絶海
私はベッドに押し倒した女を見つめながら、この女を愛そうかどうか考えていた。
私はベッドに押し倒した女を見つめながら、この女を愛そうかどうか考えていた。思考は煙草の煙のようにゆらゆらと揺れ、右にも、左にも傾いて頼りない。
女とのセックスは、いつも終わりがなかった。足の付かない海のように、私達は立ち泳ぎをしながら溺れそうな相手をお互いに抱きしめ、いつまでもいつまでも救援の船を待つしかなかった。けれど、船は大抵現れない。もしくは陸という安全地帯に流されてしまえば、愛はいつだって、安心という名に冷めてしまった。
私は陸地も船も求める気はなかった。いっそ女の犠牲になって溺れてしまいたかった。女が私の体を浮き輪代わりにして、私の体を蹴り付けて船に乗り上がるところを想像する。私は深海の底へと沈んでいく。愛を抱きしめたまま、たったひとりで。
中指には女が乾いてこびりついていた。指で擦ると、ぽろぽろと欠片がシーツに落ちた。缶ジュースを一口含み、女に口移しで分け与えると、女の喉が上下した。女と目が合う。私はまだこの女を愛そうかどうか迷っている。私はもう一度、女とひとつになろうと懸命な努力を始める。
*
彼女と出会ったのは、大学の基礎教養科目である哲学の講義を受けているときだった。私は現代日本文学を専攻していて、彼女は、英米文学専攻だった。上京し入学してから数ヶ月。私は田舎の狭い価値観からやっと抜け出し、自分の居場所を二丁目に見出し始めていた頃だった。
哲学の授業は基礎教養の名に相応しく、ソクラテスやプラトン、アリストテレスから始まり、哲学を語る上では外せない哲学史をたんたんと追いかけるものだった。月曜の四コマ目の講義だったし必須科目でもあり、出席率は高く、教室は学生でひしめいていた。窓からは明るい真昼の光が差していて、友人はさっそく興味を失うと、教授にばれないよう膝の下でスマフォをいじり始めていた。私は教授の話を聞きながら、ぼんやりと、ホワイトボードを眺めていた。
教授が「汝自身を知れ」とホワイトボードに書き付ける。私がふっと笑い、シャープペンシルを動かしたときだった。
教室の一番前は比較的空いていて、ぽつんとひとり、前列の端に女性が座っているのが目に入った。後ろ姿は痩せていて、細身の体をさらにパンツに押し込め、華奢な体躯を強調するかのような白いオーバーシャツを着ていた。ヘアスタイルは短く、栗色の髪の毛を襟に届かない程度に整えている。ここからでは横顔しか見えない。けれど、横顔だけで十分だった。
彼女は食い入るようにホワイトボードを見つめているかのようにも、何となしに見つめているようにも見えた。唇には何も塗っていないのだろう。素の色の唇を、ぎゅっと固く引き結んでいた。
なによりも私の視線を引いたのは、その横顔だった。どこか寂しげな瞳。顔の稜線は、春の山々のように美しく線を描いていた。
私はその瞳に動くことができなくなった。
今思えば、なんとウブなことだっただろう。彼女は本当に私好みの、ボーイッシュで中性的な女性だった。私の手はときめきに微かに震えていた。隣に座っている友人にはカミングアウトしていなかったから、私は胸の高鳴りを隠すのに、一生懸命だった。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。彼女の気配は、最前列という目立つところにいながらも、まるで息を殺しているかのようにひっそりとしていた。私はずっと気づかなかった自分に歯噛みした。
講義が終わるまで、私は彼女をちらちらと盗み見ていた。この講義は出席の証拠として用紙に意見や感想を書いて提出する。私は友人が適当に書いた用紙をひっつかみ、わざわざ彼女の横をすり抜けるようにして、教卓に提出した。彼女は私の後ろに並ぶように立っていて、すれ違いざまに、私は彼女の用紙に書かれた名前を盗み見た。用紙の上部には「円 遥香」と書かれていた。
ま、ど、か、は、る、か。それが彼女の名だった。私はその名前を胸に刻みつけた。
専攻が違う彼女とはなかなか接点を持つことができなかった。彼女の姿を見つけることができたのは、哲学の講義だけだった。それにカミングアウトもしていないのに、友人たちに突然「『円遥香』って人のこと知らない?」と聞いて回ったとしても、怪訝に思われることだろう。なぜその人のことを知りたいの、と逆に尋ねられても、私には答えることができなかった。
