遺伝子の毒

探偵小説です。

 「あらめずらしいわね、課長さん今日お休みなの」
 「風邪引いたらしいよ、会社に電話があったって」
 「もう少しで5年間の皆勤賞だったのにね」
 「そうね、去年まで4年間、毎年皆勤賞もらっていたものね」
 輸出課の課長は31で課長に昇進した働き者である。それだけではない、35になった今、若いのに課内のスタッフからは信頼され、頼りにされている部長候補でもあった。四十までは結婚しないと宣言し、会社の生き字引になるんだと周りに言っていた。健康には人一倍気をつけていて、冬にはインフルエンザの予防注射、コロナウイルスがはやっていた頃にはお金には糸目をつけず、八回もワクチンを注射していた。課長になってからは毎年皆勤賞である。
 係長の女性が、「課長がいなくてもしっかりやらなければね」と自信がなさそうに周りにもらした。
 「俺たちもね」
 課内のスタッフはいかに、課長をたよりにしていたか、たった一日休むというだけで、だれもが彼の有能さを感じていた。
 休んでも一日だろうと思っていたところ、次の日も課長は会社にあらわれなかった。
 「課長さんどうしたのかしら、今日は会社に電話がないのでしょう」
 「総務の方で電話を入れたそうですけど、病院に行ったのかもしれないって言ってました」
 「だけどおかしいわね、いらないほど細かなことも連絡をくれる課長が電話をくれないなんてね、今ね、インドネシアから、木材輸入がきまっているでしょ、大きな取引で、向こうに連絡しなければいけないことがあるのよ、私の判断でやっちゃっていいのかな」
 「係長さん、任されたと考えていいんだとおもいますよ」
 若手の男性スタッフが、係長の彼女をサポートしている。
 夕方になっても課長からは連絡がなかった。
 総務課から、課長のスマホにかけてもすぐ留守番電話になってしまう、家に様子を見に行ってほしいと係長に電話がかかってきた。
 「彼の家は、目白のマンションだわね、誰か行ったことのある人はいないの」
 係長が課の者に聞いても、誰もいない。彼はみんなと一緒に飲みに行ったり、旅行に行ったり、つきあいは悪いほうではない。だが、個人的な付き合いはなかった。
 「私が行くかれ、誰か一緒に行ってくれる」
 そう言うと、一昨年入った男性が、僕行くと手を上げてくれた。
 五時になると、係長はその男性スタッフをつれて、彼の家によって帰ることにした。
 課長の住んでいるところは目白である。総務課が渡してくれた地図を見ながら探して行くと、ずいぶん小さなマンションにいきついた。ところが、セキュリティーはしっかりしていて、数字を打ち入れないと、エントランスまでもたどり着かない。
 係長は彼の携帯に再度電話を入れた。やはり留守電になる。
 男性スタッフが、「ここに警備会社の電話がかいてありますよ、電話を入れてみましょうか」とスマホを取り出した。
 「ええ、昨日から休んでいて、今日も連絡なしだったので、心配なのですが」
 彼は課長の状態を警備会社に説明した。
 「え、彼には連絡先がないのですか、どういうことでしょうか、ええ、兄弟はなくて、両親はもう他界されているのですか、会社のほうで心配してたずねてきたのですが、何とかなりますでしょうか」
 彼は相手の言葉にうなずきながら電話を切って係長に説明をした。
 「課長は係累の人がいないそうです、それで保証人なしで、マンションに入居しています、多額の補償金で入っているようです、警備会社が保証人らしいですよ、今、警備員が来ると言っています」
 十分ほどまたされ、警備会社の車がきた。
 二人の警備員がおりてきて、身分証明書を二人に見せ、向こうも身分証の提示を要求してきた。
 係長と男性スタッフは身分証明書をだすと、今まで四年間皆勤の課長が昨日は病気だと休んで、今日は連絡がないことから、心配であることを告げた。 
 「わかりました、契約事項には、こういったとき、入って調べることの許可がありますので、これから、部屋に行きます、一緒にいらしてください」
 規則はしっかりしているようだ。
 警備員は三階の彼の部屋を何度かノックをしたが応答がなく、鍵を開けた。
 「空気がよどんでいる」
 警備員の一人がつぶやいた。
 人のいる気配が感じられない。
 「ここで待っていてください」
 警備員が二人にそう言うと中に入った。
 奥に入っていくと、「大変だ、こりゃ何だ」「すぐ救急車だ」
 そう言う声が聞こえた。
 一人の警備員がでてくると、「空気中に二酸化炭素の量がふえています、中に入いらないでください、今救急車と警察がきます、警察から状態は聞いてください、我々もここで警察を待ちます」
 「課長さんはいるのですか」
 係長が聞くと、「一人亡くなっている人がいます、ただ、ここの方かどうかわかりません、警察がきたら、ご協力ください」
 警備員は、携帯で会社に連絡を始めた。
 パトカーと救急車がまもなく到着した。警察官が二人はいってきて、警備会社の人と言葉を交わすと、部屋の奥に確認しに行った。
 救急車の隊員も中に入った。
 「まだ手を触れておらんのだが、これはどうしたらいいかかね」
 警察官が聞いている。
 「病死にしても、時間がたっているようですから、検視官がきてからですかね」
 と答えている。
 そこに、新たに二人の私服警察官がなだれ込んできた。二人とも刑事のようだ。
 会社の係長と男性は入り口で人の出入りをぼーっと見ていた。
 「会社の人だそうですが、ちょっときてくれますか」
 一人の若い刑事が二人に中に入るようにうながした。もう一人はかなり経験がありそうな落ち着いた刑事だ。
 「実は男性が一人亡くなっていますが、ここの住人かどうかわからんです、とりあえず確認してもらえますか」
 係長はうなずいたけれどなかなか中に入らない。若い男のほうが、行きましょうと、促した。
 「私、血を見ると気絶してしまうかもしれない」
 「血はでてないですから」
 係長と男性は顔を見合わせた。
 刑事のあとをついていくと、窓が大きく開け放たれた寝室のベッドの上で、掛け布団がめくられ、パジャマを着た人が横たわっている。年取ったほうの刑事が部屋の周りを調べている。
 「見てわかるかどうか、ここの人ですかね」
 係長と男性は近寄るとベッドの上の人物を見た。
 「ひぇ」
 係長ののどがなった。
 ベッドの上にかさかさに乾いて、しわしわの茶色くしなびた顔とからだがあった。
 「課長の顔でしょう」
 係長についてきた男が言った。
 「ほら、口の左側にちょっと目立つほくろがある」
 係長は目が悪いとみえて、干からびた課長の顔に顔を近づけ、その後、くしゃみをしてうなずいた。
 「会社の課長さんなんですか」
 刑事がたずねた。
 「はい、ずいぶん変わってしまっていますが、そうだと思います」
 干からびているので確信が持てない。
 「最後はいつ会いましたか」
 「おととい、会社を引ける時に、まだいた課長さんに挨拶をしました。五時過ぎです。インドネシアから輸入するものがあったので、その書類の処理で課長さんは残っていらしたのです、お元気でした、昨日、風邪のようだと電話があって、今日は無断欠勤だったので、たずねてきて警備会社に連絡をしたのです」
 「そうですか、もし、時間があるようでしたら、ちょっと署まで同行願いまして、詳しく聞きたいのですが」
 「はい、かまいません」
 そこに検視官と鑑識課のスタッフが到着した。警備会社の人が部屋の二酸化炭素濃度が高かったことを伝えた。
 若い刑事は検視官に死んでいる人の素性をかいつまんで話して聞かせた。女性の検視官は干からびたベッドの上の人を見ると、「検死する必要もないけど、一日二日でこんな死に方してしまうとなると、保健所にも消毒お願いしとかなければならないかも」
 そう言って、一緒にきたスタッフに遺体を運ぶ指示をだした。署で監察医による解剖が行われる。
 一通りの捜査を終えた若い刑事は、
 「僕は会社の人と一緒に署に戻ります」
 と年取った刑事に言っている。
 「俺もまた池袋署にもどるよ」
 会社の二人は若い刑事の乗ったパトカーで池袋署にもどった。年取った刑事は自分の車のようだ。
 池袋警察で、会社の二人は課長のことを詳しく聞かれた。
 年取ったほうは警視庁の刑事で、用事があって池袋警察によっていたところに、この事件が発生し、池袋警察の刑事と一緒に現場にきたのだと言った。
 聞き取りが終わって、二人を帰した後に、
 「今日は相棒が風邪で休みだったので、助かりました、それにお父さんの質問は適切ですね、勉強になりました」
 若い刑事が言っている。警視庁の年寄り刑事は池袋署の若い刑事の父親のようだ。
 「変な事件だな、二、三日でミイラになっちまうような病気があるのだろうか、かなり大がかりな検査をした方がいいだろうし、科捜研のほうがいいかもしれないな」
 「僕もそう思ったところです、お父さん本庁にこの件、伝えてくれますか、電話で連絡をしておきます」
 「うん、これから警視庁に帰って上と相談するが、遺体は科捜研にまわす手続きは取っておいてくれな」
 年取った刑事はそう言って池袋警察署をでた。
 この事件は新聞の最後のページに小さく報道されたが、どの新聞も怪死事件としたこともあり、その後、テレビの娯楽番組や週刊誌が好んでとりあげ、話が広がってしまった。
 ーひと晩でミイラに、なにが起きたのかー
 検死の結果では、外傷らしきものはない。干からびてはいたが、からだ全体にわたって、出血の痕はなかったし、臓器も全体にしなびていて、調査に時間はかかったが、丁寧な検査から、腫瘍などの異常もないことがわかった。死因がはっきりせず、心臓麻痺が疑われたが、心臓や肺にも異常がみつからなかった。脳溢血の可能性から脳も詳しく調べられたが、脳も干からびてはいたが、おかしいいとおもわれるところはなかった。
 ひっかかったのは、部屋の二酸化炭素濃度が高かったことだが、血管に血液がほとんど残っておらず、乾いてしまっていて血液検査が難しく、二酸化中毒による死かどうかわからなかったが、皮膚の様子から、その可能性はないだろうとなった。
 伝染病が疑われたが、悪さをするような細菌やウイルス類もみられなかった。そのような状態で、なぜ短時間にミイラのように乾燥してしまったのか原因はみつからなかった。遺伝子の検査が引き続きおこなわれているのだが、今のところおかしな点はみつかっていない。
 マスコミからも、半年たつと、新たな殺人事件や、変死事件によって、ミイラ事件はうすれていき、一年で消えてしまった。
 だが、現場に行った警視庁の年輩の刑事は頻繁に亡くなった男の会社をおとずれていた。彼の性分として、このおかしな部分がたくさんある死を明らかにしたいと動き回っていたのだ。
 会社の輸入課のスタッフに気になることを聞いていた。その男性には家族親戚がないことから、様子を聞くのは会社にいくしかなかったからだ。
 「交友関係のことを聞いたことがあったら何でもいいので教えてくださいね」
 刑事の質問に、スタッフの一人が、
 「飲んだときも、旅の話はよくしていましたけど、人のことはほとんど言いませんでしたね、歴史が好きなんですよ」といって、みんなもうなずいた。
 「女性関係はどうなんでしょう」
 女性である係長は、
 「とても潔白な方でした、だけど、女性を嫌うようなこともないし、ふつうの男性という感じです、旦那さんにするのに、ある意味ではいい人といった感じです、会社のことを隅々まで知っていて、四十までは仕事に集中して、結婚はそれまで考えないと言ってました、会社の中の女性たちの評判はとてもよかったです、わたしより十も若いのに課長さんですから、すごいですよね」
 「旅での出会いの話などなかったですか」
 「宿の人との話は聞いたことがありますけど、その地の歴史について議論したということでした、出張でどこかに行くと、必ず神社やお寺によってきて、ときどきお守りなんかを買ってきて、今回は何々君にといって、輸出課のスタッフはみんなどこかの寺や神社のお守りをもらってますよ、私的に旅行をしたということは、年に一度もあるかないかでしょう、なにしろ仕事人間でしたから、行くのはやっぱり、神社や遺跡といったところ、訪ねたところの歴史について楽しそうに話していました」
 「課長さんの部屋には歴史や遺跡、神社仏閣に関する本がたくさんありましたね」
 刑事もうなずいた。
 「課長さんが一番最近、行ったところはどこかわかりますか」
 「最近と言っても、なくなる一年も前のことかしら話を聞いたのは、十月頃でしたね、三日の休みをとって、土日を入れて、五日間、山形でお寺参りしてきたと言ってました、スマホで撮った写真をみせてくれました、古いお寺をたずねたようですよ、私はあまり興味ないのでおぼえていませんが」
 「即身仏のことを言ってましたけど、僕もあまり興味なくて」
 男性の社員が言った。
 そのときの話は、輸出課のスタッフみんなが聞いていたが、誰も詳しいことは覚えていなかった。
 刑事が「本人が即身仏のようになってしまったわけか」
 そうつぶやくと、係長と一緒に彼のマンションに行った男が、
 「即身仏ってなんですか」と聞いた。
 刑事は、「詳しいことは知らないけどね、お坊さんが厳しい断食修行をして、骨と皮になって、最後は生きたまま箱にいれられて埋められ、そのあと、掘り出されて、ミイラのようになったその坊さんを寺に安置して、生き仏として、敬うそうだ、明治まであったということだけど、生きたまま埋めるのは自殺幇助にもなるし、今じゃ、禁止されてるよ」
 「課長もミイラになってしまって、幸せなわけですかね」
 無神経な男性のことばに、刑事はちょっとおこったような顔になった。
 「そりゃ知らんけど、おかしな事件だろ、ああなる二日前は、みなさんが元気に一緒に仕事をしていたわけだろう、一日そこらで乾燥しちまうなんておかしいよな、病死というになっているけど、なんかおかしいよね、そう思わない」
 「即身仏を見にいったたたりかも」
 別の女の子が言った。これが若い子達の考え方なのか。
 あきらめたように、刑事がそちらの方をむいて、
 「そう言いたくなるけどね、遺体をあそこまで乾燥させるには、暑い乾燥した部屋で一月寝ていてもああならんでしょう、科学捜査部でもお手上げなんだよね、誰かが変な薬なんかを盛ったりしたんじゃなければいいけどね」
 そう言った。
 「人に恨まれるような人じゃないし、まさか俺たちが疑われているのかな」
 一人の男がつぶやいた。
 「疑っているような人間がいるところで、こんなにあけすけに聞いたりしないよ、死んだ人の別の顔がないか調べているだけなんだ」
 「うーん、おかしなところなかったですね」
 「金を貸していて、高い利息を取っていて、恨まれるなんてこともあるからね、人は分からんよ」
 「でも課長さんはそんなことをする人じゃなかったと思うわ」
 輸入課の人たちには絶大の信頼がある人であることしかわからなかった。
 「新しいことがわかったら、みなさんには知らせるよ、即身仏でも調べてみるしかないかもね、彼のスマホにしまわれている写真から行った寺をあたってみるか」
 刑事はあと三年で退職、今まで地味だがじっくりと事件に向かい、かなりの数の事件を解決している。プロのあいだでは評価されている人である。
 エジプトのツタンカーメンを見つけたカーターや、かかわった何人かがが発熱して死んだ。原因は何千年もミイラの中にあったウイルスだと説を唱えた人もいたが、病原体はみつからなかった。科学的な解析で分からないと、他の方向に行く、カーターの場合は墓を暴いたのろいの噂が流れた。今回は何かとほらを吹いて、購買量をのばそうとたくらむ週刊誌が、カーターと比較して、おもしろおかしく話をつくっていたが、まじめな課長の生活は、噂を作り出すことが無理だったようだ。やがて週刊誌からもその話は消えていった。
 刑事の頭の中ではこのミイラ事件を最後の仕事にするつもりのようだった。
 
