「ジャーマンアイリス」
スタンドバイミーのような作風になりました。
ジャーマンアイリス
ジャーマンアイリス」
最近頭の御卓の忙しさに忘れていた。午後五時半に真由美は大学から借家に着くと、玄関に直径一mはあるだろう所々埃が被っている白いダンボールに眼を遣った。ヒールの高い黄緑色のパンプスを脱ぐと(彼女のかかとには皮膚が剥がれ落ち血が滲み出ている)リビングの全身鏡が『これがお前だ』と言うように、彼女を映す。しかし不意に逸らしたその目線の先には、彼女の当時の面影などは微塵もない事を思い知らされた。
実のところ、宮城県の聖徳高校を卒業して以来、どのクラスメイトにも本心を出した試しはない。私立高校など糞くらえの性分だが、今思えば地元が愛くるしく思えるのだろうか。わざわざ単独で眠らない街へ足を運んだというのに、夢溢れる希望の欠片は、跡形もなく消え去ったも同然だった。少しばかり息をつくと、ハイビスカスの色をしたバッグを無造作にテーブルの脇に追いやった。
すぐ横にある流し台に向かうと、流行りのサツキの花をあしらった派手やかな爪をじっと見つめた。半ばがっかりとしたように、先端が斜めに切れてしまった中指のつけ爪を右手で剥がし、念入りに洗った。欠けた華やかなつけ爪を流し台のコップに入れると、いつものようにバッグから大学の参考書を出し、赤いカーペットの上に座り胡座を掻いた。歴史Ⅱを頬杖をつきながらざっくばらんに読み進めて行くが、ピラミッドがアクト・クフの墓でない事は地元の高校の授業でとうに習った。講師が蛍光ペンで線を引けと言ったので、チェックを入れただけだ。あれはエジプト最古の神殿の様な建築物だろう。馬鹿らしくなった真由美は、カーペットへ仰向けに寝っ転がり、その参考書を目の前のテーブルの脚に思いっきりぶつけた。それと同時に彼女の第三関節まで打ってしまったので、思わずぎゃっと悲鳴を挙げた。ちきしょうと嘆きながら、いつもの頭の中の雑音が必然としてではなく聞こえてくる。
一体何が楽しくて『マイク』で講義内容を語る。
何が悲しくて生徒の顔も見ずに原稿を追う。
総理大臣が回転木馬の様に変わって行くのも、どうぞご勝手に飼い犬になって下さいとしか言いようがない。
この際、隣人に聞こえようが聞こえまいが、どうでもよかった。すぐに眼を閉じて厭みったらしい喧騒が聞こえないように、スマート・フォンで耳を塞いだ。別にAKB48の「風は吹いている」は聴くに耐えない程でもないからだ。喧騒よりはずっとマシだ。ゆっくり横になり右腕を放った(イヤホンが耳に当たって痛いが)真由美は暫くの間、ただ眼を瞑って講師の顔や講義内容をすべて忘れようとして居た。
真由美は夜中の二時半に眼を覚まし、偏頭痛がする左の頭をぐっと押さえた。ぼんやりとする視界が、彼女の眼を虚ろにして居た。ごろごろと、さながら芋虫の様に転げていたら、やっとぼやけた視界から開放されたので、よっこいしょと腰を上げた。生姜紅茶を飲もうと、流し台の下に設置するコンロを強火にする。やかんを沸騰させ、ティーポットに氷を放り込み、少量の水を入れた。やかんが沸騰する迄の間、彼女は部屋を面倒臭そうに見渡した。
部屋の広さは良くも悪くも六畳半という所だが、一年も経つ黒い円形のテーブルには、幾つもの傷跡で剥がれ落ちた木片がある。時折真由美は、衝動的に行動する傾向があった。大学での同じ机の並びに同じ髪型、化粧などを結びつけ、クラスメイトの顔を連想するのだ。要するに居た堪れなくなるのだ。彼女は自分は『単なる天邪鬼だ』と言い張っている。つまりは今の生活に疲れ果てて居た。好きな音楽番組を観る機会も、好きな鰤と大根とタコの煮付けすら作る気にもならなかった。仕送りは二ヶ月に一度である。節約と心掛けては居る。正直疲れている際には、コンビニで『シーザーサラダ』と『炭酸水』を購入する羽目になって居る。美味しいのはもちろんなのだが、毎日こんな食事を続けていると飽きるのが性分なのだ。
そうこうしている内にやかんの笛が癇癪を起こしているので、流し台の下に蹲っていた真由美は腰を上げた。上げようとしているのに、今度はインターホンが煩く鳴る。日頃の不摂生で痛めた腰を一気に上げ、瞬時にコンロを左に捻った。あててててて。腰が、痛い。
「前川さぁ~ん。真由美の前川さぁ~ん。このネジ開けてよぉ」