私は前期の哲学の授業中、ただただ彼女を見つめ続けた。あの細い腕に抱かれてみたかった。彼女はどんなふうに女を抱くだろう、と思った。どんなふうに女に笑いかけるだろう。どんなふうに女を愛するのだろう。どんなふうに中指を操るのだろう、と。そんなふうに儚く大学の前期は過ぎゆき、私の二丁目通いは交際相手を探すというより、彼女の面影を探して彷徨う日々に変わっていった。時には、彼女に似た女性とベッドをともにすることもあった。それくらい、私は彼女に恋焦がれ続けていた。
私が彼女の所属サークルをようやく知ったのは、バイト三昧の夏休みを過ごし、十一月の文化祭を迎えたときだった。サークルごとに校内で出店があり、哲学の授業を一緒に受けていた友人と、出店を見て回っているときのことだった。それはホットドッグの店だった。友人が「あ、円先輩!」とブースの前まで駆け寄って行った。
円先輩、と私は呆然と固まった。円先輩は黒いシャツにタオルを首に巻いて大汗をかきながら、ホットドッグに挟めるソーセージを、大釜で茹でていた。
「お疲れ様です」と友人が、円先輩と話している。私は知り合いだったの、と言葉を発することで精一杯だった。友人は首を傾げながら「うん、弓道部の。円遥香先輩」と言った。
こんな身近に彼女と接点を持っている人間がいるとは思っていなかった。私はおろおろとうろたえた。
「こんにちは」
彼女――円先輩が、私を見つめながら微笑む。私は現実とは思えなかった。あれほどまで夢想した人が、目の前で、ホットドッグを作っている。
友人が、私を見ながら言った。
「真由ちゃんも食べるでしょ?」
「う、うん」
「ふたつ、お願いしまぁす」
円先輩が、湯だった大釜にトングを差し込み、ソーセージを四本取り出す。焼けたパンに挟み、ケチャップとマスタードの陽気を掴んで手早くびゅっびゅっとかける。そんな簡単な料理を、私は両手で宝物のように恭しく受け取った。
「はいどうぞ」
円先輩の前髪は汗で濡れていた。白いおでこがすぐそこで覗いていた。
「わーい、ありがとうございます、円先輩」
友人と、歩きながらホットドッグを齧った。パリッとした皮が口の中で弾け、私は唇を火傷した。それでも私は、最後の一口まで大切に食べた。今まで食べたどんな料理よりも美味しいと思った。そのときにはもう、弓道部に入ろう、と思っていた。
突然弓道部に入りたい、と言った私に友人は驚いた様子を見せていた。もちろん「どうしたの? 興味あったっけ?」と尋ねられ、私は咄嗟に「子どもの頃から憧れていたんだけど、踏ん切りがつかなくて、今の時期になっちゃった」と言い訳していた。苦しい言い訳だとは分かっていた。
それでも、友人は快く私を弓道部に歓迎してくれた。大抵は高校のときからの経験者だが、サークルには大学から始めた人もいるらしい。入部手続きをする前に見学しに来ないかと誘われて、私は友人と共に、地域の弓道場へと足を運んだ。
弓道場のある体育館の入り口では、すでに矢が的を射る威勢のいい音が響いていた。私は友人の手本通り射場に入場し、正座をして先輩たちが矢を射るところを見つめた。
円先輩は、一番奥だった。遠目でもすぐに分かった。円先輩は、弓道着を着ていた。
円先輩は肩幅より大きく足を開き、的に向かって真剣な眼差しを投げていた。自身の背丈ほどもある弓に矢をつがえ、ゆっくりと、弦を引いた。
円先輩の精神を集中させている呼吸が、まるで手に取るように分かった。それは不思議な感覚だった。こんなに遠いのに、円先輩の上下する胸が、よく分かった。私の呼吸も、鋭く、研ぎ澄まされていった。
一陣の矢が、真っ直ぐに放たれる。目に見えないほどの勢いの矢が放たれたにも関わらず、円先輩の姿勢は少しも崩れなかった。矢が放たれた先をあの瞳でじっくりと見つめ、動揺した気配は微塵もなく――無表情というより、精神の凪だと思った――弓を降ろした。
すべてが凛とした所作に、私は目を奪われていた。
「今日さ、飲み会あんの。真由ちゃんも来る?」
弓場を出ると、友人に早速誘われた。私はまだ入部もしていないのに、と躊躇したが、友人は「うちはこう見えて飲みサーみたいなもんだから大丈夫」と笑った。
「弓道部なのに飲みサーなの」
「なのにって、まあ、そういうイメージあるよね。うちはほら、趣味で弓道やってる人が集まるサークルだから。気軽な飲み会だから真由ちゃんも来てよ」
けれど私の懸念点はそこにはなかった。私は一瞬だけ逃げ出したい感情に駆られた。ここまで来たのに、私は、円先輩に認識され相対するのが怖かった。憧れや好意は一周回って、私は円先輩に、畏怖のような感情を抱いていた。
今日予定ないでしょ? と友人が決めつける。そんな友人の態度は強引にも思われたけれど、そうでもしてもらわなければ、きっと私は、頷くことも踏み出すこともできなかっただろう。
