの夢でもあるはずですよね? 喜んで下さいますか?
もしよかったら、「入選おめでとう」っていうお返事を書いて下さる気にはなりませんか? もし「手紙を書くのが面倒くさい」っていうなら、わたしのスマホにメールを下さい。この手紙の最後にアドレスも書いておきますね。
以上、初入選の報告でした☆ ではまた。 かしこ
一月十五日 愛美 』
****
「いくら忙しくたって、メール送るヒマもないなんてことないもんね♪」
愛美はメールアドレスまで書き終えると、フフッと笑った。
それでも何の反応も示さなければ、わざと無視していることになる。自分の娘も同然の存在に対して、そこまで薄情な振舞いはできないと思う。
――その手紙を出してから一週間が経ち、二週間が経ち……。愛美がいくら待てど暮らせど、〝あしながおじさん〟からの手紙はおろか、メールすら一通も来ない。
「――はあ……」
愛美は今日も、スマホの画面を見てはため息をつく。
「愛美、おじさまからは一向に音沙汰ナシ?」
「うん……。手紙来ないのはいつものことだけど、メールも来ないなんて」
さやかに訊かれて愛美は、一段と大きなため息とともにグチった。
「……ねえ、さやかちゃん。いくら忙しくても、仕事の合間にメール一通送信するくらいはできるよね? わたし、手紙にメアドまで書いたんだよ」
「うん、そうだね。愛美からの手紙には目を通してるはずだし」
果たしてどうだろうか? さやかは〝あしながおじさん〟が絶対に愛美からの手紙を読んでいるはずだと思っているようだけれど、愛美は彼のことを信じきれなくなっていた。
「それでもさあ、意地でも返事しないってことは、わたしのことわざと無視してるってことじゃないの? 人ってそんなに平然と相手のこと無視できるもんなのかな?」
自分が嬉しかったことを、〝あしながおじさん〟にも一緒に喜んでもらいたいと思うのはワガママなんだろうか?
いくら甘えたくても、相手に知らん顔されていたらどうしようもない。
「愛美、それは考えすぎだよ。愛美のこと大事に思ってくれてるから、おじさまは助けてくれてんでしょ? 無視なんかするワケないじゃん。きっと体調崩してるとか、そんなことだと思うけどな」
「……さあ、どうだろ。わたし、もう分かんない。おじさまが何考えてるのか。わたしのことどう思ってるのか」
吐き捨てるように、愛美は言った。一旦入ってしまったネガティブスイッチは、なかなか元に戻らない。
「もしかしたら、わたしのことウザいとか面倒くさいとか思ってるかも。私の手紙に迷惑がってるとか」
「そんなことないよ。絶対ないから!」
さやかが諭すように、愛美を励ます。
「……ありがと、さやかちゃん。でもね――」
「ほらほら! 眉間にスゴいシワできてる! あんまり深刻に考えないで、ドッシリ構えてなよ。――ほら、もうすぐ学年末テストもあるしさ。それでいい報告できたら、おじさまもなんか返事くれるかもよ?」
さやかに励まされ、愛美は少しだけやさぐれかけていた気持ちが解れた気がした。
「……うん、そうだね。ありがと」
向こうの事情もまだ分からないのに、一人でウダウダ悩んでいても仕方ない。あとはひたすら待つしかないのだ。
「さて、今日はウチの部屋で一緒にテスト勉強する?」
「うん。とか言って、ホントはわたしに教えてもらいたいだけなんでしょ?」
「……うっ、バレたか。ねー愛美ぃ、お願い! 珠莉も愛美に教わりたいって。ねっ、珠莉?」
「……えっ? ええ……」
突如巻き込まれた珠莉は一瞬戸惑ったけれど、実はさやかの言った通りだったらしい。
「もう。しょうがないなあ、二人とも。じゃあ、寮に帰ろう。着替えたらすぐ行くから」
やり方は不器用ながら、二人は懸命に自分を励まそうとしてくれている。それが分かった愛美は、二人の親友の提案に乗ることにしたのだった。
* * * *
――それから一週間が過ぎ、学年末テストも無事に終わった。
けれど、愛美の体調は無事ではなく、テスト期間中から喉をやられているのかゴホゴホと咳込んでいた。
「大丈夫、愛美? カゼでも引いた?」
「ううん、大したことないよ。ちょっと喉の調子が悪いだけ」
ムリしてさやかに笑いかける愛美だけれど、実は喉の痛みだけでなく頭痛にも悩まされていた。
「そう? だといいんだけどさ。――それにしても、愛美はやっぱスゴいわ。今回はとうとう学年でトップ5に入っちゃったもんね」
「……まあね」
今度こそ、〝あしながおじさん〟に自分の頑張りを褒めてもらいたくて、愛美は必死に頑張ったのだ。たとえ、少々体調が優れなくても。
ただ――、体調が悪い時、人とは得てしてネガティブになるもので。
(もし、これでもおじさまに褒めてもらえなかったら……? もしかしてわたし、やっぱりおじさまに迷惑がられてる?)
少なからず、愛美には自覚があった。
考えてみたら、勉強に関することはほとんど手紙に書いたことがない。身の回りに嬉しい出来事や何かの変化があるたびに、手紙を出しては彼を困らせているのかもしれない。
最初に「返事はもらえない」と、聡美園長から聞かされていたのに……。
(わたしって、おじさまにとっては迷惑な〝構ってちゃん〟なのかも)
「――愛美、どした? 具合悪いの?」
一人で黙って考え込んでいたら、さやかが心配そうに顔色を覗き込んでいる。
「ううん、平気……でもないか。わたし、ちょっと思ったんだよね」
「ん? 何を?」
「おじさまは、いつもわたしの出した手紙、ちゃんと読んでくれてるのかな……って。もしかしたらうっとうしくて、読みもしないでゴミ箱に直行してるんじゃないか、って」
こういう時には、最悪の展開しか思い浮かばなくなる。
「秘書の人からは返事来てたけど、おじさまからは一回も来てないんだよ? もしかしたら、秘書の人は読んでくれてても、おじさまは読もうともしてないとか――」
「……愛美、怒るよ」
愛美のあまりのネガティブさに、さすがのさやかも見かねたらしい。眉を吊り上げ、静かに愛美のネガティブ発言を遮った。
「おじさまは、あんたの一番の味方のはずでしょ? あんたが信じてあげなくてどうすんのよ? 大丈夫だって! おじさまはちゃんと、愛美の手紙読んでくれてるよ! んでもって、一通ももれなくファイルしてあるよ、きっと!」
「ファイル……って」
最後の一言に、愛美は唖然とした。いくら小説家志望の彼女も、そこまでの発想はなかったらしい。
(……そういえば、園長先生もさやかちゃんとおんなじようなことおっしゃってたっけ)
このデジタル全盛期の時代にあって、〝あしながおじさん〟が愛美にメールではなく、手紙を書くことを求めた理由。それは、愛美の成長ぶりを目に見える形で残しておきたいからだと。
「まあ、それは発想が飛躍しすぎてるかもしんないけど。とにかくあんまり一人で深刻になんないことだね。グチだったらあたし、いっくらでも聞いてあげるからさ。あたしになら好きなだけ甘えていいよ」
「……うん、ありがと」
愛美はためらいながらも頷く。けれど、心の中では密かにある決意を固めていた。
(さやかちゃんの気持ちはすごく嬉しいけど、わたしは誰にも甘えちゃいけないんだ。だから、もう決めた! こうなったら、とことんまで〝構ってちゃん〟になってやる! おじさまが根負けして返事を下さるまで!)
〝構ってちゃん〟で結構。――愛美はもう開き直っていた。向こうがそう思っているならなおさら、それで押し通すつもりでいた。
(おじさまも血の通った人間なら、さすがに最後は音をあげるでしょ)
――それはともかく、愛美はまた咳込んだ。
「愛美、あんまりムリしちゃダメだよ? ただのカゼじゃないかもしんないし、明日は学校休んで病院でちゃんと診てもらった方がいいよ」
「うん、分かった。ありがとね」
――寮に帰った愛美は、今日も郵便受けに何も来ていないのを確認してから、どうすれば〝あしながおじさん〟がアクションを起こすのか考えた。
(コレなら、おじさまだって無視はできないよね♪)
彼がロボットでもない限り、何かしらの反応があるはず。
怒るかもしれないし、愛美に愛想を尽かすかもしれない。――でも、この時の愛美はそんなことを考えもしなかった。体調が悪いせいで、思考回路まで不調をきたしていたのかもしれない。
****
『拝啓、田中太郎様
もしかして、あなたはわたしのことを迷惑だと思っていませんか? 「女の子なんて面倒くさい」って、相手をするのもばからしいって無視してるんじゃないですか?
わたしがあなたをニックネームで呼ぶのも、本当はイヤなんですよね?
そうでなかったら、あなたは何の感情も持たないロボットと同じです。名前さえ教えてくれないような、冷たい人に手紙を書いたって、わたしには張り合いがありません。
わたしの手紙はきっと、あなたには読まれていない。秘書さん止まりで、あなたは読みもしないでゴミ箱に放り込んでるに決まってます。
もしも勉強のことにしか興味がないのなら、今後はそうします。
学年末テストは無事に終わりました。わたしは学年で五位以内に入って、二年生に進級できることになりました。 かしこ
二月二十日 相川愛美 』
****
――こんなバチ当たりな手紙を出した報いだろうか。愛美はこの手紙が投函された翌日、四十度の高熱を出して倒れ、付属病院に入院することになってしまった。
* * * *
「――愛美、具合はどう?」
入院してから十一日後、愛美の病室にさやかがお見舞いにやってきた。
看護師さんにベッドを起こしてもらっていた愛美は、窓の外を眺めていた。今日は朝から雨だ。
「うん、まあボチボチかな。食欲も出てきたけど」
「そっか、よかった。――コレ、今日の授業でとったノートのコピーね」
「さやかちゃん、ありがと」
愛美はお礼を言いながら、さやかがテーブルの上に置いたルーズリーフの束を取り上げた。
――愛美は四日前には体温も三十七度台まで下がり、点滴も外してもらって、お粥だけれど普通食を食べられるようになった。
でも……、一つ気がかりなことがあって、それ以上病状がよくなってはいなかった。
「さやかちゃん、……郵便受けには今日も何も?」
「うん、来てないよ。あれからもう四日経つよね。そろそろおじさまも、何かアクション起こしてもいい頃だと思うんだけど」
「そっか……」
表情を曇らせて答えるさやかに、愛美はガックリと肩を落とす。
――愛美は医師の診察の結果、インフルエンザと診断された。入院してから数日は高熱が続き、おでこに冷却シートを貼られて点滴を打たれていた。
四日前にやっと熱も下がってきて、起き上がっても大丈夫になったので、〝あしながおじさん〟に自分が今インフルエンザで入院中だということを手紙で書き送ったのである。前回、あんなひどい手紙を出してしまったことへの謝罪も兼ねて。
「あんなことを書いたのは、病気で神経が参っていたからだ」と。
その手紙をさやかに出してきてもらい、もう四日。さやかの言う通り、そろそろ返事か愛美の容態を訊ねる手紙でも来ないとおかしいのに……。
「……わたし、おじさまにとうとう愛想尽かされちゃったかな」
「ん?」
愛美がポツリと呟く。彼女はある可能性を否定できなかった。
〝あしながおじさん〟はあの最悪の手紙に腹を立て、自分のことを見限ったんじゃないか、と。
こんな失礼なことを書くような子には、もう援助する価値もないと。
愛美自身、その自覚がある。今となっては、どうしてあの時にあんなバカなことを書いてしまったんだろうと後悔している。
甘え下手にもほどがある。他にいくらでも書きようはあったはずなのに……。
「さやかちゃん、わたし……。おじさまに見捨てられたら、もうここにはいられなくなるの。他に行くところもないの。取り返しのつかないことしちゃったかもしれない」
「大丈夫だって、愛美! おじさまはこんなことで、愛美のこと見捨てたりしないよ! そんな器の小さい人じゃないはずでしょ? それは愛美が一番よく知ってるはずじゃん?」
「うん……」
まだ〈わかば園〉にいた頃、中学卒業後の進路に悩んでいた愛美に手を差し伸べてくれた唯一の人が〝あしながおじさん〟だった。他の理事さんたちは、誰一人として助けてくれなかったのに。
高校入試の時にも、高校に入ってからも、彼は愛美に色々な形で援助をしてくれている。
そんな懐の深い人が、こんな小さなことで愛美を見放すわけがないのだ。
「まあ、あたしもまた小まめに郵便受け覗いてみるから。あんまり悩みすぎたらまた熱上がっちゃうよ。愛美は早く病気治して、退院することだけ考えなよ。……あんまり長居するのもナンだし、あたしはそろそろ失礼するね」
「うん。さやかちゃん、毎日お見舞いに来てくれてありがとね」
「いいよ、別に。インフルエンザならあたしはもう免疫できてるし、親友だもん。珠莉も一回くらい来りゃあいいのに」
さやかは口を尖らせた。
愛美が入院してから、彼女は毎日病室に顔を出しているけれど、珠莉は一度も来ていない。理由は、「インフルエンザのウィルスをもらいたくないから」らしい。
「予防接種くらい受けてるはずじゃん? 友達なのに薄情なヤツ!」
「……ゴメン、さやかちゃん。わたしも予防接種は……。注射が苦手で」
きっと珠莉も注射が苦手だから、インフルエンザの予防接種から逃げていたんだろう。愛美にはその気持ちが痛いほど分かる。
「えっ、そうだったの? ゴメン、知らなかった」
自身は注射を打たれてもケロリンパとしていられるさやかが、知らなかったこととはいえ愛美に謝った。
「じゃあ、また明日来るね」
さやかが病室を出ていくと、愛美は個室に一人ポツンと残された。「インフルエンザは感染症だから、隔離が必要」ということでそうなったのだ。
同じ一人部屋でも、寮の部屋とはまるで違う。寮なら隣りの部屋にいるさやかと珠莉が、ここにはいない。
こうしてお見舞いには来てくれるけれど、帰ってしまうと一人ぼっちになってしまうのだ。
「まだ降ってる……」
窓の外をじっと見つめながら、愛美は呟いた。朝からずっと降り続いている雨は、今の愛美の心によく似ている。
(さやかちゃんはああ言ってくれたけど、ホントにおじさま、わたしに愛想尽かしてないのかな……?)
こんな天気のせいだろうか? 愛美の心もすっきり晴れない。
――と、そこへ一人の看護師さんがやってきた。赤いリボンの掛けられた、やや大きめの真っ白な箱を抱えて。
「――相川さん。コレ、お見舞い。ついさっき届いたんだけど」
「……えっ? ありがとうございます……」
(お見舞い? 誰からだろ?)
箱を受け取った愛美は、首を傾げながら箱に貼られた配達伝票を確かめる。――と、そこには信じられない名前があった。
「田中……太郎……」
秘書の〝久留島栄吉〟の名前ではなく、〝あしながおじさん〟の仮の名前がそこには書かれている。しかも、直筆で。
「送り主は、あなたの保護者の方?」
先に名前を確かめたらしい看護師さんが、愛美に訊ねた。
「はい。――あの、開けてもいいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞ」
リボンをほどいて箱のフタを開けると、そこにビッシリ入っているのはピンク色のバラの花。
「フラワーボックスね。キレイ」
「はい……。あ、メッセージカード?」
思わず感動を覚えた看護師さんに頷いた愛美は、バラの花の上に乗っている小ぶりな封筒に気づいた。
『相川愛美様 田中太郎』
表書きの字は、伝票の字と同じで右下がりの変わった筆跡だ。
****
『相川愛美様
一日も早く、愛美さんの病状がよくなりますように。回復を祈っています。
田中太郎より 』
****
二つ折りのメッセージカードには、これまた封筒の表書きと同じ筆跡でそれだけが書かれていた。
(おじさま、わたしの手紙、ちゃんと読んでくれてるんだ……)
カードの文字を見つめていた愛美の目に、みるみるうちに涙が溢れてきた。
もちろん、この贈り物が嬉しかったからでもあるけれど。〝あしながおじさん〟のことが信じられなくなって、あんな最低な手紙を書いてしまった自分が情けなくて、腹立たしくて。
(……わたし、バカだ。おじさまはこんなにいい人なのに。返事がもらえないことも分かってたのに、あんなことして、おじさまを困らせて)
愛想を尽かされても仕方のないことをしたのに、お見舞いのお花に手書きのメッセージカードまで送ってくれた。――愛美は今日ほど、〝あしながおじさん〟の存在をありがたいと思ったことはない。
愛美はそのまま、看護師さんが困惑するのもお構いなしに、声を上げて泣き出した。
泣くのなんて、〈わかば園〉を巣立った日以来、約一年ぶりのことだ。あれからの日々は、愛美に涙をもたらさなかった。もう泣くことなんてないと思っていたのに。
「ほらほら、相川さん! あんまり泣くと、また熱が上がっちゃうから」
オロオロしつつ、看護師さんがボックスティッシュを差し出す。それで涙と鼻水をかむと、数分後には涙も治まった。
「――あの、看護師さん。ペンとレターパッド、取ってもらってもいいですか?」
気持ちが落ち着くと、愛美は看護師さんにお願いした。
「お礼の手紙、書きたくて。他にも書かないといけないことあるんで」
「……分かった。――はい、どうぞ。じゃあ、私はこれで。お大事に」
「ありがとうございます」
看護師さんが病室を出ていくと、愛美はテーブルの上のペンをつかみ、レターパッドを広げた。
〝あしながおじさん〟にお礼を伝えるため、そしてきちんと謝るために。
****
『拝啓、あしながおじさん。
今日は朝から雨です。
お見舞いに来てくれたさやかちゃんが帰ってから、ブルーな気持ちで外の雨を眺めてたら、看護師さんが病室に、リボンのかかった大きめの白い箱を持って来てくれました。「届いたばかりのお見舞いだ」って。
箱を開けたら、キレイなピンク色のバラのフラワーボックスで、そこには伝票と同じ個性的な、それでいて人の好さがあらわれてる筆跡で書かれた直筆のメッセージカードが添えてありました。
わたし、それを読んだ途端、声を上げて泣いちゃいました。このお花が嬉しかったのももちろんありますけど、おじさまを信じられなかった自分を罵りたい気持ちでいっぱいになって。
おじさまはわたしの手紙、ちゃんと読んで下さってたんですね。返事が頂けなくても、いつもわたしが困った時には助けて下さってるんだもん。
おじさま、ありがとうございます。そして、ゴメンなさい。もう〝構ってちゃん〟は卒業します。それから、ネガティブになるのもやめます。わたしには似合わないから。
さやかちゃんが言ってました。おじさまは絶対、わたしの手紙を一通ももれなくファイルしてるはずだって。だからこれからは、ファイルされても恥ずかしくないような手紙を書くつもりです。
でも、こないだの最低最悪な一通だけは、ファイルしないでシュレッダーにでもかけちゃって下さい。あの手紙は、二度とおじさまの目に触れてほしくないですから。書いてしまったこと自体、わたしの黒歴史になると思うので。
おじさま、もしかして「女の子は面倒くさい」なんて思ってませんか? では、これで失礼します。
三月三日 愛美 』
****
――翌日、さやかにこの手紙を投函してもらった愛美は、胸のつかえがおりたおかげでみるみるうちに元気になり、その二日後には退院することができた。
〝病は気から〟とはよくいったものである。
「――さやかちゃん、珠莉ちゃん! ただいま!」
二週間ぶりに寮に帰ってきた愛美は、自分の部屋に入る前に、隣りの親友二人の部屋にやってきた。
元気いっぱいの声で、二人に笑いかける。
「おかえり……。愛美、もう大丈夫なの!?」
「うん、もう何ともないよ。さやかちゃん、毎日来てくれてありがとね。心配かけちゃってゴメン」
ビックリまなこで訊ねたさやかに、愛美は安心させるように答えた。
あのフラワーボックスが届いた日に流した涙が、愛美の中の蟠りやネガティブな心を全部洗い流してくれたのかもしれない。
「愛美さん、一度もお見舞いに伺えなくてゴメンなさいね」
「いいんだよ、珠莉ちゃん。わたしも分かるから。注射が苦手だから、予防接種受けてなかったんでしょ?」
「……ええ、まあ」
(やっぱりそうなんだ)
愛美はこっそり思った。
つい一年ほど前に初めて会った時には、冷たくてとっつきにくい女の子だと思っていたけれど。こうして自分との共通点を見つけると、ものすごく親近感が湧いてくる。
「――もうすっかり春だねぇ……。そしてもうすぐ、あたしたちも二年生か」
「そうだね。もう一年経つんだ」
暖かい日が少しずつ増えてきて、校内の桜の木も蕾を膨らませ始めている。
一年前、希望と少しの不安を抱いてこの学校の門をくぐった時は、愛美は独りぼっちだった。頼れる相手は、手紙でしか連絡を取れない〝あしながおじさん〟たった一人。もちろん、地元の友達なんて一人もいなかった。
でも、今はさやかと珠莉という心強い二人の親友に恵まれた。他にもたくさんの友達ができた。
もう一人でもがく必要はない。何か困ったことがあれば、まずはこの二人に話せばいい。それから〝あしながおじさん〟を頼ればいいのだ。
「――あ、そうだ。四月からあたしたち、三人部屋に入れることになったからね」
「えっ、ホント!? やったー♪」
愛美はそれを聞いて大はしゃぎ。二学期が始まる前に、愛美とさやかとで話していたことが実現したらしい。
さやかの話によれば、愛美の入院中にさやかがその話を珠莉にしたところ、「それじゃ私も一緒がいい」と珠莉も言いだしたのだという。
そして、ちょうど具合のいいことに、同じ学年で三人部屋を希望するグループが他にいなかったため、空きが出たんだそう。
「来月からは、三人一緒だね。わたし、嬉しいよ。一人部屋はやっぱり淋しいもん」
「うん。あたしも珠莉も、愛美とおんなじ部屋の方が安心だよ。もうあんなこと、二度とゴメンだからね」
愛美が倒れた時、発見したのはさやかと珠莉だった。女の子二人ではどうしようもないので、慌てて晴美さんと男性職員さんを呼んできて、車で付属病院まで連れて行ってもらったのだった。
「一緒の部屋だったら、もっと早く気づけたのに……」と、さやかも落ち込んでいたらしい。
「うぅ…………。その節はありがと。でも、もうわたし、一人で悩んだりしないから。もうネガティブは卒業したの」
「そっか」
今は心穏やかでいられるから、悩むこともない。愛美は生まれ変わったような気持ちになっていた。
(バイバイ、ネガティブなわたし!)
愛美は心の中でそう言って、後ろ向きな自分に別れを告げた。
そして愛美の高校生活は、もうすぐ二年目を迎える――。
純也の来訪、再び。
****
『拝啓、あしながおじさん。
わたしが横浜に来て、二度目の春がやってきました。そして、高校二年生になりました!
今年は一人部屋じゃなく、さやかちゃんと珠莉ちゃんと三人部屋です。お部屋の真ん中に勉強スペース兼お茶スペースがあって、その周りに三つの寝室があります。でも、ルームメイトだったらそれぞれの寝室への出入りは自由なんだそうです。
そして、わたしは文芸部に入ることにしました。小説家になるには、個人で書くだけじゃ多分、人から読んでもらう機会は少ないと思うので。もっとたくさんの人の目に触れるには、その方がいいと思うんです。
今年は一年生の頃よりもたくさんの本を読んで、たくさんの小説を書こうと思います。
一年前、わたしは孤独でした。でも今は、さやかちゃんと珠莉ちゃんという頼もしい親友がいるので、もう淋しくありません。
ではまた。これからも見守っててくださいね。 かしこ
四月四日 二年生になった愛美 』
****
――新学期が始まって、一週間が過ぎた。
「愛美、結局文芸部に入ることにしたんだ?」
夕方、授業を終えて寮に帰る道すがら、さやかが愛美に訊いた。――ちなみに、もちろん珠莉も一緒である。
「うん。せっかく誘ってもらってたしね。あの時の部長さんはもう卒業されちゃっていないけど、大学でも文芸サークルに入ってるんだって。たまに顔出されるらしいよ」
愛美は春休みの間にそのまま茗倫女子大に進学した彼女を訪ね、わざわざ大学の寮まで出向いた。
大学の寮〈芽生寮〉は、この〈双葉寮〉よりもずっと大きくて立派だった。外部からの入学組も多いため、収容人数も高校の寮の比ではない。
「へえ、そっか。喜んでたでしょ、先輩」
「うん。二年生だけど、新入部員だからなんかヘンな感じだね」
「そんなことないよ。むしろ新鮮だって思うべきだね、そこは」
上級生になったからって、いきなり先輩ヅラする必要はない。一年後輩の子たちとも、新入部員同士で仲良くなれたらそれでいい。そうさやかは言うのだ。
「そうだね。――ところで、二人はもう部活決めた?」
一年生の時は、それぞれ学校生活に慣れるのに必死だろうからと、部活のことは特に言われなかったけれど。二年生にもなれば、各々入りたい部活ややりたいことも見つかるというもので。
――もっとも、この学校は部活に対しても生徒個人の意思に任せる校風なのだけれど。
「あたしは陸上部かな。中学でも三年間短距離やってたし、小さい頃から運動得意なんだよね」
「へえ、スゴい! 珠莉ちゃんは?」
「私は茶道部かしら。お茶とお花は大和撫子のたしなみですもの」
対照的な性格の親友たちは、部活を選ぶ基準も対照的だ。運動神経のいいさやかと、「さすがはお嬢さま」という珠莉。それでも仲良くできているのだから、世の中は不思議である。
ところが、そんな珠莉にさやかが茶々を入れる。
「そんな優雅なこと言ってるけど、ホントはお茶菓子が食べたいだけなんじゃないのー?」
「……んなっ、そんなことありませんわ! さやかさんじゃあるまいしっ」
「どうだかねえ」
珠莉はムキになって否定したけれど、本当のところはどうなんだろう?
(まあ、楽しめたら理由なんて何でもいいよね)
本当に茶の湯を学びたかろうが、お茶菓子目当てだろうが、どちらでもいいと愛美は思う。
「――あら?」
「……ん?」
〈双葉寮〉の手前まで来た時、珠莉が寮の前に佇む一人の男性の姿に気がついて声を上げた。
百九十センチはありそうな身長といい、ナチュラルブラウンの髪の色といい、あれは――。
「やあ。久しぶり」
「純也さん……」
「おっ、叔父さま!」
やっぱりその男性は、ベージュ色のスーツをビシッと着こなしている純也さんだった。
今日は何やら箱を持っている。――あの中には何が入っているんだろう?
「今日はどうなさいましたの? ご連絡もなしでいらっしゃるなんて」
「いや、仕事の用事で横浜まで来たから、ついでに寄ったんだ。連絡しなかったのは、ビックリさせようと思ったからだよ」
叔父と姪の会話に入っていけない愛美の背中を、さやかがポンと叩いた。
「……えっ?」
「ほら、行っといで」
「わわっ!」
そのまま文字通り背中を押された愛美は、純也さんの目の前で止まった。
(~~~もう! さやかちゃんのバカ!)
純也さんと話したいのに、緊張でなかなか言葉が出てこない。あたふたしている愛美の顔は今、茹でダコみたいに赤くなっているに違いない。
「あ……、あの。お久しぶりです」
「久しぶりだね。去年の夏に、電話で話したきりだったっけ?」
「はい、そうですね」
千藤農園にかかってきた電話のことだ。もう忘れていると思っていたけれど、彼はちゃんと覚えていてくれた。
「体調はどう? 冬にインフルエンザで入院してたって、珠莉から聞いたんだけど」
「――あら? 私、そのこと叔父さまにお話したかしら?」
「えっ、どういうこと?」
困惑気味に交わされた親友二人の会話は、幸いにも愛美の耳には入らなかった。
「もうすっかり元気です。一ヶ月以上も前のことですよ? でも心配して下さってたんですね。ありがとうございます」
「そっか、よかった。僕もお見舞いに来たかったんだけど、仕事が詰まっててね。ゴメン」
「いえ、いいんです。そんなに気を遣わないで下さい」
病気でふうふう言っている時よりも、元気になってからこうして会いに来てくれた方が、愛美は嬉しい。
「――ところで叔父さま、その箱は?」
珠莉が目ざとく、叔父の手にしているケーキの箱のようなものを指さして訊ねた。
「ああ、コレか? 差し入れに、横浜駅の駅前のパティスリーで買ってきたチョコレートケーキだよ。ちょうどいい。愛美ちゃんの全快祝いにもなるかな?」
純也がいうパティスリーは、ちょっと値の張るケーキやスイーツが売られているお店で、中にはカフェも併設されている。でも、高級店のイメージが強いので、女子高生にはなかなか入りづらいお店でもある。
……それはさておき。
「えっ、チョコレートケーキ!? ありがとうございますっ!」
チョコと聞いて、さやかが目を輝かせたのはいうまでもない。
「ねえ叔父さま、まだお時間あります? でしたら、私たちのお部屋で一緒にお茶にしません? そのケーキを頂きながら」
「うん、まあ……大丈夫だけど。愛美ちゃんはどうかな?」
「ああ、それいいねえ☆ ね、愛美?」
「ええっ!?」
純也さんとさやかの二人に畳みかけられた愛美は、返事に困ってしまう。
別にイヤではない。むしろ嬉しい。けれど、好きな人と何を話していいのか分からない。
……というか、さやかも珠莉も、面白がってけしかけているとしか思えない。のはおいておいて。
「…………ハイ。わたしも一緒にお茶したいです」
多分まだ真っ赤な顔をしたまま、愛美も頷いた。
「ホントにいいのかい? イヤならムリにとは言わないけど――」
「いえ、大丈夫です。イヤなんかじゃないです。むしろ……嬉しいです」
ちょっと食い気味に言って、愛美はやっと純也さんにはにかんで見せた。
「そっか……、よかった。でも、寮母さんからは何も言われないのかな?」
「大丈夫だと思いますよ。心の広い人ですから」
純也さんの疑問には、さやかが答えた。
「お帰りなさい。――あら。どうも」
今日も笑顔で三人を迎えた晴美さんは、純也さんの姿を認めて目を瞠った。
「こんにちは。その節はどうも。――これから、姪たちの部屋でお茶会をしたいんですが、構いませんか?」
一年前の五月に一度、純也さんと面識のある晴美さんは、彼の顔をうっとりと見ながら答えた。
「ええ、どうぞどうぞ。ごゆっくり」
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて」
純也さんが晴美さんに会釈をしてから、四人は寮のエレベーターに乗って三〇一号室へ。そこが愛美たちの部屋である。
「――晴美さん、純也叔父さまに見とれてらしたわね」
「単なる目の肥やしじゃないの? イケメンは目の保養になるからさ」
(イケメン……)
エレベーターの中でさやかと珠莉のガールズトークを聞きながら、愛美は自分より四十センチも背の高い純也さんの横顔をおそるおそる見上げた。
ちょっと切れ長の目に、すっと整った鼻筋。シャープな輪郭。――なるほど、確かにイケメンだ。晴美さんがうっとり見とれてしまうのも分かる。きっと、他の女性もそうだろう。
(でも、わたしは彼を顔だけで好きになったんじゃないもん)
もちろん、彼がセレブの御曹司だからでもない。彼の内面にある優しさや穏やかさ、時々見せてくれる無邪気さに、愛美は惹かれたのだ。
「……? どうかした?」
あまりにも夢中になって見つめていたら、ふと視線が合ってしまった。
「あ……、いえ。何でもないです」
愛美ひとりが気まずくなって、ごまかしながら視線を落とした。
恋愛経験が皆無で、異性に免疫のない愛美は、まだ男性と目が合うことに慣れていないのだ。
純也さんはそれなりに女性との交際歴もあるようだから、これくらい何ともないだろうけれど……。
――エレベーターを降りてすぐ目の前が三〇一号室だ。
「さ、叔父さま。ここが私たちのお部屋ですわ」
珠莉が先頭になって叔父を勉強スペースに案内し、愛美たちはフローリングの上にスクールバッグを下ろした。
「――さて、紅茶を淹れる前にケーキを切り分けようか。この部屋に包丁かナイフはある?」
「あ、果物ナイフならありますよ。キッチンはこっちです」
「ありがとう。じゃあ、それを使わせてもらうかな」
純也さんは愛美に案内されて、勉強スペースの隅に設けられた小さなキッチンへ。
そこにあった果物ナイフを持って、テーブルの場所に戻ってきた。
「純也さん、お皿とフォーク出しときました」
「ああ、ありがとう。――えっと、君は……」
「自己紹介がまだでしたよね。あたし、珠莉とは二年連続でルームメイトになった牧村さやかっていいます」
「さやかちゃん、だね。よろしく。さっき、チョコレートケーキって聞いてすごく喜んでたね。チョコ好きなの?」
「え……、はい。見られてたんだ……」
純也さんに笑いながら訊かれたさやかは、愛美とは違って恥ずかしさに赤面しながら呟く。
恥ずかし過ぎて自らも笑い出した彼女につられて、キッチンでお茶の準備をしていた愛美も珠莉も笑い出し、室内は和やかな空気に包まれた。
「――さて、切り分けようか」
ジャケットを脱ぎ、ブルーのカラーシャツの袖をまくった純也さんが、ホールで買ってきたチョコレートケーキを八等分に切ってくれ、四枚のお皿に二切れずつ載せた。
「二つも食べられるかしら……」
四人分のティーカップを熱湯で温めていた珠莉が、キッチンから心配そうに言った。
彼女はモデル並みのスタイルをキープしたいので、太らないか気にしているのだ。
「大丈夫だよ、珠莉ちゃん。珠莉ちゃんが食べられなかったらわたしがもらうし、わたしがムリでもさやかちゃんが喜んで平らげてくれるよ」
さっきの喜び方からして、彼女ならチョコスイーツはいくらでも入るんだろう。
「……そうね。ところで愛美さん。私ね、先ほど叔父さまがおっしゃったことで、一つ引っかかっていることがあるんだけど」
「ん? 引っかかってることって?」
愛美は首を傾げた。――彼は何か気になるようなことを言っていただろうか? と。
「…………いえ、何でもないわ」
何か言いかけた珠莉は、言うのをためらったあと、結局やめた。
愛美はますますワケが分からなくなり、頭の中には〝?〟マークが飛んだ。
(珠莉ちゃん、何が引っかかってるんだろ?)
「――そういえば珠莉ちゃん、純也さんに知らせてくれてたんだね。わたしが入院してたこと」
「……えっ? ええ……」
珠莉は戸惑いながらも頷く。――何に戸惑っているのかは、愛美には分からなかったけれど。
「そっか。ありがとね、珠莉ちゃん。おかげでまた純也さんに会えた」
「……とっ、当然のことでしょう? 親友なんですから、私たちは。――さ、紅茶が入ったわ。テーブルまで運ぶわよ」
思いがけず、愛美に感謝された珠莉は満更でもなさそうで、照れ隠しにつっけんどんな態度を取ってみせた。
「うん。お砂糖はシュガーポットごと持ってって、各自の好みで入れてもらうってことでいいよね?」
「ええ、そうね」
さやかは甘さ控えめ、純也さんは自分と同じ甘めが好みだと愛美は知っているけれど。珠莉の好みまではまだ把握していない。
カフェや喫茶店じゃあるまいし、一人一人にいちいち訊いていたらキリがない。各自で入れてもらう方が合理的ではある。
「――紅茶が入ったよー。お砂糖はここね。各自で入れて下さーい」
愛美は珠莉と手分けして、紅茶で満たされた人数分のティーカップをテーブルに置いて回った。最後にシュガーポットをテーブルの真ん中に置き、説明する。
珠莉は太りたくないのか、紅茶にお砂糖を入れなかった。
「ありがとう。じゃあ、頂こうか」
「「「いただきます」」」
女子三人が手を合わせ、全員がフォークに手を伸ばした。
「――美味し~♪ フワフワ~☆」
チョコスイーツには目がないさやかが、一口食べた途端にうっとりと顔を綻ばせた。
見た目は濃厚そうなチョコレートケーキは、食べてみるとそれほど甘さがしつこくなく、フワッと口の中で溶けてしまう。
「ホントだ。コレなら二切れくらい、ペロッと食べられちゃうね」
愛美も同意した。これなら胸やけの心配もなさそうだ。
「二切れも食べられるのか」と心配していた珠莉も、一切れはあっという間に平らげ、早くも二切れめにかかっている。
「――ところで愛美ちゃん。千藤農園はどうだった?」
ケーキを一切れ残し、紅茶を飲んでホッとひと息ついた純也さんが、愛美に訊ねた。
話すのはもう八ヶ月ぶり、しかも前回は電話だったので、面と向かっては約一年ぶりになる。
「はい、すごくいいところでした。空気はおいしいし、星空もキレイだったし、みなさんいい人でしたし。色々と勉強になることも多くて」
「そっかそっか。楽しかったみたいで何よりだよ」
愛美の答えに、純也さんは満足そうに笑った。
「ホタルは見に行った?」
「いえ。いるらしいってことは、天野さんから聞いたんですけど。わたしは遠慮したんです。一人で行ってもつまんないし、もし見に行くなら好きな人と一緒がいいな……って」
その〝好きな人〟を目の前にして、とんでもないことを口走ってしまったと気づいた愛美は、最後の方はモゴモゴと口ごもってしまった。
「好きな人……いるんだ?」
「ぅえっ? ええ、まあ……」
正面切って訊ねられ、愛美は思わず挙動不振になってしまう。
(う~~~~っ! 穴があったら入りたいよぉ……)
これ以上勘繰られても困るので、愛美はコホンと小さく咳ばらいをし、気を取り直して話題を農園のことに戻した。
「――純也さん、子供の頃にあの場所で過ごしてたんですよね? 喘息の療養をしてたって。多恵さんが教えて下さいました」
「多恵さんが? 僕について、他には何か言ってなかった?」
「純也さんのこと、ベタ褒めしてらっしゃいましたよ。すごく正義感が強くて、素直で無邪気な子だったって」
多恵さんがベタ褒めしていた純也さんのいいところは、大人になっても変わっていないと愛美は思う。彼は今でも、純粋で優しくてまっすぐな人だから。
「いやぁ、そんなに褒められてたか。ちょっと照れ臭いな」
そう言いながら、頬をポリポリ掻く純也さん。でも、言葉とはうらはらにとても嬉しそうだ。
(こういうところが素直なんだよね、この人って)
だから愛美も、彼に惹かれたんだと思う。
「久しぶりに多恵さんに会いたいな。去年の夏は忙しくて、長期休暇も取れなかったから行けなかったけど。今年の夏は何とか農園に行けそうなんだ」
「えっ、ホントですか? 多恵さん、きっと喜んでくれますよ」
「うん。夏のスケジュールがまだハッキリしてないから分からないけど、多分行けると思う」
(今年の夏は、純也さんも一緒……。わたしも行かせてもらえるかな)
〝あしながおじさん〟が気を回して、そう手配してくれたらいいのになぁと愛美は思った。
それとも、「男と一緒なんてけしからん!」なんて怒って、許してくれないだろうか?