 刑事は被害者が行った山形の寺に行ってみることにした。山形の庄内地方には大きな有名な山々がある。月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山は信仰の山で、湯殿山信仰は広くそのあたりを支配していたようである。宗教のことはよく知らないが、この山岳信仰はちょっとおもしろそうだ。だが犯人探しとして、そこに訪れる根拠を示すことが難しい。出張費はでないだろう。自分の旅行としていくことにしよう、刑事はそう思った。
 山形ならば、好きな温泉もたくさんある。
 連れを数年前になくしている刑事は、娘夫婦と同居している。婿はミイラ事件の時、一緒に現場に行った若い刑事だ。娘も警察官で介護被害を担当する警察官で、やはり池袋署に勤務している。
 久しぶりの一人旅だ。ちょっと楽しみな部分もある。あの会社の亡くなった課長の行き先は、携帯や部屋にあった宿の領収書などからだいたいわかった。金曜日の夜から出かけて、鶴岡に2泊、酒田に2泊の旅行をしている。その間に寺をいくつも回っている。刑事は課長が泊まった宿を割り出した。そこに泊まってみよう。即身仏のある寺を選んで行っている。まさか、呪いとかそういうことはないだろうが、被害者の気持ちになってみるのも解決に近づく一つの方法である。
 金曜日にでて、土日を利用して、鶴岡に一泊、酒田に一泊することにした。課長が泊まった宿の予約もとれたことだし、金曜日、仕事がおわると署で食事をすませ、屋上の駐車場にとめてある愛車で鶴岡にむかった。
 東北自動車道で山形に向かい、月山でおりて山形自動車道にはいった。刑事は自動車道で一度だけトイレタイムをとると、一気に鶴岡の町にはいった。二輪の免許は高校生の時に取得し、卒業の時には車の免許も取るほど車好きで、退職したらハーレーでも買うかと、周りに言っているほどだ。十一時少し過ぎたころには予約しておいた宿にはいることができた。その日は、温泉にゆっくり浸かってビールを飲んで寝た。
 次の朝、ホテルの人に、課長のことを覚えている人がいるかどうか聞いた。コンピューターには泊まった記録が残っていたが、本人を覚えている者はいなかった。
 一時間ほど聞き込みをしたが、課長の足取りなど知っている人は見つからない。その後、寺をまわる順などを教えてもらいチェックアウトをした。四つの寺を回って酒井にいく予定だ。
 最初に行ったのは十分もかからないところの南岳寺である。大きな建物で、刑事はちょっと派手だなと思いながら境内を歩いた。この寺には鉄龍海上人と呼ばれるミイラがある。聖徳太子の作ったといわれている菩薩もある。拝観料を払って中にはいった。仏堂の奥に即身仏は安置されていた。
 ミイラになったあの会社の課長とくらべると、ここの即身仏は膨らみがある。課長はもっとかさかさだった。
 そのあと三十分ほどかけて本明寺に着いた。木々に囲まれた小さな堂で、とても好ましい感じをうけた。ここの即身仏は本明海上人で湯殿山信仰の重要人物だ。見学には予約が必要だが、そこまでして、即身仏を見なくてもいいと思い入らなかった。
 境内を歩いてた。堂の基礎石のわきに半分黒く溶けた茸が数本ならんでいる。
 ヒトヨタケである。この茸は一晩で成長して、明くる朝の日の光で黒く溶け始める。刑事はもともと秋田の人間で、茸には子供の頃からなじみがある。食べるのも好きだが、山歩きで見るのも好きだった。
 木々の間の石段を登っていくと、入定した場所に石碑がたっている。何年も絶食の修行の後、生きたまま土の中にいれられる。それが入定である。その後、堀だされ、即身仏として安置される。
 そこを離れ、二十分ほど車を走らせ、湯殿山信仰の総本山である大日妨についた。
 古い仁王に睨まれながら茅葺きの仁王門をくぐった。この寺には、弘法大師が作った釈迦如来がある。即身仏は三体あったと言うが、寺が焼けて、一体だけ助かったということだ。その一体は真如海上人で、年は96歳という。江戸時代としては長生きな人である。
 新しくなった本殿はちょっときらびやかだ。拝観料を払って建物にはいった。お払いをうけ、たくさんある仏像を見て、即身仏に対面した。きれいな衣をつけている。
 そのあと広い境内を見て歩くと、ここにもヒトヨタケの黒く溶けかけたものをたくさん見た。
 そこから、最後の注連寺まで五分だった。
 ここも弘法大師の関わった湯殿山信仰の寺だ。その中でも最も古いとある。
 境内にはいると古い社が目にはいった。これはいい、刑事は外観にみとれた。拝観料を払ってなかにはいった。説明書には即身仏は鉄門海上人とある。一通り見ると、境内にでた。鉄門海上人の石碑があった。その先でふっと目に入ったのは自然石のような石碑で、その下に黒く溶ろけてしまってたヒトヨタケの残骸が目に留まった。
 石碑には月山と彫られている。パンフをみると、森敦の「月山」はここでかかれたものとある。むかしは森敦の資料館が境内にあったようだ。刑事は、本は嫌いではないが、月山は読んでいない。
 四つの寺を回り、見ることのできた即身仏は、殺人事件で見た殺されたばかりの生活感のある死体とは違う。自分をすてて周りの人の生活を支えてきた人間の数百年後の変わった姿は、見る人に強く訴えるなにかがある。だがまてよ、と刑事は思った。庭にある石は地球の歴史46億年を背負っている。この石ができて何億年たつのか分からないが、石だってなにかを訴えかけてくる。川原に落ちている石だって手にとってじっくり眺めれば何か言っている。聞き取る人間の方の問題じゃないか。
 そう思って駐車場の自分の車に乗り込んだ。これから酒田に向かう。その日はそれで終わりにする予定だった。
 酒田まで一時間ほどだった。宿につくと、すぐにそこに泊まった課長のことを尋ねた。記録にはあったが、やはり覚えている人はいなかった。露天風呂の有名な宿のようだ。刑事はさっそく浸かった。かさかさになって死んだ課長は、事件の被害者か、それとも自然死か。人の手によるものでなければ、病死と言うことになる。それにしても原因があるだろう。事件からおよそ一年、その一年前に害者は今見てきた寺を訪ねている。寺から何かわかったかというと、何も出てこない。まあ、そりゃそうだろう。簡単なことではない。
 明くる朝、もう一度露天風呂につかると食事をすませた。今日は忠海上人、円明海上人、二体の即身仏がある妙高山の海向寺に行って帰る。気持ちの上では、ミイラ事件にかかわる何かを探すのは無理とわかっていた。旅を楽しんでかえろう。
 宿をでるとき、主人が、海向寺のあとどこによるのか聞いた。そのまま帰ると言うと、湯殿山神社にはよってきたのかと言った。
 課長の遺品の中に、湯殿山神社と書かれたチケットのようなものがあったが、写真にはうつっていなかった。そういうこともあり予定には入れていなかった。
 「車で東京まで帰られるのなら、通りますよ、お寄りになったらどうです、そこが湯殿山信仰の中心的な重要な場所ですよ」
 と地図を示してくれた。山形自動車道、湯殿山インターから月山インターの間の山道にある。気がつかなかった。死んだ課長の写真機には写っていなかったが、鶴岡に泊まっているときに、彼は行ったかもしれない。
 「神社が湯殿山信仰の湯殿山の中心なんですかね、仏教だとおもって寺は回ってきましたが」
 刑事が言うと、宿の主人は、
 「そうですね、その頃、神仏習合で、垣根を取っ払った信仰なんですね」
 親切に説明してくれた。そうか、神仏習合か、中学の頃習ったかもしれないな、社会は得意じゃなかったな。
 少しばかりはずかしかった刑事は礼をいって、まず海向寺にむかった。
 車だと、泊まった宿からほんの少しのところだ。1200年前にやはり弘法大師が開いた寺だ。出羽三山湯殿山信仰拠点だそうだ。
 新しい建物があった。拝観料をはらい、即身仏をみて、境内を歩いた。昨日の雰囲気とあまりかわりがない。目に入ったのはまだ黒っぽくなっていない一夜茸である。朝早めだからだろう。
 どの寺も、即仏身を強い畏敬の念を持って大切に扱っていた。だが自分のようなただめずらしもの見たさの観光客には、当時の民のように心から敬う気持ちで接することはできない。本来は即身仏が語りかける心を聞ける人が会うべき遺体だと思う。
 刑事は海回寺をでると、そのまま車で鶴岡に向かった。山形自動車道にはいり、どこかでみやげを買って湯殿山神社によって帰ろう。
 山形自動車道路を湯殿山インターでおり、国道112から月山道路、湯殿山有料道路にはいった。道路の終わりにくると、大きな赤い鳥居が見えた。
 大きな駐車場に車を止めた。湯殿山神社は自家用車乗り入れ禁止である。
 鳥居の先の案内休憩所の看板で本宮までの地図を見た。湯殿神社に社殿はなく、奥にある熱湯の沸く岩がご神体とある。ご神体の脇には滝があり御滝神社がある。
 そこでは人工物はゆるされず靴を脱ぎ素足でお祓いを受けて参拝をするという。もちろん写真などは禁止である。しかもここで見聞きしたことは他言してはいけないことになっているという。刑事は課長のスマホに湯殿山神社の写真がないことに納得した。入り口の赤い大きな鳥居の写真でも撮っておいてくれたら、最初にこの神社によったのだが、と思ったが、まじめな課長は前もって、写真はだめだと知っていて、ここでは写真機をださなかったのだろう。
 おおきな鳥居からシャトルバスで五分ほどいくと、本宮の入り口についた。観光客と一緒に石の柱や石像の脇をあるいて梵字川にかかる橋をわたり本宮にきた。御祓い所で、素足になって、お祓いを受ける。ビニール袋に靴と靴下を入れ、石畳の道をはだしのままいくと、大きな岩から湯が噴き出していた。
 それが御神体で、刑事も二礼二拍一礼の儀式を守り柏手を打った。ふっと頭に浮かんだこの奇妙な事件の解決を念じた。
 その後、巨岩の左側を下に向かった。降り初めてすぐ、ヒトヨタケが茶色に干からびて何本か生えているのに気がついた。刑事はかがむとちょっと摘まんだ。茸は抜けてしまい、かさかさと刑事の手の中に残った。刑事はなにげなく茸を、靴を入れていたビニール袋に放り込んだ。そのまま本宮の入り口にもどった。御祓い所で靴をはいて、ビニール袋はポケットにしまった。観光客たちは冷えた足を温かい湯で暖めている。刑事は子供夫婦に健康祈願のお守りを買った。
 本宮の裏手に滝に降りる道があることを思い出し、御祓所の人に、行くことができるか聞くと、本宮の裏手をいくと鉄ばしごがある。行者がいくところで、90メータ近く岩肌を降りることになるので大変だということだった。
 そこには雄滝と女滝が落あり、赤い岩肌が有名だ。他から行くことはできないかと聞くと、御沢駆からだという。ずっと下の方に梵字川に架かっている御沢橋のところから沢に入って、滝壺にいく方法だそうだ。だが普通の格好じゃ無理だと言われた。滝に行くのはあきらめるしかない。
 バスには乗らず歩いて大鳥居までいくことにした。かなり下ってくると、御沢橋があった。刑事はちょっと寄り道をした。橋の袂から下におり梵字川の河原にでてみた。川幅は狭い。石の間を流れる水は澄んでいる。これが滝壺から流れてくる水だ。この沢づたいに上っていくと、修行の滝に行きくことができるわけである。
 刑事はしばらく上流の景色をながめていたが、戻ることにした。坂道をもどり始めると、脇に茶色くなって干からびたヒトヨタケが折り畳まれるように崩れている。湯殿山神社の岩の脇で見たものと同じだ。それがはいっているビニール袋はポケットに入れたままであることを思い出し取り出した。ビニール袋の片隅に茸の形がなくなるほど砕けている。
 鶴岡や酒田の寺では黒く溶けたヒトヨタケをみたが、ここのものはかさかさに乾いて消滅するようだ。刑事は傘にしわが寄りかさかさになっている茸を採ると、ビニール袋に入れ、またポケットにつっこんだ。
 道にもどると、大鳥居の方に向かって下っていった。道の脇には薄茶色の目だたない茸がいくつも生えている。自分の育った秋田ではよく見た光景だ。
 大鳥居の脇の休憩所には食べるところもあった。刑事は蕎麦をたのみ、休憩所にあった湯殿神社のパンフを読んだ。
 月山より流れる梵字川ぞいにある湯殿山神社へのお参りの手順や、昔からのならわしがかかれ、そのあとに、湯殿山信仰のことが説明されていた。
 月山は阿弥陀如来がまつられ「過去」を司り、羽黒山は観音菩薩で「現在」を司る。それに、葉山の薬師岳は「未来」を司り、現在過去未来の三つの関をのりこえる修行をして、即身成仏をするという。湯殿山はすべてを司る大日如来がまつられ、別格とある。即身仏になり大日如来にすこしでも近づこうと念じたわけである。
 神道が伝わる前から、人々は周りにそびえる山に守られていると考え、生きる支えとしてきたことが、湯殿山信仰を形作ったのだろう。山に神を当てはめたのは後からのことに違いない。刑事は蕎麦をすすりながら思った。好きな信仰かもしれない。
 ここにきたことにより、事件にかかわることを見つけたわけではないが、自分の気持ちがずいぶんすっきりした。よかった。きっとかさかさに干からびた課長もそう思い、会社で皆に話して聞かせたのだろう。

