仮面ランサー
東京都中央区。
日本という国家の中心部と言っていい区域内で起こったその〝事件〟は、国内はもちろん外国にも衝撃をもって受け止められた。
五校同時襲撃事件。
襲撃。
穏当とは言えないその表現が、しかし間違いなく妥当だった。
何の前触れもない。現在に至るもなお、動機もその目的も判然としていない。犯行集団の規模すら正確なことはわかっていない。
すべてが唐突。すべてが迅速。
五つの学校の関係者は、生徒、教師、職員の区別なく悉く殺害された。
例外なく。
仮面をつけた襲撃者たちに。
一
「その例外というわけだな」
九道一(くどう・はじめ)は。
「………………」
言葉もない。といって憔悴しているわけでもない。
陰気な。
興味を持てないとでも言いたげな、力なく澱んだ眼差し。
高校生とは思えない。
若々しさを驚くほど感じさせない。
「ふぅ」
こちらも。ため息が。
「九道君」
それでも。
「何度も聞かれたことだとは思うが」
「……はい」
またか。そんな表情を隠さない。
隠す必要のないほど淡い反応ではあるが。
陰気なのだ。
「なぜ、殺されなかった」
はっと。
さすがにここまで直接的なことを聞かれたのは初めてだったのだろう。
沈んでいた視線がかすかに上がる。
「……わかりません」
それでも、こちらの目は見ないまま。
「例外だ」
くり返す。
「我々はその理由を知りたい」
「………………」
同意も否定もない。
陰鬱な沈黙。それだけが自分の言葉であるかのように。
そのまま。
最後までまともな会話が交わされることはなかった。
被害者側なのだ。
加えて、未成年でもある。
すでに来歴、生活環境などは調べ尽くされていて、一般的と言い難い部分はあっても疑義をはさむようなところもない。
手詰まりだ。
勾留などできるはずもない。
これだけの重大事件ゆえに例外がないとは言えないが、世間の反応を考えれば避けたいというのが本音だ。
そして、今日も。
ただ空しく『事情を聴いた』だけに終わった。
実際、それすらあやしいのだが。
ただ一人の例外。
それは、なぜなのか。
犯行集団と関わりがあるからではないか。そういった意見が出るのはおかしなことではなかった。
手詰まりなのだ。
白昼堂々の襲撃。しかも、集団による。
にもかかわらず、手がかりがまったくと言っていいほど集まらない。
あり得ない話だった。
監視画像は残っている。そこに犯人たちの姿も映っている。
しかし。
顔は。
誰一人として判然としない。例外なく。
年齢や背格好など、おおよそのことはわかる。現場からも痕跡は採取されており、それらから犯人を追うことは不可能でないはずだった。
いや、十分に可能なのだ。
本来なら。
つながらない。
それら大量の『証拠』の数々が。
どこの何へもつながっていかないのだ。
そこから先が、世界そのものと断線されているかのように。
つながっているのは。
唯一。
あの陰気な一人の学生なのだ。
「もしもし」
着信音。電話に出る。
「えっ」
それは。
「ちょっといい?」
答えない。
「おいおいおーい」
聞こえなかった体で。行ってしまおうとしたところに。
「いいじゃーん、ちょっとくらい」
追いすがられる。
「………………」
良くない。
知らない顔。それで十分。
知っていても、たいていは無視する。
「おい」
回りこまれる。
「良くないと思うし。そういうの」
初めて。
正面から。
細い。けれど不健康な細さではない。
逆だ。
締まっている。
鍛えられ磨かれたのがはっきりとわかる脚がスカートから伸びている。
より速く走るため。自然とそうなったという。
陸上部なのだろう。
髪はショート。
日焼けした肌も体育会らしい。
そして、断言できる。
そんな知り合いは、間違いなく自分にはいないと。
いたところで関係ないが。
「………………」
が。
正面に立たれては。
「やるな」
「?」
「………………」
自分で自分のつぶやきを黙殺する。
剣豪小説かと。
けど、実際、面倒だった。露骨に避けるのは意識しているのと同じことだ。
「キミさー」
動けないでいるところに。
「ちょっといい? って聞いてるんだから」
踏みこまれる。
「ユー、アンダスタン?」
「………………」
なぜ。
「ア……」
つられて答えそうになり。
「くっ」
目を。伏せる。
すると、存在感抜群の双脚がまた。
「ほい」
ビュッ!
「っ!?」
のけぞった。
「おま……なっ!」
動揺。自分でも引くくらい。
「『おまえ』はないよなー」
言われる。
「年下のくせに」
「えっ」
今度こそ。本当に驚く。
「………………」
整理する。
(いま、こいつ)
何をした。
(いやいやいや)
そっちのほうでなく。
いや『した』のほうも大変ではあったが。
脚を。
いきなりの跳ね上げ。
するか、こんなところで!? 道の真ん中で! 田舎じゃない東京のど真ん中で、大繁華街とは言わないまでも人通りだってちゃんとあって。
「あ、ごめん」
不意に。
「当たった?」
「え」
いまさらながらの。
「う……」
当たっては。
いや、空手家さながらの前蹴りは、確かに角度と踏みこみ次第では急所を直撃していてもおかしくなかったのだが。
「違う、違う」
ぱたぱたと。
「さすがにやらないから」
信用できない。
「こんなところで」
どんなところかでならやると。
「ただちょーっとあご先かすめて驚かそうかなって」
やるな、そんなことも。
「……り……」
たまらず。
「陸上部……かと」
「陸上部だよ」
陸上部かよ! じゃあ、何なんだよ、いまの前蹴りは!
「英語は赤点だよ」
そうなのかよ!
「まー、ノリで?」
するな!
「あ」
ちょっぴり。うれしそうに。
「見たね」
「っ」
「こっちのこと」
それは。
「く……」
どう言っていいのか。
何なんだ、この無駄に近い距離感は。
「あ、あのさ」
とにかく。この空気を何とかしたい。
反射的に口を開きかけた瞬間。
「あっ」
つかまれた。
「あ……」
歩き出す。
「お、おい」
もう完全に対応限界を超えている。そもそも、対応しなくてはならなくなる前に避けてきたというのに。
(……はあ)
なんだか。
(めんどくせ)
そして。
考えることも放棄し、ただただ手を引かれていった。
二
悲鳴。
だったはずだ。
(ん?)
と思った。いや、思ったというほどでもないが。
他にも。書き写していたノートからちらほら顔が上げられた。
板書の手も止まった。
どの顔にも困惑があった。
と思う。
ちゃんと見て確認したわけではないから。
非常ベルが鳴り響いた。
と、同時だった。
人影が。
前と後ろの扉から同時に。
乱暴に大きな音を立ててとかじゃなかった。
すっ。みたいなすみやかさで。
そこに。
立っていた。
「ふあ」
なんだか妙に間延びした声だか息だかを吐いて。
一人の男が。
男だと。少なくとも見た目の感じは。
断定はできない。
その顔には。
仮面。
緑色の。ジャングルにあるような大きな葉っぱを思わせる。
「わからなくてあるからと」
おかしなな言い回しで。
「わからないままと」
手を。真横に。
「!?」
ズバンッ!
いや、実際そんな音は聞こえなかったと思う。
頭の中の。
擬音。
(な……)
何かが。飛び出した。
それが教壇に立っていた先生の首のあたりを真横に通過した。
感じたのは、まず臭いだった。
見たのは。
「………………」
誰もが。何が起こったのかとっさにわからなかった。
飛んでいた。
それの落ちる音がした。
すでに〝本体〟からは大噴出だ。
(あー)
あの噴射の勢いで飛ばされたんだ。
乾いた頭の隅で。理解した。
引きつった。
かすれた息のようなものが聞こえた。
(あー)
またも理解する。
人間、そんな簡単に悲鳴とかあげられないものだな。
最適な行動も。
取れない。
まま。
「――!」
吹き荒れた。悲鳴。
血。
あとはただぼう然としていただけだった。
「ついたよ」
我に返った。
「あ」
軽く驚く。
いつの間にか。
隅田川を超えていた。
国技館手前の見覚えのある十四号線の交差点。
ラーメン屋らしき建物の前に。
立っていた。
手をつながれたまま。
(う……)
さすがに。
交通量の多いというか、普通に人通りのあるところで女子と手をつないでるという状況に気恥ずかしさを覚える。
それでも、こちらからはふりほどけない。
意識していると。
思われたくない。
構わず。こちらの手を引いたまま、中に入る。
ピークを過ぎたせいか、客の姿はまばらだった。それでも繁盛している店だというのは感じられる。そういう空気がある。
広くはない。カウンターが中心だ。それでも、数人の店員の姿が見え、そのことも人気店であるのをうかがわせた。
そのカウンターの端に。
いた。
ぱっと見、目を引いた。
(小さい)
第一の感想。座っているとはいえ、その小柄さは際立っていた。
そして。
(赤い)
頭が。
正確には、髪が。
不自然な着色ではない。天然なのだろう。
それが。
上下している。
じっくり。
味わいながら。
何かに納得するように、一口ごとにうなずいて。
「あー、もう食べてるー」
さっと。その隣に座る。
引っ張られ、こちらも横に座らせられる。
「………………」
おかしな緊張感。
そもそも、まともに外食なんてしたことがない。
ファーストフードだって、ほとんど入ったことがない。理由がない。米くらい炊けるし、みそ汁だって。
「あたし、レモン入りでー」
ぎょっと。
(レモン!?)
ラーメンにか! どういうリクエストだ!
(あ……)
ある! 見渡した店内の壁に、はっきり『レモン』の張り紙が。
「だめだ」
きっぱり。
「レモンはスープの味を損なう。乳化されたスープに柑橘を入れてしまうと、牛乳に同じことをしたように」
「だって、メニューにあるじゃん。あるってことはOKってことで」
「だめだ」
引かない。
「スープを味わえ。この完成された鶏白湯を。そのままを」
「味わってるよー。おいしいもん」
「味わってない。これだから体育会系は。夜中に餅をむさぼり食うようなやつらは」
「だって、食べないとやせちゃうし」
「かーっ!」
ぼさぼさの赤毛をかきむしり――こそしなかったが、食事中でなければそうしていたほどの感情のほとばしりを見せて。
静まる。
「話しかけるな。集中したい」
「はいはい」
そこに丼が運ばれてくる。
(早っ!)
ちらり。盗み見る。
湯気を立てる白いスープの上に、確かにレモンと思われるものが乗っていた。
「いただきまーす」
言うが早く。
ずるずるずるーっ。女子とは思えない、いや、体育会系らしい勢いで麺をすすり出す。
「味わって食べろ、味わって」
ぼそり言うも、すぐにまた自分が食べるほうに集中し出す。
「………………」
取り残された感。
そこに。
「何にします」
「えっ!」
聞かれる。店の人に。
「あおさ辛子」
「!?」
言われた。
「あ、ちょっ」
調理が始まった。
「………………」
あぜん。と、やはりあっという間に。
「はい、どうぞー」
置かれた。
(あおさ? 辛子?)
混乱する。
わけがわからない。
まず『あおさ』って、何だ。一度も聞いたことのない食材だ。
(食材……だよな)
おそるおそる。のぞきこむ。
「う……」
器の真ん中でドンと存在を主張している黒緑色の塊。
白いスープにとてもよく映えている。
これがおそらく『それ』だろう。
(あと)
辛子って。
探してみるも、それらしいものの影はない。
「食べないの?」
「!」
食べていた。たいらげていた。
(お、おい)
早すぎる。提供もそうだが食べ終わるのも。
「味わえと言っているのに」
ぶつぶつと。ぼやいているほうは、まだまだゆっくりじっくり堪能している。
「食べないの?」
再び。
「い、いや」
「嫌?」
「いや……」
もはや。
「………………」
箸を。手に取る。
丼のスープの中に差しこむ。
そして。
「………………」
無言で。
当たり前だ。食べつつ同時にしゃべる人間なんて。
「辛っ」
思わずの。
「だよねー、辛いよねー」
「馬鹿。それがいいんだ」
麺を食べ終えたのか。器に直接口をつけ、スープをすすり出す。
「けど、これだってスープの味変えてるし」
「引き立ててるんだ」
「レモンだって」
「それは変えてるんだ」
ゆずらない。
と、そんなことはどうでもよく。
(スープに)
辛みが。
つまり『辛子』が直接溶かしこんであった。
見た目が白いままなので、完全に不意をつかれた。
(いや、デフォルト知らないんだけど)
それでも想像することはできた。
うまい。
濃厚な鶏のうまみと甘み。
じっくり時間をかけて煮こまれたシチューを口にしているような。
というか、鶏肉そのものをすりおろしているような。
それを、辛みがぴりっと引き締めて。
おいしい。
確かに。
あおさの潮の香りもいい。
おそらく、のりのような海藻の一種なのだろう。
(って)
グルメレポーターか。
「ここはな」
スープを飲み終え。唐突に。
「あの地震の次の日に、もうやってた店なんだ」
(それは)
素直に驚く。
地震のことはまだ記憶に新しい。
コンビニから食料品が消えたところは鮮明に覚えている。
「まあ」
席を立つ。
「仕入れていた食材がもったいないってことかもしれないけど」
(いやいやいや)
それでもだ。
「ごちそうさまー」
続くようにして席を立つ。
(……え?)
ちょっと待て。
置いていくのか?
「ゆっくり食べないとだめだよー」
おい、おまえが言うなと。
「味わって食べろよ」
よけいなお世話だ!
というか誰なんだ、どっちも。
「く……」
まだ出来立てと言っていい、しかも一口しか味わってない、しかも明らかに『うまい』と言える一杯を前に。
「くっ!」
立ち上がることなんてできない。
でき得る限りすみやかに。
でありながら、言われるまでもなく味わって。
それは。
久しぶりの。
夢中になれた時間だった。
「ごちそうさま」
言って。店を出る。
「さすがに」
はっと。
「『ごちそうさま』くらいは言うんだな」
二人が。立っていた。
「………………」
何も言わないまま、背を向ける。
「錦糸町に用事か」
「っ」
「確かに、駅前の『ひむろ』はウチも好きだが」
「いやいや」
横であきれて。
「食べないよ、ラーメン食べた後でまたすぐラーメン」
「待てばいいだろ」
「待てばって」
「ドトールでも、マックでも時間をつぶす場所は」
「ないよ、ラーメン食べるためにハンバーガー食べて時間つぶすって」
「コーヒーだけだ!」
(な……)
何なんだ。いまさらながらに。
「知りたいという顔をしているな」
思わずうなずくと。
「ここは『まる玉』と言って、食べてわかるように鶏白湯という鶏をじっくり煮こんで白濁させたスープが売りで」
グルメ解説じゃない!
「安心しろ」
わかっていると。
「『ひむろ』は味噌ラーメンがメインで、特に辛みの効いたオロチョンは」
聞いてない!
「ああ、浅草や御徒町などにも支店があるが、ウチはやはり錦糸町が」
聞いてないと!
「もー」
バナナを食べつつ。
(って)
いま食べたばかりで、なんでバナナだ!
どこに持っていた!
「置いてきぼりにされてるって、完全に」
「誰だって、メシは食う」
「食うけどー」
「おまえはバナナを食う」
「主食みたいに言わないでよ!」
だから、何なんだこの二人は。
「科野詩生(さえの・しお)」
「恵仁輪(えじん・りん)」
名乗られた。
「って、おまえも言ってなかったのか」
「ひょっとしたら知ってるかもって」
「知らなかったんだろ」
「知らなかった」
「おい」
こちらを見て。
「だめだろ。知らない人についていったら」
子どもあつかいか。
子どもみたいな小ささで。
「お姉さんからの忠告だ」
「っ」
そうだ。そのことだ。
年下と。
そう言えるということは。
「警戒心がないな」
「………………」
「あんなことがあった後だというのに」
やはり。知っている。
「同じだ」
「?」
唐突な。
「ウチらも」
互いを見やり。再びこちらを見て。
「生き残りだよ」
言った。
「仮面の襲撃事件のな」
三
仮面の襲撃事件。
世間でそう言われているらしいということは知っていた。
しかし。
あの生き残りは『一人』と聞いていたはずだが。
「え?」
向こうが。逆に困惑を。
「知らなかったの」
「………………」
何を。
「一人『ずつ』なんだよ」
何が。
「キミと」
指をさされ。
「あたしとリンリン」
自分たちも。
「それぞれ」
不思議なくらい。平静な。
「三つの高校で、それぞれ一人ずつの生き残りだよ」
「………………」
すぐには。
「三つの」
「おい」
あきれた様子で。
「それも知らなかったのか」
「………………」
「そうか」
笑う。こっちを見上げ。
「悪くない」
「何がー」
こちらも苦笑気味。
「手にあまることには興味を持たない。無駄がない」
「また出たー」
やれやれと。
「いいじゃん、ちょっとくらい無駄があったって」
「無駄にする時間なんてない」
きっぱり。
「人が生きる時間は限られている。何かをできる時間も限られている」
「ごはんを食べる時間も限られている」
「その通り」
堂々と。
「人が食事をできる回数は限られている。かつ、生きている限り、物を食べるということは避けられない」
「なんか、ごはんを食べないで生きられるすごい人もいるみたいだけど」
「例外だ。ウチは、それを真似して餓死した人の話を聞いたことがあるぞ」
なんだか。
向こうだけで話が。
「おい」
見られる。
「他人事みたいな顔をしてるな」
「………………」
他人事だと。
「……な……」
口を。
「何がしたいんだよ」
「こら、年下」
指さされ。
「後輩なんだから、丁寧な言葉遣いをするように」
いまどき。
いや、体育会系はいまでも。
それでも。
「関係ない」
言い切る。
「他の学校で何があったとか」
その言葉に。
「確かに」
うなずく。
「区が同じでも、別の学校であることには変わりない」
「………………」
この一帯で。
実際。
平日に、これほど人通りが少ないのは初めてかもしれない。
複数の学校が襲われたとなれば当然で。
それでも、皆無でないところは、さすが日本の中心地にあるオフィス街であるとも言えるのだが。
「じゃあ」
背を向ける。
「明日は、神田な」
(ん?)