「――ねえ愛美、純也さんに言うことあったんじゃない? ほら、小説の」
「あ、そっか」
愛美が純也さんの子供時代をモデルにして小説を書いたことを、彼はまだ知らないはずだ。珠莉から聞いているなら話は別だけれど、それでも本人の口から伝えるに越したことはない。それが誠意というものだ。
さやかに助け船を出され、愛美は思いきって純也さんに打ち明けた。
「あのね、純也さん。実はわたし、子供の頃の純也さんをモデルにして、短編小説を書いたんです。で、それを学校の文芸部主催のコンテストに出したの」
「僕をモデルに、小説を?」
「はい。……あの、気を悪くされたならすみません」
「いや、別にそんなことはないよ。気にしないで」
純也さんは、こんなことで怒るような人じゃない。それは愛美にも分かっているけれど、本人に無断でモデルにしたことは事実だ。それは褒められたことじゃないと思う。
「そうですか? よかった。――で、その小説がなんと、大賞を取っちゃったんです」
「へえ、大賞? スゴいじゃないか。おめでとう」
純也さんは目を大きく見開いたあと、愛美に「おめでとう」を言ってくれた。
〝あしながおじさん〟からはとうとう言ってもらえなかった言葉。でも、純也さんに言ってもらえたので、もうそんなことはどうでもいいように愛美には感じられた。
「ありがとうございます。――援助して下さってるおじさまにも手紙でお知らせしたんですけど、何も言って下さらなくて。わたし、ちょっとヘコんでたんです。でも、純也さんに言ってもらえたからそれで満足です」
「そうなんだ……。まあ、彼もどう伝えていいか分からなかったんだろうね。女の子が苦手みたいだし」
「え……?」
(どうしてこの人が、そのこと知ってるの……?)
愛美は純也さんをじっと見つめる。――一年前に、〝あしながおじさん〟のことは話したと思うけれど。そのことはまだ話していないはずなのに。
「ええ、まあ、そうらしいんですけど。どうして純也さん、そのことご存じなんですか? わたし、まだお話ししてませんよね?」
回りくどいのはキライな性分の愛美は、正面から疑問をぶつけてみた。
「それはね……。実は僕と彼は、同じNPO法人で活動してるんだよ」
「NPO法人?」
オウム返しにする愛美をよそに、珠莉が何やら怪訝そうな視線を向けているけれど。愛美はそれには気づかない。
「うん。全国の児童養護施設とか、母子シェルターとかを援助してる団体でね。彼もある施設に多額の援助をしてるって言ってた。でも、まさかそこが愛美ちゃんのいた施設だったなんてね。初めて知った時は驚いたよ。世間って狭いんだなーって」
「そうだったんですか……」
愛美は妙に納得してしまった。
同じような年代で、同じ志を持つ二人の資産家が同じ団体で活動。偶然が重なりすぎているような気もするけれど、まあそういうこともあるだろう。
ちなみに、〝母子シェルター〟というのはDVの脅威から母と子を保護するための施設である。
「じゃあ、純也さんも施設に寄付とかなさってるんですか?」
「うん、まあ……。彼ほどじゃないけどね」
「何をおっしゃいますの? 叔父さまだって四年くらい前から、私財をなげうってあちこ多額の寄付をなさってるじゃございませんか」
謙遜する純也さんに、珠莉がなぜかつっかかった。
「いいんだ、珠莉。ここは対抗意識燃やすところじゃないから。使いきれないほど財産があるなら、世の中のためになることに使う。これは当たり前のことだ」
「「……?」」
二人だけが何だか次元の違う話をしていて、愛美とさやかは顔を見合わせた。
「――ああ、ゴメン! 話が脱線しちゃったね」
「いえいえ、大丈夫です。あたしたちの方が、話について行けなかっただけですから」
さやかが手をブンブン振って否定する。お金持ち同士の会話に入っていけないのは、愛美も同じだった。
「でも、純也さんの考え方って立派だと思います。わたしもそういう人たちのおかげで、今日まで生きてこられたようなもんですから」
まさに今この瞬間も、その恩恵にあずかっているのは愛美自身なのだ。
「そうだね。世の中には、国とか僕が参加してるNPO法人みたいなところの援助がないと生活できない人がまだまだいる。愛美ちゃんみたいにご両親のいない子供たちとか、生活保護を受給してる人たちもそうだね。僕たちは恵まれてることを、当たり前だと思っちゃいけないんだ。世の中に〝当たり前〟のことなんてないんだから」
純也さんの言っていることの意味が、愛美には一番よく分かるかもしれない。
この学校に入ってから、他の子たちが「当たり前だ」と思っていること一つ一つに、愛美はいつも感謝している。
高校で勉強できること、三食きっちり美味しいゴハンが食べられること、お小遣いをもらって欲しいものが買えること――。
もちろん、小説が書けることもそうだ。〝あしながおじさん〟が援助を申し出てくれなかったら、愛美は夢を諦めなければならないところだった。
高校へも行かずに小説家になることは、不可能ではないけれどとても高いハードルを越える必要があるから。
「でも、ウチの親族は僕の考えを理解してくれないんだ。『そんなこと、バカらしい』って言われるんだよ。僕に言わせれば、他の連中の方がおかしいんだけどね」
「はあ……。きっと感覚がマヒしてるんでしょうね。お金があるのが当然みたいに。――あっ、珠莉ちゃんは違うよね?」
愛美は慌ててフォローした。珠莉も最初はそういう子だと思っていたけれど、今は違う。本当はただの淋しがりやで、思いやりもあって、ただ素直じゃないだけだと分かっているから。
「お気遣いどうも、愛美さん。私も前はそうでしたわ。でもね、あなたやさやかさんとお友達になって、ちょっと価値観が変わったの」
「確かに、珠莉は昔会った時より人間が丸くなったな。こんないい友達に恵まれて、君は幸せものだと思うよ」
純也さんは、姪の珠莉にそんな言葉をかける。さすがは親戚だけあって、彼女の幼い頃のことをよく知っているのだ。
「そういえば純也さん、一年前にお話した時は珠莉ちゃんのこと『苦手だ』っておっしゃってましたっけ」
「愛美ちゃん……。そのことはもう忘れてくれないかな」
純也さんが、「余計なこと言うな」とばかりに愛美に懇願した。さすがに本人の目の前では言いたくなかったらしい。
「えっ、そうだったんですの?」
と、珠莉が今更ながら驚けば。
「アンタさぁ、叔父さん困らせるようなこと、さんざんやってたんじゃないの? そりゃ迷惑がられるわ」
と、さやかが彼女を茶化す。これは珠莉の図星だったらしく、珠莉はぐうの音も出なかった。
* * * *
――楽しいひと時はあっという間に過ぎ、ケーキも紅茶もすっかりなくなった頃。
「愛美ちゃん、さやかちゃん、珠莉。僕はそろそろ失礼するよ」
腕時計にチラッと目を遣った純也さんが、席を立った。
「えっ? ――わ、もうこんな時間!?」
愛美も自分のスマホで時間を確かめると、もう夕方の五時前だ。
純也さんが訪ねてきたのが三時半ごろだったので、かれこれ一時間半もこの部屋にいたことになる。
「じゃあ、三人で下までお見送りします」
愛美たちは制服のまま、純也さんと一緒に寮の玄関まで降りていった。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「こちらこそ、色々話を聞いて頂いてありがとうございました。お気をつけて」
「うん。――愛美ちゃん、小説頑張ってね。いつか僕にも読ませてほしいな」
「あ……、はいっ!」
愛美は満面の笑みで頷いた。
(やっぱりわたし、この人が好き。大好き!)
会うたびに、声を聞くたびに、愛美の中で彼への想いはどんどん大きくなっていく。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
彼が十三歳も年下の、それもまだ高校生の自分をどう思っているのかはまだ分からない。でも、これが恋なんだと初めて知った一年前とは違って、もう不安はない。不思議だけれど、自分に自信がついた気がする。
――が、そんな愛美とはうらはらに、珠莉はなぜか険しい表情をしていた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「ちょっとお待ち下さい、叔父さま! ――お話があります。ちょっと来て頂けます?」
「…………え? 珠莉? 話って――」
「いいから来て下さい!」
困惑する叔父の腕を、珠莉は有無を言わせない態度でグイッとつかんだ。
「どうしたんだろ? 珠莉ちゃん、なんか怒ってる?」
「……だね。あたしたち、片付けもあるし先に戻ってよっか。――珠莉ー! 先に部屋に行ってるからー!」
さやかは珠莉の返事を待たずに、愛美を促してエレベーターに向かう。愛美は珠莉と純也さんとの話の内容が気になって仕方がなかった。
* * * *
「――さやかちゃん。珠莉ちゃん、純也さんとどんな話してるんだろうね? わたし、珠莉ちゃんのあんな剣幕初めて見たよ」
先にさやかと二人、三階の部屋に戻ってきていた愛美は、私服に着替えながらさやかに話しかけた。
「さあ? でも、あたしたちに聞かれちゃ困る話だってことは間違いないよね。内々で何かあるんじゃない?」
親戚同士には、他人が踏み込んではいけない問題もあるのかもしれない。たとえそれが親友であったとしても。
「多分、訊いても珠莉も教えてくんないと思うよ。――愛美、洗い物するから、テーブルの上の食器、キッチンまで持って来て」
「うん、分かった」
愛美はお盆をうまく利用して、お皿・フォーク・ティーカップと受け皿・ティーポットをキッチンまで運んだ。
「それだけの量、一人じゃ大変でしょ? わたしも手伝うよ」
「サンキュ。じゃあ、洗い終わった分を食器カゴに置いてくから、拭いて食器棚にしまってってくれる?」
――二人が手分けして片付けをしている間に、珠莉がひょっこり帰ってきた。
純也をつかまえてひっぱっていった時の剣幕はどこへやら、何だか上機嫌だ。何があったんだろう?
「……あ、おかえり、珠莉ちゃん」
「ただいま戻りました。あら、お二人で片付けして下さってたの? ありがとう」
「いや、別にいいけど。アンタが素直なんて気持ち悪っ! 何かあったの?」
「さやかちゃん……」
親友に面と向かって「気持ち悪い」と言ってのけるさやかに、愛美は絶句した。
(それ、思ってても口に出しちゃダメだって)
そう思っているのは愛美も同じだけれど、間違っても口に出して言ったりはしない。施設で育ったせいなのか、場の空気を読みすぎるくらい読んでしまうのだ。
「叔父さま、無事にお帰りになったわ。それにしても、あんなに上機嫌な叔父さま、初めて見ました。いつもはあんな風じゃないのよ」
「えっ、そうなの?」
愛美はものすごくビックリした。だって、一年前にこの学校に来た時だって、彼はあんなにニコニコして上機嫌だったのだ。逆に、機嫌の悪い彼なんて想像がつかないくらいに。
「それってやっぱ、アンタがウザいからじゃん? 違うの?」
「失礼ね!」
またしても茶々を入れるさやかに、珠莉がムッとした。――ここで怒るのは、図星だからじゃないかと愛美はこっそり思う。
「……まあ、それは置いておくとして。叔父さまがあんなにご機嫌だったのはきっと、愛美さんのおかげかもしれませんわね」
「えっ? わたし?」
愛美はまたビックリ。珠莉の言う通りだとしたら、一年前も愛美が案内役だったから上機嫌だったということだろうか。
「ええ。愛美さんのこと、すごく気に入ってらっしゃるみたいよ。よかったですわね、愛美さん」
「…………そうなんだ」
愛美はその言葉がまだしっくり来ず、顔の火照りをうまくごまかせない。
(気に入ってるって、どっちの意味だろう? 姪っ子の友達として「あのコはいいコ」って意味? それとも、一人の女の子として……?)
これは、この恋に希望があるということだろうか?
でも、本当に有りうるんだろうか? あのステキなイケメンの(もちろん顔だけじゃないけれど)、しかもセレブの(愛美はそんなこと、別にどうでもいいと思っているけれど)純也さんが、こんな十三歳も年下の普通の女子高生に気があるなんて……!
「ええ、そうなのよ。『また会いたいな』っておっしゃってましたわよ」
「…………」
(珠莉ちゃん、一体どうしちゃったの? なんか今までになく、すごくわたしに協力的になってくれてる)
もちろん珠莉も、さやかと同じく愛美が叔父さんに恋心を抱いていることは知っている。けれど、彼女は今まで、ただ静観しているだけのポジションだった。
(コレって、純也さんと話してたことと何か関係あるのかな……?)
愛美はふとそう思った。確信はないけれど、何となくそう思ったのだ。
珠莉は何か、純也さんの秘密を知っている。それが何なのかはまだ分からないけれど。そして多分、彼女はその秘密を自身の口からは教えてくれないだろう。叔父が自ら打ち明けるまで。
(本人が打ち明けてくれるまで、待つしかないか……)
モヤモヤしながらも、愛美は自分の恋がほんの少しだけ進展を見せかけていることに喜びを感じていた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
今日の放課後、珠莉ちゃんの叔父さんが寮に遊びに来ました。高級パティスリーで買ってきたっていう、チョコレートケーキ1ホールを持って。
チョコスイーツ好きのさやかちゃんはもうそれだけで喜んじゃって、わたしも純也さんが会いに来て下さったのが嬉しくて。そのままわたしたちのお部屋で、四人でお茶会をしようってことになりました。
ケーキは純也さん自らが切り分けて下さって、一人二切れずつ頂きました。
純也さんはわたしが冬に入院してたことを、珠莉ちゃんから聞いてたらしくて。心配して来て下さったそうです。でも、わたしの元気な姿をご覧になって、ホッとされたみたいです。
みんなで色んなお話をしました。っていっても、ほとんどわたしと純也さんばかりお喋りしてたんですけど(笑)
農園でのこと、純也さんの子供の頃のこと、わたしの小説がコンテストで大賞を頂いたこと、そして純也さん自身のこと……。
純也さんは、おじさまのことをご存じみたいです。同じNPO法人で活動されてるっておっしゃってました。おじさまが初めて女の子を援助されることは伺ってたけど、それがわたしのことだと知って驚いたって。こんな偶然ってあるんですね。
そして、純也さんは「楽しかったよ」っておっしゃって、すごく上機嫌で帰っていかれました。
珠莉ちゃんが言うには、「純也叔父さまがあんなにご機嫌なのは愛美さんのおかげ」だそうです。わたし、すごく嬉しくて、ますます彼のことを好きになっちゃいました。
あのね、おじさま。わたし、今日純也さんのおっしゃってたことで、すごく心に残ってる言葉があるんです。それは、「世の中に当たり前のことなんてないんだ」ってことです。
今の日本って、法律で色んな権利が守られてるでしょう? でも、それを当たり前だって思ってちゃいけないんだな、って。一分一秒、自分が生かされてるこの瞬間に感謝しなきゃいけないな、って。
わたしだって、今当たり前に学校に通えてるわけじゃない。両親が亡くなってから、わたしを育ててくれたのは〈わかば園〉のみなさんだし、おじさまがいて下さらなかったら、わたしは高校に入れなかった。だから、純也さんのおっしゃった意味が、わたしにはよく分かるんです。
彼ご自身も、恵まれた境遇に生まれ育ったことを当たり前に思うことなく、私財をなげうって困ってる人たちの支援をなさってます。それって、なかなかできることじゃないですよね。でも、彼はそのことを「当たり前のことをしてるだけだから」ってサラッと言っちゃうんです! すごいと思いませんか?
わたしもいつか、純也さんみたいな人になりたいです。そんなに大げさなことじゃなくていいから、困ってる人を見つけた時、そっと手を差し伸べられるような人になりたいと思ってます。
ごめんなさい、おじさま。なんか純也さんのことばっかり書いてますね。もうこれくらいでペンを置きます。 かしこ
四月 十二日 おじさまのことも大好きな愛美 』
****
恋する表参道♪
――それから数週間が過ぎ、G.W.が間近に迫った頃。
「相川さん、お疲れさま。もう部活には慣れた?」
文芸部の活動を終えて、部室を出ていこうとしていた愛美は、三年生の部長に声をかけられた。
彼女は前部長が卒業するまでは副部長をしていて、三年生に進級したと同時に部長に昇格した。お下げの黒髪がよく似合い、シャレた眼鏡をかけているいかにもな〝文学少女〟である。名前は後藤絵美という。
「あ、お疲れさまです。――はい、すっかり。すごく楽しいです」
「よかった。あたしも冬のコンテストの大賞作読んだよー。すごく面白かった。さすが、千香先輩が見込んだだけのことはあるわ」
「いえ……、そんな。ありがとうございます」
愛美は何だか恐縮して、控えめにお礼を言った。――ちなみに、前部長の名前は北原千香というらしい。
一年生の新入部員の子たちと一緒に入部した愛美は、最初の頃こそ「相川先輩」「愛美先輩」と呼ばれ、一年生たちから少し距離を置かれていたし、愛美自身も一年下の〝同期〟にどう接していいのか分からずにいたけれど。
最近では一歳くらいの年の差なんてないも同然で、一年生の子も気軽に声をかけてくれるようになった。敬語は使われるけれど、同じ小説や文芸作品を愛する仲間だ。
「来月に出す部誌は、新入部員特集号だから。巻頭は相川さんの作品を載せることにしたんだよ」
「えっ、ホントですか!? ありがとうございます!」
愛美も今度は、思わず大きな声でお礼を述べた。
新入部員とはいえ、自分は二年生だから、一年生の子に花を持たせてやりたいと思っていたのだ。
「うん。あの作品、みんなから評判よくてね。満場一致で巻頭に載せるって決まったの」
「そうなんですか……。なんか、一年生の子たちに申し訳ないですけど、でもやっぱり嬉しいです。――じゃあ、失礼します」
後藤部長に会釈して、愛美は親友であるさやかと珠莉の待つ寮の部屋に帰った。
それぞれ陸上部と茶道部に入った二人(さやかは陸上部・珠莉は茶道部)は、今日は部活が休みだと言っていたのだ。
「――ただいまー」
「あ、愛美。お帰りー」
部屋に入ると、すでに長袖パーカーとデニムパンツに着替えていたさやかが出迎えてくれた。
珠莉はスマホを手に、誰かと電話している様子。
「部活はどう? 楽しい? ――はい、コーラどうぞ」
スクールバッグを床に置き、勉強スペースの椅子に腰を下ろした愛美に、さやかは炭酸飲料の入ったグラスを差し出す。
「ありがと。――うん、楽しいよ。一年生の子たちとも、だいぶ打ち解けてきたかな。さやかちゃんの方は?」
「楽しいよ。まあ、練習はしんどいけど、走ってるとスカッとするんだ。記録も縮まってきてるし、うまくすれば来月の大会に出られるかも☆」
「へえ、スゴ~い! わたし、その時は絶対応援しに行くよ☆ ……ところで珠莉ちゃん、誰と話してるの?」
愛美は電話中の珠莉をチラッと見ながら、さやかに訊ねた。
「ああ。なんかねえ、ほんのちょっと前に純也さんから電話かかってきてさ。もう、ホントについさっき」
「純也さんから?」
彼の名前が出た途端、愛美の胸がザワつく。
この部屋で、四人でお茶を飲んでからまだ数週間。こんなにすぐに、また彼の名前を聞くことになるなんて思ってもみなかった。
(……純也さん、わたしに「電話代わって」って言ってくれたりしないかな……なんて)
こっそり、淡い期待を抱いてみる。自分から「珠莉ちゃん、電話代わって?」と言うのも、何だか厚かましい気がするし……。
「――えっ、愛美さんに代わってほしい? ……ええ、今帰ってきたみたいですけど」
その期待が、純也さんにも伝わったんだろうか? 彼と電話中だった珠莉が急に驚いた様子で、愛美の方を振り返った。
(……えっ? ウソ……)
愛美の胸が高鳴った。早く純也さんと話したくて、待っている時間がもどかしい。
「ええ、今代わりますわ。――愛美さん、純也叔父さまがあなたとお話ししたいそうよ」
「……あ、うん」
彼からの指示だろうか、珠莉がスピーカーフォンにした自身のスマホを愛美の前に置いた。
「もしもし、純也さんですか? わたし、愛美です」
『やあ、愛美ちゃん。純也です。こないだはありがとう。元気にしてる?』
「はい、元気です。――今日はどうされたんですか? お電話、わざわざわたしに代わってほしいなんて」
大好きな純也さんの声に胸がいっぱいになりながら、愛美はこの電話の用件を彼に訊ねた。
『うん、愛美ちゃんとまた話したくなったから』
「え…………」
『……っていうのも、もちろんあるんだけど。実はね、連休中に東京で公演されるミュージカルの前売りチケットが買えたんだ。四枚あるから、よかったら一緒に観に行けないかな、と思って。珠莉も、さやかちゃんも一緒に』
「ミュージカル……。っていうか、東京!? いいんですか!?」
純也さんのお誘いに、愛美は目をみはった(テレビ電話ではないので、純也さんには見えないけれど)。
『うん。ついでにみんなで美味しいものでも食べて、買いものがてら街を散策するのもいいね。横浜からなら日帰りで来られるだろうし。――そうだな……、五月の三日あたり。どうかな?』
「えーっと……、ちょっと待って下さいね。二人にも都合訊かないと。――どうする?」
〝相談する〟といっても、スピーカーフォンなので愛美たちの会話の内容は純也さんに筒抜けである。
「あたし、久しぶりに東京で遊びたい! 冬休みには、ウチの実家に帰る途中で品川でゴハン食べただけだもんね」
「私にとっては、東京は庭みたいなものですけど。大事なのは愛美さんの意思ですわ。あなたはどうしたいの?」
二人はどうやら行く気満々らしい。――もしも純也さんと二人きりで会うとなったら、愛美は躊躇していたかもしれない。
(でも、さやかちゃんたちも一緒に行けるなら……)
「わたし、東京に行きたいです。来月三日、よろしくお願いします」
『分かった。ミュージカルの開演時刻とかは、また珠莉のスマホにメールで送っておくから。当日、気をつけておいで』
「はい!」
『僕も楽しみに待ってるよ。二人にもよろしく。じゃあ、また』
「――あ、待って純也さん。珠莉ちゃんに代わりましょうか?」
『う~~ん、……いいや。じゃ』
ツー、ツー、ツー……。――呆気なく通話が切れた。
「切れちゃった……」
「もう、叔父さまったら何ですの!? 私の携帯にかけてきておいて、愛美さんと話し終えたら私に代わることなく切ってしまわれるなんて!」
なんとなくバツの悪い愛美。珠莉はプリプリ怒っている。――ただし、怒りの矛先は愛美ではなく、叔父の純也さんらしいけれど。
「もしかして、ホントは愛美に直で連絡したかったんじゃないの? でも連絡先知らなかったから、珠莉にかけたとか」
「そうなのかなぁ?」
そういえば、愛美はまだ純也さんと連絡先を交換していない。愛美は純也さんのアドレスを知らないし(珠莉も教えてくれないだろうし)、当然彼の方も愛美の連絡先を知らないわけだ。
「…………そうかもしれませんわね」
さっきまでの怒りはどこへやら、珠莉はあっさり納得した。
「……? 珠莉ちゃん、どうしたんだろ? 純也さんが遊びに来てから、なんかずっとヘンだよね」
あの日から、珠莉は絶対何かを隠している。そして、急に愛美に対して親切になった気がする。
「まあねぇ、あたしもちょっと気にはなってた。でも、あのプライドの高い珠莉のことだから、訊いても教えてくんないと思うよ」
「そうだねぇ……。まあいいか」
相手が話しにくいこと、話したがらないことをムリヤリ聞き出すのは、愛美の性分じゃない。話したがらないなら、本人が話したくなるのを待つしかないのだ。
「それよりさ、愛美。早く着替えなよ。晩ゴハンの前に、早いとこ英語のグループ学習の課題やっちゃお」
「うん」
愛美は勉強スペースの隅にあるクローゼットに向かい、私服のブラウスとデニムスカートを出して制服を脱ぎ始めた。
* * * *
――その日の夜。夕食も入浴も済ませ、まだ消灯時間には早いので、三人は部屋の共用スペースで思い思いにのんびり過ごしていた。
「――あ、そうだ。わたし、おじさまに手紙書こうかな。純也さんに『東京においで』って誘われたこと、おじさまに知らせたいの」
愛美はそう言って、テーブルの上にレターセットを広げた。
最近はただ手紙を出すだけではなく、レターセットにも凝るようになってきた。シンプルなものよりも、季節感のあるものを好んで使うようになったのだ。
「うん、いいんじゃない? あたしたちはジャマにならないように、静かにしてるから」
「あ、ううん。そんなに気を遣わないで。普通にしてて大丈夫だよ」
「そう? オッケー、分かった。――ねえねえ珠莉、東京に行くときの服なんだけどさ、こんなのとかどう?」
さやかは珠莉を手招きし、手にしていたティーン向けのファッション誌のページをめくって彼女と話し始める。
愛美は普段通りの二人の様子にホッとして、改めてペンをとった。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
二年生になってから、もうすぐ一ヶ月。去年の今ごろはまだ、わたしはこの学校に慣れてなくて、自分は浮いてるんじゃないかと思ってました。
でも今は、ごく普通にこの学校の雰囲気になじんでいる気がします。
文芸部の活動にも慣れてきました。一年生の新入部員の子たちとも仲良くしてます。学年は違っても、おんなじ新入部員ですから。
来月に出る部誌の新入部員特集号には、わたしの小説が巻頭に載るそうです! おじさまにも読んで頂きたいな……。
話は変わりますけど、今日の夕方、純也さんから珠莉ちゃんのスマホに電話がかかってきました。「来月の三日、珠莉ちゃんとさやかちゃんと三人で東京においでよ」って。
なんでも、東京の大きな劇場で公演されるミュージカルの前売りチケットが買えたから、一緒に観たいってことだそうです。で、そのついでに美味しいものを食べたり、ショッピングしながら街を散策するのはどうかって。
珠莉ちゃんはもちろん東京出身だし、さやかちゃんもお家は埼玉で東京はお隣だから、中学時代はよく東京で遊んでたらしいんですけど。わたしは本格的に東京の街を歩くのは初めてです。そして舞台鑑賞も初めて! すごくワクワクしてます。
そして何より、純也さんとお出かけできるのがわたしには嬉しくて。その分、ドキドキもしてますけど……。
もちろん泊りじゃなくて、日帰りですけど。連休中だから、帰りが遅くなっても大丈夫だし。もちろん外出届は出します。
そういえば、さやかちゃんが言ってたんですけど。純也さんは本当はわたしに直接連絡を取りたかったけど、連絡先を知らないから珠莉ちゃん経由で連絡してきたんじゃないか、って。もしそうだったら、これって立派なデートのお誘いですよね? でも二人きりじゃないから、わたしの考えすぎ?
とにかく、来月三日、楽しんできます♪ 帰ってきたら、また報告しますね。ではまた。
四月二十七日 愛美 』
****
――書き終えた手紙を封筒に入れて宛て名を書き終えると、あと十分ほどで消灯時間だった。
「愛美、終わった? そろそろ寝よ?」
「私、先にやすみますわ……」
「うん、今書き終わったよ。じゃあ電気消すね。さやかちゃん、珠莉ちゃん、おやすみ」
共用スペースの明かりを消し、愛美も就寝準備を整えて寝室のベッドに入った。
「――三日はどんなの着て行こうかな……」
* * * *
――そして、待ちに待った五月三日。お天気にも恵まれ、絶好のお出かけ日和。
「叔父さまー! お待たせいたしました」
「やあ、みんな。よく来てくれたね」
東京は渋谷区・JR原宿駅前。愛美・さやか・珠莉の三人は、そこで純也さんに迎えられた。
三人とも、今日は張り切ってオシャレしてきた(珠莉はいつもファッションに気を遣っているけれど)。普段着よりはファッショナブルで、それでいて〝原宿〟というこの街にも溶け込めそうな服を選んだのだ。
愛美は胸元に控えめのフリルがあしらわれた白のカットソーに、大胆な花柄のミモレ丈のフレアースカート。そこにデニムジャケットを羽織り、靴は赤のハイカットスニーカー。髪形もさやかにアレンジしてもらい、編み込みの入ったハーフアップにしてある。
さやかは白い半袖Tシャツの上に赤のタータンチェックのシャツ、デニムの膝上スカートに黄色の厚底スニーカー。
珠莉は肩の部分に切り込みの入った淡いパープルの七分袖ニットに千鳥格子の膝丈スカート、クリーム色のパンプス。髪には緩くウェーブがかかっている。
「こんにちは、純也さん。今日はお招きありがとうございます」
純也さんにお礼を言った後、愛美は彼の服装に見入っていた。
(わ……! 私服姿の純也さんもカッコいい……!)
愛美の知っている限り、いつもはキチっとしたスーツを着ている彼も、今日は何だかカジュアルな格好をしている。
清潔感のある白無地のカットソーにカーキ色のジャケット、黒のデニムパンツに茶色の編み上げショートブーツ姿だ。
「あら、叔父さま。今日は何だかカジュアルダウンしすぎじゃありません?」
「あのなぁ……。原宿歩くのに、スーツじゃいくら何でも浮くだろ?」
いつもは紳士的な口調の純也さんも、姪の珠莉が相手だと砕けた物言いになるらしい。
「それにしたって、ちょっと若づくりしすぎじゃございません?」
「失礼な。俺はまだ若いっつうの。今日び、三十なんてまだまだ若者だって」
(〝俺〟……? こんな打ち解けた純也さん、初めて見たかも)
愛美は今まで知らなかった純也さんの一面を知り、嬉しくなった。
「愛美ちゃん、今日はいつもと髪形違うね」
「あ、分かっちゃいました? さやかちゃんがやってくれたんですけど、どう……ですか?」
純也さんは女性不信らしいと聞いたけれど、女性のちょっとした変化には気がつくらしい。気づいてもらえた愛美は、さっそくできた彼との会話のキッカケに食らいつく。
「さやかちゃんが? そっか。可愛いね。よく似合ってるよ」
「あ……、ありがとうございます」
女性をストレートに褒められる男性が減ってきているこの時代に、純也さんはどストレートに褒めてくれた。男性にまだ免疫のない愛美は、今にも顔から火を噴きそうな気持になった。
「まあまあ、叔父さまったら。キザなんだから!」
珠莉が呆れているような、面白がっているような(愛美の気のせいかもしれないけれど)口ぶりで、叔父をそう評した。
「さやかちゃん、ヘアメイク上手だね。美容師目指してるのかい?」
「いえ。ウチに小さい妹いるんで、実家ではよく妹の髪やってあげてるんですよ」
さやかは数週間前のチョコレートケーキが効いているのか、まだ会うのが二度目なのにもう純也さんと打ち解けている。
彼女曰く、「チョコ好きに悪い人はいない」らしいのだ。
(いいなぁ……。わたしも二人みたいに、純也さんともっと打ち解けてお話できたらいいのに……)
親戚である珠莉はともかく、さやかまでもがもの怖じせずに純也さんと話せていることが、愛美は羨ましかった。
というか、ロクに男性と話す機会に恵まれなかった、高校入学までの十五年のブランクが恨めしかった。
「――さてと、そろそろ行こうか。ミュージカルは二時開演だから、それまでに昼食を済ませて、ちょっと街をブラブラしよう」
「「はーいっ!」」
純也さんの言葉に、愛美とさやかがまるで小学生みたいに元気よく返事をした。
「……この二人、ホントに高校生かしら?」
珠莉ひとり、呆れてボソッとツッコむ。――彼女には、叔父と愛美たちが「遠足中の小学生とその引率の先生」に見えたのかもしれない。
――それはさておき、四人は駅前のオシャレなカフェでランチを済ませた後、竹下通りを散策し始めた。
「――あっ、ねえねえ! このスマホカバー、可愛くない? 三人おソロで買おうよ! 友情のしるしにさ」
とある雑貨屋さんの店内で、さやかがはしゃいで言った。
「わぁ、ホントだ。可愛い! 買おう買おう♪ ……待って待って。いくらだろ、コレ?」
あまり高価なものだと、愛美は買うのをやめようと思っていた。
所持金は十分にある。〝あしながおじさん〟からクリスマスに送られてきたお小遣いも、さやかのお父さんからお正月にもらったお年玉(中身は一万円だった!)も、短編小説コンテストの賞金もまだ残っているし、そのうえ四月の末にまたお小遣いをもらったばかりだ。
でも金額の問題ではなく、愛美は一年前に金欠を経験してから、節約するようになっていたのだ。〝あしながおじさん〟から援助してもらったお金は、いつか独り立ちできたら全額返そうと決めていたから。
「そんなに高くないよ、コレ。二千円くらい」
「じゃあ買っちゃおっかな」
「私はいいわよ。スマホのカバーなら、高級ブランドのいい品を持ってますから」
「いいじゃん、珠莉。買えば。こんな経験できるの、今のうちだけだぞ」
自慢をまじえて拒もうとする姪に、唯一の男性で大人の純也さんが口を挟んだ。
「大人になってからは、友達とお揃いで何か買うの恥ずかしくなったりするから。今のうちにやっとけば、後々いい思い出になるってモンだ」
純也さんの言い方には、妙な説得力がある。珠莉はピンときた。
「……もしかして、叔父さまにも経験が?」
「そりゃそうだろ。俺にだって、学生時代の思い出くらいあるさ。――あ、そうだ。それ、俺からプレゼントさせてくれないかな?」
「「「えっ?」」」
思いがけない純也さんの提案に、三人の女子高生たちは一同面食らった。
「そんな! いいですよ、純也さん! コレくらい、自分で買えますから」
「そうですよ。そこまで気を遣わせちゃ悪いし」
「いいからいいから。ここは唯一の大人に花を持たせなさい♪ じゃあ、会計してくる」
そう言って、品物を受け取った彼が手帳型のスマホケースから取り出したのは、一枚の黒光りするカード――。
「ブラックカード……」
愛美は驚きのあまり、思考が止まってしまう。
ブラックカードは確か、年収が千五百万円だか二千万円だかある人にしか持てないカード。存在すること自体、都市伝説だと思っていたのに……。
「純也さんって、とんでもないお金持ちなんだね……」
今更ながら、愛美が感心すれば。
「当然でしょう? この私の親戚なんですものっ」
珠莉がなぜか、自分のことのようにふんぞり返る。……まあ、確かにその通りなんだけれど。
「ハイハイ。誰もアンタの自慢なんか聞いてないから」
すかさず、さやかから鋭いツッコミが入った。
「――はい、お待たせ。買ってきたよ」
しばらくして、会計を済ませた純也さんが、三つの小さな包みを持って、三人のもとに戻ってきた。
「一つずつラッピングしてもらってたら、時間かかっちまった。――はい、愛美ちゃん」
彼は一人ずつに手渡していき、最後に愛美にも差し出した。
「わぁ……。ありがとうございます!」
受け取った愛美は、顔を綻ばせた。これは、彼女が好きな人から初めてもらったプレゼントだ。――ただし、〝あしながおじさん〟から送られたお見舞いのフラワーボックスは別として。
「わたし、男の人からプレゼントもらうの初めてで……。ちょうど先月お誕生日だったし」
「そうだったんだ? 何日?」
「四日です」
「そっか。遅くなったけど、おめでとう。前もって知ってたら、こないだ寮に遊びに行った時、何かプレゼントを用意してたんだけどな」
純也さんが寮を訪れたのは、愛美の誕生日の後だった。
「いえいえ、そんな! わたしは、純也さんが来て下さっただけで十分嬉しかったですよ。あと、ケーキの差し入れも」
「っていうかさ、男の人からのプレゼントって初めてじゃなくない? ほら、おじさまから色々もらってるじゃん。お花とか」
「おじさまは別格だよ。だって、わたしのお父さん代わりだもん」
いくら血の繋がりがないとはいえ、親代わりの人を〝異性〟のカテゴリーに入れてはいけない。
「あー……、そっか」
その理屈にさやかが納得する一方で、珠莉は何だか複雑そうな表情を浮かべている。
この半月ほど――純也さんが寮を訪れた日から後、彼女のこんな表情を、愛美は何度も見ていた。
――四人が再び、竹下通りを散策していると……。
「――あれ? さやかじゃん! それに愛美ちゃんも。こんなとこで何してんだ?」
やたらハイテンションな、若い男性の声がした。それも、珠莉と純也さんはともかく、あとの二人にはものすごく聞き覚えのある……。
「おっ……、お兄ちゃん!」
「治樹さん! お久しぶりです」
「ようよう、お二人さん! だから、なんでここにいるんだっての。――あれ? そのコは初めて見る顔だな。さやかの友達?」
声の主はやっぱり、さやかの兄・治樹だった。
(……そういえば治樹さんも、東京で一人暮らししてるって言ってたっけ)
愛美はふと思い出す。――それにしたって、何もこんなところで純也さんと鉢合わせしなくてもいいじゃない、と思った。
(……まあ、偶然なんだろうけど)
「まあ! さやかさんのお兄さまでいらっしゃいますの? 私はさやかさんと愛美さんの友人で、辺唐院珠莉と申します」
「へえ、君が珠莉ちゃんかぁ。さやかから話は聞いてるよ。……で? そのオッサンは誰?」
「あたしたちは今日、この珠莉の叔父さんに招待されて、東京に遊びに来たの。これからミュージカル観に行って、ショッピングするんだ」
さやかはそう言いながら、右手で純也さんを差した。
「……どうも。珠莉の叔父の、辺唐院純也です」
純也さんはなぜか、ブスッとしながら治樹さんに自己紹介した。〝オッサン〟呼ばわりされたことにカチンときているらしい。
「へえ……、珠莉ちゃんの叔父さん? 歳いくつっすか?」
「来月で三十だよ。つうか誰がオッサンだ」
(純也さん、それ言っちゃったら大人げないです……)
ムキになって治樹さんに食ってかかる純也さんに、愛美は心の中でこっそりツッコんだ。
そして、治樹さんは治樹さんで、愛美がチラチラ純也さんを見ていてピンときたらしい。愛美の好きな人が、一体誰なのか。
(お願いだから治樹さん、ここで言わないで!)