と、いかにも酔っ払った不抜けた声を出す。真由美の部屋は102号だが、これは104号に住む宮川愛子に違いない。こいつには幾度となくごめん被られて来ているのだ。真由美は玄関越しに「ごめぇん、今取り込み中なのよお」と色っぽい声を出してはみたが、
「それってもしかして新しい追い出し法ぅ? 古すぎる手法は通じんでぇ~?」
真由美はいい加減にしてくれとドア越しに罵声を浴びせた。せっかくの生姜紅茶が待ってるのに、やかんの汽笛はもう聞きたくないのよ。何時だと思っているのよ。ところが、宮川愛子は口を縦に開けたまま、ふっと案山子の様に気を付けをした。すると隣近所の人達が、いかにも嫌そうな表情をして真由美を見つめる。まるで宮川の方が降り掛かる火の粉の盾の立場ではないか。仕方なく近所のおばさんに(コテを頭に巻きつけたままパジャマ姿で出てきたので、つい心の中で苦笑してしまったが)平謝りをして宮川を中に入れた。真由美は息を切らしながら、左手で宮川の腕を掴み背中を丸めざるを得なかった。痛めている腰が何とも説明しにくい鈍痛で、右の拳で叩いているからだ。購入したばかりの温湿布はあるのだが、剥がさずに入浴をすると、トウガラシのエキスでヒリヒリとしてしまう。入浴前はつけ爪を外さなければならないし、真由美にとってつけ爪や、ヘアアイロンでミディアムの髪の毛を自由にカールする事は、趣味の域を超える程の財産なのだ。
「で、何の用」
宮川愛子は上から下まで舐めるように真由美を見て(相変わらず胸糞悪いやつ)
「それって、楽しいん?」
と舌っ足らずに言った。真由美は疑問の問いかけがよく把握出来ず、ただ気色悪かった。同い年だなと思うだけである。宮川愛子の様に、毎晩酔っ払っては絡みつく方が余程楽しくない。真由美が彼女の手を放すと途端に、彼女は玄関の靴箱の方に倒れ込んだ。どうせ今夜もビールジョッキ二杯の締めに、芋焼酎でもカッ食らって来たんだろう。こんなくたびれた一重の眼で、化粧が薄すぎる女のどのへんが良いのか、男性諸君に問いてみたい位だ。ボブヘアよりも短く刈り込んだうなじを彼女はくしゃくしゃと掻いている。天使のような寝顔とは死んでも言わないが、なんて無邪気な顔をして、なんて無防備な姿をするのだろうか。真由美にとっては到底信じがたい一つの光景として収まって居た。真由美は宮川の左腕を強引に引っ張り、フローリング伝いにテーブルまで引きずって行った。彼女は半ば寝言で、
『もうちっと、さぁ……気楽に生きたらぁ……』
と、かすれ声で口にした。彼女の日頃の生活はよく知っているので、言いたいことはなんとなく判った様な感じがした。何故か普段生活して居る、いつもの陽気な声が聴こえてくるようだった。彼女は104号と真由美と同じ階に住んでは居るが、大学は違う。朝学校に行く際に顔を合わしたり、帰宅する際に毎晩酔っ払って勝手に真由美のテレビをつけたりする。時に真由美のつけ爪を引っ張って取ろうとする真似をするのだ。彼女がいつも口にする言葉が、「なんか、アンタっていっつも笑ってないよね」だ。まさに最悪の発言だったので、一度彼女の頬をひっぱたいたこともある。さすがに痛かったろう。頬をさするようにしたあと、「もっと笑えばいいじゃんかよぉ」と突っぱねただけであった。毎晩同じように真由美の家を出入りしては(彼女は時折玄関先で下呂を吐いたことがある。見るに耐えないといえども、家が臭くなるのだけは勘弁だった。居酒屋で食したであろう鶏のささみの臭いが充満する。)自分の部屋へと戻る毎日。彼女の知り合いはごくわずかであるらしいが、はたから見ればそんな風にはまるで見えない。嫌味ったらしくねちねちと説教はするが、まったくと言っていい程『明言』はしない。つまり選択肢を与えるのだ。真由美にとって首を傾げるような言い分が多い。再びこうして寝顔を見ていると、まるで月の夜に浮かぶ人魚のようだ。暫く考えたあと、黄色のスマイル柄をした毛布を二枚掛けてやった。 しかし、酔っ払ってはいるものの、意外とまともなことを口にする。
真由美は不意に自分の小学生時代を思い出した。あまりに苦しく、甘酸っぱいあの日のことを。宮川の寝顔を見ていたら、突然湧き上がって来たのだ。理由は知らない。ともかく小学三年生から高校を卒業したあとまでの、その期間を伸びたうどんのような感覚として残っていた。「ねえ」 真由美は宮川に声を掛けたが、すっかり寝入ってしまって返答はない。寂しさのあまり、冷め切った生姜紅茶をコンロの上に置いたまま、泣いた。