 刑事はその日の夜に巣鴨の自宅に帰り着いた。娘夫婦に湯殿山信仰の話をして、お守りを二人に渡すと、二人ともあれっという顔をして、ビールの用意をしてくれた。
 次の朝、署にいくと、職員が電話のあったことを告げた。ミイラ事件の当時、課長の下で働いていた係長と一緒にマンションにきていた男性からだという。課長がなくなってからは係長の女性が課長のポストについている。電話をくれた男が係長になっている。その今の係長からの電話だ。
 事件が起きたころはよく連絡をしていたのだが、膠着状態になってから、あまり連絡をしていない。数ヶ月ぶりのことになる。
 刑事はその会社に電話を入れた。
 「あ、刑事さんですか、実は昨日課長から風邪気味だから休むと連絡がありました、今日も出勤していないのです、電話をかけてもでません」
 「ご主人がいるんじゃないの」
 「ベトナムに単身赴任です、お子さんはいないし、彼女一人暮らしなんです、前の課長の時よく似ていて、気持ち悪いので、お住まいの方にいってみるつもりなのですが、警察に電話を入れておいた方がいいと思ったものですから」
 「場所はどこなの」
 「月島のマンションです」
 「新しいところだね、それじゃ、僕もいくよ、車でお宅の会社によってあんたさんをひろうよ」
 あの会社には何度も車で行っていて、彼とも顔なじみになっている。
 刑事は新しい係長をひろうと、月島の課長のマンションに向かった。
 運転しながら、亡くなった課長が行った山形の寺に行って見たことを話し、今の課長の趣味を聞いた。
 「ご主人のいるベトナムにはよく行かれるようです、趣味は食べることかもしれないですね、ベトナム料理の話をよくするし、みんなと一緒にこじゃれたレストランにはたまにいきますよ」
 「そう、それじゃ、健康な人なんだ」
 「ええ、病気で休んだことはないですね、会社で鼻をくしゅくしゅさせていることはありますが、休むほどひどくならないようです」
 管理人もいる大きなマンションで、エントランスにはだれでもはいれた。管理人から部屋に電話をいれてもらった。だが誰もでないという。刑事は警察手帳をみせ、鍵を開けてもらうことにした。
 十一階にいき、部屋にはいると、刑事は係長と管理人をおしとどめた。
 「ちょっとやばそうだ、くらっときた、まってて」
 刑事は口を閉じて部屋にはいると、その部屋の窓を開けた。すぐに玄関にもどってきた。
 「居間にはいないから、いるとすれば奥の寝室だと思うけど、どうも空気がやばそうだ。窓をあけたから、しばらくたってから入ろう」
 刑事はまた部屋に入った。今度は寝室の戸をあけた。前の事件の時には部屋の二酸化炭素が高い状態だった。それが気になった。
 また息苦しさを感じ、口をつむったまま、寝室の窓を開けた。
 ベッドを見た刑事は「あっ」といって寝室をでた。
 「気をつけてはいってきて、管理人さんは救急車を呼んでくれるかな、月島警察にはすぐくるように電話を入れる」
 係長の男がはいってきた。
 「課長さんはどこです、まさか、前の課長と同じ?」
 係長がはい入ってきて、一目見ると。うわっと言った。
 ベッドの上には干からびてかさかさになった新しい課長が布団から顔を出していた。
 「またミイラになっている」
 「会社に戻っていてくれますか、あとで様子を教えますから、それと、念のため外にでたらすぐに水でもかって、うがいして、伝染病だったらいけない、いや念のため家に戻ってくれる、家には家族がいるの」
 「家、一人です、会社に連絡してから、戻ります」
 係長は電話番号を刑事に教え、課長のマンションから出た。
 刑事が窓の脇にあるサボテンの鉢に目をとめた。根本から二本、ヒトヨタケがでている。部屋の中でめずらしい。
 植物が好きだったようで、寝室の中には観葉植物の鉢がいくつかおいてあったが、茸の生えているのはその鉢だけだった。茸はかさかさに干からびて、鉢のなかでくずれている。湯殿山で採ったヒトヨタケを思いだした。上っ張りのポケットにいれたままである。
 刑事は月島警察署と警視庁に電話を入れた。一年前のミイラ事件の時に遺体の解剖を担当した検視官にきてもらうことにした。
 月島警察署から警察官がきた。刑事は警察手帳を見せ、干からびている課長の寝ている寝室に案内して、警視庁から検視官がくるまで、監視をたのんだ。
 刑事が上掛けをはいだ。花柄のパジャマをきた課長の手足はしわしわで、水気はまったくかんじられない。顔は誰だか分からないほどだ。
 検視官がスタッフ二人と背の高い女性一人と一緒にきた。
 「また同じような事件だそうですね、この人は警視庁刑事課調査支援分析センター分室、第八研究室の高胎蓉子分析官、まあ、刑事さんです、いろいろな奇妙な事件を解決に導いているんです、一年前のミイラ事件も相談にのってもらったんです」
 検視官はその女性をそう紹介した。モデルにしてもいいくらいのスタイルの人だが、顔は柔和で親しみがもてる。
 「よろしくお願いします」
 あまり警察官らしくない挨拶だ。
 刑事は最初この部屋に入ろうとしたとき、なんだか息苦しいような感じを受けたことを言った。
 検視官はうなずいただけだが、高胎は初めて聞いたという顔で「なんだろう」と検視官に聞いた。
 「前の事件では、最初に部屋に入った警備会社の人がおかしいと思って空気中の二酸化炭素濃度を調べたら高かったのよ」
 そういうと、「あら、私聞いてなかったな」と高胎が答えた。
 「二酸化炭素に関して、事件と関係なさそうだったからそのままよ」
 検視官の言ったことに高胎はおやっと言う顔をした。
 寝室にはいった検視官たちはベッドの上の死体を見た。
 「全く同じですね、原因が分からないのは怖いな、この女性は、前の現場にきた人だそうですね」
 「うん、今会社の人もきていたけど、なにかあるといけないから帰した」
 刑事が言うと、高胎は、
 「その方がいいですね」とうなずいた。
 彼女たちがベッドの上の死体を調べ始めたとき、居間の方で電話が鳴った。
 「俺がでましょう」
 刑事が寝室から走り出て、受話器をとった。
 「もしもし」
 というと、いきなり「だれ」と男の大きな声が電話口きこえた。
 刑事は、警察官であることを言って、相手に誰かと聞いた。
 「主人です、今ベトナムから羽田に着いたとこです、それで家内になんかあったのでしょうか、一昨日、からだがおかしい、帰ってほしいと電話があったので、急いで帰ってきたのですが」
 「残念ですが、お亡くなりになりました、ご遺体はご主人が帰られるまで、ここにとどめておきます」
 「え、え、急いでかえります」
 刑事は電話をきった。主人の驚きが手に取るように伝わってきた。
 「ご主人がベトナムから今羽田に着いた、それまで遺体を動かさないほうがいいでしょう」
 刑事は救急車の隊員に帰るように言った。
 「本当に感染症をうたがわなくていいんですか」
 刑事は検視官の女性にたずねた。答えたのは一緒にきた高胎である。
 「刑事さんがおっしゃるとおり、全くその可能性がないわけではないのですが、前の事件で、疫学的な検査でも一応問題ないと結論しているということで、なによりも、前の事件の時に関わった人たちに、検視官含め体調に問題なかったわけで、刑事さんだって、その場にいたということですし、前の現場にいた人に今までは異常がおきていないようですから」
 刑事がそれでも腑に落ちないような顔をしていたと見えて、高胎は、
 「もしなにかの感染があるにしても、そうなる体質の人で、一般では稀なことだろうと思います。稀な偶然が同じ会社の人で起こったのかもしれません、遺伝子の問題かもしれません」
 と言った。刑事は「遺伝子か」と今は何でもかんでも遺伝子だと嫌気がさしている様子でつぶやいた。
 それから一時間ほどすると、主人がついた。背の高い精悍そうな男性だ。亡くなった奥さんはどちらかというと落ち着いたゆったりした人だ。対照的だが、いい夫婦だったに違いない、刑事はいらぬ想像をした。
 
