概念-少女小説集 Ⅱ

キャッチコピーは、「少女に至るガーリーな病」「純粋少女批判」「少女的生における方法論序説」などなど。

  概念-少女DANDISM


 二十二歳、武装様式(ファッションスタイル)は「地雷系」──いつや爆発いたします。
 そう二十二歳、少女といえるか微妙な齢、されどわたし、このもろい躰を硬質なダークポップ曳き散らす病みカワな少女衣装に武装させ、わたしの「少女」を、まだ守護しつづける所存である。されば「年齢-少女」という意味ではなく「概念-少女」というそれにおいて、彼女自身を縛りつづける戒めをわが背に負わせている者、彼女こそがわたし、鈴木なおということだ。
 胸元の薔薇いろのリボンはわが不安定な情緒さながら、暗みに曳かれるベリーの翳のごとき蠱惑を、儚げに、あるときは攻撃的に揺らしながら、最上・最強の拒絶色──「黒」に塗られた病める薔薇のガーリーな戦闘服を、まるでモットーとして司らせる。いわく、それはわたしの国旗。つまりはわたしの感性をまるで司るのがわたしのファッションスタイル。少女らしい華奢と色白を守るという法に従い、お菓子を控えめにし動画サイトをみながら忿怒の表情でトレーニング──すべてはわたしの躰を、わが国土として美しく刈るために。わたしは「憧れの少女像」を投影するわたしの理想の夢、「月硝子城」に射されることによって、「少女性」という、あるかもわからない月に照らされる少女の月影としてうごき踊る、この孤独国家唯一の民。
 ──跪け。国歌斉唱。
 だれよりも儚げに尖鋭であれ、なによりも病的に透明であれ!
 つまりわたし、わたしじしんを、一つの少女王国へ装飾してみたいのだ。
 職業、クリーニング店の受付兼事務。一応、正社員。まがうことなき、ふつうの社会人であります。家庭の事情で、大学にはいけなかった。やや不登校ぎみだった高校時代は、少女的ロマンチックな服装をしてキャンパスライフを経験してみたいとごくふつうに想っていたし、恋人は夢みていなかったが似たような友人が一人でもできれば絶対たのしいだろうなと想像はしていた。が、かなしい病気をもっている母はわたしの幼少期から無職、離婚した父親からの支援はいただけなかったため、経済的な理由で進学は断念。生活保護だけでは家計がくるしいからと母にいわれてそのまま百均ショップのアルバイトをし、一向に働ける気配のない母との生活をすこしでも楽にするため、ついこのまえ正社員で受かったのがこのクリーニング店である。一言でいうと、わたしの地雷系衣装のつぎのつぎのつぎくらいには、労働環境が、黒(ブラック)。従業員はいいんだけどね! 激務と長時間労働と、あとアレがね!
 卒業してしばらくは、不整列きわまりなかった学校生活で疲弊した心身をやすめたかったのに、十八で社会に押しだされてしまうも「少女」でありつづけようとするわたしよ、どうか染まることなかれ、含まれることなかれ。鈴木なお、きょうも平板で無個性な白っぽい制服を着て、日々激務に耐え、たびたびの勘違い男客のセクハラに耐え(これさえなければそこまでなのになぁ)、病みカワで夢カワなわが感受性を大切にするために、世界に染まることを断固拒み、「はや、傷負うこと致しかたあるまい」と、少女がしてはいけない(と、されていますけれどわたしはそうはおもいませんけども?)眉間に皺よせる格闘の顔に険しくさせ、想いだしたように休憩時間は自撮りをして容貌(ヴィジュアル)のかわいさを確認して安心、十数分後すぐに受付にひきもどされ(あれー? 休憩って一時間じゃないんですかー? といえたのは初日だけ)猫かぶりな接客用の笑みをはりつけて、せいいっぱい社会生活を送っております。
 されど休日のわたしは、まるで削がれるように概念少女の本性をさらし、まるで夢みる星空を浴びるように、少女の衣装を纏うのです。ひそやかに。しずしずと。しかもどぎつく。沈鬱に、炎ゆるがように。怒りと憂いのこもるガーリーな闇を立ちあらわせた、街並みからきみょうに浮びあがる黒と真紅とショッキングピンクに装飾られた「不整列」を示す違和の印象を、逆転して透き徹った水晶へと反転し、現実という冷然で硬質な硝子盤へ、「わたしはわたしとして生きる」という意欲を、鋭い刃物として突き刺すように。
あえて街並みで浮く暗みの服装をし颯爽と歩くわたしたちは、けっして病める感受性を誇っているのではなく、じつは、たいしてそんな自分を愛してもいない。わたしがこの武装をするのは、まさに生存の為であるほかはない。というわけで、「病みカワファッション」なる俗悪の美は、まさしく戦闘服というほかがないのだ。
 というのも、わたしがこの概念少女DANDYな装飾をわたしにほどこすのは、つぎに書き記すある貞節をわたしじしんに突きつけ、「憧れ」と「嫌悪」という少女が少女として生きるための最上最低の意欲に捧げるため、いわゆる、「青春の淋しい暗み」へぞっと火を燈すためなのである。
 すなわち──わたしは不整列で、孤独で、いびつで、しかし、それ等の負の焔をわたしらしく生きるための発火材としてうごいていて、その生きるうごきを、或いは祈りそのものを、ただ「自恃」とし生きている。
 生きてやるんだわ。
 そのヤケな呻きは、わたしの喉からこぼれる、素朴素直な命の歌である。
わたしという少女王国の軍事力は、その悉くが、わたしに睡る透明な水晶の守護と貞節のために消費される。そのために必要な戦いこそが労働というそれであり、わたしは、現実と争うことでわが少女を護り抜く。かわいく、ありつづける。
 即ち、錯覚することなかれ。けっして、男性の為に美しくありつづけているのではない。貴方の為に、美しいわけじゃない。