夏子とは、小学生の頃から仲が良かった。1998年4月4日の初めての入学式で、話しかけられたのをよく憶えている。初め夏子は、
「まゆみちゃんってゆうの? 私、なつこってゆうの。同じクラスだしよろしくね」
と、小学生ながらませた女の子であった。夏子は真由美と席が近く、自然と話が合った。いきなり家の電話に掛けて来たこともあり、真由美はびっくりしてしまい、受話器を取ったのだ。真由美はあまり友人と遊ぶことはなかったので、その電話に返事をした。
「なつこちゃん? ごめんね、取るの遅れちゃって。遊ぶの苦手なの」
「だってまゆちゃん、全然電話に出ないんだもん!てか、えぇ~!そうなの? じゃあ、私んちでゲームでもしようよ」
受話器をかたんと、ゆっくり置くと手が震えていた。緊張していたのだ。真由美は、それ程クラスメイトと話したり、机を囲んで友人と楽しく会話をすることもなかった。それでも、やっぱり笑い声が聞こえる度に、こころの中では羨ましいと思っていた。輪の中へ入れない自分が、とてつもなく卑しくて仕方がなかった。だから夏子が初めて電話を掛けて来た際、真由美は心底嬉しかったのだ。夏子の家は家族が5、6人程居る。所謂大家族だったのだ。今年4歳になる妹はようやく保育所に通うと言う。妹は3歳までおもらしばかりして居たので、本人は「お外に出るの、お姉ちゃんは恥ずかしくないの?」と洩らした。真由美は当時11歳だったので、他の家の、しかも夏子の妹にどうやって答えたら良いのか悩んでいた。
「恥ずかしいよ。外に出るのは」
こんな言葉しか見つからなかった。夏子はあまりの言葉に、真由美を叱ったのだ。
「そんな言い方よくないよ。まだ4歳だよ?」当然のことだった。真由美は夏子の妹が泣きじゃくっている姿を見て、ただ『ごめんね。ごめんね。』と平謝りするしか出来なかった。真由美にとってこの家は何とも肩身が狭かったのだが、せっかく夏子が誘ってくれたというのに、断るのも悪いような気がしたのだ。春の眠くなりそうな穏やかな温度に、真由美はうとうとして居た。夏子の部屋は散らかっているし、おまけに4畳半程度の座敷の畳はところどころ解れて居る。畳の上はとても居心地が悪い。しかしすぐ傍に布団が敷いてあり、1990年代の流行りのファミコンもあった。当時その中のファミコンが欲しくて、親にねだったこともある。真由美の親は厳格としか言いようがない性格なので、当然答えはNOだ。習い事が幾つもあったせいか(空手、塾、そろばんなどをやらされた)ただただ窮屈な思いだった。母親に叱られたことをよく覚えている。ある日真由美が、
「今日、塾に行きたくない」
とトイレの中に引きこもったまま出てこなかったのだ。母親からたびたび受ける説教に耐えられず、何度かトイレに閉じこもったことがある。真由美はトイレの外から聞こえる母親の声に気づいてはいた。とうてい答える気にはならなかった。耳をつんざくような「さっさと準備しなさい。月額15000円もかかるのよ? まゆだって最初はやりたいって言ってたじゃない」 確かにそうだった。初めは母親の嬉しそうな表情を見ると、自分が役に立てるような人間になれると信じていたからだ。週に三回ほどある習い事に、いざ行き始めるとその場特有の独特の緊張感に耐えられなくなっていた。 「まゆ? 出ておいで」やっとトイレの外へ出たとたん、不意をつかれ左頬をびんたされた。思わず左頬に少々残る痛みを手で押さえた。
「どうして行かないの!」
「行きたくないから」
真由美は俯いたまま答えた。母親は思わずため息をつく。
「ママだってねぇ、好きでお金払ってる訳じゃないんだから、辞めたいんだったら辞めてって言ってよ」
当時は母親の言いたいことが判らなかった。つまりそういうことなのだ。真由美はまだ幼かった。ただそれだけのことだったのだ。
夏子は妹の頭を撫でて居た。まだ柔らかい黒い髪の毛を愛でるように。真由美は暫くの間、夏子の妹が泣き止むのを傍観して居た。頭を鋭い針で刺された感覚がする。何故だったのか、今ではそれが理解出来る。しかし当時は知らなかったのだ。
真由美は、夏子がホッとした表情を見て安心した。一気に肩の力が抜けたのだ。
