パラダイス銀河
私は今朝、とんでもない事実を発見した!
それは、コーヒーと漬物が意外に合うということだっ!
それは、本当に突然に、まるで天空から神が舞い降りるかのごとく、私の頭に降ってきた。そして、冷蔵庫にあった漬物をおもむろに取り出し、試してみた。そしたら、コーヒーと漬物は恐ろしく合ったのだ。正確に言うならば、きゅうりの漬物と大根のべったら漬け、それらのどちらもコーヒーと合い、甲乙つけがたい。
漬物を口に含み、噛んだ瞬間に、滲み出る塩味と野菜本来の持つ風味が溶け合い、さらにその中にブラックコーヒーが飛び込んで、なんとも絶妙なハーモニーを私の口の中で奏で始めてしまったのだ。
「ありない」と、最初は思った。まさか漬物とコーヒーだなんて。自分自身が、とち狂ってしまったのかと思った。そんなことあるはずがないと。だが、その考えは一瞬にして覆された。きっと神は、この逃れようのない真実を正面から受け止めきれるのは、私しかいないという決断を下されたのであろう。ならば、その決断を私は、真っ向から正々堂々と受け止めてやろうじゃないか。なにを恐れる必要がある。私は、たとえ警察や政治家たちを敵に回してでも、この事実を世の人々に伝えなければならないのだ。
私が思うに、韓国人が、こよなく愛するキムチではダメだ。日本人が古代から愛して止まなかった、食卓のアイドル「漬物」でなければダメなのだ。浅くても深くても、ぬか漬けでもスーパー買いでも、豪華コンビニ買いでもなんでも良い。とにかく漬物であれば、なんでもいいはずだ。
とは言ってみたものの、じつは、恥ずかしい話、私もまだ大根ときゅうりでしか試したことがない。これは早急に全種で試してみる必要がある。いや、試さなければいけないのだ。一分一秒でも早く、漬物さえしらない全世界の人々に、この甘美な時間をお届に上がらねば。
さぁ、明日から忙しくなるぞ。テレビや新聞に引っ張りだこだ。世界の料理店のメインメニューに必ず飛び乗るはずだ。その前に特許を取っていた方がいいのではないか? そもそもこういう類の奇跡には特許が下りるのだろうか。
会社になんて行ってられない。どんな時間も惜しい。とりあえず、今の夜中でも開いているコンビニやスーパーを中心に、片っぱしから漬物買い込んで、コーヒーとの相性を試してみよう。マスコミに問い詰められた時に答えられないなんて恥ずかしいぞ。どんな質問を受けても、即座に答えられるよう、自分の口の中で勉強しておかなければならない。
私は財布を握り締め玄関を飛び出た。古い木造のアパートの階段を駆け下りていると、隣人の山田が私の前をのそのそと歩いて来ていた。狭いアパートだ。同時に二人の人間が階段を行き交うのは容易なことではない。山田はいつもボーっとしている、さえない男だ。私は体を少し隅に避け、山田が通り過ぎるのを苛立ちながら待った。のそのそ歩く山田に怒りが爆発しそうになるのを抑え、気を紛らわすために、山田の持っているゴミ袋に視線を移した。
「!?」
山田のゴミ袋の中に、コンビニの漬物のパックとコーヒーの袋が!
私の頭は一瞬にして真っ白になった。まるで、鈍器のような大根で頭を殴られたような衝撃だった。一体どういうことだ。もしかして、山田もこの事実に気付いているのか。
私は慌てふためいた。どうしよう。どういうことだ。神は私の中だけに降りてきたのではないのか。隣の山田の中にも?
なんということだ。神は皆に平等だったのか。ならば、なおさら急がねば。私は山田が事実に気付いていると知っているのが、山田は私が気付いていると知らない。それがせめてもの救いだ。山田がのそのそとゴミを捨てに行っている間に、私はコンビニに走り、漬物を食いながらコーヒーを飲み、その足で新聞社に駆け込んでやる。
ちょっと待てよ。山田はゴミ袋の中に漬物のケースとコーヒーの袋を入れているんだぞ。漬物は好きでしょうがないなら一日で食べてしまうこともあるかもしれない。だが、コーヒーがいくら好きでも一日で飲んでしまうということは、まずない。体に毒だからだ。
だったら山田はすでに何日も、もしかしたら何週間も前からこの事実に気付いていて、ありとあらゆる種類の漬物を口に含み、コーヒーを流し込んで、さんざん試してしまっているのではないだろうか。だとしたら、コーヒーの袋と漬物のケースが同時にゴミ袋に入っている理由が納得いく。私はさらに目を細め、ゴミ袋を凝視した。漬物ケースはそこに見えているだけなのか。そんなはずはない。もっと試しているはずだ。山田も試さずにはいられなかったはずだ。きっと無理してカフェインを大量に体に流し込んでしまったがために、そんな重たい歩き方なんだ。くそっ! 山田は、私の遥か先を歩いていたのか。
でも、それにしては山田の周囲は相変わらず寂しいものだ。すでにコーヒーと漬物の意外性をマスコミに持ち掛けているとしたら、山田の毎日はカーニバルだ。なのにそれが全くない。何故か?
