百合の君(7)
大噛山は奥噛山の真北にあり、南の奥噛山をご神体として祀るお社が頂上にある。穂乃は御薪を落とす奥噛山ではなく、お社のある大噛山にしめ縄を奉納することになった。奥嚙山は標高も高く、御薪の転がる幹広、あるいは神酒尋と呼ばれる斜面くらいしか人工的に開かれた所はないが、大噛山にはお社に向かう石段がある。一万段とも二万段とも言われるその石段を上るのは十分にきつい仕事ではあるが、一応身重の穂乃に配慮したつもりなのだろう。
まだいくらも登らないうちに、背負ったしめ縄が穂乃の肩に食い込んでいた。もし一人だったらもう休んでいるだろう。しかし周りには最初に声をかけてくれたおばあさんをはじめ、年寄りや子供もしめ縄を背負って石段を上っている。穂乃は今まで蟻螂に甘えすぎていたことを痛感した。母親になるのだ、強くならなければ。
「この歳になると、こたえるのう」
ばあさんは膝に手を当てて石段を上った。修行者によって除かれているとはいえ、所々に苔が残っている。ばあさんはうっかり湿った苔の上に足を置いてしまい、滑った。穂乃はとっさにそれを支える。肩にかけていたしめ縄が一つ落ちた。
「ありがとう、赤ん坊がいるのに優しいのう。浪親殿が助けようとなされるわけだ」
そのような言われ方は、十日もするうちに慣れた。許すことはできないが、あの親分と呼ばれた男が慕われているのは、女たちの会話からも分かった。穂乃は落ちたしめ縄を拾って、参道の杉林を見上げた。日を覆い隠し、少し立ち止ると汗が冷えて寒かった。この杉の木を切ると死ぬ。そう教えたのは穂乃の母だった。穂乃は盗賊の村で暮らすようになって、里にいた頃を思い出すことが多くなった。里には色んな人たちがいるが、彼らは「同じ」ということが大好きで、例えば目が赤いとか、同じではない人がいるとどうしても許すことができない。それが嫌で嫌でたまらなかったのに、お腹の子が生まれたとき一緒に守ってくれる人がいるのは、心強い。
杉には無数の苔が生えている。ということは、杉は苔に栄養を取られているはずなのに、ちっとも枯れそうな様子はない。むしろ苔が多いものほど太く高く、天に向かって真っすぐに伸びている。自分のお腹にも別の命がいるが、それによって自分は弱るどころかどんどん強くなっているようだ。命とはそのようなものではないかと、穂乃は思う。
早朝に村を出て、ちょうどお昼頃にお社に着いた。こんな山の上にどうやって建てたのかと思うほど立派な装飾のついた大きな建物は、奥嚙山の神酒尋開拓の時に伐った木で神々が造ったもので、人がこの地方に住み始めた頃には既にあったらしい。穂乃は正巻川を隔てた奥噛山を眺めた。祭りの際に貴人用の席になる舞台は、元々奉納舞も行われていた場所だ。しかし、かつて神が降りて舞台から祭りをご覧になったのをきっかけに、奉納舞は一段下の内舞台で行われるようになり、舞台は貴人用の席となった。もちろん穂乃の身分ではそんな所には上がれないが、その手前からでも十分に景色が見渡せた。山の上から見ても遥かに高い。視界の全てを覆い尽くし、そのまま山に飲まれてしまいそうに感じる。山頂に続く神酒尋まで空を歩いて渡れそうだ。
そして視線を東西にやると、古実鳴国の煤又原城と八津代国の上噛島城が見える。この二国はいがみ合っていて、お互いの国境近くに城を建て度々戦をしている、とばあさん達が言っていた。蟻螂の小屋にいた時は政や戦とは無関係でいられたが、里の人たちはそのような話が大好きだ。穂乃は山上にそびえる二つの城を一望のもとに収めて、自分の運命が大きく変わってしまったことを今さらながら感じた。
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百合の君(7)