 掛け布団をはいた状態のベッドの上を見て、主人の顔がひきつった。
 「何で、どうしてこうなったんだ」
 主人は妻のしわしわの顔に手をあてた。茶色の枯れ葉のような皮膚がぱらっと落ちると、薄茶けた頭の骨の一部が顔を出した。
 「うわっ」
 寝室の入り口で見ていた検視官が隣に立っていた刑事に小声で言った。
 「前の人のときもそうでした、検死をしようとさわったら、皮膚がぱらぱらと落ちてしまい、骨だけになったんです」
 「内蔵もかさかさですか」
 「皮膚と同じ状態でした、水分はまったくといっていいほどありませんでした」
 主人が涙目で刑事たちの方に顔を向けた。
 「妻は茸が鉢からたくさん生えてきて、とてもいい匂いといっていました。ちょっと前のことです、胞子を吸い込んだら咳がでたとも言ってました」
 それを聞いていた高胎が、一緒にきた鑑識課の人に、窓際のサボテンの鉢にビニール袋をかぶせるように指示をしている。
 鋭い人のようだ。刑事は高胎のところに行くと、「その茸犯人でしょうかね」と聞くと、高原は「共犯者かもしれません」と答えた。
 どういう意味か分からない刑事がとまどっていると、「犯人は亡くなった人の体質かもしれないと私は思っています、体質というのは遺伝子ということにもなります、その遺伝子になんらかの影響がおよんで、あのようになったのかもしれないんです、それがなにかわかりませんが、茸の何かであってもおかしくありません、だから遺伝子との共犯者と言ったのです」と説明してくれた。
 そこで、刑事は湯殿山神社の茸を思い出した。高胎に、他のところに生えていたヒトヨタケは黒くとろけていたけど、前の被害者が一年前に行った湯殿山神社のヒトヨタケはとろけないで、茶色くかさかさになっていたことを話した。それをとってきたこともいった。そのことを話すと、是非調べてみたいといわれ、明日、出勤した時に届ける約束をした。
 刑事はこの事件は俺たちのような者が出る幕はないな、そう思って、検視官とともに遺体の検分にあたっている高胎を見た。
 その事件はかなりの関心をあつめた。二度目のミイラ事件とマスコミは騒いだ。当然のこと、ふたたび感染症がうたがわれたが、ミイラになった新しい課長の遺体からは、前の課長と同じように、影響のありそうなウイルスや細菌は見つからなかったのである。