答えは簡単だ。山田はこの事実を、まだ誰にも公表していないのだ。馬鹿な奴め。私が知っていることも知らないで、呑気にやっているなんて。お前が漬物を酒の肴みたいにコーヒーでちびちびやっている間に、私はスーパースターだ。もしかしたらノーベル賞さえも奪ってしまうかもしれない。アメリカだって私のことをほっとかないはずだ。灯台もと暮らしとはまさにこのこと。なんとしてでも、山田よりも先に公表しないと。
しかし、私にはまだ経験と実績がない。きゅうりと大根だけでは世界の大舞台には立てない。なんで私は昨日、スーパーに寄った際に、なすの漬物を買わなかったのだ。迷いに迷ったあげく、節約のためにと、なすの漬物を手には取らなかった。なんてことだ。給料日前の私に、なすの漬物を手に取ってカゴに入れる勇気さえあれば、今頃、山田を追い抜いて陽の光を浴びることが出来たかもしれないというのに。そうなれば、死ぬほど漬物を買い込むことが出来ただろう。
だが済んだことを呪っても仕方がない。今は現実の辛く、苦しい試練から目をそむけずに立ち向かっていこう。そうか、きっとこれは神が私に与えた試練なのだ。簡単に栄光が手に入ってもつまらない。いくつかの壁を私の前に打ち立てて、私の力量を測っているのだ。だとしたら、これくらいのことで、のたうち回っていては先が思いやられる。ここは堂々とした行動に出て、毅然とした私を神に見せつけてやらなくては。
とりあえず私は、昼間は山田を監し続け、夜、山田が寝静まった時点でコンビニや二四時間営業のスーパーに駆け込み、漬物を買い漁りに行くことにした。
辛く長い戦いだが、後々の幸福に満ちた生活のことを考えると、今の時間は米粒ぐらいの時間だ。
私は部屋に戻ると、息をひそめ、覗き窓から山田がゴミを捨てて部屋に戻っていくのを確認した。愚かな奴め。ライバルがすぐ隣に住んでいるとも知らないなんて。私は鼻で山田を嘲笑うと部屋に入った。
山田と戦う前に、私にはやらねばならぬことがあった。
私は早速、机から電話帳を引っ張り出すと。荒々しくページをめくった。そして、上司の携帯の番号を押すと、受話器を耳に当てた。しばらく呼び出し音が続いた後、寝ぼけた声の上司が電話に出た。
私は名前を告げ、
「やむを得ぬ事情が出来ました。今日限りで会社を辞めさせていただきたい。」
と声高々に伝えた。
突然、こんな形で退職を申し出ることは、非常識だと分かっている。だが、夜が明けるのを待って、山田から離れて会社に辞表を提出しにいくのは、あまりにリスクがある。その間に天地がひっくり返ることだって安易に予測出来るのだ。すまないが、私のこの心意気、分かって欲しい。
「そうか、分かった」
私のこの熱い想いが伝わったのだろう。上司はあえて私を引き止めるようとはしなかった。今の私に、その言葉を掛けてもムダだと察知し、彼なりに部下の私への最後の愛情を注いでくれたのだろう。伝わりました。しっかり伝わりましたよ。私が成功した暁には、シャンパン片手に会いに行きます。お世話になりました。あの会社で過ごした時間は決してムダではなかった。みんなは私を誇りに思い、そして、そんな私と苦楽を共にし、働いたことを誇りに思うだろう。
社会人になって早十年、雨の日も風の日も会社に通い、仕事をこなしてきた。時には乗り越えられない壁にぶち当たり、酒に酔い潰れて何度も挫折しかけたが、ここまで頑張ってきた。今、私は自分のことを何よりも誇りに思っている。私だけではない、部下たちが私を切望の眼差しで見ているのを感じ、上司からは信頼の目を向けられているのは感じていたさ。色々な仕事をこなし、数々の困難に立ち向かってきた私だが、何よりも大変だったのは、女子社員たちの舐めるように私を見る熱い眼差しだ。この視線に気づかないように振舞うのがなによりも大変だった。そりゃ、私だって健全な男だ。熱い視線を向ける女子社員の中には私の目に止まる人もいたさ。だけど、他の女子社員のことを考えると、どうしても彼女一人だけを特別扱いすることなんて出来ないだろ? 苦渋の決断を何度強いられた事か・・・だが、ある意味、私が会社を去ることで彼女たちは救われたのだ。私のことは忘れて幸せになって欲しい。そうすれば、次に会った時にはお互い笑顔で会えることだろう。
こうやって人はつながっていくのだな。私は上司に荷物は全て処分してくれるよう頼むと電話を切った。私の一番の心配が解消された瞬間だった。私がいないと会社に大きな穴を開けてしまうが仕方がない。私が会社を選ぶとこの世界に大きな穴を開けてしまうことになるからだ。