  *

 朝起きると、わたしはゲロゲロ鳴いて出勤の義務を要請するカエルさんのめざまし時計を押し、深い事情によって意欲を失った母がぐったり寝ているのをみて、苛立ちのような、しかし生きててくれるだけで安心なような、「どうしてだよ」と壁に押さえつけたくなるくらいの、どうしようもない愛おしく狂暴な気持になる。されどそんな感傷に浸っている暇はない、何故ってわたしはクリーニング店の正社員、概念少女との両立という厳しい二重生活を強いられている、淋しき少女戦士なのだ。
 しばしばマネージャーから注意をされるが店長と先輩には目をつぶってもらっているややラベンダーがかった黒髪を梳かし、仕事向きにナチュラルにみえるけれどもじつはすこぶる研究された、わたしを可愛くみせるメイクをする。
 メイクをするとき、わたしは変身している気分になる。大キライなわたしが、すこしでも好きになれるわたしへ変わっているような気持になる。
 わたしは「そのままで素敵だよ」となによりもいわれてみたいタイプなのだけれども、また「わたしはそのままで素敵なんだ」と思うことをなによりも怖れている。しかし実際にそれを男性にいわれてみたとき、かれの眼に映る「鈴木なお」にすぎないわたしを、「そのままでいい」とみなされたことに、はげしい嫌悪をおぼえる。かれのなかでわたしが都合よく形を捏ね変えられ見えるはずもない領域を幻想の肉感に柔らかく補強された「そのままの鈴木なお」が、かれのなかで「使用可能だ」と判断をされたことに対して、激しい怒りを感じる。
 社会的な性格なんかかなぐり棄て、親譲りの狂暴な衝動のままに女児向け玩具の魔法少女のステッキを振りまわし、喚き散らし、美しく刈られなくなれば当然崩れる躰をさらして内から体臭の噴くざらついた肌をなげだし、生物のまっさらな姿として体毛だけでなく泥の洩れるようなわたしという悪意の本音、「あなたのこと、受け容れているどころか、手前で受けとめてすらいませんけども」という不協な轟音でがなりたて、後頭部を掴んで「ほら、食えよ。そのままの俺。オイ?」とでもいって、ちょっぴり意地悪をしたくもなるのだ。
 わたしにも恋人から丁寧に気持を愛してもらった経験がある、と、想っている(わからない)。けれどもわたしには、赦されうる愛され方が解らないのだ。
 神さま。愛って、なんですか。
 ソレヲ愛トイウナ。
 そんなものを、愛なぞと美しい名で呼ぶな。
 折に触れてそう叫んでしまうわたしの魂を、お願いだから、全身全霊で守らせて。わたしを、少女のままでいさせて。
 わたしはメイクをしながら仕事のことを忘れ、手はこつぜんととまり、幼少期の変身願望を、切なくも想い起こした。
 小学生時代。
 わたしはわたしであることが苦しかった、わたしがわたしとしてわたしの気持を行為としてあらわせば皆が否定することが苦しかった。わたしはわたしでいてはいけないのだと確信した、わたしは鏡に映るわたしを憎み、自意識という審美の鏡にうつるわたしを怖れ、わたしという存在なんか投げ放たれて、無いものとして吹きとばしてしまいたいと悲願した。
 その頃わたしは魔法少女もののアニメを好んでいて、休日の朝に放送しているそれを視聴することを、日々のなによりのたのしみとしていた。そのままに優しい感情をもっていて、そのままに素直に言葉を発しても優しくて、損得よりも優しさを自然な気持でえらびつづけて、どこまでも可憐で、ひとびとのためにわが身を犠牲にし瑕だらけになっても戦う魔法少女は、さながら、瑕に清まれてゆく水晶のような美があった。
 聴いて。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。
 瑕を負いつづけることで、磨いてゆくものだ。
 わたしが焦がれていたのはまさしく魔法少女の優しさであり、優しさによって戦わせられる弱さの宿命であり、それを背に負って争う「弱さの気品」のつよさであり、その脆弱な可憐さが瑕負うごとに純粋へ磨きぬかれていき、咲き誇る「そのひと固有の特別さ」を剥ぎ落とされて、果ては余りにあまりに透明にすぎるがゆえに無個性な存在となるという、さながらに磨かれぬいた硝子のそれにも似た、ある種の美の孕む一つの宿命であった。
 自己無化。
 嗚、そういうものに対する感覚であったのかもしれない。
 わたしはなにより、魔法少女のようにつよく優しいひとになりたかった。わたしはこの小説を、古代ギリシャからのさばっている呪われた種族のそれ、世間に馴染めず野原を彷徨う外れ者の抒情詩人のささやかなためいき、人間の、嗚人間という憐れな生き物の、もっとも素朴で、淋しいほどにあたりまえの憧れを歌う、淋しき歌にしようともくろんでいる。
 歌は次のもの。
 わたしはつよく、やさしくなりたい。
 唯、それだけだ。
 魔法少女とはけだしその可憐であったのだった、青春の孤独がもとめる幻像を、咽び泣きながらなりたいと想わせる憧れの姿を、まるであらわしていたのだった。
 毎日毎日の校内暴力によって痣をつくった誰からもかわいいといわれない顔に、マジックでアイラインを引き、絶縁された前のお友達にもらった古い魔法少女の帽子を被って、誕生日に百均で買ってもらった魔法のステッキをもち、母が寝た真夜中に洗面所へいって鏡を眺め、にっこりと笑ってポーズをとった。かわいいといってほしかった。変身して、かわいいといってもらって、愛されてみたかった。愛されるにあたいすると実感してみたかった。わたしは背をわなわなとふるわせ、わたしはわたしでいてはいけないんだといういたみが神経を駆け巡るのを感じ、うずくまり、ヒステリックな母を起こすのを怖れて、声を殺して泣いた。変わりたい。変わりたい。わたしなんて粉々に砕かれてしまえばいい、無に飛んでしまえばいい、ズタズタに轢き裂かれてしまえばいい。さすればあたらしいわたしを、わたしじしんが造りなおしてあげてみたい。
 DANDYISMとは、たしかにありのままの自己への否定であり、暴行であり、破壊からの創造である。その根にはたしかに自己憎悪があり、ありのままの人間への不信があり、表面の美しさへの盲信があり、優越への信仰であり、はやそれをしか信じられぬ、悲しい心があった。
 変身したい。変身したい。わたしなんて、わたしなんてどこかへ消えてなくなればいい。何処か遠くにいる、おなじ淋しさを噛み締める誰かにために、わたしなんか明け渡して。要らない。要らない。わたしは、わたしを放棄したい。

  *

 なにが、悪い?
 DANDYISMとは人間不信。見栄。虚栄。優越感。それでよし、それでよし、それでよし。
 されば、わたしは人間のサガを信じ抜くという、新しいDANDYISMを創作するだけだ。賤しい民としての。淋しい少女としての。人間を信じ抜こうとする、当たり前の人間としての。わたしという唯一人だけの存在としての。「わたし」という無個性な人間としての。
 肉をすら脱ぎ剥いで、わたしの「わたし」、睡る水晶に出逢い、そして、よりよき自分を造る。
 はや荒みやさぐれた二十二歳となってしまったわたしは、守護しつづけている純潔透明な声で、ガラガラと呻くがように吐き捨てる。矛盾? ハッ、していませんけれども。清楚の証拠は、瑕にほかなりません。疵の違和と掠れ轢かれる悲痛なそれが、清楚の歌う音楽であります。生きている証拠とは、不可視の熱い涙なのであります。即ち、孤独。絶対的な孤独がそれ。孤独の裡でしか、涙を炎えあがらせることはできません。孤独を神経で生きなければ、概念少女のDANDYISMを生きること、断固断固としてできやせぬ。やはりDANDYISMは、それが変形のものであれ、孤独を貞節とする宿命にある。
 わたしの可愛さを、わたしが愛されるに値するかを、他人が裁くな。峻別するな。価値の吟味をするな。舐めるように躰をみるな。
 いいか、鈴木。聴け。お前は、この頃からすっげえ可愛いから。俺が可愛いかどうかは、もはや俺が決めるから。
 わたしは咽び泣く幼い少女の華奢で硬い肩を、そっと抱き締める。戦えばいいんだよ、戦えば。憧れに向かってうごき、瑕を負っても守りたいものを守護しようとし、戦ってたら、みんな、可愛いんだよ。善を求めて争う人間は、愛されるにあたいされるに決まってる。お前もそうだ。お前もそうなんだよ。みんなそうだろ。オイ鈴木、魔法少女アニメで学んだだろ。
 人生の問題とは、唯、貞節というものである。
 わたしは、祈るように生きる。それが、わが貞節である。わたしの「わたし」が、信じ愛されるにあたいするということ。わたしは性悪説を根拠とした自己否定的な悲しいボオドレールおじさんのDandyではない。少女が少女としてあたりまえにもっている善への信頼を守護しつづけるために武装し戦う、概念少女Dandyだ。