「まゆちゃんには妹とか居ないからわかんないだろうけど」
ため息をついた。
「なんで謝らないの?」
再び急に肩に力が入った。夏子しかり妹と同じような空間が閉ざされたような気がした。真由美は黙ったままだった。ただ頼りのない「えっ」というおどけた表情しか出来なかったのだ。そもそもゲームをしに遊びに来たというのに、夏子の妹を面倒みるとは聞いていない。何故夏子は『仕方ないか』という言葉が浮かんで来なかったのだろう。
「ごめん、みいちゃん」
やっと口にした言葉はふう、という息と共に出た。まるでかすれ声だ。
「お姉ちゃん、だいじょうぶだよ。みい、もう泣かないもん」
「えらいえらい。美智子はもう泣いたりしないもんね」
真由美はただ羨ましかった。夏子という存在は昔から輝いていたのだ。花を愛でるように妹達を愛するその性格が、光って居る。真由美と夏子との思い出は、高校時代まで互いに支えあって生きてきた一つでもある。夏子が真由美の部活を覗いたときも「まゆ~!頑張れよ~! あれ、そのラケット解れかかってるし」 などと口々に真由美の背中を押しては、いつも笑って居た。大家族の長女だったからか、そうせざるを得なかったのかどうかはよく判らない。真由美は親の影響もあったのか、優等生としての振る舞いがどうしても取れなかった。その名残なのか今でもテストの成績ばかり気にして居る。
中学三年生の1月15日(宮城は雪が多くて参った。15cmも白い結晶が降り積もったのだ)夏子は初めて真由美に弱音を吐いたのだ。夏子らしくない。そう思いつつも受験間近だった二人は、切羽詰った状況だった。
「まゆ、偏差値どうだった? 私下がっちゃったよ。多分滑り止め受けるしかない」
「本命の柊高校は? この前50ぐらいでよかったじゃん」
「だから下がっちゃったんだってば。 まゆは聖徳高校余裕で受かるからいいけど」
夏子の憂いげな表情が、教室を薄暗く照らして居た。多分1月のせいだろう。手袋はしていたものの、短いスカートを履いていたので説得力がない。真由美と夏子は二人で話すことが多かったが、教室の中を見渡していてはつい「あーあの高木っていっつもニヤニヤして気味悪くない? まるで私たちを見下してるみたい」と、丸い眼鏡を掛けたクラスで一番の優等生からの皮肉を受け取っては、愚痴をこぼして居た。長いスカートを内側におって短くするのが当時の流行りだったのだが、受験生にもなると、その流行りも棄てなければならない。夏子は、
「しょうがないっか~私ん家って家族多いから。公立の滑り止め受けることにする。まゆは聖徳行ってから、どうするの?」
と、スッキリしたような表情で真由美を見る。真由美は本命の聖徳高校を受けたあと(正直言うが、自信はあった。塾に通いつつ自習をして居たことは、夏子に言えそうにない)親の転勤と同時に東京へ状況することにして居た。しかしその好奇心の反面、東京という眠らない街は田舎者をどう見るのだろうか、という心境にもさせて居た。(当時真由美は、ネイルアートにはまって居た。これも言えないだろう)しかしゆっくりと進む時間の中で、判ったことは一つだけある。夏子のあっけらかんとした性格が、真由美にとって大きな影響を与えたことだ。東京に状況してからも、夏子とは上手くやっていけそうな気がしたのだ。次々と席を立ち去っていく生徒を見ながら、真由美は答えた。
「大学行くよ。それからは考えてない」
曖昧な返答が、夏子にとっては緊急事態だったようだ。前のめりになって真由美の顔を覗いた。少し青ざめた顔をした夏子は、透き通った眼をして居た。今でもよく憶えて居る。夏子が何故あんな発言をしたのか――しかしそれは、記憶の一片に過ぎないのだ。髪の毛を長く伸ばしきった(手入れはしていないだろう。しかし内面は家族を想うあたたかな心が存在して居た。いつものほほんとした表情を取る夏子に惹かれる者も少なくなかった)まん丸顔が、よく映えて居た。いつ美容院へ行くのかと問いただしたこともある。
「まゆ、いっつもそれじゃない。なんで私に相談してくれないの」
「ごめん。だってなっちゃんも偏差値のこと言ってくれなかった」
「今言ったじゃん。まゆは何も伝えてくれない」