大丈夫。みんな必ず分かってくれる。ありがとう、みんな。俺は幸せ者だ。
迷いは全て消えた。足枷は外れた。さぁ、ここからが耐え忍ぶ戦いだ。少しの変化も見逃すな。私は耳を澄ませ、どんなあらゆる物音にも、敏感になろうと細心の注意を払った。アイツのきゅうりを噛む音だって聞こえてきそうだ。もう、優雅にコーヒーだって飲ませないさ。山田と私の長く辛い戦いが幕を上げた。ここからが本当の戦いだ。
私は山田の部屋側の壁に寄り添うようにして、時を刻み始めた。今の私の心はFBIと共にある。この機密裏に行われている戦いは必ずや成功させ、この世の食の幸せを守ってみせる。
食事はしばらく取れないだろう。私は瞬間移動の如く、一瞬で冷蔵庫に飛び、そして中から素早く1.5リットルのミネラルウォーターを取り出すと、瞬時に元の位置へ戻った。
当分はこの水だけで過ごすことになるだろう。持休戦だな。だが持久戦なら自信があった。山田はガリガリのひょろひょろだ。私も肉付きがいい方ではないが、山田に比べると健康体だ。風が吹けば飛んで行きそうな山田に負けるわけがない。栄養補助食品の漬物をハンデとしてくれてやってもいい。でも、今はこんな世の中だ。十万円積んでも漬物はやらんがな。
時計の針が深夜0時を過ぎる頃に、山田の部屋の電気が消えたのを私は窓越しに確認した。だが、油断してはならなかった。灯りが消えたからといってアイツが寝たとは限らない。私は壁に耳を押し当てたまま、夜を明かした。今宵は山田にスペシャルな動きは見られなかった。
うぐいすの鳴き声が聞こえる。もうそんな季節か。この音色にいつまでも酔いしれていたいが、すまない。私にはやるべきことがある。また来春会おう、うぐいす。私は静かに目を閉じ、甘くささやかな音色を断ち切った。
昼近くになったが、本日も相変わらず山田の動きはない。
たまにのそのそと歩き、トイレに行っているようだが、それ以外は際立った動きは感じられず、隣の部屋はしんと静まり返っていた。不気味な奴だ。一体、毎日何をしているんだ。まさか、忍び足で冷蔵庫へ向かい漬物を取り出すと、物音を立てないよう、慎重にコーヒーを淹れて実験を繰り返しているのではないだろうか。もしかしてアイツは私が聞き耳を立てていることに気付いているというのか。まさか、私は何もとちってないはずだ。千里眼でもない限り、私の行動を察することは不可能なはずだ。
「!?」
もしかして、向こうも怪しいと思っているのか。物音を全く立てず、動かない私を。確かに私は部屋にいるはずなのに、全く物音がしないと感じているのか。アイツも私がこっそり実験をしていと思い、壁に聞き耳を立てて、私の行動を探っているのではないか。それはまずい。なんとかして、ヤツの気を晴らさないと。私は何も怪しいことはやっていない、いたって普通の生活をしているんだ。
「ラ?ラ?」
聞こえるか、山田よ。この私の陽気な鼻歌が。そして軽いスキップ、下の住人にも私の幸福度がまる分かりだ。薄い壁だが、私の姿までは透けない。だが、この私の状態が手に取るように分かるだろう。そうだ山田、私はいたって普通だ。怪しくないぞ。安心して、いつもの行動を取るんだ。お前の真の姿を私に見せてみろ。
しかし、山田の動きは変わらない。相変わらず、物音一つない生活をしてやがる。
私は三十分置きに歌を歌ったりダンスを踊った。時にはバラード、ロック、最終的には演劇の練習をしたり、ミュージカルにも挑戦してみた。しかし、山田は変わらない。アイツは一体何者なんだ。怪しすぎる。息ぐらいはしてるんだよな。
翌日の朝になって事態は急転した。山田に微かな動きがあったのだ。
私は壁に耳を押し当てる。
「?」
袋を破るような音が聞こえ、粉を何かに注ぐような音がした。
もしや、山田はコーヒーの粉を缶に補充しているのではあるまいか。ジャマイカ。勤勉な奴め。ここへ来て、まだ実験を続けるというのか。次は何だ? 一体何の漬物で試すというのだ。
もう少し情報が欲しい。何でもいい。漬物に関する情報が。私は壁と一体になった。私が壁で壁が私で。
「辛っ」
山田が軽く叫んだ。辛い? 今、山田は確かに「辛い」と言った。しかも、口に出して言うつもりはなかったが、思わず声が出てしまった感じだった。何だ? 辛い漬物ということか? 辛い漬物、辛い漬物・・・
「!」
私は、はっとした。
もしかして、キムチのことか!