電車が人身事故で止まり、私はやや遅れて居酒屋へと到着した。雨が降っていて、ビニール傘を閉じて傘立てに差した。胸は不安と期待で震えていた。
店に入り、店員さんに予約の名を告げる。案内されたのは六畳の部屋をふたつ繋げた、半個室の座敷だった。
「すみません、電車が止まっちゃって」
「真由ちゃん、お疲れ様。座って座って」
私は靴を脱いで座敷に上がった。そして、私が座るべき空いた席を発見して、瞠目した。
目の前に、円先輩がいた。ハイボールだろう、薄い琥珀色の液体の入ったジョッキを傾けた、円先輩と目が合う。
あの瞳だった。あの瞳が、私をじっと見つめていた。
「お疲れ様、電車、止まっちゃったの?」
それが私に投げかけられた言葉だと気づくのに数秒要した。私は肩にバッグをかけたまま、立ち尽くした。この世から音が消えたように思われた。
僅かに、周囲が怪訝な雰囲気になる。私は我に帰り、そそくさと何気ないふりを装って席についた。
円先輩の小皿にはすでに、枝豆の殻が乗っていた。
「何飲む?」
円先輩が、私にメニューを差し出した。その手は筋張っていて、指は長く、爪は短く切り揃えられていた。
私は冷静にメニュー表を見ることもできないまま、小さな声で「ファジーネーブルで……」と言っていた。
円先輩が店員さんに「すみませーん!」と大声を張り上げた。女性にしてはやや低い声だった。「ファジーネーブルください」と円先輩が注文したところで、私ははっと気づいた。
「すみません、私が、自分で注文しないといけないのに、先輩にやらせるなんて……」
すると円先輩は、目を細め、薄い頬を持ち上げて笑った。
「そんなこと気にしないで」
「ありがとうございます……」
「弓道部に入りたい子、よね?」
「はい。松本真由と言います。あの……円先輩のことは、哲学の授業で見かけてて……」
「ああ。去年必須科目なのに単位落としちゃって。それで一年生に混じって講義受けてたの」
「そうだったんですね」
お待たせしました、ファジーネーブルです、と言って店員さんがファジーネーブルを運んでくる。私は円先輩に、じっと見つめられていることに気づいた。首筋に、緊張で汗をかく。
ふっと、円先輩が視線を逸らした。そしてハイボールのジョッキを持ち上げ「乾杯」と私のグラスにぶつけた。
それからというものの、円先輩とは弓道場でたびたび出会うことになった。趣味で弓道をやっているサークルだったから、特に活動日時が決まっているわけではなく、したいときに、したい人が、地域の弓道場で練習をするのがサークルの方針だった。私はしきりに弓道場を訪れた。円先輩に、会いたかったからだ。
円先輩も、暇があれば弓道場に足を運んでいるようだった。居酒屋で目の前の席に座ったことをきっかけに、私と円先輩は顔を合わせれば話をすることが増えていった。
私が鏡の前でフォームを確認しているときのことだった。鏡に、円先輩が映った。私は慌てて弓を下ろした。
「お疲れ様、今日も来てたんだね」
「円先輩、お疲れ様です」
「よく来てるよね、弓道は、楽しい?」
「はい、楽しいです」
そっか、それならよかった、と言いながら円先輩が弓場を後にしていく。私は両手で、弓をぎゅっと握りしめた。
最初は友人に少しずつ教わっていた。けれど、円先輩と出会う方がはるかに多く、私は熱心な初心者だと円先輩に思われたらしい。自然と私は円先輩に教わるようになっていた。
十二月のみぞれが降る日のこと。私は巻藁に向かって実際に矢を射る練習をしていた。その日、円先輩はいつもより弓道場にやってくるのが遅かった。それでも円先輩は弓道場に現れると、真っ先に私に気づいて、さっそくフォームを正してくれた。
手はもう少し、下。力を抜いて、でも、抜きすぎないで。肩は気持ち、もっと上。そう、いい感じ……。心を整えて……雑念を払って……。
円先輩の手が、私の弓を引く右手に触れる。頬と頬が、触れ合いそうな距離だった。私は雑念を払うどころではなかった。私は何度も深呼吸を繰り返し、邪な気持ちを追い払おうとした。
巻藁に矢が突き刺さる。円先輩が「うまくなったね」と微笑んだ。
「今日の飲み会、真由ちゃんの歓迎会も兼ねてるんだってね」
巻藁から矢を引き抜きながら、円先輩が尋ねた。
「はい。そうなんです」
「じゃあ今日は、盛大にしなきゃ。座席、私の隣に座ってね。幹事にも言っとく」
「……え」
「真由ちゃんと一緒に、飲みたいから」
私は一瞬ぽかんとしてしまった。円先輩は――どういうつもりで言ったのだろう。いや、円先輩にとって深い意味がないことは知っている。けれど、私の心を揺さぶるには十分だった。
