『WONDER Mt.FUJI』展



 正常に作動するものであればカメラは人を選ぶことなく、シャッターが切られた瞬間を記録する機械であり続ける。けれどもここに次の一文を添えた途端、撮影行為はそれを手にして構える者の内側にレンズを光らせ、そのイメージをこそ写し取れ!と心臓の鼓動を後押しする動機となる。カメラマンという主体はこうして生まれる、すなわち
「何を、どう撮りたいか。」
という自問自答を強く、ワガママに行うことがただの記録係とはいえない、表現者を作り上げていく。
 その基底となるべき撮影者の欲望は例えば対象選択の場面で認められる偏向性となって現れたり、ユニークな撮影方法の採用という形で目に見えるものとなるのだろうが、その内容を技術的項目で裁断すること以上に意味を持つのが作品の肉となるべきイメージ、作者をも巻き添えにする世界観である。自己満足できるに止まっていたそれが、自分とは異なる感性や考え方を持った他人の目に触れる、そう想像した時に起動し始める「内なる他人の意識」が作品のコンセプトや技術だけで写真を語り尽くすことはできないという余剰を生む。恐らくは鑑賞される場面にあって当たり前のものと感じ取られるこの余剰を、制作の過程において目の前の作品に如何に宿し、育んでいくか。ここにおける判断基準の充実度と、かかる基準に基づく判断内容の妥当性がプロとアマの間に一線を引く。
 だからこそ、撮影方法に係るそれとは次元を異にするこの「どう」やってに対するアンサーがそのまま作品の強度に繋がると私は考える。試行錯誤の末にやっと見つかる(かもしれない)この答えの出し方に対する感度の高さ、発想の鋭さ、調和の落とし所をセンスとして身に付けること、その媒介項となってくれる驚きに反応「してしまう」自分となるために、表現者は外に向かって私という名の窓を開き続けなければならない。
 理想的に聞こえるこの姿は、しかしながら、例えば日本画家である速水御舟(敬称略)が自然に対して取り続けた態度そのものであった。桶の中で泳ぐ鯉の様子を観察し、絵に描いてはまた観察し、また描いては観察しというルーティンを何度も何度も繰り返し行った画家にとって、他なる存在が蠢くそこは最高の修行の場であり、己の表現技法を尽くすべきモチーフであり続けた。
 ここで紹介したい東京都写真美術館で開催中の『WONDER Mt.FUJI』展は本邦における自然の最たる存在、富士山を対象にした作品表現を国内外で名を馳せる18名の作家が参加して行うグループ展であるが、上記した文脈に乗せて振り返ると実に創造性に富む刺激的な展示会であったと評価できる。





 富士山は古くから絵画や浮世絵、文学作品に写真と様々な媒体で表現されてきた。ゆえにその威容が国民的なイメージとして知れ渡っている。それを真正面から捉えることが無意味だとは言わないが、けれども鑑賞する側のセンス・オブ・ワンダーを呼び起こすことはきっと難しい。
 なぜなら人は自分本位に生きて当然だから。目の前にある作品がどれだけの苦労で作られたか、鑑賞する側がそれを少しも想像する事なく「なんだ、そんなもんならもう知ってるよ」とすぐに飽きてそこから足早に去る、それを止める資格を誰も持たない。このことをプロが十分に知っているし、そんな作品は面白くないよねって彼らの方から積極的に口にするだろう。だって作り手である彼らも、自分自身が誰よりも驚きたくて作っているのだから。
 ゆえに関心の対象となるのはまだ誰も見たことがない富士山、私だけが気付いたと自慢げに披露したくなるその意外な一面となる。それもまた極めて自然なことなのだ。
 本展で拝見できたそれを思うままに綴れば、例えば広川泰士(敬称略)が低速度撮影で写し取った天候の動きに合わせて本邦が誇る不動の山の、果ての見えない時間軸を丁寧に表現していたし、サラ・ムーン(敬称略)といった作家たちが地に足をつけて生活する人々の風景となった富士山を断章形式で切り取り、空間的な思い出としての色合いを初心を忘れない写真家としての力強い語り口で鋭く、かつ温かく伝えていた。
 これに対して十文字美信(敬称略)の方では間接的な方法により富士山という存在を再構成するのだが、そこに認められる分析的視点が文学的な豊かさをもって見る側の目を楽しませる所がとても良かった。
 波打ち際の光景や水飛沫をあげる滝の落下、極めてミクロな雪解けの過程といった一見して富士山とは直接関係のない対象には富士山を思わせる要素(色、図形、輝き)が数多く眠っている。これらを材料にして富士山ならではのイメージを、見る側の脳内で組み立てていく時に覚える快感は私の精神を大いに刺激した。物体として展示されている作品を軽々と扱う。その堂々としたゴールラインの設定の仕方に感動したのだ。