 月島の事件があった次の日、刑事はうわっぱりにいれたままにしてあった湯殿山神社の茸のはいったビニール袋をもって警視庁六階の捜査第一課に出勤した。
 鑑識課にはたまにいくので知ってはいたが、捜査支援分析センター(SSBC)の世話になったことはないので内容は知らない。警視庁の構成の説明文には、SSBCはサイバー攻撃など、コンピューターを駆使して情報を扱う部署とある。たが、第八研究室とはなんだ。
 周りの刑事に聞いても、知らないし、いったことがないという。ただ、署内のコンピューター連絡網を使ってやりとりをし、事件解明に手助けをしてもらったという者はいた。宮城県警にいた警部が警視庁にもどってきて、その研究室の室長になっているという。そこの四人の捜査官はとびぬけて優秀で、アドバイスだけでなく、自分たちでもいくつもの奇妙な事件を解決しているということだった。警視総監に感謝状までもらっているという話を刑事部の事務さんからきいた。
 月島であった高胎という捜査官はたしかにできそうな感じの女性だった。だが刑事部にいる警官とはちがってぴりぴり感はない。
 「おれさ、これからそこに行かなきゃいけないんだ、どうやっていくんだ」
 周りの刑事も誰も知らなかった。
 事務員にたずねたが、警視庁の部屋の図をもちだしてさがしていた。
 あった、事務員が十三階の奥を示した。警視総監室のある階だ。
 内線をかけると、元気のいい女の子がでた。
 刑事部にいるのだが、高胎さんいますか、と聞くと、いるわよ、と、警察の中とは思えない口調で返事をくれた。
 「ちょっとまってて」
 電話口にでた女は、受話器をおさえもせず、「高胎さーん」とよんでいる。「キックー、だれ」と高胎の声もきこえた。「刑事部から、刑事さんみたい」、という会話も聞こえた。
 すぐに、「お待ちどうさまでした」高胎が電話口にでた。
 「昨日の」まで刑事が言うと「あ、刑事さん、おはようございます」と高胎はおちついている。
 「湯殿山の茸もってきましたが」
 「あ、それはありがとうございます」
 「これからいくけど」
 「どうぞどうそ、わかりますか」
 「うん、すぐいく」
 刑事はずいぶん会話が警視庁の中とは違うと思いながら、十三階までエレベーターでむかった。
 第八研究室はエレベーターの一番近くにあった。戸をノックして中にはいると、ずらっとコンピュータがならんでいて、すべてがオンになっていて、画像が勝手にながれている。
 机が四つほど無秩序におかれ、二人の男性と二人の女性が自分の机の上のコンピューターを見ている。
 奥に大きなデスクがあり、牛のような男が椅子に腰掛け本を読んでいる。
 刑事が入ると、一斉にその五人の目が向けられた。
 目だけが宙に浮いている。そんな錯覚をもつほど、彼らの目はするどかった。
 「あ、刑事さんすみません、昨日はありがとうございました。私も検視官の彼女と一緒に剖検しました。かさかさになってました、そちらのテーブルにどうぞ」
 会議用のテーブルを指さした。
 「これが、とってきた茸なんだが」
 刑事はなんだか怖さを感じて、ビニール袋を持ち上げてひらひらさせ、気を取り直して、テーブルについた。
 奥にいた男が立ち上がってやってきた。
 「室長の薩摩です、お世話になっています、昔仙台の警察署の刑事でした、実はここのスタッフは警察官でもあります、SSBCの他のスタッフとはちょっと違います」
 大きな体を前のめりにしておじぎをして刑事の前に腰掛けた。話し方はとても柔らかい。刑事の肩が軽くなった。
 「高胎さんにお世話になってます」
 「話はきいてます、変な事件ですな、まあ、こいつらがなんとかしてくれますよ」
 フランクなしゃべりで、刑事も「ど、どうも、なんにもわからなくて」と普段言葉になった。
 「高胎君は看護師だし、体のことは詳しいから、まかせておけばなんとかなります」
 若い女の子がお茶をもってきた。最初に電話にでた子だろう。事務員か、と見ていると、
 「おかしな事件ですね、部屋に二酸化炭素が増えていたというのが大事なポイントみたい。高胎さんからきいたんだけど、二酸化炭素がでるようなものは部屋の中になかったということだったから、でるところは亡くなった人のからだしかないわけね、だけど、窓を開けたあとはなくなったということだから、からだから出たのは一時だな、それで死体がかさかさになったのよ」
 一気にそうしゃべった。誰なんだろう。刑事が不思議な顔をしていたとみえ、室長の薩摩が「まったく、もっと丁寧にしゃべれよ、刑事さん、こいつは、吉都希紅子といって、分析官です、刑事です、化学博士でして、得意なところで調子にのってすんません」
 刑事はおどろいた、この小娘が博士さん。違う世界だ。
 「いえほんとに、おっしゃる通りです」
 驚いてそれしか言えない。
 「お茶さめちゃいますからどうぞ」
 吉都にいわれて、刑事はやっとお茶を口に運んだ。美味いじゃないか。
 「キックーがいきなりべらべらしゃべるからだよ」
 室長がいうと、「すいません」と、彼女は刑事の隣にこしかけた。キックーと呼ばれているようだ。大きな目をした色白の美人さんだ。胸が大きく張っていて、刑事はちょっとどぎまぎした。警視庁の中にこんなところがあるんだ。
 刑事は「死んだ人からでた二酸化炭素で、茸がかさかさになるんですか」と不思議に思ったことをいった。
 「とてもいい推理ですね、死んだ人から二酸化炭素がでたことはあっているとおもいます、刑事さんさすがです、ちょっと違うようです、茸からでたものが人から二酸化炭素をださせたとおもわれます」
 高胎はそういってから、自分の考えを展開した。
 「今茸を解析してもらっているところで、なにもわかっていないのですけど、茸が放出した胞子に鍵があるのではないかと考えています。私の考えでは、胞子をすった被害者が、ミイラになる課程で二酸化炭素を出したのではないかと思っています。あの茸は異常ですよね、刑事さんがヒントをくだすったのです、観察が鋭いなと思いました」
 刑事は何のことかと思った。
 「鶴岡と酒田の寺のヒトヨタケは黒くとろけていたけど、湯殿山神社のヒトヨタケは茶色くくしゃくしゃになっていたとおっしゃった、普通のヒトヨタケは黒く溶けますよね、湯殿山のものは違う種類か、おかしくなっているものと思ったわけです」
 そうか、自分もちらっとそう思ったから、高原に言ったのだ。
 そこに、二人の若い男の分析官が自分の席からたってきて、同じテーブルについた。
 薩摩が一人の眼鏡をかけた文学者かと思わせる落ち着いた雰囲気の、背丈のある分析官を、
 「古書羊貴といって、古い書物に精通していて、江戸時代以前の文字を読める貴重な人間なんですよ」
 と紹介した。いろんな人がいる。
 「江戸時代山形の酒田には九州や北海道の物産が船で運ばれ、そこでの取引で、北海道のものが九州に、九州のものが北海道に売られ、中間マージンで、大もうけした商人がいるところです、海外との貿易もやっていた。一方、鶴岡には徳川の重鎮だった人が送り込まれ、領主は領民を大事にし、稲作を進める一方、武士道、教養を高める教育がなされたところで、大政奉還の際に最後まで幕府方として戦い、倒幕軍を一歩たりとも領地に入れなかった優れた軍師がいたところです。領民を守るために最後に降伏したのです。しかし、西郷さんとの話し合いで、東北の会津をはじめみな切腹者がでる中で、石高は余り下がらず、領民の暮らしもかわらず豊かだったところです。
それも酒田が新政府に大金をおさめたからということです。鶴岡の領主は新政府でも軍師として重要なポジションにはいっています。
 そういった庄内地方ですが、僕は出羽三山とその周りの山を敬い、湯殿山信仰という、山への自然信仰から生まれたものに神道の神、仏教の仏が加わってできた宗教によって、地域に暮らす人々を一つにまとめていたのだと思います」
 刑事は若いのにすごい知識を持った人だと驚いた。この年になって、山形に行く機会があって、知ったばかりのことをすでに知っていて、自分のまとまった考えまでもっている。
 隣のどちらかというと小柄な、だが飛び回る感じの男の分析官が、
 「鶴岡にはいろいろな鉱山があって、金もたくさん発掘されていたんですよ、だから鶴岡には鉱物資源が豊かだったんですよね」
 と付け加えた。
 「こいつは、宙夜央といいます、分析官です、専門は鉱物、宝石なんかですけど、何でもこなします、猫を使った宝石の密輸事件では、タイにいって彼が活躍してくれたおかげで、警視総監から感謝状などをもらいましてね」
 室長がそう紹介した。
 刑事が目を丸くして、なにもいえないでいると、高胎が、「刑事さん、茸はお預かりします、解析にちょっとかかりますけど、結果がでたら、お知らせします」
 と言った。
 「ああ、よろしくお願いします。今回亡くなった女性の旦那は奥さんとは違う会社で働いているんですが、ベトナムに単身赴任していたときにおきたことで、落ち込んじまって、早く原因を突き止めてやりたいと思ってます」
 「今、前のミイラ事件の被害者と今度の被害者の、からだのいろいろなところの遺伝子を調べています、いずれ、はっきりすると思います、そう言っても細かいところまではわからないでしょう、遺伝子そのものの働く機序が分かっていないことのほうが多い状態ですから、同時に、茸も遺伝子の調査に回します、通常のヒトヨタケの遺伝子と比較します、もちろん遺伝子だけではなく、学者とともに様々な角度から調べます、分かったら報告します」
 「あのう、伝染病というわけになるのでしょうか」
 「吸い込んだ胞子から悪いものが伝染したといことになりますが、細菌とかウイルスかもしれませんけど、あの茸が生えていなければ心配いらないと思います、それに、すべての人に影響を与えるものではなさそうです」
 「昨日、マンションに一緒に行った会社の男が今日も自宅にこもっているのですが、伝染病じゃないと、言っていいでしょうか」
 「はい、ただ、一度、警察病院のほうで診察をうけてもらいましょう、こちらで手配しますので、後で情報をメイルでおくっていただけますか」
 「わかりました、あの男には警察から電話があることを伝えます」
 「お願いします」
 空になっていた刑事の茶碗に、希紅子が新しいお茶をついだ。
 「すんません」
 刑事は一気に茶を飲み干すと立ち上がった。
 「いや、刑事さんありがとうございました、そんなことで、これからもよろしくお願いします、ところで、刑事さん、酒はのみますか」
 薩摩室長がそういうと、やっと、刑事が笑顔になってうなずいた。
 「それじゃ、結果はどっかの飲み屋で」
 「はあ」
 刑事はちょっと振り返っただけで、お辞儀をして、でていった。
 ひゃひゃ、おもしろ、おっかねえところだ。
 下っていくエレベーターの中で刑事の顔が笑っていた。
 刑事は刑事部の事務所に戻ると「すげえところだった」と事務員の女の子に言った。
 「なにがですか」
 「第八研究室さ、エックスファイルみてえだ」
 「なんですかそれ」
 若い事務員は昔やっていたアメリカのテレビ映画をみていない。
 「宇宙人なんかの奇妙な出来事を解決するFBIの部署だよ」
 事務員はへーぇ、といって話をおわりにした。