丁寧にニスで塗られた机を見据えたまま、真由美は黙って居た。夏子に伝える術が、真由美にはなかった。知らなかった、と言ってもいいだろう。暖房で頭がのぼせそうなこの放課後の空間だけは、忘れられない。真冬の寒空の下、夏子は無事に滑り止めに受かった。彼女は高校を出たら、近くの工場で働くそうだ。家族が多い分、自身のお金を切り詰めて生活して居たが、それを笑って「大変だけど、楽しいよ」と言う。それがどれだけ真由美にとっては苦しい言葉だっただろう。真由美は、「東京行くけど、これからも宜しくね」とケータイのメールで夏子に伝えた。2005年の12月半ばだった。夏子は真由美に休みを取るから連絡先を教えてとメールを通して返事が来た。親と同居するのもしゃくに障るので、コンビニのアルバイト(1日6時間程度の勤務だったが、疲れる。疲れると同時に弱音が出る。大学が終わってからの淡々とした生活であった。時折ネイルアートサロンに行き、爪を磨いて貰うのが日課だった。真由美の爪には12月の白い菊の花があしらわれて居た)で貯めた資金で、六疊半程度の部屋代位は何とかやりくりして居た。しかしなかなかはかどらないアルバイトで、家賃と水道代やら光熱費やらを払う余裕はなかった。なので、二ヶ月程度は親からの仕送りで生活をして居た。真由美はアルバイトから帰宅した後、12月10日に夏子と会う約束の為、念入りに化粧を施した。時間は夜の7時半だった。手の甲が冷凍食品のように凍えきって居たので、思わずピンク色をした手袋をはめた。急がなければ夏子に悪いと思って居たが、なかなか全身鏡とのにらめっこから抜け出せない。少し遅く新幹線のホームに経つと、黒い髪の毛を伸ばし、昔流行ったキティちゃんの帽子を被った夏子が居た。祝日の10日に、真由美の親友がやって来たのは、ホームに降り立つまで知らなかった。夏子は地元から新幹線を2時間走らせたそうだ。彼女はあまりにも地元宮城の情景とは異なっていたと話す。夏子はあまりの人混みに酔いが回ったようで、エントラスホーム近くの女子トイレへ寄った。真由美はトイレの外でSmart phone片手にYoutubeで音楽を検索して居た。昔から人に対して多少厳しい面がある夏子は、トイレを出たあと胃が空になったことを確かめた。そして手袋を外しSmart phoneを片手にして居る真由美を見た。
「そのつけ爪どうしたの? まゆってもっと真面目な感じだったのに」
真由美にとって思いもよらない発言だった。この白い菊をあしらったつけ爪は似合っていると思ったのだが、夏子が思っていることとはどうやら違う。お互いに受験を終えて、進路こそ違うものの同じ道を歩んでいると思って居た。鮮やかな赤いコートに身を包み、銀色のヒールを履いた真由美は戸惑いを隠せなかった。白いダンボール箱を持った夏子に、
「ネイルアート、なっちゃんがこっちに来る前から考えてたんだよ」
と正直に答えたが、
「違う。まゆは変わったよ。何かが前とぜんぜん違う」
東京に来てもう二年以上経つ。しかし一体何が変わったのか、真由美は判らなかった。優等生というベールを脱ぎたかったとしか言いようがない。大学での友人たちと同じように、お洒落な格好を一度体験してみたかった。今の知り合い達は、そんな真由美を『すごくいい。田舎っぽく見えないよ』と口々に言ったものだ。夏子が自分との思い出をとても大切にして居るのは判る。それは真由美も同じだった。その数年間の内のひとにぎりの思い出が、儚く消え去るのを感じ取った。夏子はうつむき加減に白いダンボール箱を真由美に遣ったあと、東北方面の電車へすぐ駆け込んだ。メールの電話帳にはまだ夏子の名前が残って居る。すぐにメールを送信しようと思ったが、辞めた。たった一m先で、夏子が泣いているのが判ったからだ。その瞬間、真由美は何を思ったのか銀色のヒールを脱いで、再び借家へ裸足で戻った。夏子は宮城へ戻り、真由美はヒールを脱いだ足で借家へ戻る。東京のホームに居た人々が不思議そうに真由美を見遣った。消えそうなくらい眩いホームにあるスターバックスの光が真由美には腹立たしくて仕方がなかった。ヒールを右手で持ちふと足元を見遣る。もうこんなものは要らない。真由美は足早に階段を駆け抜けた。泣いて居た。ヒールを持った手が、妙に熱かったのを感じた。
赤いカーペットの上で寝て居た宮川愛子が眼を覚ました。赤く眼を腫らした真由美は、生姜紅茶をやかんからティーポットへ移した。少し冷めた紅茶だったが、カップに注いだそれは、真由美の心をまじまじと映している様だった。我に返った真由美は、彼女に言った。