キムチは私が、まず合わないだろうと決め付け、口にしなかった韓国の国民的アイドルだ。まさか山田がそこに目を付けるとは。
もしかして、山田は日本中の漬物を完全にコーヒーと共に食し、次は海外の漬物なるものにまで目を向け始めたというのか。まずはアジアからか・・・
なんて奴だ。なんという追及心。まずい。まずいぞ。奴がここまでやる男だったとは。人は見かけによらないな。
「暑い」
山田はバタバタと駆け出し、何かを取りに行ったようだ。引き出しを開け、
「ふぅ」
と言いながら、何かをしているようだ。
そうか、キムチを食べて汗が止まらないので、タオルで拭いたってわけだな。
ちょっと待てよ。主に日本で売られているキムチの大半は、日本人の口に合うように辛さを抑えてあると、前にテレビのドキュメンタリー番組でやっていたのを見たことがある。ということは、今、山田が口にしているのは本場、韓国のキムチということになる。アイツはどこまで本気なんだ。アイツは辛くて麻痺した口に、熱いコーヒーを流し込んでいるというのか。まるで、自分に罰を与えているかのごとく。なんて奴だ。このプロジェクトにある程度の犠牲は付きものというわけか。なんてクレイジーな奴なんだ。そんな奴に私は立ち向かっている。ふん。俺もクレイジーだぜ。
私は壁にもたれかかり、低い天井をしばらく見上げていた。戦いとはこういうものなのか。一人で孤独に戦う。まるで自分自身との戦いのようだ。この戦いが終わる頃には、私は一体、どこまで上り詰めているのだろうか。そこでもまた、新たな戦いが待ち受けていることだろう。そんな人生もいいだろう。
ガラガラ
山田が窓を開けた。
きっと今のキムチとの攻防戦で、熱く疲れた体を冷ましているのだろう。よくやった。お前はよくやったよ。しかし、だからといって、お前に全てを譲るつもりはない。最後に笑うのはこの私だ。
ここで突然、山田を呼び出す電話がけたたましく鳴り出した。
「ほいほい」
山田が窓を閉めて、小走りに電話へ向かう。何故、電話を取るのに窓を閉める必要がある? 私は再び壁に耳を押し当てた。
「はい、山田です」
「はい、その節はどうも」
「ええ、昨日無事に届きました」
「今日には渡せると思います」
山田が電話を切った。
私の背中を一筋の汗が走った。
なんだ、今の会話は。
山田はどこかの研究所と共同でこの壮大なプロジェクトを進めているというのか。
しまった。ならば、ここで山田に張り付いていても何の意味もないのではないだろうか。
山田とどこかの研究所が手を組み、水面下で密かに動いていたとは。一体、アイツのどこにそんなツテがあったんだ。なんという男だ。山田という人間は。どこまで私を突き放そうとするのか。
一度、振り出しに戻って作戦を練りなおさなければいけない。このままでは、山田の報告を元に研究所が検証し、実験を重ね、世に発表してしまう。それだけは、なんとしてでも食い止めなければならない。
しかし、今の時点では研究所がどこにあるのかも分からないし、山田がどこまで試し、報告しているのかも分からない。
一体、どうすればいいのか。
もう、ほんの少しの油断も許されない。
「?」
何やら隣が慌ただしくなってきた。
山田が機敏に動いているようだ。どこかに出掛けるのか。
もしかすると研究所かもしれない。
私は急いでスウェットを脱ぎ捨て、そこら辺にあった服に着替えると、再び息をひそめ、山田の動きを待った。
間もなくして、山田が玄関の扉を開けて外に出る音がした。私も玄関へ行き、覗き窓に張り付き、覗き窓から私の目の前を、山田が通過するのを確認すると、少し間を置いて普通を装い外へ出た。絶対に気付かれてはならない。もし気づかれてしまうと、命を落としかねない。どこから研究所の人間が見ているかも分からない状況だ。私は全人類を敵に回した覚悟で歩きだした。
山田の数十メートル後をひっそりと追う私。相変わらず、山田はのそのそと呑気に歩いている。しかし、あれも全て敵を欺くためなのだ。なんてゆう男なんだ。今まで私は、アイツの作戦にまんまと騙されていたなんて。しかし、今はそんな後悔の念は脱ぎ捨てるのだ。余計なことを考えている余裕はない。アイツから目を背けるな。アイツを見失わないようにしながら、周囲の人間にも気を配らなければならないのだ。私の心は今、FBIと同化した。この任務を必ずや達成してみせる。
しかし、研究所の人間もよくあんなのろまな山田なんかを仲間にしようと思ったな。隠れた才能があるのは、今回のアイツの行動を観察して思い知らされたさ。だが、アイツを見た目で判断するなら最悪だ。アイツを信用する要素なんかどこにもないじゃないか。私が研究所に人間なら、漬物の事実を山田が発見した時点で山田を殺害し、自分たちだけで密かに研究を続けるだろう。そうしないと別の不安要素がたくさんだ。あんな便りない奴にこの一大プロジェクトを託せるはずがない。でも研究所の人間はそれでも山田を仲間に引き入れた。研究所の人間もまた、侮れない奴らというわけか。山田のああいう不安げなオーラは山田自身が綿密に計算し、作り上げたものなのだろう。アイツは「頼りない山田」を完璧に演じきっているのか。アカデミー賞ものだよ、山田。もしかしたら、山田は元々、研究所の人間で、そこから世に送り出された刺客という線もある。スキを見せないようにしなければ。
突然、山田が立ち止まった。