なんだ。
「駅だ、駅」
「………………」
何を。言われている。
「おい」
ずいと。小さな身体で迫ってくる。
「なめてるんじゃないだろうな」
「は?」
「神田を」
「………………」
どう答えろと言うのか。
「いいか!」
指をさされる。小さいくせに本当に偉そうに。
「東京の食い倒れの町は神田だ!」
「………………」
何を言えと。
「やはり、知らなかったんだな」
知らなかった。
というか、他に知っている人間はいるのか、その情報は。
「正確には、神田から神保町にかけて。いや、人形町方面も含みたいところだな」
ほぼほぼ地元周辺だ。
「何が、東京の名物はもんじゃ焼きだ。そんなもの、本当の東京人は見たことも食べたこともないぞ。悪質なデマだな」
いや、単なる地方への観光アピールだろう。
確かに、そういう『名産』が、地元の感覚無視で勝手に決められることは、他でも多いのだろうが。
大体、この辺りで駄菓子屋なんて見たことがない。
周辺部にはまだ残っていて、もんじゃ焼きなども食べていたりするのかもしれないが。
「東京の名物といえばカレーとラーメン。ああ、そばと天丼も入れたいな」
知らなかった。
「神田はそのカレーの聖地。ラーメンはここ数年新興勢力に押され気味だが、江戸前のそばと天ぷらに関してはやはり神田神保町を上回る地域はないと断言していい」
断言されても。
「ああ、うなぎも外したくないな。昔ながらの洋食や寿司も。とにかく、ありとあらゆる食のパラダイスと言っていい」
言われても。
「古書店めぐりはまだわかるが、大手出版のちゃちなショーケースなど見に来てどうする。持ちこみならまだわかるが」
わかられても。
「というわけで」
どういうわけだ。
「明日は神田だ。いいな」
「………………」
つまり。
「……明日も」
と。聞きかけて。
「錦糸町といえば『太陽のトマト麺』はあそこが本店らしいぞ」
「そうなの? 結構好きなんだけど」
「確かに、チェーン店系としては悪くないな」
すでに。
「あ……」
その背中を見送り。
(……あっ)
それは。いつ以来ぶりになるかという『約束』だった。
しかし。
そう簡単に『明日』は訪れなかった。
「おい」
羽ばたきの音。
ベランダに出る。そこにいたのは。
「うまかったか」
聞かれた。
「………………」
都心のビル街にいるはずのない。
それは。
しかし、どう見ても。
〝鷹〟だった。
四
「………………」
ひょっとしたら、鷲なのかもしれない。
トンビではないはずだ。
それは、横須賀にいたころ散々見たから。
「おい」
くりくりっと。黒く丸い目玉がこちらをねめつける。
「言うことはないのか」
「………………」
何を。
この状況で。
確かに。ここはビルの六階ではある。
高さ的には鷹が飛んできても。
(……いや)
おかしい。
「くははっ」
笑われた。
というか、鷹が笑うのか?
それ以前に、しゃべるのか!
「問題ない」
あるだろう!
「そちらが無口なのは承知している」
「……!」
承知。されている。
「鷹の目はすべてを見通す」
(やっぱり……)
鷹なのだ。
「鷹が」
思わず。
「何の用だ」
言ってから。間の抜けた問いかけだと。
聞いている相手は鷹なのだ。
「用がなくては、来てはいけないかな」
そういう問題ではない!
東京のど真ん中に、何の脈絡もなく鷹が来ていることが。
「明日」
はっと。
「楽しみにしているといい」
言って。
「あっ」
飛び去った。
ビル街上空の宵闇に、それは溶けるように消えていった。
「………………」
あぜんと。
いま見たものは。
いや、実際に見たのか、確認しようにも。
確かめ合える相手は。
いない。
一人なのだから。
「はぁ」
頭をかく。
どうしようもない。
『楽しみにしているといい』
その言葉が。
しかし、かえって得体の知れなさしか感じさせないのだった。
神田駅。
あまり慣れ親しんだ場所とは言えない。
そもそも、マンションから一キロ圏内を出たことさえほとんどない。昨日はかなりの例外でそれが今日も。
「おーす」
知り合ったばかりとはとても思えない。
「相変わらず、脚見てんねー」
「っ」
別に。
たまたま視線が下を向いていただけで。
「やーらし」
「っっ!」
反射的に顔を跳ね上げる。
「ほら」
目が。合う。
「話すときはさ」
反らせないまま。
「見ないと」
微笑まれる。
(う……)
熱が。上がっていく。
「おーい」
そこに。
「やーらし」
「っっっ!?」
「こんな人通りのあるところで見つめ合って」
「やめてよー」
パタパタと。
「ぜんぜん、そんなんじゃないしー」
「っ……」
ちょっぴり。なぜか傷つく。
「ほめてやろう」
昨日と変わらず。無駄に偉そうに。
「食の大切さがわかったようだな」
(そ……)
そういうことだったのか、これは。
「行くぞ」
「レッツゴー!」
無駄にテンション高く。
「………………」
どうしよう。いまさらながらに考えこんでしまう。
「ほら」
そこに。手を。
「もー、お姉さんがつれてってあげないとダメなんだからー」
「だ……」
誰が! そんなこと、誰も頼んでなんて。
(くっ)
けれども。昨日と同じに、ふり払うといった露骨な反応を取れないまま。
(くぅ……)
結局、おとなしくつれられていくのだった。
「ここだ」
古い。かなりの年季を感じさせる。
「ミルクホールだ」
「えっ」
驚き。思わずの。
「いやいや」
苦笑される。
「そういう名前。お店の」
「あ……」
ややこしい。というか、何の店なのだ。
「こんちわー」
構わず。入っていく。
(う……)
中も見た目通りの年代感だ。
そして、勝手に三人前の注文は為され。
「………………」
並んだ。
ラーメン。そして、カレー。
(またか)
がっくり。
確かに、昨日聞いた。
カレーの街であり、ラーメンの街であると。
(だからって)
二日続けてかと。カレーはともかくとして。
「いただきまーす」
頓着なく。さすが体育会系と言うべきか。
「ちょっとー」
こちらの視線に気づき。
「食べれるものなら、なんでも食べるとでも思ってるでしょー」
するどい。
「言っとくけどね」
スプーンを振りつつ。
「栄養には気をつかってるんだから。昔みたいに根性論の世界じゃないんだよ、いまのスポーツ界は」
「それなら、夜中に餅を食うな」
いや、続けてラーメンもどうかと。
「待て」
不意に。こちらに。
「どっちからだ」
「えっ」
どっちから?
(う……)
じーっと。失敗は見逃さないとでもいうかのごとく。
(どっちって)
おそらく、ラーメンとカレーのどちらが先かと聞いているのだろう。
(いやいや)
こちらの自由だ、そんなもの。
(おい……)
プレッシャーが。いい加減な選択は許さないという。
(か、関係ないって)
心の中で。強がるも。
(く……)
考えてしまう。
(普通なら)
普通? すくなくとも一般家庭の食卓にカレーとラーメンが両方並ぶことはない。
(どっちかだけだろ、普通)
ラーメンライスとかいうやつの延長か? 外食経験の乏しい身では判断しようもないが。
と、そんなことも問題ではなく。
「う……」
選択を。
「あっ」
無意識だった。
箸を。
家で和食が多いということもあって、習慣になっていたというか。
(これって)
カレーという選択は自然となくなる。
「正解だ」
「えっ」
正解だった。
「先にカレーを食べては辛さで舌がにぶってしまう。それでは、ラーメンをきちんと味わえない。基本だな」
基本だった。
「はい、先生」
手が上がる。
「混ぜて食べるときはどうすればいいんですか」
「混ぜるな!」
(うわ……)
ためらいなく。カレーをスープの中に。
「見るな!」
テーブル越し。強引に顔を背けさせられる。
「まったく。若人が影響されたどうする」
(若人って)
「えー。おいしいけどー」
「確かにそれも許されなくはないが、きちんとそれぞれを味わってからにしろ」
(許されなくないのか)
深すぎる。
「えーと」
とりあえず。なかったことにしてラーメンに箸を伸ばす。
(……うん)
普通だ。
昔ながら。といっても、どこまで昔を指しているのかよくわからないコピーだとはいつも思っているが。
とにかく、普通においしい。
しょうゆ風味の。変なとげとげしさのない優しい味。
「これがラーメンだ」
我がことのように。誇らしげに。
「そもそも、日本のラーメンはかけそばが元になったと言われているな。のりやねぎなどはまさにその証だ。だからこその『中華そば』なんだ」
それは何かで聞いたような気がする。
「日本そばの名店が多い神田にラーメンの名店が多いのも当然と言える」
「じゃあ、カレーは?」
「それは、神田が学生街であったことが関係するな」
長くなりそうだ。
「古書店街がその名残を示すように、神田には多くの学生が暮らしていた。新しいものを積極的に受け入れるのは若者たちだ。海外の生活経験がある留学生が伝え広めたということも大きいな」
「へー」
「事実、古書店の奥にカレーの名店があったりする」
「あー、あるね。最初にじゃがいも出してくれるとこ」
「あれは、すこし疑問なのだが。なぜ、これからカレーライスを食べようというその前に炭水化物が」
などと言ってるうちに。
「ごちそうさまー」
「おい!」
いきり立ち。
「だから、味わって食べろと何度も」
いや、混ぜた時点でそれは難しかったのでは。
「そっちも早く食べないと伸びるよー」
「くっ……」
確かに。
「そうだな」
居住まいを。正し。
「無駄話をしている場合ではなかった」
ラーメンをすすり出す。しかし、一方的に話をくり広げておいて、そのあげく自分で無駄とは。
「ふぅ」
まあ、いい。
こちらもラーメンに意識を戻す。
そして。
カレーも口にしてみる。
(あ)
うまい。
何が特別というわけではない。
ものすごくなじみのある。
家庭でも出てきそうな、そんな味。
けど、それが丁寧に、そして変なこだわりなく。
普通に作られている。
ラーメンと同じように。
「そばつゆは出汁を取り、カレールーも同じように煮こんでうまみを出す」
箸は止めることのないまま。またも。
「ラーメンとカレーを共に出すのは、昔ながらの店では決してめずらしくない。日本そばとのつながりの為せる業だな」
ほとんど。聞いていなかった。
いつの間にか。
夢中で。
ラーメンも、カレーも。
それは。
(……はあ)
染みていった。
「ラーメンとカレーで合わせて――」
「!」
目を見張った。
会計の。
そこに立つ白い調理着姿の相手。
調理や給仕などの、その合間にやっているのだろう。
と、そんなことは問題でなく。
「た……」
鷹。
顔が。
昨夜見た。
「っ」
ぎゅうっと目をつぶっても。何度まばたきしても。
「………………」
いた。
「?」
固まっているこちらに首をかしげる。
「ほら、さっさと払え」
後ろからせっつかれる。
「だめだよ、そんなカツアゲみたいなの」
言葉だけでは、確かにそうも聞こえるが。
「あ、ひょっとして、お金ないの」
「無銭飲食か。ふてぶてしい後輩だ」
「ええっ!?」
とんでもない誤解を。
「仕方ないな」
「えっ」
何を。
「皿洗いだ」
「!」
固まる。あらためて。
(さ……)
皿洗い? この時代に。
(いや)
皿洗いそのものは家で普通にやる。一人暮らしに食洗器なんて邪魔なだけだ。
(そういうことじゃなくて)
ここで。
この店で。
やれと言っている。
無銭飲食の代償として。
(いやいやいや)
だから、いつの時代だ!
大体、そんなことを店の人間に代わって決める権利が。
「仕方ないね」
認められた!
「あたしたちも手伝うから」
(う……)
いやいや、普通。
こういうときには立て替えてくれるものではないか。
それこそ、体育会系なのだから。後輩の食事くらい先輩がおごっても。
「体育会系でも、昨今は厳しいのです」
(おい!)
「会計だけに」
本人的には会心のギャグだったのだろう。一人で爆笑する中、しらっとした視線が低い位置から注がれる。
「いまのは聞かなかったことにしろ」
うなずく。
「あきらめろ」
どちらを? と聞く間もなく。
「お、おい」
奥へ。
押される。
「いや、お金は」
持っている。いまさらながら言おうとするも。
「ちょっ、待っ」
またも。言葉にするより先に流されてしまうのだった。
「え?」
そこは。
厨房のさらに奥に。
「皿洗い……」
いまさらながらの。
「………………」
明らかに。
食器を洗ったり、裏で仕込みをするといったような空間ではない。
(いやいや……)
非実用的。
いや、非現実的と言ってすらいいかもしれない。
目まいすら覚える。
過剰な。
装飾の数々。
そのほとんどが、何に使用するか不明なものばかり。そもそも、何かに役立てるということを想定したものかもあやしい。
趣味の部屋。一言で表せばそうなる。
しかし、それだけではつかみきれない何かが。
「ようこそ」
「……!」
鷹の。
その衣装は一変していた。
(衣装って)
そもそも、鳥が服を?
と、そこでいまさらながらにいまさらながらの。
(仮面)
当たり前だ。
鳥の顔に、人の身体の生き物などいない。
どちらかと言えば覆面に近い。ハンズのパーティーグッズ売り場に置いてあるような。
そして、服装は。
(これって)
軍人。
その印象。
兵士ではなく、将校。
あまり詳しくないため、どこの何とは断定できないが。
それがまた、装飾過多な室内と不思議に調和している。確かに、実際の軍隊においても、立場が上の者ほど実用的な仕事から遠ざかる気はする。
しかし、そこに〝効果〟は確かにあって。
飲まれる。
予想もしなかった、
この状況と、目の前の人物。
完全に理解の針をふり切っていた。
「さて」
落ち着いた渋めの声で。
「さっそく働いてもらおうか」
(働くって)
皿? こんな場所で。
「皿洗い」
言った!
「それは禅の奥義でもある」
(えっ)
唐突な。
「皿を洗う」
くり返す。
「ただ」
「………………」
何と。言えば。
はっきりしているのは、ここに何かを洗えるような設備はまったくないという。
「お待たせー」
「!」
現れた。その姿に。
「え……」
目を。
同じ。
ではなく細部は異なっていたが、明らかに似たベクトルの〝路線〟を感じさせるデザインの衣装。
それを身にまとい。
「言ったでしょ」
微笑む。
「手伝うって」
言葉がない。
「思いもしなかっただろう」
どこを。どの部分を。
「ここが秘密基地だとは」
「!」
超えてしまっている。ふり切ってしまっている。
「ひみ……つ」
基地! 言い切った!
「断っておく」
「えっ!?」
「決して、ラーメンとカレーにつられたわけではない」
「は?」
そんなことはどうでも。
「確かに、認めはする」
何を。
「ここのカレーとラーメンはおいしい。決して消えてはならない味だ」
またも話の方向が。
「そっちだって」
見られる。
「そう思ってるんだろう」
(う……)
いや。思考が。
この状況に正直まったく追いつけていなくて。
「正しい」
正しいらしい。
「油断するな」
(えっ)
さらに何かあると。
「名店はいつでも行けるというものではないんだ。いつ失われてもおかしくない限りある資源なんだ」
資源って。
「自分が大好きでも、周りはそうでもないということは往々にしてある。だからこそ、逆に自分のそのこだわりを大事にして、そこから個性というものを」
「話長ーい」
クレームが。
「こんな格好で話す話じゃないでしょ」
こんな格好。自覚はあるらしい。
「はい」
「え?」
突き出された。
「え……」
きれいにたたまれた。それは明らかに。
(いやいやいや)
着ろと。
言っているのか。
「はい」
いや『はい』ではなく。
「大丈夫」
何も大丈夫では。
「ちゃんと、サイズは合ってるから」
なんでだ!
そうだ、昨日からだ。
初対面の。そのはずなのにこちらが『年下』と知っていたり。
あの〝事件〟の生き残りとはいえ、未成年ゆえの情報の非開示はなされているはず。地元ゆえ多少は漏れたとしても、服のサイズまでは。
「着てみて」
はっきり。言われる。
「なっ……」
なぜだ! 大声で言いたい。
(く……)
言えない。
こうなってしまう。
言えばいい。言ってやればいい。
それを。
飲んでしまう。
「良くないよ」
「っ」
「そんな目って」
(だ……)
誰が! 誰たちがこんな思いにさせているのだと。
「鷹の目はすべてを見通す」
「……!」
それは。
「あ、あんた」
「こら」
すぐさま。
「誰が『あんた』だ」
「え、いや」
誰も何も、この〝鷹〟が何者なのかいまだに不明なのだが。ただ、ラーメン兼カレー屋の店員らしいとしか。
「司令だ」
司令! ますます非現実じみてくる。
「あ、あのさ」
これは、そういう『プレイ』なのか。
そんな店だったのか、裏では。
色合いは違うが、秋葉原と目と鼻の先の街ではある。
「皿を洗うのだ」
三度。言われる。
無駄に凛々しく。
「あ……」
洗わないとは。それにしてもこの場所と格好で。
「行くのだ!」
「へ?」
行く?
