うき世、離れて

 ふと、駅まで結構かかるから不便だと彼が嘆いていた時のことを思い出した。

 築年数はおよそ五十年。四畳半。ユニットバス。狭すぎる台所。世界はそれで大体完結である。
 部屋のあちこちで洋服が詰め込まれたダンボールや購入時の紙袋などが塔のように積み上げられている。全て私に用意されたものだが、私は身体をきつく拘束されているので、自由に着ることは許されない。これらの洋服たちは彼が私でお人形遊びするためのものである。どこにそんな余裕があるというのか、一時期彼はブランド物の服ばかり買い込んで、「お姫さまみたいだねえ」とにこにこしながら私を着せ替えていた。酷く不似合いな、煌びやかな衣装に包まれる私とは対照的に、彼は洗濯を繰り返して色褪せた黒のロンTを着ていて、その弛れたえりから伸びるあまりに白く細い首を見るのがどうにも耐え難かったので、すぐにこんな馬鹿げたことはやめるよう言った。すると彼は少し傷付いたような顔をしたが、自分でも思うところがあったのか、それ以来無茶な買い物をしてくることはなかった。

 生活は困窮していた。元よりこの部屋で貧しい暮らしをしていた彼が、私一人を背負って生きていくなんて、正気の沙汰ではないのだ。さらに彼は例の洋服たちを借金してまで買っていたようで、その返済にも追われているという有様だった。
 服は全部売ってしまって、それを足しにすればいいと言ったが、彼はまた傷付けられたという顔をしながら「そうだねえ」と言うだけで行動は起こさなかった。あなたを支えたいから、私も働きに出たいのだと申し出たが、「君はそんなこと考えなくていいんだよ」と窘められた。
 何度目かの説得を試みた時である。彼はその骨ばった大きい左手で自身の顔を覆い、きつく目を閉じて、体を前後に揺すりながら「俺がそんなに頼りないか。俺じゃ駄目なのか……馬鹿にしやがって!」と次の瞬間には私の首を粗暴に掴み唾を飛ばして怒鳴りつけていた。
 そんな彼は初めて見た。私は、毎晩ただいまと疲れた顔をしながら慣れた手つきで私の拘束を解くと、マイバックから惣菜とパックのご飯を取り出し「今日はこれが半額だった」とかそういうことを言って、お味噌汁をつくって、たまにお菓子も買ってきて、それで、一口一口自身の手から私に食べさせ、それを素直に受け入れると心底嬉しそうに「おいしい?」と聞いてくるあの、とろけるような笑顔しか知らなかった。
 私はどんな顔をしていただろうか。たぶんこの世の終わりみたいな顔をしていたのだと思う。我に返った彼は号泣して、「ごめん…ほんと…どうかしてた。ごめん…ごめんね…」と呟きながら自分の頭を殴り続けていた。


 ところで幸せとはどんなもののことをいうのだろうか。
 人間、暇になるとどうしようもないことを考える。生きる資格が有るとか無いとか、今の自分は幸せか、なんて。考えること自体贅沢なのかもしれない。
 うすべったい布団の上に転がって、ただ彼の帰りを待っている。拘束されているとうまく体勢を変えられなくてつらい。蚊が耳元で飛び回っていて煩いとしても、後ろ手に縛られているので頭をぶんぶん振って凌ぐしかない。食事は晩に一度、彼が帰ってきてから。一人ではトイレにも行けないのでおむつを穿かされている。電気が止められていて扇風機すらつけられないこの蒸し暑い部屋の中、朦朧とする意識でペット用の自動給水器に顔を突っ込む。そして考える。これは、生きていないのと同じことではないだろうか。幸せとはどういうものだろうか……全く以って無意味である。