  *

 という追懐のせいで遅刻をしたわたしは店長に叱責され、減給すると念を押される。
「なんで遅刻するの?」
 なんでそんなこと訊くんですかー? という言葉を吞み込んで、唯「すいません」とだけ答える。社会人。嗚。悲しき哉。しかし迷惑をかけたのはわたしであるため、誠心誠意を込めて謝罪していた。少女的倫理に照合し結論された「大人になるべき部分」は大人になる、これ、概念少女のルールである。現実に、食いこめ。いつや刺し違うために。
 仕事をはじめて数十分経ち、服すら持ってこずわたしと話をしに来る六十くらいの男がふたたび薄汚い服を着て飛来し、わたし、さながらに背骨を少女的自恃に硬化させるように、目元を引き締める。侵されてはいけない、染まってはいけない。あらゆる意味で。
「なおちゃん今日もかわいいねえ」
 何故わたしの下の名前を知っているのだろう、誰から聞いたのだろう。怖ろしくて声がふるえたが、習慣となっている猫かぶりの笑みを浮べ、「ありがとうございます」と跳ねるようにご機嫌な声を鳴らす。
「ご用件は?」
「そうだねえ。なおちゃんとお話したくてさあ。今日も胸がおおきいねえ。サイズ合ってないんじゃない?」
 ピ。店長を呼ぶボタンを押す。女性だが大柄な店長は、迫力ある口調で丁寧に男を負い出した。
「若い女の子雇うとこれだもん」
 わたしは黙り込む。
 どうして?
 どうしてあの男は、わたしのいたみを省みず、幾度も、いくども女としてのわたしを侮辱するのだろう。わたしはこれを、仕方がないものとして流す気はない。染まる気はない。疵つく。それをしつづける所存である。

  *

 美が高貴である、と、かるがるしく断言するものに、わたしは唾を吐くであろう。
 美しくあるというのはいたみをともない、また、いつでも搾取されうる存在として在るというあやうさをもつ。けだしDandyという男性的な優越者としての驕りみられる身形と、わが美意識による構築された少女王国の孤独な王女というそれには相違がみられうる。もとより美というものは食欲にも似た情欲をひきおこす、それは性欲をそそる肉体の美にかぎらず、風景、動物、空、さまざまな美はわたしたちに「とりいれたい」「連続したい」「それでありたい」というような粘着質で湿りの濃ゆい、体液質の欲心をもたらす。
 わたしにとり「わたしよ、美しくあれ」という戒律は、綾織らずも裂かれ千々になりかねぬ矛盾のあやうさをつねに孕んでいる。わたしは美を孤独少女王国の玉座に置いているつもりだが、しかしその美に従ってわたしを美しく少女として装飾することは、男たちに「性的に使用可能である」とみなされることに繋がり、またわたしには不思議でならないのだが、女性が可愛くするのは男性に愛されたいためであるという言説が平然と男性たちのあいだでまかりとおっているらしい。
 わたしはそんな目はさらされたくない。わたしは躰をとざした大理石の王女像として美しくありたいし、それが美しい美術品として搾取されることすら拒む。
 「可愛い」とは憐憫であるとしばしばいわれるが、美しいものに尽くし見返りを求めてそれをわがものにしようとする感情を尊大ではないと、いったいだれがいえるのか。
 わたしはわたしの美を愛している。わたしは、みずからを、美しいと思う。わたしはわたしのファッションスタイルが、メイクが、ヘアスタイルが、ほかの誰のそれ等よりも好きだといいきることができる。しかしそれはわたしによるわたしへの搾取であり、わたしは孤独でありたい孤独でありたいと悲願するがゆえにそれに罪悪のいたみを曳くように感じ続けている。わたしはもしいまの身形に飽きてしまったら、浮浪者のように薄汚くあらゆる美の剥ぎ堕ちた惨めなそれでありたいと欲するだろう。なぜといいそれこそが、いのちの美しさであると想うから。
 Primitiveとfictional、双方への憧れの矛盾から、わたしは生涯離れることができないのか。
 魔法少女の美は、搾取だ。

  *

 金をせびる母にないといい捨てると、
「産まなきゃよかった」
 と、いわれた。これまでも何度かいわれてきた言葉であったが、慣れることができない。慣れることをしてはいけない。傷つく。きちんと、傷つく。
 毀していい、毀して、いいよ。毀れた躰から洩れた水晶の歌は、きっと綺麗なんだから。
 わたしはきちんと傷ついて、きちんと生きていたいの。それが世の中でいうまっとうではないものであれ、それがひとびとから評価されないものであれ、丁寧で清潔なそれでなくとも、わたしは、きちんと生きていたい。わたしじしんとして。然るべき疵を負い、瑕に促されるように生きてうごいて、わたしの人生を創とし創造する。わたしの睡る水晶の瑕をゆびを伝って。ほら、わたしの物語がある。わたしの信頼への信頼が、愛への愛が、不信を不信するいたみが、ある。あるでしょう。あなたに睡る、葉脈のような水晶の瑕をみて。俗悪で、いびつで、淋しくて、憐れで、美しいでしょう。可憐。どうかしら。これが、人間なの。かなしく、愛らしいことに、こんなものが人間なの。
 だからあなたも、あなたの疵すらも抱いて。あなたの生を、なによりもいとおしいものとして愛して。
 病んでいることなんて、人生の面白みともいえるんです。苦しいということは、生きごたえがあるということ。くるしみたい苦しみをくるしみえるということは、歓びだということ。すれば美をみすえ、善くうごきえる。自分は、造るものだ。人生は、造るものだ。だが人-性の根は、信頼にあたいすると、それだけを信じるのが、概念少女DANDYISMの戒めである。
 わたしの生、他者に対する几帳面を、果して、誰が知っているのかしら? 気づかなくて、いいよ。なぜといいわたしはDandy、自己韜晦の淋しき少女、月光に発火される、病める花。けれども、気付いて。誰か。この、淋しい花を。ほんとうに孤独を孤独として生きる人間の、いったいだれが文章を書くのかしら。いったい誰が文学なんかを求めるだろう。だからわたしは、この蕾のままに剥がされた淋しき紙片を、星空へ抛る。もっとも無個性で匿名の、歌として。わたしは無名のひと。名もなきひと。匿名のひと。なにものでもないひと。──あなたは誰?
 この期に及んでも、わたしは歌う。誰かわたしの名前を呼んで、と。わたしは鈴木なお。わたしは鈴木なお。きょうも青空が美しいね。うん、だからわたし、生きようと想う。生きようって、生きようって想うの。わたしは名もなきクリーニング店受付兼事務員。それで終わり。そしてわたしとして、わたしを生きようとしているひと。
 聴いて。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。瑕負うにともない、磨くものだ。
 それが為に、わたしは、死ぬまで争う。