他に洗い物をするような部屋が。
「もー」
やれやれと。無駄にお姉さんぶって。
「えっ」
後ろに。回られる。
「!」
羽交い絞め。
「ちょっ、なっ」
何を。
「やっちゃってー、リンリン」
「仕方ない」
こちらもやれやれと。
「っっ!」
下を。一気に。
「着替えくらい一人でできないのか、この後輩は」
「お、おお!?」
抵抗することすら。あまりにもな展開に。
「制服にならないで何をするつもりだ」
何をって。だから、皿を。
「常識だろう」
どこをどう取って。
「上は任せたぞ」
「はーい」
「っっっ!」
一息に。
「あ……」
羽交い絞めから一転の。驚く手際の良さ。
さすが体育会系――で納得しきれるようなことではなくて。
「おとなしくするんだな」
「ここまで来ちゃったんだから」
どこからだ? どこからどうしてこうなった。
などと煩悶する間もなく。
「――!」
すべてを。
「っ……っっっ――!」
声にならない。そんな絶叫がほとばしった。
(う……く……)
なぜだ。
なぜなのだ。
「ほら、恥ずかしがらなーい」
恥ずかしいだろう! 常識的な感覚を持っていれば。
(……いや)
無理だ。そんなものを期待するのは。
昨日からのことで、早くもそれは思い知らされていた。
(こんな格好)
知り合いに見られたりしたら。
(っ……)
いない。
知り合いと呼べるような。
暮らしてまだ半年も経っていない街で。
かろうじて接触のあった高校の人間たちも。
「………………」
いない。
それはまるで。
(切り離された)
自分だけ。世界から。
大げさな。そう感じるも、気づきは重い実感となり。
「ついたよ」
足が止まる。
「えっ」
予想もしなかった。
と言っても、あの〝基地〟のような異常さはなく。
(これって)
むしろ、通常な。
神社。
しかし、神田駅からほとんど離れていないビル街に、小さな敷地とは言えそれがぽつんとあるのは、どこか不思議な光景だった。
「どうだ」
「えっ」
聞かれても。
「必要なんだ」
語り出す。
「ここに」
目をやる。
「こういう場所は」
「……へえ」
それだけ。他に言うことも。
「隙間だ」
「えっ」
聞き返す。
「隙間?」
「そうだ」
うなずかれる。
(何を)
言っているのかと。
「………………」
けど。確かに。
雑居ビルに埋め尽くされたオフィス街。
そこに、ビジネスや何かの生産とはまったく関係のない、ある意味で『役に立たない』ものがある。
「……うん」
悪くはない。そう感じる。
「問題なんだ」
「は?」
今度は何だ。
「皿を洗う」
はっと。
「だ、だから」
思わずあせる。それと、おかしな格好でこの場所に来たことにどういう。
「!」
いた。
「あ……」
現れた。そうとしか。
(嘘だろ)
こんな。
前の歩道に立って、すべてが見渡せるような。
そんな狭い場所に。
二人、三人、いやもっと。
「な……あ……」
その男たちは。顔に。
仮面をつけていた。
五
味方と敵。
それは、見た目の第一印象にすでに表れている。
人間に比較的近い。
卵型の頭部。
たとえ、目の部分はゴーグルになっていても、そこには自分と近しい存在ではあるのだという一種の『約束』が感じられる。
それが。
歪み。
球形から外れた。
突起物、そして過剰に多かったり巨大であったりする各部位。
人と同じものではあり得ないという。
本能的な。
人外。
それを雄弁に語る――仮面。
「……!」
迫る。
静かに。
喧騒が遠ざかっていく。
世界が。正常な。
それが。
「ぼーっとしてない!」
我に返る。
直後、前に。
「はぁぁっ!」
蹴った。
「!」
陸上競技で鍛えあげた野鹿のごとき脚。
あざやかに跳ね上がったそれが、打ち抜くようにして不気味な仮面をのけぞらせる。
「おお……」
続けざま。放たれる蹴りに目を見張る。
「ぼっとするなと言った!」
左右の。脇を過ぎて飛んでいく小さな物体。
張りつく。
正面にいた二体の仮面に。
「爆ぜろ!」
直後。
「っ!」
爆発。閃光と熱に顔を覆う。
「老舗の味はいぶし銀だ」
意味不明なセリフ。そう意識する間もなく。
気づけば。
「………………」
一掃。
されていた。
突然現れた仮面の集団が。
「は……」
乾く。
「はは……は……」
何が。起こった。
理解できないまま。
「おい」
胸倉をつかまれる。
前のめりになったところを、両手で顔をはさまれ。
「しっかりしろ」
「う……」
焦点が。合わない。
「これは、そもそもおまえの仕事なんだ」
皿を――
「なんで」
口をつく。
「違うだろ」
「違わない」
言われる。
「目を開け」
言われるまでもなく。
「!」
見た。
「あ」
見えて。しまった。
仮面。
「わかるか」
その声は。
「これがおまえの現実だ」
いつからだ。いつからだったんだ。
ひょっとしたら。
最初に会ったときから。
「ひ――っ!」
走り。出していた。
意思とか気持ちがどうこうではなく。
もう。
限界だった。
あれから。
「………………」
軍服。
というか、制服というか。
薄い青色の。
逃げ帰った。部屋に脱ぎ捨てられた。
それがまざまざと。
(現実……)
あり得ない。
それでも、目の前には。
どこからどこまでが。何から何までが。
わからない。
判然としない。
一人。
自分は。
(う……)
顔に。
手を当てる。
思い出される。忘れられるはずもない。
仮面の。
襲撃。
(なんでだよ)
それが、また。
あんな街中で。
(いや)
街中とは微妙に違う空間ではあった。
それは。
(同じ)
そうだ。学校も。
微妙に世間とは切り離された空間とは言える。
そこでの。
(なんでだ)
くり返される。
(何を)
したと。
(……いや)
何もできなかった。だから。
「………………」
何も。
代わって。
(あいつら)
仮面。その顔にも。
「っっ……」
ぞっと。した。
悪寒にたまらず自分を抱きしめる。
(わざとかよ)
悔しまぎれに。心の中で悪態をつく。
一人。
(……あいつら)
同じだと。言っていた。
(そんなの)
知らない。
意識的に情報を避けてきた。
新聞もテレビも。ネットにも触れていない。
(あれが)
仮面の襲撃が。
他の学校でも起こっていたなんて。
しかも、この区で集中的に。
「あ」
不意に。
「……ふぅ」
あきれる。我ながら。
腹に手を当てる。
「はぁ」
ため息が。
窓の外を。
暗い。すっかり日は落ち切っていた。
(あ……)
思い出す。窓の向こうのベランダで。
(あんな)
事が。あったと。
いまでは確かめようもないが。
(……いた)
会った。再び。
しかもラーメン屋兼カレー屋で。
(あり得ない)
いまさらながら。
「……う」
それより。何より。
いまは。
「はぁ」
簡単に衣服をまとうと、何か調達しようと外に。
「!」
あった。
「……っっ」
とっさに。身構えてしまう。
(何だ)
おそるおそる。
(タッパー?)
半透明の。その中身は。
「な……!」
餅。
に見えた。
角型の。それが並んで詰められていた。
「な……」
なぜ。
「あ」
思い出す。
(餅……)
言っていた。夜中に云々的なことを。
(にしたって)
ここにそれがある理由の説明にはならない。
(これは)
見なかったことに。
決めて。
元あった場所に。
「!」
見られた。
目が合った。
「お、おい」
動揺を隠しきれないまま。
「どうやって」
ここは。
都心のそれなりの居住可能ビル内だ。メイン玄関はオートロックになっていて、部屋の前とはいえ許可なしに来られるはずは。
「跳んだ」
「飛んだ!?」
思い出される昨夜のベランダ。
「……あ」
違う。漢字が。
(いやいやいや)
ここは四階だ。ジャンプ一発でないにしろ、跳び超えて侵入できるような箇所にはそれなりの制限があるはず。
(問題だな)
何より『問題』なのは、いま目の前にいる人物なのだが。
「う……」
といっても、何を言ってやれば。
「へへー」
無意味に。照れ隠しなのか。
「いるよね」
差し出す。
「お代わり」
新たなタッパー。
「な……」
何を。言えば。
「あっ!」
こちらの。タッパーを見て。
「食べてない!」
「え」
「嫌いだった!?」
「い、いや」
「だよねえ! いないよね、餅が嫌いな日本人!」
そうとも限らない気はするが。
「大丈夫だよ」
何の保証も信用もない『大丈夫』が。
「きな粉、まぶしてきたから」
「………………」
やはり。
「そうだよねー、ないよねー」
失態をごまかす笑い。
「いくら好きでも、素餅ってねー」
いや『素』餅って。
「気づいて、あわてちゃったよー。だから、こうしてあらためて」
あらためられても。
「はい」
重ねられる。
(う……)
そこそこのサイズ。その中いっぱいに。
それが、さらに倍。
「……な……」
言わずには。
「なんで」
しかも、不法(?)侵入してまで。
「育ち盛りだし」
理由に。なっているようで、なっていないようで、一応は。
(いやいや)
心配される。理由が。
「あ」
気づいたと。
すぐさま悪い予感が。
「つきたてがいいよね」
どう。答えろと。
「待っててね」
背を向ける。
「!」
跳んだ。文字通り。
部屋のすぐ前の階段の手すりを飛び越え。
「お、おい!」
着地する。音が。
「………………」
ぼう然と。
「マジか」
そして。また思い出す。
(あいつ)
蹴り飛ばした。
怪人を。
仮面の。
(いや)
蹴り『飛ばした』というレベルではない。
砕き抜いた。
蹴り『抜く』という言葉はある。
貫く。
そんな。
鋭さで圧した。
(あれは)
わかる。素人ではない。
陸上部の健脚で説明できるレベルでは。
「……はぁっ」
そもそも、まともではないのだ。
(仮面……)
敵も。味方も。
(あれが)
白昼夢でないのなら。
が、すくなくとも。
「………………」
手にした二つの餅タッパー。それは現実の重みを伴っていた。
「あ、忘れてた」
「!」
のけぞる。さすがに。
「大丈夫だから」
だから、何が。
「きな粉だけだから」
「は?」
「ノンシュガー」
「な……」
ありなのか、それは。
「天然のプロテインだよ。これでタンパク質もバッチリ」
タンパク質はいいが。
「じゃあ、待っててねー」
またも。消える。
着地音。
「あ……う……」
もはや。もはやもはやの。
二段重ねのタッパーのその重みが。
増した気がした。
甘かった。
いや、言われた通りにきな粉は甘くなかった。
餅に甘くないきな粉。
素餅より上級者な食べ物だった。
なければ足せばよさそうなものだが、ついてないことにと言うか家に砂糖はなかった。
たまたま切れていたのではない。もともと常備していない。
一人暮らしをするようになって知ったことの一つは、日常生活にほとんど砂糖が必要とされないことだ。もともと緑茶派だし、コーヒーを飲むときも基本ブラック。調理時は料理酒で代用できる。使う機会がまったくない。
「あ」
コンビニで買ってくれば。と思ったものの、わざわざこのためだけにすくなくない量の砂糖を買うのもどうかという。
しかも、コンビニで。
スーパーが。
ない。
暮らしているこの日本橋小舟町の界隈には。
あるといえば、離れたところに成城石井とハナマサ。
成城石井は。
なんだか、無意味に高級な砂糖を買わされそうで。
ハナマサは量的に絶対あり得ない。
結局。
そのままを食べるしか。
(いやいやいや)
ないだろう、『しか』は。
そもそもの前提として、食べなくてはならない義務はない。
だというのに。
「っ」
チャイムの音。
「………………」
おそるおそる。モニターに近づく。
普段なら、ここには宅配便か、訪問販売の類いくらいしか。
「う……」
頭を。
いた。
不法侵入よりはマシだが、堂々と正面から来られるのも。
『もしもーし。開けてー』
どうするべきか。
開けないと。
いう選択肢はないとすぐに気づく。
(また)
侵入されるだけだ。
共用部はともかく、この部屋に入れないことは可能かもしれない。
しかし、部屋の前まではやってこられるわけで。
そこで他の住人に見られでもすれば。
「はぁ」
まったく気は進まないまま。正面玄関のボタンを押す。
間もなく、自室のほうのチャイムが鳴る。
「えー、広ーい」
中に。ためらいなく。
「なんでなんでー。なんでこんなに広いのー」
なんでと言われても。
「会社とかも入ってるビルだから」
「ふーん」
納得したらしい。
「あれ? キッチンともつながってる。ワンルーム?」
「まあ」
確かに。都内のワンルームとしては破格の広さだろう。それこそ、小さな会社が入居できるほどに。
「あ、一人で住んでるから、ワンルームでいいんだね」
そういう問題だろうか。微妙に。
そして、また気づかされる。
一人。
その情報もすでに知られているのだ。
「合宿所みたい」
体育会系らしい感想だ。
「みんなで並んで布団敷いて寝るの?」
寝ない。布団は敷くが一人分だ。
「枕投げも」
しない。それこそ、一人でそんなことをしていたら。
「おりゃーっ」
ばふっ。
「………………」
投げられた。
そば殻の硬めなやつなので、それなりに痛い。
「ほら、パスパース」
枕投げはそういうスポーツか? いや、そもそもスポーツですらないが。
「あ」
無視されたことを怒るでなく。忘れていたと、背負っていた大きなリュックを降ろす。
「コンセント、どこー」
「え?」
と、思い出す。
(餅……)
つきたてと。とんでもないことを言っていた。
(まさか)
リュックの中に。
いや、いくら何でもこの短時間で。
と、取り出されたのは。
「?」
見たことのない家電。
家電だろうと。コンセントがどうこう言っていたし。
「っしょ」
キッチン脇のテーブル。そのそばの電源につながれる。
「うお……!」
またも取り出されたタッパーに思わず身構える。
しかし、中身は。
「米……?」
ほかほかと。湯気を立てている。
「もち米だってー」
言って。
「あっ」
投入する。
「あ……」
回り出す。
(な、何なんだ)
意味が。
「あれ?」
軽く。驚きの。
「知らない、餅つき機?」
「も……」
餅つき機! あるのか、そんなものが。
「便利なんだよー。いつでもつきたての餅が食べられて」
(い、いや)
その便利さは、かなり限定された人間向けだが。
「ちょっと、待っててねー」
うねうねうね。白いスライムのようになりつつあるものが、容器の中で勢いよく回転を続ける。
くり広げられる未知の現象に目を離せないでいると。
「んふふー」
してやったり顔で。
「そんなに楽しみだった」
「は?」
間の抜けた。
「あたしもねー、楽しみ♪」
目をきらきらさせ。
「餅ってすごいよねー」
「………………」
何と。
「もとがお米だなんて思えないよー」
言えば。
「お米ってすごいよねー」
止まらない。
「おいしいもん」
は? 餅は?