 第八研究室では、湯殿山神社の茸の議論がはじまっていた。
 「一日でミイラにするのはどうしたらいいのかしら」
 高胎がいうと、宙夜が、
 「エジプトじゃ、内蔵ぬいて、薬を入れて、つくったんだろ、あっちは乾いているとこだからな、ともかく、からだは70パーセントが水、それを一晩で追い出さなきゃいけない」
 「ミイラの妖怪しかできないな」
 古書が珍しくちゃかす。
 「そんな妖怪、げげげにでていたっけ」
 希紅子がちがう方向に話を持って行く。
 「ほら、まじめに議論しろ」
 室長の薩摩冬児警視正がどら声をだす。
 「それで、薩摩さんどう思うの」
 希紅子がつっこむ。
 「う、うーん、茸の胞子にミイラウイルスがいた」
 苦し紛れの答えに、希紅子が、
 「なーんだ、ゲゲゲの妖怪とかわんないじゃない」
 と笑った。
 「でも、胞子にそういったウイルスがいたとして、どのように水をおいだすのかしらね」
 高胎が話をもとにもどした。
 「圧力か、熱か、冷凍真空吸引か」と宙夜が言うと、
 「なに、その冷凍真空吸引って」
 薩摩が聞く。答えたのはキックーこと、吉都希紅子だ。
 「化学の世界ではよく使うのよ、すりつぶしたものを瓶に入れ、中身を凍らして、それをフリーズドライの機械につけると、瓶の中の空気が吸い出されて真空になるの、その機械に一晩つけておくと、瓶の中の凍ったものの水が全部蒸発して、すりつぶしたものは粉になっているわけ、それを解析するのよ」
 「この茸も一部をそうやって調べるわけです、国立研究所に回します、もう連絡してありますから、あとでもっていきます」
 高胎が言った。
 「だけど、そんなことが、被害者に起きたわけじゃなかろ」
 「わかりませんよ、現実にそうなっているわけですから、SF的発想が重要です、細胞すなわちからだが燃える寸前まで急激に熱くなって、水分がどんどん蒸発し、ほとんどなくなると、今度はあっという間に凍って、残っていた水分が氷になり、一晩で昇華した」
 宙夜がいうと、薩摩が「しょうか、って食物の分解のことか」と聞く。「いえ、物質は、固体が、液体に変わり、気体になると言う段階をふむけど、固体がいきなり気体になることです」
 薩摩は「ふーん、でもさ、今度のミイラ事件では、熱くなって水が蒸発するだけでいいんじゃないの」
 「二酸化炭素がでていたということ、と布団の中のミイラは熱かったという報告がなかったので、水分蒸発の前に、ワンステップなにかあったかと思いますね」
 「そうね」希紅子が話を引き継いだ「水を出さなくてもいいのよ、水分を空中に出すのではなくて、水分を細胞の中で気体の化学物質に分解して放出してもいいじゃない」
 「すると、真空ポンプの話はもうなしだな」
 薩摩が言うと、希紅子は「そうですね、凍らすのは大変だけど、水を化学的に分解して、気体にしてしまうのは可能かもしれませんね、タンパク質や脂肪もみんな気体にすると、処理しやすいかも」そう説明した。
 「だけど、タンパクなんかもそうなると、からだは気体になってしまうって、なくなってしまう」
 「おもしろいですね、そんな薬をつくって、殺人をする小説がかけそうだ」
 古書が興味をもった。
 「全部気体にしなくても、水分と脂気だけ気体にすればミイラになりますね、細胞の中でそういった化学反応を起こさせるには、酵素が必要だわ、酵素は遺伝子によってつくられるけど、そんな酵素の遺伝子があるわけはないから、どこかからそんな遺伝子が細胞の中に入らなきゃいけない、それをウイルスが持ち込んだということかしら」
 高胎がまとめた。さらに、彼女は「そんなウイルスあるかどうかわからないし、それに、ヒトヨタケとの関係がわからない、ヒトヨタケにそんなウイルスがとりついて、それが胞子にはいって、人にうつしたということになるけど、そうなると、もっとたくさんの人がミイラになっているでしょ、なる人とならない人がいると言うことは、その本人の遺伝子も関係してくるわけね」
 「高胎さんの推理は最高、後はウイルス学の専門家と、遺伝子の専門家が解決してくれますよ」
 宙夜がそういったところで、ミーティングはおわりになり、高原は刑事がもってきた湯殿山神社の、干からびてかさかさのヒトヨタケを国立研究機関に持って行く準備をはじめた。

 それから一月がたった。被害者である課長の主人は、ベトナムにもどっていた。原因が分かったら知らせると刑事は約束した。
 そんなある日、第八研究室の高胎から茸について分かったことがあるので話したいと電話があった。
 刑事が第八研究室にいくと、スタッフは前と同じように、自分の机でコンピューターの画面を見ている。奥のデスクから薩摩室長がでてきて、テーブルにどうぞと挨拶した。会議用のテーブルの上に写真が並べられていた。刑事も見たことのある写真だった。
 高胎が立ち上がって、テーブルにきた。
 「高胎が説明しますから」と室長は自分のデスクにもどった。
 「これ、新コロナウイルスの写真じゃないかね」
 刑事がいうと、高胎は「そうなんです、よくご存じでしたね、ヒトヨタケから見つかったんです」といった。
 新コロナCOVIT19がはやったのは数年前、収束にむかったのが3年前になる。最初のミイラ事件の被害者の男性が山形に旅に行ったのは収束した次の年になる。旅行が解禁になった年だ。
 「刑事さんが湯殿山神社からとってきた干からびたヒトヨタケからこのウイルスがみつかりました。電子顕微鏡写真です。専門家がいうには、正常な新コロナウイルスではなく、変形しているということでした。これは菌糸の中の新コロナウイルスです、茸の細胞のなかということです。きっと、観光客のくしゃみやせきで、唾が飛んで、茸についたのだと思われます。月島のマンションのサボテンの鉢の茸からも見つかりました。それに胞子の中からもでました。
 衝撃的なのは、遺伝子の解析です、普通の黒くとろけるヒトヨタケと、刑事さんのとってきたかさかさになるヒトヨタケと、遺伝子に違いが見つかりました。それにヒトヨタケの細胞にはいった新コロナウイルスの遺伝子も、普通の寸コロナウイルスと違うところがありました。新コロナウイルスも茸の細胞の影響をうけて、変化していたのです」
 「新新コロナウイルスっていうこってすかね」
 「そうなんです、わたしたちはミイラウイルスと呼びました、このウイルスがミイラを作り出したのはほぼ間違いないでしょう、確実なものになったら、またお知らせします、いま動物のからだで、この新しいミイラウイルスが、ミイラを作るかどうか実験をしています」
 「大変なものですかね」
 「そうです、世界中が驚きます」
 「それで、これから、このウイルスが、他の人間に害を及ぼすではないかね」
 「どうもこのウイルスは、人間から人間にはうつらないようで、動物をミイラにすると、そのまま消滅するようです、被害者のマンションは茸が生えないような消毒をするように手配もしましたので、亡くなった課長さんのご主人に心配ないことをお伝えください。
 それと、特定の遺伝子をもった人にしか作用しないようです、その遺伝子については解析中で、それと動物にはいったミイラウイルスがどのように、ミイラにするのか調べている最中です、結果がでましたら、また刑事さんに連絡します」
 「いや、ありがとうございました、ベトナムにいっているあの主人には連絡してやります、安心するでしょう」
 刑事は高胎の説明を聞くと、第八研究室からでた。エレベーターの中で、あそこは違う星に行った気分だなと思いながら、部屋にもどった。あそこにくらべ、ここは、ばたばただな。「刑事さん大丈夫ですか」捜査1課の事務員の女性が、うつろな目をしていた刑事に声をかけた。

