水平線を掴んで

空気が澄んでいる昼のことだった。私と友達の美桜は海の砂浜に座っていた。今の季節はまだ寒かったけれど、心地の良い潮風が吹いていた。美桜は隣で何も言わずに砂をいじっていた。
「明日のいつ出発するの?」
 私は美桜に話しかけた。すると美桜は砂をいじるのをやめて空を見上げて考えた。
「結構朝早いかもなあ。六時とか」
「そっか」
少しの沈黙のあと、美桜が口を開いた。
「柊花は何学部にしたんだっけ」
「人文学部だよ」
「へえ、哲学とか?」
「別に何も考えてないよ。美桜みたいにやりたいことがあるわけじゃないしさ。大学だって実家から通えるところにしたかっただけだし」
「でも、せっかくならやりたいこととか決めておこうよ。ほら、柊花歌上手いんだから音楽とかやったらいいのに」
「まぁ、音楽はやるよ」
 私は海の方を向いた。話すことがなくなって気まずくなった。美桜とは中高と仲良くしていて、お互い何も話さなくても苦痛ではなかった。しかし、今日でお別れとなると訳が違う。私は話題を探した。そして口を開いた。
「美桜はさ、なんでカウンセラーになりたいって思ったの?」
 そう言って美桜の顔を見た。美桜は腕を組んで真剣に考えていた。
「自分でもよくわからないけど、カウンセラーにならなくちゃいけないって思ったんだよね。夢というより義務みたいな。でも義務よりもっと……うーん、なんて言えばいいんだろう?」
 美桜は唸ったあと、目を見開いて手を一回叩いた。そしてキラキラと輝く顔で私を見た。
「そうだ、使命!」
「使命? なんか急に重大だね」
「そう、重大なの! ならなくちゃダメなの、絶対に!」
 美桜は大きな声で叫んだ。どうやら何かのスイッチが入ったようだ。私たち以外に誰かいなくて良かった。
「カウンセラーになるっていうのは生まれる前から決めてて、そのカウンセラーの仕事を通して私は他の人たちを幸せにしていくの!」
 目を輝かせて言う美桜のことを少し冷めた目で見ていた。美桜は中学の時から、一人で暴走することがある。周りがどんな反応を示していようが関係なかった。私はそれをいつもどうにかしてあげたかった。今この場でも。しかし何も言葉が思いつかない。
 美桜は更に言葉を続けた。
「使命っていうんだから、すごく大変で時間もかかると思うの。でもそんなこと気にしないで、その使命だけを見て泳いでいけばきっと辿り着けるの!」
「泳ぐ? なんで泳ぐ?」
「あっち見て」
 美桜は指差した。そこにはただ、広い海があるだけだった。
「海の奥に水平線があるでしょ? その水平線って掴もうと思って泳いでも辿り着かない。でも泳いでいるうちに自分が水平線の上にいることに気づく。でも自分が目指しているところはまだ遠いから、もっと泳いでいける。私の使命はそういうものだと思うんだ!」
 私はその言葉と美桜の姿に心を動かされた。そして明確な夢を持っている美桜を少しだけ羨んだ。私も何かをしたいと思った。その何かはまだわからないけれど。
 美桜は水平線を掴むように手をぎゅっと握った。私は伸ばす勇気がなかった。