といった、あれやこれやを口にできないでいるうちに。
「できた!」
できたらしい。
「じゃーん」
「お……」
餅だ。確かに。
正確には、これは餅『つき』ではないと思いつつ。
「食べれるのか」
「は?」
とたんに。険悪な顔で。
「何? ひょっとして、老人?」
「え……」
いや、こちらがではなく。
「嫌いじゃないって言ったよね」
「それは」
「好きって言ったよね」
どちらも言ったおぼえはない。否定もしていないが。
「じゃあ、若いんじゃん」
関係あるのか、若さ。
「いけるよね」
「………………」
即答できない。
したくない。
しかし。
「ほら、冷めないうちに」
勧められる。
「きな粉もたっぷりあるから」
取り出される。
「砂糖は」
「ないよ」
笑顔で。
「太っちゃうし」
太りは。
する。
どちらにしたって。
六
「くらったようだな」
くらった。二つの意味で。
「もう餅テロの洗礼を受けるとは、ついてない」
確かにテロだった。
しかも。
(『もう』って)
いずれは受ける運命だったのか。
「う……」
ダメージが。
「ほら」
渡される。
「強力わかもと」
胃薬か。飲んだことなんて一度もないが。
「わかもと製薬のお膝下だぞ、ここは」
知らなかった。
「あと、ヘパリーゼも」
「?」
「すぐそこにゼリア新薬の本社もある」
いや、その薬自体をよく知らないのだが。
「消化に時間がかかると、肝臓にも負担だからな」
肝臓の薬らしい。
「へー」
ありがたく受け取る。
「素直になったな」
「………………」
なりもする。これほどのダメージを受けていては。
「ふふっ」
笑われる。
「消えたな」
「……?」
「壁が」
はっと。
「それとも」
言う。
「仮面かな」
「っ」
言うか。それを。
「仮面は」
言う。
「あんたたちが」
「誰が『あんた』だ」
にらまれる。
「『アンタッチャブル』の略か」
「は?」
「確かに」
一人合点にうなずき。
「超法規的存在ではある」
「……!」
それは。
「超現実的とも」
そちらのほうが。
「あ」
思わず。確かめる。
「………………」
ない。
当たり前だが。
「なんだ」
照れくさげに。らしくない態度でそっぽを向く。
「あまり、見るな」
「あ……いや」
そんなつもりでは。
どういうつもりと聞かれても困るが。
「いきなり、浮気か」
「はぁ?」
どこからそんな。
「泊まったんだろう」
にやり。らしい調子を取り戻し。
「『泊めた』が正解か」
「あ」
何を言おうとしてるかに気づく。
「違っ」
あわてて。言いかけるも。
(う……)
結果としては。
しかも、いまこうして。
「なんで」
こぼれる。疑問の。
「鷹の目はすべてを見通す」
「っ!」
言われた。
「な」
たまらず。
「何なんだ」
「わかるぞ」
何が。
「混乱している」
それはそうだ。偉そうに言われるまでも。
「忘れなければいい」
言う。
「皿洗いはまだ終わっていない」
「っっ」
「それだけだ」
背を向ける。
「あ……」
突然の遭遇。そして、一方的に去られ。
「………………」
ただ。
朝のビル街に立ち尽くしかなかった。
「お帰りー」
戻ったそこに。
「あ・な・た」
「………………」
笑えない。
「もー」
不服げに。
「反応してよー。こっちだけやってたらバカみたいじゃん」
十分に。
「で、牛乳は」
「あ」
忘れていた。
そのためコンビニに向かったというのに。
「卵は」
「………………」
「もー。卵は忘れないでって言ったでしょ」
指を立て。年上ぶって。
卵『は』というか、買い物そのものがなのだが。
「仕方ないね」
ぎょっと。
「朝食は餅で」
「いやいやいや」
さすがに首をふる。
昨日、夜通し餅を食べさせられ、翌朝も餅では完璧に拷問だ。
「いいじゃん、お正月だと思えば」
正月でも、そんなには。
(食べる……のか)
頻度はともかく、量に問題が。
「若いんだし」
またも。
「のどにつまらせないし」
のどはともかく、胃には十分に。
「う……」
吐き気が。
「どうしたの?」
心配そうに。
「大丈夫?」
どの口でそんなことを。
「わかった」
何をわかられたかわかったものでは。
「想像したんだね」
「?」
「聞いたことあるよ」
何を。
「想像妊娠」
がくぅっ!
「や……な……」
なんてことを。
恐ろしいことに真顔で。
「わかるよ」
何を!
「その気になったんだね」
そ、その気。
「仕方ないよ」
困ったと。わざとらしげにため息を。
「こんな魅力的なセンパイと一夜を過ごしちゃったんだもんね」
うふーん、な。ポーズで。
「食欲のあとは性欲?」
「な……」
なんてことを。
「若いし」
若くはあるが。
「だから、想像で」
いやいやいや。
「結果、妊娠しちゃったと」
なぜそうなる。
「じゃないと、つわらないし」
つわりで吐き気をもよおしたわけでは。
「実際の行為はなかったわけだし」
だから、なんてことを。
「だよね」
同意を求められても。
「なかった」
そこは言い切る。
「ない」
そこも。
「じゃあ、なんで」
聞かれても。
「餅が」
「そっか」
またも先んじてうなずかれ。
「食べたいんだ」
なぜ。
「吐いて胃を空にしてもなくらい」
そんなヨーロッパの貴族のような。
「そっかー」
微笑みが。
「うれしい」
こぼれる。
「こんなによろこんでくれる人、初めて」
カン違いで感激されても。
「作るね」
作られても。
「いや」
腕をつかむ。
「あ」
ちょっと。驚いた顔で。
「……そっか」
うなずく。
(ふぅ)
伝わったか。
「じゃあ、一緒に」
「えっ」
「やー、照れるなー」
頭をかき。
「こーゆーの新婚夫婦みたいだよねー」
「は!?」
なぜだ!
「並んで一緒に料理ってー。もー、新婚ほやほやでラブラブみたいなー」
おい!
「あ、ところで『ほやほや』って何だろうねー」
知るか!
「ほや? え、海の?」
知るかと!
「あたし、あれ、苦手なんだよねー。なんだか、海水をそのまま食べてるみたいな」
知るかという!
「あっ」
今度は何を。
「似てる」
何が。
「似てるよねー、これ」
指さす。
「餅!」
昨夜の残りの。
「つきたてのふよふよしてるとこ。すっごく、ほやみたい」
そんなことどうでも。
「あっ」
またも。
「似てる」
だから、何が。
「『ふよふよ』と『ほやほや』」
何と言えば。
「そうだったんだ」
どうだったんだと。
「ふよふよしてるから、ほやだったんだ」
そうなのか?
「だから、ほやと餅は似てるんだ」
それはもうぜんぜん。
「ほら」
手に取る。
「だから、餅でいいんだよ」
突きつけられる。
「食べよ」
「………………」
こうして。
二日連続というか、二食連続の『餅テロ』が決定した。
胃薬が。
あって助かった。
ヘパリーゼというのも効いているのかもしれない。
「もしもーし」
はっと。
「どうするの」
それは。
「皿を」
口に。
「洗う」
出して。
「いいの?」
聞かれる。
(そんなの)
答える。
「いいも何も」
なってない。答えに。
「そっか」
十分だったようだ。
そして、いま。
再び。
「皿を」
立っている。
「洗うから」
食堂ミルクホール。
「結構、うまいねー」
普通だった。
「………………」
普通に。
皿を洗わされていた。
慣れてはいる。
そこそこ一人暮らしも長いのだ。
しかし。
「あー、だめだめ」
注意が。
「それはルウを流してからー。いきなりスポンジで洗わないー」
「わ、悪い」
一人暮らしとは違う。
次から次に、大量の皿を洗わなければならない。当然、そこには〝作業〟としての手際の良さが求められる。
「いいよね」
「?」
不意の。
「考えなくていいから」
それは。
「皿を洗う」
見つめる。
「ただ」
「………………」
ただ。
「それでも前に進んでるんだ」
はっと。
「間違いなく」
間違いの。
「……ない」
「うん」
うなずく。
「前に」
それでも。
「前って」
自分にとっては。
「ほら、手が止まってる」
「っ」
あわてて。再び洗い出す。
「………………」
無心に。
確かに。
そこにやるべきことがあるという。
この。確かな。
「おーい」
飲食スペースのほうから。
「それが終わったら上がっていいぞー」
「………………」
鷹。やはり。
(客は)
どう思っているのだろう。この人物(?)を。
「人は見たいように物を見る」
そこへ。
「がんばっているようだな」
「………………」
だから、なぜこんな偉そうに。
「餅の力だね」
横から。
「まさに力もち」
何も言いたくない。
「それとも愛の」
それはもっと言われたくない。
「さて」
落ちついたそぶりで。こちらを見て。
「行くか」
嫌な予感しか。
「デートだ」
やはりの。
「えー、Wデート?」
なぜ、そうなる。
「ある意味では」
どういう意味でだ。
「根を張りつつある」
不意の。
「やっぱり」
こちらは。
「じゃあ」
さっそくと。
「お、おい」
何も理解できない中。
「着替えて」
固まる。
(まさか)
そのまさかだった。
「言っただろう」
平然と。
「人は見たいものしか見ないんだ」
見たいもの。
では、いまの自分は。
「う……」
見られている。ちらちらと伺う視線を。
しかし、あからさまな凝視はなく、すぐに何事もなかったようにそれぞれ歩き出す。
オフィス街。
神田駅からまっすぐ南へ向かうこの大通りで見かけるのは、やはりスーツ姿の人物が圧倒的に多い。
(スーツ……制服……)
これも。『制服』とは言えるのだろうが。
「覚醒(かくせい)服だよ」
「えっ」
言われた。
格好を気にしているのを察したのだろう。
「まー、制服みたいなものかな」
(だから、何の)
制服なのだと。
そんな煩悶を抱えている間に街の風景も変わってくる。
やはり。会社員風は多いが、一方でショッピングを楽しんでいると思しき女性等の姿も見られ始める。
こちらに向けられる視線は変わらないが。
「変わったよねー」
「再開発か」
言いながら。
できて間もないコレド室町の前を通り過ぎる。
「え、あっ」
驚く。そして、ひるむ。
ギリギリ。
コレドのような新しいスポットなら許されると感じていた。
それが。
「ここに」
「あれ、初めて?」
そういう問題ではない。
「いいねー、初デートが初めての場所って」
なぜ『初』と決めつける、どちらも。
「しかも、初Wデートだ」
「やらしー」
そちらは確かに初めてだが。というか、そもそも一対二のこの状況を『Wデート』とは言わないのではと。
(う……)
いや、そんなことよりも。
「本当に」
「緊張してる?」
(緊張っていうか)
この格好でこんなところに来ること自体が。
「仕方ないなー」
うれしそうに。
「ほら」
手を。つながれる。
(く……)
逃げられないまま。
並んで、共にライオン像の脇を通った。
七
意識して。
こうして中を見たのは、やはり初めてかもしれない。
天井が。
高く感じる。
全体が余裕というか、ゆとりをもって構築されている。
鷹揚さと言ってもいい。
それは、まさに富者の所有物と思えた。
「ほら、こっち」
手を引かれる。
(こんな)
格好で。
あらためて入っていいものかと。
だが、思いがけず、外よりもかえって人目は引かなかった。
無粋な干渉をしない。
それが、気品であるかのごとく。
「ほら、こっちこっちー」
階段を。上っていく。
(なぜ)
わざわざ階段なのかと。聞く間もなく。
「ついたー」
「え……」
そこは。
「………………」
広い。ワンフロア一面の。
「ほらほら、座ってー」
「え、あっ」
座らせられる。
(おいおい)
見渡す。
空気が。
違う、とまでは言いきれない。
延長の。地続きの。
中にはあると。
(でも)
何かもっと大きな部分で。
「なに食べるー」
「えっ」
聞かれる。
「ほら、あそこ」
「あっ」
ショーケースが。
(こんなの)
それこそ、今時あるのかという。レトロな空気たっぷりの、そこには『洋食』の数々が並べられていた。
「決めたら、そこで食券買ってー」
「食券!?」
大きな声が。
「そうだよ」
きょとん。
「え、知らない? 外国の人?」
「いや」
日本で生まれ育ってはいる。
食券もわかる。松屋にたまに行くこともある。
それでも。
「ここは」
そういう店ではなくて。
いや、この空間自体がここにはちぐはぐなようなそうでないような。
「デパート大食堂」
はっと。
「ここもデパートだ」
いや、言われればそうなのだが。
「そんなの」
あるのか? いまの時代に。
「たまに来るよ」
平然と。
「たまに招かれる」
「……!」
それは。
「っ」
そのとき。
(あ……)
気づいた。
このフロアに来ての最初の違和感。
いない。
客が。人が。
自分たち以外の。
なのに。
(あれは)
いた。
不自然だった。なぜ気づけなかったのかと。
平然と。
食事をしている。
料理はこちらの角度からうかがえなかったが、それでも何か食べているらしいのはわかる。時折、そばに置かれているブリキのやかん(これも信じられない)から湯のみにお茶らしきものも注がれている。
ただ。
背後からでもわかる。
その人物は。
(――仮面)
明らかに。
そんなものをつけたままで食事が。
(いや)
そこは問題でなく。
こんなところに。
むしろ、こんなところだからこそ。
その〝怪人〟は。
「ふぅ」
違和感なく。
「ふと」
違和感そのものの場所で。
「来た」
狭間で。
「早かろうと思っていた」
ちんちん、と。スプーンでガラスの器をたたく。
「アイスクリームに」
その声に。
「ウェハースとチェリー」
ふるえが。
「くっ!」
はじけるように。正面に回る。
「!」
見た。
その顔。いや、仮面は。
「あんた」
あのときの。
学校で。
惨殺の先頭に立っていた。
「コーシーを」
立てる。指を一本。
「頼みたい」
「な……あ……」
よろよろと。クラシックな洋式椅子が倒れ、派手な音を立てる。
(江戸っ子……)
馬鹿な。どうでもいい。
(なんで)
いや、なんでも何もない。
自分はすでに。
遭遇している。
「っ」
ふり向いた。そこに。
(やっぱり)
いた。
仮面。二つの。
「あんたら」
最初から。
(間抜けすぎる!)
自分に。
のこのこと。
引っ張られて。連れてこられて。
「くっ!」
わき目もふらず。
椅子とテーブルの間を。
走った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
終わらない。
(あ、あれ?)
どっちだ。
上がっているのか、下がっているのか。
それすらわからなくなってくる。
「くっ」
間抜けすぎる。
混乱しつつ、止まれないことがなお。
「た……」
その言葉が。
「助けて」
意識する間もなく。自然に。
「っ」
口に手を当てる。
「く……」
どうしようもなく。
浮かぶ。
「マスター」
つぶやいて。
「……っ……」
止まらなくなる。
「う……あう……」
ふるえが。
だめだ。
だめだ、だめだ。
思い出すな。
いまは。
(あり得ない)
こんなに弱い自分が。もろい自分が。
願っていたなんて。
あの人と。
同じようになりたいなどと。
「おう、坊主」
金井十子(かない・じっこ)は。
「あんまり気軽に遊びに来るんじゃないぞー。んー」
横須賀中央駅からすこし離れた。
飲食店が並んだ通りからもほんのわずか距離のある通りのその端にある店『ボンベイ』に今日もいた。
「ほらよ、坊主」
カウンターのいつもの席に座り。ラッシーを出される。
「なんだよ、その不満そうな目は」
目をそらし。ストローをくわえる。
不満はある。
なぜ『坊主』なのかと。一度だけ聞いたことがある。
答えは明快。
『子どもはみんな坊主なんだ』
曰く。
年端の行かない者が病気などであっさり死ぬのが当たり前だった時代、親はその命を神仏に託したのだという。仏のもの、つまり〝坊主〟ということなのだ。
「だから、みーんな合わせて坊主なんだ」
それでも変だと。思ったけれど、言わなかった。
坊主、坊主と呼ばれても。
子ども扱いされるようなことは一度もなかったから。
「お待たせ」
湯気と香りが食欲をそそる。
キーマカレー。
子ども向けに辛さ控え目なんてことはしない。それでも、メニューの中では、比較的マイルドなほうではあるのだが。
(別に辛くないからとかじゃなくて)
おいしいから。そう自分的には主張している。
実際、すぐそばにあるココイチより、だんぜんこちらのほうが好みだ。
いやまあ、たまに向こうも食べたくはなる。わかりやすいおいしさというか。外人もよく見かけるし。メンチカツとナスをトッピングしたやつが好きだったりもする。
けど、あまり堂々とそういうことは言わない。
子どもだって気は使うのだ。
(やっぱり)
元自衛官だから。いつもそう思う。
(海軍カレーだって)
ある。
ただ言わせると、あんなものはニセモノだということらしい。
『観光客向けにでっちあげただけだろ。世の中、B級グルメとか騒いでるから、それに乗っかろうとしただけ。中身も歴史もありゃしない』
身もふたもない。
ただ、確かに、地元でカレーの有名店なんて聞いたことがない。ここくらいのもので。
『焼きそばとかはいいんだ。あれは地元に根づいた背景ってのがあるからな。ああいうのは本物って言っていい』
曰く。
もともと工業地帯で鉄板が身近にあったこと、当時は畜産業も盛んで豚肉の入手が比較的容易だったこと、キャベツも全国的な名産地が県内にあり、小麦の生産量も多い。加えて、工業地帯ということで、ガツッとしたものを求める若い肉体労働者がたくさんいたこと。それらの理由から自然に発生したものこそ〝本物〟だというのだ。
『即席に作り上げたものなんて薄っぺらで何の価値もない。わかってないんだよ』
流行などに同調するのが大嫌いな性格でもある。ご当地戦隊のような『周りがやってるからウチも』的なものがとにかく嫌なのだ。
(まあ、こっちも)
そういうのは好きではないけど。
ちなみに『じゃあ、横須賀の本物のご当地グルメは』と聞いたときの答えは。
『新鮮なしこ刺しと湯豆腐だ』
すぐさま。
なんとも観光客向けにアピールしづらい。
しこいわしに限らず、新鮮な海産物がおいしいというのはわかる。整備された港湾地区とは言え、漁港も近くにいくつかある。
湯豆腐は。
(な、なんで)
確かに。横須賀のものは変わっている。
よくあるような四角く切った豆腐を昆布を入れた湯であたためるというものではない。
出汁で煮こむ。
それは同じだが、切ることなく一丁そのままを。
煮る。
そして、出汁の染みた豆腐を鍋から出し(えっ?)、上面にまんべんなく辛子を塗り(ええっ?)、その上にねぎと鰹節をたっぷり散らし、しょう油をかけて食べる。
かなりというか。他に類を見ない〝湯豆腐〟だ。
なぜ、そんな食べ方になったのかまでは、さすがにわからないそうだが。
『海軍ゆかりの街には、たまにあったりしてなー』
同じく港湾街である呉にも、しっかりと出汁で煮こんだ湯豆腐を出す定食屋があり、そこでは汁の染みたとろろ昆布を上に乗せているとのこと。
(まあ)
そちらはもちろん、こちらの名物のほうもちゃんと食べたことはない。
たっぷりの辛子というのが厳しい。
これがいいのだと。酒に合うのだと。
本当の横須賀の食べ方なのだと。
だから、それを変えるようなことはしない。子ども向けに辛子を抜いたりは。
『大人になったときの楽しみだな』
言われた。
けど、それは。
子ども扱いをしての言葉ではない。
違うのだ。『子ども扱い』と『まだ味覚が成熟しきってない=大人でない』と見るのとは。
対等に。
見ている。
その上での言葉だ。
わかったから。
だから。
「コラ」
パチン。額を指ではじかれる。
「あんたはすぐぼうっとして。人様の料理を前にして失礼じゃないかい」
失礼だった。
素直に。頭を下げて。
スプーンを動かす。
(んー)
幸せだった。
「お邪魔しまっす」
「失礼します、二尉」
「おい」
とたんに。不機嫌な顔で。
「ここに二尉なんてやつはいない」
「ですが」
「マスターだ、マスター」
そっけなく。
「自分はまだ納得できません」
しかし。
「なぜ、二尉のような方が除隊など」
「おまえ」
にらむ。空気を読めと言いたげに。
「マスターだ」
「そんな」
「すいませんねえ、こいつが」
隣に座ったもう一人が、ぐぐっと頭を下げさせる。
「ここはカレー屋だってのに。横須賀といえばカレー」
「うちのカレーだ」
そこはと。
「海軍基地のお膝下でカレー文化が広まるなんて安易なカン違いだ。事実、そんなところなんて皆無だろう。軍民の隔たりは大きいんだよ」
「そんな街で」
意味ありげに。
「カレーですか」
「フン」
文句があるなら帰れと。
「じゃあ、同じものにしようかな」
こちらを見て。言う。
「自分は」
「あ、こいつはスパイス多めで。軽い舌をすこししびれさせないと」
「うちはそういうことはしないんだよ」
言って。調理にかかる。
ひき肉を炒める音と香りが漂い出す。
「おい、誰の舌が軽いと」
「なあ」
無視し。こちらに声を。
「この店にはよく来るのかい」
答えない。
「こら」
相方のほうが。
「あいさつもできないのか。まったく、子どもらしくない」
「………………」
こういうのを『子ども扱い』というのだ。
口はますます堅くなる。
「あいさつは基本だぞ。それなくして円滑な指令の伝達は」
「いいんだよ、俺らと違うんだから」
あきれたようにいさめる。
再びこちらを見て。
「おばちゃん、優しいか」
「マスターだよ」
すかさず。そこは。
「おい」
そこへ。
「人の食事の邪魔をするな」
「おっと、失敬」
悪びれずに。一方。
「おお……」
感嘆の。
「これを二尉が」
「おい」
「見事です、二尉」
「下げるぞ」
「えっ!」
「その舌を」
包丁をつきつけ。
「本当に使えないようにしてやろうか」
「おうっ!」
大きな身体が。サーカスの熊のように縮こまる。
「そ、そのようなことは」
ちらちらと。目の前の器を見る。
今度は、おあずけをくった大型犬のようだ。
「よし」
「ありがとうございます!」
OKが出たとたん、猛然とかきこみ出す。
「ふぅ」
やれやれと。息を落とすも、思っていたほど悪感情は持っていないように見えた。
「好きなの?」
思わず。
「カレー」
きょとんと。こちらを見られる。
と、はっと表情を引き締め。
「好き嫌いの問題ではない」
「ふーん」
嫌な答えだ。
「二尉お手ずからの料理。心していただくのが当然だ」
「マスターだよ」
「う」
「それに『心して』ってカンジじゃないな」
隣からも。
「『夢中で』だな、おまえの場合」
「それは」
ぐむむむ、と。
「いいからさっと食え、おまえら!」
バン! テーブルを叩く。
「り、了解しました!」
助かったと。すぐさま皿に向き直る。
(あーあ)
明らかにうれしそうだ。まさにおあずけを解かれた犬そのもので。
(やっぱり)
おかしくなる。
(好きなんじゃん)
自分と同じものをおいしそうに食べる。
見ていて。
悪い気持ちではなかった。
(同じもの)
ふと。
(家族って)
こういう感じかなと。
「まーた、おまえは」
パシン。叩かれる。
「食事のときはちゃんと食事だ」
「……うん」
正しい。
「こいつが一番わかってるぞ」
(う……)
確かに。一心不乱に食べてはいるが。
(ああは)
なりたくないと。思わせてくれるわき目のふらなさだ。
(好きなんじゃん)
あらためて。
と。
(えっ!)