  ガールズ・ミーツ・ゴシック


  1
 冬子は、しらじらとひとを拒絶するような吹雪の情景に立つ、白銀の城さながらの猛々しい少女であった。
 その城壁から、いつだって矢を放ちかねないあやうさすら兼ねそろえた、けだし硬質な銀の背骨を芯に立たせる女子中学生、彼女こそが雪野冬子そのひとにほかならないのだった。
 わたしは彼女の威勢のつよさときつい性情ゆえに冬子のことをにがてにおもっていたのだけれども、しかし、そのわが信念にとってみとめられぬものを断固としてみとめぬ態度にはある種畏敬の念をもっていたのだった。けだし彼女は「少女」と云う高貴なる言葉に相応しいアティチュードを有しており、倨傲で尊大、わたしのような気弱な人間にはない稀有な個性をもっているのだという印象を与えるが故に、なにかしら憧れのようなものをわたしに与えていたというのも亦事実なのであった。
 彼女は理不尽なこと──飽くまで、”外界から襲う「少女」を侵す不可解”という意味において──が起これば、スクール・カーストなる硬くも時間的に果敢なきピラミッドへ、見事なる弓を吹いた。しずかな、しかし威勢のよいフルートのような声色で、圧力に「否」を叩きつけた。時折怒号を伴わせ、轟々と鳴るように我を主張することすらあった。「何故おなじ人間なのに」と云うのが、冬子の余りにあまりに無垢なる言い分であった。そんな態度は優位に立っているグループに属する人間どころか、その他のひとびとからすらも彼女を疎ましがられる状況に追いやる助けを果していた。
 男子たちにも果敢に切りかかる冬子に、少年達はおそれと嫌悪をいだいているようなのだった、彼女の容貌はけっして美しくなく、むしろばさばさと手入のされていない髪がどことなく不潔な印象、しかし成績はトップクラスであったために、幼い男たちに劣等感を感じさせながらも、気を惹くことはほとんどなかったにちがいない。たいていの少年は冬子の悪口を影でひそひそと云うばかり、喧嘩っぱやい少年から冬子が暴力を受けるのはけっして少なくはなかったが、冬子は打たれながらもきっとかれ等を睨みつける気丈さを示す、その時の彼女は暴行に磨かれる如く硬く冷たく煌くようで、わたしにはもはや壮麗であった。
 わたしはその頃大人しい少女たち三人のグループにわが身を置くことで、学校生活にある程度の安息をえていたのだった。わたしたちは冬子に対し「あまり好きではない」という意見で一致していたが、ところどころで救われていた面もあって悪口もそこまで弾むことはない、わたしたちは慎ましくおとなしく小狡く教室でそれなりに整列しえていたのだった。
 由美、小夏、という平凡だが愛らしい印象の名前がわたしの当時の友人のそれであり、わたしは名を、亜樹という。やや良いように傾きがちな比喩であろうが、ひっそりと端っこで領域をつくるたんぽぽ畑にも似た集団を教室で構成していたのだろうという推測が、現在のわたしのそれである。されど幼き少女たちの集団の内包する狡さというものは大人のそれとそう異なるものはあるまい、前言撤回、とてもたんぽぽ的とはいえなかったであろう。
 わたしは由美のことが好きで、なんとなく憧れをもっていた。由美は三人のなかでは唯一に美人であり、年に二回程度男子たちから恋ごころを打ち明けられていた。その時わたしたちは中二であったけれども、一人の少年と交際した経験があるというのがわたしには大人な印象、成績こそ普通であったが気遣いができ、わたしたち三人の構成をやわらかい手振りで成り立たせる重要な役割を果たしていた。
 ひるがえってわたしは小夏という人間に軽蔑心をもっていたのだった、小夏は想っていることをそのままに伝えるコミュニケーションをする人間で、悪気なくひとを不愉快にさせるタイプ、勉強も運動もできず鈍くさいが好きな漫画ばかり読んだり自分でも描いたりしている、けれどもけっしてそれが巧くも面白くもないというのが彼女をみくだしている大まかな理由であった。時々だけれども、わたしを苛々させることもあった。されどひとというものは軽蔑の対象をそう嫌いにはなれないものなのかもしれない、それは軽蔑という心のうごきに伴って生まれる快楽によるものであるかもしれないが、それほどに嫌悪のような感情はわたしにはなかったのだった。

  *

 大川悠一というクラスメイトの少年が、ある日忽然と登校しなくなった。噂によると行方不明というかたちであるらしく、巷で話題の連続殺人事件に関係しているのではという怖ろしい不安が、わたしたちここ等いったいの住人の心に、不穏な波紋としてまるで漲っていた。
 わたしは、悠一が好きだった。一度も話したことがなかったが、恋をしていたのだった。悠一はナイーヴな雰囲気をただよわせる綺麗な顔の少年で、華奢で色素が薄い感じ、国語が得意で、淋しげな笑みを浮べて大人しいクラスメイト達と控えめな会話をするか、そうでなければ机で本を読んでいるような地味なタイプ。時々目立つタイプの少年少女にちょっかいをかけられていたが(そうしたくなる雰囲気がかれにあったのであり、むろんわたしだってくわわってみたかった)、そのときのはにかんだような恥ずかしがり屋さんらしい対応は、胸が裂けそうになるくらいにかわゆらしかった。けだしそういう男々していないといおうか、抱き締めてあげたくなるような個性がわたしの心臓の琴線を打ったのであり、わたしはかれにえらばれたいという悲願に、まるで胸を締めつけられるような想いでいたのだった。
 連続殺人事件はここ数か月に起きていることである。まず失踪というかたちで被害者が町から消え、のちに愉しむようななぶるような跡の残る解体された死体がバラバラで発見される。残虐な方法で殺人を愉しんでいると推測される犯人は、まだ、捕まっていない。うら若く身体的にか弱い少女が数人ほど無惨な姿でみつかっていて、大人たちは恐怖に怯え、わたしたちも集団登校をしていたけれども、少なくとも仲良しグループのわたしたち三人は殆ど気にしてもいなかったのだった、そんな悲劇が自分に降りかかるなんて、想像もできない環境に安住していた故であろう。
「うちに来ない?」
 冬子が突然わたしにそう話しかけてきて、わたしは唖然とした、わたしたちはけっして友人同士ではなかったし、距離を縮めようにも殆ど話したことがないのに、とつぜんうちに来いと急に誘うのは、失礼ながら、いささか感覚がわたしとはちがうといわざるをえない。
「どうして?」
 と、無垢の象徴のような返答をしたが、内心では冬子の心中をさぐっているのである。
「見せたいものがあるの」
 冬子は爽やかな笑みを浮べて云った。
「なに?」
「まだ、秘密」
「由美と小夏も来てもいい?」
「ダメ」
 と、眉間をけわしくさせた。
「一人で、来て」

  *

 わたしはなんだか怖ろしい気持もあったのだけれども、好奇心のほうが勝ってしまい、冬子の家を訪れることにした。
 放課後、
「今日ね、ふたりとは帰れないの」
 と由美と小夏につたえると、
「どうして?」
 と由美がお淑やかな雰囲気で首をかしげ、小夏はあんぐりと口をひらっきぱなしで、わたしのこたえを待つ。わたしは小夏のこういうところにいちいち苛立つし、時々、由美と二人で行動したほうが周囲からかっこよく見えるんじゃないかなと、残酷なことを考える。その後の自責はわたしのわるい感情を補うような卑劣なこころのうごきであったが、そこに優しさを発見した気になって安心するくらい、わたしはまだ幼稚であった。
「一人で、冬子ちゃんの家に行くの」
「一人で?」
「一人で」
 わたしが言ったことを聞き直すどんくささ。小夏のことが、やはり苦手だった。
「小夏ちゃん、きょうはわたしと二人で帰ろう」
「うん…」
 なんだかあわれげな雰囲気でうなずく小夏に、「淋しい?」と訊くと、
「そりゃ淋しいよ。毎日三人で帰ってるんだからさ」
 こういう愛らしいことをいってくれるとき、わたしは小夏が好きになる。
「亜樹ちゃん、もう帰ろう」
 冬子がわたしを呼び、わたしは二人に手を振って、ついでにタッチをして、冬子の元へ走った。そのあいだ、冬子はなんだか淋しげに立つ石盤のような姿をしていた。
 ところでわたしと冬子は集団下校の集まりに寄らずさっさと冬子の家に向かったので、のちに怒られた。叱られている冬子をみる男子たちの意地悪げなニヤニヤ笑いはわたしの心情を嫌悪へと駆らしめた。男の子って、嫌い。悠一くん以外、存在自体受け容れたくない。