 あぁ、あんま思い出したくなかったなぁとため息を吐いた。思い出したきっかけは単純でサークルの人たちと高校時代について話していたからだ。サークルの人たちはいかに自分がすごかったかという話をした。それを聞いた後輩たちは「すごいですね」「さすがっす!」とお決まりの言葉を返している。
「柊花の高校時代はどうだったんだよ~」
 顔を真っ赤にした男友達がしゃっくりをしながら私に問いかけた。彼の周りには何本も缶ビールが散らばっている。
 私はこの話題にも加わらないようにしていた。けれど話題を振られてしまったからには何か言わなくてはならない。心の中で小さくため息を吐いた。
「何も特別なことはなかったよ。普通のJK」
 私がそう言うと、二、三人が意味もなく「うえ~い」と言い、意味もなく盛り上げた。隣にいた後輩が「さすがっす、先輩!」と言ってきた。何がさすがなのだろう。私は缶ビールを飲み干した。
部屋の中では数人がギターやピアノを弾いていた。酔っ払った様子で歌を歌っている人もいた。酒が回っているのかギターの指もピアノの指も上手く押さえられていない。鳴り響く不協和音が気持ち悪い。
辺りを見渡して新しい缶ビールを探したが、もう全て空だった。その時、部屋の扉が開いて部屋の主が帰ってきた。
「お前ら酒きたぞ!」
 演奏がピタッと止まって、皆が酒に群がり始めた。私は一本だけ缶ビールを取り、少し離れた場所で酒を飲みながらぼうっとしていた。ふと、部屋の隅を見ると前髪の長い男子が小さく座り込んでいた。私は気になってその男子の隣に行った。
「一ノ瀬君」
声をかけても返事はなかった。何かを書いているようだ。私はしゃがみ込んで、手元を見た。文章だ。詩のように見える。
「一ノ瀬君、何それ?」
「歌詞」
 一ノ瀬君は小さな声で答えた。歌詞はきちんと韻が踏まれていて、曲にしたらリズム感が良い曲になりそうだった。
「それ、自分で歌うの?」
「僕は歌えないから」
「ふーん」
 私はそう言って、一ノ瀬君の隣で酒を飲んだ。一ノ瀬君は新しい紙を取り出してまた書き出した。私は彼が何を書くのか気になって手元を覗いた。一ノ瀬君の手はしばらく動かなかったが、そのうち端正な文字で「海」と書いた。私の頭の中にあの日のことが流れた。
 その時、一ノ瀬君の手が止まった。そして私の方を向き、意を決したように口を開いた。
「あの、氷室さん。お願いが」
「そこの二人楽しんでるぅ~?」
 一ノ瀬君の言葉を遮って呂律が回っていない男友達が話しかけてきた。私は適当に返事をした。一ノ瀬君は何も返さなかった。
「おぉい、一ノ瀬ぇ。そんな縮こまってないでお前もこっち来いってぇ」
「ここで大丈夫」
一ノ瀬君は紙に向かったまま答えた。男友達は「ちょっと~」と言って酒を飲み干し、空になった缶を落とした。
「酒だって飲んでねぇじゃん! 飲んだ方が楽しいって~」
「僕、酒飲めないから。それに飲まなくても僕は楽しめる」
 部屋が少し静かになった。気まずい雰囲気が部屋を支配する。私は何故かこの気まずい雰囲気が自分のせいのような気がして焦っていた。
「……あ、そうなんだ~! さっすが~」
 男友達の顔は少し引き攣った笑みを浮かべていた。そのあと、意味もなく「うえ~い」と言いながらギターを手に取って弾き始めた。段々と騒がしくなっていった。
 私は横目で一ノ瀬君を見た。何も気にしていないように歌詞を書き始めた。私は何故か、堪えられなくなって立ち上がった。
「あの」
一ノ瀬君の声を聞こえないふりして、その家から出た。しばらく歩いても一ノ瀬君の言葉や行動が気になって仕方がなかった。どうにかしてあげたかったけれど、どうにもできなかった。その時、美桜の顔が思い浮かんだ。
「ああ、似てんのか」
 私は納得して口に出した。周りの空気を気にしないところや、それによって人が離れていくことを気に留めないこと、私がどうにかしてあげたいと思うけれど、どうにもしてあげられないところが美桜のことを思い出させた。
気が付けば、家の前にいた。私は扉を開けて家の中に入った。暖かい空気に包まれて、ほっと息を吐く。小走りする音が聞こえてくる。母は私の姿を見て、ハッとした表情をした。
「柊花。あのね」
 母の顔は嬉しそうだった。何かいいことでもあったのだろうか。
「美桜ちゃん、退院したって」
 それを聞いた時、私は何故か目眩がした。嬉しくないわけではなかった。むしろ生きていて良かった。それなのに何故か胸がざわついている。私は口を開いた。
「大学は?」
「大学? さあ、どうかしらねえ。美桜ちゃんに聞いてみたら?」
「……うん、そうする」
 果たして、聞けるのだろうか。私は階段を上がっていった。
「美桜ちゃんのお母さんが言ってたんだけど、美桜ちゃん、柊花と話したいってよー」
「わかったー」
 私は返事をして部屋の扉を閉めた。自然と舌打ちが零れた。しばらく見ていなかった美桜とのやりとりを開いた。「大学辞めちゃった」「入院することになって」。これで終わっていた。私からは何も送っていない。スマホをベッドに投げて、自分の体もベッドに投げた。
 美桜が大学を辞めたなら、美桜の「カウンセラーになって人を幸せにする」という夢は叶えられない。それなら、叶えたいものが曖昧な私には到底叶えられるわけがない。
 私はベッドに寝ころびながら、部屋の隅に立てかけられているギターケースを見た。ほとんど毎日弾いているけれど、遊びみたいなものだ。プロになんてなれるわけがない。でも、あの日の美桜の言葉に心を動かされた私は、小さな希望と夢を持ってこのギターを買った。しかし、希望を持つことは同時に絶望を覚悟することだとわかった。私はその覚悟を持つことができなかった。もしかしたら、美桜だって覚悟できていなかったかもしれない。夢を打ち砕かれた美桜の辛そうな顔は見たくない。だから美桜には会いたくない。
 私はスマホをもう一度手に取った。すると、バイブ音が鳴った。丁度開いていた画面にメッセージが届いた。私は慌てて起き上がった。
「やばい、やばい、既読つけちゃった……」
 少しぼやけていた目を擦ってメッセージを見た。美桜からだ。「柊花! 私、退院できたの!」「それでさ、明日か明後日会いたんだけど、どう?」というメッセージが届いた。会いたくないと思っていたところにこのメッセージだ。悪い意味で以心伝心しているのかもしれない。私は用事があると言って、誘いを断ろうとした。しかし、指は勝手に「明日、空いてるよ」と打っていた。私は自分に呆れた。結局、私は美桜のことをどうにかしてあげたいと思ってしまうのだ。私は打ったメッセージをそのまま送った。そして返事を待たずに横になった。
 