目を。一分も経っていないというのに。
「あ、あの」
きれいになった皿を前に。
「お代わりは」
おそるおそる。
「サービスとか思ってないだろうな」
「とんでもありません!」
勢いよく立ち上がる。いや、敬礼はいらないだろう。
「なら、普通に頼め。暑苦しい」
「はっ! 普通に頼みます!」
確かに暑苦しい。
「まだ食べるの?」
「まあ、カレーだからな」
隣のほうが答える。
「何を言う! それでは他のものは食べないようではないか!」
「他のものは?」
「無論!」
食べるのか。
「カレーとカレー以外があったら?」
「そ、それは」
手際よく。大盛りの皿が出される。
「ここにはカレーしかない」
「いただかせていただきます!」
すかさずの。
「おまえ、集中するのはいいが、すこしは落ちついて」
聞いていない。聞こえていない。
「おい」
隣を見る。
どうにかしろという目に、しかし、悪びれず。
「変わらないでしょう、こいつ」
「変わらなすぎだ」
――と。
「で」
真剣な顔に。
「何をしに来た」
「カレーを食べに」
「こいつはな」
視線をそらさないまま。
「ここは」
「知ってます」
正面から。受けて。
「……そうか」
わかった。言いたげに肩を降ろす。
「お世話になりますよ、司令」
「おい」
にらまれるも。
「いけませんか」
飄々と。
「チッ」
忌々しそうに。
「おい、坊主」
こちらを。見て。
「聞いたか」
「え……」
それは。
「マスターだ」
有無を言わせない。
「いいな。それで」
うなずく。迷いなく。
「まあ、カモフラージュとしては有りですよね」
「知らん」
もうそのことに触れるつもりはないと。
「食わないなら下げるぞ」
「何!?」
隣でガタッ! と。
「貴様! そんなことは許さんぞ!」
「どっちに言ってんだ、ああン」
「もちろん、こっちです!」
真横を。スプーンで。
「二尉お手製のカレーになんと無礼な!」
「カレーに無礼なのかよ」
「食べる!」
「は?」
「自分が食べると言っているんだ!」
「まだ食うのかよ」
これにはどちらもあきれる。こちらもあきれる。
「貴様が食べないと言うからだ!」
「食べないとは言ってないだろ」
「とにかく、おまえら、さっさと食え」
いいかげんつきあいきれないと。
「ハッ! いただかせていただきます!」
「だから食うなよ、俺のはよ!」
ぷっ。噴き出していた。
「馬鹿は変わらずか、二人して」
「一緒にしないでくださいよ」
「一緒だ」
「でも、心強いでしょ」
「ああ?」
「俺たちみたいのじゃなけりゃ」
笑みが消え。
「相手できないって」
「………………」
沈黙する。
(相手?)
時おり。よくわからない会話が入り混じる。
気にはなる。
けど、聞きはしない。
立ち入らない。
それがルールだ。
「あ、あのっ」
そこへ。
「おかわり……を」
「ええっ!」
驚きの声がさすがに。
「おい」
あきれを通り越した目で。
「炊飯器を空にする気か」
「う……」
しょぼんと。
「食べる?」
思わず。
「何を言う!」
真っ赤になって。
「子どもにめぐまれるなど! 大人を馬鹿にするな!」
むっ。まただ。
「じゃあ、いいけど」
「何!?」
またもの。
「いや、そこまで言うなら気持ちを汲まないということは」
「だらしない」
言われる。
「言え」
「は?」
「ほしいなら、ほしいと」
「い、いえ、それではあまりに」
「ここではな」
カウンター越しに。顔を近づけ。
「とりつくろうな」
「……!」
「いらないんだよ」
にらみすえる。
「よけいな仮面は」
「じ……」
たじたじと。
「自分は」
言いかけて。
「………………」
飲みこみ。
「その通りです」
うなずく。
「すまなかった」
こちらに。頭を下げる。
「キミの気持ちはうれしかった」
「え……」
こんな。素直に。
「心無いことを口にした。申しわけなかった」
「………………」
こう出られると。
と、その静寂を打ち破るように炒め物の音が響く。
「二尉?」
「マスターだ」
フライパンを振りながら。
「いいかげんにしないと、二度とやらんぞ」
「おお!?」
「マスターだからカレーを作る。そうでなかったらおまえに料理は」
「失礼しました、マスター!」
すかさずの起立敬礼。
「ははっ」
やっぱり。笑ってしまう。
「アホだろ?」
微笑みかけられる。
「まー、俺も賢いほうじゃないけど」
どこか。自嘲めいて。
「でなけりゃ、こんなさ」
溶け入るように。つぶやきが消える。
「?」
「んー?」
何? みたいなカンジで。逆に見られてしまう。
「ほら、さっさと食べちゃいなよ」
「……うん」
うながされ。釈然としないながら。
「ほら、大盛りだ!」
「ありがとうございます!」
嬉々として。
「あー、もう今日は店じまいだな」
とことんまで付き合うと。言いたげに。
「そうですね。腹八分目と言いますから」
「おまえのそれはどういう意味で言ってるんだ!」
怒鳴られるも笑顔は崩れない。
(子どもだ)
思った自分に。
(……あ)
なんだ。変わらない。
(子ども扱い)
自分だって。してるではないか。
微妙に違うかもではあるが。
(あーあ)
人のことをどうこうと。
言えるものなんて。
(ない)
だからこそ。
(誰とも)
ふれ合える。わかり合える。
感じた。
その時間が。
残酷に終わりを迎えたときまで。
「――!」
我に返ったとき。
「あ」
なぜだ。なんでだ。
「っ」
ふり返る。
そこには階段が。上がってきたのか、下ってきたのかもわからない。
そして、正面には。
「コーシーが」
「!」
いた。
テーブルと椅子が並ぶだだっ広いフロアに。
食堂に。
「冷めてしまったと」
指をふる。
もう一方の手で、ぼとぼとぼと。これでもかと角砂糖を落とし入れる。
「これはこれで」
かきまぜる。
口もとに運ぶ。
ぼたぼたぼた。液体が仮面の上を流れ落ちる。
「変わらないとは言える」
がく然と。
した。
八
「逃げれないのか」
つぶやきに。
「んー?」
けげんげに。
「逃げる?」
「っ」
「どこから」
迫る。仮面が。
「う……うわあっ!」
「何からかと」
のぞきこむように見下ろされ。
「聞くべきかと」
「お……」
ふるえる指をつきつけ。
「おまえらが」
「ら?」
「そうだ、『ら』だ!」
ヤケ気味に。声が跳ねる。
「仮面」
「!」
「いかがかと」
「い……」
聞くのか!
「いかがっ、もっ」
詰まりつつ。
「なんでだ!」
「祭り」
唐突の。
「わかってもらえない」
嘆息。仮面の奥の。
「わかってもらえるかと」
迫る。
「く、来るなっ」
後ずさる。
「っ」
椅子に。足が。
「うわっ!」
ひっくり返る。
「ほら」
「――!」
視界が。影に覆われ。
「行ってこいと」
つけられた。
仮面が。
外された。
「大丈夫ぅー?」
「………………」
あぜん。
「おーい」
ぺちぺち。頬を。
「おい」
ぱちっ。強く。
「おおいっ」
ぱぁんっ! 音が響く。
「え……何」
そこでようやく。
「なんで」
「そんなに」
顔を近づけられ。
「ショックだった?」
「………………」
言葉が。ない。
「そうかー、青はイヤかー」
何を。
「!」
手にしていた。それは。
「か……」
仮面。
「じゃあ、黄色は?」
「え……や」
「ちょっとー」
唇をへの字に。
「『や』ってどういうこと、『や』って」
「や……」
「イヤなの、黄色」
「い、いや」
「イヤなんだ」
「じゃなくて」
「だよね!」
とたんに。
「いいよね、イエロー!」
「まあ……」
「いいイエローだもんね! 『いエロー』だもんね!」
なんだ、それは。
「『癒エロー』だもんね!」
なぜ。
「『Yeaaah!ロー』だもんね!」
そこまで押すかと。
「Yeaaah! Hooo!」
それは、もう意味が。
「それとも」
瞳が冷め。
「やっぱり、嫌い?」
「あ、いや」
「イヤ?」
「じゃなくて」
「まさか、赤! レッド狙い!?」
驚きの。
「やるねー」
やるのか。
「なかなか言えないよ、堂々とレッドとは」
そういうものか。
「言っちゃうのはどっちかっていうと、ちょっと残念な男子だもん」
そうなのか。
「残念かー」
こちらを見るなと。
「いや、よく考えたら、昔は女子全員赤ランドセルだったっていうし。そっかー」
納得している。
(って)
こんな会話に付き合っている場合ではなく。
「え……」
正面から意識を外した瞬間、周りの景色、そしてにぎやかな音がこちらに入ってくる。
「祭り……」
「市だよ!」
すかさずの。
「もー、何度言わせるのさ」
「何度って」
「べったら市なんだって。べったら『市』」
「………………」
耳にしたことは。ある。
「でも」
周りの空気は。
「祭りで」
ぱしんっ!
「痛っ」
叩かれた。
「聞いておくけど」
叩く前にそうしてほしい。
「やっぱり、祭りたかったの」
「え、いや」
「お祭りが苦手って言うからー」
「……!」
言った――か?
苦手なことは。
事実で。
けど、そんな話をするほどにはまだ。
「ほら」
顔を。強引に横に。
「見て」
「えっ」
「べたってるでしょ」
「べ……」
「べったらってるでしょ」
「………………」
べったらってる。
確かに。
並んでいる。
祭りの屋台のように漬け物を売っている店が。
「ほら」
「っ」
突きつけられる。
「一口」
試食用の。つまようじに刺された。
「う……」
正直。
よくわからない食べ物には抵抗が。
「む!」
突っこまれた。
「ん……!?」
思っていた。より。
おだやか。
クセや、すっぱさ、キツい漬け物っぽさはなくて。
「おいしい」
「でしょー」
我がことのように。
「おいしいよね」
「……うん」
「べたってるよね」
それはおいしさの表現として正しいのか。確かに、舌触りはべたっとしてはいるが。
「べったらってるよね」
答えようがない。
「どれがいい?」
「えっ」
買う前提か。
「どれって」
ずらり。並んだ漬け物の屋台。
(こんなに)
あるのか。
しかも、それがみんな同じ漬け物なのだという。もちろん、店ごとに細かい味の違いはあるだろうが。
(というか、こんなに)
あるのか。漬け物屋自体が。
(けど)
こういう非日常感というか、非現実感というか。
それもまた祭りなのかと。
「……はぁ」
複雑な。
嫌いだ。ずっと、そうだった。
何がそんなに楽しいのか。
楽しむこと前提。楽しいことが前提。
そんな強制の空気。
嫌だった。
そこで、異端は許されない。
楽しまないことは許さない。
そんな空気が。
「壊れるのだと」
「――!」
ささやき。
「許されない」
「っ!」
飛び退き。
「うわあああああ!」
悲鳴を。
「ハァッ、ハァッ……」
まただ。
仮面の。
「祭りと仮面」
語り出す。
「祭りが先か、仮面が先か」
「……!」
そんなこと。
「祭りを厭う気持ち」
「っっ……」
「それは」
指を立て。
「仮面ゆえ」
「え……」
どういう。
「祭りと仮面は切り離せない」
指をふり。
「切り離すための仮面」
「……!?」
「仮面をし、仮装をし」
謳う。
「日常から己を切り離す」
気づく。
「ここは日常から切り離されたものの」
景色が。
「日常から切り離された世界」
ゆがむ。
「正常から切り離された世界」
「や……」
これ以上は。
「異常の世界」
が。
「そこに」
近づいて。
「君臨する」
「――!」
顔を上げる。
「あなたこそ、我らが主」
膝をつき。
「仮面王だ」
九
「逃げろ、ハジメ!」
動けなかった。
仮面の。それは。
「二尉!」
煙と炎の気配がたちこめる店内で。
「裏口はすでにやつらが!」
「チィッ!」
舌打ち。正面入口から視線をはずさないまま。
「こんなにも早く」
「どうするんですか」
あせるでもなく、責めるでもなく。
「どうにかするんだよ」
こちらも。落ち着きを見せ。
「ハジメ」
取り乱した自分をつくろうように。こちらの髪をかきまぜる。
子ども扱いをするなと。
言えない。
不安。
「やらせないからな」
「っ」
それでも。
「ハジメ」
目を。
「見ろ」
見る。
「わたしは」
言う。
「わたしだ」
それが。
「忘れるな」
肩に。手を。
「任せたぞ」
「えっ」
押しやられる。
「任されました」
どういう。
「ちょ、待っ」
事が進められていく。何もわからないまま。
「!」
ドゥゥゥン! 突き破られる。
嘘みたいな勢いで、吹き飛ばされた扉が店内を転がる。
(あ……)
のっそりと。
現れたその影は、破壊の勢いと真逆の悠揚さを伴っていた。
「ふぅむ」
何かを。納得したように顔に手を。
「――!」
ない。
顔では、ない。
そこには。
「仮面……」
つぶやきを聞きとめたように顔――仮面がこちらを向く。
見た。
仮面の向こうの〝何か〟が。
すかさず。
「あっ」
さえぎるように。
「客なら客らしくしたらどうだい」
踏みこんでいく。
「はっ!」
するどい気合。高々と跳ね上げられた右足が頸部を襲う。
かわされる。
それを見越したように、さらに踏みこむ。
(うわ……)
目を奪われるあざやかな挙動。
しかし。
「これなる場も仮面」
するりと。
「暴かれた仮面は」
逆に。流れをさかのぼるように踏みこむ。
「仮面たりえず」
手が。顔面に。
「だったらさぁ!」
前蹴りが。
伸びてきた手を跳ね上げる。
その勢いのまま、大きく後方に宙返る。
「……!」
見た。
宙を行く最中。
その顔に。
「仮面を」
我に返る。
時と空間を超えて。
「どうか」
膝をついたまま。
「王よ」
「………………」
立ち尽くす。
なぜ。
忘れていたのだ。
「あんた」
ふるえる。
「あんた……がっ……」
「王よ」
こちらを見上げ。
「外すなかれ」
「……!?」
「仮面を」
恍惚と。
「あなたは仮面そのもの」
「仮……面っ」
そのもの!?