  *

 冬子の家は、明らかにお金持ちであった。とにかく土地も家も大きく、白を基調とした石張りの瀟洒なデザイン、屋根は上品なネイビー、ところどころに黒やグレーの装飾がひかえめにされていて、フランス映画っぽい感じがした。ガウンを着たダンディな身形の男性が住んでそうな、そんな雰囲気。
「お父さん、なにしてる方?」
「お父さんは医者だよ」
「ふうん」
 この「医者だよ」というこたえは、ふつうに質問に答えただけなのにもかかわらず、いつもと代わらないクールな態度を、いつも以上に尊大に感じさせるのである。というよりも、「彼女は優秀であるがゆえに尊大だ、わたしに劣等感を与え、優秀だという存在でわたしを圧迫させるのだ」という僻みからくるネガティブな感情が存在してもよい理由のようなものを、「彼女は父は医者だと伝えたが、その声色・表情が尊大だった」と、後からつくろうとするのだ。
 十四歳。職業という記号の威力には、すさまじいものがあると知ってきた年齢であった。それはやはり高校受験を意識してくる頃だからであろう。わたしは絶えずプレッシャーを与えてくる先生や親にうんざりしていたし、いっこうに成績のあがらない自分に不安を感じてもきていた。なぜ社会には、階級なんてあるんだろう。クラスにもあるけれど。人間って怖い。上にいくために下をいじめて、下を下と解らせるために大きな声で優位性を示して、上は下に下がらないかびくびくしている。ばかみたい。わたしもまたそうなのである。そう自覚してしまうというのをわたしは自分がそれほどに愚かではないという証明のようにも思え、その自覚のきたない選民意識に吐き気がし、自己評価はグラグラと揺れ、起こった出来事に対応して情緒は一喜一憂、なんだか身体と心のアンバランスさに、どちらかがその重みに耐えかねこぼれ落ち、砕けてしまいそうな心地。はっきりといえば、わたしはその年齢の少年少女がごくごくそうなりがちであるのと変わりなく、病んでいた。
 わたしは暗みの美を時々愉しむようになったし、不吉と不穏に憩いを感じるときもあった。それはわたしは暗みに所属する異端者なのだという意識をわが身に与えた。その領域へ暗みという知的・貴族的な世界との縁をもたない小夏のような愚かで美しくない少女が土足で踏み込んでくるような心地を時々だけ感じたが、そのたびに彼女はおおきな鴉に食われたり、魔女の樽に突き落とされたりしていた。わたしはそれを眺めるだけ、そして残酷な悦楽のみをえる籠のなかのブラックバードであった。
 シャーデンフロイデ。衒学的な言葉。
「どうぞ」
 扉をあけてくれた。
「ありがとう」
 そう云って入った瞬間にみえるのが大きな絵画。銀の月をみつめる騎士の、蒼褪めた夜の風景画。悲痛な覚悟を固めるように剣を出す騎士は勇猛果敢な表情だったが、なんだか独り善がりな横顔にみえてきたのは、横に冬子がいたからであろう。
 その荘厳といえるけれどもどこか浮薄な印象の筆致は、画家の才能の乏しさに由来するのであろうか。或いは、それをこそ計算された稀有なる俗悪美との酷似としての高貴性なのであろうか。
 巨大なサイズで、平均的な扉が三つ並ぶレベルである。そもそも玄関やら壁やら廊下やら悉くのサイズが、豪邸のそれである。
 お部屋に案内される。
 するとわたしはあろうことか、そのまま放っておかれたのである。わたしは平均的家庭の子供としてこれ迄最低限以上のおもてなしをされてきたので、この無礼にはほとんど驚きに打たれたのだった。飲み物すら出されず、四方を満たす本棚の整列された本に見降ろされ、その威圧は劣等感を与えるばかり。そのあいだ冬子がなにをしていたかというと、ああどうしてそんなことができるのであろう、机に座って、宿題をしているのである。
「ねえ」
 渋々、わたしから要求することにした。
「遊ぼうよ」
「宿題終わってからね。一緒にしたらよくない?」
「やだよ。わたしギリギリにやるかやらないタイプだから」
「それダメじゃん」
「わたしはそれでいいの!」
 真顔で此方をふりかえり、
「うん、わかった。でも、いましたらわたしが教えることもできるよ」
 それなら…といそいそと鞄をあさりだしたわたしはそのとき顔がほころんでいたようで、「嬉しそうな顔してくれるの嬉しい」、と冬子も柔らかい声を出す。素敵な声。甘やかな、優しい、素直な、人間らしい声。
 どんな顔でこの声を出したのだろうとおもって顔をみたら、泣きくずれそうになるくらい綺麗な表情をしていた。はらり、と風に落ちる最後の切情にも似た、かよわい、まるでエゴの全く欠けた淋しい表情をしていた。蝕まれていたポジティプが削げ落ち、なにもかもを諦め果てて、ついに肉を喪なったてくびをいらないものとして光へ射しだすような、月光に射し貫かれ自己を霧消させてしまうことをみずから希むような、そんなさみしい貌をわたしへ差しだしていた。
「わたし、友達いないから、亜樹さんが家に来てくれて、ほんとうに嬉しいんだ。さっき、なに話せばいいかわからなくて黙り込んじゃってたけど、放っておいてごめんね。ほら、亜樹さんってさ、たまに本や画集を読んだりしてるじゃん? 話合えばいいな、そう思ってたのだけれども…」
 淋しげな顔で切ないことをいって、秘められていた優しさが、ひっそりとわたしに光として射した心地。可愛いところがある。この子にはかわゆらしいところがあるのだ! 可愛いものを愛しすぎているわたしは、激烈な苛烈な庇護したい気持に駆られ、次の言葉を想わず叫んでいた。それは勢いでいうにはやはり無謀な言葉であったけれども、はや、撤回するには遅すぎたのである。
「友達になろう! 亜樹ちゃんでいいよ」
「亜樹ちゃん?」
 目をおおきくさせて驚き、口許をほんのすこし緩ませ、やがて糸のように目を細くしてにっこりする。
「うん。亜樹ちゃん、ね」
「冬子ちゃんでもいい?」
「もちろん」
 その後はふだんと比して驚くほどに優しく柔らかい表情で勉強を教えてもらい、不器用ながらもこまやかな気遣いをしてくれ、「冬子ちゃん、ほんとうはこんな性格なんだ」と、曇った景色が剥がれて、キラキラしてくるような印象。
 わたしの宿題完成には意外と時間がかかり、そろそろご両親が帰ってくる時間だというので、玄関まで送ってもらった。
 頭を使いすぎてつかれていたわたし(頭のいいひとから勉強を教えてもらえれば、明快に問題を理解し回答できるようになると勘違いの方はおられるだろうか? 否。頭のいいひとの説明を噛み砕くというのは、けだしふだんの思考を超えているため、ほんとうにほんとうにくるしいのだ)、ふらついてあの高価そうな騎士の絵画にかるくぶつかってしまった。
「あ!!」
 と異様なくらいに素っ頓狂な声を出す冬子。慌てるのも当然だが、優等生が平常を乱してあたふたするのも亦愛らしいとおもう。想えば余裕のありすぎるわたしであったけれども、要は、絵画の相場なんて知らなかったのである。
「傷ついちゃった?」
 冬子は不穏な顔をしてぶつかった個所をじっと眺め、なぜか耳をつけた。
「音する?」
「…すうすうする!大丈夫!」
 と不可解な発言。こめかみには冷汗が流れ、口許は震えている。
「すうすうしたら大丈夫なの?」
 と素直な疑問に、
「油彩画って、欠けた直後はバリバリ鳴るの。大丈夫よ」
 余りに高価で、親御さんが大切にしているから焦っていたという説明を聞き、わたしも冷や汗。
「でも、弁償させるとかないから心配しないで。気をつけてくれたらいいの」
「うん、わかった。ごめんね」
すうすうって、なんのすうすうだろう?