愛美の想いなどお構いなしに、治樹さんと純也さんはしばし睨みあう。けれど、身長の高さと目力の強さに圧倒されてか、すぐに治樹さんの方が睨むのを諦めた。
「……すんません」
「いや、こっちこそ大人げなかったね。すまない」
とりあえず、火花バチバチの事態はすぐに収まり、さやかがまた兄に同じ質問を繰り返す。
「ところで、お兄ちゃんはなんでここにいんのよ? 住んでんのこの辺じゃなかったよね?」
「なんで、って。服買いに来たんだよ。この辺の古着屋ってさ、けっこういいのが揃ってんだ」
原宿といえば、古着店が多いことでも有名らしい。新しい服を買うよりは、古着の方が価格も安いしわりと掘り出し物があったりもして楽しのかもしれない。
「ああー、ナルホドね。だからお兄ちゃんの服、けっこう奇抜なヤツ多いんだ」
「さやか、そこは個性的って言ってほしいな」
「でも、治樹さんにはよく似合ってると思います。わたしは」
「おおっ!? 愛美ちゃんは分かってくれるんだ? さすがはオレが惚れた女の子だぜ。お前とは大違いだな」
「はぁっ!? お兄ちゃん、まだ愛美に未練あんの? 冬に秒でフラれたくせにさぁ」
「うっさいわ」
街中で牧村兄妹の漫才が始まりかけたけれど、そこで終了の合図よろしく純也さんの咳払いが聞こえてきた。
「……取り込み中、申し訳ないんだけど。もうすぐ開演時刻だし、そろそろ行こうか」
「……あ、はーい……。とにかく! お兄ちゃん、もう愛美にちょっかい出さないでよねっ! 珠莉、愛美、行こっ」
「うん。治樹さん、じゃあまた」
「またね~、愛美ちゃん」
「治樹さん、またどこかでお会いしましょうね」
兄に対して冷たいさやか、あくまで礼儀正しい愛美、なぜか治樹さんに対して愛想のいい珠莉の三人娘は、純也さんに連れられてミュージカルが上演される劇場まで歩いて行った。
* * * *
「――ゴメンねー、愛美。お兄ちゃん、まだ愛美のこと引きずってるみたいで……。みっともないよねー」
劇場のロビーで純也さんが受付を済ませている間に、さやかが愛美に謝った。
珠莉は受付カウンター横の売店で飲み物を買っているらしい。――ついでに気を利かせて、愛美たちの分も買ってきてくれるといいんだけれど。
「ううん、いいよ。わたしも、あんなフり方して申し訳ないなって思ってたの。あんなにいい人なのに」
「愛美……」
「もちろん、わたしが好きなのは純也さん一人だけだよ。治樹さんは、わたしにとってはお兄ちゃんみたいなものかな」
純也さんは幸い離れたところにいるので、聞こえる心配はないだろうけれど。愛美はさやかだけに聞こえる小さな声で言った。
「……そっかぁ。コレでお兄ちゃんが、キッパリ愛美のこと諦めてくれたらいいんだけどねー」
「うん……。――あ、戻ってきた」
愛美とさやかが顔を上げると、純也さんと珠莉が二人揃って戻ってきた。珠莉は自分の分だけではなく、ちゃんと人数分の飲み物を持って。
「お待たせ! もう中に入れるけど、どうする?」
「叔父さま、コレ飲んでからでも遅くないんじゃありません? ――はい、どうぞ。全部オレンジジュースにしましたけど」
「サンキュ。アンタもたまには気が利くじゃん?」
「ありがと、珠莉ちゃん」
「どういたしまして。ちょっと、さやかさん? 〝たまには〟ってどういうことですの?」
「まあまあ、珠莉。落ち着けって」
さやかに食ってかかった姪を、純也さんはなだめた。
――四人で仲良くオレンジジュースを飲みほした後、お目当ての演目が上演されるシアターに入り、座席に座った。
「この作品は、過去に何回も再演されてる人気作でね。なかなかチケットが買えないことでも有名なんだ」
「まさか純也さん、お金にもの言わせてチケット手に入れたんじゃ……?」
「さやかちゃん! 純也さんはそんなことする人じゃないよ。そういうこと、一番嫌う人なんだから。ね、純也さん?」
お金持ち特権を濫用したんじゃないかと言うさやかを、愛美が小さな声でたしなめた。
「もちろん、そんなことするワケないさ。ちゃんと正規のルートで買ったともさ」
「ええ。叔父さまはウソがつけない人だもの、信じていいと思いますわ」
「……分かった。姪のアンタがそう言うんなら」
ブーツ ……。
「――あ、始まるよ」
愛美は初めて観るミュージカルにワクワクした。舞台上で繰り広げられるお芝居、歌、音楽。そして、キラキラした舞台装置……。
カーテンコールの時にはもう感動して、笑顔で大きな拍手を送っていた――。
* * * *
「――さっきの舞台、スゴかったねー」
終演後、劇場の外に出た愛美は、一緒に歩いていたさやかとミュージカル鑑賞の感想を話していた。
珠莉はと言うと、愛美たちに聞こえないくらいのヒソヒソ声で、何やら叔父の純也さんと打ち合わせ中の様子。
「うん。あたし、あの作品の原作読んだことあるけど、ああいう解釈もあるんだなぁって思った。やっぱり、ナマの演技は迫力違うよね」
「原作あるんだ? わたし、読んだことないなぁ。この後買って帰ろうかな」
今日の舞台の原作は、偶然にも愛美が好きな作家の書いた長編小説らしい。――もしかしたら、純也さんはそれが理由でこの舞台に誘ったのかもしれない。
(……なんてね。そう考えるのはちょっと都合よすぎかな)
「――さて、お買いものタイムと参りましょうか」
いつの間にか、純也さんたちも二人に追いついていて、珠莉がやたら張り切って声を上げた。
お買いものといえば、毎回テンションが変わるのが彼女なのだ。お金に不自由していないせいか、根っからのショッピング狂のようである。
「ハイハ~イ☆ とりあえず、古着屋さん回ってみる?」
とはいえ、さやかもショッピングはキライじゃないので、愛美が気後れしない提案をしてくれた。
「うん! わたしもそろそろ、夏物の洋服とか靴が見たかったんだ。いいのが見つかるといいな」
古着店なら、たとえ流行遅れでもいいものが安く買える可能性が高い。愛美は流行とかは気にしない性質なので、それくらいでちょうどいいのだ。
「じゃあみなさん、参りますわよ!」
「おいおい。まさか珠莉、俺を荷物持ちでこき使うつもりじゃないだろうな?」
姪のあまりの張り切りように、この中で唯一の男性である純也さんがげんなりして訊ねる。
「あら、私がそんなこと、叔父さまにさせると思って? ――ちょっとお耳を拝借します」
珠莉が叔父に歩み寄り、何やらゴショゴショと耳打ちし始めた。純也さんも「うん、うん」としきりに頷いている。
(……? あの二人、何の相談してるんだろ?)
愛美は首を傾げる。思えばここ数週間、珠莉の様子がヘンだ。今日だってそう。何だかずっと、純也さんと二人でコソコソしている。
「愛美、どしたの? ほら行くよ」
「あ……、うん」
――かくして、四人は竹下通りから表参道までを巡り、ショッピングを楽しんだ。……いや、楽しんでいたのは女子三人だけで、純也さんはほとんど何も買っていなかったけれど。
「ふぅ……。いっぱい買っちゃったねー」
愛美も数軒の古着店を回り、夏物のワンピースやカットソー・スカートにデニムパンツ・スニーカーやサンダルなどを買いまくっていた。でもすべて中古品なので、新品を買うよりも格安で済んだ。
さやかも同じくらいの買いものをして、二人はすでに満足していたのだけれど……。
「まだまだよ! 次はあそこのセレクトショップへ参りますわよ」
それ以上にドッサリ買いまくって、もう両手にいっぱいの荷物を持ち、それでも間に合わないので純也さんにまで紙袋を持たせている珠莉が、まだ買う気でいる。
「「え~~~~~~~~っ!?」」
これには愛美とさやか、二人揃ってブーイングした。純也さんもウンザリ顔をしている。
「アンタ、まだ買うつもり!? いい加減にしなよぉ」
「そうだよ。もうやめとけって」
「わたしはいいよ。こんな高そうなお店、入る勇気ないし」
「いいえ! さやかさん、参りましょう!」
「え~~~~? あたし、ブランドものなんか興味ない――」
珠莉は迷惑がっているさやかをムリヤリ引っぱっていく。そしてなぜか、そのまま彼女にも耳打ちした。
「ふんふん。な~る☆ オッケー、そういうことなら協力しましょ」
(……? なに?)
事態がうまく呑み込めない愛美に、さやかがウィンクした。
「じゃあ、あたしたち二人だけで行ってくるから。愛美は純也さんと好きなとこ回っといでよ」
「純也叔父さま、愛美さんのことお願いしますね」
「……え!? え!? 二人とも、ちょっと待ってよ!」
「ああ、分かった」
(…………えっ? 純也さんまで!? どうなってるの!?)
ますますワケが分からなくなり、愛美は一人混乱している間に、純也さんと二人きりになった。
「…………あっ、あの……?」
珠莉ちゃんと何か打ち合わせした? 純也さんはどうして当たり前のように残った? ――彼に訊きたいことはいくつもあるけれど、二人きりになってしまうと緊張してうまく言葉が出てこない。
「さてと。愛美ちゃん、どこか行きたいところある?」
「え……? えっと」
そんな愛美の心を知ってか知らずか、純也さんがしれっと質問してきた。……何だか、うまくはぐらかされた気がしなくもないけれど。
それでもとりあえず一生懸命考えを巡らせて、つい数十分前に思いついたことを言ってみる。
「あ……、じゃあ……本屋さんに付き合ってもらえますか? 今日観てきたミュージカルの原作の小説があるらしいんで」
「オッケー。じゃ、行こうか」
「はいっ!」
二人はそのまま表参道を下り、東京メトロ表参道駅近くのビルの地下にある大型書店へ。
(なんか、こうしてると恋人同士みたいだな……)
愛美はこっそりそう思う。ただ、まだ本当の恋人同士ではないので、手を繋いでいるだけで心臓の鼓動が早くなっているけれど。
何はともあれ、愛美はお目当ての小説の単行本をゲットし、二人は近くのベンチで休憩することにした。
「――はい、愛美ちゃん。カフェオレでよかったかな?」
純也さんは、途中の自動販売機で買ってきた冷たい缶コーヒーを愛美に差し出す。自販機ではクレジットカードなんて使えないので、もちろん小銭で買ったのだ。
愛美は紅茶も好きだけれど、カフェオレも好きなので、ありがたく受け取った。
「ありがとうございます。いただきます」
プルタブを起こし、缶に口をつける。純也さんも同じものを買ったようだ。
「――愛美ちゃん、お目当ての本、見つかってよかったね」
「はい。純也さんは何も買われなかったんですか? 読書好きだっておっしゃってたのに」
書店で商品を購入したのは愛美だけで、純也さんは本を手に取るものの、結局何も買っていないのだ。
「うん……。最近は仕事が忙しくてね、なかなか読む時間が取れないんだ。それに、このごろはどんな本を読んでも面白いって感じられなくなってる。昔は大好きだった本でもね」
悲しそうに、純也さんが答えて肩をすくめる。――大人になると、価値観が変わるというけれど。好きだったものまで好きじゃなくなるのは、とても悲しいことだ。
「じゃあ、わたしが書きます。純也さんが読んで、『面白い』って思ってもらえるような小説を」
「愛美ちゃん……」
「あ、もちろん今すぐはムリですけど。小説家デビューして、本を出せるようになったら。その時は……、読んでくれますか?」
この時、愛美の中で大きな目標ができた。大好きな人に、自分が書いた本を読んでもらうこと。そして、読んだ後に「面白かったよ」って言ってもらうこと。目標ができた方が、夢を追ううえでも張り合いができる。
「もちろん読むよ。楽しみに待ってる。約束だよ」
「はい! お約束します」
この約束は、いつか必ず果たそうと愛美は決意した。
「――それにしても、純也さんってよく分かんない人ですよね」
「え……? 何が?」
唐突に話が飛び、純也さんは面食らった。
「だって、ブラックカードでホイホイお買いものするような人が、ちゃんと小銭も持ち歩いてるんですもん。確か、交通系のICカードもスマホケースに入ってましたよね」
「見てたのか。――うん、今日も電車で来た。僕はできるだけ、〝人並みの生活〟をするようにしてるんだ」
「〝人並みの生活〟……?」
愛美は目を丸くした。〝人並み以上の生活〟ができている人が、何を言っているんだろう?
「うーんと、僕の言う〝人並みの生活〟っていうのはね、世間一般の常識からズレない生活ってこと。コンビニで買いものしたり、自炊したり、公共の交通機関を利用したり。車の運転もそう。――金持ちだからって、世間知らずだと思われたくないんだ。特にウチの一族は、一般の常識からはズレた考え持ってる連中の集まりだからね」
「……そこまでサラッとディスっちゃうんですね。自分のお家のこと」
愛美も心配になるくらい、純也さんは辛辣だった。自分があの一族に生まれ育ったことがイヤでイヤで仕方がないんだろう。
「だって、事実だからさ。……あっ、ココだけの話だからね? 珠莉には言わないでほしいんだけど」
「分かってます。わたし、口は堅いから大丈夫です」
「よかった」
彼も一応は、言ってしまったことを少なからず悔やんでいるらしい。愛美が「口が堅い」と聞いて、ホッとしたようだ。
(口が堅いっていえば、珠莉ちゃんもだ)
彼女は絶対に、愛美に対して何か隠していることがある。でも、いつまで経っても打ち明けてはくれないのだ。――ことの発端は、約一ヶ月前に純也さんが寮を訪れたあの日。
「――ところで純也さん。先月寮に遊びに来られた時、帰り際に珠莉ちゃんと二人で何話してたんですか?」
「ん?」
とぼけようとしている純也さんに、愛美は畳みかける。
「純也さん、わたしに何か隠してますよね?」
「……ブッ!」
ズバリ問いただすと、純也さんは動揺したのか飲んでいたカフェオレを噴き出しそうになった。
「あ、図星だ」
「ゴホッ、ゴホッ……。いや、違うんだ。……確かに、大人になったら色々と秘密は増える。愛美ちゃんに隠してることも、あるといえばある……かな」
むせてしまった純也さんは必死に咳を止めると、それでも動揺を隠そうと弁解する。
「何ですか? 隠してることって」
「愛美ちゃんのこと、可愛いって思ってること……とか」
「え…………。わたしが? 冗談でしょ?」
さっきまでの動揺はどこへやら、今度はサラッとキザなことを言ってのける純也さん。愛美は顔から火を噴きそうになるよりも、困惑した。
(やっぱりこの人、よく分かんないや)
「いや、冗談なんかじゃないよ。僕は冗談でこんなこと言わない」
「あー…………、ハイ」
どうやら本心から出た言葉らしいと分かって、愛美は嬉しいやらむず痒いやらで、俯いてしまう。
(コレって喜んでいいんだよね……?)
生まれてこのかた、男性からこんなことを言われたことがあまりないので(治樹さんにも言われたけれど、彼はチャラいので別として)、愛美はこれをどう捉えていいのか分からない。
「……純也さんって、女性不信なんですよね? 珠莉ちゃんから聞いたことあるんですけど」
「珠莉が? ……うん、まあ。〝不信〟とまではいかないけど、あんまり信用してはいないかな」
「どうして? ――あ、答えたくなかったらいいです。ゴメンなさい」
あまり楽しい話題ではないし、純也さんの事情にあまり踏み込んではいけない。だから、本人が答えたくないなら愛美は知る必要もなかったのだけれど。
「う~~ん、どう言ったらいいかな……。昔から、僕は打算で近づいてくる女性としか付き合ったことがないんだ。『僕と結婚したら、辺唐院一族の一員になれる』って計算があったり、財産が目当てだったり。言ってる意味分かる?」
「なんとなくは。つまり、本気で好きになってもらったことがないってことですよね」
「うん、そういうこと。大人になってからは特にひどい」
(純也さん、かわいそう……)
愛美は思わず、彼に同情した。そんな恋愛ばかり経験してきたら、女性と知り合うたびに「この女もどうせ打算なんだろう」と穿った見方しかできなくなるのも当然だ。それくらいのこと、恋愛未経験者の愛美にも分かる。
「でも愛美ちゃんは、僕が今まで出会ったどんな女性とも違った」
「えっ?」
愛美が不思議そうに瞬くと、純也さんは嬉しそうに続けた。
「君には打算なんてひと欠片もないし、逆に『生まれ育った環境なんてどうでもいい』って感じだよね。君は純粋でまっすぐで、僕のことを〝資産家一族の御曹司〟じゃなく、〝辺唐院純也〟っていう一人の人間としていつも見てくれてる。そういう女の子に、今まで出会ったことなかったから嬉しいんだ」
「純也さん……」
愛美は人として当然のことをしているつもりなのに。今まで偏見やイジメに苦しめられてきたからこそ、自分は絶対にそういう人間にはなるまいと心がけてきただけだ。
でも――、純也さんは愛美のそんな心がけを〝嬉しい〟と言ってくれた。
「愛美ちゃん、ありがとう。僕は君に出会えてよかったと思ってるよ」
「いえいえ、そんな」
彼のこの言葉は、受け取り方によっては告白とも解釈できるのだけれど。恋愛初心者の愛美には、そんなこと分かるはずもなかった。
「――あ、そうだ。連絡先、交換しようか」
「え……、いいんですか?」
自分からは、とてもそんなことを言い出す勇気がでなかったので、愛美の声は思いがけず弾んでしまう。
「うん、もちろん。実は、前々から愛美ちゃんに直接連絡取りたいなって思ってたんだ。それに毎度毎度、珠莉を通して色々ツッコまれるのも面倒だし」
「面倒……って」
前半は愛美も嬉しかったけれど、後半のひどい言い草には絶句した。実の叔父から「面倒だ」と言われる姪ってどうなの? と思ってしまう。けれど。
「……まあ確かに、直接連絡取り合えた方が便利は便利ですよね」
という結論に達し、二人はお互いのスマホに自分の連絡先を登録するという方法で、アドレスを交換した。
「――愛美ちゃん、スマホ使い始めて二年目だっけ? ずいぶん慣れてるね」
純也さんのスマホに自分の連絡先をパパパッと打ち込んでいく愛美の手つきに、彼は感心している。
「だって、もう二年目ですよ? 一年前のわたしとは違って、一年も経てば色々と使いこなせるようになってますから」
この一年で、愛美はスマホの色々なアプリや機能を使いこなせるようになったのだ。動画を観たり、音楽を聴いたり、写真を撮ったり、メッセージアプリでさやかや珠莉と連絡を取り合ったり。スマホでできることは、電話やメールだけじゃないんだと実感できて、今ではすっかり楽しんでいる。
「いや……、でもスゴいよ。やっぱり若いなぁ」
「そんなことないです。純也さんだってまだまだ若いですよ。――はい、登録完了、と」
愛美はデニム調のスマホカバーを閉じ、純也さんに返した。愛美のスマホには、先に彼が連絡先を登録してある。
「ありがとう。――おっ? さっそく『友だち登録』の通知が来た」
「あ、わたしにも。……フフッ、なんか嬉しいな」
思わず笑みがこぼれる。
純也さんは友達の叔父さんで、十三歳も年上で。一年前には近づくことすらできなかった人。でも今こうして、二人で並んでベンチに座って話をして、SNSの上でも繋がりができた。
愛美の恋は、少しずつだけれど確実に前に進んでいる。
「これで珠莉に気がねすることなく、いつでも連絡できるね」
「はい!」
なんだかんだで、純也さんも嬉しそうだ。
(もしかして珠莉ちゃんたち、わざわざわたしと純也さんが二人きりになれるように気を利かせてくれたのかな……?)
愛美はふとそう考えた。「ブランドものには興味がない」と言っていたさやかまでが、珠莉について行った理由もそう考えれば辻褄が合う。
さやかは元々友達想いな優しいコだし、場の空気を読むのもうまい。そして何より、彼女は愛美の純也への想いも知っているのだ。
(そのおかげで、こうして純也さんとの距離をちょっとだけ縮めることもできたワケだし。二人にはホント感謝だなぁ)
愛美が親友二人の大事さを、一人噛みしめていると――。
♪ ♪ ♪ …… 愛美のスマホが着信音を奏でた。
「――あ、電話? さやかちゃんだ。出ていいですか?」
人前で電話に出るのは失礼にあたる。いくら一緒にいるのが純也さんでも。――愛美は彼にお伺いを立てた。
「うん、どうぞ」
「はい。――もしもし、さやかちゃん?」
『愛美、今どこにいんの?』
「今? えーっと……、メトロの表参道駅の近く。純也さんと本屋さんに行って、ちょっとベンチでお話してたの」
愛美は純也さんに申し訳なさそうにペコリと頭を下げると、少し離れた場所へ移動する。この後、彼に聞かれたら困る話も出てくるかもしれないと思ったからである。
『そっか。あたしたちもやっと買いもの終わったとこでさぁ、ちょうど表参道沿いにいるんだ。――で、どうよ? 二人っきりになって。何か進展あった?』
「えっ? 何か……って」
明らかに〝何か〟があって動揺を隠しきれない愛美は、「やっぱり純也さんと離れてよかった」と思った。
「……えっと、純也さんに『可愛い』、『出会えてよかった』って冗談抜きで言われた。あと、連絡先も交換してもらえたよ」
『えっ、それマジ!? それってほとんど告られたようなモンじゃん!』
「え……、そうなの?」
『そうだよー。アンタ気づかなかったの? もったいないなー。じゃあ、アンタから告白は?』
「…………してない」
そう答えると、電話口でさやかにため息をつかれた。それでやっと気づく。さやかたちが愛美を純也さんと二人きりにしてくれたのは、愛美が告白しやすいようなシチュエーションをお膳立てしてくれたんだと。
『なぁんだー。ホントもったいない。せっかく告るチャンスだったのに。……でもまあ、ほんのちょっとでも距離が縮まったんならよかったかもね』
「……うん」
愛美は恋愛初心者だから、告白の仕方なんて分からない(小説では読んでいるけれど、現実の恋となると話は別なのである)。だから、純也さんと少しでも近づけただけで、今日のところは大満足なのだ。
『じゃあ、もうじきそっちに合流できるから。また後でね』
「うん。待ってるね」
――電話が切れると、愛美は純也さんのいるベンチに戻った。
「ゴメンなさい。電話、長くなっちゃって」
「さやかちゃん、何だって? なんか、僕に聞かせたくない話してたみたいだけど」
ちょっとスネたような言い方だけれど、純也さんはむしろ面白がっているようだ。女子トークに男が入ってはいけないと、ちゃんと分かっているようである。
「ああー……。えっと、さやかちゃんと珠莉ちゃんも今、表参道沿いにいるらしくて。もうすぐ合流できるって言ってました」
「それだけ?」
「いえ……。でも、あとは女子同士の話なんで。あんまりツッコまれたくないです。そこは察して下さい」
純也さんだって、一応は大人の男性なのだ。そこはうまく空気を読んで、訊かないようにしてほしい。
「…………うん、分かった」
ちょっと納得はいかないようだけれど、純也さんは渋々頷いてくれた。
「――お~い、愛美! お待たせ~☆」
数分後、さやかが大きな紙袋を抱えた珠莉を引き連れて、愛美たちのいるところにやって来た。
「さやかちゃん、珠莉ちゃん! ――あれ? 珠莉ちゃん、また荷物増えてない?」
「珠莉……。お前、また買ったのか」
純也さんも、姪の荷物を見てすっかり呆れている。
「ええ。大好きなブランドの新作バッグとか靴とか、欲しいものがたくさんあったんですもの。でも、さやかさんを荷物持ちにするようなことはしませんでしたわよ?」
「いや、そこは自慢するところじゃないだろ。せめて配送頼むとかって知恵はなかったのかよ?」
わざわざ自分で荷物を持たなくても、寮までの配送を手配すればいいのでは、と純也さんが指摘する。
個人の小さなショップならともかく、セレクトショップなら配送サービスもあるはずだと。
――ところが。
「配送なんて冗談じゃありませんわ。手数料がもったいないじゃないですか」
「珠莉ちゃん……」
彼女らしからぬ発言に、愛美も二の句が継げない。
(珠莉ちゃんお金持ちなんだから、それくらいケチらなくてもいいのに)
と愛美は思ったけれど、お金持ちはケチと紙一重でもあるのだ。……もちろん、ほんの一部の人だけれど。
「…………あっそ」
これ以上ツッコんでもムダだと悟ったらしい純也さんは、とうとう白旗を揚げた。
「――ねえ、珠莉ちゃん、さやかちゃん。ちょっと」
愛美は少し離れた場所に、親友二人を手招きした。この話は、純也さんに聞かれると困る。
「何ですの?」
「うん?」
「あのね……。さっき、わたしと純也さんを二人っきりにしてくれたのって、もしかしてわたしに気を利かせてくれたの?」
さやかは電話でそれっぽいことを言っていたけれど、珠莉も同じだったんだろうか?
「だってさやかちゃん、『ブランドものには興味ない』って言ってたよね?」
「うん、そうだよ。でなきゃ、自分が興味ないショップに付き合ってまで、別行動取らないよ」
「ええ。……まあ、純也叔父さまのためでもあったんだけど」
「えっ?」
〝純也さんのため〟ってどういうことだろう? ――愛美は目を丸くした。
「叔父さまに頼まれていたの。『ほんのちょっとでいいから、愛美さんと二人きりで話せる時間がほしい』って」
「え……。純也さんが? そうだったんだ」
……知らなかった。純也さんがそのために、「苦手だ」と言っていた珠莉に頼みごとをしていたなんて。
そして、その頼みを聞き入れた珠莉にもビックリだ。
(やっぱり純也さん、珠莉ちゃんに何か弱み握られてるんじゃ……)
そうじゃないとしても、純也さんと珠莉の関係に何か変化があったらしいのは確かだ。同じ秘密を共有しているとか。
(……うん。そっちの方がしっくりくるかも)
叔父と姪の関係がよくなったのなら、その考え方の方が合っている気がする。……それはさておき。
「そういえばさっき、電話で愛美から聞いたんだけど。二人、連絡先交換したらしいよ」
「えっ、そうだったんですの? 愛美さん、よかったわねぇ」
「うん。……あれ? さっきの電話の時、珠莉ちゃんも一緒だったんじゃないの?」
電話口のさやかの声は、興奮していたせいかけっこう大きかった。だから、側にいたなら珠莉にも聞こえていたはずなのだけれど。
「私には聞こえなかったのよ。確かに、さやかさんの側にはいたんだけど、周りに人が多かったものだから」
(ホントかなぁ、それ)
珠莉の言ったことはウソかもしれないと、愛美は疑った。でも、聞こえなかったことにしてくれたのなら、珠莉にしては気が利く対応だったのかもしれない。
「……そうなんだ。じゃあ、そういうことにしとくね」
何はともあれ、愛美は純也さんといつでも連絡を取り合えるようになり、親友二人にもそのことを喜んでもらえた。それだけで愛美は万々歳である。
「――さて。日が傾いてきたけど、みんなどうする? まだ行きたいところあるなら、付き合うけど」
純也さんが腕時計に目を遣りながら、愛美たちに訊ねた(ちなみに、彼の腕時計はブランドものではなくスポーツウォッチである)。
時刻はそろそろ夕方五時。今から電車に飛び乗って帰ったとしても、六時半からの夕食に間に合うかどうか……。
「あっ、じゃあクレープ食べたいです! チョコバナナのヤツ」
「わたしも!」
「私も。ヘルシーなのがいいわ」
〝原宿といえばクレープ〟ということで、女子三人の希望が一致した。
甘いもの好きの純也さんが、この提案に乗らないわけはなく。というか、思いっきり乗り気になった。
「実は俺も食べたかったんだ。じゃあ決まり☆ 行こうか」
「「イェ~イ!!」」
「…………いぇーい」
愛美とさやかは大はしゃぎで、珠莉は恥ずかしいのか小声でボソッと言い、四人は竹下通りまで戻ってクレープのお店に足を運んだ。
ここは券売機で注文するシステムのようで、各々好みの商品の券を買った。
「あたし、ばななチョコホイップ。プラス百円でドリンクつけよう」
「わたしも」
「僕も同じので」
「私はツナチーズサラダ、っと」
ドリンクは愛美・純也さん・さやかはタピオカミルクティーをチョイスした。珠莉はドリンクなしだ。
「愛美は初タピオカだねー」
「うん!」
山梨のド田舎にいた頃は飲んだことはもちろん、見たことすらなかったタピオカドリンク。愛美はずっと楽しみにしていたのだ。
「実は、僕も初めて」
「「えっ!?」」
純也さんの衝撃発言に、愛美とさやかは心底驚いた。
「いや、男ひとりで買うの勇気要るんだよ」
「はぁ~、なるほど……」
分からなくはない。女子が「映える~!」とかいって、こぞってSNSに写真をアップしているのはよく見かけるけれど。男性がそれをやっていたら、ちょっと引く……かもしれない。
「ちょうどいいや。写真撮って、SNSにアップしよ♪」
「あー、それいいね」
愛美とさやかはクレープとタピオカミルクティーを並べてスマホで撮影し、さっそくSNSに載せた。
「……なんか以外だな。愛美ちゃんも、SNS映えとか気にするんだ?」
「毎回ってワケじゃないですよ。今回は初タピオカ記念で」
純也さんの疑問に、愛美はちょっと照れ臭そうに答える。流行に疎いということと、流行に興味がないこととは別なのだ。
「純也さん、……引きました?」
浮ついた女の子に見えたかもしれないと、愛美は気にしたけれど。
「いや、別に引かないよ。ただ、君もやっぱり今時の女子高生なんだなーと思っただけだ」
「……そうですか」
その言葉を、愛美はどう受け取っていいのか迷った。「女子高生らしくて可愛い」という意味なのか、「すっかり世慣れしてる」という意味なのか。
……愛美としては、前者の意味であってほしい。
愛美とさやかの二人が満足のいく写真をアップできたところで、四人はクレープにかぶりついた。
「「「お~いし~~い☆」」」
「うま~い!」
「ばななチョコ、とろける~♪ ホイップもいい感じだねー」
「ねー☆ やっぱチョコはテッパンだねー」
最後の感想は、もちろんチョコ好きのさやかである。他にも美味しそうなクレープが何種類かあった中で、何の迷いもなくチョコ系を選んだのがいかにも彼女らしい。
「ツナチーズもいけますわよ」
「えっ、マジ? 一口ちょうだい! あたしのも一口あげるから」
「……そっちは太りそうだからいいですわ」
さやかと珠莉は、お互いのメニューをシェアし始める。
「――純也さん、美味しいですか?」
「うん、うまいよ」
愛美が感想を訊ねると、純也さんは子供みたいにホイップがついた口を拭いながら答えた。
(純也さん、可愛い)
愛美は彼の姉になったような気持ちで、またクレープをかじった。
すると、横からズズーッと何かをすする音がして――。
「――あまっ! タピオカミルクティーってこんなに甘かったのか」
タピオカ初体験の純也さんが、あまりの甘ったるさに眉をしかめていた。
「そんなに甘いですか? ……うわ、ホントだ」
愛美も甘いものが大好きだけれど、ここまで甘ったるいのはちょっと苦手だ。こんなに甘ったるいものが、よく人気があるなと思う。
「ホントはソーダみたいなサッパリしたドリンクの方が合うんだけどね。色もキレイだから映えるし」
「えっ、そうなの? じゃあ、そっちにすればよかったかな」
炭酸が入っている方が、後味スッキリで飲みやすかっただろう。
「でも、コレはコレでいい記念になったから、まあいいかな」
一ついい勉強になったからよしとしようと愛美は思った。「タピオカミルクティーは甘ったるい」と。
(それに、大好きな純也さんと一緒に飲めたし)
思い出とは〝何を〟飲んだり食べたりしたかではなく、〝誰と〟が大事なんだと思う。大好きな人と、同じ経験を共有できたことが何よりの思い出になるのだ。
「――ふーっ、お腹いっぱいになったね。じゃあ純也さん、あたしたちそろそろ帰ります。今日はお世話になりました」
「叔父さま、今日はありがとうございました」
原宿駅の前まで純也さんに送ってもらい、三人はそこで彼と別れた。
さやかと珠莉は彼にお礼を言い、すぐにでも帰りそうな雰囲気だったけれど、愛美は彼との別れがまだ名残惜しかった。
「愛美ちゃん、今日は楽しかったね。連絡先、教えてくれてありがとう」
「……はい」
「じゃあ、また連絡するよ」
「はい! ……あ、じゃなくて。わたしから連絡してもいい……ですか?」
恋愛初心者にしては大胆なことを、愛美は思いきって言ってみた。
今度こそ、引かれたらどうしよう? ――愛美は言ってしまってから後悔したけれど。
「うん、もちろん。待ってるよ」
「はぁー……、よかった。じゃあ、また」
「うん。気をつけて帰ってね」
愛美は純也さんに大きく頭を下げ、二人の親友と一緒に改札口へ。
「――さやかちゃん、珠莉ちゃん。今日、すっごく楽しかったね」
帰りの電車の中で、愛美は二人のどちらにとなく話しかけた。
「うん、そうだね。初めて好きな人にプレゼントもらって、初めて劇場に行って、好きな人と連絡先交換してもらって、そんでもって初タピ? 盛りだくさんじゃん」
「……もう! さやかちゃんってば、列挙しないでよ」
一つ一つはいい思い出だけれど、順番に挙げられると色々ありすぎて目まぐるしい日だった。
特に愛美自身、大胆すぎると思った言動が多すぎて、思い出しただけでも顔から火を噴きそうなのだ。
「でも、そのおかげで恋も一歩前進したじゃん。よかったんじゃない?」
「う……、それは……まあ」
「っていうか、純也さんのアレってさぁ、『付き合ってほしい』って意味だったんじゃないの?」
「…………」
さやかの衝撃発言に、愛美は電車内の天井を仰いだ。
「違う……んじゃないかなぁ。ちゃんと言われたワケじゃないし、わたしも告白してないし」
恋愛が始まる時、キチンとお互いに想いを伝えあって、「ここからがスタートだ」とラインを引けるのが愛美の理想なのだけれど。
「愛美はカタチにこだわりすぎなんだよ。友達から恋愛に発展したりとか、ただ連絡取り合うだけの関係から始まる恋愛もあるんだよ?」
「そうかもしれないけど……。わたし、純也さんより十三歳も年下なんだよ? 姪の珠莉ちゃんと同い年なんだよ? そんなコと付き合いたいとか思うかなぁ?」
愛美はまだ未成年だし、ヘタをすれば犯罪にもなりかねない。もしそうならないとしても、周りから〝ロリコン〟だと思われたりするんじゃないだろうか?
「純也さんが、愛美の気持ちに気づいてたとしたらどう?」
「えっ? どう……って」
愛美はグッと詰まる。もしもそうなら、両想いということで、彼が愛美との交際をためらう理由はなくなるわけだけれど……。
「案外、そうかもしれませんわよ?」
電車に乗り込んでからずっと黙り込んでいた珠莉が、ここへきてやっと口を挟んだ。
「……珠莉ちゃん、何か知ってるの?」
もしかしたら、彼女は叔父から彼の愛美への想いを打ち明けられているのかもしれない。愛美は淡い期待を込めて、珠莉に訊ねた。
「知っていても、私からは言えないわ。それはあなたが叔父さまご本人から聞かなければ意味がないことじゃありませんの?」
「……うん、そうだよね」
珠莉の言うことはごもっともだ。でも、だからといって純也さん本人に「わたしのこと好きなんですか?」と訊く勇気は愛美にはない。
「――あー、やっぱり寮に着く頃には六時半回りそうだな、こりゃ」
神奈川県に入った時点で、さやかがスマホで時間を確かめて呻く。すでに六時を過ぎていた。
「とりあえず、学校の最寄り駅に着いたら晴美さんに連絡入れとくよ。『あたしたちの晩ゴハン、置いといてほしい』って」
「そうだね。やっぱりクレープだけじゃ、夜お腹すくもんね」
――さやかはその後、最寄り駅に着くと、言っていた通り寮監の晴美さんに連絡したのだった。
* * * *
――その日の夜。愛美は部屋の共有スペースで、スマホを持ったまま固まっていた。
「う~~~~ん……、なんて書こうかな……」
せっかく純也さんと連絡先を交換したので、さっそく彼に連絡しようと思い立ったのはいいものの。この時間、電話は迷惑かも……と思い、メッセージアプリを開いたのはいいけれど、文面が思いつかないのだ。男の人にメッセージを送るのは初めてだし……。
(とりあえず、無難に今日のお礼でいいかな……)
よし、と気合を入れ、キーパッドを叩いていく。
『純也さん、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです('ω')
東京にはまだまだ面白そうなスポットがありそうですね。また案内してほしいです。』
勢い込んで送信すると、すぐに「既読」の表示が出て――。
『メッセージありがとう。
僕も楽しかったよ。愛美ちゃんたちと一緒にいると、何だか若返った気分になった(笑)
また一緒にどこかに行こうね。……今度は、できたら珠莉たち抜きで。』
という返信が来た。
「え……」
はっきり「好きだ」といわれなくても、この文面だけで何となく分かる。――これは、紛れもないデートのお誘いだ。
「……いやいや! まだそうと決まったワケじゃないよね」
愛美は逸る気持ちを抑えようと、そう自分に言い聞かせる。まだ本人の口から聞く(もしくは、メッセージで伝えてもらう)までは、百パーセント決まりではないのだ。
「はぁぁぁぁ~~~~……」
恋にため息はつきものだと、小説で読んだことがある。まさか、自分自身がこんな風になるなんて、一年前には想像もつかなかったのに。
(早く純也さんのホントの気持ちを聞いて、安心したいなぁ)
それまでは、愛美に心穏やかな日常は訪れないだろう。彼の言動一つ一つに一喜一憂させられて、ハラハラドキドキしっぱなしに違いない。
「……とりあえず、落ち着こう」
こういう時は、〝あしながおじさん〟に手紙を書くのが一番だ。今日一日の体験を聞いてほしいというのもあるし――。
愛美は勉強机に向かうと、今日原宿の雑貨屋さんで買ってきたばかりの新品のレターセットを開けた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気いっぱいです。
先月のお手紙でもお知らせした通り、今日は純也さんからのお招きでさやかちゃん・珠莉ちゃんと一緒に東京の原宿に行ってきました。
朝からいいお天気で、絶好のお出かけ日和でした。
東京って、というか原宿って、楽しい街ですね! 色んなお店や場所に行きました。ミュージカルを鑑賞した劇場、オシャレなカフェ、可愛い雑貨屋さん、古着屋さん、クレープ屋さんに高級ブランドのショップ、レインボーわたあめのお店……。
どこも面白くて、何から書いていいか分からないくらいです。
純也さんとは、午後一番でJR原宿駅の前で待ち合わせしてました。いつもはスーツ姿の純也さんも、今日はちょっとカジュアルな私服姿。でも背が高いので、モデルさんみたいでカッコよかったです!
わたしたち四人は、まずは駅前のオシャレなカフェでランチを頂きました。
食後はミュージカルの開演時刻まで時間があったので、竹下通りを散策してました。その時に、雑貨屋さんでさやかちゃんが見つけてくれた三人お揃いの可愛いスマホカバーを、純也さんがプレゼントしてくれました!
わたしの誕生日が先月の四日だったことを知らなかった純也さんは申し訳なさそうに、「知ってたら、先月寮に来た時に何かプレゼントを用意してたんだけど」っておっしゃってました。でも、わたしは一ヶ月遅れの誕生日プレゼントでも、すごく嬉しかったんです。男の人からのプレゼントなんて初めてだったから(あ、おじさまがお見舞いに送って下さったお花は別です)。
その後、バッタリ治樹さんに会いました。さやかちゃんはお兄さんとの遭遇にちょっと迷惑そうでしたけど、珠莉ちゃんが何だか治樹さんのこと気に入っちゃったみたいで……。わたしには分かる気がします。もしかしたら、珠莉ちゃんは治樹さんに恋してるんじゃないかって。
ミュージカルが上演された劇場は、渋谷駅の近くにあります。わたしは劇場に入ったのが初めてで、すごくワクワクしてました。
上演されたプログラムは、わたしがまだ読んだことのない小説が原作になってる作品でしたけど、すごくいい作品でした。
歌もダンスもお芝居も、そしてキラキラした舞台装置も素晴らしくて、夢を見てるみたいでした。そして何より、お話の内容にも魅了されました。
プロの俳優さんってスゴいですね! どんな役柄にもなりきってしまえるんだもん。わたしは多分、女優には向いてないと思います。演技とか、ウソついたりするのが苦手だし、だいいち音楽の成績があんまりよくないから。
劇場を出た後は、お買いものタイム! わたしも古着屋さんを数軒回って、夏物の洋服とか靴を安く買いました。珠莉ちゃんなんか、両手にいっぱい紙袋を抱えて、それでもまだ買いたいものがあるって言って、セレクトショップへさやかちゃんを引っぱって行きました。
でもそれは、わたしを純也さんと二人きりにしようっていう二人の作戦みたいで、わたしはその後しばらく純也さんと二人で行動することになりました。
わたしたちは一緒に本屋さんに行って、表参道駅の近くで休憩。純也さんとは色んなお話をして、連絡先も交換してもらいました。純也さんがそうしたかったらしくて。彼はどうも、珠莉ちゃんに気兼ねすることなくわたしと連絡を取りたかったそうです。わたしの方が、「本当にいいの?」って思っちゃいました。
最後に四人でクレープを食べて(そのお店では、わたしと純也さんの二人がタピオカ初体験でした!)、それから原宿駅で純也さんとお別れしました。
珠莉ちゃんはリッチだから、金額なんて気にしないで欲しいものをホイホイ買うことができますけど。わたしは横浜に来てすぐにそれで失敗してるので、キチンと値段を確認して、お財布の中身と相談して安く買えるものは安く買うっていう工夫ができるようになりました。やっぱり、ムダ遣いはよくないし。自分の力で生活できるようになった時に困らないように、〝節約する〟ってことも覚えなきゃ! そうでしょう、おじさま?