私は急いで、木の後ろに身を隠した。山田はポケットから携帯電話を取り出した。どうやら何者かから連絡が入ったようだ。私の潜んでいる位置からでは遠すぎて、何を話しているのか全く分からない。背後からでは、山田の表情も分からないため、どんな人物と話しているのかも分からない。ただ、仕切りに頭を下げている。どうした、山田。何かトチってしまったのか。私がやきもきしている間に、山田は電話を終え、携帯電話をポケットにしまうと同時に、おもむろに走り始めた。私も慌てて後を追う。
どうしたんだ? 緊急事態か? もしかすると私が後を付けていたことが、研究所の人間にバレてしまったのかもしれない。私を撒こうというのか。とにかく私は山田の後を身を隠すように追った。
一体どうしたというのだ。先ほどまでの、のろまな山田とは別人のように素早い。忍者のように俊敏に、軍隊のように迷いがない。まるで命を掛けて、人生を投げうって走っているかのようだ。私は山田の背中だけを見て、見失わないように、ただ一心に走り続けた
今までの山田との戦いが走馬灯のように私の脳裏によぎった。この戦いで分かったのは、私も必死だが、山田も必死だということ。本場キムチを食し、のろまな人物を装い、このプロジェクトに賭ける思いがひしひしと伝わってきたものだ。互いにこの発見に誇りを持ち、なんとかこの大発見を世に送り出そうと必死なのだ。山田、お前って奴は本当に・・・
五分位走ったところで、山田が急に立ち止まった。
あまりに突然だったので、私は止まりきれずに前に倒れてしまった。砂利が顔に当たり、顔が擦り切れたが、そんなことかまっていられない。顔の傷なんて、後で漬物のお金が入ればどうにでもなる。今よりハンサムにしてもらうつもりだ。なんてな。とにかく、今どんな顔になろうと関係ない。
私はムクっと起き上った。
「!?」
山田がいない。
ほんの数秒、倒れて目を離していた隙に、山田が忽然と消えていた。
どこに行った? 今まで目の前にいたのに。
私は必死で周囲を見回し、山田を捜した。つい「山田!」と叫んでしまいそうになったが、そんなことをしたら研究所の人間に見つかり、私の任務は終わりだ。いや、人生が終わってしまうだろう。
もしかして山田は誘拐されたのか。怪しい車に連れ去られて、今ごろ拷問に遭い、漬物とコーヒーの全てを吐かされているのではないか。私たち以外に、この事実に薄々感づいている人物がいても不思議ではない。大丈夫なのか、山田。
一体、研究所の人間は何をやっているんだ! この山田の一大事に。
どうしたらいい。私に出来ることはないのだろうか。一緒に奇跡に気付いた。私の中で山田を憎む気持は消え、素晴らしい事実に気づいた同士のように思えてきていた。一緒にノーベル賞をもらうんじゃなかったのか。
頼む山田、生きていてくれ。
私は祈るような思いで天を見上げた。くそっ、こんな日に雲一つない晴天なんて。私と山田には無意味すぎる。私は眩しすぎる太陽から目を背けた。
「?」
山田を発見した。
私の見間違いかと思い、二度見した。
山田は、私のすぐ横にある弁当屋のカウンターにいた。どこでも見かける、あの有名なチェーン店のお弁当屋だ。アイツはその有名な弁当屋で、エプロンを身にまとい、頭に三角巾を巻いて働いている。山田は時々、微笑み笑顔で接客している。なかなかの好青年だ。
なんだ。一体なにがどうなっているんだ。
「!?」
もしかして、山田はここでバイトをしているのか。だとしたらつじつまが合う。心配させやがってコノヤロー。敵を欺くためには、まず味方からか。ハハ。味方ながらあっぱれな奴だ。しかも弁当屋とはな。弁当屋と言えば、まさに漬物の宝庫。ありとあらゆる漬物を働きながらにして手に入れるこが出来る。しかも、軽く味見をする振りをして漬物を食し、休憩をする振りをしてコーヒーを口に含めば完璧ではないか。なんて機転の利く奴なんだ。山田って男は。敵わない。私にはとうてい越えられない男だよ。全く。
もしかすると山田は研究所の人間というだけではなく、研究所の幹部に位置する存在なのではないか。間違いない、きっとそうだ。私は今まで「山田」と呼び捨てにしていたが、今後はそういうわけにもいくまい。「山田先生」と呼ぶことにしよう。
先生は百点満点のスマイルで会社が終わる夕方の混雑時の客をさばき、職務をまっとうされていた。さすがだ。一点の迷いもなく、出来上がった弁当を箸を入れ忘れることなく袋にいれ、正確で素早いレジ打ち。厨房が手間取ってきたら、進んで厨房に入り、唐揚げを揚げた。私の肉眼では確認することが出来なかったが、その合間を縫って漬物&コーヒーで実験というわけか。研究所の人間にとって、先生は模範になる憧れの存在であることは間違いないだろう。会社に勤めていた私がそうであったように。分るよ、先生。それはそれで結構大変なんだよな。私なら先生のその苦しみも理解することが出来る。今日から私たちは、心の底から信頼しあった相棒となるわけか。それも悪くないな。ただ照れくさいから「先生」と呼ぶのは止めてもらいたい。
私は山田先生がバイトを終えて、店から出てくるまで辛抱強く待った。もちろん先生の足を引っ張らないように電柱の陰からこっそり観察させてもらっている。これから私たちはあらゆる困難に立ち向かって行かなければならないわけか。私たちは互いを信じ合い、力を合わせ迫りくる敵と戦って行くのだ。
夜空に星が輝く頃、弁当屋の電気が消え、しぼらくすると山田先生が従業員たちを引き連れて、店の裏口から出てきた。まるで、大学病院の総回診のような光景だ。山田先生が教授。ならば私はそれを支える助教授といったところだろう。広い病院の真ん中を歩く、山田教授と私の姿を想像してみる。悪くない。