それじゃあまた今夜ね。それだけ言うと、円先輩は弓場へと向かって行ってしまった。
歓迎会は盛大に終わった。飲みサーの歓迎会ということもあり、友人や先輩の飲みっぷりは輪をかけて様になるものがあった。
歓迎会の終わりかけ、円先輩がトイレに席を立った。二次会はカラオケで、と男の先輩が音頭を取り始めても、円先輩はなかなかトイレから帰ってこなかった。
「ちょっと心配なので、私見てきます」
私は輪をそっと抜け出してトイレに駆けた。とんとん、と扉をノックし、声をかける。
「円先輩、大丈夫ですか」
円先輩の、くぐもった声が聞こえてきた。
「ここ、開けられますか、大丈夫ですか」
「ごめん、飲みすぎちゃった」
トイレが流される音がしたあと、円先輩ががちゃりと鍵を開錠し、扉を開けた。円先輩の頬は、真っ赤に染まっていた。
「大丈夫ですか? 円先輩、顔が……」
「そんなに? 久しぶりに飲みすぎたな」
「家はどこのあたりですか、送りますよ」
「いや、大丈夫、真由ちゃんは二次会に行ってきな」
「いえ、先輩が心配なので。ひとりで帰すわけにはいきませんよ」
「……ほんと? ごめんね」
円先輩はそう言うと洗面台で手を洗った。トイレを出ると、友人が私達を待っていた。
「私、円先輩を家まで送るね」
「そっか。大丈夫ですか、円先輩」
「真由ちゃんの歓迎会だから、ちょっとはめ外しすぎちゃった。ほんとごめんね、真由ちゃん」
「いえ。外でタクシー捕まえましょう」
居酒屋の外へ出ると、二次会へ行くという友人と別れ、私達はタクシーを拾った。円先輩はタクシーに体を押し込めるように乗ると、座席にぐったりと縋り、家の住所を告げた。
「お願いします」
吐かないでくださいよ、と運転手さんが円先輩を見て顔を顰める。タクシーはゆっくりと発進した。
円先輩のアパートは、よくある大学生が住む1LDKの、質素な部屋だった。物は少なく、ベッドと机と棚以外にほとんど家具はない。円先輩は靴を脱ぐとベッドへ沈んだ。私はキッチンからコップを拝借し、水を汲んで円先輩に差し出した。
円先輩が上体を起こして水を飲み干す。そしてまた、ベッドに横たわる。
円先輩が、瞼を閉じたまま言った。
「ほんとごめん、迷惑かけちゃって」
「いえ、大丈夫です。それより円先輩、大丈夫ですか」
「うん。財布に万札入ってるから、それでタクシー捕まえて帰んな」
円先輩が息を吐きながら寝返りを打つ。私はベッドのそばに、腰を下ろした。円先輩は瞼を閉じていた。私はしばらく、円先輩の形のいい瞼を見つめていた。
しばらくすると、円先輩から、穏やかな寝息が聞こえはじめてきた。やはり、随分飲んでいたのだろう。円先輩は、すっかり無防備な寝顔をしていた。
キスしたい、と思った。あわよくばこの人に抱かれたかった。私はその衝動に抗えなかった。
私は円先輩の唇に唇を寄せた。
円先輩の薄い唇は、水道水で冷たく濡れていた。その瞬間、円先輩がはっと目を開いた。
「真由ちゃん」
「すみません」
私は狼狽えてその場に立ち上がった。すみません、ともう一度言い、鞄を引っ掴もうとした。けれどできなかった。私の手首を、円先輩が掴んでいたからだ。
「まどか、先輩」
「どうして、キスしたの」
そのときまで私は、すっかり失念していた。円先輩のセクシュアリティのことを。私達にある深い断絶のことを。私は全て打ち明けるしかないと思った。この思いも、私がどんな人間かも。
「円先輩のことが、好きです」
「真由ちゃん」
「初めて円先輩を見かけたときから好きでした。私は……そういう人間なんです」
私は比較的、自らのセクシャリティに罪悪を感じずに生きてきた。それは恵まれたことだったと思う。けれど今ばかりは、自分の軽率な行動を恥じた。
「不快な思いをさせてしまって、申し訳なかったです。弓道部も、やめます」
「真由ちゃん」
「本当に……ごめんなさい」
「待って、真由ちゃん。話を聞いて」
円先輩が体を起こす。そして私の目を、真剣なまなざしで見つめた。
「私も真由ちゃんのことが好きだよ」
「……え」
私は耳を疑った。円先輩が、私のことを――? 一体、何の幻聴だろう、と思う。
けれど、それは幻聴ではなかった。円先輩の手が、頬に触れた。
「初めてだった、女の子をこんなに可愛いと思ったのは」
「円、先輩……酔っ払って、ますか」
「ごめん、酔っ払ったのはわざと。どうやったら真由ちゃんと二人きりになれるか、分からなかった」
「ま、円先輩……?」
私は混乱した。やはり夢でも見ているのでないかと思った。けれど円先輩の手は、炎のように熱く、私の頬に触れていた。
「真由ちゃんにキスされて、確信した。私は、あなたのことが好き」