朝目覚めて、時計を見ると八時過ぎだった。平日でもこんな早くには起きない。きっと、昨日の夜のことを考えすぎて寝付けなかったに違いない。私はスマホの画面を見た。美桜からメッセージが届いている。「十時半に私の家に来てほしい」「車椅子だから」とあった。行くのを一瞬ためらったが、それは美桜が可哀そうだと思い、まだ眠い体を起こした。私はシャワーを浴びて、朝ご飯を軽く済ませた。そのあと、身支度をして家から出た。
美桜の車椅子姿を見たくないけれど、断ることもできない自分に少し苛立っていた。美桜はどんな顔で私を迎えるのだろうか。もし、苦しそうな笑顔を向けてきたら、私はどんな顔をすればいいんだろう。
 考えているうちに美桜の家に着いた。私はインターホンを鳴らした。思ったより早く扉が開いたからドキッとしたけれど、出てきたのは美桜のお母さんだった。
「柊花ちゃん、久しぶりね~」
「お久しぶりです」
 美桜のお母さんに挨拶をした時、家の奥からキュッというタイヤが床に擦れる音が響いた。私は緊張していた。車椅子のタイヤが見えた。
「柊花! 久しぶり!」
 美桜は変わらない笑顔で言った。私はその様子に安心したが、どこかで不安も抱いていた。美桜は車椅子を漕いで玄関まで来た。
「お母さん、私たち海まで行ってくるから」
「え?」
「ああ、そうなの。柊花ちゃんが一緒なら安心ね」
 美桜のお母さんは「いってらっしゃい」と言い、家の奥に消えていった。
「海に行くとか、聞いてないんだけど」
「あれ、言ってなかった? ごめん~」
 美桜は悪びれもなく言った。私はため息を吐いて車椅子を押し始めた。美桜はキョロキョロと辺りを見渡していた。そして「懐かしい」と呟いたりした。
私は美桜が今、どんな心境なのか気になって仕方がなかった。大学を辞めたことに対して何を思っているのか、カウンセラーへの道が閉ざされたことはどう思っているのか。もしかして、美桜はそこまでカウンセラーになりたいわけじゃないのかもしれないとも考えてしまった。それなら、あの日の言葉に感化された私の心は偽物だったのだろうか。
「柊花、海!」
「え? ああ、本当だ」
 気が付けば海がもう目の先にあった。美桜は突然、可笑しそうに声を上げて笑った。
「柊花、なんか考えてた?」
 美桜の言葉に私は答えなかった。察してほしくない時だけ察してくる。本当に空気が読めない。
「聞きたいこととかたくさんあるでしょ? そういえば入院のこと詳しく話してなかったね」
「話さなくていい。元気になったならそれでいいから」
 私はそう言って、海の近くへ寄った。美桜は「そっか」と言ったきり、何も話さなかった。海には私たち以外、誰もいなかった。あの日のことを思い出した。またあの日と同じようなことを話すような気がしていた。私は美桜に何を聞けばいいかわからなかった。美桜は変わらず笑顔だった。しかし心の内はどうなっているかわからない。
「私さー」
 美桜が軽く話し始めた。
「今、独学で心理学の勉強してるんだよね」
「え?」
「でも結構難しくって! やっぱり大学に行った方がわかりやすいなって思ったんだよね。だから全回復したらバイトして大学の入学費溜めるつもりなんだー」
 美桜は私が聞きたかったことをまとめて話してくれた。そんな状態になってまで夢を諦めない美桜に私は驚いていた。何も言葉が出ないでいた。
「柊花が聞きたかったことってこういうことでしょ?」
 その言葉にまた驚いた。記憶の中の美桜は気づいてほしいことには気づかない性格だった。私が変わったように美桜も変わっていたのだ。
 私は口を開いた。
「美桜は諦めないの?」
「諦めないよ」
「なんで? だって大学辞めちゃったし病気だって苦しかったでしょ? それにこれからリハビリとかして、バイトしてお金稼いでってやってたらどれだけ時間かかるか分かんないでしょ? 諦めたくならないの?」
「うん、ならない」
 はっきりと言った美桜の瞳は真っ直ぐ海を見つめていた。その時、私はいつでも美桜のことを「かわいそうな子」として見ていたことに気づいた。ここで美桜が「もうカウンセラーになれないね」と言って泣いてくれたら、美桜の支えになってあげられた。だけど美桜はそうならなかった。美桜は病気になった時も闘病中も今も、自分の水平線をしっかりと見ていた。私がどうにかしてあげなくても美桜は一人で夢に向かって泳いでいける。一人じゃ駄目なのは私だった。
「ずるいよ、美桜は」
 私は気づけば口にしていた。はらりと目から涙が零れ落ちる。美桜は私の顔を見て驚きもしなかった。ただ、私の背中を優しく撫でた。嗚咽が漏れる。
「私だって音楽やりたい。でも上手くできるかわかんない。途中で辞めたくなるかも。色んな人からひどいこと言われるかも。何が起こるかわかんなくて怖い。どうすればいいの? どうしたら美桜みたいになれるの?」
 泣きながら言う私に美桜は真剣な表情で考え始めた。そしてゆっくりと口を開いて話し始めた。
「私だって不安がないわけじゃない。それでも諦めないでいられたのは、自分のためじゃなくて、誰かのためを思ってたから。水平線がずっとそこにあるって信じてたから。柊花はまだ砂浜に立ってるままで泳いでもないよ。これから何が起こるかなんて誰にもわかんないけどさ、まずは誰かのために小さなことをやってこうよ。何もしてないのに諦めるのは違うよ」
 美桜は海に手を伸ばしてぐっと握った。そして楽しそうに笑った。心はまだ晴れ切っていない。でも、美桜の言葉に妙に納得したのは確かだった。私でも、誰かのために何かできるなら、私にも水平線があるなら一歩踏み出してみようかなと思えた。
 私は前を向いた。滲んだ視界の先に水平線が見える。私は手を前に出しそっと拳を握った。
 