「玄関にあるダンボール、アンタに見せたっけ」
宮川は首を左右に振った。きょとんとした表情で、毛布を自分の腰に巻きつけた。宮川の匂いが自分の毛布につくのは嫌だったが、この際どうでもいいような気がした。
「知らないけど、なんかずっと置いてあるよな。なんでまたぁ?」
「いや、昔私の友達がくれた。一度は開けたけど、もう見てない」
口を大きく開けてなるほどと言ったように胡座を掻いた。玄関の掃除もして居ない場所に置いた、大きな四角いダンボール箱を持ち上げてカーペットの上に落とした。宮川は驚いた表情を見せて、何が入って居るのかと問う。正直なところあまり憶えて居ない。花が入って居たのは憶えて居る。それ以上は何も記憶として残っていない。真由美がダンボールを開けると、しおれて今にも死にそうな紫色をした花があった。何年も水を遣って居ない。植木が2つあったが、いずれにせよもう芽吹くことはないだろう。夏子が送った花に、何の意味があるのかも判らないまま、しおれてしまった。宮川は、
「なんだよ。これじゃ根っこの生えてない花同然じゃんか。12月の花なら知ってるよ」
と眼をくっきり開けて話す。命のない花に水を遣っても仕方がないと言う。しかし宮川は「木に植えてやればいい。そうすりゃ木の方に命が向くさぁ」などと花の専門家でもないのに、ぺらぺらと真由美に向かって説明する。宮川自身が毎晩飲んだくれて帰って来るせいなのか、はたまた玄関で下呂を吐いたせいなのか、よく判らない。彼女は自身について、よく口にすることがある。「ときどき腹痛くなるときあるんよ。もうどうでもいいけどね」
『もう』という素っ気ない言葉が妙に耳に焼き付いて居た。毎晩酔っ払いながら真由美の家に入り込むのは、もしかしたら淋しいからなのかも知れない。それは今になってようやく判りつつあった。しかしそれが何故、真由美であるのかは判らないままだ。
真由美はそっと白いダンボール箱を持ち上げテーブルの上にどすん、と置く。紅茶のカップが台の上から落ちてゆく。スローモーションのように見えた黄土色の飲み物は、ただ流れて音すらなかった。真由美だけだったかも知れない。いや、宮川も気付いて居る。
彼女は笑ってカップをテーブルの上に置いた。カーペットにこぼれ落ちた水滴を、拭き取ろうとして居る。しかし真由美は「いい。私がやるよ」と言い、台所にあるボロ雑巾を手に取った。赤いカーペットの上をぐっと押さえるように、拭き取って行った。その姿を宮川は物珍しそうに見ていただけであった。手の平ではなかなか取れない。宮川の脚にある毛布をどけて、(彼女は「寒いじゃんかよ」と言い放った)箱ティッシュを取った。つけ爪に施してある12月の花が、目に見えて削れていくのが判った。涙も出なかった。今居るこの家のカーペットの方が先だった。それまで大事にして居たつけ爪が、音を鳴らして折れていくのを目にして居たからでもある。つけ爪の色合いがぼやけて花すら無くなった指を見て、真由美は落胆した。すべてのつけ爪こそ剥がれなかったが、10本ある内の5本は削れ落ちて赤いカーペットの上に落ちて居た。それを見た宮川は、真由美に言った。
「アンタ、その方がよっぽどいいよ。タガが外れたように見えるし」
「だけど、これを辞めたら私が私じゃなくなる」真由美は俯いた。まるで今までの財産が失われるつつあるようだった。これには流石に参る。自身の髪の毛を触ると、ミディアムでカールした一部分がストレートになって居る。仕方なく両手で頭の皮膚を抑え込むように、一気に手ぐしを掛けた。それを見ていた宮川は、彼女の心の内を見るように淡々と言う。
「何も変わんないでしょ。周り以外はね。それが嫌なら仮面かぶっていればいい」
宮川が的を射たような言い草をするので、真由美は赤く腫れ上がった手の平をぐっと握り締めた。まるで何もない空間の中にふとビーチボールが弧を描いたように、浮かんでいたのが見えた。それが幾つも重なり合ってはぶつかるのを、見た。ピアノの音が聞こえては宮川の言葉が連鎖され、真由美の頭にはただ一つの疑問だけが残されているだけである。幾つも、幾つも弧を描くビーチボールの踊りとピアノの音。それが静かに舞い降りるかのように、真由美の疑問も二重になって居た。宮川は赤いカーペットの横に蹲り、うっと唸ったかとお腹を押さえて居た。何かが起こったのには気付いて居た。先刻まではっきりとした口調で淡々と話していた宮川が、白いダンボールの傍らで眠るように横たわって居る。震えるような手でジーンズのポケットからバファリンを手に取り、眼を瞑って呑む。全体重を掛けて下腹部を抑えている。汗まみれになりながらも、真由美の話に耳を傾けて居た。