「だ、誰が」
「ゆえに」
冷厳に。
「恐れる」
「……!」
「祭りの終わりを」
「えっ」
自分が。恐れていたのは。
それが嫌だったのは。
「踊り続ける」
ささやく。
「それが王たる者の」
キィィン! 不意の金属音。
「!」
光が。射る。
現れていた。
手に。
スコップを思わせる金属の得物が。
(あっ!)
忘れるはずもない。
短い間とはいえ、同じ学び舎で過ごした者たちの命を奪った。
そして。
(みんなも)
マスターと店の常連たち。
横須賀の。
その時間を。
破壊したのは。
(なんで……)
忘れていて。
「ハジメ!」
「っ」
背が伸びる。
「見つけた、見つけた、見つけたぁ!」
飛びこんで。
前に立つ。
(あ……)
同じ。
「無粋であると」
ちらり。仮面の奥から視線をやったそこに、先の割れたレトロなスプーンが。飛来したそれを落とすため、スコップのような武器をふるったのだ。
「あ……!」
我に返る。
再び。あの大食堂に。
「油断したな」
隣には。
「ここまで侵食を許していたとは」
どう。
言葉を返せば。
「すまない」
正面に目を向けたまま。
「甘かった」
「そうだよ!」
向こうから反応が。
「甘すぎるよ! クリームソーダもお子様ランチもまだなんだよ!」
「甘いのはクリームソーダだけにしておけ」
ため息まじり。
「やるか」
「……っ」
手に。
扇のように先割れスプーンが咲き誇る。
「フンッ」
投げ放つ。
「無粋かと」
回す。
「!」
カン、カン、カンッ! 金属音と共にすべて叩き落される。
「誰が」
そこへ。
「ブスだぁぁっ!」
蹴りこむ。
「!」
無茶だ。相手は武器を。
「えっ」
キィィィィン!
「ええっ!」
音高く。再びの金属音。
それがひらめいた瞬間の光。
(靴に)
仕かけが。
(こいつら)
やはり、間違いなく常人ではない。
これまでも別の意味ではそう感じてきたが。
(戦える)
あの手狭な境内での立ち回りもそうだった。
(けど)
守ろうとしてくれている理由はなんだ。
それとも、これも。
(わからない)
不明なのだ。すべて。
「ぼうっとするな」
言われる。
「取りこまれるぞ」
「……っ」
仮面『王』。
王――と。
「か、仮面は」
「?」
「敵……」
なのか。
確かめるまでもない。
ほんのすこし前までの自分であったなら。
「敵だ」
はっきり。
「そして、敵と戦う力」
「!」
それは。
「えっ!?」
答えはすぐさま。
(か……)
仮面。
装着された。
青の。
「あっ!」
向こうでも。
(き……)
黄色。だ。
(だから、イエロー押し)
なのか。
いや、あれは幻を見せられていたのでは。
(どこから)
どこまでが。
本当で、嘘なのだ。
混乱する思考の最中にも。
「キーーーック!」
眼前では。
「キック、キック、キーーーーーック!」
くり広げられる。
子どものように無駄に元気な気合。
その締まらなさと裏腹に放たれる蹴りはするどい。
前蹴り、飛び蹴り、後ろ蹴り。
留まらない。
踊るように次々と。
(こんなに)
人は動き続けられるものか。思うほど。
「キキキキキキーーーーーック!」
もはや。
(ゲームかよ)
思うほどの。
「キーーーーーッ!」
(ヒステリーか)
思うほどの。
「きゃあっ」
「あ」
すべった。軸足が。
当たり前と言えば当たり前のことで、むしろ立ち続け蹴り続けていられたことが奇跡で。
「馬鹿ッ!」
すべりこんだ。
倒れこんだそこにかがみこむようにして。
「ハッ!」
その背を。支点にくるりと一回転し。
「たぁっ!」
着地。見事に体勢を立て直す。
(おお)
息の合ったコンビネーションに息をのむ。
(双子か)
見た目、まったく違う二人ではあるが。
黄と青と。色も。
(あ……)
思い出す。同じように。
(あの人たちも)
性格も見た目もぜんぜん違う。
それでも。
肩を並べて戦うときは。
困難に立ち向かっていくその姿は。
本当に。
「あっ!」
二人に『二人』を重ねていた。そのせいではないはずだが。
(いけない!)
妙技を決めたことでわずかながら慢心があったのか。
その隙に。
すべりこむように。
「くあーーーっ!」
意味不明な叫び声をあげ。
走った。
「!」
ぎりぎりの。
飛びこんでいた。
スコップの突先が焦点も合わせられないほど眼前で止まった。
「………………」
誰もが。動きを止める。
「……な……」
開口一番。
「何ということかと!」
くずおれる。
「王に! 許されることではないと!」
絶叫し。身をよじらせ。
「――!」
消えた。
「………………」
沈黙。
と。
「何やってんの!」
バチーーーーーン!
「痛っ!」
ふり向くなりの。
「い……」
思わず。
「痛いし」
「痛いように叩いてるの!」
横暴だ。
「なんてことしちゃってるの!」
「それは」
確かに。
自分は。何を。
「去ったようだな」
油断なく。
その顔からも、すでに仮面は消えていた。
「………………」
「なんだ?」
「っ」
まじまじと。見つめていたのに気づき。
「なんでも」
無理がある。
「ありがとう」
「えっ」
「助けられた」
またも。まじまじと。
向こうは照れるでもなく、むしろこちらが照れくさくなるまっすぐさで。
「助けられた」
「くり返さなくていいから」
目をそらす。
(でも)
助けた。そう言えるのか。
(向こうが)
止まってくれた。
もちろん、そんなことを狙えたはずもない。
偶然だったとしか。
(……いや)
自分は。知っていた。
王と――
(だから)
わかって。期待して。
「だから、いつも唐突に自分の世界に入るな」
「あ」
「蹴れ」
「オッケー」
「ちょ、待っ」
あわてる。そこで初めて。
「あははっ」
笑いが。
「ふふっ」
こちらでも。
「……は……」
気がつけば。
「は……ははっ」
笑っていた。
三人で。
十
「宙央区」
言われた。
「え」
感じ取る。ニュアンスの違いを。
「中央区で」
「宙央区」
くり返す。
「宙に浮いているかのごときあやふやなる空間」
「い、いや」
「と言えばわかるか」
わからない。
「だめだよ、そんな説明じゃ」
そこに。
「仮面」
「――!」
ぎょっと。
「それは、お面だろう」
「えー」
不満げに。屋台で売っていそうな安っぽい代物を持って。
「仮面とお面、何が違うの」
「それは」
詰まる。
「ち、違うだろ」
「だから、何が」
「字が」
「字?」
「『か』と『お』が」
「それだけでしょ。あとは」
「いや、あの」
不毛な言い合いに割りこむ。
「それで……何?」
「えっ」
共に。
「ここが」
ここ――ラーメン兼カレー屋の休憩室が。
「何だっていうの」
「だから、仮面だよ」
伝わらない。
「お面でもいいけど」
より伝わらない。
「まあ、間違ってはいないな」
間違っていないのか。
「仮の世界」
「は?」
「というよりは、仮の『相』だな」
「相……」
またもわからなく。
「感じたことがないか?」
聞かれる。
「世界が」
真剣に。
「自分の周りにしか存在しないんじゃないかと」
「え……」
それは。
「ある」
「そういうことだ」
微妙に。説明に。
「それじゃ、わからないって」
言ってくれる。
「だから、仮面なんだよ」
戻るのか。
「この世界は本当の世界じゃない」
唐突の。本質的な。
「見ている、感じているだけなんだよ」
「え、えーと」
それは、だから。
「ここは感じているだけの世界」
「近い!」
近いのか。
「ここだけじゃないんだよ。全部なんだよ」
「………………」
またも理解が遠のく。
「一般化」
そこへの。
「脳はそれを自動的に行っている」
「……?」
「知らないのか」
あきれるでもなく。
「たとえば」
こちらに向かい。手のひらを。
「見えているな」
「見えてるけど」
「裏は」
「えっ」
聞くまでも。
「見えるわけ」
「だったら」
重ねて。
「この手のひらに裏はないと思うか」
「え……」
何を。
「思うわけ」
「なぜだ」
「えっ」
そんなの当たり前で。
「それが一般化だ」
言われる。
「まだわからないか」
やはり。あきれる風でもなく。
「なぜ言い切れる」
「なぜって」
手のひらに裏がないと思わない――ということか。
「表があれば裏があって」
「それは概念の話だ。いや、それも含むな」
あごに指を当て。
「真実ではない」
「は!?」
「おまえの言ったことは」
噛んでふくめるように。
「多くの場合、そうであるというただその事実にすぎない」
「………………」
そうだ。
けど、それを真実と言うのでは。
「ブラックスワン」
またも。唐突な。
「知ってるか」
首を横に。
「黒い……白鳥?」
「そうだ」
そうだと言われても。
「そんなの」
「いないか?」
先んじて。
「なぜ言い切れる」
またもの。
「なぜって」
だから。
「聞いたことないし」
「聞いたことがないものは存在しない?」
「それは」
言い切れないが。
「それが、ブラックスワンだ」
そんな急につなげられても。
「見たことがない、聞いたことがない。それが事実であっても、絶対に存在しないという『真実』ではない」
「う、うん」
「同じだ」
だから、何が。
「一般化とは、限られた情報をもってそれが真実であるとする脳の錯覚だ」
「え……」
手のひらを。
「あっ」
わずかだが。
「どんなにそれを見たことがあったとしても、それは〝いま〟見ているわけではない」
「………………」
「あるいは見ていなかったとしても、脳はそれが『ある』前提でとらえる」
確かに。
手のひらの表と裏を同時に見ることはできない。
あるという前提で。
至極、自然に。
一般化している。
「世界が自分の周りにしか存在しない」
「……!」
「描き割りのように裏側は存在しないのではないか。それは一般化の進んでいない幼少期の脳ではごく当たり前に生じる感覚だ」
そうか。
むしろそちらの感じ方のほうが正しい。
見えていないのだから。
あるとは断定できないはずなのだ。
「でも」
もともとの疑問に戻る。
「それと……ここと」
「同じだ」
またも。
「描き割りの世界」
「……!」
「言っただろう」
つまり。
この世界は。
「勉強熱心もいいが」
そこへ。
「育ち盛りが食事抜きは感心しないな」
「そうだ、そうだー!」
脇からの賛同。
「まったく」
やれやれと。
「おまえは餅ラーメンでも食べていろ」
「えっ、あるの?」
「ある。春日に老舗の和菓子屋兼食堂があって、そこが」
「ち、ちょっと」
こんなところで中断されても。
「ほら」
差し出される。
「話は置いておけるが、こちらは時を置いては台無しだ」
(う……)
鷹。やはりの。
(仮面)
つまりは。
「いただきまーす!」
(っ)
無駄にでかい声で我に。
とたん。
(お……)
スパイスの。香り。
胃を直接刺激されるような思いにたまらず。
「いただきます」
恥ずかしさと共に口にして。スプーンを手に取る。
「こら」
すかさず。
「ラーメンからだ、ラーメンから。カレーが先では舌が」
(また……)
こんなやり取りか。
「ちょっと待って」
思わぬ横やり。
「ラーメンだって油たっぷしのがあるじゃん。ほら、スープの表面に油が隙間なく浮いてるやつ」
「油膜系だな。あれは油で外気との接触を遮断し、熱を保つという」
「あれって、結構すぐスープの味がわからなくなっちゃうんだよねー。油が舌にも膜を作っちゃうっていうか。だったら、ラーメンが先でも同じじゃない」
「む」
予想外の反論と。
「そ、そういう店はそういう店だ」
「答えになってませーん」
「ここは純和風だろ!」
「いや〝中華〟そばなんじゃ」
「中華そばは日本料理だ! 日本で生まれたんだからな! 洋食と同じだ!」
「えっ、洋食って日本料理なの」
「西洋にオムライスやナポリタンがあるか!」
「ないの!?」
(ああ……)
まただ。
「和風でおかしければ『昔ながら』だ!」
「あー、最近よくあるよねー、そういうウリの店」
「あれは信じるな!」
「えっ」
「たびたびやられている。『昔ながらのあっさり』とうたいながら、油たっぷり味濃い目で。あんな昔ながらがあるか!」
「えー、けど、昔の人ってしょっぱい味付けが好きみたいなー」
「それは、その、煮物や漬け物はその通りだ。三越前の老舗弁松の弁当は濃い味付けが特徴ではある」
「じゃあ、やっぱり濃いんじゃん」
「それはだからあくまで味付けで、油はむしろ控え目の」
「二人とも」
おだやかに。
「お早めに」
うながされ。
「いただきます」
「いただきまーす」
あらためての。
(ふぅ)
やっと落ち着いて食事ができる。空腹はもうかなり限界なのだ。
気にかけたわけではないが。
忠告通りの順で料理を口にする。
「………………」
言葉はない。
ただ。しんみりと。
(うまい)
感じる。それは。
「……っ」
同じ。
やはり。
「どうしたのかな」
後ろで見守っていたらしく。
「……何でも」
小さく。言って。
再び箸とスプーンとを動かし出す。
「あー、カレーラーメンもおいしそうだよねー」
「まぜるな! それは双方の料理に対する屈辱だ」
「ちょっとだけだってー」
「だめだ!」
「けど、おいしそうじゃない? ライスにちょっとだけラーメンスープ」
「それは、まあ」
「そこにちょっとだけルーをまぜてー」
「う……」
ちらり。うかがう。
おだやかなまま。
「好きに食べればいい」
「さすが! 『俺の料理にコショウなんか』みたいなガンコおやじじゃない!」
「むしろ、しょう油やソースなど普段からそろっているのが日本の食卓というもので」
「そういうのいいからー」
どばどばどばーっ。
「こ、こら! ちょっとだけという言葉はどこに」
あわてる声と笑い声。
はぜる。
「自由だな」
つぶやく。
「自由なんだ」
(それは)
そんな覆面をつけている当人が一番。
「その自由を侵そうとする」
「っ」
「それこそが我らの敵」
言い。
「あっ」
背を向ける。
「あ、あの」
聞こうとした。
なぜ、そんな仮面? 覆面を。
それだけでなく、この二人まで仮面を。
「…………………」
いまさらの。
それを自分は。受け入れて。
ここにいる。
夜。
ベランダの手すりにもたれ。
「………………」
思う。
この。
自分の〝城〟のような場所も。
(夢)
なのだろうか。
いや、言われた通りなら。
日常的に。
人は。
その脳は。
ないものを当たり前ととらえている。
(ここも)
そんな。
(だったら)
確かなものなど、どこにもない。
いや、ありはする。
だけど、それは人がとらえることのできない。
(いま、ここ)
ただ。
〝人〟を通した世界の影にふれているのでしかない。
(仮面)
顔を覆い。自分を隠す。
その〝自分〟すらも、思っている自分ではないのかもしれない。
(仮面そのもの)
と。
言われた。
(そんなこと)
馬鹿らしい。切って捨てることはできる。
(けど)
触れる。顔に。
「いい月夜だな」
「……!」
「ほら」
目を。
「あ」
本当に。
月が。
ビル街の夜空にその姿を誇示している。
凛と。堂々と。
「………………」
しばらく。目を離すことができなかった。
「何だろう」
思わずの。
「なんで」
なぜ。こんなに。
「美しいものを美しいと感じる」
言われる。
「美しい」
言う。
「それも言葉だ」
その通りでは。ある。
「ない」
思わぬ。
「なくしきった先」
語る。
「そこに真がある」
見る。
「思わないか」
言った。
鷹が。
「鷹……」
「たかが」
言われる。
「そう思わないか」
「………………」
どう思えと。
「まあ」
手を。
「鷹」
伸ばす。
「だよね」
「そう見えているのなら」
その感触は。
「………………」
わからない。
はずもない。
ふれたことなんてないのだから。
(でも)
ふれたことが。
接したことが。
(ある……)
そんな。
「くすぐったいな」
「あっ」
あわてる。
「ごめん」
何をしているのだ。都心のビルのベランダで。
鷹とたわむれている。
(あり得ない)
けど、それが。
いま感じている〝現実〟なのだ。
「仮面」
「ん?」
「なのかな、これも」
小首を。かしげる。
(かわいいし)
思っているところへ。
「それが、好きな仮面なら」
「っ」
「つけていればいい」
見つめられる。
(あ……)
つぶらな。丸く黒い瞳。
そこに確かな。
知性。
おだやかな優しさを。
(やっぱり)
覚えが。
「来た」
首をめぐらせる。
「えっ……」
けげんな声をもらした。直後。
「!」
赤光。
並び建つビルの向こうに。
「な、何?」
「ゆらぎ」
口にして。
「正面からか」
「……!」
記憶が。
(あのときと)
同じ。
そうだ。
学校への襲撃も。
さらに。
(マスター……)
あのときだって。
破壊の火を思わせる光の後に現れた。
仮面たちが。
「やつらが手にかけたのは隊員たちだ」
「えっ?」
「正確には、各地で養成していた候補生と言うべきだがな。みな、実戦でも十分通用する優秀な若者たちだった」
苦しそうな。鳥の顔ながらわかった。
「最終選考のために集結させた。そこを狙われた」
「それって」
驚きに。
「学校の」
突飛な。その言葉を。
「そうだ」
肯定する。
(じゃあ)
あの『学校』は。
それもまた。
「仮面……」
「そうだな」
またもの。
「生き残ったのは三人だけ」
「!」
自分とあの。
「っ」
ということは。
「あの人たちも隊員って」
「かなりの規格外ではあるがな」
苦笑の気配。鳥なのに。
「あっ!」
もっと重要なことに気づく。
この自分も。
「そんな」
「ん?」
「隊員とか……知らないし」
「そうか」
さびしげに。
「それも忘れているのだな」
「えっ」
それ『も』?
