『詩考』〜カルダー展〜
一部、加筆修正しました(2024年6月29日現在)。
一
自由詩を念頭において考えれば、字数制限なく幾らでも綴れるとはいえ、論理的な文章を書き続ければ詩になる訳ではなく、だからといって論理を排して文字を積み上げても目の前にあるものが詩になる訳でもない。
いや、書いた本人の中で「これは詩だ!」という確信が生まれれば、文面上のそれは間違いなく詩であると筆者は思う。けれども自分自身が詩と呼ぶそれを誰かの目に止まる形で表そうと思った時、作者として抱く達成感はそのままではいられない。
読み手が普段、詩を読んだり書いたりする人であるかないかに関わりなく、鑑賞される表現物を介してお互いの中に認識面あるいは感情面における蠢きが生まれるだけの何か。論理的には説明し難い、けれど全く意味不明なものともいえない、故に人によっては気持ち悪い!と忌避されることになりかねない何かとして、関心の対象となる。そういう言葉の集まりとなった時に初めて自ら手掛けたものが一括りに「詩」と呼ばれる。
文学作品として詩が広義なものにならざるを得ないのはだから当然で、同じ文学に括られる小説や短歌、あるいは俳句以外のものという対偶関係に従った定義を詩に試みる方が筆者の実感に沿う。
もちろん詩とは何か、を論じるにあたってかかる定義は余りにも心許ないし、誤魔化されているような印象をきっと与える。また商品としての詩を広めるにあたっても、この定義は売りとなるポイントを明確に提示しない。だから広告としてもきっと使い物にならない。
それでも広義ゆえの強みはあって、例えば絵画や音楽といった別媒体の表現を見たり聴いたりした時に思わず「詩的だね」と口にし合うことがある。上手くいえないけど、何かがそこにあるよね?という了解をお互いに得る場面で用いられるこの「詩」という言葉には、目の前にある「それ」を他人に指示するのと同じくらいの自然さが宿っている。どこで学んだのかも分からないのに、人々は詩という言葉で指示できるものを知っている。
こう仮定した時、詩は人間がいつでもどこでもキャッチできる感覚となる。そして文学作品としての詩はその感覚の所在や発現の仕方について文字を使い、可能な限り目に見える形で探る試みであると理解できるようになる。
詩という表現の生存戦略を考察するにあたってこれほど頼もしいことはない。なぜなら人が人であることを止めない限り、詩は日常のどこかで必ず生まれると考えることができるから。詩という表現が好きな一人として、筆者は詩という営みがずーっと続いて欲しい。そう強く願うから上記定義のような詭弁を弄することも厭わないのだ。
とはいえ感覚的、という言葉も大味すぎて詩という試みの核心を突いているとは思えない。そもそも言葉自体が個々人の内部で生まれる実感を誰かと共有できるものとして情報化する作業でもある。感覚は、どうしたってそこで一旦は抽象化されてしまう。そんな言葉に無理をさせ、小説といった他の文芸作品では到底行い得ないイメージの発掘作業を行う詩の良さを一体、どう語ればいいのか。
例えば詩を手掛けようとする時に覚えている作者の感覚を、受け手が直接かつ同時に体験できるとしたらどうだろう。その単語の選び方、次の単語との間にある齟齬の意義もしくは重なり合い、または助詞に込められた体感の強弱などのポイントを知ることができる。そうやって詩というものを感覚的に紐解き、無意識のアレンジを鑑賞者が加えていけるとしたら。
そんな夢みたいな鑑賞経験は、しかしながらマルセル・デュシャンが「モビール」と命名し、アレクサンダー・カルダー(敬称略。以下、単に「カルダー」と記す)の代名詞ともいえる抽象的な彫刻表現が可能としていた。現在、麻布台ヒルズアートギャラリーで開催中の『カルダー:そよぐ、感じる、日本』展ではその凄さを目の当たりにすることができる。
原色に塗られた金属の板や棒が針金に吊るされ、会場内の人の動きや空調の作動具合に応じてゆらゆらと動くカルダーの彫刻は不思議な幾何学模様を描く。無機物の連なりが自然にイメージさせる生き物の気配は、けれど会場内に設置された照明の力を借りて壁に舞い落ちる花となり、落ち葉となって命を失う。感覚的に象られ、機能的に繋がれるカルダーの抽象彫刻はこうして環境的要因に依存しつつも、時間経過という四次元の領域でその居場所を見つける。
展示会場でも解説されているが、カルダーにとっての図形は具体的なものを抽象化したものでなく、その幾何学模様じゃなければ語れないイメージに迫る具体的な手段そのものだった。同じ会場に展示されている絵画表現の数々はこの点をよく知る手掛かりとなる。
その画面に描かれているものは一見してピート・モンドリアンを思わせる図形的表現になってはいる。けれど暫くその場でじっと鑑賞すると画面のあちこちに色として残された筆の運びが見えてくる。それをきっかけに、何かを代弁するものかな?と探っていたモチーフの数々が固有名詞で呼ばれるべき存在感を発揮し始める。
その瞬間の印象を絵画の素人として綴れば「カルダーの絵画表現はどれもがかの偉大な画家、ジョアン・ミロ(敬称略。以下、単に「ミロ」と記す)のそれに似ている」というものになるが「なぜ、そうなった?」という疑問を先ずは棚上げして、目の前にあるものをそのままに受け入れる。そういう判断保留の状態にあって頼りになるのは認識を生む純然たる感覚だけだから、それによって得られる意味不明瞭な情報をいつものように忌避することなく、新鮮な目をもって鑑賞する私たちが楽しめてしまう。イメージに富む彼らの表現手段がそのポイントを外さない。そんな非日常を齎す点で二人の表現は確かに重なって見えた。
かかる鑑賞体験を詩作品でも行いたい。それが詩の制作においても素人な筆者の大それた願いである。けれど実現不可能なものだとは思っていない。
実際、カルダーの絵画表現又はモビールに欠かせない図形は数学的な理解を要する。故にそこでは間違いなく論理が働いている。その論理を非論理に表現し、かつその内実を感覚先行で体験させている。これと同じことを、論理そのものである言語表現が行えないとは思えない。
しかしながら筆者は両者の間に決定的な違いも見出す。それは前者の表現手段には物性があるのに対し、後者にはそれがないということ。前述した通り詩表現を構成する言語は対象を情報化する手段に過ぎない、そのために論理を排した途端に言葉はただの音の連なりと化してしまう。そのために非論理的な表現を言葉で行うことはもとより不可能。これに対して、論理を排しても物は「物」として存在できる。だから物を用いる作品では非論理的な表現が可能となる。それがミロやカルダーの表現の凄さを生んだ。
では詩は?やはりこのまま敗北を認めるしかないのか?
無駄な抵抗と自覚しつつも、筆者がこのウィークポイントに関して試みているのは「言語の連なりである詩作品全体を一つの形として綺麗に揃える」ことである。文字の塊としての見栄えの良さを自分なりのセンスで整える。そうすることで読む側に「作品」という塊を物のように意識してもらう(可能性を担保する)。そういう視覚的なパッケージングを行った上で今度は口に出した時のリズムの良さや、言語に可能な限りの非論理的な表現で多彩なイメージを想起させるといった聴覚的な面白さを体感してもらう(可能性を担保する)。
このように文字表現の認識に関わる機能全般に対するアプローチを試みる事で言語に内在する矛盾を乗り越えられないか。その成否は、しかしながら相当数の作品を書いてみて、読み直して、必要があれば書き直してを繰り返さないと何一つ語ることができない。作者としての実感を積み上げる。その上でそれを外から崩していく。作者と名乗れる「私」を材料にしないと創造的な詩は書けない。これが詩を書く際の筆者の大きなモチベーションとなっている。だから続ける。多分、一生。
二
詩を活かす謎は、詩を書くという行為自体にも存在する。だから詩は面白い。やめられない
自分の中に溜まったものを形にしたくて書き始めたこの本文であるが、詩作品と同じように必要な更新を施しつつ、これからも続けていきたいと思う。
『詩考』〜カルダー展〜