百合の君(9)
古実鳴では毎年一月十一日、五月五日、七月七日、九月九日、十二月十二日の年に五回、城内で喜林臥人臨席のもと武道大会が開かれる。
木怒山に滅多打ちにされた翌日から、蟻螂は痛む体を押して特訓した。彼が道場に姿を現したというだけで、他の者達はみな驚いた。いきなり半殺しの目に遭えば逃げ出してもおかしくない。ましてや次の日から稽古など不可能だ。木怒山もそのつもりで打擲した。向生館の一同は、恐れをなした。まぶたは青黒く腫れ、全身の包帯は赤く染まっている。
「おい」
蟻螂に最初に声をかけられた門下生は、聞こえないふりをして殴られ、気絶した。
「おい、相手になってくれ」
次の少年は、剣を交えて間もなく腕を骨折した。
「次」蟻螂は半ば自動的に戦いながら、学んでいた。倒せば倒すほど、みんな素直に従う。木怒山さえも気味悪がって何も言わない。そうか、蟻螂は思った。力をつけることは、穂乃を取り戻すために必要なだけではない。誰からも憎まれる自分が、人の社会で生きていくために必要なことなのだ。人の世は猿とおんなじだ。力を示さねば認められない。
それから蟻螂は稽古を重ね、着実に腕を上げていった。一月十一日の大会で、蟻螂は三回戦で負けた。五月五日の大会では、準決勝で負けた。どちらも優勝は木怒山だった。
そして蟻螂はいま、七月七日の大会決勝で、木怒山の前に立っている。
空気が熱く湿って裸の上半身にまとわりついてきた。肌を濡らす液体は汗ではなく、空気それ自体のようだ。向かい合った木怒山の体は、真っ赤に焼けていた。蟻螂は正月の市で見ただるまを思い出した。
「山猿が殿の御前で剣を振るうなど、思い上がりもたいがいにせい」
もぞもぞ動く髭にも汗が滴っていた。歓声でその声は十分聞き取れなかったが、蟻螂はちらりと臥人の方を窺った。胸元を扇子であおぎながらあらぬ方を眺めている。
始め、の合図で蟻螂は剣を左に振った。木怒山がそれに反応したのを見る間もなく、素早く右に返しそのまま横腹を打った。木怒山の顔が一瞬苦痛に歪む。が、立会人は見ていない。わざとらしく手庇をして、天を仰いでいる。蝉が喧しかった。歓声はなぜか蟻螂を罵倒した。木怒山が右手を狙ってきたのを避けて腕を打ったが、やはり何の合図もない。
なーんだ、蟻螂は思った。蟻螂は八百長という言葉は知らなかったが、自分が勝てないように仕組まれていることは完全に理解した。しかし蟻螂は怒らなかった。それどころか喜んだ。蟻螂は全力で人を打ったら殺してしまうので、剣が相手に当たる寸前で力を弱めることを覚えていた。でも、もうそんなつまらない事はしなくていいんだ。殺してこいつを動かなくすれば、みんな俺の勝ちを認めてくれる。殿も俺の力に驚くだろう。
蟻螂は木怒山の顔を見た。好意の視線を向けたつもりだったが、木怒山はいささかたじろいだようだった。一瞬視線を地面に落とした。茹蛸のような額から、汗も一緒に落ちた。
その隙を蟻螂が見逃すはずがなかった。木刀を思いっきり振って、脇を打った。骨が砕ける感触。その音が響いたのだろうか、歓声はやんだ。
木怒山は前のめりになり、なぜか半笑いのような表情で蟻螂を見た。蟻螂は全笑いで応えた。自分より身長の高い木怒山の視線が下がっていくのを見るのは、気持ちのいいものだった。もっと大きな熊を倒した時よりも爽快だった。木怒山はお腹を痛めた子供のようにうずくまった。
立会人は蟻螂と並んで木怒山を見下ろしていた。そして柱に巣食う無数の白蟻を見つけた時のような驚きと嫌悪の視線を蟻螂に向けた。汗がだらだら垂れていて、しぼんで無くなってしまわないのが不思議なくらいだった。蟻螂は彼にも好意の視線を向けた。
再び鳴き始めた蝉に背中を押されるようにして、立会人は呟くように蟻螂の勝利を宣言した。静まり返った会場に、その声は十分響き渡った。
百合の君(9)