 一人帰り道、わたしは気が付いた。
 わたし、冬子が見せたいって言っていたもの、きょう、見ていない。

  2
 きょうも、大川悠一は登校しない。
「ただの登校拒否?」
「誰もいじめてないけど」
「わかんないじゃん」
「家庭の事情?」
 みんなそんな話をするほど不安定なのも当然で、先生は、大川悠一が登校していないというほかの情報をわたしたちに与えないのである。ただの登校拒否であってほしい。わたしはそう心から願う。そしたらお見舞いにいけるのにな、と考えたり、なんだか楽観的であった。
 連続殺人事件は、最後の遺体発見から、二か月が経っている。まだ、犯人は捕まっていない。目撃情報もない。

 大谷康子 17歳
 山尾鈴花 13歳
 澄川ほのか 15歳

 被害者のリスト。すべて、この町の住民。年齢的に、わたしたちはいつ狙われてもおかしくはない。
 三人の被害者の顔写真をみて、ほとんどのひとが気づく、共通点がある。
 美少女。
 わたしは、由美が、危ないと思う。

  *

 冬子とわたしは教室でも時々話すように、わたしは冬子からの影響で(というか半強制で)教室で、冬子に教えてもらいながら宿題をちゃんとするようになった。そんなわたしたちを仲良しだねと嘲うひとたちもいて、わたしは冬子と縁を切りたくもなったけれど、冬子の毅然とした「わたしが正しい」という態度におそれおののき、由美・小夏といたり、わたしと二人きりでいたがる冬子といたり、どっちつかずの態度であった。冬子への好感はあることはあったのだけれども、しかしそれは勉強を教えてくれる、将来のためになるかもしれないという打算的なものであった。
 朝、冬子が話しかけてきて、
「ねえ、亜樹ちゃん、きょうね、あなたに見せたいものがあるの」
「前も言ってたよね。なあに?」
「ううん、まだ、秘密」
 このご時世にそういうことをくりかえしいわれると、怖い想像をしても仕様がない。三人の少女の遺体が発見された町。行方不明の大川悠一。えたいのしれず、すぐれた能力をもった新しい友達。
「見せたいものって、誰かから隠してるの?」
「まあ、そういうことかな」
「…ひと?」
 想わず、訊いてしまった。
 冬子が怖いひとだったら。なんらかの形で事件に関与していたとしたら。ぞわり、と背筋が凍った。
 冬子は、なにもいわない。
「え、なに?ひとなの?」
「ペットだよ」
「ペット?」
 力が抜けて、ふわああ、と肺から空気を吐きだした。
「わたしね、動物だいすき!わんちゃん?ねこちゃん?」
「会う迄ひみつ」
「行く!ぜったい行く!」

  *

「きょうも、冬子さんと遊ぶの?やだよ、一緒に遊ぼう。小夏と冬子さん、どっちが好きなの?」
 鬱陶しかった。恋人でもないひとから、そんなこと、いわれたくない。
 わたしは冬子となかよくなり、成績もすこしずつ上がってきて、いわゆる上昇志向のようなものをもつようになっていた。成績を上げる努力をせず、くだらない漫画ばかり描いている小夏のことを、さらに軽蔑するようになっていたし、ちょっと気に入らない表情を彼女がすれば、嫌悪感すら抱くようになっていたのだ。一度嫌いになると、まえは可愛らしく想えていたひと懐っこさも眉をひそめるくらいに不快だった。
 由美は、困ったような顔をしている。いつもいつも、わたしたちの間で板挟みする、可憐な由美。わたしは、由美と冬子、そしてわたしという三人のほうが、まだ、似合っていると思う。
「ごめん、明日は、三人で遊ぶよ」