「なんでもない。なんでもないから、気にすんな」宮川は嗚咽するように口にした。予測不可能な出来事に何か不安が混じるようなことが存在するのは判る。毎朝ドアを開ける度に見掛ける宮川の顏。毎晩飲んだくれて帰宅するときに見遣う宮川の赤い顏。真由美と夏子の存在を食い入るように見つめる。孤独を見つめすぎると自身の空間でしか身動きが取れなくなり、周りの顏さえ誰かも判断できなくなる。そしてそのあとに遺るものをしかと眼を見開き、ぼんやりと散らかった部屋を見る。周りは真由美を残して通り過ぎていく。そこらの虫でも見るかのように。冷め切った殺風景のホームのど真ん中。真由美は蹲って、人々は通り過ぎていく。そう、涼しすぎる風の様に通り過ぎていく。
誰か生きろと言っておくれ――いや、それでいい。それでかまわない。
白いダンボール箱だ。とにかく白いダンボール箱。
その中に入っている紺に染まりすぎた美しすぎる紫色の花。宮川は苦し紛れに言う。
「子宮頸がん、知っとるか。アタシはそれなりに体験してきたが、疲れとる」
真由美は一瞬妊娠か?それとも性交渉のしすぎか?と勘ぐったが、それは甚だ見当違いなことを知った。説教臭い言葉の羅列を口にするのも、玄関で下呂を吐いたのも、もしかしたらその前触れがあったのかも知れない。真由美は結局はなにも知らず、偽りの慰めの言葉しか見つからないのか、と自分を責めた。 赤いカーペットで横たわる宮川の姿は、『らしくない』のではなく、『限界にきている』のだ。それは判って居た。
「なんで病院に行かないの」
「行ってどうなるん? 適当な薬出されて、ハイ、終わりやろが」宮川は紺色をした植木鉢をじっと眺めて居た。まるで医者の言う言葉を最初から判りきって居る様な口調だった。感情的な部分をあまり出さない宮川が、人に助けを求めるような言葉を発したのは初めてのことである。夏子に対して何も口に出来なかった真由美が、大学の知り合いに対して何も口にすることさえ出来なかった真由美が、今になって言葉にしようとして居た。
「とにかくアンタ、毎晩酒を呑みすぎるんだよ。だから何も見えなくなる。判る」
――知りすぎると、何も見えなくなる――そういう類のことは、宮川だって理解できる筈だ。夏子にさえ何も言えなかった真由美。いつも全身鏡と睨めっこをして、自分の身なりを確認する真由美。左手の薬指にある爪づめに眼を遣ったが、夏子との思い出を封印するかのように、ただただ宮川の顏を見つめて居た。
「アイリス、アイリスだよ、その花。その友達さぁ、アンタに言いたかったんだよ」
「いったい、なにを? それよりアンタはどうなの」
「アタシは人ところに居れる立場でもねぇし、そのうち出ていくさ。けどアンタは違うだろ。友達の思い出を背負って、真っ昼間から酔うどころか笑みさえ浮かべてない」
宮川の言うところによると、ここから出ていくつもりなのはさなかである。真由美は、夏子との思い出を背負いきれてもいない、あの寒空の下の中での会話を忘れきれないまま佇んで居る。真っ白な時間の中で何かが変わりつつあるのを真由美は知った。抱えきれずに持ち堪えた思い出を、頭から完全に切り離すのは無理に等しい。だが真由美にとって、今心配だったのは、宮川にほかならない。今は、余裕があったのだ。ひと束の花を手に持った様に、くっきりと円を描いて居た。 ともかくアイリスとやらの花と一緒に、宮川を病院に連れていく必要がある。それが真由美にとって自己満足の友情であったとしても、宮川を放って置けなかったのは事実である。そして、夏子との思い出を風化するのにも――