 それからさらに半年ほどたった。刑事が湯殿山神社の茸を第八研究室にわたしてから一年経っている。
 刑事がよばれて、第八研究室にいくと、会議テーブルに高胎と室長がすでについていた。
 「刑事さん、お呼び立てしてすみません、結果がほぼまとまりました、データーや結論は、コンピューターにはいっていて、書類としては打ち出し禁止になりましたので、口頭でお話ししたいと思います」
 刑事は極秘の情報になったのかと思った。
 高胎が話し始めた。
 「半年前にお話ししたことから、以外と早く研究がすすみまして、結論がでました。まず大事な点は、もう被害者はでないということです
 厚生省からは、ヒトヨタケの変異したものに毒性があることが分かったことを発表します。それでおしまいになります。ウイルスのことはおもてにでません。
 事件に関しては、被害者の方の体調の急変による極度な脱水と乾燥によるものということにするそうです。それはマスコミに対して、警視庁の方から漏れるような形で広めます」
 「そういうことで、刑事さん、これからの話はご内分にお願いします」
 室長が頭を下げた。
 「それじゃ、コロナのウイルスのことは問題ないわけですか」
 刑事はちょっと心配になった。津波による原発事故のときの政府の不十分な対応をおもいだしたからだ。
 「新コロナウイルスがヒトヨタケの中でミイラウイルスに変わったことに関しては、科学的な解析が行われ、研究者にとっては大変な発見になります、いずれ論文になると思いますが、警視庁の問題ではなくなります、
 どのようなことがわかったかといいますと、ヒトヨタケの菌糸の中のある物質が新コロナウイルスの遺伝子に作用して、違うウイルスに変化させたことがわかりました。ヒトヨタケの遺伝子が作り出したものは、新コロナウイルスにとっては毒ということですね、その物質はウイルスのように不安定な遺伝子に対して作用します。ほ乳類のように遺伝子がきちっとしてきた生き物の遺伝子には影響は少ないと思います。その物質をウイルスに作用させて、薬の成分を作らせるとか、そういった人の役に立つ方向に開発が進められると思います。逆にウイルスの毒性を強くすることもできるので危険です」
 刑事は恐ろしい話だと思った。
 「特定のネズミにミイラウイルスを感染させたら、同じように、一月後にいきなり毛が抜けて赤裸のネズミになり、一晩でしわしわに干からびて死んだそうです、ネズミをつかって、ヒトヨタケで変化してできたミイラウイルスが、どのように人の細胞から水分をなくし、脂質をへらしたかということですが、これもまた、大変なことがわかってきました。ミイラウイルスの遺伝子の一部が特定の細胞の中で、ネズミの遺伝子に組み込まれ、そこでいくつかの新たな酵素をつくりだしたのです、水を酸素と水素に分解する酵素、脂質やタンパクの一部を分解して炭素と酸素を結びつける酵素などです、それは二酸化炭素をつくります、ある意味では酵素は毒です。毒を作る遺伝子に体中の細胞の遺伝子が変化したのです。」
 「それで、部屋に二酸化炭素がふえていたわけですか」
 「そうだと思います、からだから、水素、酸素、二酸化炭素など、気体がでたものと思われます、それに熱も一時期発生したと思います」
 「それで、干からびちまったのか」
 薩摩が「でもですな、そういった分解能力を排出能力として人間がもっていたら、肛門はいらなかったでしょうな」
 と変なことを言った。刑事が理解できないと言う顔をしていたのだろう、高胎が「室長おもしろいことをおっしゃる、腸で吸収されずに残ったものを分解して気体にする酵素がはたらけば、トイレに行かないですむわけですよね」と笑った。
 刑事はだけどなと一瞬考えた。
 「おならはでますよね、肛門はいるね」
 と言った。それを聞いた高胎が声を出して笑ったものだから、デスクで仕事をしていた三人が一斉にこっちをむいた。
 「いや、刑事さんの言うとおりだ、屁はださなきゃならんな」
 薩摩も笑った。
 「話をもどしますと、ともかく、水や脂質、タンパクを気体にする酵素などいままでしられていませんでしたので、この領域のノーベル賞級の発見になります、さらに付け加えることがありまして、体の中には眠気を誘う物質があります。睡眠物質です、たとえば、松果体という脳のところにある内分泌器官はメラトニンというホルモンをだしますが、これが睡眠物質でもあるのです、時差ボケの薬としてつかわれています、ミイラウイルスにかかると、このホルモンがたくさんでるようです。ということはとても眠くなるでしょう、だから、寝てしまい、本人は知らないうち亡くなるわけです」
 「それじゃ、苦しまないわけですな、しらせてやろう、奥さんミイラになるのに苦しんだだろうなって、泣いていたよ、あの旦那」
 人思いの刑事だ。
 「科学的な大発見と、事件の解決、これも刑事さんが、湯殿山神社で茸をとってきてくださったおかげです、刑事さんが真犯人をつかまえたわけです」
 「警視総監の方には伝えておきますから」
 薩摩が言った。
 さらに、「どうでしょうな、今度の土曜日、この研究室の飲み会をやるんですが、いらっしゃいませんか」と薩摩がさそった。
 「はあ、ここでですか」
 「いや、巣鴨にいつも集まるとこがありまして、その店でやります」
 刑事は「私は巣鴨に住んでます」そういってうなずいた。
 「ほう、巣鴨に家があるのですか、それじゃ是非、6時からです、われわれと、懇意にしている探偵事務所の人もきます、神無月という店です、これる時間にきてください」
 それを聞いた刑事は「あ、あそこ」
 と笑顔になった。