 映像作品の方では、抽象に振り切ったかのように見えるドナータ・ベンダース(敬称略)が特筆に値する。スクリーンの向こうにあるのは二つ、富士の樹海の中で生まれた木漏れ日という現象と、真昼間に浮かぶ満月である。それらの様子の変化のあるなしが途切れることなく映し出されることで地球上で育まれる生命の手触りが柔く、優しく、表現される。それを感じ取る私たちも現に生きていて、具体的な存在であるのだから、展示空間からは決して見えない富士山と共に在る時空を生きている。そう直観する、このときに覚える具象の羽ばたきがとても詩的に感じられ、その場に流れる音楽との相性の良さもここに加わって思わずうっとりとしてしまう鑑賞時間を過ごすこととなった(ここで言及した抽象と具象の二項対立でいえば、富士山の岩肌を思わせるオブジェクトの内側に頭上から撮影した富士山の映像を流す瀧本幹也(敬称略)の作品群を並べることが可能である。しかしながら、私が思うに作者の関心は光ないしは光が生み出す現象そのものに強く向けられていて、今回の富士山のショットもその一例に過ぎない。その狙いとする所は、作者がこれまで手掛けてきた仕事ないしは作品表現と比較検討しながらでないと十全に知れない。富士山の頂を射す輝きがイメージさせる魂のような揺めきも、叩き付けられた水墨画の様な山頂の痕跡にもそれ単独で語るには勿体無いぐらいのポテンシャルを感じてしまうのだ。上記したオブジェクトの作品も全く同じで、真っ暗な空洞になっていていいはずの内側に光は満ちて『富士山』という世界がそこに流れ続けている。その生と死。存在の立ち上がり方。これらを何と総括すればいいのか、今の私には上手く説明できない。だから興味深い。非常に面白い)。



 インパクトという点でいえば、数え切れない程のミクロな写真をコラージュしてオルタナティブな富士山を会場全体のど真ん中に堂々と展示していた西野壮平(敬称略)の手になる『富士山』を挙げるべきだろうが、個人的には吉田多麻希(敬称略)によるインスタレーションを推したい。
 その作品は撮影した富士の樹海の様子を分割した紙に印刷したものである。けれどその紙の端々はわざと捲れさせられていて、何だったら、その中の一枚は壁にも貼られずに床に転がっている。ゆえに強調される紙の質感、それが元の材料となった木々をこちらに思い起こさせる。その手前に設置されたガラス張りの空間にもある動物の姿を写した紙が分割して飾られていて、剥製のような死をイメージさせる。だから総合的に感じ取ってしまう、その場の不穏な雰囲気。
 けれど、この心理的な暗がりを特徴あるライティングが払拭する。それは水面に照り返されているかのような割れ方を見せ、辺りをゆらゆらと動き、コの字型の展示空間の上部一箇所に集まってみせる。その生き生きとした輝きが、自殺の名所とも称される場所に漂いそうになる腐臭を綺麗に洗っている。
 これらの様子を一歩、二歩と引いて見れば直ちに万物が流転する環境としての富士山の様子が生々しく感じ取れる。そこにはないはずの匂いや湿り気まで想像できる。余りにも見事な空間変成。私たちの外にあり、内になる現実でもある自然として、私にとってのハイライトがそこにあったのだ。




 上記した作品以外にも創造性に満ちたイメージ表現が『WONDER Mt.FUJI』展には数多くあり、また全体的な展示構成にも目を見張る工夫が施されている。スタッフの方に足元への注意を促される程に落とされた証明、思わず「おっ!」と驚いてしまう触感的な仕掛けは自然風景を写し取る「だけじゃない」本展の趣旨に見事に沿うもので、各作家が表現する世界観にどっぷりと浸かれる手助けとなった。こういう点も含めて、本展は写真ないしは映像の本領であるイメージ表現の意義を真芯で捉えている。
 写真ってやっぱりいいなぁ、と満足した気分になれることも込みで私は本展をお勧めしたい。開催期間は来月の7月21日まで。お見逃しのないよう是非、会場へ足を運んで欲しい。

『WONDER Mt.FUJI』展

『WONDER Mt.FUJI』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-13

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