 
 寝たふりをしている私に、彼が語りかける。
「ずっと一緒にいよう。俺ちゃんと考えるから。安心して。なるべく苦しくないのにしようね。家でやるならやっぱり、首吊り?薬?どうだろう……血は見たくないなあ。手首切るとか、あんなの絶対無理。絶対痛いもん。君にそんなことできないよ…。ああ、でも、あれはいいなあ。切った後って、湯船に浸かるんでしょ?あれいいよなあ。うちの湯船狭いから、二人で浸かれないもんねえ。いいなあ、気持ちいいんだろうな……へへ」
 とても楽しそうな声だった。明日の遠足が待ち遠しくて眠れない子供みたいに。
 ようやく寝息が聞こえてきた頃、私は極めて慎重に瞼を開けた。暗闇に目が慣れるのに時間がかかる。彼の寝顔は、ごく普通だった。少しさえないかもしれないが、生真面目そうな、ごく普通の青年であった。
 なんだかうまく息ができなかった。どうやら、この青年をおかしくさせたのは私であるらしい。どうして。だって、だって私は何もしていないのに。何がいけなかった?何か不安を煽るようなことをしたか?確かにこの部屋で彼と生活を共にすることを選んだのは私だ。しかしそれは、二人で支え合って暮らしていこうと、私と彼であればそれができるであろうと、そう信じたからであって。けれど彼は私に何もしないことを望む。どうか私が、あのしなびたドアの向こうに行ってしまわないよう祈る。その為ならなんだってするのだ。

 去年の年末に決行されたそれは、結果から言うと未遂に終わった。
「メリークリスマスイブ〜のイブのイブ、くらいかな?」
 妙に機嫌のいい声で彼が台所からこたつの方へ向かってきたのでそちらに目をやると、彼は右腕に紙パックの焼酎を抱えていて、左手には錠剤のシートが大量に入ったビニール袋が握られていた。彼はいそいそとこたつに足を潜り込ませ「今日くらいいいよねえ」と言いながらいつものマグカップに焼酎を注ぐ。そしてそれを少し口に含ませると、テーブルの上にざらざらと錠剤たちを広げ、ぷちぷち取り出す作業を開始した。
「…………」
 私は上半身だけを少し起こして、しばらくそれを眺めていた。
「…………」
 そして無言のまま錠剤のシートに手を伸ばした。
 久しぶりの感触だった。薬を飲むことはあったが、そういう時は大抵彼が開けていたから。つるつるとした凹凸を指でなぞる。その間も彼は器用に薬を机に出していく。それに習い、私も指に力を込めてみる。
 ぷちっ。
 開いた。なんだ。開くのか。彼との暮らしで手の力も衰えて、開けられないかもと思ったが、さすがにそれはないか。
 ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。
 全部開けてみた。はは。
「俺がやるからいいよ?」
「でも、何かしてたいの」
「そう」
 現実感がなかったのだろうか、私はのんきだった。おかしくなったと言ってしまえばそれまでだが、それでも私は、彼と一緒に薬を開けて、ただ楽しいと、そう思った。
 彼がまた一口焼酎を飲む。
「私にもちょうだい」
「うん」彼が新しいカップを取りに立とうとする。
「いいよこれで。そんな飲めないから」
「そっか。はい」
 手渡されたマグカップからはきついアルコールの匂いがする。酒もお茶もコーヒーも、彼はこのカップで飲む。その割には綺麗だ。こういうところは几帳面なのだ。
「…おいしくな」
「はは」
「何がいいの」
「俺もあんまり分かってないよ」
 薬の開封は着々と進んでいる。
「薬この焼酎で飲むからね」
「え」
「お酒と一緒のほうが、確率あがるみたい」
「えー…私これだけで死ねそう」
 カップの中身に視線を送りながらそれを机に置くと、彼はまた笑った。
 彼の笑顔を見ると、ふわりと浮けてしまうほど心が軽やかになる。とても和やかな時間。ずっとずっと、長い間、待ち焦がれていた時間。