話が逸れちゃいましたね。今日のお出かけで、わたしの恋は一歩前進したと思います。
純也さんはわたしに、「出会えてよかった」っておっしゃってくれました。さやかちゃんによれば、それは告白されたも同じことだ、って。
それはわたしも同じです。わたしも、純也さんに出会えてよかったって思ってます。でも、はっきり「好きだ」って言われたわけじゃないから、彼の気持ちがまだちゃんと分かりません。それでも、わたしと純也さんはお付き合いしてるってことになるんでしょうか? 初めてのことだから、よく分からなくて。
長くなっちゃいましたね。今日はここまでにします。おじさま、おやすみなさい。
五月三日 愛美 』
****
ホタルに願いを込めて……
――愛美たちの原宿散策から一ヶ月が過ぎ、横浜は今年も梅雨入りした。
「――愛美、あたしこれから部活だから。お先に」
終礼後、スポーツバッグを提げたさやかが愛美に言った。
「うん。暑いから熱中症に気をつけてね」
梅雨入りしたものの、今年はあまり雨が降らない。今日も朝からよく晴れていて蒸し暑い。屋外で練習する陸上部員のさやかには、この暑さはつらいかもしれない。
「あら、さやかさんもこれから部活? 私もですの」
「アンタはいいよねー。冷房の効いた部室で活動できるんだもん」
「そうでもないですわよ? お茶を点てるときのお湯は熱いし、着物も着なくちゃならないから」
珠莉は茶道部員である。さすがに活動のある日、毎回和装というわけではないけれど、定期的に野点を開催したりするので、大変は大変なのだ。
「へえー、そういうモンなんだぁ。どこの部も、ラクできるワケじゃないんだね―。――愛美も今日は部活?」
「ううん。文芸部は基本的に自由参加だから、わたしは今日は参加しないよ」
「え~~~~、いいなぁ。……じゃあ行ってくるね」
「うん。行ってらっしゃい」
親友二人を見送り、自分も教室を出ようと愛美が席を立つと――。
「相川さん、ちょっといいかしら?」
クラス担任の女性教師・上村早苗先生に呼び止められた。
彼女は四十代の初めくらいで、国語を担当している。また、愛美が所属している文芸部の顧問でもあるのだ。
「はい。何ですか?」
「あなた、今日は部活に参加しないのよね? じゃあこの後、ちょっと私に付き合ってもらってもいい? 大事な話があって」
「はあ、大事なお話……ですか? ――はい、分かりました」
(大事な話って何だろう? まさか、退学になっちゃうとか!?)
愛美は頷いたものの、内心では首を傾げ、イヤな予感に頭を振った。
(そんなワケないない! わたし、退学になるようなこと、何ひとつしてないもん!)
とはいうものの、先生から聞かされる話の内容の予想がまったくできない愛美は、小首を傾げつつ彼女のあとをついて行った。
* * * *
「――相川さん、ここで座って待っていてね。先生はちょっと事務室でもらってくるものがあるから」
「はい」
通されたのは職員室。上村先生は、その一角の応接スペースで待っているように愛美に伝えた。
(……事務室でもらってくるものって何だろ? ますます何のお話があるのか分かんない)
愛美は言われた通りにソファーに浅く腰かけ、一人首を捻る。
事務室といえば、管理しているのは生徒の名簿や成績や、学費・寮費などのお金関係。
(おじさまに限って、学費の振り込みが滞ってるなんてことはなさそうだしなぁ)
〝あしながおじさん〟は律儀な人だと、愛美もよく知っている。間違いなく、この学校の費用は毎月キッチリ納められているだろう。
ということは、それ関係の話ではないということだろうか?
「――お待たせ、相川さん。あなたに話っていうのはね、――実は、あなたに奨学金の申請を勧めたいの」
「えっ、奨学金?」
思ってもみない話に、愛美は瞬いた。
「ええ、そうよ。あなたは施設出身で、この学校の費用を出して下さってる方も身内の方じゃないんでしょう?」
「え……、はい。そうですけど」
上村先生は何が言いたいんだろう? 保護者が身内じゃないなら、それが何だというんだろう?
「ああ、気を悪くしたならゴメンなさい。言い方を変えるわね。……えっと、あなたは入学してから、常に優秀な成績をキープしてるわ。そしてあなた自身、『いつまでも田中さんの援助に頼っていてはいけない』と思ってる。違うかしら?」
「それは……」
図星だった。愛美自身、〝あしながおじさん〟からの援助はずっと続くわけではないと思っていた。いつかは自立しなければ、と。
そして、ちゃんと独り立ちできた時には、彼が出してくれた学費と寮費分くらいは返そうと決めていたのだ。
「この奨学金はね、これから先の学費と寮費を全額賄える金額が事務局から出るの。大学に進んでからも引き続き受けられるから、保護者の方のご負担も軽くなるんじゃないかしら。大学の費用は、高校より高額だから」
「はあ……」
大学進学後も受けられるなら、愛美としては願ったり叶ったりだ。大学の費用まで、〝あしながおじさん〟に出してもらうつもりはなかったから。そこまでしてもらうくらいなら、大学進学を諦める方がマシというものである。
「まあ、一応審査もあるから、申請したからって必ず受けられるものでもないんだけれど。あなたの事情や成績なら、審査に通る確率は高いと思うの。これが申請用紙よ」
上村先生はそう言って、ローテーブルの上に一枚の書類を置いた。
「あなたが記入する欄だけ埋めてくれたら、あとは事務局から保護者の方のところに直接書類を郵送して、そこに必要事項を記入・捺印して送り返して頂くから。それで申請の手続きは完了よ」
「分かりました。――わたしが書くところは……。あの、ペンをお借りしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
愛美は上村先生のボールペンを借りて、本人が記入すべき箇所をその場で埋めていく。
「――先生、これで大丈夫ですか?」
「書けた? ……はい、大丈夫。じゃあ、すぐに相川さんの保護者の方宛てに郵送しておくわね」
「先生、このこと……わたしからも伝えておいた方がいいですか? 田中さんに」
こんなに大事なことを、愛美ひとりで決められるはずがない。学校の事務局から書類が送られるにしても、念のため愛美からもお願いしておいた方がいいと思ったのだ。
だいいち、〝あしながおじさん〟が「もう自分の援助は必要ないのか」とヘソを曲げないとも限らないし――。
「そうね。それは相川さんに任せるわ。私からの話は以上です」
「はい。先生、失礼します」
――職員室を後にした愛美は、寮までの帰り道を歩きながら考え込んでいた。
(奨学金……ねぇ。そりゃあ、受けられたらわたしも助かるけど……。おじさまは気を悪くしないのかな……?)
彼はよかれと思って、厚意で愛美の援助に名乗りを上げたのだ。他に手助けしてくれる人がいないのなら、自分が――と。
それに水を差されるようなことをされて、「もう援助は打ち切る」と言われてしまったら……?
(もちろん、奨学金でもわたしのお小遣いの分までは出ないから、それはこの先もありがたく受け取るつもりでいるけど)
今までのようにはいかなくても、お小遣いの分だけでも愛美が甘えてくれたなら、〝あしながおじさん〟も自分のメンツが保てるんだろうか?
「こんなこと、純也さんに相談してもなぁ……」
彼とは一ヶ月前に連絡先を交換してから、頻繁に電話やメッセージのやり取りを続けている。「困ったときには何でも相談して」とも言ってくれた。
でも、こればっかりは他人の彼が口出ししていい問題ではない気がする。
「っていっても、もう手続きしちゃってるし。今更『やっぱりやめます』ってワケにもいかないし」
本校舎から〈双葉寮〉まで帰るには、途中でグラウンドの横を通る。グラウンドでは、さやかが所属する陸上部が練習の真っ最中だった。
「――わあ、さやかちゃん速~い!」
百メートル走のタイムを測っていた彼女は、十二秒台を叩き出していた。
「暑い中、頑張ってるなぁ」
本人に聞いた話では、五月の大会でも準優勝したとか。この分だと夏のインターハイへの出場も確実で、今年は夏休み返上かもしれない、とか何とか。
「さやかちゃ~ん! お疲れさま~!」
愛美は親友の練習のジャマにならないように、その場から大声で声援を送った。すると、タオルで汗を拭きながらさやかが駆け寄ってくる。
「愛美じゃん! さっきの走り、見てくれた?」
「うん! スゴい速かったねー」
愛美は体育は得意でも苦手でもないけれど(強いて挙げるなら、球技は得意な方ではある)。さやかは体育の授業で、どんな種目も他のコたちの群を抜いている。
中でも短距離走には、かなりの自信があるようで。
「でしょ? この分だと、マジで今年は夏休み返上かも。あ~、キャンプ行きたかったなぁ」
インターハイに出られそうなことは嬉しいけれど、そのために夏休みの楽しみを諦めなければならない。――さやかは複雑そうだ。
「仕方ないよ。部活の方が大事だもんね」
「まあね……。ところで愛美、今帰り? ちょっと遅くない?」
部活に出なかったわりには、帰りが遅いんじゃないかと、さやかは首を傾げた。
「うん。あの後ね、上村先生に呼ばれて職員室に行ってたから。大事な話があるって」
「〝大事な話〟? ってナニ?」
さやかは今すぐにでも、その話の内容を知りたがったけれど。
「うん……。でもさやかちゃん、今部活中でしょ? ジャマしちゃ悪いから、寮に帰ってきてから話すよ。珠莉ちゃんも一緒に聞いてもらいたいし。――そろそろ練習に戻って」
「分かった。じゃあ、また後で!」
さやかは愛美にチャッと手を上げ、来た時と同じく駆け足で他の部員たちのところへ戻っていった。
* * * *
「――えっ、『奨学金申し込め』って?」
その日の夕食後、愛美は部屋の共有スペースのテーブルで、担任の上村先生から聞かされた話をさやかと珠莉に話して聞かせた。
「うん。っていうか、その場で申請書も書いた。わたしが書かなきゃいけないところだけ、だけど」
「書いた、って……。愛美さんはそれでいいんですの?」
珠莉は、愛美が自分の意思ではなく先生から無理強いされて書いたのでは、と心配しているようだけれど。
「うん、いいの。わたしもね、おじさまの負担がこれで軽くなるならいいかな、って思ってたし。いつかお金返すことになっても、その金額が少なくなった方が気がラクだから」
「お金……、返すつもりなんだ?」
「うん。おじさまは望んでないと思うけど、わたしはできたらそうしたい」
愛美の意思は固い。元々自立心が強い彼女にとって、経済面で〝あしながおじさん〟に依存している今の状況では「自立している」ということにはならないのだ。
もし彼がその返済分を受け取らなくても、愛美は返そうとすることだけで気持ちの上では自立できると思う。
「それにね、奨学金は大学に上がってからも受け続けてられるんだって。大学の費用まで、おじさまに出してもらうつもりはないから」
「それじゃあ、あなたも私たちと一緒に大学に進むつもりなのね?」
「うん。そのことも含めて、おじさまには手紙出してきたけど。さすがにこんな大事なこと、わたし一人じゃ決めらんないから」
愛美はまだ未成年だから、自分の意思だけでは決められないこともまだまだたくさんある。そういう点では、彼女は〝カゴの中の鳥〟と同じなのかもしれない。
「おじさまが賛成して下さるかどうかは分かんないけどね。一応おじさまが保護者だから、筋は通さないと」
「律儀だねぇ、アンタ。何も進学のことまでいちいちお伺い立てなくても、自分で決めたらいいんじゃないの?」
「それじゃダメだと思ったの。誰か、大人の意見が聞きたくて。……でも、誰に相談していいか分かんないから」
「でしたら、純也叔父さまに相談なさったらどうかしら?」
「えっ、純也さんに!? どうして?」
何の脈絡もなく、この話の流れで出てくるはずのない人の名前が珠莉の口から飛び出したので、愛美は面食らった。
「ええと……、そうそう! 叔父さまは愛美さんにとって、いちばん身近な大人でしょう? きっと喜んで相談に乗って下さいますわ。愛美さんの役に立てるなら、って」
「そ、そう……かな」
珠莉は何だか、取って付けたような理由を言ったような気がするけれど……。他に相談相手がいないので、今は彼女の提案に乗っかるしかない。
「じゃあ……、電話してみる」
愛美は二人のいる前でスマホを出して、純也さんの番号をコールしてみた。〝善は急げ〟である。
『――はい』
「純也さん、愛美です。夜遅くにゴメンなさい。今、大丈夫ですか?」
『うーん、大丈夫……ではないかな。ゴメンね、今ちょっと出先で』
純也さんは声をひそめているらしい。出先ということは、仕事関係の接待か何かだろうか?
「あっ、お仕事ですか? お忙しい時にゴメンなさい。後でかけ直した方がいいですよね?」
『いや、僕一人抜けたところで、何の支障もないから。――それよりどうしたの?』
「えっ? えーっと……」
純也さんも忙しいようだし、あまり長話はできない。愛美は簡潔に要点だけを伝えることにした。
「……実は、純也さんに相談に乗って頂きたいことがあって。電話じゃ長くなりそうなんで、ホントは会ってお話ししたいんですけど。何とか時間作って頂けませんか?」
電話の向こうで純也さんが「う~~ん」と唸り、十数秒が過ぎた。
『そうだなぁ……、しばらく仕事が立て込んでるからちょっと。でも、夏には休暇取って、多恵さんのところの農園に行けそうだから、その時でもいいかな? ちょっと先になるけど』
「はい、大丈夫です! 急ぎの相談じゃないから。――いつごろになりそうですか? 休暇」
この夏は、純也さんと一緒に過ごせる! それだけで、愛美の胸は躍るようだった。
『まだハッキリとは分からないな。また僕から連絡するよ』
「分かりました。じゃあ、連絡待ってますね。失礼します」
愛美は丁寧にそう言って、通話終了の赤いボタンをタップした。
今すぐには相談に乗ってもらえなかったけれど、電話で純也さんの声を聞けて、しかも夏休みには彼と一緒に過ごせると分かっただけでも、愛美の気持ちは少し楽になった――。
* * * *
――その数週間後。すでに七月に入っていたある日。
「相川さん、ちょっと」
短縮授業期間のため、午前の授業を終えて帰り支度をしていた愛美は、上村先生に手招きされた。
「――先生? どうしたんですか?」
「あなたの保護者の方から、今さっき奨学金の申請書が送り返されてきたそうよ」
「えっ、そうなんですか? それで、必要事項は――」
もしも白紙で(愛美が埋めたところ以外は、という意味で)戻ってきたのなら、〝あしながおじさん〟は愛美が奨学金を受けることに反対。キチンと書かれていたのなら、反対はされなかったということなのだけれど。
「キチンと埋められていたそうよ。というわけで、奨学金の申請はこれで無事に終わり。審査の結果は夏休み中に分かるはずだから、事務局からあなたに直接連絡があると思うわよ」
「そうですか……。分かりました。知らせて下さってありがとうございます」
愛美は半信半疑ながらも、担任の先生にお礼を言った。
(おじさま、反対しなかったんだ。――あれ? でも『あしながおじさん』のお話の中では……)
あの物語の中では、ジュディが奨学金を受けることに〝あしながおじさん〟は猛反対で、何度も何度もグダグダと文句を書き連ねた手紙を秘書に出させていた。――あれは、彼女が自分の手を離れるのがイヤでやったことだと思うのだけれど……。
(じゃあ、わたしの方のおじさまには、わたしの自立を後押ししたいって気持ちがあるってことなのかな?)
「――ところで、今日は午後から文芸部の活動があるけど。相川さんは出られる?」
上村先生は、今度は文芸部顧問の顔になって愛美に訊ねた。
「はい、出るつもりです。この夏に、ちょっと応募してみたい文芸コンテストがあって。その構想を練ろうかな、って」
「そうなの? その年で公募にまでチャレンジするなんて、さすが小説家志望はダテじゃないわね」
「……はあ。でも、他の部員の人たちもそうなんじゃないですか? みんな書くのは好きみたいだし」
「そんなことないわよ。ほんの趣味程度にやってる子がほとんどね。プロの作家を目指してる子の方が珍しいくらいよ」
今年入ったばかりの一年生はまだどうか分からないけれど、二年生から上の部員はみんな文才がある。前年、部の主催で行われた短編小説コンテストでも、愛美以外の入選者はみんな文芸部の部員だった。
「文才があるからって、みんながみんなプロを目指してるわけじゃないの。お家の事情とか、色々あるんだから」
例えば医者の家系に育ったら、自分も医学の道に進むことが決められているとか。経営者の一族だったら、後継者にふさわしい婚約者(〝フィアンセ〟と言った方が正しいかもしれないけれど)がすでに決められているとか。
愛美は施設育ちだし、両親のこともよく覚えていないけれど、珠莉を見てきているから何となく分かる。
「そうですよね……。お嬢さまって大変なんだなぁ。――じゃあ先生、失礼します」
愛美は上村先生に挨拶をして、スクールバッグを提げて寮までの道を急いだ。――要するに、お腹がグーグー鳴っていたのだ。
「あ~、お腹すいたぁ。今日のお昼って何だっけ」
〈双葉寮〉の食堂のメニューは、朝昼夕とそれぞれ日替わりなのだ。好きなメニューが当たった日はハッピーだけれど、キライなものや苦手なメニューが出た日は一日ブルーでたまらなくなる。
……と、昼食メニューのことに意識を飛ばしながら早足で歩いていた愛美のスカートのポケットで、マナーモードにしていたスマホが振動した。
「……電話? 知らない番号だなぁ。誰からだろ?」
ディスプレイに表示されているのは、まったく見覚えのない携帯の番号。愛美は首を傾げながら、通話ボタンを押した。
「もしもし? 相川ですけど、どちらさまですか?」
『恐れ入りますが、相川愛美さまの携帯でお間違いないでしょうか』
聞こえてきたのは、穏やかな初老と思しき男性の声。
「はい、そうですけど。……あの」
『失礼。申し遅れました。私、田中太郎氏の秘書を務めております、久留島栄吉と申します』
「久留島さん? ……ああ、あなたが! いつも何かとお気遣い頂いてありがとうございます」
まさか、〝あしながおじさん〟の秘書から電話がかかってくるなんて……! 普段から何かとお世話になっているので、愛美はまず彼にお礼を言った。
『いえいえ。私はただ、ボスの言いつけに従って自分の務めを果たしているだけですので』
「……そうですか」
(なんか腰の低い人だなぁ。「ボス」なんて、おじさまの方がこの人より絶対若いのに。よっぽど慕ってるんだ)
〝ボス〟という言い方にも、彼の雇い主への愛情というか、信愛が感じられる。
『――ところで愛美お嬢さん、奨学金の申請書についてですが。私のボスがキチンと記入・捺印して学校の事務局に送り返したことは、もうお聞きになっていますか?』
「はい、今さっき伺いました」
『さようでございますか。では、お嬢さんの大学進学にも賛成だということは?』
そのことは、上村先生からは何も聞いていない。
「いえ、それは伺ってませんけど。なんか意外だったんで、ちょっと驚きました」
『意外、とおっしゃいますのは?』
「わたし、田中さんに反対されると思ってたんです。奨学金のことも、わたしが大学に進むことも。だって、田中さんにしてみたら、『自分はもう、保護者としてお払い箱なのか』って思うかもしれないでしょう? 自分には頼ってくれないのに、大学には進みたいのかって。それって、自分でも勝手だなと思ってるんで」
将来的に、出してもらったお金を返すつもりだということは、久留島さんにも言わないことにした。それが万が一〝あしながおじさん〟の耳に入って、今の関係がこじれてしまうのはイヤだから。
『いえいえ、そんなことはございませんよ。ボスの一番の望みは、お嬢さんが有意義で充実した学校生活を送られることなんです。奨学金がその役に立つなら、ボスに反対する理由はございません』
「はい……」
『大学へお進みになることもそうでございますよ。お嬢さんが本気で小説家を目指しておいでなのでしたら、ぜひ大学へも進まれるべきだとボスは申しておりました。学費を出す必要がなくなっても、できることは何でもするから、と』
「そうですか。――あの、わたし、奨学金で学費が要らなくなっても、毎月のお小遣いは頂くつもりでいるので」
奨学金で学費や寮費は賄われても、個人的に必要な細々した生活費などまでは面倒を見てくれない。
愛美だって今時の女子高生なのだ。欲しいものもそれなりにあるし、趣味に使うお金も必要になる。そうなるとやっぱり、お小遣いは必要不可欠だ。
『さようでございますか! では、ボスにそのように伝えますね。――ところでですね、もうすぐ夏休みでございますが、今年はいかがなさいますか?』
「ああ、それならもう決まってますよ。今年も、長野の千藤農園さんにお世話になろうと思ってます」
『かしこまりました。では、そのようにこちらで手配しておきます。どうぞ、楽しい夏休みをお過ごし下さい』
「ありがとうございます。……あの、一つお訊きしたいことがあるんですけど」
『はい、何でございましょうか?』
愛美にはずっと気になっていることがあった。自分に好きな人ができたことについて、〝あしながおじさん〟はどう思っているんだろう? と。
「わたし今、好きな人がいるんですけど。そのことで、田中さんはあなたに何かおっしゃってましたか? グチでも何でもいいんですけど」
世の中の父親は、娘に彼氏ができることが面白くないらしいと聞いたことがあった。
〝あしながおじさん〟はいわば、愛美の父親代わりである。やっぱり、娘のような愛美に好きな男がいることは面白くないのだろうか?
『いいえ、特には何も申しておりませんでしたが。なぜでしょう?』
「わたしからの手紙、このごろその人のことばっかり書いてるので……。田中さんが呆れてらっしゃるかな……と思って」
ここ一年近く、特にこの数ヶ月の手紙は、もうほとんどが純也さんについての内容で埋め尽くされていた。愛美自身、ノロケっぱなしで胃もたれしそうなくらいなのだ。
すると、久留島さんは笑いながらこう答えた。
『呆れているご様子はなかったかと存じます。むしろお喜びでございますよ。「小説家になるうえでの想像力を養うにも、恋はした方がいいから」と。お嬢さんくらいの年頃でしたら、好きなお方がいない方が不思議だ、ともボスは申しておりました』
「そう……ですか」
『はい。ですから、何もボスの機嫌を伺うようなことはなさらなくても大丈夫でございますよ。思う存分、青春を謳歌なさいませ。――では、千藤農園にはこちらから連絡させて頂きますので。突然のお電話、失礼致しました』
「はい、ありがとうございます」
電話が切れると、愛美はスマホの画面を見つめたまましばらくその場に立ち尽くした。
(おじさま、わたしに好きな人がいることが嬉しいなんて……。どうしてだろう?)
純也さんが自分の知り合いで、信頼できる人だから? それとも――。
「まさか、本人だから……?」
そういえば、『あしながおじさん』ではジュディの好きな人と〝あしながおじさん〟が同一人物だった。――でも、いくら何でもそこまで同じだと考えるのはベタすぎる。
「……なワケないか。行こ」
一人で納得して呟き、愛美はスマホをポケットにしまって、食堂に向けてまた歩き出した。
* * * *
「――愛美ー、こっちこっち!」
食堂に着くと、奥の方のテーブルからさやかが手を振ってくれた。もちろん、珠莉も一緒である。
ちなみに、今日の昼食メニューはチキンカツレツとサラダ、そして冷製ポタージュスープだ。チキンカツレツにはトマトベースのソースがかかっている。
「ゴメンね、遅くなっちゃって」
「いや、別にいいんだけどさ。どしたの? っていうかなんで制服?」
愛美が謝りながらテーブルに着くと、さやかは怒っている様子もなく、彼女が遅れて来た理由を聞きたがった。
愛美は食事をしながら、それを話し始める。
「ん、このチキンカツレツ美味しい! ――教室を出ようとしたら、上村先生に呼び止められて。奨学金申請の手続きが無事終わった、って。――あとね、スマホにおじさまの秘書さんから電話がかかってきたの」
「秘書さんから? どんな用件で?」
「書類がちゃんと着いたかどうかの確認と、今年の夏休みはどうしますか、って。わたしは今年も去年とおんなじように、長野の農園でお世話になるつもりだって答えたよ。今年は純也さんも来てくれるみたいだし」
さやかも昼食に手を付け始めた。ゴハンよりも先に、愛美が絶賛したチキンカツレツに箸が伸びる。
「あ、ホントだ。コレ美味しい! ――そっか。もしかしたら、告白するチャンスかもしんないもんね。頑張れ、愛美」
「うん。ありがとね、さやかちゃん。……ところで、珠莉ちゃんはなんであんなに不機嫌なの?」
愛美とさやかがおしゃべりに盛り上がる中、珠莉は不気味なくらい静かだ。
「さあ? っていうか珠莉、チキンあんまり食べてないじゃん。サラダも」
見れば、珠莉はゴハンとスープばかりを口にしている。サラダも、トマトはのけてレタスとキュウリしか減っていない。
「珠莉ちゃん、食欲ないの?」
「そんなんじゃないの。……私、トマトが苦手なのよ」
「あれま。調理の人に言えば、タルタルソースに替えてもらえたのに。サラダのトマトは自分でのけられるにしてもさぁ」
「その手がありましたわね! 私、さっそくソースを替えてもらってきますわ!」
途端に珠莉の顔色が明るくなり、彼女は踊るような足取りで調理室前のカウンターまで飛んで行った。
「知らなかったなぁ、珠莉がトマト苦手だったなんて。……で、何の話だっけ?」
さやかが珠莉の背中を目で追いながら、しみじみと呟いた。
三人の付き合いはもう一年以上になるけれど、まだまだ知らないことがたくさんあるもので。愛美も頷いた。
「夏休み、わたしは純也さんに告白するチャンスかもって話。――ちなみに制服なのは、午後から部活に出るから」
「あ、ナルホドね。だからカバン持ってきてるんだ。部屋に寄らずに直で来たワケね」
「うん。……あ、珠莉ちゃん戻ってきた」
珠莉はタルタルソースがかかったチキンカツレツのお皿を手にして、嬉しそうなホクホク顔でテーブルに戻ってきた。
「お待たせしましたわ~~♪ こちらの方がカロリーは高そうですけど、まあいいでしよ」
そう言いながら、コッテリしたタルタルソースがけのお肉を美味しそうに食べ始める。
「……よっぽど苦手なんだね、トマト」
「トマトのソースの方が、絶対サッパリして食べやすいだろうにね」
愛美とさやかは、珠莉に聞こえないように囁きあった。
「――ところで、二人は今日、部活は?」
愛美が訊ねる。さやかも珠莉も、すでに制服から着替えている。
「あたしも午後から部活だよ。でもまあ、部屋でスポーツウェアに着替えて直行できるから」
「茶道部は今日、お休みですの」
「そうなんだ」
どうりで、珠莉がのんびりしているわけだ。愛美は納得した。
「でもさぁ、あたしはやっぱ夏休み返上で寮に居残り決定だよ。インハイの予選、順調に勝ち残ってるから。嬉しいんだけど、今年は家族でキャンプ行けない……」
さやかは「はぁ~~」と大きなため息をついて、その場でうなだれた。
「しょうがないよ。部活の方が大事だもん。わたし、長野から応援するよ!」
「愛美さん、今年の夏も長野にいらっしゃるんですの? ……ああ。そういえば、純也叔父さまも行かれるんでしたわね」
「うん、そうなの。だから楽しみで仕方ないんだ♪ ――珠莉ちゃんはどうするの? 夏休み」
「どうせ、また海外でしょ? 今度はどこよ」
少々やさぐれ気味に、さやかが言う。
「今年はグアムに。……でも私は、できれば日本に残りたいんだけど」
「どうして?」
愛美が首を傾げると、珠莉はたちまち耳まで真っ赤になった。
「べっ……、別にいいでしょう!? 私だって、たまには日本でのんびりしたい――」
「あ~~~~~~~~っ! 分かった! もしかして、好きな人できた? ねっ、そうでしょ!?」
珠莉の弁解を遮り、さやかが大声でまくし立てる。珠莉はその勢いに押され、「……ええ」と小声で頷いた。
「ああ、やっぱりそうなんだ」
「愛美、何か知ってんの?」
どうやら気づいていなかったのはさやかだけのようで、彼女は愛美に詰め寄った。
「うん、……多分。珠莉ちゃん、間違ってたらゴメンね。その好きな人って、もしかして治樹さん?」
「えっ、ウチのお兄ちゃん? まっさかぁ! そんなワケ……」
「……そうよ、愛美さん」
その一言に、さやかが雄叫びを上げた。
「ええええええええ~~~~っ!?」
愛美と珠莉は、思わずのけ反る。
「……もしかしてさやかちゃん、気づいてなかったの? わたしですら気づいてたのに」
「うん、全然。だって、まさかお兄ちゃんなんて……。ねえ珠莉、いつから?」
「五月に、原宿でお会いした時からよ。あの時からずっと気になっていて……」
「その時は〝恋〟って気づかなかったんだ? わたしもおんなじだったから分かるよ。初恋なんでしょ?」
愛美も初恋だから、一年前は自分では恋に気づかなかったのだ。さやかに言われて初めて、「これが恋なんだ」と分かった。
きっと、今の珠莉も同じなんだと思う。
「私もまさか、高校生になってから初めて恋をするなんて思ってもみませんでしたわ。今までにも男性と知り合う機会はありましたけど、治樹さんはその誰とも違ってましたの」
(……あ。わたしが純也さんに言われたこととおんなじだ)
愛美は思った。セレブの人たちって、一体どんな異性と知り合うんだろう? と。
みんながみんなお金目当てとか、打算で近づいてくるような人ばかりだったら、恋なんてできるわけがない。
したところで、本気で自分を好きになってくれない人を好きになったって虚しいだけだし……。
「お兄ちゃん……ねぇ。言っちゃ悪いけど、あんまりオススメできないよ? 可愛い女の子には目がないし、愛美だってターゲットにされたもん。秒でフラれたけど」
兄の性格を知り尽くしている妹としては、さやかも珠莉と兄がくっつくことをあまりよくは思っていないらしい。
それは兄のためではなく、珠莉があの兄のせいで泣くところを見たくないという、友情に基づいての忠告だったのだけれど。
「あら! でも、少なくともあの人には打算っていうものはないでしょう? それに、好きになった女性のことは絶対に大事にする方なんでしょう? でしたら何の問題もありませんわ」
「う……、まぁ。お兄ちゃんはそういう人だけど……」
〝恋は盲目〟というのか、珠莉はすっかり治樹さんが「女性を大事にできるステキな男性」だと思い込んでいるようで。
「さやかちゃん。こうなったらもう、珠莉ちゃんの背中押したげるしかないんじゃない? 親友として」
「…………だね。しょうがないかぁ」
さやかは渋々、愛美の言葉に頷いた。
「――ところでさ、愛美。ここでのんびり喋ってていいの? もうゴハンは食べ終わってるみたいだけど、午後から部活じゃなかったっけ?」
「えっ? ……わ、もうすぐ一時!? ごちそうさまでした! わたし、もう行くねっ!」
愛美はイの一番に部室へ行って、文芸コンテストに応募する短編小説の構想を何作分か練っておくつもりだったのだ。
「さやかちゃんは、まだ行かなくていいの? 部活出るんじゃ……」
自分の食器を片付け、スクールバッグを取り上げて食堂を出ていこうとした愛美は、ふと思い出した。
「うん、あたしはまだいいの。部活は二時からだから」
「そっか。今日も暑いから気をつけてね。じゃあお先に!」
* * * *
――愛美は来た道を引き返し、文芸部の部室へ。
「あ、愛美先輩! こんにちは」
部室内には、すでに一年生の部員が一人来ていた。彼女は大きな机の前に座り、資料として置いてある小説を読んでいたけれど、愛美に気づくと立ち上がって頭をペコリと下げた。
「こんにちは。あらら、一番乗りはわたしじゃなかったかぁ。残念」
「でも、先輩だって二番目に早かったですよ。私はこの秋の部主催のコンテストに向けて、作品の構想を練ろうと思って」
「へえ、そうなんだ? わたしもなの。でもね、わたしは雑誌の文芸コンテストに応募するつもりなんだよ」
部活動に熱心なのは、この後輩も同じらしい。もちろん張り合いたいわけではないので、愛美はあくまで控えめに彼女に言った。
「スゴいなぁ。先輩、公募目指してるんですか? 志が高くて羨ましいです」
「別に、そんなことないと思うけどな。小説家になるのが、わたしの小さい頃からの夢だったから」
「いえいえ、ますますスゴいですよ! もしかしたら、この部から現役でプロの作家が誕生するかもしれないってことですよね?」
「……こらこら。おだてても何も出ないよ、絵梨奈ちゃん」
和田原絵梨奈。――これが彼女の名前である。
絵梨奈は愛美と同じ日に入部した女の子で、新入部員の中では愛美のことを一番慕ってくれている。
「じゃあ、絵梨奈ちゃんは自分のことに集中して。わたしも何か参考資料探そうかな……」
「はーい☆」
絵梨奈がまた本に意識を戻したのを見届けて、愛美も本棚を物色し始めた。
* * * *
――その日部室で、四作ほどの大まかなプロットを作り終えた愛美は、ちょっとした達成感を得て寮の部屋に帰った。このコンテストは手書き原稿を受け付けていないらしいので、今回はパソコンでの執筆に挑戦するつもりだ。
「ただいまー」
「お帰りなさい、愛美さん」
「お帰りー。お疲れさん」
部屋には珠莉と、部活を終えたさやかもいた。部屋のバスルームでシャワーを済ませた後なのか、さやかの髪は少し濡れている。
「さやかちゃんも、部活お疲れさま。大丈夫? バテてない?」
「ああ、平気平気☆ めっちゃ汗かいたから、先にシャワー使わせてもらったし。こうして水分と塩分補給してるから」
さすがはアスリートだ。彼女が飲んでいるのは、水分と塩分が両方摂れるスポーツドリンクだった。
「愛美も飲む?」
「うん、ありがと。もらおっかな。グラス持ってくるよ」
愛美がキッチンから取ってきたグラスに、さやかが五〇〇mlのペットボトルからスポーツドリンクを注いでくれた。
「愛美さん、それを飲んだらお着替えなさいよ」
「うん、そうする」
やっぱり、部屋に帰ってきてから制服のままでいるのは落ち着かない。
――着替え終えた愛美は、再び共有スペースの椅子に座り直した。
「部活はどうでしたの? 何かいいアイデアが浮かびまして?」
「えっとねぇ、とりあえず四作くらいのプロットが浮かんだよ。一応、全部小説として書いてみて、その中から応募する作品を選ぶつもり。今回はパソコンで原稿書くよ」
雑誌の公募となると、どのジャンルが受賞しやすいかどうか、傾向を見極める必要があるのだ。
「そっか。じゃあ、その前に誰かに一通り読んでもらって、その人の意見とか感想も参考にした方がいいよね」
「でしたら、純也叔父さまに読んで頂いたらどうかしら? 叔父さまの批評は的確ですから。ただし、少々辛口ですけど」
「えぇ~~? それはちょっとコワいなぁ……」
愛美はちょっと困った。自分が一生懸命書いた小説を、大好きな人からけちょんけちょんに言われるとヘコむ。
「まあ、そんなにおびえないで。よほどヒドい作品じゃなければ、叔父さまだってそんなに厳しいことはおっしゃらないと思いますわ」
「……そう? 分かった」
自分のメンタルの弱さは十分自覚しているので、愛美はあまり自信がないながらも頷く。
(コレで全部「ボツ!」とか言われたら、わたし多分立ち直れない……。ううん、大丈夫!)
それでも、どれか一作くらいは純也さんのお眼鏡にかなう作品があると思うので、全滅の可能性を愛美は打ち消した。
「――あ、そういえばわたし、今月に入ってからおじさまに手紙出してないや」
前に手紙を出したのは、上村先生から奨学金の申請を勧められた時。あの時はまだ六月だった。
「今日は秘書さんからの電話もあったことだし、夏休みの予定も多分まだ伝えてないから。そろそろ書かないと」
先月の手紙では、奨学金のことを伝えるのに精一杯だった。あの時はまだ、純也さんに電話する前だったし……。
「そうだよね。ちゃんと知らせて、おじさまを安心させてあげないとね。――珠莉、あたしたちはちょっと外そう。コンビニ行くから付き合って。あたし、洗顔フォームが切れてたの思い出したんだ」
この寮の中には、お菓子などの食品・ドリンク類からちょっとした文房具や日用品、雑誌まで揃うコンビニもあるのだ。
「ええ? ……まあいいわ。私は特に買うものはないけど、時間潰しにはなるものね。――じゃあ愛美さん、ちょっと行ってきますわ」
「うん、行ってらっしゃい。二人とも、わざわざ気を遣わせちゃってゴメンね」
――二人が出ていくと、愛美は机に向かい、レターパッドを開いた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
今日のお昼、おじさまの秘書の久留島さんからお電話を頂きました。
久留島さんは、おじさまがわたしの奨学金のことも、大学に進むことも反対されてないとおっしゃってました。わたし、何だか信じられなくて……。
だってわたし、おじさまは反対するものだと思ってたんです。おじさまからの学費はいらない、でも大学には行きたいなんて、わたしのワガママかもって。そんなのスジが通らないから。
でも、おじさまはそのワガママを聞き入れて下さったってことですよね?