第一エピローグ

 土曜日、刑事は6時に飲み屋、神無月の入り口に立った。貸し切りになっている。
 戸を開けると、がやがやと話し声が聞こえる。SSBC第八研究室の面々はもうきているようだ。
 中にはいると、手ぬぐいはちまきをした亭主が、「らっしゃい」と刑事をみた。
 「おい、まっちゃん、ずいぶん久ぶりじゃねえか、今日は貸し切りなんだよ」
 亭主は困ったなという顔をした。
 刑事はテーブルを寄せ集めて周りにいる連中をみた。第八研究室の四人と室長、みんなもうビールを飲んでいる。どしんとした色白の大きな女性がぐーっと、ビールを飲み干した。その隣の前髪を長く垂らした格好のいい男と、カマキリのような顔をした男がいる。それが探偵事務所の人たちなのだろう。カマキリ男のとなりに吉都希紅子がいる。刑事という職業柄、どのような人がそこにいるか、ぱっと把握する。
 「刑事さん、この店知ってんだ」
 薩摩が入り口を見て立ち上がった。
 店主の奥さんの姫さんが「町方さん、高胎さんの隣の椅子にどうぞ」とビールを持ってテーブルにおいた。
 「なんだい、まっちゃん、刑事さんだったのかい」
 主人が料理の手を止めた。
 「おやっさん、刑事さん知ってんだ」
 薩摩が声を張り上げると、
 「おまえさんよりもっと前から知ってるさ、ここのお客よ、刑事ったあしらなかったな、」
 店主もまけじと大きな声をあげた。
 「刑事さん、あっちにいるのが庚申塚探偵事務所の人たち、所長の詐貸とそのとなりが奥さんの野霧さん、キックーのとなりが旦那の吉都可也さん」
 おやカマキリが旦那か。
 薩摩が紹介すると、三人が笑顔でお辞儀をした。
 「詐貸は俺の大学の時のサークル仲間、大学生の時に司法試験受かった奴で、今探偵さん、最も弁護士家業もやってるがね、刑事さん知ってるかな、奥さんの野霧さんは作家」
 野霧、え、あの探偵小説作家。
 「読んだ、面白い探偵ものだった」
 野霧が大きな口を開けて「うっれしー、読んでくださったんですかあ」と大声を上げた。
 なんて集団だ。
 「刑事さん、飲んでください」
 高胎にすすめられて、刑事はやっとビールを口にした。
 店主のじいさんが「なんでえ、刑事が刑事さんてよぶのはおかしいね」
 と笑った。
 「話はキックーから聞いてまーす、事件の星を挙げた刑事さん、私たちは庚申塚探偵事務所でーす、迷い猫の捜査が得意でーす」
 野霧がジョッキをもちあげた。
 刑事は彼女たちの方に向かってお辞儀をして、
 「町方童心っていいます、近くにすんでます」とまじめに挨拶をした。
 「捕物帖ですか」
 野霧が笑って言うと、刑事はまじめに「町の方のわらわのこころと書きます」といった。
 「わー、すてっきー」と野霧はまたビールを飲み干した。
 希紅子の隣に座っていたカマキリが、
 「ヒトヨタケが真犯人だったって言うのはおもしろいですね、だけど、新コロナウイルスがヒトヨタケによってミイラウイルスに変わるなんて、すごい茸だっておどろきました、ましてや、ミイラウイルスが細胞に入り込んで、遺伝子をかえて水や脂肪やタンパクを気体にしてしまう酵素をつくりだすなんていうのは、生理学、生化学、分子生物学、今までの歴史の中での大発見ですね」
 と言ったのには、俺にゃ理解できていないのに、探偵がなんでそんなことわかるのだと、刑事はおどろいた。
 「この人、生命科学の大学院出身で、アングラ演劇やってたんです」
 希紅子が説明した。
 なんて探偵事務所だ、それにこの第八研究室の連中、おっそろしい奴らだ。
 刑事は緊張して、お通しのホタテのはいった小皿に箸をいれた。うまいホタテだ。
 「そのホタテさ、北海道から直送の新鮮な奴、うまいだろ、国内にゃいままででてこなかったやつだよ、ほら、中国が日本の海産物輸入を禁止しただろ、いやがらせでさ、おかげで、国内にうまいものがたくさんでまわるようになってさ、こんなうまいのよそにやるこたないよ」
 神無月のおやじがどなった。
 「お酒や、ウイスキーにしたい方はどうですか」
 姫ちゃんが声をかけた。
 「詐貸さんよー、ちょっと古いラガブーリン手にはいったよ」
 主人が声をかけると、探偵事務所の所長の詐貸がうなずいた。
 「カスクだよ、58度」
 「なかなかないやつだな」
 「姫、詐貸さんにストレート、他に飲んでみたい奴いるか」
 「私のんだことがある、ヨード臭い奴ね、わたしももらう」
 「俺飲んだことないな、俺も」
 宙夜と古書も手をあげた。町方刑事も飲むことになり、だされたストレートグラスからいきなり口に流し込んだ。
 目を白黒させながら、あわてて用意されていた水をながしこんだ。
 薩摩警視が「刑事さんはじめてだな」と笑った。
 「ひでえウイスキーでしょ、こんなのをうまいという奴が信じられん」
 薩摩軽視は焼酎くれーと叫んだ。
 高胎と希紅子は素知らぬ顔で飲んでいる。
 姫さんがみんなの前におつまみをおいた。
 「これうまいね、なんだ」
 「豚のジャーキー、次は鯨だ」
 主人が叫んでいる。
 「刑事さん、巣鴨は長いんですか」
 高胎が聞いた。
 「最初は池袋警察署にいたんで、そのころから巣鴨にはいたから、三十八年近くになりますかな、今の家を買ってから二十年で」
 「池袋署はどうでした」
 「今は知らんけど、私がいた頃はのんびりしてましたな、本庁に移ったら、血なまぐさい事件が多くて、いやになりますよ、だけどミイラ事件はおどろきました、あ、これはあまりしゃべってはいけないんですな」
 「探偵事務所の人には話してあるので大丈夫です、実は、吉都さんに相談したんです、希紅子をつうじて、生命科学の大学院で、発生分子生物学をなさっていたから」
 高胎が言い添えた。
 「いや、猫さがしの探偵といううたい文句だが、ずいぶん変な事件の解決を手伝ってもらったんだ」
 薩摩が説明をした。
 「町方刑事さんは、野霧さんのミステリーはなにを読みましたか、猫眼石の女、八人の卑弥呼、テディーじいさん、それとも夢久家の人々」
 古本がたずねた。
 「テディーじいさんがなけたねえ」
 亡くなった若い奥さんの脇で、自分からミイラになったじいさんの話だ。
 「私も何日も泣きました」
 野霧がそういって、泣きそうな顔をした。自分の書いたものに泣けるんだ、と刑事がそう思ったとき、
 「どれも、ほんとにあった話がもとなんだ、探偵事務所が解決したんだよ」
 薩摩が言うと、刑事がびっくりした。どれもありそうにもない話だったからだ。うそだろう。
 「刑事さん、趣味は旅行なんですか」
 野霧は刑事が被害者の行った旅をたどって、解決に結びつくものを発見したことを知っている。
 「うーん、車やバイクの運転、あと一年で退職で、ハーレー欲しいと思ってんです」
 「野霧さんも所長も大型バイクの免許もってますよ、俺は250だけど」
 吉都が言った。
 「野霧の本にでてきたミイラになったおじいさんが、トライアンフのサイドカー付きを形見にくれたんです、探偵事務所にありますよ、使ってください」
 詐貸所長の言ったことに、刑事はまたびっくりした。驚くことばかりだ。本当に本当だったんだ。
 そこに、がらっと戸を開けて、一人の老人がはいってきた。
 「じいさん、貸し切りだよ」
 主人がそういうと、なんでーという顔で、
 「分かってはってきたんだ、事件の匂いがした」
 老人はカウンターのはじにこしかけた。
 「刑事さん、はいってきたのは五十嵐五十老ですよ」
 町方刑事はびっくりした。ミステリー界の重鎮どころか神様みたいな存在である。刑事も職業柄何冊か読んだ。
 「お、野霧さんもいる、やっぱりなんかあったな」
 老人はみんなの方を向いて猪口をもちあげた。
 「先生、久しぶりです」
 野霧がその場で立ち上がって、ビールジョッキを持ち上げた。五十嵐老人は一人で飲むのがすきなのだ。だから、近くには行かない。
 「野霧さんはいいな、またネタがはいったのだろ」
 「いえ、これからです」
 「こちらから話を盗み聞きして、わしもつかうからな」
 老人はそういって、お通しを食べはじめた。刑事はこんな近くに、こんな人間がいたとは何十年もここに住んでいて気がつかなかった。
 「五十嵐先生は、我々がここにくる前から、ここの常連だったんです」
 野霧が刑事に言った。そういうもんなのか。あったことはないな、と刑事はおもった。
 「先生、本当に極秘の事件です、聞こえてもだまっていてくださいね」
 薩摩が声をかけた。
 「ミイラ事件じゃろ」
 「あ、図星だわ、どうしてわかったんですか」
 高胎がびっくりしている。
 「こりゃミステリー作家の勘じゃよ、わんわんとニャンニャンが集まって、迷える子羊をいじめておる、こりゃ、事件だ、最近の変わった事件て言えば、一晩で干からびて死んだ人のことだ、一年前にもあったな、こんな変な事件は、ワン公のところにいくだろ、きっと、猫探偵に相談がいく、で、解決か中間まとめかしらんが、両方が集まっている、そこにいる刑事さんを担ぎ出して、飲もうって言うことは、解決したんだな」
 「さすが先生、その通りです、でも、わたしたち、にゃんにゃんで、ハチ公の人たちはわんわん、っていいですね、でも刑事さんはまよえる子羊じゃないですよ、カピバラかしら」
 八公とは忠犬ハチ公から、第八研究室を野霧たちがそう呼んでいる。
 だが、なぜ俺がカピバラなんだ。
 「刑事さん温泉がにあいそうだものね」
 野霧がそういうと、みんな、あ、そうか、という顔をした。
 「さすがうまいこというね」
 五十嵐老人もうなずいている。
 刑事は頭をかいた。
 「それで、解決したの」
 五十嵐老人は珍しくみんなの方に向かって話しかけてくる。
 「先生、結果は、ノーベル賞」
 「なんだい、それは、野霧さんがノーベル文学賞でもとるようなストーリーかい」
 野霧が「関係ないなあ」とつぶやいた。
 高胎が説明をした。
 「ノーベル生理学賞になるような発見があったんです、でもそれはもっと研究が煮詰まらないと発表されないと思います、ミイラになるようなことが起きたのは事実ですけど、そういった病気だったということで、事件の方は解決なんです、遺伝子がおかしくなる病気でした、でもうつったりしないから新聞にはそう発表されると思います。町方刑事さんが、その真犯人を捕まえたんです、それで、今日はお祝いです」
 「犯人はだれだったんだ」
 「刑事さんが捕まえたのは茸」
 「ひゃ、茸が犯人か、こりゃ、わしはわからんな、まあ、おめでとう、おい、じいさん、みなさんに、いっぱいおごるよ」
 「じじいにじいさんといわれたかないね」
 神無月の主人が、五十嵐老人に口をとんがらせて、「姫、みんなに飲みたいものきいてよ、だしてやんな、みんな、このじいさんにつけちまうから」
 「はいはい」
 姫山は、みなに飲みたいものを聞きにまわった。
 「刑事さんはなににします」
 刑事があわてて、
 「ウイルススキー」といったものだから、みんなは笑うのをこらえた。
 「ラガブーリンかい」
 じいさんがいうと、刑事は首を横に振り、「ありゃやだ、角のソーダでわったやつ」と返事をした。
 「スカチンソーダ」と詐貸が言うと、「すかんぴんだそうだ」と薩摩が大声を上げた。
 なにいっているのだかわからない、めためたな集まりだ。だが、頭がすっきりして自由な風がふいている。
 でてきた角のスコッチアンドソーダ、いやハイボールを町方刑事はぐーっと飲んだ。
 「刑事さん、猫と犬とどっちがすきですか」
 野霧がきいた。
 「どっちもすきかな、犬も猫もこどもの時にはいたけど、警官になってからは飼ったことないな、ネズミもきらいじゃないな、カビバラだから」
 みんなが大笑いした。
 「刑事さんあと一年で退職だそうですね、その後はガードマンですか」
 「いや、ガードマンはいやだなあ、男たちの旅路のようなのならいいけど、鶴田浩二にゃなれんしな」
 男たちの旅路は山田太一脚本、鶴田浩二主演のNHKの秀逸ドラマだ。
 「探偵事務所はどうです、猫が嫌いじゃなきゃ」
 詐貸探偵事務所所長の提案に、冗談でしょという顔で、刑事は頭をかいた。
 「また本にするんだろ」
 五十嵐老人の声に、野霧さんが答えた。・
 「今度の話は、毒消し刑事、かしら」

 第二エピローブ
   
 もう桜も終わった四月の半ば。
 薄暗くなってきたある日の夕方
 お岩さんのお寺の近くにある、庚申塚探偵事務所から、四人の人間がでてきた。
 それぞれなにやらもって、住宅街のほうに歩いていく。
 探偵事務所の所長、詐貸美漬が初老の男に声をかけた。
 「猫はああいう隅っこにはいり込むのです」
 物置とブロック塀の隙間を指さした。
 声をかけられた男は、うなずきながら、塀の隙間に近寄った。
 その男は、警視庁を定年退職した刑事、町方童心だ。
 元刑事が行ってのぞくと、みゃあ、という声がして、子猫がでてきた。
 「あ、いた」
 元刑事がそういうと、みゃあみゃあ、とさらに二匹の子猫がでてきた。
 「捨て猫だわ、かわいい」
 野霧が一匹抱き上げた。
 「めずらしいですね」
 吉都が一匹抱き上げて。
 「こりゃ雌だ、元気がいい、健康な猫ですよ」といった。
 元刑事がだまって最後の一匹を抱き上げた。
 「猫を知るには、飼うのが一番ですよ」
 詐貸に言われた刑事はなにも考えずにうなずくと、野霧と吉都が「この子も」と刑事に猫を渡した。
 「幸先がいいのだろうか」
 町方元刑事、今探偵は、こうして、三匹の子猫を飼うことになったのである。
 「何か食わしてやらなきゃ」
 四人はまた探偵事務所に引返していった。

遺伝子の毒

遺伝子の毒

一人の男がマンションの自室で干からびて死んでいた。原因は旅先で出会ったあるものだった。刑事と探偵が謎を解き明かす物語

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-06-28

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