雨音

だからあの人は雨音が嫌いだといつも言っていた……。

色白の肌が姉の何よりの自慢だった。
ただその右腕の肘の内側に、ほんの小さな薄茶色いシミがある。それを姉は何よりも気にしていた。
女学校の調理実習で習って来たからと、家でお三時のドーナツを作っていた時のことだった。揚げ物をしている最中、運悪く油が姉の腕に跳ねた。熱いと思ったときはもう遅かったという。
「どうして長袖のブラウスを着ていなかったんだろう」
せめてちゃんと割烹着を着ていれば。
どうして面倒がってやらなかったんだろう。
姉は火傷の痕をさすりながら、繰り返しそう嘆いた。
母は庭に生えているアロエの葉の表面をむしり、中のゼリー状の果肉を姉の肌に塗った。
「それでも顔じゃなくてよかったじゃないの」
「それはそうなんだけど……」
ねえ、お母さん。このシミ本当に消えるかしら。
何度も何度も姉はそう言った。
こんなゼリーで本当に消えるのかしら。
「ちっぽけなシミひとつで大げさな。そのうち知らない間に消えてるよ」
畑仕事で真っ黒に日焼けした母は、あきれたように笑った。


けれど姉の腕のシミは消えなかった。
何事も根気が大事だからと、姉はアロエ療法を繰り返した。時には妹の私までもが動員された。
やわらかな真っ白い姉の腕が私の目の前に晒される。肘の内側に小鳥がついばんだような可愛らしい痕跡。私はむしろこのままの方が愛嬌があっていいような気もするのだが、姉はそうではなかったらしい。
「ね? 前よりも小さくなった? 薄くなってる気がするけどどうかな? ねえ、どう思う?」
「うん。そうねえ、たぶん」
「たぶんっていったいどっちよ」
「たぶん目立たなくなって来てるよ」
「適当だね。まったく信用ならないなあ」
ふくふくとした頬で困った顔をした。丸い眼鏡の奥で大きな目がいっそう大きく見えた。黒い瞳がまっすぐに私を捉え、訴えかけるように輝いていた。


やがて姉に初めての恋人ができた。
父や母の話によると、相手は近所の材木工場で働く若い人らしかった。工場が休みの日などに、姉はお弁当をふたり分作って嬉しそうに出掛けて行った。
「大丈夫なのかしら」母は少しうろたえているようだった。
「あの工場は真面目な若者が多いから、たぶん大丈夫だろう」
「いい加減な。そんなの何の保障にもなりませんよ」
父と母の口論を尻目に、私はこっそりと姉に頼んだ。
いったいどんな人なのか教えてよ。
けれど姉ははぐらかす。けして教えてくれない。それどころか次第に私と喋ること自体が、少なくなっていった。姉はよくひとりで二階の物干し台の入口に腰を下ろしていた。昼間なのにまるで夢の中にいるような、うっとりとした目付きで空を眺めていた。
小さな声で何かを口ずさんでいることもあった。たぶんその頃流行った恋の歌だろう。
腕のシミの話も、ほとんどしなくなった。
なんだかつまらなくて「たまにはやってあげるよ、アロエ療法」と声を掛けても、姉はいつも「いいよ」と素っ気なかった。
「なんでよ。暇だから塗ってあげるって」
「暇じゃないでしょ。ちゃんと学校の課題をやりなさいよ」
「そんなの後でいいから塗ってあげるって」
「前は面倒で嫌だわって言ってたくせに」
「だからたまにはって言ってるでしょ」
「いいの。かまわないで」
私が無理矢理取ろうとした腕をぐいっと自分の身に引き寄せる。その白い腕の肘の内側にはやはり小さなシミが存在していた。
けれどそれは茶色ではなくて薄いピンク色だった。
「放っておいてよ。もうどうでもいいのよ、シミなんて」
姉は真っ赤な顔をして、大事そうに自分の肘を胸元に抱えた。
罪悪感が押し寄せる。何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。私は姉から目を逸らし「ごめんなさい」と呟いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「いきなり引っ張るから痛かったわ」
「ごめんなさい……」
いつまでも俯いていると自分の目から何か熱いものが込み上げて来た。それがぽたぽたと大きな粒となって畳の上に落ちた。
「ほら、おめめから雨の雫がこぼれ落ちて来たわよ」
姉は指先を伸ばして、小さな子供にするような仕草で私の目元のそれを拭ってくれた。