私が他の世界に飛び立っている間に、先生一行は店から外れ。大通りへと歩いて行っている。私もすぐに現実に戻り、後を追う。先生と私の隠れ家であるアパートがある方角とは反対方向だ。先生は部下を引き連れて、どこへ向かっているのだろう。
途中で二人と別れ、計四人で大通りをさらに歩いて行く。先生は楽しそうだ。私は十メートルくらい離れた後ろを歩く。
五分ほど歩いたところで先生一行が立ち止まり、ある店を指差した。
マクドナルドだ。
部下たちは「オッケー」と答え、楽しそうに店内に入って行った。
先生、マクドナルドにコーヒーはあるが漬物はないはずです。一体何故? 私は不審に思いながらも続いて店内に入って行った。それからまず、バリューセットを頼み、先生一行の少し離れた席に腰を下ろした。
分からない。先生は一体何を考えているのだ。皆目見当がつかない。でも私は助教授だ。先生のことは熟知して置かなければならない。私は山田先生の、いうなれば女房役なのだから。だが、ここからでは遠すぎて先生たちが何を話しているのか、さっぱり分からないとにかく、笑いの絶えない話しをしているようで、みんな笑顔で盛り上がっているようだ。
気になる。だが、これ以上近付くのは危険だ。私が私だとバレてしまう。まだ研究所の人間に認めてもらってない今、先生に近付くと命を落としかねない。
私はひとまずコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせた。くそっ、こんなことなら冷蔵庫の中にあった、きゅうりの漬物をタッパーに入れて持って来るんだった。まだまだ私も爪が甘いな。いついかなる時も研究精神を忘れてはいけないはずなのに。これは来年の助教授選で私は外されてしまうかもしれない。本腰を入れて実験に挑まないと。私は頭の中で漬物の味を思い浮かべながらコーヒーを飲んだ。だが、あまり的確には味を想像出来ない。まだまだ経験不足だな。
先生たち楽しそうだな。一体、何を話しているんだろう。知りたい。聞きたい。でも近付けない。 私は一人さみしく、ハンバーガーを頬張る。
普通に輪の中に入ってみるか。何食わぬ顔で自然に入って行けば、研究所の人間も疑うことなく、私の動向を見守っていてくれるのではないだろうか。先生と私は顔なじみだ。研究所の人間さえクリア出来れば問題ない。いや、だめだ。リスクが大きすぎる。研究所の人間を甘く見るな。とりあえず今は我慢しろ。私たちの栄光への道はすそこまで伸びてきている。私と先生が二人で力を合わせれば、鬼に金棒だ。今のは少し古いかな。
私も、もうすぐメディアの中心に立つ存在になる。取材だって増えるはずだ。今の流行りをさりげなく会話に取り入れ、カッコ良い振る舞いをしなければならない。人気者も大変だなぁ。若い子が選ぶハンサムランキングに、芸能部門以外のランキングに入るかもしれない。これからは着る物にだって気を配らないとな。それに、メディアに露出するんだ、顔が世の人々に知れると、こうやって外出するのも大変だと聞く。マックで外食なんて、今日で最後になるかもしれないな。もうすぐ普通じゃいられなくなるというわけか。仕方ない。
何かを得るためには、何かを失わなければならない。これも運命か。さよなら、俺の平凡な人生。こんにちは、私の輝ける未来。
両親にもたくさん迷惑を掛けてしまったからな。家でも建ててやるか。後は車が一台でもあれば十分だろう。その後は財団にでも寄付するか。私も誰かの役に立つことが出来るもんなんだな。恥ずかしいような、誇らしいような、何とも言えない気持ちでいっぱいになった。ちょうどバリューセットも食べ終え、私のお腹もいっぱいになった。惜しまれつつも、コーヒーを全て飲み終えた頃、ちょうど先生たちも食事を終えたようで、一斉に立ち上がった。私も少し遅れて立ち上がり、トレイをカウンターに戻して、店を出た。
先生たちは別れの挨拶をし、それぞれの帰路に着くため、ちりぢりになって歩き出した。
先生は一人では帰らず、その中にいた女の子と二人で、私たちのアパートとは全く別の方向に向かって歩き出した。私は状況が理解できないまま、二人の後を付いていく。あの女め、お前は一体先生の何なんだ。
私は少し苛立った気持ちを抑えながらも、冷静さを装い歩いて行く。二人は時々、見つめ合って笑い、仲良さげだ。先生の今までの、のそのそとした歩き方ではなく、隣の女の歩幅を合わせて歩いている感じだ。たまに冗談を言って女が先生の腕に触れる。それが何度か続いたと思うと、なんと先生が女の手を握った。二人は先ほどよりも長く見つめ合うと微笑み、今度は静かに歩きだした。あの女は先生の恋人なのか。あの様子からして間違いない。二人の周りの空気だけ、甘いオーラに包まれているようだ。
しかし、恋人となると話しは別だ。先生を支えるもう一人のパートナーということになる。もちろん、もう一人は私だ。これからは、あの女性と共に先生をサポートしていくのか。私は社会で、彼女は家庭で。一人でサポートするよりは、二人の方が心強い。今度、改めてじっくりと挨拶に行こう。二人でこれからの先生のことについて話し合いたい。私と彼女も、きっと良いパートナーになれるはずだ。
私も先生の幸せが嬉しく、歩幅も軽い。時々、独自のステップを織り交ぜながら、後を追う。先生、紳士だな。そうだよな、彼女にもしものことがあったら大変だからな。私も彼女の家までお供します。
十五分ほど歩いたところで住宅街に入り、しばらくして、ある一件の家の前で二人の足取りが
止まった。私も近くの電柱に身を潜める。研究所の人間もどこかしらに身を潜めただろう。