あのね、おじさま。久留島さんにもお伝えしましたけど、わたしは奨学金を受けられることになってからも、毎月のお小遣いだけは変わらずに頂くつもりでいます。これなら一応、おじさまのメンツは保てるでしょう? そしてできれば、大学に入ってからはお小遣いも増額して頂けないかと……。
あ、そうだ。おじさま、わたし、今年の夏休みも千藤さんの農園で過ごすことに決めました。
というのも、今年の夏には純也さんも休暇を取られて、農園に来られるそうなんです。彼と一緒に過ごせるのが楽しみで! いつごろ来られるのかはまだ分かってないんですけど、また連絡を下さるそうです。
そして、わたしはこの夏、ある文芸誌のコンテストに挑むべく、四作の短編小説を書くことに決めました。それぞれジャンルも、文体も、世界観も違う四作です。もうプロットはできてます。
そして四作全部書きあがったら、純也さんに読んで頂いて、どの作品を応募するべきかアドバイスを頂こうと思ってます。珠莉ちゃんが「純也叔父さまの批評は辛口だ」って言ってたので、わたしはちょっとおびえてます。でも、きっとどれか一作くらいは彼のお眼鏡にかなう作品が書けると思うので、まずは自分の文才を信じようと思います。
珠莉ちゃんは今年の夏はグアムに行くそうですけど、本人は日本に残りたいみたい。どうも、好きな人ができたらしくて。それが誰かなんて、わたしからはお話しできませんけど。
さやかちゃんは所属する陸上部がインターハイ予選を順調に勝ち進んでるので、今年は夏休み返上で練習。ということで寮に残ることになりました。
さやかちゃんはすごくガッカリしてましたけど、わたしは部活を一生懸命頑張ってるさやかちゃんが大好きです。だから、遠く離れた長野から応援しようって決めました。
最後になりましたけど、久留島さんはおじさまのことをすごく慕ってらっしゃるみたいですね。
彼はお電話で、おじさまのことを「ボス」ってお呼びになってました。多分ですけど、おじさまよりだいぶ年上のはずなのに。
お二人の関係が良好で、お互いに信頼しあってるんだなって、わたしにもよく分かりました。
ものすごく長い手紙になっちゃいましたね。すみません。
今年の夏休みも思う存分楽しんで、そして執筆も頑張って、ステキな思い出をたくさん作ってこようと思います。ではまた。
七月十日 愛美
P.S. 奨学金の審査の結果が出たら、またおじさまにお知らせします。夏休みの間に、事務局からわたしの携帯に直接連絡が来るそうなので。 』
****
――そして、いよいよ七月二十日。今日から夏休みが始まる。
「じゃあさやかちゃん、わたしたちもう行くから。部活頑張ってね☆」
愛美は横浜駅まで、珠莉と一緒に行くことになっている。
「うん、頑張るよ。どこまで進めるか分かんないけどね。……あ、愛美の恋の進展具合も教えてよ」
「……もう! さやかちゃんシュミ悪いよぉ。――分かった。ちゃんと教えるよ」
女の子同士の友情なんて、こんなものじゃないだろうか。からかわれても、やっぱり親友には恋バナを聞いてほしいものなのだ。
「ところで愛美さん。荷物はそれだけですの?」
珠莉は愛美の荷物がスーツケースとスポーツバッグ、それぞれ一つずつしかないことに首を傾げた。
一年前にはこの他に、段ボール箱三つ分の荷物がドッサリあったというのに。
「うん。大きな荷物は先に送っといたの。去年より一箱少ないけどね」
千藤農園にお世話になるのも、今年で二度目。先に荷物が届けば、向こうもあとは愛美本人の到着を待てばいいだけ、ということだ。
「そうでしたの? じゃあ、そろそろ参りましょうか」
「うん。――さやかちゃん、行ってきま~す!」
「行ってら~~! 二人とも、気をつけて。楽しんどいで!」
「「は~い☆」」
――愛美と珠莉の二人は、まず地下鉄で新横浜駅まで出た。
その車内で、愛美は多分初めて珠莉と二人、ゆっくり話す機会に恵まれた。
「そういえば、初めて会った時から思ってたけど。珠莉ちゃんって肌白いよねー」
「まぁね。私、今まで話したことありませんでしたけど、実はモデルになりたいと思ってますの。そのためにスタイル維持だけじゃなく、美白にも気を遣ってますのよ」
愛美は彼女の夢を始めて聞いた。でも、スラリと背が高く、スタイルもいい珠莉らしい夢だと思う。
「へえー、そうだったんだ。珠莉ちゃんならなれるよ、きっと。でも、グアムに行ったら焼けちゃうんじゃない?」
「ええ、そうなのよ。私がグアムとか南国に行きたくないのは、それも理由の一つなの。あれだけ日差しが強いと、日焼け止めなんていくらあっても足りないもの」
「そうだよね……。でも、今回行きたくない理由はそれだけじゃないもんね?」
「ええ。治樹さんも東京にお住まいだってお聞きしてるし、東京にいれば街でバッタリ会うこともあるかもしれないでしょう? でも……、海外に行ってしまったら、帰国するまでは絶望的だわ……」
「うん……」
愛美は純也さんの連絡先を知っているから、たとえ会えなくても電話で声を聴いたり、メッセージのやり取りもできる。だからあまり「淋しい」とは思わないけれど。
珠莉は治樹さんの連絡先すらまだ知らない。妹であるさやかに訊く、という手もあったけれど、それでは彼の方が珠莉の連絡先を知らないし、たとえ身内であっても第三者を巻き込むのは珠莉も気が退けるのだろう。
「珠莉ちゃん、そんなに落ち込まないで。早めに日本に帰ってこられたら、治樹さんに会うチャンスもあるかもしれないから。ねっ?」
「……そうですわね。落ち込んでいても、何も始まりませんわね」
愛美の一言で、暗かった珠莉の表情は見る見るうちに明るさを取り戻していく。
「ところで、お肌が白いっていえば愛美さん、あなたもじゃなくて?」
「うん、そうなの。わたし、小さい頃から全然焼けなくて。元々そういう体質なのかなぁ? 去年夏も、外でいっぱい農作業とか手伝ってたのに日焼けしなかったんだよ。わたしはこんがり小麦色に日焼けする子たちが羨ましくて仕方なかったなぁ」
「まぁ、そうね。長野はあまり日差しが強い地域でもないし、あなたがお育ちになった山梨もそうでしょう? 育った環境にもよるんじゃないかしらね」
「なるほど……、そうかも」
愛美は納得した。もし生まれ育ったのが沖縄みたいな南国だったり、ビルの照り返しの強い都会だったら、もっと日焼けしやすい体質になっていたかもしれない。
「でもね、愛美さん。私たちくらいの年齢になると、あまり日焼けはしない方がよくてよ。シミやそばかすの原因になりますもの」
「そうだよね。実はわたしも、去年おんなじこと考えてたんだ」
年頃の女の子にとって――特に恋するオトメにとっては、日焼けはお肌の大敵なのだ。愛美だって珠莉だって、好きな人のためにもキレイなお肌を保ちたいのは同じ。
――二人がそんな会話をしている間に、「次は新横浜」という車内アナウンスが聞こえてきた。
「――あ、次だね。珠莉ちゃん、降りよう」
* * * *
――JR新横浜駅で成田空港に向かう珠莉と別れ、愛美は去年と同じように新幹線の車上の人になっていた。
去年はサンドイッチで昼食を済ませたけれど、今年はお財布の中身に余裕があるため、乗り換えのために降りた東京駅でちょっと高い駅弁を買って北陸新幹線の車内で食べた。
その車内で、愛美は純也さんに、スマホから一通のメッセージを送信した。
『わたしは今、新幹線で長野の千藤農園に向かってます。
純也さんはいつごろ来られそうですか? 連絡お待ちしてます☆』
* * * *
――JR長野駅の前には、一年前と同じように千藤農園の主人(名前は善三さんという)が車で迎えに来てくれていた。もちろん、助手席には多恵さんも乗っている。
「こんにちは! 今年もお世話になります」
「愛美ちゃん、こんにちは。待ってたわよ」
「よく来てくれたねぇ。もう荷物は届いてるから、天野君に部屋まで運んでもらってあるよ。――さ、乗りなさい」
「ありがとうございます。じゃあ、おジャマしまーす」
礼儀正しく挨拶をした愛美を、善三さんはニコニコしながら白いライトバンの後部座席に乗せてくれた。
「――あ、多恵さん。いいお知らせです。純也さん、今年の夏はこちらに来られるそうですよ」
「あら、坊っちゃんが? でも、ウチには連絡なかったわよ。ねえ、お父さん?」
驚いた多恵さんは、首を傾げて夫である善三さんを見た。
「ああ、電話はなかったねぇ。愛美ちゃんはどうして知ってるんだい?」
「実はわたし、五月から純也さんと個人的に連絡取り合えるようになったんです。で、わたしが先月かな、お電話した時にそうおっしゃってたんで」
「そうなの? 知らなかったわ。でも、あの坊っちゃんが女の子と個人的に連絡を取るようになるなんて……。愛美ちゃんは、よっぽど坊っちゃんに気に入られてるのね。――で、坊っちゃんのご到着はいつごろになるの?」
「あ……、それはまだ分かんないです。お忙しいのか、その後連絡がなくて。さっき、わたしからもメッセージ送ってみたんで、そのうち折り返しがあると思います」
純也さんが、愛美からの連絡を無視するはずがない。連絡がないのは、本当に多忙だったからだろう。
愛美はスポーツバッグのポケットからスマホを取り出した。メッセージアプリを開いてみると、新幹線の車内から送ったメッセージはちゃんと既読になっている。
(純也さん、ちゃんと見てくれたんだ……。よかった)
彼はきっと、今日も仕事に追われているんだろう。社長は社長で、それなりに忙しいものだ。
それでも、愛美からのメッセージにはちゃんと目を通してくれている。愛美はそれだけで嬉しかった。
****
『拝啓、あしながおじさん。
長野の千藤農園に着いて、十日が過ぎました。
わたしは今年も農作業のお手伝いにお料理に学校の宿題に、それから公募用の原稿執筆にと忙しい夏休みを過ごしてます。そのおかげで、毎晩クタクタになってベッドに入っちゃうので、おじさまに手紙を書く時間もなくて。
多恵さんは最近手作りパンにこってるらしくて、わたしも毎日、佳織さんと一緒にお手伝いしてます。生地をこねたり、多恵さんが買ったばかりのホームベーカリーでパンがふっくら焼けるのを、お茶を飲みながら待ったり。すごく楽しいです☆ そして、焼きたてのパンはすごく美味しいです! おじさまにも食べて頂きたい。きっと喜んで下さると思います。
純也さんからは、まだ連絡がありません。わたしが送ったメッセージは見て下さったみたいなんですけど……。きっと忙しくて、返信する暇もないんだろうな。
短編小説は、プロットのできた四作のうち三作はもう書き上げてあって、もう一作もあと少しで書き上がります。純也さんがこちらにいらっしゃったら、さっそく読んでもらうつもりです。それまでに原稿が上がるのか、純也さんが先に来られるのか。わたしはドキドキしてます。
〝ドキドキ〟といえば……。わたし、この夏に純也さんに告白しようと思ってます。純也さんの方も、わたしのことを気に入って下さってるみたいだし。それよりも、この想いを抱えたままじゃわたし自身がおかしくなっちゃいそうで。だから結果なんて考えないで、自分の気持ちをそのまま彼に伝えます。
おじさまも、わたしの恋を見守ってて下さいますよね? ではまた。
七月三十日 愛美 』
****
「――愛美ちゃん! 佳織ちゃんと一緒にパン作り手伝ってー!」
「はーい! 多恵さん、今行きまーす!」
夏休みが始まって三週間余り。
この日の午後も、愛美はキッチンで多恵さんのパン作りのお手伝い。最初はド素人丸出しだった生地のこね方も、だいぶ板についてきた。今では愛美も、この時間が楽しみになっている。
「……あ、そうだ。スマホは持って行っといたほうがいいかな」
純也さんから、そろそろ連絡がくるかもしれない。愛美はスマホを自前のチェックのエプロンのポケットに入れて、キッチンへ下りていった。
「――わぁ! 愛美ちゃん、生地こねるのうまくなったね。あたしなんか、そうなるまでにあと一ヶ月はかかりそうだよ」
佳織さんが粉まみれになってパン生地を相手に悪戦苦闘しながら、愛美の手つきを惚れ惚れと眺めて言った。
「そうですか? まあ、元々お料理も好きだったし、楽しいと上達もしますよ」
手作りパンの経験はないし、もちろんパン屋さんで働いたこともないけれど。この後美味しいパンが食べられると思えば、こんなの苦労でも何でもない。
「――さ、こね方はこれくらいでいいでしょう。冷蔵庫で三十分くらい発酵させましょうね。二人とも、手を洗って」
「「はい」」
愛美が先に手を洗わせてもらい、タオルで手を拭いていると……。
♪ ♪ ♪ ……
愛美のエプロンのポケットで、スマホが着信を告げる。五秒以上鳴っているので、電話の着信らしい。
「――あ、純也さんからです。もしもし? 愛美です」
『愛美ちゃん? 純也だけど、今大丈夫かな?』
「はい、大丈夫です。今、キッチンで多恵さんと佳織さんと三人で、パン作りしてるんです」
『パン作り?』
純也さんがオウム返しにした。どうして多恵さんが急にそんな趣味にはしったのか、多分頭の中にクエスチョンマークを飛ばしているんだろう。
「はい。去年の冬くらいからハマってるらしいですよ。そのためにわざわざホームベーカリーまで買っちゃったって」
『……そうなんだ。善三さんも大変だな』
電話の向こうで、純也さんが苦笑いしている。
ホームベーカリーは決して安い買いものではないので、ねだられた善三さんに男同士の身として同情しているらしい。
「そうですね。――あ、多恵さんとお話しますか?」
『うん、代わってもらえるかな?』
「はーい。ちょっと待って。スピーカーにしますね」
愛美は笑って答えながら、スマホの通話画面のスピーカーボタンをタップして、作業台の上に置いた。これで、手を放していても話ができる。
「坊っちゃん、多恵です。お元気そうで安心いたしました」
『うん、元気だよ。そっちは楽しそうだね。僕も混ぜてほしいくらいだ。東京はすっかり猛暑でね。ホント参ってるよ』
「愛美ですけど。純也さん、こっちにはいつごろ来られそうですか? 夏休みの初日にメッセージ送ったのに、既読スルーされちゃってるから」
愛美はちょっと口を尖らせて彼に訊ねた。まだ付き合ってもいないのに(と、愛美本人は思っている)、これじゃ彼氏に知らん顔されている彼女みたいだ。
『あー、ゴメン! 仕事に忙殺されてて、ついうっかり返信するの忘れてたんだ。明日から休暇を取ったから、明日の……そうだな、午後にはそっちに着くと思う。ドライブがてら、車で行くから』
「分かりました。坊っちゃん、こちらではゆっくりおできになるんですか?」とは、多恵さんの言葉。
『さあ、どうだろう? それはそっちに着き次第かな。でも、愛美ちゃんもいるならすぐに東京に帰っちゃうのはもったいないな』
つまり、純也さんはできるだけ長い時間を愛美と一緒に過ごしたいということだろうか。
「……そんな、もったいないお言葉です。じゃあ明日、お待ちしてますね。失礼しまーす」
愛美は通話終了のボタンを押した後も、ドキドキしていた。
(明日、純也さんがこの家に来る……)
* * * *
パン作りが終わってから、千藤家は愛美も含めて総動員で家の大掃除をして、翌日の何時ごろに純也さんが来ても大丈夫な状態になった。
そして翌日の午後二時ごろ。準備万端整った千藤家の前に、一台の車が停まった。国産のシルバーのSRV車。
その運転席から颯爽と降りてきたのは――。
「やあ、愛美ちゃん!」
「純也さん! いらっしゃい!」
笑顔で片手を挙げた大好きな男性を、玄関先で待っていた愛美も満面の笑みで迎えた。
純也さんは大きなスーツケースと、これまた重そうなボストンバッグを持っている。愛美の荷物ほどではないにしても、男性にしては荷物が多い気がするけれど……。
「愛美ちゃん、悪いんだけど車のトランク開けてもらっていいかな? 今ロックを外すから」
「えっ? ……ああ、はい」
愛美は戸惑いながらも、彼のお願いを聞いた。
(……もしかして、まだ荷物が?)
愛美がトランクを開けると、そこには信じられないものが積まれていた。
「これって……、バイク?」
「そうだよ。もう一台の僕の愛車。――愛美ちゃん、ありがとう。あと降ろすのは自分でやるから」
純也さんが車から降ろしたのは、ライトグリーンの中型のオフロードバイク。
愛美はバイクのことはまったく分からないけれど、純也さんの話では二五〇ccサイズらしい。
「これで、愛美ちゃんを後ろに乗せて山道とか走れたら楽しいだろうな……と思って積んできたんだ。……あ、ちなみに僕、大型二輪の免許持ってるから」
「へえ……、スゴいですね。なんかカッコいいなぁ」
愛美はそう言いながら、頬を染めた。思わず、バイクの後部座席で彼の背中にしがみついている自分の姿を想像してしまったのだ。
「――あらあら! 純也坊っちゃん、いらっしゃいまし! まあまあ、こんなにご立派になられて……」
そこへ、多恵さんも飛んできた。家の中で家事でもしていたのか、エプロンを着けたままだ。
「多恵さんも、元気そうだね。急な頼みをしてすまないね。僕の部屋は空いてるかな?」
「はい、もちろんでございます! いつ坊っちゃんがいらっしゃってもいいように、ずっとそのままにしてございますよ。さあさ、坊っちゃん! お上がり下さいまし!」
多恵さんはもみ手しながら、純也さんを家の中へと促した。
「……どうでもいいけど。多恵さん、僕のことを『坊っちゃん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかな? もう三十なんだけど」
純也さんは困惑気味に、多恵さんに物申していた。
いくら相手が元家政婦さんでも、アラサーの男性が「坊っちゃん」呼ばわりされるのは恥ずかしいんだろう。
「何をおっしゃいます! 私と夫にとっては、坊っちゃんはいつまでも坊っちゃんのままですよ。ええ、私はやめませんよ! いくら坊っちゃんのお願いでも」
「……ダメだこりゃ」
やめるどころか、多恵さんの「坊っちゃん」呼びは余計にひどくなっている。もう意地なのかもしれない。
「多恵さんはきっと、いくつになっても純也さんが可愛くて仕方ないんですね。ほら、お子さんいらっしゃらないでしょ? だから純也さんのこと、自分の息子さんみたいに思ってるんですよ」
「はあ。そんなモンかね」
愛美の意見に、純也さんは困ったように肩をすくめてみせた。
善三さんと多恵さんの夫婦に子供がいないことは、愛美も去年の夏休みに聞いていた。それも、本人から聞くのは忍びなくて、佳織さんから聞き出したのだ。――多恵さんは昔、病気によって子供ができない体になってしまったんだ、と。
だから余計に、昔自分がお世話をしていた、我が子くらいの年頃の純也さんのことを今でも息子のように思っているんだろう。
「純也さん、暑かったでしょ? お部屋に上がる前に、ダイニングで冷たいものでもどうですか? っていっても麦茶しかないですけど」
「悪いね、愛美ちゃん。ありがとう。じゃあもらおうかな」
「はい!」
――愛美はキッチンへ行くと、お客様用のグラスによく冷えた麦茶を注ぎ、「どうぞ」と言ってダイニングの椅子に座っている純也さんの前にそっと置いた。
「ありがとう。いただくよ」
「坊っちゃん、よかったらお菓子でも召し上がります? 確か戸棚に、頂きもののお饅頭が――」
彼がお茶を飲み始めた途端、またもや多恵さんがもみ手しながら純也さんにすり寄ってきた。
すかさず、純也さんが眉をひそめる。
「多恵さん、まだ家事の途中じゃないのかい? 僕に構わなくていいから、自分の仕事に戻りなさい」
「……あっ、そうでした! 私、まだ洗濯ものを干してる最中でしたわ! 失礼しました!」
多恵さんはやっと自分のやりかけの仕事を思い出し、慌てて物干し場へ走っていった。
「まったく! 多恵さんは僕の世話を焼きたくて仕方ないんだな。もう子供じゃないのに」
「ふふふっ。とか言って純也さん、全然迷惑そうじゃないですよ」
ブツブツ文句を言いながらも嬉しそうな純也さんの向かいに座り、愛美もつられて笑った。
何だかんだ言っても、多恵さんにあれこれと世話を焼かれるのはイヤではないらしい。
「ん、まぁね。僕の母親は――珠莉の祖母ってことだけど、自分で進んで子育てするような人じゃなかったから、僕の世話はシッターの女性か家政婦だった多恵さんに押し付けてたんだ。だから僕にとっても、多恵さんは実の母親以上に〝お母さん〟なんだよ」
「……なんか信じられない、お金持ちって。自分がお腹痛めて産んだ子なのに、自分では育てようとしないなんて。子供に対する愛情ないのかなぁ」
「愛美ちゃん……」
愛美は純也さんの話に、自分自身のこと以上に胸を痛めた。
愛美の両親みたいに、我が子の成長を最後まで見届けられなかった親もいる。でも両親は、確かに最後まで愛美のことを愛してくれていたと思う。
そして愛美も、両親のいない自分の境遇を「不幸だ」と思ったことはない。亡くなった両親と同じくらい、施設の園長や先生たちに愛情を注いでもらっていたから。
「愛美ちゃん……、君が怒ることないよ。僕は別に、母のこと恨んじゃいないし、もう大人だから気にしてもいない。『ああ、そういう人なんだ』って思ってるだけでね。ただ、多恵さんには申し訳ないと思ってるから、できるだけ彼女の思い通りにしてあげたいんだよ」
「純也さん……」
「でも、愛美ちゃんは僕の代わりに怒ってくれたんだよね? ありがとう」
「いえ、そんな。お礼を言われるようなことは何も!」
愛美はただ、純也さんの境遇にちょっと同情的になっていただけだ。自分は同情されるのがキライなくせに――。
(わたしって勝手だな)
でも、純也さんはさすが大人だなと思う。子育てをほとんど放棄していたような自分の母親を恨まず、「そういう人なんだ」と達観しているなんて。
「ううん、愛美ちゃんは優しいね。今まで僕が出会った女性の中には、そんな風に怒ってくれた人はいなかったから。一人もね」
「そうなんですか……」
その女性たちにとって大事だったのは、純也さんが〝辺唐院家の御曹司〟という事実だけで、彼がどんな境遇で育てられてきたのか、どんな気持ちでいたのかはどうでもよかったんだろう。
「――さて、この話題は終わり。そろそろ部屋に行くよ。そうだ、愛美ちゃん」
膝をパンッと叩いて立ち上がった純也さんは、荷物を取り上げると愛美に呼びかけた。
「はい?」
「明日、僕に付き合ってもらえるかな? 久しぶりに渓流釣りに行きたいんだ。よかったら、君もやってみる?」
「えっ? はいっ! ……あ、でもわたし、釣りなんかやったことないですけど」
愛美が育った〈わかば園〉は山の中だし、釣りに行った経験もない。はっきり言ってド素人だ。そんなド素人が、簡単に釣りなんてできるものなんだろうか?
「心配ご無用。僕が教えてあげるし、〝ビギナーズラック〟って言葉もあるからね」
彼はおどけながら、愛美の心配を払拭してしまった。
「じゃあ……、お願いします!」
「うん。じゃ、上に行こうか」
――愛美は純也さんと一緒に、二階へ。彼の部屋は、なんと愛美の部屋のすぐお隣りだった!
「ここが純也さんのお部屋……」
そこは、愛美が使わせてもらっている部屋とはだいぶ違う空間だった。
シンプルなクローゼットとベッド、そして机と椅子があるだけ。照明器具も他の家具もシンプルで、本当に、眠るか仕事をするかだけの部屋という感じだ。
「うん。殺風景な部屋だろ? 特に、ここ数年はあまり来てなかったから、あんまり荷物は置いてないんだ」
そう答えながら純也さんは荷物を下ろし、机の上にノートパソコンを置いて電源に繋いだ。
「それ……、お仕事用のパソコンですか? でも今休暇中なんじゃ……」
「そうなんだけどねぇ。どうしても急がなきゃいけない案件だけは、こっちにメールで送ってもらうことにしたんだ。社長って大変だよ」
「そうなんですか。じゃあ、あんまりわたしとは遊べないですね」
愛美はガックリと肩を落とした。彼が休暇でここに来ているなら、一緒に過ごせる時間もたっぷりあると思ったのに……。
(でも、お仕事があるなら仕方ないか。ここに来てくれただけで、わたしは嬉しいもん)
「そんなことはないよ。仕事は夜になってから片付けるし。遊べる時は思いっきり遊ぶ。オンとオフの切り換えがきっちりできることも、一流の経営者の条件なんだから」
「えっ?」
「それに、愛美ちゃんは何か僕に相談したいことがあるって言ってたろ? それもちゃんと聞いてあげるよ」
「はい。……ちゃんと覚えて下さってたんですね」
愛美は胸の中がじんわり温かくなるのを感じた。一ヶ月も前に、電話で話した内容なんてもう忘れられていると思っていたのだ。
「もちろんだよ。僕は、一度した約束は絶対に忘れないからね」
「ありがとうございます! ――でもあの件は、あの後もうほとんど解決しちゃってて……」
「それでもいいから、とにかく話してごらんよ」
「はい……。でも長くなりそうだから、別の日にゆっくり聞いてもらいます」
「分かった」
純也さんの返事を聞いた愛美は、「ところで」と彼の大きなスーツケースの中身(ファスナーは開けてあるのだ)を眺めながら言った。
「釣りの道具って、コレですか?」
「そうだよ。愛美ちゃんの分もあるから」
スーツケースの中には洋服などが入っているのかと思いきや、中に入っているのは釣りに使う竿(〝タックル〟というらしい)やルアーのボックスなどだった。
他にも色々、キャンプ用具などのアウトドア関係のものが詰め込まれている。
「釣りって、生きた虫をエサに使うんじゃないんですね。もしそうだったら、わたしどうしようかと思ってました」
「さすがに初心者の、それも女の子にいきなりそれはかわいそうだからね。明日教えるのはルアーフィッシングだよ。この時期は、イワナが釣れるはずなんだ」
「イワナかぁ。あれって塩焼きにしたら美味しいんですよね」
実は愛美も、実際にイワナの塩焼きを食べたことがない。これは本から得た雑学である。
「そうそう! 特に釣りたては新鮮でね」
「わぁ、楽しみ! じゃあ、明日は早起きして、多恵さんと佳織さんと一緒にお弁当作りますね」
釣りの話で盛り上がる中、愛美はあることに気がついた。
「そういえば、服とかはどこに入ってるんですか?」
スーツケースの中には、それらしいものはほとんど入っていない(釣り用のウェアや長靴などは別として)。
「ああ、普段の服はそっちのボストンバッグの中。男の旅行用の荷物なんてそんなモンだよ」
「へぇー……」
確かに、服や洗面用具などの〝普通の〟旅行用の荷物は少ない。けれどその代わり、彼の場合は他の荷物の方が多いともいえる。
「片付けは自分でやっとくから、愛美ちゃんは下で多恵さんたちの手伝いをしておいで」
はい、と頷いて、愛美は一階のキッチンへ下りていく。そろそろパン作りの準備を始める頃だからだった。
* * * *
――そして翌日。少し曇っているけれど、それほど暑くなく、釣りにはもってこいのお天気になった。
愛美は純也さんと一緒に、車で千藤農園から少し離れた渓流まで、約束通りルアーフィッシングに来た。
多少濡れてもいいように、二人ともフィッシングウェアに身を包み、ゴム長靴を履いての完全防備。……ただし、夏場にこの格好はちょっと蒸し暑い。
「――愛美ちゃん、かかってるよ! ゆっくりリールを巻きながら、タックルをちょっとずつ引き上げて」
「はいっ! ……こうですか?」
「そうそう。ゆっくりね。慌てたら逃げられるから、落ち着いて」
「はい」
ルアーフィッシングというのは、コツをつかむまでが難しい。ルアーを本物のエサのように動かさないと、魚がかかってくれない。
生きたエサを使う代わりに、こういう技術が必要になるのだ。
「――あっ、釣れた! 釣れましたぁ! やった!」
それでも、愛美はそのコツをつかむのがわりと早かった。釣りを始めて一時間で、早々にイワナを一匹ゲットしたのだ。
「おお、スゴいな愛美ちゃん! こりゃ結構大きいぞ」
まさに〝ビギナーズラック〟。愛美自身も、まさかいきなりこんな大物がかかるなんて思ってもみなかった。
愛美は釣れたばかりのイワナを、水を張ったバケツにそっと放した。
「――あ、愛美ちゃん、こっちもかかった。……うわぁ、二匹も! サイズはちょっと小さいけど」
純也さんは、さすが上級者だ。一度の仕掛けで同時に二匹釣るという荒業をやってのけた。
「純也さん、スゴ~い! ――あ、わたしのもまたかかった!」
今日は釣りの吉日なのか、二人とも入れ食い状態でジャンジャン釣れる。
あまりにも小さいサイズの魚はすぐに川に放し、あとのイワナは昼食として美味しく頂くことにした。
「調理は僕に任せてよ。アウトドアは好きだし、家でも自炊してるからね」
純也さんは手早く火をおこし、魚焼き用の網を用意してくれた。
「ここはやっぱり、シンプルに塩焼きかな」
純也さんはそう言うと、リュックから取り出した小さなタッパーに入れてきた塩を一つまみ、網に並べた魚に振りかける。
「――あ、そうだ。お弁当作ってきたんですよ。おにぎりと玉子焼きと、夏野菜のピクルス」
愛美も、提げてきた保温バッグから二人分のお弁当箱を取り出した。何だかちょっとしたピクニックみたいだ。
「おっ、うまそうだね! イワナもそろそろいい感じに焼けてきたよ」
純也さんが焼けたイワナをお弁当箱に乗せてくれて、二人は豪華なランチタイム。
「焼きたてでまだ熱いから、ヤケドに気をつけてね」
「はい、いただきます☆ ……あっ、熱ふっ!」
「ほら見ろ。だから言ったのに」
案の定、熱々の焼き魚を頬張ってハフハフ言っている愛美を見て、純也さんは楽しそうに笑った。
「じゃあ、僕も頂こうかな。……ん! 美味い!」
釣りたてのイワナは、純也さんがキチンとハラワタの処理をしてから焼いてくれた。魚のハラワタの苦みが苦手な愛美も、そのおかげで美味しく食べることができた。
初めて食べたイワナの塩焼きは身にほどよく脂が乗っていて、焼くとふっくらして美味しい。純也さんが言った通り、シンプルな味付けが一番素材の味を引き立たせている。
「この玉子焼きも美味しいね。多恵さんの味だ」
「……それ作ったの、わたしです」
「ええっ!? ……いや、多恵さんの味そのまんまだよ。驚いたな」
純也さんは愛美の料理の腕――というか再現度の高さに舌を巻いた。
「そんなに驚かなくても……。でも何より、こんなに空気の美味しい場所で食べられることが、一番のごちそうですよねー」
昼食を平らげた愛美は、その場で伸びをした。
「うん、そうかもしれないな。何年ぶりだろう、こんなにのんびりできたの」
純也さんはしみじみと言う。
彼は普段、東京という大都会で時間に追われた生活を送っている。経営者には経営者なりの忙しさというものがあるんだろう。
「――あ、そういえば。去年の夏、わたし屋根裏部屋で、純也さんが子供の頃に好きだった本を見つけたんです」
四月に寮に遊びに来てくれた時にも、五月に原宿へ行った時にも、純也さんに屋根裏部屋の話はしていなかったと、愛美は思い出した。
「えっ、屋根裏部屋? ――あそこ、まだあったんだ。もうとっくに物置と化してると思ってたよ」
「いえ、多恵さんがそのまんまにして下さってますよ。でね、その本をわたしも気に入っちゃって。そしたら多恵さんが、『愛美ちゃんにあげる』って。……ジャ~ン♪」
愛美は自分のリュックの中からその冒険小説の本を取り出して、例の書き込みがある見開きを純也さんに見せた。
「うわ……。愛美ちゃん、見せなくていいって! なんか恥ずかしいから!」
「そうですかぁ? でもわたしにとっては、コレも純也さんの大事な成長の記録です。純也さんにもこんな時代があったんだなーって思ったら、楽しくて」
黒歴史を暴露されたようで、慌てふためく純也さん。でも、愛美が楽しそうに話すので、彼女の笑顔を見るといとおしそうに目を細める。
「……まぁいいっか。――その本、面白いだろ? 愛美ちゃんも気に入ってくれてよかった。僕が読書好きになった原点だからね」
「はい。何回読んでも飽きないです。わたしもこんな小説が書けるようになりたいな。……あ」
「……ん?」
「わたし、文芸誌の公募に挑戦することにしたんです。で、短編を四作書いたんですけど、どれを応募しようか迷ってて……。純也さん、読んで感想を聞かせて下さいませんか? それを参考にして、応募作品を決めたいんで」
「いいけど、僕はけっこう辛口だよ?」
――なるほど、珠莉の言っていたことは正しいようだ。やっぱり純也さんの批評は厳しいようである。
「……分かってます。でも、できる限りお手柔らかにお願いしたいな……と」
「了解。できる限り……ね」
純也さんはニッコリ笑った。けれど、ちょっと怖い。
(どうか全滅だけはまぬがれますように……!)
一応、自分の文才は信じている愛美だけれど、ここは祈るしかなかった。書き手が「面白い」と思う作品と、読み手が「面白い」と感じる作品が必ずしも同じとは限らないのだ。
「――あ、そうだ。ホタルはいつ見に行く?」
「えっ、ホタル?」
愛美は戸惑った。彼との電話でもメッセージのやり取りでも、一度もその話題には触れたことがなかったのに。強いて言うなら、春に彼と寮の部屋でお茶会をした時、「好きな人と見たい」と言ったくらいだった。
〝あしながおじさん〟への手紙には、確かに「純也さんとホタルが見たい」と書いたことがあったけれど。どうしてそのことを、彼が知っているんだろう……?
「あー……、えっと。……田中さん! そうだ、田中さんから聞いたんだよ! 愛美ちゃんが僕とホタルを見たがってるってね」
「ああ、おじさまから聞いたんですね。なるほど。そういうことならぜひ一緒に見に行きたいです」
「じゃあ見に行こう。えーっと、今夜の天気は……」
純也さんがスマホで天気予報を検索し始めたので、愛美もそれに倣った。
「――そのスマホカバー、使ってくれてるんだね」
純也さんは愛美のスマホを見て、嬉しそうに言った。
「はい。あの日からずっと使ってます。だってコレは、純也さんが初めてわたしにプレゼントしてくれたものだから」
「そっか。大事に使ってくれてて嬉しいよ。――あ、今夜は曇りか。明日の夜は……」
再び天気予報をチェックし始めた純也さんに、愛美が答える。
「明日の夜は晴れるみたいですね」
「よし! じゃあ明日の夜、ホタルを見に行こうか」
「はいっ! 楽しみです!」
――明日の夜、ついに念願が叶う! 愛美は心が躍り、そして――決意した。
(決めた! わたし、明日の夜、純也さんに告白する! ホタルの力を借りて……)
今まで一年以上、ずっと彼に伝えられなかった想い。でも、ホタルに背中を押してもらえたなら、言えそうな気がした。
* * * *
――翌日。この日は朝からよく晴れていて、暗くなってからもそのいいお天気は続いていた。
「わあ! キレイな星空……。ここから手を伸ばしたらつかめそう」
ホタルが見られるという川辺まで歩いていく途中、愛美は満天の星空に歓声をあげた。
一年前にもこの土地で同じように星空を眺めたけれど、今年の夏は好きな人と一緒。だからキレイな星もより光り輝いて見える。
「ホントだね。僕もこんなにキレイな星空、久しぶりに見たな」
純也さんも頷く。
東京ではこんなにキレイな星空は見えないだろうし、仕事に忙殺されていたら星空を見上げる心のゆとりもないのかもしれない。
――そして、愛美はこの時、ちょっとしたオシャレをしていた。
(純也さん、気づいてくれるかな……?)
原宿の古着店を回って買った、ブルーのギンガムチェックのマキシ丈ワンピースに白い薄手のカーディガン。――愛美は小柄なので、サイズが合うものがなかなか見つからなくて苦労したのだ。
足元はこれまた古着店で見つけた、ブルーのサンダル。少しヒールが高いので、若干歩きにくい。でも身長が高い純也さんに釣り合うように、どうしても履きたかった。
「――あれ? 愛美ちゃん、その服って原宿で買ってたヤツだよね?」
(やった! 純也さん、気づいてくれた!)
愛美は天にも昇るような気持ちになったけれど、それをあえて顔には出さずにはにかんで頷く。
「はい。気づいてました? ……どうですか?」
「可愛いよ。よく似合ってる。愛美ちゃんは自分に似合う服がよく分かってるんだな。いつ見てもセンスいいよね」
「え……。そんなことないと思いますけど」
愛美は謙遜した。「センスがいい」なんて言われたのは初めてだ。
ただ自分の好きな色や、この低い身長に合う服を選んだら、たまたま似合うだけなのだ。
「そういう控えめなところも可愛いんだよなぁ、愛美ちゃんは」
「…………」
愛美はリアクションに困った。純也さんは時々、真顔でこんなキザなことを言ってのけるのだ。しかも、それが全然イヤミにならないのだ。
「…………。もうそろそろ着くかな」
「……そうですね」
なんとなく純也さんの方が気まずくなったと感じたのか、彼は取ってつけたようにごまかした。
それから一分くらい歩くと、街灯ひとつない暗い川辺に人だかりができている。
「わぁ、スゴい人……」
「うん。愛美ちゃん、はぐれないように手を繋いでおこうか」
「……はい」
愛美はそっと頷き、彼が差し伸べてくれた手を取った。その手の大きさ、温もりがすごく力強く感じる。
「キレイ……! 純也さん、ホタルってこんなにキレイなんですね……」
あちらこちらで、黄色くて淡い光がすぅーっと飛び交っていて、明かりのないこのエリアを儚げに照らしている。
「知ってる? ホタルって、亡くなった人の魂が生まれ変わったものだって言われてるんだ」
「はい。何かの本で読んだことがある気がします」
だからホタルの寿命は短くて、その命は儚いのかもしれない。
「もしかしたらこの中に、君の亡くなった両親もいるかもしれないね」
「純也さん……。うん、そうかもしれませんね」
今からここで純也さんに想いを伝えようとしている我が子の背中を押すために、彼らはここにいるはずだ。
(……告白するなら今だ! 今なら言えるかもしれない)
そして、彼の優しさに心動かされた愛美は、繋いだ手に少し力を込めた。
「……? 愛美ちゃん?」
「――純也さん、わたし……。あなたのことが好きです。出会った時から、初めて話をしたあの時からずっと」
途中で一度ためらって、それでも最後まで言葉を紡いだ。
初めての告白だし、ちゃんと伝えられたかどうかは分からない。ちゃんとした告白になっているかどうかも分からない。でも、今の彼女に言える精一杯の気持ちを言葉にした。
「純也さん……?」
彼の顔を直視できずに(というか、ヒールを履いているとはいえ四十センチ近くもある身長差のせいで見えないのだ)告白したけれど、彼からの返事が早く聞きたくて、愛美はもう一度呼びかけてみる。
「僕も好きだよ、愛美ちゃん」
「…………えっ?」
彼の表情が見えない。聞き間違いかと思い、愛美は訊き返す。
「好きなんだ。君と初めて言葉を交わしたあの時から……多分ね」
すると純也さんは、今度は愛美の目をまっすぐ見てはっきり言った。「好きだ」と。
「ホントに?」
「ホントだよ。僕がこんなことでウソつける男かどうか、愛美ちゃんも知ってるだろ?」
「それは……知ってますけど。だってわたし、十三歳も年下で、まだ未成年ですよ? それに、姪の珠莉ちゃんの友達で――」
「それでもいい。好きなんだ。だから、僕と付き合ってほしい」
愛美はまだ信じられなくて、純也さんが断りそうな理屈を引っぱり出してみたけれど、それでも彼は引かなくて。
でも、愛美に断る理由なんてひとつもない。彼が自分の想いを受け止めてくれたんだから、今度は愛美の番だ。
「はい……! こちらこそ、よろしくお願いします!」
恋が実った喜びで胸がいっぱいになって、愛美は泣き笑いの表情で返事をしたのだった。
「よろしく。――じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はいっ!」
こうして晴れて恋人同士になれた愛美と純也さんは、来た時と同じように手を繋いで千藤家への道を引き返していった。
「帰ったらさっそく、小説読ませてもらおうかな」
「……は~い。あんまり厳しいこと言わないで下さいね? わたしヘコんじゃうから」
「はいはい、分かってますよー」
という楽し気な会話をしながら、愛美は心の中で天国の両親に語りかけた。
(お父さん、お母さん、見てる? わたし今、好きな人とお付き合いできることになったんだよ!)