「私……嘘みたいです、そんな」
「私も、女の子を好きになるなんて思ってなかった。産まれてきて初めて、女の子を好きだと思った」
「まどか、せんぱい」
「真由ちゃんに触りたい。セックスしたいと思ってる。女の子にこんなことを思うなんて、初めて」
円先輩が、私の手首を強く引いた。私はベッドに倒れ込んだ。円先輩が、私を見下ろしていた。
「ねえ、真由ちゃんに触れても、いい?」
私は恐る恐る頷いた。まだ信じられない気持ちでいっぱいだった。それでも、円先輩の指が、私のセーターにかかった。たくしあげられ、素肌が、部屋の冷たい空気に晒される。
円先輩の唇が降ってきて、私は瞼を閉じた。
カーテンの隙間から、青白い朝の光が漏れていた。
私は円先輩の腕の中で眠っていた。セックスをしたあと特有の、充足感と気怠さに包まれていた。
円先輩はまだ眠っていた。円先輩は頑なに服を脱ごうとはせず、真裸の私を、眼下に眺めるばかりだった。
すごい、女同士って、なんて素晴らしいの――どこまで行っても行っても、まるで底にたどりつかない、底なし沼みたいに深くて、恐ろしくて、果てがない――怖い、怖いのに、指が止まらない――。
円先輩はそう感嘆の声を上げると、夜が明けるまで何度も私を抱いた。円先輩はこれが初めてだとは思えなかった。円先輩には、女の体を暴くタチの素質があった。女同士で肌を交える、才能があった。それくらい円先輩の中指は、私からいくらでも新しい世界を引き出した。私は今夜だけで、自分の中に、いくつ新たな泉を掘り起こしただろう。知らなかった。自分の中に、まだ暴かれていない神秘があるとは。
円先輩、円先輩――。
私は何度も名前を呼んだ。円先輩が、遥香って呼んでと私に懇願し、私は途中から、遥香さん、遥香さんと呼んだ。遥香さん、と呼ぶたびに円先輩の中指が、私の最奥を探して蠢いた。
「……まゆ、ちゃん」
目覚めた円先輩が、うっすらと瞼を開く。私の姿を視界に捉えると、幸せそうに微笑んだ。
「……嘘みたい。腕の中に、こうして女の子がいるなんて」
「おはようございます、円先輩」
「少しは眠れた?」
「はい」
そっか、と円先輩が再び眠りにつこうとする。私は円先輩の服に、手をかけた。私も、円先輩に触れたかった。
「私も、円先輩に触れたいです」
けれどその途端、円先輩は私の手を掴み、拒んだ。
「だめ。私は真由ちゃんに触れることができるだけで十分だから」
「……円先輩は、バリタチなんですね。でも……裸で抱き合うくらいなら、いいですよね?」
「女の子に触れられるのは、嫌なの」
円先輩の口調には、はっきりとした拒絶の意思が含まれていた。私ははっとし、そんな私に気づいた円先輩が、ごめん、と呟いた。
「真由ちゃんのことは嫌いじゃない。だけど……」
円先輩が言葉に詰まった。私は円先輩のまだ言語化できない戸惑いを感じ取った。
「いいんです。服越しでも。円先輩とずっとこうしてみたかった」
私は円先輩の細い体に抱きついた。円先輩も私に腕を伸ばし、私達は部屋が明るくなるまで、抱きしめ合っていた。
私達は男性器を持っていない。だから、私達の欲望は勃起のように分かりやすいわけではない。けれど私達は言葉もないまま瞳を見つめるだけで、相手の中にある欲望の兆しを見つけ、伝えることができた。
最初の一週間は大学もバイトも休み、ベッドの上で縺れ合い続けた。私はひたすら円先輩の下で喘いだ。喘ぎ続けて萎れた花のようになるたび、円先輩から水を与えられて息を吹き返した。
どこまで行っちゃうの――私、怖い――もう、戻れなくなりそうで――。
円先輩は私が果てるたびに啜り泣いた。怖い、怖いと言いながら、それでも私を暴かんとする指を突き立てた。私の泉は枯れることを知らなかった。
どうしよう、私、もう、真由ちゃんと以外セックスできない――。
私と戻れなくなってください。誰も知らない果てに、私を、連れて行ってください――。
私は円先輩の首に腕を巻きつけた。まるで海で一緒に溺れている二人組のようだった。船は待てどもやってこない。陸地は、もうあんなにも遠い。
真由ちゃん、真由ちゃん、真由ちゃん――
遥香さん、遥香さん、遥香さん――
私達はそれから、頻繁に体を交じり合わせた。私の部屋で、ホテルで、空き教室で、トイレで――私達は激しく愛し合った。暇があれば足の間に円先輩の指があった。そのうち、円先輩の指は溶けてしまうのではないかと思った。それくらい記憶の中にある円先輩の中指は白く、いつも柔らかくふやけていた。
そしていつまでも円先輩は、一向に服を脱ぎたがらなかった。