二人は見つめ合い、別れを惜しみ合っている。うーん、いい感じだ。つい口元に笑みがこぼれてしまう。しばらく沈黙が続いた後、先生がリュックから小さな細長い箱のような物を取り出すと、彼女に差し出した。先生は頭を掻きながら、照れくさそうにしている。彼女は驚き、そっと箱を受け取ると、先生の顔を見上げた。きっと「開けてもいい?」と尋ねたのだろう。先生は頷く。彼女は受け取った箱の包み紙をていねいに外すと、ゆっくり箱を開けて中の物をていねいに取り出した。ネックレスだ。二人の真上にある街灯がネックレスを照らし、キラキラしている。先生、頑張ったじゃないか! 彼女がぴょんと跳ねて後ろを向いた。きっと「つけて」と言ったのだろう。先生は彼女からネックレスを受け取り、留め金を外そうとしているが、なかなかどうして外れない。そこで二人はまた笑い合う。今は何でも楽しい時期なのだな。今なら隕石が降って来ても二人は大爆笑するだろう。彼女が振り返り、先生の手を包むように自分の手を重ね、留め金を外した。それからまた後ろを向くと、先生が彼女の首に優しくネックレスを付けてあげる。嬉しそうにはしゃぐ彼女。二人は本当に幸せそうだ。街灯の明かりは二人にスポットライトを当てている。先生が嬉しいと私も嬉しい。研究所の人間も嬉しい。ここら一帯は今、幸せなオーラに包まれている。私はふいに流れ出た涙を、服の袖で乱暴に拭った。バカヤロー、こんなみっともない顔、先生に見られたら笑われちまうぞ。ハハ。
二人はしばらく見つめ合い、短い言葉を二、三交わすと別れた。先生は彼女が家に入るまでじっと見守る。しばらくして、二階の部屋に明かりが付いた。窓が開くと誰かが先生に手を振っている。彼女だ。先生も両手を大きく振ってそれに応える。まるで映画のワンシーンのようだ。おいおい、ここはハリウッドか。
しばらく彼女は笑顔で手を振っていたようだが、突然、首を傾げるような仕草を見せ、携帯電話を手に取ると、先生に向けてシャッターを押した。一瞬、クラッシュで目がくらむ。その後、彼女は何事もなかったように、大きく手を振ってみせた。
先生、幸せになって下さい。私はどこまでも、どこまでも先生について行き、二人をお守りいたします。
一人になった先生は、ついに私たちのアパートのある方角へ向かって歩き出した。私もまた、距離を置いてついて行く。先生はこの後まっすぐにアパートに帰るのだろうか。もしかしたらスーパーかコンビニに寄って漬物を買って帰るんじゃないだろうか。この研究は非常に危険を伴うものだ。彼女にはきっと秘密にしていることだろう。もし、彼女が知ってしまったら、彼女の命が危ない。先生、辛いでしょうが、もう少しの辛抱です。私たち二人の研究が世に発表できれば、彼女もきっと喜ぶはずです。その時は必ずや二人に、今以上の幸せが訪れることでしょう。それまでは大切な人に重大な秘密を持ってしまうことになりますが、仕方ありません。これも神に選ばれた男の運命なのです。
しかし、どこかの店に立ち寄って、研究材料を買って帰るのなら、私たち二人で選ぶべきなのではないだろうか。声を掛けようか、死ぬほど迷ったが、私の脳裏に研究所の存在が引っ掛かっていた。くそっ、アイツらさえいなければ、何の問題もなくスムーズに事が運ぶというのに。何で私の邪魔ばかりするんだ。私は声を掛けられず、くやしい思いをしながら先生の後を歩いて行く。
そんな私の煮えたぎるような想いを察してくれたのか、先生はスーパーにもコンビニにも立ち寄らずに、まっすぐアパートに向かっている。先生、すみません。気を使っていただいて、私が不甲斐ないばかりに。
アパートの近くまで来たところで、先生が急に立ち止まり、不意に空を仰ぎ見た。どうしたんだ? 私も急いで電柱の陰に隠れ、同じく仰ぎ見た。
なんて星が綺麗なんだ。まるで先生と私の未来を前倒しで祝福してくれているかのようだ。先生は今、何を思っているのだろうか。漬物の事? コーヒーの事? もしかして私の事? いや、それはまだないだろう。慌てるな私。
先生は両手を大きく広げ、めいいっぱい息を吸い込むと、時間を掛けてゆっくりと吐き出した。そしてしばらく星空を見つめると、両手をポケットに入れて、またアパートに向かって歩き出した。
私は感無量だ。先生、もうすぐ私たちの夢が叶います。もうすぐそこまで来ています。そしたら今度は二人でこの星空を見上げましょう。
私たちが思い描いた世界が、確実に作り上げられようとしていた。一大プロジェクトであったが、私一人では気の遠くなるようなものであった。だが、今、私は一人ではない。先生という大きな仲間を見つけた。夢がぐっと近づいてきた。今では私の足元まで来ているのだ。私には見える。全世界の人々の称賛を浴びながら、壇上に上がる先生と私の姿が。はっきり、くっきりと。全世界の研究者たちから切望の眼差しが向けられ、テレビが私たちを取り上げない日はない。多分、寝る暇もないくらいに多忙な日々が始まるだろう。でも仕方がない。世界中の人々が私たちのことを待っているんだ。研究者にとってこんなに幸せなことはないだろう。
プルルル
私は電話の音ではっとした。すぐにポケット探ってみたが、私は携帯電話を持っていなかった。恥ずかしくて少し笑う。私ではないということは、先生か。私は正面を歩いていた先生を見た。やはり携帯電話で誰かと話しているようだ。それから、携帯電話を耳にあてたまま、おもむろに後ろを振り返った。数メートル後ろを歩いていた私と完全に目が合った。視線が重なったまま、しばらく沈黙が流れる。私は、手を振って先生に駆け寄ろうとしたが、あまりに突然で、先生を見返すことしか出来なかった。驚きはしたが、研究所の人間に殺されるかもしれないという恐怖は全くなくなっていた。それどころか、先生がやっと私を見つけてくれたのだという喜びが溢れてきて、なんとも言えない幸福感いっぱいの想いで先生を見つめていた。