きっと見てくれていただろう。あの場所で飛び交うホタルに生まれ変わって――。
疑いから確信へ
――純也さんとの恋が実った夜。愛美は自分の部屋で、スマホのSNSアプリでさやかにその嬉しい報告をしていた。
『さやかちゃん、わたし今日、純也さんに告白したの!
そしたら純也さんからも告白されてね、お付き合いすることになったの~~!!!(≧▽≦)』
「……なにコレ。めっちゃノロケてるよ、わたし」
打ち込んだメッセージを見て、自分で呆れて笑ってしまう。
『っていうか、純也さんはもうわたしと付き合ってるつもりだったって!
さやかちゃんの言ってた通りだったよ( ゚Д゚)』
愛美は続けてこう送信した。二通とも、メッセージにはすぐに既読がついた。
――あの後、千藤家への帰り道に、純也さんが自身の想いを愛美に打ち明けてくれた。
* * * *
『実はね、僕も迷ってたんだ。君に想いを伝えていいものかどうか』
『……えっ? どうしてですか?』
愛美がその意味を訊ねると、純也さんは苦笑いしながら答えてくれた。
『さっき愛美ちゃんも言った通り、君とは十三歳も年が離れてるし、周りから「ロリコンだ」って思われるのも困るしね。まあ、珠莉の友達だからっていうのもあるけど。――あと、僕としてはもう、君とは付き合ってるつもりでいたし』
『えぇっ!? いつから!?』
最後の爆弾発言に、愛美はギョッとした。
『表参道で、連絡先を交換した時から……かな。君は気づいてなかったみたいだけど』
『…………はい。気づかなくてゴメンなさい』
さやかに言われた通りだった。あれはやっぱり、「付き合ってほしい」という意思表示だったのだ!
『君が謝る必要はないよ。初恋だったんだろ? 気づかないのもムリないから。こんな回りくどい方法を取った僕が悪いんだ。もっとはっきり、自分の気持ちを伝えるべきだったんだよね』
『純也さん……』
『でも、愛美ちゃんの方が潔かったな。自分の気持ちをストレートにぶつけてくれたから』
『そんなこと……。ただ、他に伝え方が分かんなかっただけで』
『いやいや! だからね、僕も腹をくくったんだ。年齢差とか、姪の友達だとかそんなことはもう取っ払って、自分の気持ちに素直になろうって。なまじ恋愛経験が多いと、余計なことばっかり考えちゃうんだよね。だからもう、初めて恋した時の自分に戻ろうって』
純也さんだってきっと、自分から女性を好きになったことはあるんだろう。それが身を結ばなかったとしても、好きになった時のトキメキはずっと忘れないはず。
『愛美ちゃん、ありがとう。僕の想いを受け止めてくれて。君は、僕がこれまで出会った中で、最高の女の子だよ。君とだったら、純粋に一人の男として恋愛を楽しめる気がするよ』
『はい。わたし、これだけは断言できますから。純也さんの家柄とか財産とか、わたしはまったく興味ないです。わたしが好きになったのは、純也さんご自身ですから!』
愛美は胸を張って言いきった。
お金なんて、生活していくのに必要な分さえあればそれで十分。彼は「人並みの生活」ができるように努力している人だ。たとえ将来お金持ちじゃなくなってしまったとしても、彼ならきっと逞しく生きていけるだろう。
そんな彼女に、純也さんはもう一度「ありがとう」と言った――。
* * * *
そんなやり取りを思い出しながら、愛美は幸せを噛みしめていた。
すると、さやかからメッセージの返信が。
『やったね! 愛美、おめ~~☆\(^o^)/
っていうかノロケ? コレ聞かされたあたしはどうしたらいいワケ??(笑)』
「さやかちゃん……、ゴメン!」
文面からは、さやかが喜んでいるのか(これは間違いないと思うけれど)怒っているのか、はたまた困っているのか読み取れない。
でも夏休み返上で寮に残って部活に励んでいる彼女には、ちょっと面白くなかったかも……と思ったり思わなかったり。
「あとで電話した方がいいかも」
こういう時は文字だけのメッセージよりも、電話で生の反応を聞いた方が分かりやすい。
「――そういえば純也さん、まだ起きてるのかな」
愛美はスマホで時刻を確認してみた。九時――、まだ寝るのには早い時間だ。
帰ったら小説を読ませてほしい、と純也さんは言っていた。もしかしたら、起きて待っていてくれているかもしれない。
辛口の批評はできれば聞きたくないけれど、「彼に自分の原稿を読んでもらえるんだ」という嬉しい気持ちもまぁなくもない。ので。
「緊張するけど、約束だし。早い方がいいもんね」
愛美は書き上がっている四作分の短編小説の原稿を持って、リラックスウェアのまま部屋を出た。そして、純也さんのいる隣りの部屋のドアをノックする。
「はい?」
「あ……、愛美です。今おジャマして大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。入っておいで」
純也さんの許可が出たので、愛美は「おジャマしまーす」と言いながら室内へ。
彼はノートパソコンを開いて、何やら険しい表情をしていたけれど、愛美の顔を見ると笑顔になってパソコンを閉じた。
「ゴメンなさい。お仕事中でした?」
「いや、今終わったところだよ。急ぎの件があったから、メールで指示を出してたんだ。――ところで、どうしたの?」
「小説を読んでもらおうと思って。約束だったから」
愛美は大事に抱えていた原稿を、彼に見えるように掲げて見せた。原稿はひとつの作品ごとにダブルクリップで綴じてあって、一枚ずつ通し番号も振ってある。
「ああ、そうだったね。……ところでさ、女の子がこんな夜に、男の部屋に来るってことがどういう意味か分かってる? しかも、そんな無防備な格好で」
「…………えっ?」
純也さんは明らかに面白がっている。愛美が顔を真っ赤にして固まったので、途端に大笑いした。
「……なんてね、冗談だよ。からかってゴメン! そうやってあたふたする愛美ちゃんが可愛いから、つい」
「~~~~~~~~っ! もうっ!」
愛美はからかわれたと知って、あたふたした自分が恥ずかしくなった。この「もう!」は純也さんにではなく、自分自身に対してである。
「とにかく座りなよ。っていっても、ベッドしか座る場所ないけど」
「え…………」
まだ警戒心が解けない愛美は、座るのをためらったけれど。
「大丈夫だって。僕は紳士だから。何もしないから安心して」
「……はい」
愛美は「ホントかなぁ?」と訝りつつ、シンプルなベッドに腰を下ろした。実はけっこう根に持つタイプなのだ。
「――じゃあ、原稿読ませて」
「はい」
純也さんが手の平を見せたので、愛美は原稿を全部彼に手渡した。
「ありがとう。どれどれ……」
原稿に目を通し始めた彼を、愛美は固唾をのんで見守る。
もし全滅だったら……と思うと、何だかソワソワして落ち着かない。
「……あの。下のキッチンでカフェオレでも淹れてきましょうか?」
読んでもらっている相手に気を利かせて、というよりは、この緊張感から少しの間でも離れていたくて、愛美は提案した。
「ありがとう。そうだな……、全部読み終わるまでには時間かかりそうだし。愛美ちゃんもここにいたって落ち着かないよね」
そんな愛美の心境を察して、純也さんは「じゃあ頼むよ」とその提案に乗ってくれた。
――十分後。愛美は二人分のマグカップとクッキーのお皿が載ったお盆を手にして、純也さんの部屋に戻ってきた。
「カフェオレ淹れてきました。どうぞ」
愛美の声に気づき、純也さんは原稿から顔を上げた。
「ありがとう、愛美ちゃん。ちょっと待って」
彼はアウトドア用品の詰め込まれたスーツケースから、折り畳み式の小さなテーブルを出して室内に設置してくれた。
「お盆はここに置きなよ」
愛美がそこにお盆を置くのを見ながら、彼は何やら考え込んでいる。
「うーん……、この部屋にはテーブルも必要だな」
「そうですよね……」
愛美も頷く。たまたま純也さんがアウトドア用のテーブルを持ち込んでいたからよかったものの、やっぱりテーブルはないと不便だ。
「よし。東京に帰ったら、家具屋で小さなテーブルを買ってこっちに送るとしよう」
けっこう真剣に純也さんが言うので、愛美は吹き出した。
愛美はしばらくカーペットの上に座り、クッキーをつまみながらカフェオレをすすって、原稿を読む純也さんの姿を見ていたけれど。何となく手持ち無沙汰になってしまった。
スマホは自分の部屋に置いてきたし……。
「――ねえ純也さん。まだかかりますよね?」
「うん、多分ね。どうして?」
原稿から目を離さず、純也さんが答える。
「ちょっと、さやかちゃんに電話してこようかと思って。――いいですか?」
「いいよ。行っておいで」
「じゃあ……、ちょっと失礼して。そんなに長くはかからないと思います」
愛美は自分の部屋に戻ると、スマホでさやかに電話をかけた。
『ああ、愛美。メッセージ見たよ』
「うん、知ってる、ちゃんと返信来てたし。――今大丈夫? もうすぐ消灯でしょ?」
『大丈夫だよ。長電話しなきゃね』
それなら大丈夫だと、愛美は返事をした。そんなに長々とするような話でもないし。
「あのね、さやかちゃん。……もしかして、怒ってる?」
『はぁ? 別に怒ってないよ。なんで?』
「なんか、さっきもらった返事が……。なんていうか、『リア充爆発しろ!』的な感じだったから。ちょっと違うかもしんないけど」
愛美がそう言うと、さやかはギャハハと笑い出した。
『違うよー。あたし、マジで嬉しかったんだから。愛美の初恋が実って、親友としてめっちゃ嬉しかったんだよ。それはアンタの考えすぎ』
「ああ、なんだ。よかったぁ。でも、やっぱりさやかちゃんの言う通りだったね」
『純也さんがもう告ったも同然だってハナシ? だって、見りゃ分かるもん。純也さん、愛美にゾッコンだったじゃん。……あれ? アンタは気づかなかったの?』
「……うん、あんまり。そうじゃないかって薄々思ったことはあるけど、私の思い過ごしだと思ってたから」
全然、といったらウソになる。でも、自分に限って……と考えないようにしていたというのが本当のところで。
『おいおい、アンタどんだけ自分に自信ないのよ。誰が見たって純也さんの態度は、好き好きオーラ出まくってたって』
「…………う~~」
『んで? 両想いになってどうした? もうキスとかしちゃってたり?』
「まだしてないよ! さやかちゃん、面白がってない?」
〝まだ〟は余計だったかな……と思いつつ、愛美はさやかに噛みついた。……まあ、純也さんはいきなりがっついてくるような人じゃないと思うけれど。
『うん、ぶっちゃけ。だって面白いもん、アンタがうろたえてるとこ。――っていうか、純也さんは今一緒じゃないの? こんな話してて大丈夫?』
「大丈夫。純也さんには今、隣りのお部屋で私の小説読んでもらってるから。わたし今、自分の部屋で電話してるの」
『そっかぁ。じゃあ今ドキドキだね』
「うん……。彼からどれだけ辛口評価が下されるのか、もう心配で」
最悪の場合、四作全滅の可能性もあるのだ。そしたらきっと立ち直れないだろう。
『まあ、そんなに心配しないでさ。胃に穴空くよ。……じゃあ、ぼちぼち切るわ。消灯迫ってるから』
愛美はスマホ画面の隅っこに表示されている小さな時刻表示を見た。間もなく九時五十分になるところである。
「あー、もうそんな時間か。ありがとね、話聞いてくれて。じゃあ、また電話するよ。おやすみ」
『うん、おやすみ』
――電話を切ると、愛美は純也さんの部屋と接する壁を見つめた。
「純也さん、そろそろ読み終わった頃かな」
もう一度彼の部屋を訪ねてみると、ちょうど彼は最後の原稿を机の上に置いたところだった。
「愛美ちゃん、ちょうどよかった。今、全部読み終わったところだよ」
「そうですか。……で、どうでした?」
「うん……、そうだな……」
そう言うなり、腕組みをして長~い溜めを作った純也さんに、愛美はものすごくイヤな予感がした。
「もしかして、全滅……?」
「……いや。確かに、この中の三作はちょっと、箸にも棒にもかからないと思った」
「はあ」
彼の評価は思っていた以上に辛口で、愛美は絶望的な気持ちになった。
四作中三作がボツをくらったら、ほとんど全滅のようなものである。……けれど。
「でも、この一作はなかなかいいんじゃないかな。応募したら、けっこういいところまで残ると思うよ」
純也さんは表情を和らげながら、愛美に原稿を返した。
「えっ、ホントですか!? コレ、一番最後に書き上げたんです」
純也さんが唯一褒めてくれた作品は、昨日書き上げたばかりのノンフィクション作品。愛美が実際に、今の学校生活で経験したことをもとにして書いたものだった。
「ああ、やっぱり。短編っていうのはね、数を多く書くことで内容もよくなっていくんだって。愛美ちゃんのもそうなんだろうね。全部の原稿を読ませてもらってそう気づいたよ」
「純也さん、ありがとう! わたしもこれで自信がつきました。この一作で勝負してみます!」
これだけ手厳しい彼に褒められたんだから、きっといい結果が出ると思う。
「うん、頑張って! ――そういえば、愛美ちゃんってパソコン使えるんだね。原稿、てっきり手書きだと思ってた」
「使えますよ、施設にいた頃から。そんでもって、この原稿はおじさまから入学祝いに贈られた自分のパソコンで書きました。ここにも持ち込んで」
「そっか、ここもネット環境整ってるからね。――ところで愛美ちゃん、僕に何か相談したいことがあるって言ってたね。今ここで聞かせてもらっていいかな?」
「はい」
愛美は原稿を傍らに置き、冷めたカフェオレを一口で飲み干すと、純也さんに話し始めた。
「わたし、卒業後はこのまま大学に進もうかどうしようか迷ってたんです。で、担任の先生から奨学金の申請を勧められて。申請したんですけど」
「うん」
「奨学金が受けられるようになったら、これから先の学費はかからないって。もちろん、大学に進んでからも。……ただ、おじさまが許してくれるかっていう心配はあったんだけど」
「うん」
純也さんは途中で口を挟むことなく、相槌を打ちながら愛美の話に真剣に耳を傾けてくれている。
「でもね、おじさまは許してくれたんです。わたしが奨学金を受けることも、大学に進むことも。学費はもう出してもらわなくてよくなるけど、お小遣いだけはこれからも受け取るつもりでいるって、秘書さんには伝えました」
「うん。……えっ? それが僕に相談したいこと?」
ここまでの話だと、むしろ喜ばしいことなんじゃないかと純也さんは思ったようだけれど。
「あ、ううん。そうじゃなくて……。わたしは逆に、コレでいいのかなぁって思っちゃって。せっかくのおじさまの厚意を途中でムダにして、おじさまのメンツっていうか……立場を潰しちゃったりしないかな、って」
「ああ、なるほどね。君は田中さんに対して遠慮があるわけだ。『せっかく援助を申し出てくれた彼に申し訳ない』って」
「はい……。こんなの、わたしのワガママじゃないかな……と思って」
愛美は純也さんの解釈に頷く。
別に、純也さんにどうこうしてほしいわけじゃないけれど。聞いてもらうだけで気持ちが軽くなるということもあるわけで。
「僕の知る限りじゃ、彼はそんなことで気を悪くするような人物じゃないけど。むしろ、喜んで申請用紙も書いてくれたんじゃないかな」
「えっ? ……はい。秘書さんもそう言ってました。あと、わたしが恋をしてることも、おじさまは嬉しく思ってるって」
「愛美ちゃん……、もしかして僕のことも田中さんに?」
「はい、手紙では何度も。――何かマズかったですか?」
「…………いや、別に」
(純也さん、今の溜めはナニ?)
愛美はちょっと首を傾げた。もしかして純也さんは、愛美と付き合うことになったので、彼女の保護者にあたる〝あしながおじさん〟と顔を合わせづらくなるんじゃないかと心配している? それとも……。
(やっぱり彼が〝あしながおじさん〟本人で、この先わたしとの関係がこじれることを心配してる?)
そう思うのは、愛美の考えすぎだろうか?
「実はこの話、純也さんと両想いになれるまではするのやめとこうって思ってたんです。どうしてもあなたのことに触れなきゃいけなくなるし、告白する前に話しちゃったらわたしの気持ち、あなたにバレちゃうから」
「うん、なるほど。だから話すのが今日になったわけだね? っていうか僕は、君の気持ちにはだいぶ前から気づいてたけど」
「え……。もしかして、珠莉ちゃんから聞いたんですか? それともわたし、思いっきり態度に出てました?」
初めて恋をして一年やそこらでは、恋心を顔に出さないというスキルは簡単には身に着かないんだろうか?
「ふふふ。まぁ、それはノーコメントってことで」
「え~……? なんかズル~い!」
純也さんもうまく逃げたものである。これでは答えが「イエス」なのか「ノー」なのか、愛美には判断がつかない。
「えっと、話戻しますけど。――おじさまって、わたしにとっては父親代わりみたいな存在なんですよね。だから、わたしに好きな人ができたことも、あんまり面白くないんじゃないかなって思ってたんです」
「そりゃあ、本当の娘だったらね。たとえば、珠莉に好きな男ができたとしたら、兄は――珠莉の父親は面白くないと思うよ。でも、田中さんはまだ若いし、君の〝父親代わり〟であって〝父親〟ではないから」
「はあ……、なるほど。そうですね」
純也さんの話には妙な説得力があって、愛美は納得した。
「――純也さん、色々とありがとう。なんかわたし、話を聞いてもらったらちょっとモヤモヤが晴れた気がします」
「そっか、よかった。僕なんかで愛美ちゃんの役に立てたみたいで」
「僕〝なんか〟なんて卑下して言わないで下さい。わたしは純也さんがいてくれて、すごく心強いです。――じゃあ、そろそろ失礼します。おやすみなさい」
純也さんも疲れているだろうし、あまり長居しても申し訳ない。愛美が原稿を持って、ベッドから腰を上げると……。
「あ、待って愛美ちゃん」
「……えっ?」
純也さんに呼び止められた。そして彼は顔を赤真っ赤に染めて、愛美のコットンワンピースの裾をつかんでいる。
「どうしたの? 純也さん」
困惑して、思わず敬語が飛んでしまった愛美に、純也は照れ隠しなのかボソッと問うた。本当に、聞こえるか聞こえないかくらい小さな声で。
「あの。…………キスしていいかな?」
「……は?」
(大の大人が何を言い出すのかと思ったら、そんなこと?)
愛美は面食らった。そんなの、本人に断りを入れる必要もないだろうに。
「その……、相手は未成年だし。一応、ひとこと断りを入れた方がいいかと思って」
彼の弁明を聞いて、愛美はクスクス笑い出した。
(純也さんって、ホントに律儀な人だなぁ)
三十歳にもなった男の人が、まるで中学生の男の子みたいに見えて、なんだか微笑ましかった。
そして愛美は、笑顔のままで頷いた。
「はい……!」
純也さんは愛美をもう一度ベッドに腰かけさせると、自分もその隣りに腰を下ろした。座ることにしたのは、自分と愛美との身長差を考えてのことのようだ。
愛美はそっと目を閉じた。実際の経験はないものの、小説やTVドラマなどでキスシーンの時にはそうしているのを知っていたから。
そして、純也さんは愛美の唇に優しくそっと自身の唇を重ねた。
愛美にとって初めてのキスは、ものの数秒で終わったけれど。彼女はそれだけで何だか幸せな気持ちになった。
でも心臓はバクバクいっているし、同時にかぁっと顔が火照っていくのも感じていた。
「ありがと、愛美ちゃん。じゃあ、おやすみ」
愛美の柔らかい黒髪を指先で撫でながら、純也さんがそう言うのが彼女には聞こえた。
「……おやすみなさい」
愛美はしばらく金魚みたいに口をパクパクさせていたけれど、やっとそれだけ言って自分の部屋に戻っていった。
自分の部屋のベッドでしばらくゴロゴロと寝返りを打っていた愛美だけれど、まだ心臓の鼓動はおさまらず、なかなか寝付けない。
「う~~~~っ、寝られない……」
これまで、心配ごとが原因で眠れなくなることはあったけれど、幸せすぎて眠れなくなったのは初めてかもしれない。
「コレがよく恋愛小説に出てくる、〝恋煩い〟ってヤツなのかな……」
愛美は目を閉じて、さっきキスしてくれた純也さんの唇の感触や、髪を撫でてくれた時の彼の指の感覚を思い浮かべていた。
彼は今、隣りの部屋で何をしているんだろう? 彼もまた、愛美の事を考えてくれているんだろうか――。
「~~~~っ! ダメ、眠れない! ……よしっ! こんな時こそ、おじさまに手紙を書くべきだよね」
時間は有効に使わなければ! 愛美はベッドからガバッと起き上がり、机に向かってだいぶ中身が薄くなってきたレターパッドを広げた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
今日はわたしにとって、忘れられない日になりました。特に夜から色々あって……。さて、何から書こう?
夕食後、わたしは純也さんと二人で近くの川にホタルを見に行きました。
純也さんはその時、わたしに言ってくれました。「ホタルっていうのは、亡くなった人の魂が生まれ変わったものなんだ」って。「だから、ここにいるホタルの中に、わたしの亡くなった両親がいるかもしれないね」って。
わたしもそう思いました。きっと、わたしの両親もあの場所にいて、わたしのことを見守ってくれてたんだって。
そしてわたしは、そこで思いきって純也さんに告白しました。男の人に自分の想いを伝えるなんて初めてだったから、最初はどう伝えていいか分からなくて途中で詰まってしまったけど、でもちゃんと最後まで伝えられました。
そしたらね、おじさま。純也さんもわたしに「好きだよ」って言ってくれたんです! 「付き合ってほしい」って! もちろん、わたしはOKしました。
初めての恋が、ついに実ったんです! やったぁ☆ わたし今、すごく幸せです!!
そして彼は、なんと五月からわたしと付き合ってるつもりだったって言うんです! さやかちゃんからは「そうなんじゃないか」って言われてましたけど、まさかその通りだったなんて……! わたし、ビックリしました!
夜九時ごろになって、わたしは純也さんのお部屋を訪ねました。公募に出す小説一作を、純也さんに決めてもらうためです。
心配しないで、おじさま。純也さんは誠実な人だから、わたしが夜にお部屋を訪ねて行ってもいきなり押し倒すようなことは絶対にしません(わたしをからかって、あたふたするわたしを見て楽しんではいましたけど……)。おじさまは彼と知り合いなんだから、それくらい分かってますよね?
わたしの小説に対する彼の評価は、本当に辛口でした。でも、一番最後に書き上げた短編のノンフィクションは「なかなかいい」って言ってくれたから、わたしはその原稿で挑戦することに決めました。明日、この手紙と一緒に郵便局で出してきます。
それでね、おじさま。……これは、おじさまに打ち明けていいのか分からないんですけど。純也さんはわたしがお部屋を出る前に、わたしにキスしてくれました。もちろん、わたしにとってはファーストキスです。
その後のわたしは幸せな気持ちと、心臓のドキドキとで顔が火照っちゃって、今もまだフワフワしてます。今夜はもう眠れない気がするんです。
恋が実って、恋人ができるってこんな気持ちになるんですね。
彼と一緒にいるとホッとして、彼になら何でも話せる気がします。
これからはきっと、おじさまに手紙でご相談してたことを、純也さんに聞いてもらうことが増えるかもしれません。
でもそうなったら、わたしとおじさまとの関係は、これまで築き上げてきた信頼関係は崩れてしまうのかな……。それはわたしも不本意なので、これからもちゃんとおじさまに手紙は送り続けます。
この封筒の厚み、おじさまはビックリなさったんじゃないでしょうか? 純也さんが来て下さる前から、手紙を出せないままずっと書き溜めてたんです。もう一週間くらいかな? だから、だいぶ長い手紙になっちゃいましたね。
それじゃ、そろそろおしまいにします。次はきっと、奨学金の審査の結果についてのお知らせになると思います。
八月十三日 愛美 』
****
「――ホント、すごい厚み……」
折り畳んだ便箋を封筒に収めた後、愛美はフフッと笑った。純也さんが来るまでの間にも、〝あしながおじさん〟に伝えたい色んな体験をしていて、愛美はそれを毎日日記のように便箋に綴っていたのだ。
スタンドライトの明かりだけがついている机の上にはもう一通、A4サイズの茶封筒が置いてある。この夏に愛美が執筆し、四作ある中から純也さんに選んでもらった文芸コンテストへの応募作品だ。
(明日これを郵送したら、あとは運を天に任せるだけ……。お願い、入選させて! 佳作でもいいから!)
願かけするように、愛美は封筒の表面をひと撫でした。
「――さてと。ボチボチ寝られるかな……」
手紙を書いているうちに、少しずつ眠気が戻ってきた。気持ちが落ち着いてきたからかもしれない。
愛美はスタンドの明かりを消すと、再びベッドに潜り込んだのだった。
* * * *
――翌日の朝。愛美は八時になってやっとダイニングまで下りてきた。
「おはようございます。――すみません、多恵さん! 朝ゴハンの支度お手伝いするつもりだったのに、寝坊しちゃって」
農家の朝は早い。愛美も普段は朝早くに起きて、多恵さんや佳織さんと一緒に朝食の準備を手伝っているのだけれど。昨晩はなかなか寝付けなかったので、朝目が覚めるのも遅くなってしまったのだった。
「あらあら。おはよう、お寝坊さん。いいのよ愛美ちゃん、たまには朝のんびり起きてくるのも。誰だって、早く起きられない日くらいあるものね」
「ええ、まぁ……」
愛美はテーブルに純也さんもついていることに気づき、頬を染めた。
彼とキスをしてまだ数時間しか経っていないので、ちょっとばかり気まずい。
「愛美ちゃん、おはよう」
「……おはようございます」
けれど、純也さんはいつもとまったく変わらない調子で挨拶してくれたので、愛美はまだ少し照れながら挨拶を返した。
「ゆうべはあんまり寝られなかった?」
「えっ? ……まぁ。だから、しばらく起きてました」
彼と面と向かって言葉を交わしているだけで、愛美には昨晩の出来事がありありと思い出せる。今もまだ、あの時の延長線上にいるような気持ちになるのだ。
「そっか……。なんか僕、君に悪いことしちゃったな」
「そっ……、そんなことないです! わたしは別に、あれで困ってるワケじゃ……」
申し訳なさそうに頬をポリポリ掻く純也さんに、愛美はもごもごと弁解した。
「あら? 坊っちゃん、昨夜は愛美ちゃんと何かあったんですか?」
そんな二人の様子を眺めていた多恵さんが、会話に割って入った。
「まさか坊っちゃん、愛美ちゃんに手をお出しになったんじゃないでしょうね? お預かりしてる大事なお嬢さんで、しかもまだ未成年なんですから。傷ものにしてもらっちゃ困ります!」
「おいおい! 多恵さん、ずいぶんな言い草だな……。――実はさ、僕と愛美ちゃんは付き合うことになったんだ」
ね? というように、純也さんは愛美を見た。
「……はい、そうなんです。純也さんもわたしのこと好きだったみたいで。手は……出されてない……と思います。キス……したくらいで?」
愛美は純也さんの視線に圧を感じたわけではないけれど、「話していいのかなぁ」と思いながら、しどろもどろに多恵さんに話した。
「あらまあ、そうだったんですか! よかったわねぇ、愛美ちゃん。個人的に連絡を取り合うようになったって言ってたのは、そういうことだったんですねぇ……」
「うん。僕はね、彼女が未成年ってことや、十三歳も年が離れてることもあって、告白するのをためらってたんだけど。彼女が『それでもいい』って言ってくれたから」
純也さんは純也さんで悩んでいたんだと、愛美は昨晩知った。だから、「それでもいい」と言った愛美の言葉がどれだけ彼の救いになったか、彼女には分かる。
「ええ、ええ。キスなんて手を出したうちには入りません! 法に触れるようなことさえしなきゃいいんです。その代わり坊っちゃん、愛美ちゃんを泣かせるようなことがあったら、その時は私が許しませんよ!」
「分かってるよ。っていうか、多恵さんは一体どっちの味方なんだ」
「多恵さん、わたしのお母さんみたい」
多恵さんの熱のこもった演説に純也さんは呆れ、愛美は笑った。
これじゃあまるで、娘に彼氏ができた時の母親みたいだ。さしずめ、純也さんがその彼氏というところか(まあ、実際に彼氏になったのだけれど)。
「それより多恵さん、早く朝食にしてくれよ。僕も朝寝坊して、今すごく腹ペコなんだから」
「わたしも。お手伝いすることがあったら、何でも言って下さい」
「はいはい。――あ、愛美ちゃんは座ってていいわよ。すぐできますからね」
多恵さんがそう言うので、愛美は素直にその言葉通りにした。他の人たちの朝食はもう済んでいるようで、今テーブルについているのは愛美と純也さんの二人だけだ。
「愛美ちゃん、あのさ。……僕に幻滅した? いきなり『キスしたい』なんて言って」
二人きりになったからなのか、純也さんがばつの悪そうな顔でそう切り出した。実はあのことを、かなり気にしていたらしい。
「そんな……。幻滅なんかしませんよ。そりゃあ……、もっと強引だったら幻滅しちゃってたかもしれないけど」
愛美は思いっきり否定した。あんなにやさしいキスで幻滅していたら、恋なんてしていられない。
「よかった。純也さんがよく小説に出てくるような俺様な御曹司じゃなくて。わたし、ああいう男の人たちって好きじゃないんです。女の子が何でも自分の思い通りになると思い込んでる。ふざけるなって思います」
小説の登場人物に腹を立てても……と、純也さんは苦笑い。
「そうだね。僕は強引に恋愛を進めたいタイプじゃないから。っていうか、できないし。愛美ちゃんに嫌われるのが一番イヤだもんな。せっかく僕のことを本気で好きになってくれたんだから、大事にしたいんだ」
「純也さん……、ありがと」
愛美は心からの笑顔で、彼にお礼を言った。
「――で、今日はどうするんだい? 僕は、一緒にバイクでツーリングしたいなぁって思ってるんだけど」
「あ……、今日は郵便局に行くつもりでいたんだけど」
「郵便局? ……ああ! 小説を応募しに行くんだね」
「はい。あと、おじさまに手紙出すのもね。これだけの厚みになっちゃったモンだから、通常の料金じゃ足りないと思って」
愛美はもう出かける支度をしてあって、リュックには郵便局に持っていく二通の封筒も入っているのだ。そこから小さいほうの封筒を取り出して、純也さんに見せた。
「これは……、確かに分厚いな。明らかに二センチはありそうだ。これじゃ、郵便局に持って行って、料金を調べてもらうしかないな」
「でしょ? もう一週間くらい書き溜めてあったの。でも、ついつい出しに行きそびれちゃって、気がついたらこんな状態に……」
〝あしながおじさん〟はきっと、愛美からの手紙を首を長くして待っているだろう。――そう思うと、愛美は申し訳ない気持ちになる。
(でも……、もしも純也さんがおじさまの正体なら、今手紙を出したって意味がないってことになるんだよね……)
愛美は向かいに座っている純也さんの顔をチラッと窺う。
「あの、そろそろ封筒返してもらっていいですか?」
愛美は純也さんに向かって手を差し出す。
「ああ、ゴメン! ……ん? ちょっと待って。〝久留島栄吉〟っていうのが田中さんの秘書の名前なのかい?」
やっと封筒を返してもらえた愛美は、目を丸くした。
「ええ、そうですけど。純也さんスゴい!」
「えっ! スゴいって何が?」
「初めてこの字見て〝くるしま〟ってすんなり読める人、めったにいないの。だいたいの人は〝くりゅうじま〟とか〝きゅうりゅうじま〟って読んじゃうんです。だからスゴいな、って」
「ああ、そういうことか。――ほら、田中さんと僕は知り合いだろ? だから、彼の秘書のことも知ってたんだ」
「…………へえ、そうなんですか。今までそんなこと、一度も言ってくれたことないから」
しれっと弁解する純也さんに、愛美の疑惑はますます膨れ上がっていく。
(多分この人、ウソついてる。わたしが気づいてないと思ってるんだ)
手紙を出すのをやめようかと一瞬考えたけれど、そんなことをしたら純也さんに不審に思われかねないし、まだそうと確信したわけでもないので、やっぱりこの手紙は出すことにした。
「ね、愛美ちゃん。郵便局に行くなら、僕のバイクの後ろに乗っていかないか? そのついでにツーリングに行こうよ」
「はいっ! ありがとう、純也さん!」
それに、彼と一緒にいられる時間は心から楽しみたいので。
(今はまだ、このままでいよう。彼が話してくれるまで……)
彼にも色々と打ち明けられない事情があるんだろう。それなら、もし愛美の疑惑が本当のことだったとしても、可能な限り気づいていないフリをしていようと、愛美は心に決めた。
「――さあ、愛美ちゃん。しっかりつかまってるんだよ」
朝食後、自前のオフロードバイクのエンジンをかけた純也さんは、スペアのヘルメットをかぶって後ろに乗った愛美にそう言った。
「はい! わぁ、ドキドキするな……」
好きな人と、バイクや自転車の二人乗りをする。愛美にはずっと憧れのシチュエーションだった。でも機会がないまま十七歳になって、今日初めての二人乗りが実現したのだ。
愛美はそっと両腕を伸ばして、純也さんの引き締まったお腹に回した。
「コレをできるのが、両想いになってからでよかったです。片想いの時だったら、気まずくてできなかったと思うから」
彼の背中にもたれかかるのは、恋人である愛美だけの特権だと思う。
「うん。じゃあ行こう!」
二人の乗ったバイクは勢いよく、そして安全運転で走り出す。
田舎道なので、途中で何度もガタガタ揺れたけれど、それさえも愛美にはテーマパークのアトラクションのようで楽しかった。
「――郵便料金、いくらかかった?」
身軽になって郵便局から出てきた愛美に、純也さんは澄まし顔で訊ねた。
「二通で四百六十円とちょっと……。原稿はレターパックで送れたけど、手紙の料金が十円多くかかっちゃって」
「やっぱりなぁ。あれはいつも通りにポストに投函しても、料金不足になっちゃうよな」
「付き合ってくれてありがと。次はどこに行くの?」
「せっかくバイクで来たんだし、ちょっと遠出しようか。途中で昼食を摂って、それから帰るとしよう」
純也さんは愛美の質問に答えてから、嬉しそうに笑った。
「? どうしたの?」
「そういや愛美ちゃん、僕への敬語はどこに行ったの? さっきから思いっきりため口で喋ってるけど」
「あ……、ゴメンなさい! 付き合ってるからってつい……。敬語に戻した方がいいですよね」
「ううん、いいよ。直さなくていい。これからは対等に話そう」
「うん……!」
二人の間から敬語がなくなったおかげで、また少し距離が縮まった気がした。
――ただ、「純也さんが〝あしながおじさん〟じゃないか」という愛美の疑惑は、まだ晴れないままだけれど……。
* * * *
「――ねえ、愛美ちゃん。例の屋根裏部屋、僕も見せてもらっていいかな?」
翌日。朝食を済ませた純也さんが、食後の片付けを手伝っていた愛美に訊ねた。……もっとも、このことを訊く相手は多恵さんなんじゃないだろうかと愛美は思ったのだけれど。
「多恵さん、純也さんがこう言ってるんですけど。どうします? いいですか?」
「ええ、構いませんよ。いつでもご覧になって下さいましな。あそこは元々坊っちゃんのお部屋でございますから」
「……だそうなんで、わたしはいいですよ。一緒に行きましょう」
――というわけで、愛美は純也さんと二人、屋根裏部屋へと足を踏み入れた。
「わぁ……、ここに来たの久しぶりだ。懐かしいなぁ」
彼は約二十年ぶりに入ったこの場所に、懐かしさで目を細める。
「純也さん、ここ天井が低いから頭をぶつけないように気をつけてね」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ」
彼は百九十cmもある長身なので、梁かどこかに頭がつっかえないかと愛美はヒヤヒヤしていたのだ。
「ここに最後に来たの、中三の夏休みだったかな。ここにある飛行機の模型はその頃に作ってたものなんだよ」
「へぇ……、そうなんだ」
純也さんは部屋の隅に置かれていたグローブと野球のボールを手に取った。よく見たら、グローブは二人分ある。大きめのと、少し小さめのと。
「これも残ってたんだ。――昔はキャッチボールもよくやってたなぁ」
「キャッチボール? 誰とやってたの?」
純也さんは夏休みの間しかここには来ていなかったはず。この地域に住んでいた同年代の男の子と仲良くなっていたのだろうか? それとも……。
「中学に入ってからは善三さんともやったけど、それまでは多恵さんと。愛美ちゃん知ってた? 多恵さんって学生時代はソフトボール部員だったんだって」
「えっ、そうなの!? 知らなかった」
「うん。球技だけじゃなくて、スポーツ全般得意だったらしいよ」
「へぇ……」
今はふっくらしていて、おっとりしている多恵さんが……。昔は細くて運動ができたなんて、愛美には想像がつかない。
「――純也さん、今日は二人でキャッチボールしませんか? いいお天気だし」
せっかく《《いいもの》》を見つけたんだから、愛美も純也さんともっと遊びたい。そう思って提案してみた。
「いいけど、愛美ちゃんってキャッチボールできるんだ?」
「うん! 施設出身者をなめないで!」
というわけで、今日は千藤家の広い庭の一角でキャッチボールをすることにした愛美と純也さん。外は真夏らしくカンカン照りだった。
「――愛美ちゃん、行くよー!」
「はーい!」
……パシッ! 純也さんが投げたボールは、見事に愛美のグローブに収まった。プロ野球選手ほどではないけれど、長身の彼の投球はそこそこ速い球だったはずなのに。
「うぉっ、スゴいなぁ」
「じゃあ、今度はこっちからねー」
愛美の投球も、小柄な女子にしてはなかなかのスピード。コントロールもいい。純也さんはそれを華麗にキャッチして見せた。
「愛美ちゃん、なかなかいい球投げるねー」
「うん、まあね。施設にいた頃、野球やってる子の相手してたから」
「なるほどー」
二人は大きめの声で会話をしながら、キャッチボールを続けていた。
「純也さんだってスゴいじゃないですか。まるで大谷選手みたい」
愛美は彼のことを、メジャーリーグで大活躍している日本人選手みたいだと感心した。
「それは褒めすぎだって、愛美ちゃん。彼の方が僕より身長も高いし、体型もガッシリしてるじゃないか」
「そうだけど、わたしには純也さんも彼とおんなじくらいカッコよく見えるから――、あれ?」
そう言った次の瞬間、愛美は目眩を起こした。
「大丈夫か、愛美ちゃん!」
倒れかけた彼女を、慌てて駆け付けた純也さんが抱き留めた。
「うん……、ありがとう。大丈夫。ちょっとクラーッとなっただけ」
「軽い熱中症かなぁ。ちょっと日陰で休憩しようか」
純也さんに支えてもらいながら、愛美は涼しい日陰へと移動した。
「――はい、これで水分補給しなよ。よく冷えてるから保冷剤代わりにもなるしね」
「あ……、ありがと」
愛美は冷たいスポーツドリンクのペットボトルを受け取ると、まずは火照った首筋に当てがった。それだけで、体にこもった熱と汗がスッと引いていく。
そしてキャップを開け、ゴクゴク飲んだ。
「ゴメンねー、愛美ちゃん! 目眩起こす前に、大人の俺が気づいてあげるべきだったよな」
「そんなことないよ。こんな暑い日にキャッチボールしようなんて言い出したわたしが悪いんだもん。っていうか純也さん、久しぶりに『俺』って言ったよね」
水分補給をして熱も冷めた愛美は、そういう話もできるくらい元気を取り戻していた。
「……えっ? あれ、そうだっけ?」
「うん、そうだよー。多分、珠莉ちゃんたちと一緒に原宿に行った日以来じゃないかな」
あの日以降、純也さんは「僕」としか言わなくなっていた。愛美と二人っきりだから、彼は素の自分を出せたのかもしれない。
「そっか……。いや、珠莉の前ではよく『俺』って使うんだけどな。愛美ちゃんが俺に敬語なしで話せるようになったのと同じかな、理由は」
それは年の差を超えて、心が通じ合ったからなのかなと愛美は思った。
「ね、純也さん。これからはもっともっと『俺』って言ってほしいな。珠莉ちゃんの前だけじゃなくて、わたしと一緒の時にも」
珠莉は彼の姪だから、いやでも素が出てしまうのかもしれない。でも、これからは〝彼女〟になった愛美にも飾らない彼自身を見せてほしい。
「うん、分かった。まあ、できる限り頑張ってみるよ」
「えーー? それってどっちなのー?」
愛美はブーイングしながらも、彼と一緒に過ごせる時間がすごく愛おしく感じていた。
「――これ以上外にいたら、俺まで熱中症になりそうだな。もうじき昼食の時間だし、そろそろ家の中に戻ろうか。午後は屋根裏部屋で読書でもして過ごすか。愛美ちゃんの宿題を見てあげてもいいし」
「残念でした。宿題はもう終わっちゃってるんで」
(……っていうか、純也さんがおじさまなら知ってるはずだよね。わたしが勉強できる子だって)
内心ではそう思いながら、愛美は澄まし顔で純也さんにそう言ってのけた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
今年の夏も毎日暑いですね。お元気ですか? わたしは元気です。ちょっと熱中症にはなりかけましたけど……。
今日の午前中、千藤さんのお家の庭で、純也さんと二人でキャッチボールをしました。そのキッカケは、彼が「屋根裏部屋を久しぶりに見たい」って言ったからなんですけど。
おじさまは憶えてますか? 去年の夏休み、わたしが「この家の屋根裏部屋に野球ボールとグローブが置いてある」って手紙に書いたのを。実はそのグローブ、大小二つあったんです。
純也さんは昔、このお家に来てた頃によくキャッチボールをしてたんだそうです。相手はなんと多恵さん! 善三さんともやってたそうなんですけど。
何でも、多恵さんは学生時代、ソフトボール部に所属してたらしいんです。純也さん曰く、多恵さんも昔はスラッとしてて、スポーツ万能だったんだとか。今はあんなにふくよかな多恵さんがですよ? おじさま、信じられますか?