 ぽいぽいと口に薬を放り込んで、不味そうに酒で流し込む私を、彼はしばらくぼうっと見つめていたが、次第に落ち着きを無くし、そして酷く取り乱した様子で言った。
「や、やっぱやめよ!やめようこんなこと。出して、早く、出して」
 小刻みに震える指が口内に侵入してくる。
「――いやっ!」
「出せよ、ばか!しんじゃうだろおお」
「だってお前が!お前が…」
 お前が始めたんだろうが。言葉と共に迫り上がってきたものが全て床にぶち撒けられる。
「ゔ、ぇぇぇぇ」
 一度では止まらなかった。私は数回嘔吐を繰り返し、何も出なくなってもしばらくえづいていた。彼はその間中ずっと自身の右手の人差し指と中指を私の口の中で彷徨わせていた。
 ようやく呼吸が落ち着き、指も抜かれた。私の唾液でべっとり濡れた手で、彼は顔を覆い、いつかみたいに泣いた。嘔吐による生理的な涙が私の頬を伝う。私は四つん這いでよろよろと彼に近寄り、両手を組んで固く握り込むと、それを振り上げ、彼を殴った。
「死ねっ…死ね…!」
 泣きながら殴っていた。彼もうずくまってますます泣いた。何か言っているようだったが聞き取れなかった。
 
 目が覚めると、私はいつものように拘束された状態で布団に寝かされていて、吐瀉物で汚れたこたつ布団もカーペットも、すっかり片付けられていた。
 彼はいなかった。
 いつも通りだ。彼は仕事に行っている。私は動けない。日常。それなのに不安で息が詰まる。部屋にまだ残っているアルコールと胃液が混ざったあの臭いが、有毒なガスのように私の首をゆるゆると締め上げていく。
 沈黙する部屋に突如鍵を回す音が響いた。
「ごめん。コインランドリー行ってた」
「…仕事は?今日、休みなの?」
「うん。休みにした」
 彼は洗いたてのこたつ布団を抱きしめて笑う。
「ふかふかになったよー」
 ほどなくして彼は仕事を辞めた。それから数日家に居たが、すぐに新しい仕事に就いたようだった。詳しいことは何も教えてくれなかったが、自転車通勤から社用車での移動に変わったらしく、あと、夜に出掛けることが多くなった。しかし前より給料はいいようで、最近は「もうすぐ引っ越せる」が口癖だった。
 相変わらずスーツではなかったし、色々聞いてみてもいまいちはっきりしない答えばかりで、仕事の内容については結局何も分からずじまいだった。


 自動給水器の水が尽きた。意識が途切れ途切れで、時間の感覚があまり分からないが、辺りが真っ暗なので今は夜だ。彼が仕事に行ってから、どれくらい経っただろう。そんなには経っていないはずだ。せいぜい二日か、三日か…。でも、このままだと死んでしまうなあ。大声を出して助けを求めようか。水を飲むために口枷の類はされていない。力いっぱい叫べば、誰か気付いてくれるのかもしれない。しかしひりつく喉からは掠れた吐息が漏れるばかりだ。頭を何度も壁に打ち付けたら隣人が来てくれるだろうか。しかし、なんだかもう、そんな気力もないのだ。
 頭の中に、果てしなく白のイメージが広がる。
 窓からは雨音が聞こえている。――ずっと前に、今日みたいに雨が降った夜に、彼を駅まで迎えに行ったことがあった。その日彼は傘も合羽も持たずに家を出た。
 私を見つけた瞬間、ぱあっと目を輝かせ、ばかみたいに手を振っていたあの人の姿を、私は今でも覚えている。
 厚い雨雲で覆われた月の代わりに、白い街灯が街を照らしていて、私たちはその下を歩いた。何度もそうやって駅からこの家まで二人で歩いたし、まだ一緒に住んでいなかったとき、ここに来るために一人でその道を歩いたこともあった。
 雨が降り続く寝苦しい夏の夜、二人していつまでも起きていた時に、あなたは徐にカーテンを開け、しばらく外を眺めた後、建付けの悪い窓についた無数の雫を指でなぞって「星みたい」と言った。私は窓に近付き「ほんとだ」と言って、あなたの顔を見た。
 あの笑顔が、何故今更こんなにも鮮明に蘇るのか。
 彼は、今どこで何をしているのだろう。
 彼は一体、何を考えていたのだろう。
 はやく、早く帰ってきて。今すぐ私に教えてほしい。そしたら私もあなたに教えよう。
 この部屋で朽ちる、一人の女のことを。

うき世、離れて

うき世、離れて

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2024-06-13

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