「無理はするな」
諭される。
「だって」
なおさら。
「いまは」
肩に。
「っ」
はっと。
「あ……」
ない。
当たり前だ。鷹が肩に手を置けるわけがない。
そもそも、手(?)がない。
それでもいま確かに。
「生きることを考えろ」
「……!」
「おまえは」
翼を広げ。
「おまえだ」
飛び立つ。
「あっ」
その姿が。赤い光の不気味にゆらめくビルの向こうへと。
「待っ」
とっさに。
「………………」
手を伸ばした。まま。
「何も」
聞けていない。
「まただよ」
断片的なことばかり。
肝心なことは。
「まだだって」
屋内に。
支度をするのももどかしく。
飛び出す。
エレベーターも待ちきれず、階段を駆け下りていく。
「ハッ……ハッ……」
運動と興奮で。
息が高まっていく。
(だって)
止まれない。
ここで何もしなかったら。
結局、部外者のままだ。
(嫌だ)
もう。
仮面だろうと、何だろうと。
(全部)
はぎ取って。
その先に。
(たとえ)
この〝自分〟がなくなろうと。
十一
すでに戦場だった。
「わ……わわっ」
焦る。
仮面の襲撃者たち。
明らかに『劣る』と思われるシンプルな意匠のそれを付けた者たちが。
「えっ!?」
喰らっているように。
目には。
(街を)
いや、周囲の空間そのものを。
取りこむように。
仮面が。
吸収している。
「なんだよ」
わけがわからない。
「仮面は仮面によって中和される」
「!?」
そこに。
「であろう」
「えっ」
「ことを希望するかと」
「どっちだよ!」
思わずの。
「ご随意に」
「っ」
「あなたは」
両手を広げ。
「王なのだ」
「違う!」
すぐさま。
「違う、違う! そんなの知らない!」
「では」
仮面越し。
「何を知っていると」
「っっ……」
詰まる。
「何であると」
何『で』?
「それは」
ますます。答えられない。
それでもようやく。
「九十九……一」
「ツクモ・ハジメ」
返される。
「それは、無数の仮面の一つ」
「!」
あっさりと。
「九十九は無限と同義」
「そんなの」
「仮面は無限」
「……!」
「仮面は永遠」
「あ……く……」
永遠の仮面。
つまり、自分には。
「っ!」
銃声が。意識を強制的に引き戻す。
「えっ」
次々と。
仮面兵に銃を向けているのは。
「えっ、ちょっ」
普通の。それこそ平日のビル街を普通に歩いている会社員にしか。
「弱卒かと」
前に出る。
スコップを思わせる長柄の武器を取り出し。
「や」
とっさに。
「やめっ」
間に合わない。
悲鳴と共に鮮血が上がり。あの惨劇が再び眼前でくり広げられ。
「下がれ!」
するどく。
「仮面師(マスクマスター)相手に一般の火器では無理だ! 退避!」
弾かれたように反応し、すぐさまその場から撤退する。
それと入れ替わるように。
「!」
鷹の。
その身体は、しかし、食堂の調理服でもなく、もちろん鳥のものでもない。
威厳のにじむ。軍服のような白い衣装。
「困った坊主だ」
(あ……)
はっきりと。
「坊主じゃ」
胸に。広がっていく。
「ない」
言う。
「そうだな」
苦笑の。
「いまでは立派な」
そこへ。
「あっ!」
飛びかかる。スコップの刃がひらめく。
「はいやぁぁーーーーっ!」
迎え撃つ。
「あちゃーっ! わっちゃーーっ!」
またもの。頓狂な。
(おい……)
カンフー映画の見過ぎか。
「五月蠅いと!」
くり出される蹴りをスコップの腹で受ける。
キン、キン、キィィン!
またもの剣劇を思わせる金属音。
「司令!」
駆け寄ってくる。
「おまえはいつも後から来るな」
「あのバカが先走っているだけです。もっとも、今回は先走らせましたが」
「ほう」
「司令」
心持ち。厳しく。
「軽々しく前線へ出られては困ります」
「まあ、昔の血が騒ぐというかな」
「騒がせないでください」
厳しい。
「いまはわたしが〝戦士〟です」
(――!)
戦士。
やはりと言うべきか。
(仮面の)
敵と戦う。
自らも仮面をつけた。
それは。
(知ってる)
そう。かつて自分はその〝戦士〟たちと。
(一緒に)
自然と。前に。
「突き、突き、突きぃぃーーーーーっ!」
奇声と共にさらなる攻防。
(突きって)
「おまえのは蹴りだろう、おい!」
そう言って。駆け出す。
(……あ)
感じた。
「待っ」
遅く。二人がそろったその瞬間。
「単純かと」
空間が。呑みこむ。
「だめっ」
空しく。
手を伸ばした先に、すでに。
「さらわれたか」
「っ」
きっ、と。
「それだけ?」
「ん?」
「いま、あの二人が!」
詰め寄る。
「偉いんでしょう!」
「そんなつもりはないんだがな」
「つもりって」
なんて責任感のない。
(ううん)
やっぱり。この飄々とした態度は。
「変わらないよね」
「え」
息を。
「おまえ……」
「知らない」
目をそらす。
怒っていた。
「行くから」
「行ってくれるか」
「って、よろこばないでよ!」
にらんだ。
でも。
「……馬鹿」
憎みきれない。
「好きか」
「はぁ!?」
なんてことを。
「あいつらが」
「あ……」
そっちかと。
「好きとか」
それでも面はゆく。
「放っとけないし」
「好きだから」
「しつこい!」
にらみつける。
またも苦笑。余裕の。
「わかった、わかった」
「何が!」
「坊主」
不意の。真剣な。
「いいんだな」
「……なんだよ」
口を。とがらせて。
「遅すぎるよ」
「そうだな」
苦笑い。あくまで子ども扱いだ。
「坊主じゃないって」
「坊主じゃないな」
うなずく。
「レディだ」
「……!」
さすがに。
「や、やめてって」
「レディだな」
「納得しないで!」
火照る。止められない。
「……馬鹿」
そらしてしまう。
「ははっ」
笑い声。
慣れているという。
泡立つ。気持ちが。
「あのさぁ!」
再び顔を。
「っ」
仮面。
「いるだろ」
「………………」
「おまえの」
渡される。
「力だ」
「力……」
手にした。それを。
「いいのかな」
「いい」
うなずく。
「二尉の」
はっと。
「マスターの」
すぐさま。
「想いを」
言われるまでも。
「ないよ」
言って。
「わかってる」
強く。握りしめ。
「行くから」
駆けた。
「色の悪いクリームソーダかぁぁーーーーーっ!」
絶叫。
「色の良いクリームソーダって、何だ」
ぼそりと。ツッコむその声にしかし余裕はない。
「くそっ」
拘束。
まさに『色の悪いクリームソーダ』と例えたい色による。
「えっ、クソ?」
「聞きとめるな」
「クリームソーダを略して」
「こだわるな!」
声を張るも、やはり余裕はない。
動けない。
「熱っ!」
「くっ」
こちらも。
「腐緑(ふみどり)」
仮面の。
「腐る、腐る」
ささやきが。
「緑」
それに。
「知るかぁーーーーっ!」
叫び返すも。
「あ……やっ」
拘束が。単に強まるというのでなく、侵食するようにまとわりついてくる。
「育て、育て」
さくさく。
スコップ槍がアスファルトに突き刺さる。
道路の割れ目から、新たな蔓が蛇のようにうねり現れる。
「伸びろ、伸びろ」
一面に。見渡す限り、辺りは腐臭を放つ緑に覆われていた。
「都会のど真ん中で大規模農業を目にすることになるとは」
「農業なのこれ!?」
「見方によっては、広いスイカ畑にも」
「見える!」
「力いっぱい同意されても」
「食べたいなー、スイカ」
「この状況でよく」
「のぬか漬け」
「皮か!」
漫才の最中も。
「ふんっ! ふんっ!」
力いっぱい。しなやかな脚をばたつかせる。
「くっ」
手ごたえ。いや、脚ごたえが。
ない。
ふよふよとまとわりついてくる蔓は、風に吹かれる柳のように蹴りを受け流す。でありながら、決して離れようとはしない。
「しつこい!」
「キモい」
共に。
「けほっ、けほっ」
むせる。腐臭に。
「これって」
ようやく。
「ヤバくない?」
「ヤバい」
油断だった。ただこちらの動きを阻害するだけのものと思いこんでいた。
腐緑。
その名の通りに。
蔓の粘液がこちらの肉体を腐らせようとするだけでなく、漂わせる臭気もまた恐るべき〝武器〟であったのだ。
しかも、蔓はすでに一面に広がってしまっている。
ガス室の中にいるも同然だ。
「けほっ、げほぉっ!」
咳きこむそこに血が混じり出す。
「ヤバい……って」
「おい!」
激しく動いた分、腐気もよけいに吸いこんでいたのだろう。より深いダメージを見て動揺を隠せない。
「くっ」
手中にある爆薬。
見渡すかぎりに繁茂する蔓を吹き払うには到底足りない。その上、爆風で腐気を広げてしまう可能性もある。
(万事休す)
認めたくはない。しかし。
「!」
突然の。
「ひゃっ」
驚きの声。こちらも目を閉じる。
「く……」
薄目を。
「あっ!」
光が。
腐敗をまきちらす無数の蔓すべてを。
飲みこんでいた。
「赤い……」
炎を思わせる。
しかし、荒々しさではない。破壊ではない。
純粋な。
浄化の。
「あ……」
崩れていく。光に染め上げられた蔓が次々と。
「ぐはっ」
拘束を解かれ、崩れるように倒れこむ。
「おい!」
こちらもボロボロになった蔓をふり払い。
駆け寄る。
「早く!」
四の五の言ってやる余裕もない。
無理に口を開けさせ、そこに非常用の解毒薬を放りこむ。
飲みこんだのを確認し、自分も同じものを口にする。
「ふぅ」
どのような形であれ『仮面』の侵食にはこれで効き目があるはず。
ギリギリのところだった。
「お……おお」
恐れ敬うかのごとく膝をつく。
その先に。
「あ……」
赤い。仮面の。
「なぜ」
顔を上げる。
「そのような偽りの面を」
「偽り?」
小さな。しかし、はっきり。
「本当だよ」
言う。
「この仮面で」
かすかに。ふるえ。
「あんたと戦った」
「如何にも」
立ち上がる。
「そして、命果てた」
「!」
ふるえる。
「この」
スコップの穂先を掲げ。
「仮面師・腐緑の〝深泥(みどろ)の槍〟により」
「黙れよぉっ!」
叫び。
飛びかかる。
後方に下がってかわしつつ。
「あなたを逃がすためにその身を張った」
「黙れぇっ!」
「再びこうして巡り合うため、長い時を要した」
「黙れって!」
シュンッ。
「っ」
突きつけられた。
「ふさわしくない」
「く……」
動けない。
「麗しくない」
断じる。
「無駄なる仮面」
じりじりと。突先が。
「砕く」
「やっ……」
腰が引ける。
「コラーーーーーッ!」
そこへ。
「赤をいじめるなーーーーーーっ!」
飛びかかる。黄。
さらに。
「フンッ!」
放たれる。
とっさにスコップ槍を引いて下がる。
続けざまの小さな爆炎。
「格好いい登場をしたわりには」
並ぶ。青。
「締まりがないことだ」
「ほっといてよ」
仮面の奥。唇をとがらせる。
「変わったな」
「えっ」
きょとんとなるも、すぐ。
「変わったよ」
確信を。持って。
「変わるんだ」
あの人のように。
あの人の。
(この)
仮面を継ぐ者として。
「つけるから」
宣言する。
「決着」
うなずく。
隣に着地したほうも、共に。
「もう」
やらせない。
先日の学校襲撃。
そして、横須賀での。
(もう)
拳に。力がこもる。
その上に。
「っ」
置かれる。二つの手。
「行こう」
「行くよ」
「………………」
それに。
「うん」
うなずく。
甦る。
あのカレーショップでの時間。
「行くから」
言って。
「行く!」
走り出した。
三人で。
十二
「てぃやぁーーーーーーーっ!」
飛び出したのは、やはり。
「今度こそぉ!」
渾身の蹴りを。
「友だちを! 先生たちを!」
そうだ。
同じように。
身近な人たちを。大切に思う人たちを失った。
その想いが。
「ちぃえぃやぁぁぁっ!」
雄たけびと共にほとばしる。
「っ」
思わず。こちらも。
「あ、おい!」
止めようとする声を背に。
「たぁっ!」
何の考えもなく。
(マスターと)
同じように。さっきだってできたのだ。
「はっ!」
右手を。前に突き出す。
(同じ)
イメージを。
「っ!」
出た。炎のようにゆらめく赤い光。
(伸びろ)
仮面が熱い。
力が。
意志をコーティングしたそれが手もとに。
「!」
伸びた。猛烈な勢いで。
「ひゃわっ」
蹴りかかろうとしていたその肩先をかすめ、赤き閃光の槍が突きかかる。
「ほほっ」
驚きとも歓声ともつかぬ声。
後退する。
「危ないよー」
並んで。
「焼き豚にするつもり? もー」
「将来、豚になるという危機感はあるんだな」
反対側で。
「あっ」
しまったと。
「焼き鳥にするつもり?」
「油っこいのは変わりないがな」
そして。
「はぁー」
ため息。
「馬鹿一人の面倒を見るだけでも重荷だったのに」
「だから、豚にならないし! 重くないし!」
(馬鹿は認めるのか)
と、はっと。
「『一人だけでも』ってことは」
「はぁー」
何をいまさらと。
「二人も暴走野郎を抱えることに」
「野郎じゃないし!」
「坊主じゃない!」
「いや、そっちは意味がわからない」
「『はーぼん』だ!」
「は!?」
「『ハジメ』と『坊主』で『はーぼん』!」
「だから、坊主じゃ」
「散漫かと」
「!」
顔を向けたそこに。
「っ……」
緑の蔓が。こちらと同じく槍のように。
「ちぇやっ!」
蹴り上げる。
「ふんっ!」
爆散させる。
「行け!」
我に返り。炎の槍。
真っ向から突き合い、一瞬で赤い光を伝わらせる。それは他の蔓にも広がり、黒い灰に変えすべて燃え崩れさせた。
「すごい、はーぼん!」
「いや、その呼び方」
「リンリンもがんばった!」
「手遅れだ。あきらめろ」
「えー……」
がっくりと。
形勢を立て直した。そんな一同を前に。
「腐緑では」
たんたんと。
「無理」
己の仮面に。
「かと」
手を。
「二つ面!」
するどく。声を張り。
「えっ!」
つかんだそれを一息に。
「――!?」
世界が。
反転した。
「わっ」
「きゃっ」
「くっ」
落下して。それぞれ悲鳴を。
そこは。
「あ、あれ」
空が。
「何、これ」
知っている空ではなかった。
広い。
ビルの林立する都心ではまず見ることのない。
「ここって」
気づいたと。
「屋上だよね」
「っ」
確かに。
(でも)
どこの? 周りを見渡し、すぐ目に入ったのは。
「えっ、ちょっ」
観覧車。安全基準は大丈夫かと思わせるレトロな外観で、大きさもさほどではないがそれは確かに。
(いやいやいや)
この都心で。
しかも、中央区で観覧車のあるビルの屋上なんて。
(あ……)
違う。ここは。
「『宙』央区」
「その通り」
すかさずの。
「宙に浮かぶ想いが集まる場所」
「えっ」
「と言われている」
何なのだ、それは。
「発見時は」
発見?