それはともかく。今日は朝からよく晴れてたので、わたしから「キャッチボールしよう」って純也さんに言いました。
日本人メジャーリーガーの大谷翔平選手並みの純也さんの投球をキャッチしたら、彼はすごく驚いてました。そして、わたしが投げ返した球の速さにも。「なかなかいい球投げるね」って。
〈わかば園〉にいた頃、わたしはよく弟たちの球技の練習に付き合ってあげてました。多分、それで上手くなったんじゃないかな。だからわたし、野球だけじゃなくてサッカーとかバスケットボールとか、球技全般が得意なんですよ、実は。って、おじさまはもうご存じですよね。
でも、ピーカンで暑い中ずっと屋外にいたので、わたしがちょっと具合が悪くなっちゃって。そこでキャッチボールは打ち切りになっちゃいました。
誘ったわたしの自業自得なのに、純也さんが責任感じちゃって。「大人の自分が先に気づいてあげるべきだったね」って。彼ってホントに優しい人!
そんなわけで、午後からは二人で屋根裏部屋で過ごしました。読書をしたり、彼にアドバイスをもらいながら新作の小説の下書きを書いたりして。途中、一度キッチンまで下りて行った純也さんが、多恵さんがわたしのために作ってくれた冷たいスムージーを持ってきてくれました。「具合の悪い時は、ちゃんと栄養を摂った方がいいから」って。
淡いオレンジ色のスムージーは、カボチャやニンジン、パプリカなどの野菜がベースになっていて、桃やバナナなどのフルーツも入っていて、それを冷たい牛乳と氷で割ったもので、甘くてスッキリした味で飲みやすかったです。
純也さんはわたしと二人でいる時、一人称が「僕」から「俺」になります。それは珠莉ちゃんと同じように、わたしにも心を許してくれたからだそうです。そしてわたしも、彼相手だと敬語抜きで話すことができるようになりました。
彼がここにいる間、屋根裏部屋はわたしと彼が人目を忍んで二人で過ごせるいいデート場所になりそうです。とはいっても、この家にいる人たちみんな、わたしが純也さんとお付き合いを始めたことを知ってるんですけどね(笑)でも、善三さんや天野さんの前でキスするわけにはいかないから……。
おじさま、もしかして今いたたまれない気持ちになってますか? ノロケ話はこれくらいにしておきますね。
話は変わりますけど、わたしが「球技が得意」という話が出たので、おじさまにお伝えしたいことがあるんです。
〈わかば園〉にいる、小谷涼介君っていう男の子をおじさまはご存じですか? わたしの二つ年下で、サッカーを頑張ってる子なんですけど。
リョウちゃんはご両親から(多分、お母さんからの方がひどいのかな)のネグレクトによって施設に来た子でした。施設に来てからは元気になりましたけど、五歳で〈わかば園〉に来た時にはゴハンもちゃんと食べさせてもらってなかったのかすごくガリガリで、わたしもショックでした。
その子のご両親は、園長先生にお説教されて心を入れ替えられたそうで、何度もリョウちゃんとの面会を望んでるんですけど。リョウちゃん本人がご両親のことをものすごく恨んでるので会いたがらないんです。
そんな彼も今年中学三年生になって、進路の問題にぶち当たっているはずです。わたしがそうだったみたいに。
彼の実のご両親はこれ幸いと、引き取るって言い出すかもしれない。でも、サッカーを続けたいリョウちゃんの気持ちなんてきっと考えてくれないとわたしは思うんです。
だから、おじさまお願い。施設を訪ねる時、園長先生と一緒に彼の様子を注意深く見てあげて下さい。そして、彼が困ってたらどうか味方になってあげて下さい。そして……、これはできればですけど。彼のために、いい里親になってくれそうな親切なご夫婦を探してみてはもらえないでしょうか?
リョウちゃんはわたしの大事な弟の一人です。わたしも彼のことは心配だけど、わたしにできることはこれくらいしかないから……。
長くなっちゃってごめんなさい。奨学金が受けられるかどうかの連絡はまだ来てません。そろそろだと思うんですけど……。ではおじさま、おやすみなさい。 かしこ
八月十五日 午後十時過ぎ 愛美』
****
――それから五日後、純也さんの休暇が終わり、彼は東京へ帰ることになった。
「愛美ちゃん、この夏は一緒に過ごせて楽しかったよ。残念だけど、僕は帰らないと」
純也さんは玄関先まで見送りに出た愛美に、名残惜しそうにそう言った。
「うん……。またデートしてくれるよね?」
「もちろんだよ。また連絡するからね」
「うん! わたしも、また連絡する。お仕事頑張ってね」
彼はこれから、また東京で忙しい日々を送ることになるのだ。恋人である自分からの連絡が、少しでも彼の癒しになってくれたら……と愛美は思う。
「うん、ありがとう。愛美ちゃんも頑張って夢を叶えなよ。僕も応援してる」
(そりゃそうだよね。だって、この人はそのためにわたしを……)
愛美の彼に対する疑念は、ほぼ確信に変わりつつあった。
考えてみたら、彼の言動はところどころ怪しかった。愛美はカンが鋭いので、それで「おかしい」と思わないわけがないのだ。
(まだ、本人に確かめなきゃいけないことはあるんだけど……)
「ありがと。……ねえ、純也さん」
気づいていないフリをしようと決めたものの、ついつい確かめてみたい衝動に駆られた愛美は思わず彼に呼びかけていた。
「ん? どうしたの、愛美ちゃん?」
(……ダメダメ! ここで確かめたら、わたしのせっかくの決意がムダになっちゃう!)
「あ……、ううん! 何でもない」
愛美はオーバーに首を振って、どうにかごまかした。
――こうして純也さんは帰っていき、愛美の夏休みも残りわずかとなった。
もう宿題は全部終わっているし、あとは横浜の寮に帰る準備をするだけだ。
――そんなある昼下がり。愛美のスマホに一本の電話がかかってきた。
「純也さん? ……じゃない! 学校の事務局からだ」
そういえば、奨学金の審査の結果は夏休み中に知らせてくれることになっていた。
「――はい、相川です」
『二年三組の相川愛美さんですね。こちらは茗桜女子大学付属高校の事務局です。申請してもらっていた奨学金の審査結果をお知らせします』
「あ……、はい! お願いします」
電話をかけてきたのは、学校の事務局で奨学金を担当している男性だった。声の感じからして、四十代から五十代と思われる。
『えー、審査を行いました結果、相川さんに奨学金を給付することが決定しました』
「えっ、本当ですか!? ありがとうございます!」
愛美は驚き、ホッとし、無事に審査を通してくれたことに感謝の言葉を述べた。
『はい。つきましては、相川さんが今後の学習においても、優秀な成績を修められることを私どもお祈りしております。しっかり頑張って下さい。では、失礼いたします』
「はい! 頑張ります。ご連絡ありがとうございました」
愛美は電話を切った後、ホッとして呟く。
「よかった……」
この一ヶ月半、心穏やかではいられなかった。純也さんと一緒にいる時でさえ、いつ連絡が来るかとソワソワしていたものである。
もちろん、奨学金を受けられることが決まったからといって、それがゴールではない。この先、ずっと優秀な成績を取り続ける必要がある。――けれど、元々成績優秀な愛美にはそれほど厳しいことではない。
「――あ、おじさまに報告しなきゃ! それとも、純也さんに連絡するのが先かな」
愛美は考えた。もしも純也さんと〝あしながおじさん〟が別人だったら、両方に知らせる必要があるけれど。
(もし同一人物だったら、わざわざ手紙で知らせる必要はなくなるってことだよね……)
愛美も本当はそうしたい。でも、それでは彼の方が不審がるかもしれない。
だって彼は、まさか愛美が自分の秘密に気づいているとは思っていないだろうから。それに、気づいていないフリをすると決めたのに、それでは意味がないし。
「とりあえず、先に純也さんに知らせて、その反応を見てからおじさまに手紙を書こう」
悩んだ末、最終的に愛美が出した結論は、これだった。
* * * *
――九月に入り、二学期が始まった。
「なんかあっという間だったねー、今年の夏休みは」
二学期初日の終礼が終わり、さやかが教室を出る前に大きく伸びをした。
「さやかちゃん、インターハイお疲れさま。残念だったねぇ……、せっかく頑張ってたのに」
「うん……。まあ、しょうがないよ。上には上がいたってことだもん。また来年があるし、秋にも大会あるからさ」
「そうだね」
――さやかは陸上競技のインターハイで、無事に予選は突破したものの、決勝では思うように記録が伸びずに六人中五位の成績に終わったのだ。
「っていうかさ愛美。ヘコんでる時に、電話で延々ノロケ話聞かされたあたしの身にもなってよねー」
「……ゴメン。嬉しくてつい」
愛美はさやかにペロッと舌を出して見せる。
「まぁねー、初めて彼氏ができて、しかも初キスまでして。その喜びを誰かに聞いてほしいってのは分からなくもないんだけどさ」
「うん、まぁ。――あ、あとね。奨学金受けられることになったんだ、わたし」
「へぇ、そうなんだ? よかったじゃん、愛美!」
「うん! もう純也さんとおじさまには報告してあるんだ」
――愛美は長野を離れる前に、純也さん宛てにこんなメッセージを送っていた。
『純也さん、嬉しい報告☆
学校の事務局の人から連絡があって、わたし、奨学金を受けられることになったの!(*≧∀≦*)
その分、学校では優秀な成績をキープしなきゃいけないけど、わたしなら大丈夫!
二学期からも頑張ります♪ もちろん、小説家になる夢もね。』
〝あしながおじさん〟にも、同じような文面の手紙を書き送った。
彼からはまだ返事が来ていないけれど、純也さんからはすぐに返信が来た。
『よかったね、愛美ちゃん。おめでとう!
僕も嬉しい☆ 田中さんもきっと喜んでくれてるよ。
ただ、ちょっと淋しいとは思ってるかもしれないけどね(^_^;)』
(――純也さん、心の声がダダ漏れ……)
この返信を見た時、彼が〝あしながおじさん〟の正体だと確信している愛美は苦笑いしたものだ。
やっぱり、自分が愛美のためにできることが減ってしまうのは、彼としても淋しいらしい。
「――そういえば、珠莉ちゃんは夏休み、どうだったの? 治樹さんには会えた?」
寮に帰る道すがら、愛美は珠莉に訊ねてみた。
「…………ええ。早めにグアムから帰国できたから、丸ノ内を一人で歩いていたら、スーツ姿の治樹さんにお会いできましたの」
「スーツ姿? ああ、就活か」
さやかは自分の兄の年齢を思い出して、納得した。治樹は大学四年生。ちょうど就活に追われている時期である。
「にしても、お兄ちゃんがスーツ姿……。想像つかないわ」
「……それはともかく! 私が話しかけたら、治樹さんも私のことを覚えていて下さって。『連絡先を交換して下さい』って言ったら、OKして下さったんですの!」
珠莉はさやかに咳払いした後、続きを一気にまくし立てた。よっぽど嬉しかったらしい。
「へぇ、意外だったなぁ。お兄ちゃんが珠莉と付き合う気になったなんて。もう愛美のことはふっ切れたってことかな?」
「うん、そうなんじゃないかな。治樹さんもやっと前に進む気になったんだよ、きっと」
愛美には純也さんという恋人ができた。珠莉と治樹さんにも、やっと春が訪れたということか。――あと残すはさやか一人だけだけれど……。
「――あ、ちょっと待ってて。郵便受け見てくるから」
もしかしたら、〝あしながおじさん〟からの返事が来ているかもしれない。そう思って、愛美は自分の郵便受けを開けてみたけれど――。
「来てないか……」
他に来る郵便物もないので、郵便受けの中は空っぽだった。
(今更反対する理由もないから、返事を下さらないのか。それとも……)
純也としてちゃんと「返事」を送ったから、〝あしながおじさん〟の返事は必要ないと思って出さないのか……。
愛美は後者のような気がしてならなかった。
* * * *
「――ねえ、珠莉ちゃん。純也さんのことで、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
愛美は部屋に戻ると、意を決して珠莉に声をかけた。
〝訊きたいこと〟とはもちろん、純也さんのこと。彼について訊ねるなら、彼の親戚である珠莉が一番の適任者だ。
「ええ、いいけれど。何ですの?」
「あのね、春に純也さんが寮に遊びに来た時のことなんだけど……」
あの日からずっと、珠莉と純也さんの力関係が微妙に変わったと愛美は感じていたのだ。
「わたしがインフルエンザで入院してたこと、ホントは純也さんに話してないよね? あの時は話を合わせてたみたいだけど」
「……ええ、話していないわ。だから私もあの時、おかしいなと思ったの。でも、何か事情がおありなんだと思って、とっさに話を合わせたのよ」
「やっぱり……」
(あの時の引っかかりの原因はコレだったんだ……)
愛美は合点がいった。あの時、彼女の様子がおかしかったのには、こういう事情があったらしい。
「それでね、私はピンときて、叔父さまを問いつめましたの。『愛美さんの保護者の〝おじさま〟って、純也叔父さまのことですわよね?』って。そしたら、叔父さまは渋々ですけれどお認めになりましたわ。『どうして分かったんだ?』って」
「そうだったんだ……」
珠莉は、叔父が愛美の〝あしながおじさん〟だということを知っていたのか……。
「だから珠莉ちゃん、あれからわたしに協力的になったんだね。ありがと」
「……愛美さんも、もしかして気づいていらっしゃるんですの? おじさまの正体に」
「うん。でもね、わたしは気づいてないフリをすることにしたの。だから純也さんの方から打ち明けてくれるまで、わたしからは訊かない」
彼は愛美を欺いていることを心苦しいと思っているだろうから。いつか良心の呵責で、打ち明けてくれる時がくるだろう。――彼はそういう人だから。
「そうですの。……まぁ、それがいいかもしれませんわね。お二人のためには」
「……うん、そうだね。珠莉ちゃん、ありがと」
愛美としては、苦しんでいる純也さんをこれ以上追い詰めるようなことはしたくなかったので、珠莉からそう言ってもらえてホッとした。
「叔父さまは、本当に分かってらっしゃらないのかしら? 愛美さんに正体を見破られていること」
「多分……ね。気づかないフリができるほど器用な人じゃないもん」
姪の珠莉よりも、恋人である愛美の方が彼の性格を熟知しているというのもおかしな話だけれど――。
「――それにしても、さやかちゃんは大変だね。二学期始まって早々、部活なんて。お昼ゴハンに間に合うように帰ってくるとは言ってたけど」
今この場に、さやかはいない。彼女が所属する陸上部はインターハイの反省会をやっているのだそう。
ミーティングだけなので練習があるわけではないけれど、二学期初日に集まらなければならないのは確かに大変である。
「その点、私たち文化部はいいですわよね。基本的に自由参加ですもの」
「うん」
文芸部も茶道部も一応、今日も活動はしているのだけれど。参加しているのはごく一部の部員だけだろう。
「……そういえば珠莉ちゃん。さやかちゃんにも話したの? 純也さんが、わたしの保護者の〝あしながおじさん〟だってこと」
「ええ、早い段階でお話ししてあるわ。でも、愛美さんご自身が気づかれるまでヒミツにしていましょうね、ということになったのよ」
「そうだったんだ……」
愛美は何だか、自分一人だけがのけ者にされたような気持ちになったけれど。それはきっと、親友二人の愛美への思いやり。彼女と純也さんの恋をそっと見守っていようという気遣いだったんだろう。
「――あ、もうすぐお昼のチャイム鳴るね。さやかちゃん、そろそろ帰ってくるかな」
キーンコーンカーンコーン ……
「ただいま! お腹すいたぁ! 二人とも、食堂行こう」
十二時のチャイムが鳴るのと、さやかが空腹を訴えながら部屋に飛び込んでくるのはほぼ同時だった――。
* * * *
それから一ヶ月。愛美たちの学校では体育祭や球技大会、文化祭などの大きな行事も終わり、二学期の中間テストを間近に控えていた。
そんなある日のこと――。
『――恐れ入ります。こちらは明見社文芸部の、〈イマジン〉編集部でございますが。相川愛美さんの携帯で間違いありませんでしょうか?』
休日の午後、さやかと珠莉と三人で、部屋でテスト勉強に励んでいた愛美のスマホに一本の電話がかかってきた。
「はい、相川ですけど。……ちょっとゴメン! 外すね」
愛美は電話に応対するために二人のルームメイトに断りを入れ、一旦自分の寝室に引っ込んだ。
「――あ、失礼しました。改めて、わたしが相川愛美です」
『この度は、〈イマジン〉の短編小説コンテストにご応募頂きましてありがとうございます。相川さんの選考結果をお伝えしたく、お電話を差し上げました』
「はい」
そういえば、そろそろ結果が出る頃だと愛美も思っていたのだ。
『厳正なる選考の結果ですね、相川さんの応募作が佳作に選ばれまして。〈イマジン〉の来月号に掲載されることが決まりました!』
「……えっ!? それホントですか?」
『はい、本当です。おめでとうございます! 相川さん、当誌から作家デビュー決定ですよ! これからも頑張って下さいね!』
「ホントなんですね!? わたしが……作家デビュー……。あの、ご連絡ありがとうございます! わたし、頑張ります! 失礼します」
興奮のあまり声が上ずって、心もち血圧も上がっているかもしれない。それでも何とか落ち着いて、愛美は通話を終えた。
「さやかちゃん、珠莉ちゃん! わたし――」
「聞こえてたよ、愛美。おめでとう!」
勉強スペースに戻ってきた彼女が口を開こうとすると、さやかがみなまで言わせずに喜びの言葉をかぶせて来た。
「愛美さん、デビュー決定おめでとう。やりましたわね」
「うんっ! 二人とも、ありがと!」
親友二人からの温かいお祝いの言葉に、愛美は胸がいっぱいになりながらお礼を言った。
「――そうだ愛美。このこと、おじさまに報告しなくていいの? おじさまも待ってるんじゃない?」
「……うん。そうだね」
さやかに訊ねられ、愛美は悩んだ。――この報告は、〝あしながおじさん〟と純也さんの両方にすべきなのか、それとも〝あしながおじさん〟だけにしてもいいのか?
(だって、結局は同じ人に報告してることになるんだもん)
両方に報告することは、愛美にしてみれば二度手間でしかない。けれど、どちらか一方だけに知らせれば、彼は「もしかして、自分の正体がバレているんじゃないか」と感づくかもしれない。
(どうしようかな……)
「愛美さん。純也叔父さまには私からお知らせしておきますわ。だから、あなたはおじさまにだけお知らせしたらどうかしら?」
悩む愛美に、珠莉が助け船を出してくれた。
「姪の私が知らせても、純也叔父さまは不思議に思われないわ。お二人とも回りくどいのが嫌いなのは分かっておりますけど、そうした方がいいと思うの」
そうすれば、純也さんからはきっと後からお祝いのメッセージが来るだろう。……珠莉はそう言うのだ。
「そうだね。珠莉ちゃん、ありがと。じゃあそうしようかな」
「あたしもそれでいいと思うよ。まどろっこしいけど、仕方ないよね」
「うん」
やっぱり、さやかも珠莉が言った通り、〝あしながおじさん〟の正体を知っているらしい。
「じゃあわたし、勉強が終わったらおじさまに手紙書くね」
「うん! そうと決まれば、早く勉強終わらせよ!」
この嬉しいニュースのおかげで、この後三人の勉強が捗ったのは言うまでもない。
****
『拝啓、あしながおじさん。
おじさま、ビッグニュースです! わたし、作家デビューが決まりました!
今日の午後、さやかちゃんと珠莉ちゃんと三人でテスト勉強をしてた時に、出版社の人から連絡が来たんです。わたしが応募した作品が、文芸誌の短編小説コンテストで佳作に選ばれた、って。その作品は、その文芸誌の来月号に掲載されるそうです!
この小説は、夏休みにわたしが書いた四作の中から純也さんが選んでくれた一作です。彼には本当に、感謝しかありません!
わたしとおじさま、そして純也さんの夢が早くも叶いました。しばらくは雑誌に短編が載るくらいですけど、いつかは単行本も出してもらえるように、わたし頑張ります! その時には、ぜひ買って下さいね。
短いですけど、今回はこのお知らせだけで失礼します。テストの結果、楽しみにしてて下さい。奨学生になったんですから、絶対に優秀な成績を取ってみせますよ!
十月十八日 作家デビュー決定の愛美』
****
「――よし、こんなモンでいいかな。純也さんには、珠莉ちゃんが知らせてくれるって言ってたし」
これまで純也さんのことをさんざん書いてきたのに、いきなりそれをやめてしまったら、〝あしながおじさん〟も首を捻るだろう。そして、勘繰るに違いない。「もしや、自分の正体がバレてしまったのでは?」と。
だから、これでいい。――愛美は一人頷いた。
華麗なる一族?
――作家デビューしてからの愛美の日常は、それまでと比べものにならないくらいめまぐるしく過ぎていった。
学校の勉強では、奨学生になった身なので成績を落とすことが許されず、中間テストでも学年で五位以内に入る成績を修めた。――もっとも、彼女は元々勤勉で、勉強でも手を抜いたことはないのだけれど。
そして、作家デビューが決まった文芸誌〈イマジン〉では二ヶ月連続で彼女の短編作品が掲載されることになり、勉強と同時にその原稿の執筆にも追われた。
「相川先生はまだ高校生なんですから、あくまでも学業優先でいいですよ」
と担当編集者の岡部さん(ちなみに、男性である)は言ってくれたけれど、一応はプロになり、原稿料ももらう立場になったのでそれもキッチリこなさなければと真面目な愛美は思ったわけである。
純也さんからは、〝あしながおじさん〟宛てに作家デビューが決まったことを知らせる手紙を出した数日後、スマホにお祝いのメッセージが来た。
『珠莉から聞いたよ。おめでとう! 僕も嬉しいよ(≧▽≦) 頑張れ☆』
本当に珠莉が知らせてくれたのだとは思うけれど、もしかしたら手紙の返事だったのではないかと愛美は思っている。
でなければ、珠莉から知らされたその日のうちにメッセージが来なかった理由の説明がつかないから。
――そうして迎えた、高校生活二年目の十一月末。
「ねえ愛美さん、今年の冬休みは我が家にいらっしゃいよ」
愛美を家に招待してくれたのは、意外にもさやかではなく珠莉だった。
「えっ? あー、うん。わたしは別に構わないけど……」
さやかはどう思うのだろう? 去年の冬がすごく楽しかったから、今年の冬も愛美と一緒に過ごすのを楽しみにしてくれているかもしれないのに。
「ああ、ウチのことなら気にしないでいいよ。愛美がいない時でもあんまり変わんないから。っていうか、やっぱ埼玉より東京の方がいいっしょ?」
さやかは意味深なことを言った。〝東京〟で思い浮かぶ人といえば……。
(もしかして、純也さんも東京にいるから、ってこと?)
彼も一応は東京出身だし、現住所も東京都内だ。もしかしたら、今年の冬は実家に帰ってくるかもしれない。
もちろん、愛美の勘繰りすぎという可能性もあるけれど……。
「――っていうか、珠莉ちゃん。純也さんって実家にはほとんど寄りつかないって去年言ってたよね? 親戚との関係がどうとかって」
「ええ、確かにそんなこと言いましたわね」
一年前までの彼はそうだったかもしれない。姪である珠莉のことさえ避けていたふしがある。
けれど、今年の冬はどうだろう? 珠莉との仲はそれなりによくなってきたようだし、愛美という恋人もできた。彼の心境には明らかな変化がある。
(でも、だからって親戚みんなとの関係までよくなったかっていうと……)
そこまでは、愛美にも分からない。純也さんが話そうとしないので、知る術がないのだ。
「彼、今年はどうするのかなぁ? わたしを招待することは、まだ純也さんに伝えてないよね?」
「そうねぇ、まだ。こういうことは、愛美さんからお伝えした方が純也叔父さまもお喜びになるんじゃないかしら。あなたがいらっしゃるって聞いたら、叔父さまも帰っていらっしゃるかもしれないわ」
「うん、そうだね。わたしから電話してみる」
愛美はいそいそと、スマホの履歴から純也さんの番号をリダイヤルした。
別に自分が辺唐院家の関係を修復する潤滑油になりたいとは思っていない。愛美はただ、冬休みにも大好きな純也さんに会いたいだけで……。動機としてはちょっと不純かもしれないけれど。
そして、もしも彼が本当に〝あしながおじさん〟だったとしたら、絶対に「冬休みは辺唐院家へ行くように」という指示が送られてくるはずだから。
『もしもし、愛美ちゃん。どうしたの?』
時刻は夕方五時半過ぎ。普通のお勤め人なら、帰宅途中というところだろうか。もしくは、まだ残業中か。
でも、彼は若いけれど経営者である。そもそも〝定時〟というものがあるのかどうか分からないけれど、愛美には彼が今オフィスにいるのか、自宅にいるのか、はたまた別の場所にいるのかまったくもって推測できない。
「あ……、愛美です。久しぶり。――あの、純也さんはこの冬、どうするのかなぁと思って」
『う~ん、どうしようかな。実はまだ決めてないんだ。まあ、仕事はそんなに忙しくないし。そもそも年末は接待ばっかりでね、僕もウンザリしてる』
「純也さんって、お酒飲めないんだっけ?」
『そうそう! でも、接待だから飲まないわけにもいかなくて。少しだけね』
「大人って大変なんだね……。あのね、わたし、珠莉ちゃんに招待されたの。『冬休みは我が家にいらっしゃいよ』って」
……さて、エサは撒いた(というのも失礼な言い方だと愛美は思ったけれど)。純也さんはどうするだろうか?
『えっ、珠莉が……』
「うん、そうなの。わたし、お金持ちのお屋敷に招待されるの初めてで、ものすごく緊張しちゃいそう。でも、純也さんも一緒にいてくれたら大丈夫だと思うの。だから純也さんも、たまにはご実家に帰ってこられない?」
愛美自身、言っているうちに鳥肌が立っていた。こんな媚び媚びのセリフを自分が言っているのが自分でも気持ち悪くて。
(こんなの、わたしのキャラじゃないよ……)
「ご家族とうまくいってないことは知ってます。でも、わたしのためだと思って、お願い聞いてくれないかな?」
しばらく電話口で沈黙が流れた。そして、彼の長~~~~いため息が聞こえたかと思うと、次の瞬間。
『…………分かったよ。僕も今年は実家に帰る。他でもない愛美ちゃんの頼みだからね』
「純也さん……! ありがとう!」
『ただし、親族ともうまくやっていけるかどうかは分からない。居心地が悪くなったら、すぐに出ていくかもしれないよ』
「そんな……」
『まあ、愛美ちゃんを孤立させるようなことだけはしないから。何かあったら僕が盾になってあげるから、安心してよ』
「……うん。じゃあ、失礼します」
電話を切った愛美には、ちょっと不安が残った。
「大丈夫かな……」
親族間の問題は、愛美に解決できるものじゃない。それは純也さん自身が何とかするしかないのだ。
それに、もしも愛美が施設出身だということを、あの家の人たちが悪く言ったら……?
彼はきっと、自分のことをどれだけひどくこき下ろされても何ともないと思う。けれど、自分の大事な人のことをバカにされたらガマンならないんじゃないだろうか。
(まあ、その前にわたしがブチ切れるだろうけど)
愛美はこれまで、自分の育ってきた境遇を恥じたことなんて一度もない。同情されるのもキライだけれど、バカにされるのはその何十倍もキライなのだ。
「――愛美さん、叔父さまは何とおっしゃってたの?」
珠莉の声で、愛美はハッと我に返った。――そうだ。この部屋には珠莉もさやかもいるんだった!
「ああ、うん。わたしが行くなら、たまには実家に帰ってみるよ、って」
「……そう。他には?」
「他の親族とうまくやれるかどうか分からないから、居心地が悪くなったら出ていくかも、って。でも、わたしに何かあったら盾になってくれるらしいよ」
「なるほど。……まあ、叔父さまは元々そういうクールな人だものね。でも、叔父さまがそんなことをおっしゃるようになったなんて。愛美さんのおかげでお変わりになったのかしら」
「え……」
自分が誰かを変えた。まさか、そんな影響力を自身が持っていたなんて! ――愛美は本当に驚いた。
「恋っていうのは、人をここまで強くするものなのね」
「ああ……、そういうことか」
どうやら愛美の力ではなく、恋の魔力とかいうヤツの力らしい。
「――ところで、話変わるんだけど。珠莉ちゃんのお家でもクリスマスってパーティーとかするの?」
さやかの家はアットホームで楽しくて、愛美も居心地がよかった。クリスマスパーティーも手作り感満載で、参加した子供たちもすごく楽しんでくれていた。
「ええ、もちろん。ウチは盛大に行いますわよ。社交界の面々、特に政財界の大物も多数ご招待してますし、ドレスコードもキチっとしてますの」
「ドレスコード……、ってどんなの?」
辺唐院家のパーティーは、愛美が思っていた以上にお堅い集まりのようで、愛美はちょっと萎縮してしまう。
「そうねぇ……。男性はスーツにネクタイ・ネッカチーフ、もしくはタキシード。女性はカクテルドレスか和装。まあ、そんなところかしら」
「ドレスって……、わたしそんなの持ってないよ」
愛美は絶望的な気持ちになった。
(スゴい……、セレブにはそれが普通なんだ)
彼女が持っている服で一番上等なのは、オシャレ着として買ったワンピースだ。それでもパーティー向きではない。
だからといって、ドレスなんて女子高生のお小遣いで簡単に買えるようなものでもないし……。
「あら。でしたら、おじさまにおねだりしてみたらいいじゃない。たまには甘えて差し上げないと、いじけてしまうわよ?」
「あ、そっか! その手があった! 珠莉ちゃん、ありがと」
自立心の強い愛美は、これまで〝あしながおじさん〟に何かをねだったことがない。ねだらなくても、自分の経済力で何とかできることはしてきたから。
でも、今回ばかりはムリだ。いつもはおねだりなんてしない愛美からの頼みとあれば、〝あしながおじさん〟もよほどのことだと思って聞いてくれるに違いない。
そしてその正体が純也さんなら、なおのこと断るはずがない。大切な愛美のためなら、何でもしてあげたいと思っているだろうから。
「どうせならドレスだけじゃなくて、靴とかアクセサリーとか、バッグなんかもおねだりしちゃいなさいよ。一式そろえてもらえばいいわ」
「……珠莉ちゃん、オニ?」
愛美はこの珠莉という人が怖くなった。実の叔父が相手だからって、これだけ好き勝手いえるなんて、なんという姪だろうか。
ドレスだけでも結構な出費になるだろうに、靴やアクセサリーまで……。いくら彼がお金持ちだからって、さすがに彼のお財布事情が心配になってくる。
「まあ、いいじゃない。あなたのためなら、これくらいの投資はおじさまにとってはどうってことありませんわよ、きっと」
「そ……うかなぁ」
「ええ。叔父さまはそういう方なのよ。だから、大丈夫よ」
「……うん、分かった」
愛美が「夕食から戻ってきたら、さっそくおじさまに手紙書くね」と言ったところで、さやかが珠莉に茶々を入れた。
「アンタさぁ、いっつもそうやって純也さんを困らせてたんじゃないのー?」
「えっ? 何のことですの?」
「欲しいものとかあった時に、叔父さまにねだりまくってたんじゃないの? そりゃウザがられるわ」
当初、純也さんが珠莉のことを苦手にしていたと愛美から聞いたことを、さやかは覚えていたのだ。
姪がこんな子だったら、さやかが叔父や叔母の立場でもウザいと思うだろう。
「あら、そんなことありませんわ。……まあ、純也叔父さまが私のことをそう思われていたとしても、愛美さんにはきっとお優しいはずよ」
姪の珠莉相手ならともかく、恋人である愛美のことを彼が冷たくあしらったりはしないはずだ。
「そうだねー。だってあの二人、誰が見たってラブラブだもんね。――っていうか、アンタの方はどうなのよ?」
「どう、って?」
「ウチのお兄ちゃんと、だよ。連絡は取り合ってるんでしょ? クリスマスはムリでもさぁ、冬休みの間にデートするとかって予定はないワケ?」
さやかの兄・治樹と珠莉は一応交際を始めたらしい。二人が連絡を取り合っているところはさやかも愛美も見かけているけれど、二人で出かけるような様子はまだ一度も見られない。
「……特には何も。治樹さん、今は就職活動で忙しいみたいですし、私がおジャマしてはいけないと思って。それに――」
「それに?」
「多分、私と治樹さんの仲は、私の両親に反対されると思うから……」
「え……、マジで? 今時そんなことある?」
さやかは眉をひそめた。それが昭和の話ならあり得るかもしれないけれど、令和に今になってそんなことがあるんだろうか?
「私は一人娘なんですもの。父としては、跡取りとなる婿養子がほしいはずなの。でも、治樹さんは長男ですし――」
「跡取り……ねぇ。あんたも家の犠牲者なワケだ」
さやかの家は小さな会社だからそうでもないけれど、辺唐院家のような資産家一族には、未だに古臭いしきたりやら何やらが根深く残っているらしい。
「まあ、ウチはお兄ちゃんが長男だから継がなきゃいけないってこともないだろうしさ。お兄ちゃんさえよければ入り婿もいいと思うんだけどねー」
そもそも、治樹さんには家業を継ぐ気がないらしいので、それこそ本人の意思次第だろう。
「お父さんは継いでほしいみたいだけどね。まあ、ウチのことは気にしないでさ、珠莉は両親の説得頑張ってみなよ。別に今すぐ結婚するとかって話じゃないんだしさ」
結婚となれば、両家の問題になってくるけれど。まだ恋愛の段階でいちいちうるさく言われたら、珠莉だってウンザリだろう。
「……そうね。まあ、頑張ってはみますけど」
「うん。わたしも応援するよ、珠莉ちゃん。純也さんだってきっと味方になってくれると思うよ」
愛美も援護した。同じ一族の純也さんも味方になってくれるのなら、珠莉にとってこれほど心強いことはないはずである。
「ありがとう、愛美さん、さやかさん。私は本当に、いい親友に恵まれましたわ!」
珠莉がやっと笑顔になったので、愛美もさやかもホッとした。何だか、部屋の中の空気も少し穏やかになったようだ。
(どうか、珠莉ちゃんの恋もうまくいきますように! ご両親がどうか折れて下さいますように!)
愛美は珠莉と治樹さんの幸せを、心から祈っていた。
* * * *
――夕食後。愛美は考えていた通り、〝あしながおじさん〟に手紙を認めた。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
わたし、今年の冬休みは埼玉のさやかちゃんのお家じゃなくて、東京にある珠莉ちゃんのお家で過ごすことになりました。
珠莉ちゃんが招待してくれたんです。「我が家にいらっしゃいよ」って。
さやかちゃんは残念がってましたけど、「やっぱり埼玉より東京の方がいいよね」って、最後には折れてくれました。
だって、東京には純也さんもいるから! でも、彼はご家族と仲がよくないって聞いてたので、この冬もご実家に帰られるかどうかは分かりませんでした。
で、彼に電話してみたら、わたしが行くならたまには実家に帰ってみようかなって。家族とうまくやれるかどうかは分からないけど、もしわたしに何かあった時には盾になるって言ってくれました。
本当は、わたしもあんな大きなお屋敷に行くのは気がひけるんですけど。純也さんもいてくれるなら心強いです。
ところでおじさま、珠莉ちゃんのお家に行くにあたって、わたしには困ってることがあるんです。それは、あのお屋敷で開かれるクリスマスパーティーのドレスコードなの!