私はまた海にいた。美桜はいない。今日はリハビリらしい。私はギターを持っていた。潮風で弦がやられてしまう心配があったが、少しなら問題ない。私は弾き語りをしながら、海を見つめていた。
「あっ」
 後ろから小さな声がした。振り返ると一ノ瀬君がいた。
「一ノ瀬君だ。どうしたの?」
「海で歌詞書こうと思って」
 一ノ瀬君はそう言ってこっちに歩いてきた。私はまた歌を歌い始めた。一ノ瀬君は私の隣で何かを迷っているような様子だった。
「あの」
 一曲終わったあと、一ノ瀬君が一枚の紙を見せた。
「僕の歌詞で歌を歌ってほしいって思って……」
 私は紙を見た。それは集まりの時に書いていた、海で始まる歌詞だった。
「氷室さんの歌声綺麗だから歌ってほしくて。集まりの時に言おうとしたら、帰っちゃって……」
 私は歌詞を読もうとして紙を手に持った時、曲名がないことに気付いた。
「これ、曲名は? 書いてないけど」
「あっ、そうだった」
 一ノ瀬君は紙にサラサラと曲名を書いて私にまた渡した。その曲名を見て、私は思わず笑った。紙には「水平線を掴んで」とあった。やっぱり美桜と一ノ瀬君は似ていた。私は一ノ瀬君のことを真っ直ぐ見つめた。
「いいよ、歌う」
 長い前髪の奥の目が輝いた。美桜に似ている。
「あのさ、曲出来上がったら一番に聞かせたい人がいるんだけどいい?」
「いいけど。氷室さんの友達?」
「うん。一ノ瀬君に似てるの」
「僕に?」
「うん。会ったらわかるよ」
私がそう言うと一ノ瀬君は不思議そうに首を傾げた。私は笑った。美桜に曲を聞かせたら、きっと驚くだろう。私は目の前にある水平線を掴むように手を握りしめた。強い潮風が吹いた。それでも目の前にある水平線は揺らぐことなく私の目の前にあった。

水平線を掴んで

水平線を掴んで

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-20

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