二丁目で飲んだ、夜のことだった。私達は行きつけのバーに行き、やはり飲み過ぎてしまい、家に帰る時間も惜しいと言わんばかりにホテルへと雪崩れ込んだ。
部屋の出入り口で性急に口付けあい、ベッドに押し倒される。酒臭い息を荒げ、円先輩の手によってするすると服を脱がされ、私はあっという間に一糸纏わぬ裸になった。
円先輩が、私の先端を口内に含めた。アルコールで火照った舌に愛撫され、私は思わず声を上げた。
「遥香さ、遥香さん……!」
「真由ちゃん、可愛い。もうこんなになって、可愛い」
「……遥香さんも、脱いで」
私は円先輩のシャツに手をかけた。けれど円先輩は、やはりやんわりと私の手を取ってシーツに縫い付けた。
「どうして」
私の指は、切なく痺れるようだった。私だって円先輩の裸が見たい。ただ肌を重ね合わせるだけでいい。円先輩の体温を感じたい。
「だめよだ、真由ちゃん」
「遥香さん」
「それだけは、だめ」
どうして、と再び私は尋ねようとした。けれどその前に円先輩の指が茂みに到達してしまった。
真夜中、私はひとり、シーツの上で目覚めた。
部屋は暗く、今が何時かも分からない。私はいつもの習慣でスマフォをベッド上に探した。手を這わせ、指が硬いものに触れて、引き寄せる。
画面をつけると、円先輩のスマフォだった。私と円先輩のスマフォはお揃いで、暗闇だと間違えてしまう。間違えた、と思って私はスマフォをシーツの上に戻そうとし、そして目を疑った。
円先輩のスマフォの通知画面に、男性の名で「明日、会える?」とメッセージアプリにメッセージが送られていた。
私はまさか、と思った。円先輩が、浮気――いや、円先輩がそんなことをするはずがない。だって毎日のように学校で顔を合わせているのだ。そんな暇があるはずがない。円先輩が浮気だなんて、そんなこと――
画面の明るさに目が覚めたのか、円先輩が寝返りを打つ。私は慌ててスマフォを伏せ、円先輩の腕の中に戻った。私は見なかったことにしようとした。円先輩にだって、異性の友人くらいいるだろう。うっかり見てしまった私が悪いのだ。そうだ、私が悪いのだ、と自分に言い聞かせた。
けれど私の気持ちは、一向に晴れなかった。いつまでもあの男性の名――道原聡――と「明日、会える?」の文字が目に焼き付いて、離れなかった。
私は不安な気持ちになるたびに、円先輩の家で、もっと激しく抱いてください、と懇願した。もっと激しく私を責め立てて、優しくなんかしないで。
ある日はあまりにも私が乞い願うから、円先輩が全裸の私をシンクの前に立たせた。私をシンクのふちに掴まり、片足を持つように指示される。円先輩は私の胸を後ろから鷲掴みにすると、中指を、無遠慮にねじ込んだ。
「あんまり声を出すと、聞こえちゃうよ」
「遥香さん、遥香さん」
その頃の遥香さんは、体に触れられなくても、私と一緒に達することができるようになっていた。私達はキッチンで、何度も果てた。興奮のあまり、私は泣き叫んだ。
「遥香さん」
「可愛い、真由ちゃん。どうしてこんなに愛してるってことが、伝わらないかな」
「遥香さん、遥香さん」
遥香さんは私の体を反転させた。涙を溢れさせる私に口付け、抱きしめる。
「私はあなたに触れられなくても、こんなに気持ちがいいのに」
可愛い可愛い、私だけの真由ちゃん。
けれど私の心は、どこか遠いところにあった。あのメッセージって、なんですか。道原聡って、誰ですか。そう聞き出す勇気が、私にはなかった。
私は大学二年生に、円先輩は、三年生になりかけていた。
道原聡の正体を知ったのは、二年生の、夏休み前だった。
私はいつものように友人と、講義を受けていた。講義終わり、それじゃあね、と別れる直前に、友人が浮かない顔をしていることに気付いた。
「ねえ、真由って、円先輩と仲良いよね」
「……うん、そうだけど」
語弊はあったが、その通りなので頷く。それがどうしたの、と尋ねると、友人は話し始めた。
「円先輩ね、彼氏にDVを受けてるみたいで」
私は頭が真っ白になった。友人は私と円先輩が付き合っていることなど、少しも勘づいてはいなかった。ショックのあまり何も言えないでいる私に、友人が続けた。
「円先輩、絶対に更衣室で弓道着に着替えないの。でもね、この前、たまたま更衣室で円先輩と出会った子がいてさ。その子が言うには、円先輩の体、痣だらけだったんだって」
何を友人に言ったらいいのか、分からなかった。友人が心配そうな顔で「円先輩、大丈夫かなあ」と呟いた。
「……そう、なんだ」
「真由なら何か知ってると思ったんだけど」
「……ううん、何も、知らない」
私があまりにも青ざめた顔をしていたからだろう。友人が、私の顔を覗き込む。
「心配だよね」