その夜から雨が降り始めた。

始めはしとしとと遠慮がちに降っていた雨は、徐々に激しくなっていった。
「まるで天の底に大きな穴が空いてるみたいね」
呑気な子供だった私は、大人達の暗い顔つきの意味がまるで分かっていなかった。ただ学校に通うのが難儀だった。横殴りの雨の中ではゴム長靴や合羽などは何の役にも立たなかった。
姉もまたうかない顔をしていた。
きっと雨のせいで材木工場の恋人と会えないのが不満なのだろうと思っていた。


来る日も来る日も雨は止まなかった。
そしてその朝が来た。
明け方、ついに耐え切れず堤防が決壊したのだ。
奥山が崩れたらしいという報が来た時はもう遅かった。川の前に建っていた私の家はひとたまりもなく潰れ、押し流された。その直前、台所の土間に水が押し寄せて来るのを見て、父と母と姉と私は階段を駆け上がり、窓から隣りの大きな家の屋根に飛び移った。
4人で震えながら、自宅がバリバリと音を立てながら崩壊して行くのを見た。気が付けば、近所の人たちもいつのまにかその屋根に集まって来ていた。互いに安否を気遣い、瓦の上で身を寄せ合った。
さらに運動神経のいい姉だけが、もう一段高い別の家の屋根によじ登った。そこはいつも立派な造りを自慢していた時計屋の家屋だった。
「こっちの方が丈夫よ。みんなもこっち来て」
だけど私は足がすくんで動けなかった。
「早く、こっちへ!」
姉の言葉が終わらないうちに、鉄砲水がその家の土台を打ち砕いた。
私たちが見ている前で姉は水に流されて行った。


雨はまだしばらく降り続き、多くの犠牲を出した後でようやく止んだ。


姉の遺体はみつからなかった。
似たような若い女の遺体が岸辺に上がったという知らせを受けるたびに、父は確認に行った。川下の町、そして海に繋がる河口にも行った。そして毎回、打ちのめされた顔をして戻って来た。そのうちに父は心臓を病み、出かけることができなくなった。
「あれからもう何十日も経ってしまったんだもの。もし亡骸が出てきてももう分かりはしないわ。いっそこのまま見つからない方がいいかもしれない……」
避難所となったお寺から親戚の家を渡り歩き、やっと落ち着いた小さな借家に仮のお仏壇を作り、その前でいつも母は泣いていた。



そうだろうか。
もうそんなに、わからなくなってしまったのだろうか。

私には信じられないのだけど。
姉の身体はそれでもまだ、あの輝くような白い腕にほんの小さなシミを残してきれいなままで横たわっている気がしてならないのだけど。



あのささやかな姉妹ケンカの後で、いつまでもじめじめと泣いている私に向かって、姉は「しょうがないわね」と小さな四角い紙の箱を取り出して見せてくれた。
「お父さんとお母さんにはぜったいに内緒よ」
中には針金のように細い銀色の指輪が入っていた。
「あの人が町まで行って買ってきてくれたの」
「つまり、これが、いわゆる」
「いわゆるエンゲージリングよ」
「やだ、不良だ」
親に内緒で婚約するなんて、姉さんはとんでもないふしだら娘だ。
私がわざと大声で叫ぶとその口を慌てて姉が押えた。そして頬を紅潮させながら幸せそうに声を立てて笑った。
肘の内側のシミも同じ色に染まっていた。
恋人の口づけの痕を、何よりも姉は大切にしていた。





もう百年近くも前のできごとですよ。
父も母もとうに他界し、私も年老いました。
恋をしたり仕事を持ったり、家庭というものを作ったこともありましたが、それらはみんな遠い過去の話です。

姉という人間がかつてこの世にいたことを憶えている人は、もうほとんどいないでしょう。
家が流されてしまったので、形見の品も何もありません。写真ですら。一枚も。
私だけがここに、この胸の中に姉の思い出を仕舞い込んだまま生きてきたのです。

でも、やがてそれもまもなくおしまいになるでしょう。


最後まで聞いてくれてありがとう。


ああ、今夜も雨はやみませんね。


〈了〉

雨音

雨音

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-18

Copyrighted
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