先生は携帯電話を耳にあてたまま、私を見つめ、誰かと話を続けているようだった。それから、そのまま前を向くと、何もなかったように話しながら歩き出した。小声で話しているため、私のところまでは声は聞こえない。不思議に思いながらも、私もアパートに向かう。先生はその後、一度もこちらを振り返ることはなかった。立ち止まらず、携帯電話で話しながらアパートの階段を上り、そのまま鍵を開け、自分の部屋に入って行ってしまった。
私は唇を噛みしめた。そうか、研究所の人間が私の事を連絡してきたのだな。きっとアイツらは見ず知らずの私の事を、良くは思っていないはずだ。先生に注意を促す電話を掛けてきたに違いない。しまった。先に先生に自分の野望を伝えておくべきだった。そうすれば、先生が研究所の人間に私の事を説明する際に、スムーズに進むはずだ。先生は今、研究所の人間に私の必要性を、必死に伝えようとしてくれているのだろう。先生、すみません。手間を取らせてしまって。私は改めて助手失格だな。しかし、研究所の奴らめ、私が研究所の一員になった時は覚えていろよ。私のすごさをお前らに見せつけてやる。先生の次、二番手はこの私だ。お前らに漬物の本当の味が分かってたまるか。
私は、新たな決意を胸に抱き、夜風を切りながら颯爽とアパートまでの道を歩いた。私の熱いハートには、まだ冷たい夜風が気持ちいい。それくらいの冷風じゃ私の燃えたぎる炎をくすぶることもできないがな。研究所の人間よ、この私の堂々たる姿を目に焼き付けておくがいいさ。
部屋に戻ったが、先生の事が気になり、私は再び壁に耳を押し当てて、隣の様子を伺った。微かに話し声が聞こえる。どうやら研究所の説得はまだ続いているようだ。頑張れ、先生。
「・・・はい、間違いないです」
「証拠はあります。カメラに撮ってありますので」
「はい、お待ちしています。よろしくお願いします」
そういうと先生はここの住所を告げ、通話を終えた。いや、最後に言った部屋番号は私の部屋の番号だ。間違いない、研究所の人間がついに私に会いにやってくる。この時をずっと待ちわび、覚悟していたはずだったが、いざそうなると急に落ち着かなくなり、私は部屋をうろうろし、周囲を見回した。家には座布団もない。ソファーだってないが、大丈夫だろうか。きっと長い話し合いが必要になるだろう。畳に何時間も座って耐えられるだろうか。飲み物は実験用に取って置いたコーヒーがあるから心配ない。もともと物がほとんどない部屋なので散らかるということはないから片付けの必要はない。私は軽くトイレをチェックしてから、はやる気持ちを抑え、研究所の人間の到着を待った。
一体、どのような挨拶をしたらいいのだろうか。少し威厳のある態度で出た方が良いのだろうか。それとも普通を装い、自然に対応した方が良いのだろうか。迷うな。
それに向こうは何人で私に会いに来るのだろう。部屋に直接来るのは数人でも、車の中やアパートの周辺に何十人もの人間が潜んでいる可能性が高い。先生の推薦だから間違いないとは思うが、私が軽率な行動を取ったりすると、やはり危険だ。それに私の事を良く思わない人間だってたくさんいるはずだ。私と先生の関係を羨み、急に現れたニューヒーローに嫉妬し、私の存在を疎ましく思い、命を狙ってくる人間がいたって不思議ではない。味方にそんな奴がいるとは、あまり考えたくはないが、私の立場が立場なだけに、そういう展開も視野に入れて対応しなければならないだろう。まだまだ気を抜ける日はやって来ないな。もしかすると、私の人生が終わりを迎えたときでなければ、気を抜くことが出来ないのかもしれない。
ドアを開けた時が一番危険だ。ライフルで私の心臓を狙ってくる人間がいる可能性だってある。交渉に来た人間を素早く部屋に招きいれ、すぐに扉を閉めた方がいいだろう。交渉を飲む条件に私にボディガードつけるように申し出ることにしよう。私の命は、もう私だけの物ではない。言ってみるならば、私と先生は人間国宝に値する人物なのだ。今よりもより一層、気を引き締めて生きねばならない。
しかし、非常に重大な用件が目の前に控えているにも関わらず、抑えても、抑えても笑みがこぼれ出てしまう。どうしても、白衣を着て漬物実験をしている自分の姿が浮かんできてしまう。いかん、いかん。話しをしている最中に笑ってしまっては失礼だ。冷静に、冷静に。男らしさを見せろ。私は深呼吸をした。
「ピンポーン」
きた!
落ち着けっ!
本当は飛んで行きたいところだが、自分の感情を叩き潰して、冷静に扉に歩み寄った。
しまった。ライフル対策として、胸にまな板か何かを忍ばせて置くべきだった。でも今からでは間に合わない。そんなことをしていると怪しまれてしまう。仕方無い。
「どちらさまですか」
少し声が裏返った。私が自分で思うよりも、かなり動揺しているようだ。
「・・・」
返事がない。
だいたい研究者は無口が多い。それに扉の向こうで自分たちの身元を明かすような、まぬけな行動は取らないだろう。
気の利く私は、扉の向こうの相手が全く分からない、気付いていないという、素っ気ない顔でドアをゆっくり開けた。
「すみません、警察です」
完
パラダイス銀河