わたし、そんな立派なパーティーに着て行けるようなドレスなんか持ってないし、お小遣いで買えるようなものでもないし……。
そこで、おじさまに初めてのおねだりしちゃいます! わたしのために、ドレスとか靴とか、パーティー出席のために必要なものをそろえて下さいませんか? おじさまのセンスにお任せしますから。
もし、おじさまが「それならやめた方がいい」っておっしゃるなら、わたしは珠莉ちゃんのお家じゃなくてさやかちゃんのお家に行くつもりです。でも、珠莉ちゃんのお家に行くのに賛成して下さるなら、どうかわたしのお願いを聞いてくれませんか?
まだ日にちに余裕はあります。わたし、待ってますから。
十一月二十八日 愛美 』
****
書き終えた手紙を読み返し、愛美は思わず吹き出した。
「この手紙ってなんか、圧がスゴいな。念押ししてるみたい」
相手が純也さんだと分かっているから、お願いしている部分以外は彼と電話で話したことの再確認みたいな内容になっている。――たとえば、「『盾になってくれる』って言ってたよね?」みたいな。
愛美は他人行儀に書いたつもりだけれど、読む側はドキッとするんじゃないだろうか。
* * * *
――あの手紙を投函してから数日後。愛美宛てにたくさんの荷物が届いた。
送り主はすべて田中太郎氏。つまり、〝あしながおじさん〟だ。
「愛美……、これってもしかしてアレ?」
受け取った愛美自身が全部部屋に運び込んだところで、さやかがあんぐり顔で訊ねた。
「うん、そうみたいだね。まさかこんなにたくさん届くとは思ってなかったけど」
この荷物の量を見て、誰より愛美自身が驚いた。
珠莉から「どうせなら、パーティーに出るのに必要なものを一式おねだりしちゃいなさい」と唆され、手紙にも冗談のつもりでその通りに書いたけれど、まさか本当に一式そろえて送ってくれるなんて……!
「さやかちゃん、珠莉ちゃん。一人で開けるの大変だから、申し訳ないんだけど手伝ってもらっていいかな?」
愛美は親友二人にお願いした。この日が週末で、三人とも部活がない日でよかったと思う。
「はいはい、よくってよ」
「オッケー☆ 任せなさい」
三人で手分けして、大小合わせて六つある包みを開けていく。
一番大きな箱からは、シックなデザインの大人っぽいワインレッドのカクテルドレスと一通の手紙が出てきた。
「『相川愛美様。メリークリスマス!……』」
愛美が声に出して読み始めた手紙には、こう書かれていた。いつもと同じ、パソコンで書かれた秘書の久留島さんからの手紙である。
****
『相川愛美様。
Merry Christmas! 今年も、ボスからのクリスマスプレゼントをお送り致します。
今年はあなたからリクエストがあったそうで、ボスもあなたにお似合いになりそうな品々を一生懸命選びました。喜んでいただければ幸いでございます。
これらの品をお召しになり、楽しいクリスマスパーティーをお過ごし下さいませ。
久留島栄吉 』
****
「おじさま、わたしのために一生懸命悩んでくれたんだって」
「へえ……。よかったじゃん、愛美! アンタ愛されてるね」
「うん」
保護者としても、恋人としても、〝彼〟は愛美のことを本当に大事に思ってくれていると分かる。
「――あら、このドレス、ステキじゃない? おじさまはセンスがよくていらっしゃるわ」
珠莉が愛美に広げて見せたのは、オーバルネックで七分袖のワインレッドのドレス。丈は膝丈で、花の模様が編み込まれた袖はバルーン仕立てで透け感のあるレース生地になっている。
ウエストではなく胸の下で切り替えが入ったデザインで、エレガントすぎず、それでいて子供っぽすぎない。小柄な愛美にはよく似合いそうだ。
「あっ、こっちは靴と……黒のストッキングだよ」
「あら、それ! 有名ブランドの高級なストッキングよ。私も愛用してるのよ」
「えっ、そうなの? おじさま、そんなものにまで気を遣ってくれたんだ」
ストッキングにもブランドものがあるなんて、愛美はまったく知らなかった。
確かに、コンビニなどでも買えるようなストッキングとは、肌触りが全然違う。それでいて丈夫そうである。
靴もハイブランドのもののようで、上品なダークレッドのパンプス。ヒールは少し高め。これくらいの高さだったら、愛美も履くのは怖くない。
「こっちはアクセサリーかな? ……わあ、可愛いネックレス☆」
愛美が開けた細長い箱には、ハート型のシンプルなトップがついたプラチナのネックレスが入っていた。彼女はこれ見よがしな大きなアクセサリーが好きではないので、これくらい控えめなものでよかったと思う。
あと二つの包みは、クリーム色のクラッチバッグと白いファーの襟巻きだった。
「これでパーティーの準備はバッチリね、愛美さん」
「うん! スゴいなぁ、ホントに全部そろっちゃうなんて。その分、おじさまには思いっきりお金使わせちゃったみたいだけど」
〝あしながおじさん〟がここまで大盤振る舞いしてくれたのは、愛美の学費が免除になって、学校に送金する分が浮いたからかもしれないけれど。このプレゼントに使った分だけで、その金額はゆうに超えていそうだ。
「でも、きっとおじさまは愛美さんに喜んでもらいたくて、お買いになったのよ。だからあなたが責任を感じる必要はなくてよ」
「うん……。そっか、そうだね」
「そうだよ、愛美! さっそくお礼の手紙書いたげなよ。おじさま、もっと喜んでくれるよ」
「うん、そうする」
たとえ〝あしながおじさん〟の正体が純也さんでもそうじゃなくても、二人の言うことは間違っていないと愛美も思った。
だって彼は、〈わかば園〉の子供たちのためにも色々と考えて行動してくれていたから。それはきっと、今も続いているんだろう。
だから、愛美からの「ありがとう」が彼にとって、今は一番のやり甲斐になると思った。
****
『拝啓、あしながおじさん。
秘書さんが送って下さったおじさまからのクリスマスプレゼントが、今日届きました。それも、こんなにドッサリ! まさか本当に一式そろえてくれるなんて思ってませんでした!
ドレスも靴も、ネックレスもクラッチバッグもファーの襟巻きも、どれもステキです。おじさまのセンスのよさに、わたしは脱帽してます。
さらにはストッキングまで高級ブランド品なんて! わたし、珠莉ちゃんから聞くまでは、そんなものがあるなんて知らなかった……。
これなら、珠莉ちゃんのお屋敷のパーティーに出ても気後れしなくて済みそう。「施設の出だからセンスがない」なんて、セレブ臭プンプンの連中には絶対に言わせないから!
本当はね、おじさま。わたしは今回のおねだりにすごく申し訳ない気持ちになってたんです。だって、奨学金で免除された学費の分以上に、おじさまはお金をかけてくれたと思うから。
でも、珠莉ちゃんとさやかちゃんが言ってくれたの。「おじさまは、わたしに喜んでもらいたくて大金を使ったんだから、責任を感じなくていい」って。
おじさま、本当にそうなの? わたしは素直にこの厚意を受け取っていいの?
優しいおじさま、今回はわたしのワガママを聞いてくれて、本当にありがとう。ちょっと甘やかしすぎかな、とは思いますけど……。
わたし、〈わかば園〉の毎年のクリスマス会の時、どの理事さんが気前よくプレゼントを用意して下さってたか分かった気がします。だって、これだけ太っ腹な(あっ! 体型のこと言ってるんじゃないですよ)理事さんは、わたしが思いつく限りたった一人だけですもん。
おじさま、もう一度言います。ありがとう! そして少し早いですけどメリークリスマス!
今年のクリスマス会の時、園長先生や職員さんたち、子供たちによろしくお伝えください。「愛美お姉ちゃんは元気でやってるよ」って。
十二月三日 愛美 』
****
(――たまには、わたしからもおじさまに、何かプレゼント送りたいな……)
手紙を書き終えてから、愛美はふと考えた。でも、男性に何を贈っていいのか分からないし、気を遣わせるのも申し訳ないし……。
「…………まあいっか。今回はとりあえず手紙だけで」
二月には男女にとっての一大イベント、バレンタインデーがあることだし。今年のバレンタインデーは、インフルエンザのせいでそれどころじゃなかったので、来年こそはと愛美は誓った。
(だって今度は、二人が恋人同士になって初めてのバレンタインデーだもん!)
愛しい純也さんには、辺唐院家のお屋敷で会える。プレゼントは用意しなくても、一緒にクリスマスを過ごせたら彼はそれだけで十分満足してくれるだろう。
準備は整った。あとは期末テストを無事に乗り切って、冬休みを待つだけだ――。
* * * *
――そして、無事に期末テストも終わった。
愛美は今回も学年で五位以内に入る成績を修め、さやかと珠莉も前回の中間テストより順位を上げた。
「やっぱり、冬休みは何の心配ごともなくめいっぱい楽しみたいもんね」
テスト前、さやかはそう言っていた。愛美も珠莉も気持ちは同じだったので、テスト勉強にも俄然やる気が出たのだ。
そして……。
――あと二週間ほどで冬休みに入る、短縮授業期間のある日の午後。
「――相川先生、次回作についてなんですが……」
「はい」
新横浜駅前のカフェで、愛美は担当編集者の岡部さんと向かい合っていた。
「先生もそろそろ、長編書下ろしに挑戦してみませんか? 誌面への掲載ではなくて、単行本として出版することになりますが」
三十代半ばくらいの岡部さんは、ホットのブラックコーヒーをふぅふぅ言いながら飲み、そう切り出した。彼は猫舌らしい。
「えっ、長編?」
こちらは猫舌ではない愛美は、ホットのカフェラテを飲もうとして、カップを手にしたまま目を見開いた。
「はい、長編です。短編ばかり書いてても、先生も張り合いがないでしょうし。目指すところはやっぱりそこなんじゃないかと思いまして」
「そうですね……、やっぱり本は出したいかな。わたしの夢を応援してくれてる人たちの目に留まるのは、雑誌より単行本の方がいいですから」
愛美はラテをすすりながら、聡美園長や純也さん、さやかや珠莉の顔を思い浮かべる。そして、彼らが自分の著書を手に取って微笑む姿を。
「そうでしょう? まあ、出版は急ぎませんので、まずは一作お書きになってみて下さい。それまでの間は、これまで通りに短編のお仕事も並行して続けて頂くという形でいいでしょうか?」
「はい、大丈夫です。やってみます」
「学業の方もあるのに、本当に大丈夫ですか?」
ましてや、愛美は奨学生なのだ。もちろん、彼もそのことを知っているからこその心配である。
「大丈夫。できます!」
せっかく与えられたチャンスを逃してなるものか! とばかりに、愛美はもう一度頷いた。
「……分かりました。もう、先生には負けましたよ! それじゃ、題材は自由ですので、先生が『書きたい』と思われた題材で書いて下さい。取材もご自分で」
「はい。任せて下さい」
「ですが、あんまりムリはしないように。いいですね? 先生の本業は、あくまでも高校生なんですから」
「分かってます。――あの、お会計はわたしが」
愛美が伝票を取ろうとすると、岡部さんが「待った」をかけた。
「いえ、いいですよ。僕が持ちます。後から経費で落としますから」
「……ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて」
愛美は素直に引き下がる。
このごろは、誰かに甘えることにあまり罪悪感を覚えなくなった自分がいる。それは、やっぱり純也さんとの出会いと関係があるんだろうか。
(そういえば、純也さんに初めて会った時は、お茶をおごってもらうのが申し訳ないって思ってたのになぁ……)
あれからまだ一年半ほどしか経っていないというのに、人というのは変われば変わるものだ。
あの頃はまだ、養護施設出身だという自分の境遇に多少は負い目を感じていたのかもしれない。それがなくなってきたということは、だいぶ一般社会に溶け込んできたということだともいえる。
自分には、甘えられる相手がいる。だから、片意地はって突っ張る必要はないんだ、と。
「――それじゃ、失礼します」
まだ昼下がりで外は明るいけれど、早く寮に帰って親友二人にこのことを知らせたい。電話でもメッセージでもなく、顔を見て。
「今日はわざわざ横浜まで来て頂いて、いいお話まで頂いてありがとうございました。東京まで気をつけて。――編集者さんって大変ですね」
「いえいえ! 仕事ですから。それじゃ、また短編の仕事の時に」
「はい」
店を出たところで岡部さんと別れた愛美は、学校のある方へウキウキしながら歩き始めた。途中、スキップなんかしながら。
「こんなに早く、本を出す機会に恵まれるとは思わなかったなぁ♪ ……あ、そうだ!」
愛美は初めて書く長編小説の題材を閃いた。
「現代版『華麗なる一族』なんてどうだろう? なんか面白いかも♪」
大都会の社交界で繰り広げられる、セレブ一族の物語。愛美とは住む世界が違う人々の暮らしぶりや人間関係を、小説にしようと思い立ったのだ。
「珠莉ちゃんのお家にいる間に、色々お話聞いて取材しよう。純也さんにもお話聞けたらいいな」
主人公はセレブ一家に生まれ育ったけれど、その家族や親せきと折り合いのつかない青年。自立心と正義感が強い彼は、自分の手で自分の人生を切り開いていく――。
「……うん、いいかも」
大まかなストーリーはできつつある。あとは取材を重ねて、それにしっかり肉付けしてキチンとプロットを作れば原稿は書けるはず。
(わたしの書いた本が、ついに本屋さんに……)
その光景を想像するだけでワクワクする。しかもそれはベストセラーになって、次々と重版がかかるのだ。
そして、ついには有名な文学賞の候補になったりなんかして……。
(……おっと! 妄想が膨らみすぎた。まずは書かなきゃ始まんないよね)
まだ書いてもいない段階でここまで想像しても、〝捕らぬ狸の皮算用〟でしかない。
「よしっ、頑張るぞー! 愛美、ファイト! おー!」
自分に発破をかけ、愛美は寮へと帰っていった。
* * * *
「――ただいま!」
部屋に帰ると、今日はさやかも珠莉も部屋にいた。珍しく、二人で仲よくTVドラマの再放送を観ている。
「あー、愛美。お帰り。このドラマ面白いよ。愛美も観る?」
「こういう低俗なドラマは私の好みじゃないんですけど、これには私もハマってしまいましたのよ」
この二人の趣味が合うなんて、珍しいこともあるものだ。入学当時は性格も考え方も何もかも正反対の二人だと思っていたのに。
人というのは、一年半以上も付き合っていると変わるものなんだと愛美は思った。
「……うん。あーでも、二人に聞いてほしい話があって」
「うん、なになに?」
さやかは愛美の話に耳を傾けることにしたようで、リモコンでTVの電源を落とした。
「あのね、わたしいよいよ、単行本を出してもらえることになったの!」
「えっ、ウソ? よかったじゃん、愛美!」
「うんっ! 今日ね、担当の編集者さんに『大事な話がある』って呼び出されて。でね、行ってみたら『今度、長編小説を書いてみませんか?』って」
「あらあら。長編なんてスゴいじゃありませんの! では、それが本になって出版されるということですのね?」
このビッグニュースには、さやかはもちろんのこと、珠莉も喜んでくれた。
「ただ、いつ刊行されるかはまだ分かんないの。とりあえず一作書いてみて、その出来ばえで考える、みたいな感じで。でも、その間には並行して短編のお仕事も続けさせてもらえるみたい」
「じゃあ、長編より短編集が先に出る可能性もあるワケだね」
愛美もそこまでは考えていなかったので、さやかの指摘は目からウロコだった。
「……あ、そうなるかも。でも、どっちにしても嬉しいな。わたしの書いた小説が本になるなんて!」
「あたしも嬉しい! もう書く題材は決まってんの?」
「うん。純也さんをモデルにして、現代版の『華麗なる一族』みたいなのを書けたらいいなーって思ってるんだ。だからね、冬休みの間に珠莉ちゃんのおウチとか、セレブの世界を取材するつもりなの。珠莉ちゃんも協力してね」
「……ええ、いいけど。私の家なんて取材しても、あまり参考にはならないんじゃないかしら。私はあまりお勧めできなくてよ」
かなり乗り気な愛美とは対照的に、珠莉はこの案に消極的だった。
「純也叔父さまだって、どう思われるか分かりませんわ」
「……もしかして、珠莉ちゃんも自分のお家のこと好きじゃないの?」
以前、純也さんは親戚と反りが合わなくて家に寄り付かないと言っていたけれど。珠莉も彼と同じなんだろうか?
「ええ、あんな家、好きじゃありませんわ。私は生れてくる家を間違えたんですの」
「…………」
悲しげにそう吐き捨てる珠莉に、愛美は胸が締め付けられる思いがした。
愛美自身は施設出身だから、家族というものがあまりよく分からない。でも、少なくともさやかの一家はみんな仲がよくて(よすぎる、といってもいいかもしれない)、すごく温かい家庭だなぁと思っている。
自分の生まれ育った家や家族のことを「好きじゃない」という人がいるなんて、純也さんに出会うまでは思いもしなかったのだ。
「それってさぁ、親ガチャでハズレ引いちゃった、みたいなこと?」
さやかが思いっきり今時な言い方に変換した。これなら愛美にも分かりやすい。
「そういう意味では、さやかちゃんは大当たりだったってことだよね。ご両親はどっちもいい人だし、おばあちゃまも優しいし、兄妹仲もすごくいいし」
牧村家は愛美の理想とする家庭だ。もし自分の両親が健在だったら、きっと相川家も牧村家みたいな家庭になっていただろう。
「はぁ、そうですの? 私もさやかさんのお家みたいな家庭に生まれればよかったのに」
これには、珠莉がますます落ち込んでしまった。
「私は幼い頃からずっと、父と母の愛情を感じたことなんて一度もありませんでしたわ。いつも私の意思より世間体ばかり優先されて」
「でも、珠莉ちゃんには純也さんっていうステキな叔父さまがいるじゃない! それだけでも救いにはなると思うなぁ、わたし」
愛美はさりげなくフォローを入れる。似たような境遇の叔父がいるなら、珠莉も肩身の狭い思いをせずに済むだろう。
「モデルになりたいっていう珠莉ちゃんの夢、純也さんならきっと理解して応援してくれるよ」
(だって彼は、わたしの夢も全力で応援してくれてるから)
愛美の「小説家になりたい」という夢の後押しを最初にしてくれたのが、〝あしながおじさん〟――純也さんだったのだから。
「……ええ、そうですわね」
「ちょっと待って! 今の話、あたし初耳なんだけど。珠莉、あんたモデルになりたいワケ?」
「あ……、そういえばさやかちゃんは知らなかったんだよね」
珠莉がさやかに話していなかったことが、愛美にはちょっと意外だったけれど。まぁ、この二人の関係はこんなものだろう。
「愛美は知ってたの? っていうかいつ聞いたの、その話」
「夏休みの初日、新横浜まで地下鉄で一緒になったからその時に」
「マジでー!? なんで愛美も教えてくんなかったのさ!? 知らなかったのあたしだけじゃん! 水臭いって!」
「ゴメンねー、さやかちゃん。わたしも色々あってバタバタしてたから言いそびれちゃって。珠莉ちゃん本人から聞いてるとばっかり」
愛美は結果的にのけ者になってしまっていた親友に、手を合わせて謝った。
〝色々〟とは作家デビューが決まったり、純也さんとの恋が実ったり、奨学金の申請が通ったり、そりゃまぁ色々である。
「あたし、あんたのノロケ話よりそっちの話がもっと聞きたかったよ。っていうか二人とも立派な夢とか目標があって、あたし正直羨ましい。あたしにはそういうの、何もないもん」
「えっ、そうなの?」
これには愛美もビックリした。さやかは陸上部でバリバリやっているアスリートだから、当然「オリンピックに出たい」とか高い目標を掲げていると思っていたのだ。
「でも陸上頑張ってるじゃない。それで世界目指したいとか思わないの?」
「それは部活だからだよ。大学に進んでからも続けようとは思ってない。どっちみちあたしの実力じゃ、世界に太刀打ちなんかできっこないもん。結局のところは大学出てからフツーに就職して、フツーに結婚するのがオチなんじゃないかな」
「そんな、夢も希望もない……」
呟きながら、愛美は考える。立派な夢があるのに両親に反対されているであろう珠莉と、家族には恵まれているけれど特にこれといった夢も目標も持っていないさやかはどっちが幸せで、どっちが不幸なんだろう、と。
「――ところで、両親の愛情に恵まれなかった子って、わたしが育った施設にもいたんだよね」
珠莉の話で、愛美はふと〈わかば園〉にいた小谷涼介のことを思い出した。
「そりゃまぁいるだろうね。愛美みたいに親のいない子だけじゃなくて、色んな事情のある子が来るところなワケでしょ?」
「うん。その子、わたしの二つ年下の男の子なんだけど。その子ね、実のご両親から育児放棄されて保護されてきた子だったの。自分が産んだ子供を育てるのを放棄する親ってどうなの? 育てられないなら産まなきゃよかったじゃない、って園長先生もカンカンに怒ってた」
「へぇ……。世の中にはそんな親もいるんだね。それこそ親ガチャ大ハズレじゃん。っていうか、それと珠莉のこととどんな関係が?」
「あー、うん。夏に純也さんから聞いたから。彼のお母さまは進んで子育てをするような人じゃなかったって。だから今でも元家政婦さんのこと、実の母親以上にお母さんだと思ってるみたい」
「あら、お祖母さまもそうでしたのね。私の母もそうですわ。娘である私のことより社交界でのお付き合いだとか、世間体ばかり気にしてらっしゃって。叔父さまにとっての祖母がそうだったように、私にとっての母も〝遺伝子上の母〟でしかないの」
「…………」
ということは、彼女も実質乳母とかベビーシッターさんに育てられたということだろうか。
「へぇ…………、今時いるんだそんな親。っていうかセレブの世界ではそれが当たり前なの?」
「いえ、違う……と思いますわ。わが一族が普通じゃないだけでしょう」
施設育ちの愛美はもちろん、ごく一般的な家庭に育ったさやかにもそのセレブ独特な考え方は理解できなかった。
「……で、話戻すけどさ。その男の子が何だって?」
「あ、そうそう。その子のご両親ね、園長先生にお説教されて改心したはいいんだけど、今度はその子に逢いたいってちょくちょく園を訪ねてくるようになったの。自分たちで育てるのを放棄したくせに勝手でしょ? でも、ご両親のこと恨んでるその子は一度も会いたがらなかったんだけど」
「だろうね」
「その子今中三で、高校に進学させるためにご両親がまた無理矢理引き取りに行くんじゃないかってわたし心配で。夏休みにね、その子のことでおじさまにお願いしたの」
「お願いしたって何を?」
「その子が困ってたら、味方になってあげてほしいって。あと、できればその子の里親になってくれそうなご夫婦を探してみてくれませんか、って」
もう十二月。そろそろ進路が決まる頃なので、〝あしながおじさん〟から連絡が来てもいいと思うのだけれど……。
さやかも同じ気持ちだったらしく、ハッとしてこんなことを言った。
「だとしたらさ、もう引き取り手決まってないとヤバいよね」
「うん。おじさまか秘書の人から、そろそろ連絡来ると思うんだけど。――わたし郵便受け見るの忘れてたから、ちょっと見てくるね!」
「あ、待って待って! あたしも付き合うよ」
「私も一緒に参りますわ」
――というわけで、愛美は親友二人と一緒に郵便受けの確認に行った。すると……。
「――あ、手紙が来てる。おじさまの秘書さんから」
「やっぱ来てたねー。どうする、ここで開けてみる?」
「ううん、部屋に戻ってから開けるよ」
愛美は早く内容を確かめたくて、早足で部屋に戻ると急いで手紙を開封した。
****
『相川愛美様。
あなたからお願いされておりました件で、ボスよりご伝言がございます。
〈わかば園〉の小谷涼介様の件でございますが、静岡にお住まいのご親切な夫妻に養子として迎えられたそうでございます。
そのご夫妻はボスの古くからの知り合いでございまして、長年の不妊治療の甲斐もなくお子様に恵まれなかったようです。
そこで、ボスから「養子を迎えるお気持ちはありませんか」と提案したところ快諾し、実際にお目にかかってみて引き取りをお決めになったそうでございます。
涼介様はご夫妻の計らいで、静岡県にありますサッカー強豪校へスポーツ推薦枠で進学することが決まったそうでございます。
ご報告が遅くなってしまい、申し訳ございません。きちんと決まってからお知らせした方が、愛美様も安心されるだろうとボスが申しておりましたもので。
心優しいあなたのお願いを、ボスも私も微笑ましく思っております。もうじき冬休みでございますね。どうぞ有意義にお過ごし下さいませ。
久留島 栄吉』
****
「――よかった……」
手紙を読み終えた愛美はホッとした。おじさまは――大好きな純也さんは、愛美の願いをちゃんと聞き入れてくれて、しかもいちばん安心できる方法で問題を解決してくれたのだ。
「ホントよかったね、愛美。あんたこの子のこと心配してたんでしょ? これでやっと安心して冬休み迎えられるし、執筆にも集中できるじゃん」
「執筆はともかく、冬休みはあまり安心できないかもしれませんわよ。……お誘いした私が言うのも何ですけど」
珠莉がそこまで言うのだから、辺唐院家は本当におかしな家だということだろうか。
これから書こうとしている小説の元ネタ、山崎豊子の『華麗なる一族』は文庫本を持っているけれど、読んだのがだいぶ前だったので詳しい内容までは愛美も憶えていない。
「……わたし、夕食前にちょっと『華麗なる一族』の本を読み直してみる」
「えっ、今から!? あれって確か相当長かったような」
「うん。一度には読み切れないから、毎日少しずつ読むの」
愛美はそう言うと、自分の本棚から分厚い文庫本を引っぱり出してページをめくり始めた――。
****
『拝啓、あしながおじさん。
お元気ですか? わたしは今日も元気です。
二学期の期末テストも無事終わって、わたしは今回も学年で三位になりました! 奨学生としてちゃんと勉強を頑張ってます。そして、作家としての活動も次のステップへ進もうとしてます。そのことはまた後で書きますね。
まず、おじさまにお礼を言わないと。小谷涼介君のこと、どうもありがとうございました。今日、秘書の久留島さんからお手紙が来てました。
リョウちゃんは静岡に住む優しいご夫婦に養子として迎えられて、しかも静岡のサッカー強豪校に推薦で進めるんですよね。おじさまが直接お願いしてくれたって、久留島さんからの手紙に書いてありました。
お子さんに恵まれなかったご夫婦ならきっとリョウちゃんのことを大事にして下さるだろうし、リョウちゃんも大好きなサッカーに打ち込めるし、わたしが望んだいちばん最高の形になって、わたしも嬉しいです。本当にありがとう、おじさま!
さて、ここからが本題です。わたし、この度長編小説を書くことになりました! この小説は書き下ろし作品として刊行される予定です。もしかしたら短編集が先に刊行されるかもしれませんけど。
今日の午後、わたしの担当編集者さんが横浜まで来てくれて、このお話を打診してくれたんです。もちろんこれまでどおりに短編のお仕事もあって、その原稿料ももらえて、書籍が刊行されれば印税も入ります。題材もわたしに任せてもらえるそうです。
で、わたしが選んだ題材は「令和版・『華麗なる一族』」。セレブの一族で育ったけど家族や親せきと折り合いのつかない青年が、自分自身の手で自分の人生を切り開いていく、というストーリーにしようと思ってます。
このヒーロー像、誰かさんに似てると思いませんか? そう、純也さんがモデルなんです! 彼の生き方とかって、小説の題材に持って来いじゃないですか?
ちょうど冬休みに珠莉ちゃんのお家でお世話になるし、純也さんも今年の冬は実家に帰るって言ってくれてるので、めくるめくセレブの世界について色々取材しようかな、って。
珠莉ちゃんも純也さんも、自分が生まれ育ったお家のこと好きじゃないみたい。ご両親の愛情を感じたことがほとんどないって言うんです。さやかちゃんはそのことを「親ガチャでハズレを引いた」って表現してます。おじさま、「親ガチャ」って言葉は知ってましたか?
子供は親を選べないから、どんな親の元に生まれてきても文句は言えないんでしょうか? そういう意味では、リョウちゃんも「親ガチャに外れた」一人ってことになりますよね。もっといいご両親の子供として生まれてたら、ネグレクトなんて受けなくて済んだのに。
わたしは両親のことをほとんど知らされてないけど、多分親ガチャには外れてなかったと思います。でも今回のことがあって、自分の両親のことをもっとよく知りたいって思うようになりました。いつか〈わかば園〉に帰って、園長先生から詳しいお話が聞けたらいいな。
もうすぐ冬休みです。おじさまもどうかお体に気をつけていい年末年始をお過ごし下さい。 かしこ
十二月十九日 長編執筆に張り切ってる愛美』
****
冬休みin東京
――そして、二学期終業式の日の午後。
「さやかちゃん、治樹さんたちによろしくね。よいお年を!」
「うん、ちゃんと伝えとくよ。愛美もよいお年を」
「さやかさん、治樹さんに連絡を下さるようお伝え下さいな」
「分かった。それも伝えとくから。っていうか珠莉、自分で伝えなよー」
双葉寮のエントランスで、愛美と珠莉はさやかと別れた。さやかは電車で埼玉の実家に帰るけれど、二人には珠莉の実家から迎えの車が来ることになっているのだ。
「――あ、辺唐院さん。お迎えが来たみたいよ」
寮母の晴美さんが、玄関前に停まった一台の高級リムジンに気がついて珠莉に声をかけた。
「あら、ホント。じゃあ愛美さん、行きましょうね」
「うん」
運転席から降りてきたのは五十代~六十代くらいの穏やかそうな男の人で、珠莉の姿を認めると深々と彼女に頭を下げた。
「――珠莉お嬢様、旦那様と奥様のお言いつけどおりお迎えに上がりました。……そちらのお嬢さんは?」
「ありがとう、平泉。彼女は相川愛美さん。私のお友達よ」
「お嬢様のお友達でございましたか。これは失礼を致しました。わたくしは辺唐院家の執事兼運転手の平泉でございます。ささ、どうぞ後部座席にお乗り下さいませ」
「あ……、ありがとうございます。失礼します」
愛美はちょっと緊張しながら、珠莉は悠然と車に乗り込んだ。
(わぁ……、すごく豪華な車。施設で空想してたリムジンの中ってこんな風になってたんだ)
広々とした車内、ゆったりとした対面式のフカフカのシートは座り心地もバツグン。
あの頃空想して楽しんでいた「リムジンに乗るお嬢様」が、今目の前にいる珠莉と重なって見える。
「……どうしましたの? 愛美さん」
まじまじと物珍しく眺めていたら、珠莉と目が合ってしまった。首を傾げられて、愛美はちょっと気まずくなった。
「あ、ううん。施設にいた頃にね、ちょうど今みたいな状況を空想して遊んでたなぁって。珠莉ちゃん見てて思い出したの」
「あら、そうでしたの。愛美さんの空想好きは昔からでしたのね。ホント、作家になるために生まれてきたような人ね、あなたは」
「珠莉ちゃん……、それって褒めてる? 貶してる?」
珠莉のコメントはどちらとも取れる言い方だったため、愛美は念のため確かめた。
「もちろん褒めてるのよ。私は感心してるの。周りの意見に振り回されることなく自分のやりたいことに真っ直ぐなあなたが羨ましいのよ、私は」
「珠莉ちゃん……。ねえ、お父さんとお母さんにモデルになる夢の話してなかったんだよね?」
「ええ。話したところでどうせ反対されるのが目に見えてますもの」
「そっか。じゃあこの際、純也さんがいる前で話してみるのは? わたしからも彼にお願いしてみるから。珠莉ちゃんの味方してくれるように」
愛美はここぞとばかりに珠莉を勇気づけた。〝あしながおじさん〟として愛美の夢を応援し、色々と尽力してくれている彼だ。多少なりとも自分の血を分けた姪の夢のためにも色々と根回しやバックアップをしてくれると思う。
「純也叔父さまねぇ……。そりゃあ、叔父さまが味方について下されば私も心強いですけれど」
「きっと大丈夫! 純也さんは夢のために努力してる人を絶対に見捨てないもん。わたしとかリョウちゃんの時みたいに」
心配そうに眉をひそめた珠莉の背中を、愛美は優しくポンポン叩いた。いつもはキリッとしていて自信満々に見える彼女も、こういう時は小さく弱々しく見える。
「…………まぁ、お父さまはそれで折れて下さるかもしれないけれど。問題はお母さまの方なのよ。あとお祖母さまも。あの人たちは世間体と見栄だけで生きているようなところがあるから。『モデルになりたいなんて|体|裁が悪い』とか言われそうだわ」
「体裁とか、そんなこと関係ないよね。珠莉ちゃんのお母さんって、そもそも我が子に関心なさそう。純也さんも言ってたけど」
千藤農園で一緒に過ごした夏休み、彼も自分の母親――珠莉の祖母だ――のことを同じように言っていて、愛美はすごく心を痛めたのだった。
「純也叔父さまも……? そうね、お母さまとお祖母さまは似た者同士だったから、お祖母さまに気に入られたのかもしれないわ。お祖母さまが望まれるままにお父さまと結婚して、私を産んだ。でも私が女の子だったから、関心を無くされたのね。……結局、私も祖母や両親の望み通り、婿を迎えるしかないのかしら、って思っていたの」
「……珠莉ちゃん、わたしもね、施設にいる頃には思ってたんだ。わたしはこの先、高校を出るまでここにいて、弟妹たちのお世話や施設のことをしながら学校に通って、卒業したらお金のためだけに働く人生が待ってるんだろうな、って。人生なんて自分の思い通りになるもんじゃないんだ、って。……でもね、〝あしながおじさん〟が援助してくれるって分かった時、園長先生に言われたの」
「……何て言われたんですの?」
「『あなたの人生なんだから、これからはあなたの夢のために生きなさい』って。私も田中さん……おじさまも、ずっと応援してるから、ってね。だから、珠莉ちゃんの人生だってそうだよ。わたしもさやかちゃんも、純也さんだって珠莉ちゃんの夢、応援してるから。珠莉ちゃんも自分の夢のために、自分の人生を生きなよ」
その言葉を聞いて、珠莉の表情がパッと明るくなった。
「『自分の人生』……ね。そうかもしれないわ。たとえ親でも、個人の夢を理不尽に奪っていいはずがないもの。家のために自分のやりたいことを犠牲にするなんて、今の時代ナンセンスよね。――その園長先生、とてもいいことおっしゃったわ」
「でしょ? その言葉にわたしもすごく勇気づけられたの。だから、純也さんに相談してみよう? わたしも一緒にお願いしてあげるから」
「ええ、そうするわ。ありがとう、愛美さん。私、あなたを見直しましたわ」
「うん、一緒に頑張ろ! ……でも珠莉ちゃん、『見直した』はないんじゃない? わたし今までどんな人だと思われてたの?」
「あら失礼! 今のは失言でしたわね、ホホホホ」
憎まれ口が飛び出すあたり、珠莉はすっかり普段の彼女に戻ったようで、愛美はちょっとだけムッとしたけれど安心した。
(よかった、この調子なら大丈夫そう)
「――あのですね、珠莉お嬢様。先ほどのお話ですが」
「なぁに、平泉?」
これまで運転に専念していた執事が、二人の会話に割り込んできた。
「わたくしも純也坊っちゃまと同じく、珠莉お嬢様の味方でございますから。……旦那様と奥さまの手前、表立っては申し上げられませんが、そのことはぜひ憶えておいて頂きたく、僭越ながら口を挟ませて頂きました」
「平泉、あなた……」
珠莉は目を丸くした。この執事もきっと両親に従順だから、彼らと同じく夢を反対しているのだと思っていたので、今の発言が意外だったからだろう。
「平泉さん、いつも珠莉ちゃんのご両親の前では〝すん〟としてるんだよ。ホントは珠莉ちゃんの背中を押してあげたいのに、健気だよねー」
施設で育ち、自分の家がない愛美には使用人の苦労というものが想像できないけれど。小説家になった今、想像力を働かせることはできる。
「〝すん〟っていうのはよく分らないけど……。つまり、本心を隠していたということね。あなたも苦労しているのねぇ……。知らなかったわ」
「お気遣い、恐縮でございます。お嬢様はよいご友人に出会われましたね。高校にご入学される前よりお優しくなられました。――相川様、でございましたか」
「あ、愛美でいいですよ、平泉さん」
「では愛美様。先ほどの園長先生……でしたかのお言葉、わたくしも大変感服致しました。お嬢様のお話によれば、愛美様は施設のご出身であったことに少々コンプレックスを感じておられたとか。ですが、あなた様がお育ちになった施設は大変いいところだとお見受け致しました」
平泉さんの言い方は、愛美のことを不憫に思っているようには聞こえなかった。
世の中には悲しいかな、施設出身者に対する偏見や同情的な見方をする人もまだまだ残っている。愛美もそのことは少なからず感じてきたけれど、彼や純也さん、さやかのような人たちもいるのだ。愛美のことを〝施設出身のかわいそうな子〟ではなく、一人の人間として見てくれる人も。
「ええ、すごくいいところです。園長先生も他の先生たちも、わたしたちのことを大事にして下さって。ただ優しいだけじゃなくて、社会に出てから困らないようにって、色んなこと教えて下さいました。ゴハンも美味しかったし、イベントごとも多かったし」
「さようでございますか。きっとその施設の方たちは、園に暮らす子供たちを心から愛しておられるのでしょうね。旦那様と奥様にも見習って頂きとうございます」
彼の最後の言葉には、愛美にも分かるほどの怒りの感情が込められている。使用人にまでこんな言い方をされる辺唐院家ってどうなんだろう?
「……ねえ珠莉ちゃん、もしかして珠莉ちゃんのお父さんとお母さんって夫婦仲悪かったりする?」
「ええ。元々二人は政略結婚で、愛情なんてなかったの。だから夫婦なのに、お互いのことに興味がないのよ。私のあとに子供をつくらなかったのがその証拠ね。お母さまは私を産んだことで、ご自分の務めは終わったと思われたのよ」
「へぇ…………」
それなのに、生まれたのは娘だった。元々義務だけで結婚した夫婦だから、跡継ぎにならない子(少なくとも辺唐院家では)には愛情を注げないのだ。
「なんか……、やっぱり珠莉ちゃんのお家って変だよね。時代錯誤っていうか」
「愛美さんもそう思うわよね。戦前じゃあるまいし、って」
愛美は珠莉の話を聞いていたら、これってホントに令和の話? と首を傾げたくなる。彼女の家だけ昭和――それも第二次大戦前で時間が止まっているような感じだ。
「うん。だからこそ、余計に純也さんがリアルな今の時代の人だって思えるんだよね」
「純也坊っちゃまは独自の価値観や考えをお持ちの方でございますから。当家では『それがおかしい』と思われておりますが、わたくしは坊っちゃまの考え方こそ今の時代にふさわしいと存じております。お嬢様方が先ほどおっしゃいましたように、純也坊っちゃまを『おかしい』と思われる旦那様や奥様、大奥様の方がおかしいのでございます。……や、これは失礼を! このことは他言無用に願います」
「分かりました。わたしたちの胸の中だけに収めておきます。ね、珠莉ちゃん」
拝啓、あしながおじさん。 ~令和日本のジュディ・アボットより~