「仮面たちの拠点の一つと思われていた」
「え……」
そんな場所だったのか。
「なんで」
そのようなところにわざわざ自分たちはいるのか。戦うことになっているのか。そもそもの前提として、ここは本当は何なのか。
多くの疑問が渦巻く中。
「あせるな」
あせりもする。
「自然発生的に」
たんたんと。
「ここは生まれたとされている」
またもあいまいな。
「仮面たちが世界に及ぼす歪み」
声が。重く。
「手がつけられないほどにそれは広がっている。世界の『知らない』ところでな」
「知らないところって」
それこそ、知らない話で。
「もはや手が負えない状況になりつつある」
「えっ」
深刻な響き。
「外では勝てない。それ以前に認識そのものが不可能になりつつある」
「そんなの」
どうしようもないでは。
「ここだけ」
空を。見上げ。
「歪みの自然収束地たるこの空間。白でも黒でもないここなら」
現実の中央区と重なるように発生した。
歪んだ鏡映しの。
宙央区。
「!」
不意の。
「えっ、地震?」
その規則正しい振動は。
(違う)
足音。しかし、ビルの屋上でこれほど重量感のあるものが。
「っ!」
鳴き声。野生の荒々しさむき出しの。
(これって)
聞き覚えが。
身近な何かではない。
それは。
「おほぉーーーーーっ!」
やはり頓狂な。驚声。
「象だぁーーーっ!」
馬鹿な。言いたいところだ。
「ホントに、ホントに、ホントに、ホントに」
「それはライオンだ」
なぜ、知っている。ツッコミを入れているほうも『なぜ』なのだが。
「場所が場所だけに?」
「あっ」
そうだ。
あの謎の大食堂があった。
確かに、正面入り口には像が並んでいる。
(けど)
ここにいるのは『象』であって。
「!」
こちらの目を覚ますような。
足踏み。
「あっ!」
指をさす。そうされる前に、象の背に乗った影には気づいていたが。
「あ……」
違う。
仮面が。
「踏鳥(ふみどり)」
高らかに。
「ふ……!」
同じ? いや、響きの違いを。
「鳥じゃないじゃん!」
またも指さして。
「いや」
隣で。
「兎はどう数えるか知っているか」
「決まってるでしょ。一応、高校生なんだから」
自分で言うか、『一応』と。
「そういう設定なんだから」
設定なのか。
「『一匹、二匹』じゃなくて『一羽、二羽』でしょ。かからないし、そんな引っかけ」
引っかけでなく、常識の範囲だ。
「なんでだ」
「えっ」
唐突に聞かれ。
「なんでって」
ズシン!
「っ」
そうだ、こんな話をしていられる状況では。
「!」
突進。
「ヤバい、ヤバい、ヤバい!」
言われるまでもなく。
巨体。
屋上の床を突き破らんばかりにゆらしながら。
温厚そうな世間のイメージとまったく違う。
戦いの場において。
それこそ、ライオンにも負けない圧倒的な〝獣〟の威圧感と共に。
「ぼうっとするな!」
必死の叫び。
直後、我に返って身を投げ出す。
「あ……」
容赦のない。
自分が立っていたところを目がけての。
「身体など不要」
冷厳な。共に中身まで変わったかのごとく。
「仮面さえ残れば可」
(な……)
何なのだ。あらためて得体の知れない存在を前にした恐怖が。
「これでわかったろう」
「何がさ!」
「一羽、二羽」
その話か。
「兎をそう数えるのは、長い耳を羽に見立てたからだ」
「そうだったの!」
それは何かで聞いたことがある。
「同じだろう」
「あっ」
見る。
「同じ……」
と。言えるかもしれない。
兎とは異なるものの、十分にインパクトのある大きな耳。
そして、巨体からは思いもつかない俊敏さ。
「踏鳥」
だが、踏まれるそのダメージは鳥とは比較にもならない。
さらに。
「うわあっ!」
振るわれる。
「鼻ぁ!」
鼻だ。ノーズだ。
それが鞭のように、いや荒縄を思わせる力強さでこちらを襲う。
「これは鳥に例えて何!?」
「こ、これは」
さすがに言葉に詰まる。
「どうするの!」
確かに。このままでは。
「どうにかする!」
言って。手にした爆薬を放つ。
「!?」
払われた。
投げたそれがまっすぐこちらに向かって。
「ひゃあーーっ!」
ドン、ドン、ドォーーーーーンッ!
「殺す気か!」
「どうにかしようと」
「どうにかする気か!」
わけがわからない。
などと、心の中でツッコんでいる余裕もない。
「行くから」
前に出る。
(力を)
右手に。仮面からの意識を集中させる。
(行ける!)
手に。
光が。
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
突き出す。
「出たぁっ!」
歓声を背に。
「!」
止められた。
「み……」
水!?
「噴水だ!」
微妙に違うような。
が、正確には何と言うのか。
鼻からの。
水が。
炎の槍と拮抗していた。
「え……!」
いや。
拮抗どころか、水流は勢いを増し。
「きゃあっ」
吹き飛ばされる。
「うひゃあっ」
「くうっ」
そのまま全員をなぎ払う。
「危ないって!」
現代では信じられないほど低いフェンスにつかまり。かろうじて屋上の外に飛ばされるのを防ぐ。
「なんで象なの!」
いまさらながらの。
「動物園じゃないのに! デパートなのに!」
「客寄せだ」
すかさず。
「デパートの屋上に観覧車や象を置いて客を呼ぶことは以前は当たり前に」
「以前じゃないし!」
以前なのだ。この空間では。
(だから)
空も。こんなにも広い。
「小田原城にも象が」
「城じゃないし! そもそも象権侵害だよ!」
そんな生易しい相手では。
「逃げられぬ」
「っ」
言われる。
じわりじわり。こちらとの距離を詰めてくる。
「ヤバいよね」
「ヤバいな」
「ヤバくない」
言い張る。
「行くから」
前に。
「っ」
出られる。
「え、や」
自分が。
「ないから」
言われる。
「ここまで来て一人でって」
「……!」
思いもかけない。
(ってこと)
ない。
自分たちは。
「だよね」
つぶやく。
(同じ)
あのときの。あの人たちのように。
(三人で)
この苦境を。
超える。
リベンジする。
「てやぁーーーっ!」
「えっ!?」
飛び出した。
「ちょ、待っ」
止めてきた当人が。
「ひやぁーーーっ!」
あっさり。
(おい……)
言葉もない。
「危なー」
またも。ギリギリのところでフェンスにつかまる。
「危ないのはおまえの頭だ」
「なんで!?」
心底な。その反応にため息しかない。
「……ふぅ」
こちらも。力が抜ける。
こんなときにも。
いや、こんなときだからこそ。
顔を上げる。
空。
広い。
(現実に)
見られるものとは違う空だとしても。
その広さは〝確か〟だ。
比べて。
(小さい)
なんて。
このちっぽけな。
「逃げよう」
「へ?」
共に。目を丸く。
「逃げるって……あの『逃げる』?」
他にどの『逃げる』が。
「料理法か。『煮切る』を『煮げる』と言う地方があって」
「あー、『煮る』のことを『炊く』とか」
こんなときにボケを広げられても。
「逃走だよ」
言葉を変え。
「けど、資金が」
問答無用。
「あっ」
手を。
「お、おい」
取る。
「行くよ」
走る。
「いや、待っ」
「マジで、マジで!?」
マジで。
フェンスに向かって。
(足)
意識を。その裏に。
「わーーーーっ!」
跳んだ。
そのまま。
「ひゃぁーーーーっ!」
飛んだ。
「アトムか!」
ツッコミが。
確かに。
足の裏から炎を噴出して飛んでいるのだから。
「し、しっかり」
誰に向けての。
やってしまってからの。
自分でも、おっかなびっくりの飛行。
手どころか、二人ともこちらに必死にしがみついている。
「重っ……」
「左右のバランスが」
「って、こっちが重いって決めつけてる!」
「おまえは餅の分が」
「ちょっ、おとなし……くっ!」
本気で頼んでしまう。
そこに。
「あ……」
「嘘……」
来た。
こちらの火炎噴射のように鼻から水を。
ではなく。
「耳!?」
まさに『鳥』だった。
「ちょっ、逃げられてないじゃん!」
しかも、左右に二人を抱え、状況はむしろ最悪に。
(……いや)
最悪なんて。
誰が決められる。
誰も。
決められない。
(だから)
いまが。
最高だ。
「飛んで!」
「へ?」
「は?」
きょとんとなる。その腕を強引に。
「ええっ!?」
「バッ……!」
ふり払った。直後。
(間に合う)
意識を。
(間に合わせる!)
左右の手に。
「はぁっ!」
放つ。
「わっ!」
「おお!?」
落下が止まる。
「乗りこなして!」
「なんだとぉ!?」
一方。
「ひゃっほーーーっ!」
「早っ!」
こちらから言っておきながら。
(やっぱり、陸上部)
は関係ないかもしれないが。運動神経が影響してるのは間違いないだろう。
空飛ぶ炎の槍を。
サーフボードさながら。
完全に乗りこなしている姿に。
「馬鹿は適応が早い……」
言いつつ。こちらもおそるおそるながら、なんとか乗れている。
「よかった」
「おい!」
すかさずの。
「確信もないのにこんなことを」
(確信)
そんな余裕は。
「ない」
「認めた!?」
「違って!」
いや、正確にはそれも。
「いぇーーーーーーーーい!」
「あっ」
戦っていた。
「あいつ」
頭をかかえる。
気持ちはわかる。
驚速で乗りこなしたかと思えば、またも一人で。
(……!)
気づく。違和感に。
(あ)
ない。
あの威圧感。
「行ける」
「えっ」
「行くんだよ!」
詰め寄る。
「ちょ、待っ……まだバランスが」
「バランスとか!」
言ってる場合では。
「ない!」
投げた。
「!」
投げられて。
「う……わぁぁぁーーーーーーっ!」
飛んだ。
「馬鹿なぁーーーっ!」
絶叫し。それでも。
「くっ!」
手を。前に。
「――!」
まとわりつかれつつ、それでもさらなる接近に気づいたようだが。
(遅い)
爆風。
「くぅっ」
それで己の軌道も変える。
「はぁっ……はぁっ……」
さすがに動揺は抑えきれず。乱れる息で。
「殺す気か!」
「向こうをね」
言う。
「チャンスだ」
「……!」
気づいたらしい。
「耳が」
破れた。
とまではいかないが、確実にダメージを負っている。
それは動きにも如実に表れている。
(そもそも)
空。
飛べる象ということに驚かされたが、やはり戦うことにおいてはこちら以上に不利なフィールドなのだ。
(踏めないし)
名前負けもいいところだ。
(いや)
逆転の発想。
相手の最大の武器を、むしろこちらのものに。
「行くから!」
声を張り。飛び出す。
目指すは――下。
「行って!」
下方からの呼びかけに。
「よっしゃーーっ!」
「わかった!」
伝わった。と、直後。
「もらったぁーーーーっ!」
「爆ぜろっ!」
同時に。その広すぎる的を目がけて。
「行けぇーっ!」
命中する。
遠目にもわかるほど裂け目が『翼』――耳に広がり。
(来た!)
落下。
(行ける)
手に。光の炎を。
(当てる)
外しようもない。
(もっと)
足りない。
あの巨体を貫く。折れることのない。
(そんな)
槍が。
(ううん)
それじゃ足りない。
(もっと)
もっとだ。
力を。
意識を。
右手に注ぎこむ。
(仮面の)
力。
こんなことができるなんて思ってもいなかった。
できていた。
(同じ)
あの人と同じように。いや、同じになれる。
(マスター)
心の中で。あらためて。
負けていなかった。
それを。
(証明して)
見せる!
「建てぇぇぇーーーーーーーーっ!」
勢いよく。
伸びる。
だけでなく。
その太さをも急加速度的に増していき。
「!」
ズゥゥゥゥゥゥゥン!
「あ……」
声も。なく。
「これって」
近づいてくる。
見上げる。
「すごい……」
「ああ」
共に。息を。
「東京タワーだ」
長大なる赤き四角錐の威容。
高層と言えるような建物がまだ多くない街並みの中、それはかつての雄姿を誇るかのごとくそびえ立っていた。
「しかし」
頭をかかえる。
「港区だろう、タワーは」
「じゃあ、スカイツリー?」
「そっちは墨田区だ!」
「ぷっ」
笑ってしまう。
「……ふぅ」
見つめる。
夕陽が。
いつの間にか街を染め上げていた。
タワーと同じ。
赤に。
「勝ったよ」
気がつくと。
「勝ったから」
仮面の奥。流れる。
それは。
「………………」
ぬぐえない。
その必要もない。
一つに。仮面を通して。
心が。
記憶が。
熱い想いと共に。
「っ」
記憶――
(え、ちょっと)
とんでもないことに。
(待って、待って、待って)
パニックに。
仮面と記憶。
唐突の。
だが、それはあることと符合する。
この自分の。
記憶。
それが時期時期において断片的にしか残っていないこと。
あるいは、まったく。
(それって)
まるで。
仮面と共に記憶も脱いでしまったような。
「無限の」
「!」
あり得ない。
「仮面」
低く。ささやくように。
歌うように。
「さあ」
大仰なる一礼を。
「次なる仮面は?」
「な……あ……」
気持ちが。まったく。
「っ!」
衝撃。
「きゃあっ」
大きく。のけぞり倒れこむ。
「あっ!」
「大丈夫!?」
駆け寄る。
「――っ」
「!」
絶句。
「あ……あ……」
触れる。
なかった。
あったのは砕かれたその残滓。
「い……」
絶叫する。
「嫌ぁぁぁぁーーーーーーーーっ!」
十三
「あ……はっ……かはっ」
息が。できない。
「しっかり!」
「何てことを」
険しい顔。こちらを気遣うように。
(……あれ?)
誰だ。
「い、嫌っ」
へたりこんだまま。
「え、ちょっ」
きょとんと。
「どうしたの」
仮面をつけた。二人。
「来ないで……」
たまらず。
「来ないでよぉっ!」
絶叫。
「………………」
絶句する。
「ううう」
顔を手で。
(素顔……)
違う、違う、違う。声が頭の中で。
(本当の)
自分。
そんなものが本当に。
両手で覆い隠したこの向こうにあると。
信じられない。
信じることが。
「きゃあっ!」
「ぐっ!」
悲鳴。なぎ払われる音。
「受け入れたまえ」
祈るように。
「王よ」
ひざまずく。
「貴方は」
唱える。
「仮面そのもの」
響く。
「仮面そのものを」
朗々と。
「仮面そのものが」
指が。
「貴方」
突きつけられる。
(あ……)
考えられない。
わからない。
だから、もう何も。
(は……)
考えない。
決めた。
「仮面」
いまの。この。
「王」
受け入れて。
「そんなわけないじゃーーーーーーーーん!!!」
大絶叫。
「……っ」
顔を。目を。
「あ!」
仮面を。
外した二人が。
「馬鹿言われてんじゃない!」
どこに向けられたセリフか。一瞬、見失うも涙に濡れた目はこちらを見ていて。
「仮面なわけないでしょ!」
言われる。
「そ……」
それは。つまり。
「仮面はごはんを食べません!」
がくぅっ!
「大体、仮面つけてごはん食べられないでしょ! お餅だってくっついちゃうでしょ!」
ここでも餅なのかと。
(……あ)
気づく。
(あ、ある)
覚えて。いて。
「『ごはんはよく仮面』とは言うけど!」
「それは『噛め』だろ」
こんなやりとりも。
「……ははっ」
「ウケた!」
「狙ってか!」
「はっ、あははははっ」
笑えて。仕方がない。
「胡乱!」
そこへの。
「無粋!」
言い返して。立つ。
「あっ」
「おい、おまえは」
止めようとされるも。
「平気」
額に流れる。
「っ」
指につけたそれを顔に引く。
自分の。
自分だけの。
「大丈夫」
描きあがる。
「ここに」
仮面。
「あるから」
突っこむ。
「おお!」
驚愕とも歓喜とも。
「はっ!」
手を。
まだ血のついたそれを。
振るう。
(世界に)
色を。
化粧を。
街を染める夕焼けが、指の動きに合わせるようにして渦を巻く。
その〝赤〟を。
鮮烈な。
「はあっ!」
最後の一振り。
「………………」
そこに。
「ねぶた……」
あぜんと。
「いや、あれは正確には、ね『ぷ』たと」
それが『ぶ』でも『ぷ』でも。
自分は。
自分の仮面を。
「魂」
初めての。
実感。
「ここに」
誰にも。折らせない。
「行くよ」
手を後ろに引く。
合わせて。
巨大なる赤き騎士も共に。
「逃がさない」
いや、逃げようともせず。
陶然と。
ただただ、こちらに崇敬の眼差しを注ぎ続ける。
「王よ」
「嫌だ」
真っ向。
「これが」
前に。
「答え」
突き出す。
「――!」
衝撃の。
「っっ……」
世界ごと。
「行くから」
貫いた。
「……っ」
一瞬の。忘我。
「あ」
感じた。
(カレーの)
芳香。
(や……)
そういう言い方は違うかと。
(刺激臭)
と言ってしまうのも。
(けど)
懐かしい。
あたたかい。
ずっとずっと、昔の。
魂そのものに近かったころの。
(記憶)
意識。刻まれた。
(……そうか)
仮面だ。
この身体も。
日々、その姿を変えていく。
替えていく。
魂を。
存在を覆って。
(守られている)
のだ。
やわらかく。
それを通して世界と向き合い、つながっていく。
(仮面なんだ)
最初から。
自分たちは。
(もう)
『お帰り』
そこへ。
歩いていくだけだ。
仮面ランサー