千三つ

 改札を抜けると、孝太郎は、ああ、と胸のうちで嘆息した。
 改札は高架の下である。列車の鉄輪と線路との擦れる音が頭上でけたたましい。
 二十数年ぶりである。
 変わった。
 夕に霞むビルの軒並みを見て、そう思う。
 都会になった。
  コンビニエンスストア、コーヒーショップ、牛丼、、回転寿司など、チェーン店の目立つ通りを眺めて、そう思う。
 以前はちがった。
 歩道沿いに見られたのは、引き戸の清涼飲料水冷蔵庫やアイスクリーム冷凍庫を並べた酒屋。菓子パン、缶詰、カップ麺を置くたばこ屋。軒先に週刊や月刊の漫画雑誌を積んだ書店などである。
 「部長。どこですか。」
 孝太郎は部下と四人連れで歩いている。
 本社のあるこの都会に二十数年ぶりに戻った孝太郎は、赴任のあいさつも兼ねて、担当者とともに得意先をまわったのである。
 孝太郎が営業をして歩いた当時の、町工場のほとんどがもう見られなかったのがさみしい。湾岸沿いのこの一帯には、かつて数多の町工場がひしめいていたはずだった。
 ずいぶんと変わった。
 あのころ、本社は雑居ビルの間借りだった。いまでは自社ビルを構えるまでになっている。
 変わるはずだ。
 町だけでない。人も。こころも。
 「こっちだ。」
 孝太郎は先に立って歩く。
 あいさつまわりを終え、社に戻ろうと、鉄道に乗った。かつて通勤に使っていた路線。にわかに里心がついた。以前暮らした町を見てみたい。一人で降車した、つもりだった。三人の部下も随いて来た。新しい上司への忠誠心からでは無論ない。昭和の勤め人気質は廃れて久しい。かたや寂れて久しい昭和への郷愁「昭和レトロ」はいま、「ネオ昭和」と謳って流行りなのだそうである。
 孝太郎の暮らした木造二階建てアパートのあるはずもなかった。
 当時は長屋の立て込んだ区劃であったが、さま変わりも甚だしい。十数階建てのマンションが立ち並ぶ。面影のかけらもない。郷愁は孝太郎の胸のうちにあってさえ行き場を失い、まどうのである。
 なにもかも変わってしまった。
 町だけでない。人も。こころも。
 レトロもネオもあったもんじゃない。
 (きびす)をめぐらして孝太郎は、横町に目をとめた。
 見覚えのある佇まい。
 小径の左右に並ぶ家屋が逼る。揃って屋根の低い二階建て。いずこも、()り硝子を()めた、渋茶色に滲みた木枠の引き戸。所狭しと縦横に鉢植えが並ぶ。まだ花冷えの(ころ)とあって添え木がさみしい。夏ともなれば蔓草の伝い、花も咲き、やがて実をつけ緑の(すだれ)ともなるのであろう。
 この一区劃だけは時間が止まったようである。
 ここだ。
 孝太郎は横町に入って角を折れた。さらに狭い横町の中ほどに赤い提灯が点っている。
 「寄っていこう。」
 時刻は客が集まるにはまだ早い。カウンター席に職工らしい二人きり。奥の一間しかない狭い座敷を孝太郎たちは占めた。四人の団欒(まどい)にはちょうどよい。
 「ここが部長の行きつけですか。」
 よく通った。カウンターもしくは戸口の傍らの奥まったテーブルに一人、大瓶(ビール)一本でねばったものだ。
 座敷の壁にもたれると、カウンターの向こう、斜交いに調理場が見える。包丁を手に無表情な店主(おやじ)の横顔。こまめに往き来するおかみさんの愛想はよい。昭和らしいといえば組み合わせも昭和らしい店ではある。いよいよ店も賑やかになった。
 部下たちの注文するにまかせ、語るにまかせて、孝太郎は一人、思い出をめぐらしている。
 大学を出て五年、地方勤務になるまで、町工場を営業し歩き、歩きに歩き、歩き疲れてはここに寄った。
 契約なんて一生とれない。うちひしがれていた。会社(うち)は新興の工作機械メーカー。町工場はどこも、つきあいの長い贔屓のメーカーがある。これに割って入るのは容易でない。
 鞄を型録(カタログ)でいっぱいに膨らまして、湾岸沿い一帯を北から南、東から西と一軒一軒、しらみつぶしに町工場を訪ねて歩いた。門前払いは覚悟のうえ。二度や三度でない。話を聞いてくれるまで、何度であれ通った。
 けれども契約はとれない。
 情けなくて。口惜しくて。かなしくて。
 大瓶を傾けながら、一人こころで泣いていた。
 あの日。
 「お客さん。」
 めずらしく店主が声をかけた。一人ごつかなつぶやくような小さな声。
 「千三つ、って言うんだよ。」
 千三つ。
 千軒あたってとれる仕事はようやく三つばかり。
 「むかしからね。千三つ、って言うんだよ。」
 千三つ。ならば三百三十三軒に一つ。いまだ一つとして契約のまとまらないのも道理だ。まだ三百三十三軒に至っていない。千軒には遠く及ばない。
 千三つ。
 まだまだ歩き足りない。
 思い出話は黙っているに如くない。自慢か説教にしか聞かれない。昭和の昔話(レトロ)。部下たちには余計なことだ。
 席を立つ。酔いも腹具合もちょうどよい塩梅と見た。部下たちを先に戸口の外に出す。自分が寄りたくて入った。会計は自分がもつ。
 「おかえり。」
 帳場で店主が声をかけた。あの日と同じ。一人りごつかなつぶやくような小さな声。
 「えらくなったんだね。」
 孝太郎は稲妻を見たような思いがした。内示の比でない。辞令の段でない。ありがたさに潸然とした。
 あの日と同じ。
 ここは変わっていない。
 町だけでない。人も。こころも。

千三つ

千三つ

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-14

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