うん、と私はかろうじて頷いた。それ以上、何も言えなかった。
その日は円先輩に会う約束をしていなかった。私は円先輩のアパートを訪ねた。玄関に、見知らぬ男ものの黒い傘が立ててあった。私は、絶望的な気持ちになっていた。
私は恐る恐る、チャイムを鳴らした。
「はーい、あら、真由ちゃん」
出てきたのは、にこやかな円先輩だった。どうしたの、私に会いたくなっちゃった? と円先輩は笑顔を浮かべる。
「円、先輩」
「うん、どうしたの?」
「あの傘、誰のですか」
私の声は震えていた。聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちが、半分半分になり胸に渦巻いていた。
「ああ、あれ。昨日家族がうちに来てね。お父さんのだよ」
嘘だ、と私は直感的に思った。けれどそれを追求する勇気は、私にはなかった。
「円、先輩」
「どうしたの真由ちゃん、そんな顔して」
「……私を、抱いてください。今すぐ」
そんなことを口走りたいわけではなかったはずだった。けれど私は、混乱していた。
円先輩が、困惑したように私を見つめた。
「……本当にどうしたの、真由ちゃん」
「いいから、お願いします」
私は玄関に乗り込んだ。円先輩の首に手を回すと、荒々しく口付ける。
「真由、ちゃん」
「私を愛してるなら、今すぐ、抱いてください」
ドアが鈍い音を立てて閉まった。円先輩は私を、キッチンのシンクに押し付けた。
私は真相が知りたかった。
外では、雨が降っていた。その音がいつまでもいつまでも、アパートの部屋に響いていた。私は眠ったふりをしていた瞼を開けた。円先輩は私の隣で、今も眠っていた。
真相を知るのは怖かった。けれど疑念は、もう誤魔化しきれないほど大きくなっていた。
私は慎重に、円先輩の服に手を掛けた。ゆっくりと、ゆっくりと、円先輩を起こさないようにシャツを捲っていく。
服の下。円先輩の白い肌には、大小さまざまな痣が散らばっていた。古いのも、新しいのも、黄色いのも、紫色のものもあった。
「……円先輩、なんですか、これ」
私は声を震わせていた。私の声に目覚めた円先輩が、慌てて服の裾を直した。
「……まゆ、ちゃん」
「これがあるから、私の前で絶対に服を脱がなかったんですか。お風呂にも、海にも、一緒に行かなかったんですか」
「真由、ちゃん」
「どういうことなんですか」
「ごめんなさい、真由ちゃん」
「ごめんなさいって、どういう意味ですか」
「私、彼氏がいるの」
私は言葉を失った。本当に、何も言葉が出てこなかった。
「その彼氏に、暴力を受けてる。これはその痣」
「いつから、ですか」
絞り出した言葉は、自らの傷を抉るようなものだった。何も聞かなければ、これ以上傷つくことはないのに。けれど私は、聞いてしまった。
円先輩は、顔を背けた。
「高校生のときから」
私は呆然とした。今までの全ては、嘘だったというのか。セックスも、言葉も、愛も、何もかも。
今までずっと、相手の方が浮気相手だと思っていた。けれど違った。私の方が浮気相手だったのだ。
その事実は私を打ちのめした。私は体を起こし、円先輩と距離を取った。
「私に言った言葉はすべて嘘だったんですね」
「違う、嘘じゃない。私は本当に真由ちゃんを愛してる。初めて好きになった、大事な大事な女の子」
「私を抱きながら、男ともセックスしていたんですか」
円先輩は視線を彷徨わせ、何も言わなかった。それが答えだった。
これが女だったら、どれだけよかっただろう。きっと私は、ここまで打ちのめされなかったかもしれない。私を襲ったのは激しい怒りと無力感だった。結局は男がいいのか。女を抱く才能のある女でさえ忘れられないほど、それほどまでに、男のペニスはいいと言うのか――。
私は生まれて初めて自分に男性器がついていないことを悔やんだ。受け入れる側の性であることを、恨んだ。
円先輩が、分かって、と呟いた。
「分かってほしい。彼とは別れようと何度も話した。でもその度に、殴られた。私も、もうどうしたらいいか分からない」
もう疲れたの、と円先輩は枕に伏した。円先輩は、涙を溢しているようだった。
「真由ちゃんにずっと黙っていたことは、謝る。申し訳ないことをしてしまった」
「円先輩は、その男と本当に別れたいんですか」
「本当だよ。本当に別れたいと思ってる」
「じゃあ私がその男を殺せばいいですか」
「真由ちゃん」
「私が世界中の男を殺せば、円先輩は私だけを見てくれますか。それでも先輩は、ペニスがいいんですか」
「真由ちゃん……。ペニスがいいなんて、思ったことは一度もない。私にはこの指だけ。私の指が、こんなにも女の快感を引き出せるなんて、思ってもみなかった。嬉しかった。教えてくれたのは、真由ちゃんなんだよ」