  *

 冬子の部屋に来た。いっこうに動物は現れない。
「ねえ、ペット、どこ?」
 さすれば冬子、慈母のような美しい表情でたちあがり、黙って扉へわたしを誘い込む。
「じつはね、親に隠れて飼ってるの。きょう木曜日で病院が忙しいし、帰りは遅いから、しばらく三人で遊べる」
「お母さんもお仕事なの?」
「お母さんは、わたしが小さいときに亡くなっちゃったの」
「え、ごめんね」
「ううん。謝られると悪いことみたいでしょう?」
「うん、ごめん…」
「学んでくれるならそれでいいの」
「何歳だったの?」
 と訊くと、
「そんなことどうだっていいでしょう!」
 と、こつぜんと教室の冬子らしい猛々しさで言った。
「行こう」
 冬子がわたしの手をとり、その冷たさにわたしは息を呑むような本能的な恐怖を感じ、「いや…」と云い、走って逃げた。
 とにかく冬子から離れようとしたが、家はひろいし、くねくねしているし、玄関がどこか覚えていない。わたしは糸に吸い寄せられるように或る部屋にたどり着いた。
 完全に、迷子であった。電気のついていない部屋に入ったはいいものの、仄暗い部屋はおそらくやお父様の部屋、男性らしい体臭がわたしにはすこし不快で、息をひそめていても、いずれ冬子が見つけるに決まっている。けれども、この家から脱出する方法がわからない。窓。窓だ。窓辺へちかづくと、仏壇がある。その写真には、学生服を着た美しい少女が映っている。16、17くらいだろうか。
「それね、わたしの姉。亡くなっちゃったんだ」
 急に背後から音がして、わたしの肌は粟立った。
「似てないよね、わたしみたいに醜くない」
 あまり似ていないが、鼻筋のくぼみだとか、唇のカーブだとか、微妙な雰囲気が似ている。
「冬子ちゃんは、醜くないよ。すこし、似てるよ」
「ねえ、怖いの? 怖いんだね。大丈夫。わたし、守ってるの。怖いものから、守ってるの。だからね、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。見せてあげるだけだよ」
 似てるよ、の返答はなく、一方的にまくしたてられた。彼女のいっている意味が、意味がまったくわからない。表情は翳でみえないが、それがわたしの恐怖をさらにひきあげ、神経が悲鳴をあげるようにわなわなと震えていた。
「冬子ちゃん、まさか、冬子ちゃんが、事件の殺人なの?」
「え?」
 拍子抜けしたような声を出す。
「冬子ちゃんが、三人の女の子を殺していて、悠一くんは女の子みたいにかわいいから、悠一くんのことも…」
 ふふ、ふふふと笑いはじめていた。
「違うよ、なに言ってるの? とにかく、来てくれたらわかるの」
 わたしたちは、やはりあの絵画のところまで来たのだった。
「連続殺人犯から守るためにね、このなかに、悠一くんがいるの。守ってるの、悠一くんを」
 さっと血の気が引いた。平常な人間は、そんな発想をしない。
「わたしは少女的でありたいから、少女であるために外に出て戦い、現実と争うの。「少女性」っていうのは月影みたいなもの、ぜったいに届かない「少女」の真似をして、とにもかくにも現実と争うしかない。
 けれども少年性っていうのは、少年的な領域に佇みつづけることをいうの。わたしはかれを、少年のままにするために、守ってあげてるんだよ」
 手を掴まれる。異様につよい力である。
「離して!離して!警察!警察呼ぶ!」
 女の子にしてはごつごつと大きい掌で、わたしの口許をおおう。
「ふつうのひとってさ、現実を見ようとしないよね。騙されたままなほうが楽なのはわかるし、秩序や風潮、世間に塗られた現実が剥げるまで剥くには、知力がいるんだからしようがないけれど。反知性主義ってご存知? わたしをくるしめる、教室の圧力のことだよ。ねえ、現実を見よう。本質を見抜こう。だから、見せてあげる。現実を」
 絵画のある領域を、とんと叩く。中心から右へ回転し、そのまま辷るように左端へ寄せられる。絵画があった右の領域はぱっくりと割れ、元中心部に壁の敷居があり、のっぺりと大口をひらく砂が固着したようなざらついた四方に囲まれた空間が壁の右側にできあがった。
 その隅にある豪奢なベッドに、大川悠一は、綺麗な顔で睡っていた。鉄の鎖で縛られていた。おそらくや睡眠薬を投薬されているのだろう、金属質のベッドのうちできみょうなほどに顔がうごかず、「唯そこにあれ」という想いがわたしの内で想わず飛沫として歌われた。氷っているようだった。そのくらいに石膏にも似た雪のいろをしていた。わたしはこの風景を美しいと想った。この冷然硬質な、神経的ないたみが夢のように猛毒として高揚へみちびかれるこの情緒を、なんらかの快楽であるとみぬいた。それはやはり病める眸は地獄の風景を美しいとみまがうことの典型であるとおもわれ、この悲劇の薫り高い風景はわたしには悲痛なまでに胸に刺さった。
 とく、とく、と雨音のような音で冬子は歩き、わたしは引きずられる。
 寝息を立てている。すこし安心したが、正気の沙汰じゃない。
「美しいでしょう。美少年は、このままでいてくれないと。大人の男のひとって、毛だらけで、躰がごつごつしていて、不潔。不潔だよ」
 ぱっと手を放して、逃げようとした。
「ねえ、亜樹ちゃん。亜樹ちゃんは、悠一くんが好きだったんだよね。バレバレだよ。だからさ、あなたに見せつけたかったの。わたしと悠一くんの、世にも稀な少女と少年のメタファーのペアリングを」
「だからわたしにちかづいたの…?」
「そう、そうよ。悪い?」
 絵画がうごき、わたしは閉じこめられるという恐怖のまま足を走らせたが、冬子に想いきり突き飛ばされる。絵画の扉は閉じられた。
「男のひとなんて嫌い。わたしを美しさとか、年齢で価値を峻別する。お父さんだってそうだ。わたし、悠一くんがいい。悠一くんだけ、いればいい」
 そうぶつぶつ呟くのを聞いていると、狂いそうになるくらいパニックになる。
 と思うと、「ただいま」と男性の声。
「助けて!!」
「冬子ちゃんのお父さん!!助けて!!」
 冬子が、ものすごい形相で「黙って」とわたしの顔を抑える。
「助けて、助けて、助けて!!!」
 そのときの冬子の顔はふしぎなそれであった。淋しげな、はらりとかよわい、まるで我のない優美な消沈の表情。もうなにもいらない。そんな、綺麗な顔。
 何故この少女は、時々、かのような顔をしていたのか?
「どうした?待ってなさい」
 そんな声がきこえ、絵画がひらく。冬子は、急いで悠一が目立たないようにかれにくっついて、ベッドにもぐりこむ。
 冬子に瓜二つの顔立ち、聡明さにみまがわれるまでに不器量な顔、動物的な目鼻立ちとねじくれた知性が複雑に組み合わさったようないびつな中年男性の顔が、此方を覗きこむ。
「寝室でふたり、なにしてるの?」
 ここが寝室?さっきの部屋は勉強部屋?
 そういえば、先程までいた部屋にベッドはなかった。わたしは布団で寝るので、まったくおかしいとは思わなかったが、そういえばこの家ならベッドで眠るだろう。
「きみが、友達?」
「はい、山田亜樹です」
 どこから説明をしよう。なにから説明をしよう。抑々、この父親がいいひとであるかだんて解らない。この状況で、冬子の父親という立場の初めて会った男を、信用できるわけがない。
「食事でも食べていきなさい。いいね?」
 高圧的なその言い方に、わたしは従わざるをえなかった。冬子に似てる。言い方、顔立ち、表情のうごき、ぜんぶ、似てる。
 田舎のレストランからデリバリーを頼み、わたしたちはそれを食べた。晩餐はまるでうす暗く、暗鬱な陰が終始降りており、わたしは悠一のことばかり気がかりで、どうやって家を出て悠一を救おうか、思考を逡巡させていた。
 悠一のことがいくら好きだからって、異常事件の犯人がこの町に隠れている可能性が高いからって、監禁状態にするのはぜったいに異常者の行動だ。独善と閉鎖の、おそろしい選択だ。
 わたしはポケットにあったスマホをいじり、どうすればかれ等にバレずに100当番をするか考えていたのだが、それがよくなかったのだ。
「亜樹ちゃん、携帯をもっているんだね。ほかの友達も連れて来なさい。料理を頼みすぎたよ」
「お父さん、亜樹ちゃんのお友達、ふたりいるよ。言ったでしょう。いつか三人を家に呼びなさいって言ってたよね」
「小夏ちゃんと由美ちゃんだったね。でも、ふたりだと足りないかもしれない。そうだな、ひとりにしておくれ」
「えっと、どっちにすれば…」
「そうだね、名前しかわからないんだけど、話をきいていると、片方のほうがきちんとしている印象なんだろう、そっちの子を呼んでおくれ。子供子供した子は、どうもわたしは苦手でね。」
 由美だ。
 由美は、この家に呼べない。小夏も勿論そうであるはずだけれど、由美だけは、ぜったいに無理だ。こんな危険な状況に、大切で大好きな由美を呼ぶことは、わたしにはできない。
 小夏。最近、嫌いだ。文句ばかりいうし、まず、いろいろな意味で劣っているし、かわいくないし、あいつがいると、わたしたちまでレベルの低い集団だとみなされてしまう。
 わたしは、
「きちんとしてる子…綺麗な子のことですか?」
 と訊く。
「そう、美人さんだったね。聡明な顔をしている」
「電話かけます」といって、画面がふたりにみえないように気をつけながら、「ねえ、小夏、いま、冬子ちゃんの家でご馳走してもらってるの。ひとりで来ない?」とひそひそ声で短く伝え、「うん!!行くー!!」という明るい声を聞くと、電話を切った。
 そのせつな、目の前がまっしろになった。