思い切り宮川の右腕を持ち上げて、自分の力の尽くす限りで宮川の身体を持ち上げた。白いダンボール箱にある腐りかけた植木鉢を右手で持ち、唸る宮川をよそに、真冬の階段を駆け下りた。宮川は途中で喉仏を押さえ、吐いた。真由美は自分が何を考えて居るのかも判らず、とにかく自身の『勘』だけを道連れにしてタクシーを拾った。手持ちは2500円。これだけのお金さえあれば、何とか近場の病院にだけでも連れて行ける。重い。宮川の身体が重いだけではない。自分の関節のあちこちが痛い。痛くても走られればいい。痛くても、走られればいい。厭みったらしい真由美の腰の痛みさえ、抑えられればいい。いや、抑えられなくてもいい。タクシーの運転手に「とにかく近場の婦人科へ」
息を切らしながら言った言葉は、運転手にはどうやら届いたようだ。よかった。左手で植木鉢を持ち、右手で宮川の手を握りしめる。植木鉢の重みに負けそうになりながら、タクシーが走らせる勢いにぐらぐらと身体が動く。冷たい風は吹き込まない。それだけでもよかった。真由美の頭の中には『病院』と『植木鉢』しかなかった。着いた先の病院は、真由美の家からたった15分のこじんまりとした婦人科だった。産婦人科ではないことは明らかであったので、『婦人科』と言葉にしたのだ。担ぎ込まれたその先で、宮川が口にしたのは「使者だの――燃えるような想い――だのそういう花ことばあるけど……」
宮川の言葉は看護師の黄色い声によって塞がれるようだったが、何とか聞き取れた。「何か温かい飲み物は飲めますか?!よっぽどのことがない限り、こちらで手を尽くしますので、お名前を言ってください。宮川さん、宮川愛子さんで宜しいですね?」
宮川が看護師に口にした言葉は、『生姜紅茶』だった。真由美がいつも台所に向かって火を付けるコンロ。古びたやかんと花のような白いティーポット。注ぎ込む氷。そして生姜の入った紅茶――何故か窮屈な想いや居た堪れない想いに駆られるといつも口にする、その生姜紅茶。夏子との思い出を無理やり封印させようとした、紅茶でもある。「それはありませんので、普通のお湯で宜しいですか。それでも充分ですよ」と、看護師が言う。宮川の状態はそれ程よくはないといってもいい――いや悪いといってもいい――「その紅茶がなければ、別にあの世で飲んだっていい」
宮川の言葉に驚きを隠せなかったのか、看護師は無理やり紙で出来たお湯を宮川の口に運ばせた。運ばせる直前に――看護師に向かってそのお湯を顔面に吹き出した。まるでウォッカを人に向けて吹きかけるように。看護師は両手で眼を覆い被せるように、ただ「何するのよ!この子!ふざけてんじゃないわよ」と小声で口にしただけである。真由美はしょっちゅう見舞いに来るのは無理だが、たまには来て生姜紅茶を持ってくると言った。その言葉が耳に届いたのかどうかは知らないが、
「テルテル坊主あるじゃんかよ……それを逆さまにしたようなのが、ジャーマンアイリスっていうんだよ。咲き誇るとすげぇ豪華にも見える――幸福の再来。つまり幸せがもう一度やってくるって意味さぁ……アンタにも、きっと、来る」
夏子の言いたかった真由美への言葉が、今ならようやく理解出来そうだった。いや、理解しない方が本当は身のためかも知れないが――今でも幸せのひとにぎりというものは実感して居る。そして宮川とも今後会うことはないだろうという危機感はあった。だが得たものは大きかった。看護師達は宮川をどのように相手をしたのかは知らないが、ともかく宮川も『生姜紅茶』のことを忘れることはないだろう。真由美は最後の左指のつけ爪を右手で折り、捨てた。102号の部屋にある全身鏡を捨て、赤いカーペットも捨てた。何もない部屋には、不思議と眠らない街ともあの宮城とも通じている様な気がした。果てのない蜘蛛の糸の様な必然の繋がりとしてではなく、いつかは終わりを迎える偶然として、真由美は大学への授業でも平然として顏を出した。田舎者でもなく、都会者でもなく、ただの一女性として。宮川を病院に送り込んでから、半年が経つと、104号はただの空部屋と化して居た。夏子との別れでは無かった、安心した寂しさだけが残って居た。真由美は思わず笑ってしまった。宮川らしいな――そしてアイリスの花を、近くの公園に埋めることにした真由美は、大学の授業を終えたあとに、ひっそりと脚を運んだのである。小学生時代からの記憶を、宮川とのくそったれの思い出を、アイリスの花へ閉じ込めて、真由美はパンプスの靴を履いて歩きだした。『まゆみちゃんってゆうの? 私、なつこってゆうの』
「ジャーマンアイリス」
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