「円、先輩」
私は円先輩を信じていいんですか。どうしたらいいんですか。どうしたら円先輩は私だけのものになってくれるんですか。ねえ、どうしたら。
「愛してる、真由ちゃん」
「円、先輩」
「抱かせて。どれだけ真由ちゃんを愛しているか、証明するから」
円先輩は私をベッドに引きずりこんだ。私も、円先輩も泣いていた。私達は出会った当初のように抱きあった。それでも円先輩は決して服を脱ごうとはしなかった。
愛してる、真由ちゃん、本当なの、愛しているのはあなただけ、どれだけ男を咥え込もうとも、本当に愛しているのは、真由ちゃんだけ。
私はやめてと叫んでいた。円先輩が男とセックスをしているところなんて、想像もしたくなかった。私だけを見て、私だけを犯して、男性器などいらないと言って。私達にはこの指があれば十分だと、証明してみせて。
それでも結局円先輩は、何があっても男と別れられなかった。殴られても、蹴られても、骨折しても、円先輩は男と別れるとは一度も言わなかった。私達は何度も、何度も話し合った。そのたびにセックスをし、罵り合い、愛を囁き、修羅場と化した。円先輩との関係は、私が大学を卒業して数年経っても続いたが、やはりうまくいくことはなかった。
円先輩は男と別れられないのだ、とそのうち私は悟った。結局、彼氏以外にも男と関係を持っていることが発覚し、私はやがて限界を迎えた。
「もう、あなたに抱かれたくない。男に汚された体で、私を抱かないで」
「汚されただなんて。私は汚されてなんかいない。ただセックスしただけだよ」
その頃にはもう円先輩は男とのセックスを隠さないでいるようになっていた。私はその度に、心身が引きちぎられそうになった。
「どうして、どうして私だけを愛してくれないんですか」
そう言って泣きつくこともあった。私だけを愛してくれと、それが無理ならいっそ殺してくれと、何度懇願しただろう。その度に円先輩は愛しているのは私だけだと言った。どんなに男とセックスしていても、愛しているのは私だけだと。
私はそんなのめちゃくちゃだ、と叫んだ。せめて浮気するなら女にしてくれと頼んだこともあった。せめて女なら、こんな屈辱を感じることはなかったのに、と。
関係の最終盤、円先輩が言った。円先輩のアパートでのことだった。
「私は、ペニスを忘れられない」
そんな言葉、円先輩から聞きたくなかった。けれど心のどこかでは、そうなのだろうな、と分かっていた。
「……どういうことですか」
「ふしだらだと思うなら、思えばいい。私はペニスも好きなの。でもそれは、愛していることとは関係ない。ペニスは、女を抱くだけでは満たされない部分を、満たしてくれる」
私にはもう「男じゃなきゃだめなんですか。せめて女に抱かれるのじゃだめなんですか」と追求する気持ちさえ湧かなかった。ああ潮時だと思った。私は荷物を纏めてテーブルの上に合鍵を置いた。円先輩は、引き留めもしなかった。
私は円先輩のアパートを出た。歩きながら涙が止まらなかった。それでも私は心のどこかでまだ円先輩を愛していた。どうしようもない女だと思いながら、思いをすべて捨て去ることなんかできなかった。
*
私の体には、今も、円先輩の指の感触が残っている。それからどんな女に抱かれても、円先輩の指ほど私を奏でられるものはなかった。私は女に抱かれるのをやめ、抱く側へとまわった。抱く側へと回った途端、私は女の体の果てしなさに、毎回眩暈を覚えるようになった。
私はベッドに押し倒した女を見つめながら、この女を愛そうかどうか考えていた。思考は煙草の煙のようにゆらゆらと揺れ、右にも、左にも傾いて頼りない――。
「忘れられない女がいるんでしょう」
女が、私の頬を撫でながら呟いた。女のというのはなぜこんなにも目ざといのだろう。私は事実を、隠そうともしなかった。
「うん、いるよ」
「やっぱりね、そうだと思った」
どんな人、と女が呟く。私はしょうもない人、と答えた。
「しょうもなくて、男にだらしない人だった」
けれど円先輩は、私と一度は一緒に、深海の底へと沈んでくれた人だった。どこまでも沈んで、溺れてくれた人だった。
浮かび上がって救援の船に乗ることができたのは、円先輩一人だけだったけれども。それでも一度は一緒に、溺れてくれた人だった――。
「その人の代わりに私を抱いて」
「代わりなんていないよ、誰にもできない」
「じゃああなたは今でもひとりぼっちなのね」
「そうだよ。私は今でも一人ぼっち」
かわいそうに、と女が言った。私は手を伸ばし、女という絶海に、また溺れた。
絶海