  *

 気づくとわたしは地下室のような部屋で縛られ、端で寝転がらされていた。口には轡をつけられ、ひいひいと幽かな息をもらすことができるのみである。
「初めての殺人はね、」
 と、どこかで声がきこえた。見ると、冬子の寝室のような石膏の部屋にわたしはあり、しかし、どことなく先程の部屋とはちがう雰囲気。悠一が寝ていた場所のベッドには整然と斧や鉈などの凶器が並び、ゆっくりと真横に目を泳がせれば、冬子の父親が、此方をがらんどうの穿たれたような表情でみていた。
 先程絵画が左に傾いたとき、壁は絵画のちょうど真ん中にあった。ということは、この部屋は絵画の左側なのだろうか?
「妻だった。妻は16で、わたしは27だった。世間体はわるかったが、わたしの評判は悪くないものだったし、肩書は申し分なく、いまよりは時代的にも大丈夫だったから、それほどに後ろ指を指されなかった。わたしは彼女を、医学的な方法で殺した。美しいままでとどめたかったからだ。老いた妻を、見ていく運命が辛かったんだ。だが、少女期の女性を殺すことが天上で快楽であることと知ったのもそのとき、わたしはその欲望を最近まで耐えつづけたが、三島由紀夫の「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」を読み、殺人者という芸術家に生れついたわたしは、なぜ我慢する必要があるだろうと思い直した。ああ、遺体の一部は解体してあって、漬けてある。この部屋のさらに奥にある。あとでみせよう。君は美しくないからわたしには必要ないのだが、あの美少女をおびき寄せるために使ったんだ。まあ、死んでもらうしかないだろうね。君がわたしの家に来るのは周りも知っているだろうから、そろそろ私は逮捕されるだろうが、しかし、ねえ」
 冬子の男性ぎらいに、冬子の責任はほとんどないのかもしれない。
「小夏ちゃん。君の声で名前がわかったよ。あの幼さの残る気品ある顔立ちにまさに相応しい名だ。麦わら帽子に白いワンピースを身につけさせたくなる。私は冬子からクラス写真を見たが、ひとりだけすごく可愛い子がいるものだと、舌なめずりをしたものだ。これまでのターゲットは患者からえらんだのだけれどもね、小夏ちゃん、彼女はほんとうに美しく、この年齢特有の美しさがじつに高い湿度でもって籠っている。すべるような薔薇の体臭がしそうだ。おや、インターホンが鳴った。ようやくか。亜樹ちゃん、平凡な顔の平凡な少女、待っていなさい。私の芸術的行為をみせてあげるから…」
 興奮状態だったのか、絵画の扉をややひらっきぱなしのまま玄関に出る。わたしは叫んで小夏に危険を知らせようとしたが(わたしが小夏を選んで危険に陥れたとはいえ、すこしばかりは良心がわたしにもあったようだ)、かよわい声が洩れるばかり。
 扉を開ける。
 小夏が、はにかみながらもあっけらかんとした遠慮のない笑顔で現れた。
「ん?」
 向こう側で、あきらかに不機嫌な声で、男は唸る。
「お前はあの子じゃないだろう」
「え?あの子?」
「ほら、もうひとりの、君よりも背が高くて、整った顔をしていて、そっちを呼んだんだ。まさか、あいつがわざと…」
 せつな、わたしのいる部屋にいつのまにか起きていた悠一が凄まじいはやさで入ってき、斧をとって男に襲いかかり、頭上から振り下ろすように幾度も男の頭を打った。鈍い音を立てて頭蓋骨は砕け、ビチャビチャと血飛沫の音がし、男が横臥しうごかなくなるまで躰のいたるところへ斧を振り下ろしつづけた。
 繊細な線のやさしい顔立ちは肉食獣の本能のままに猛々しく歪み、返り血に濡れる姿は綺麗だった。ほそい腕はしなるように幾度も殺人のうごきに運動され、わたしは眼前の残酷きわまりない情景に目が離せなかった。
 蒼褪めた顔で此方に顔をむけ、ゆらりと疲労に躰を揺らす。細かく肩を震わせ、斧を離したゆびさきは力なく項垂れる百合さながら。金属質な斧の落ちる音がさきほどの凄惨な行為をふたたび想起させる。告白しよう。わたしはこの悠一に、欲情をもよおした。
 隣の部屋から、冬子がとびだす。
「悠一くん!あなたはそんなことをしちゃダメ!悠一くんはずっと少年でいてもらって、戦うのはわたしだけでいいの! そんな男みたいな残酷でマッチョなことを…」
 肩で息をしながら、悠一は月光に磨かれたような玲瓏な線の顔から血を落す。浮薄さを水音として散らせるような毅然とした声は、すでに声変わりに掠れていた。わたしはその掠れに唇をむっと圧しつけたいと願望した。
「雪野さん、あなたはまちがっている。
少年は少年性に佇みたいという宿命的な悩みにくるしみますが、少年は、青年になる義務を負っているのです。ぼくは小鹿を撃ち殺した青年、もう、あなたの支配下には置かれません」
 そう云って、かれはわたしたちすべてに軽蔑され、憐れにもわたしに犠牲者として呼び出され、冬子に歯牙にもかけられず、異常殺人犯に如何なる魅力も認めさせなかったどんくさい小夏を、つよく抱き締めた。
 小夏は眼前で為された猟奇的行為にガタガタと震えていたが、やがて「悠一くん、ありがとう」と言って、こつぜんとタガが外れたように泣き喚き、悠一を抱きかえした。
「血がついてるから、キスできないのが悲しい」というかれの声は、とおくから聞えるよう。わたしには茫然たる想いで、気が遠くなりそうなくらいだった。
 冬子は、すべてが剥がれ落ちたような乾いた声で、ずっと泣いていた。ペットを失った彼女は、これから様々なものを法的処理にともない奪われるだろう。剥奪されつづけるだろう。しかし彼女はすでに剥がれ落ちているのだ。彼女の「ひとに大切にされたい」という平凡極まりない願いは、剥かれるように無惨に失われているのではないか。
 わたしはわたしに美しく冬子のかのような笑み、淋しげな表情が、さまざまなものを奪われつづけたことで構成されたものであることをのちに知る。そのうえでしか立たなかった、軽蔑を所以とする、生き抜くためのかなしい自尊心を知る。少女が少女であるということに自恃を置く生き方は、きっと、ある種の信頼が必要だ。人-性への信頼が、大切に想う気持が必要だ。それがなければ、ごくごく平凡なラディカルな潔癖になることへうながされる。しかし、冬子にはそれが、抑々与えられていなかったのだろう。

  *

 悲劇。そうである。
 されどそのとき、わたしには或る風景との邂逅としてこの出来事を想い起こしえる。かくして少女は、ゴシックに出逢った。わたしにはこの物語が快楽と結びついている。
 これよりわたしは、後ろめたい気持になりながらそれをも含め余人にはみせられない文化に耽る、孤独な趣味人として生きることになる。こののちのわたしの生活にセンシティヴな物語は全くもって起こらなかったために、これはわたしの人生で唯一のゴシックな残酷物語としてメモすべきだと想い、こうしてペンをとったのだった。

概念-少女小説集 Ⅱ

概念-少女小説集 Ⅱ

【短編小説集】 [概念-少女DANDYISM] [ガールズミーツゴシック] (書き足す予定)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted