放置【TL】 銀紙に映る

二重人格クール美青年/強面ツンデレM男子/神出鬼没能天気男子/気弱いとこ/人嫌いヒロイン

1


 悲劇は大雨の日に起こりがちだった。大雨が悲劇にするのか、はたまた、悲劇になることを雨が予知しているのか、もしくは記憶が雨に差し替えているのか。

 暑い日だったのは、ジーンズ越しのアスファルトに残る熱さで覚えている。ところが脳裏にこびりついているのは、車の前照灯が濡れててらてらと照りつける光景だった。  


 雲峰(くもみね)火花(ほのか)は包丁で俎板(まないた)を叩いていた。夏野菜が両断されていく。扇風機が前髪を撫で回して鬱陶しかった。
「ただいま、火花(ほのか)ちゃん」
 古めかしい台所の中折れ網戸が開いた。火花が開ける時は軋むほどの立て付けの悪さだというのに、いとこの波花火(はなび)が開ける時は遉(さすが)に慣れているというべきか、滑りがよかった。姫芭蕉(ひめはせを)波花火(はなび)は火花の母方のいとこである。明るい茶髪に色の白い青年で、垂れがちな目が柔和な雰囲気を与える。2つ下の大学生だ。彼は夏野菜ののった笊(ざる)を片腕に抱いていた。ここは合宿所である。すぐ傍には小規模な菜園があった。そこで採れたトマト、キュウリ、ナスが瑞々しく盛られている。
「おかえり」
 火花はいとこの顔も見ずに言った。届いていたかも定かでないほどの声量だった。彼女はジャガイモを一口大に切っている。
「暑いし休憩しよう」
「分かった」
 包丁が止まる。ついこの間まで都会の一人暮らしをしていた火花の食生活は主に自炊だった。その手捌きは、いとこが中折れ網戸を円滑に開閉するのと同様にもの慣れている。
 火花は冷凍庫からアイスをひとつ取ると部屋に戻った。何か言いかけた波花火に気付くのが、彼女は少し遅かった。

 それなりに華やいでいた都会の暮らしも苦難の就職活動の末に手にした仕事も辞めて実家に戻ってきた火花は無職であった。いとこの波花火の家が営み宿泊施設を手伝えと責付いたのは彼女の母だった。そこは主に合宿所として貸し出していた。
 家の手伝いか、居間でごろごろとテレビを観るか、インターネットの数多(あまた)の情報に浸るか、散歩をするか。特に意義のない空虚な時間だったが、かといってやることを増やすのも躊躇われた。躊躇われた、が、新たな仕事を見つけるでもなく趣味もなく、ぼんやりとする1日は火花にとって長過ぎた。
 ソーダ味が冷たく口腔に広がる。管理人室の窓際に座り込んで、網戸から外を眺める。サッカークラブの大学生たちがここから歩いて5分もしないところにあるグラウンドで体力作りに励んでいるらしいが、青々と茂る雑木林に隔てられ、その姿は見えない。ただホイッスルが聞こえるのである。昨日の夜からこの合宿所の手伝いに参加した火花は、この合宿所B棟に泊まる面々とはまだきちんと顔を合わせていない。
 しゃりりとアイスを齧る。首の固定された扇風機に見つめられながら、彼女もぼんやりと大きな白い雲をもくつかせた青空を凝らす。
「アイス、溶けてきてるよ」
 管理人室のドアが開き、波花火が入ってきた。この管理人室は6畳二間をぶち抜いている。波花火は年上の異性のいとこに気を遣ったようだが、火花は気にも留めなかった。
 年下のいとこに指摘されて火花は手首を伝うくすぐったさに気付く。
「ああ……ありがとう」
 彼女は手首に垂れたものを舐め上げた。肌にべたつきが残る。波花火に構う様子もない。沈黙が流れた。みんみんじーじーうるさいセミの喚きと扇風機の機械音ばかりである。
「地元(こっち)には、いつまで?」
 気拙(きまず)さを隠しきれていない、ぎこちなさで波花火が訊ねる。
「決まってない」
「決まってない?」
「仕事、辞めちゃったからね。アパートも引き払ってきたし」
 アイスの溶けた部分から齧る。
「そうなんだ……あ、えっと…………その……何かあったの?」
 またぎこちない様子で彼は問う。
「何かって?」
 火花はいとこを見もしなかった。扇風機でもないくせに首を左右に振る波花火を認めることもない。
「わたし先に戻るから。あの夏野菜を切って焼けばいいんでしょう?」
 立ち上がり、アイスの棒をゴミ箱へ捨てた。波花火はまだ腰を下ろしたばかりである。
「そうだけど、でも……」
 彼は腰を浮かす。
「やっておくから平気」
 姫芭蕉(ひめはせを)波花火とこうして話すのは6年ぶりである。母親と叔母、母親とこの甥はちょくちょく会っていたようだが、火花はまず地元にすらもあまり帰ってこなかった。帰ってきたとしても、いとこにわざわざ顔を見せに行く必要性を感じていなかった。互いにぎこちなく素っ気ないのは仲が悪いわけではない。
 台所に戻ると玄関から入ってくる人物に気付いた。いそいそとしている。火花は声をかけようかと迷ったが、用があれば相手から何か言うだろう。その存在が分からなかったふりをして彼女は少し離れたところを横切った。
「すみませーん。すみません」
 鮮やかなブルーのシャツが先程食べたアイスを思わせる青年が下駄箱に手を掛けながらいそいそと靴を脱いでいる。
「はい?」
 声をかけられては無視するわけにもいかなかった。彼女はあまり愛想がいいとはいえない態度で反応する。
「救急箱ありますか」
「ちょっと分からないので訊いてきます」
 彼女はすぐさま踵を返した。波花火に用件を告げる。彼は愛想よく玄関まで出てきた。火花はいとこに任せて台所に引っ込む。氷水の浮かんだ桶で冷やされた夏野菜を手に取る。張りのあるいいトマトだった。
 焼いてカレーに添えるのがいいだろう、と考えているときに後ろから2人分の足音があった。
「火花ちゃん」
 いとこに呼ばれて振り返る。波花火の横に救急箱を求めた青年が立っている。目的のものはすでにその手に提げられていた。
「B棟(ここ)で泊まってる、弥彦(やげん)流星(かける)くんです。で、あちらは、おれのいとこの雲峰(くもみね)さんです」
 火花はトマトをまた冷水に置き、身体ごと2人へ向けた。紹介されて頭を下げる。
「シューティングスターの"流星(りゅうせい)"と書いて流星(かける)です。周りから"シューちゃん"って呼ばれてます。よろしくお願いします!」
 彼は眩しいほど爽やかだった。
「どうも」
 素気無い火花の対応に波花火は微苦笑する。
「何かあったらいつでも言ってね」
 いとこが付け足して、隣の大学生を練習に帰す。
 休憩を邪魔されて疲れているのか波花火はそこに突っ立ったままである。
「火花ちゃん、変わっちゃったよね」
 よたよたと彼は隣にやってきた。その発言には躊躇と怯えが含まれている。
「そう?」
「う……うん」
「気のせいでしょ」
 波花火はまた休憩に戻るでもなく鍋に切った具材を放り込みはじめた。
「何かあったら……話してね」
「何か?」
 彼女はそれが今終えた会話の延長であることとは思わなかった。
「え、わたし、何か間違えた?」
 戸惑ってしまう火花に、気遣ったつもりの波花火も困惑する。
「違うよ。そういうんじゃなくて……都会暮らしで色々あったのかと思って……だから、その、おれ、頼りないけど、話すだけでも楽になると思うから…………」
 火花はトマトの色、キュウリの細かな凹凸、ナスの艶を確かめていた。
「別に何もないけど……」
「そ、そっか!じゃあいいんだ」
 6年も顔を合わせていなければ人は変わるであろう。火花から見た波花火もまた大きく成長した。ある種、現代の男性としては頼りない情けないと思われがちな童話に出てくる少女じみた嫋(たお)やかさは変わっていなかったけれど。
 久々の再会に彼は緊張しているに違いない。
「キュウリは塩昆布と揉めばいいかしら。ズッキーニとナスとカボチャは焼いてカレーに添える?」
「焼き浸しにしようかなって思ってるんだけど、どうかな」
「じゃあそれで」
 火花は冷蔵庫の野菜室にあるズッキーニを手に取った。いとこへ視線をくれることもなく同意を示す。
「あとモモ剥いてデザートにするから」
「うん」
 波花火が沈んだ目を泳がせていることにも彼女は気付かない。



 テレビが昼間に行われた高校野球の試合を特集している。壁付きの扇風機と床置きの扇風機がぶわーっと唸っている。スプーンが皿とぶつかり、甲高い音を立てた。火花の部屋にテーブルはなく、カホンみたいな、学校などにありがちな木製箱椅子を横倒しにして飯を食っていた。いとこは練習を終え夕食にありつく大学生たちと同席していた。彼も彼等と同年代の同性である。
「火花ちゃん」
 管理人の部屋が開く。彼女はその方を見た。風呂場の掃除は終え、洗濯物も畳んである。寝具も取り込んだ。何か不備はあったかと入ってきた波花火の言葉を待つ。
「暑いし、こっちおいでよ。みんなに紹介もしておきたいし。食べ終わったら」
「……そう。分かった」
 簡素な返事をすると彼はどこか逡巡した様子で大学生たちのいる大広間に戻る。火花は握っていたスプーンが重くなったけれども、皿に残るカレーはあと二口ほどだった。波花火の誘いを断るのは気が咎めるが、知らない大学生たちの前に出るのは億劫だった。残りのカレーを平らげて空いた皿を片付けるついでに大広間に寄った。冷房によって閉め切りになっているのが救いだった。
 ノックをして中へと入る。冷たい空気のほうがドアみたいだった。同時に一斉に視線を浴びて火花は今すぐ退室したくなってしまった。
「あ、みんな!紹介するよ」
 部屋の奥にいた波花火が隣にやってきた。
「おれのいとこで一緒にここで働いてくれる、雲峰さんだよ」
 彼女の予想と違ったのは、波花火は自己紹介させるでも、一人ひとりを紹介するわけでもなかったことだ。
「おれの姿が見当たらないときは、雲峰さんを頼ってね」
 それで終わりのようであった。火花は特に質問が飛ぶでもないところを見てとると、部屋に戻ろうと出入り口に爪先を向けた。
「はいはーい!」
 賑やかな声が静まり返っていた空間に爆ぜる。咄嗟に顧眄(こべん)した。
「お姉さん、いくつくらいなんスか~?」
 挙手しているのは少し小柄な感じのある、いかにも軽率で軟派そうな青年である。だが高校生くらいの少年と見紛う。メロンクリームソーダを思わせるケミカルなグリーンのシャツが印象的だった。
 火花は伺いを立てるみたいに波花火を瞥見する。
「わさびくん。絣(かすり)わさびくんって子」
 小声で説明を受けた。少し離れていても見える八重歯がにかりと光っている。
「あなたたちより少し上……くらい」
 絣(かすり)わさびというらしい少年みたいな、もしくはまだ未成年かも知れない、青年とも思われる奴はきょとんとしてしまった。それからワンテンポを置いてふたたび小うるさく挙手した。
「お姉さん、カレシいるんスか!」
 隣で「わさび元気すぎ」と言ったのは火花も見覚えがあった。シューティングスターがどうだのと話していた爽やかな人物である。彼も火花に注目してから苦笑する。
「すみません、変な質問しちゃって。まだまだ体力が有り余ってるみたいで。あと1人いるんですけど、こういう団欒(だんらん)は好きじゃないみたいで、いつも先に引っ込んじゃうんです」
 弥彦(やげん)流星(かける)とかいっていたのが絣わさびを宥め、そのまま1人ひとり紹介しはじめた。ところがすぐには覚えきれず、その場凌ぎでまたたくまに忘れてしまった。釣り好きの人物と、体格のいい素行不良児みたいな外見の人物がいたということを留めておくので精一杯だった。
「カヤノには会いました?」
 弥彦流星に問われ、それが何を差すのか分からないまま火花は首を振った。
「起きてるかな、あいつ。案内しますね」
 彼は火花の傍に来た。初対面同然の年上の異性に臆したふうでもなく、なかなかしっかりしている。この者に付き添われて宿泊部屋に向かった。照明は点けられていない暗い中、敷布団は取り込んだときのまま積み上げられているのが廊下から見ても白く浮かび上がっている。しかし枕が散乱していることについては火花は知らない。
「カヤノ、起きてる?まだ寝るなよ」
 爽やかな語気で彼は暗い室内へ踏み入った。
『なんだよ』
 険悪な感じの返事が聞こえた。
『新しいお手伝いさんだって。年上の女性ってカンジ。結構綺麗でかわいいよ。ぶっきらぼうで愛想無いけど』
 まさか火花本人に聞こえていると思っていなかったのだろう。弥彦流星の素直な感想は彼女にとって複雑なものであった。
『あ、そ』
『挨拶だけでもしとけよ。僕たちは食堂でもう済ませたから』
『いいよ、あとでする』
『もう連れて来ちゃったよ』
 すると暗い部屋から、ぬっと表情のない黒髪の大学生が現れた。その後ろに弥彦流星が続いてやって来る。
「清和(きよな)夏椰乃(かやの)です。わさびと違って人見知りするタイプなので、あまり悪く思わないでやってください」
 波花火式に、つまり本人はただ突っ立っているだけで紹介が終わる。
「雲峰火花です。どうぞよろしく」
 火花を紹介する波花火はこの場には居なかった。彼女は特に愛想笑いを取り繕うでもなく、ぶっきらぼうに応えた。代わりに弥彦流星がこの空気を中和するみたいに微笑を浮かべている。
「火花さんっていうんですね」
 そういうつもりはなかったが、弥彦流星を真っ直ぐ捉えると、彼はすぐさま謝った。
「すみません、気安く呼んじゃって」
「いや、別に……」
 年下の大学生の戯言である。爽やかな彼にその気もなく言われたとして嫌悪も覚えない。
「じゃあ、夏椰乃、まだこっちいるんだろ?寝るなよ。明日キツいぞ」
 清和(きよな)夏椰乃という大学生は聞いているのかいないのか、静かに暗闇に消えていく。
「じゃあ、戻りますか。暑いところに引っ張り出してきて」
「彼は大丈夫なの?」
「寒がりみたいで。ああ、でも―夏椰乃、熱中症になる前にこっち来いよな」
 部屋から気の抜けた低い返事があった。
 弥彦流星に先導されながら大広間に戻る。彼は先にドアを開けて待つという丁寧ぶりだった。
 冷たい暖簾をくぐる。またもや一斉の視線を浴び、先に弥彦流星を通すべきだと火花は後悔した。所在なく部屋の隅に控える。
「俺は先に風呂入るから」
 ぱん、と膝を叩いて、火花のいる対角線の隅のソファーから体格のいい男が立ち上がった。背が高く、肩幅が広く、胸が厚い。その堂々たる出立ちと野太い声は年上かと思われた。
「おでも、入ろ~」
 わさびもきゃらきゃら笑って大男の後についていく。さながら父ライオンについていく子ライオンだった。
 火花は親ライオンを目で追っていた。子ライオンが椅子の列の後ろを通るとき、まだ座っているミントグリーンのシャツのチームメイトの背を叩いていく。
「雲峰さん」
 火花はそのミントグリーンのシャツに呼ばれてライオン親子から意識を逸らした。
「はい」
 相手は顔を赤くしてきょろきょろと視線を泳がせた。行儀よく座っている。
「熱中症……?大丈夫?」
 その顔の赤さに火花は彼に近付いた。
「ごめんなさい、えっと……なに君だっけ」
「井守(いもり)海霧(かいん)です。だ、大丈夫です。熱中症じゃないです」
 日焼けでいくらか色の落ちた黒い短髪の毛先の下には形の良い額がある。他の面々と比べるとどこか華奢で、弥彦流星とはまた違う穏和な雰囲気だった。
「そう。気持ち悪くなったらすぐに言って」
 彼の用件を訊くのも忘れて火花は下がった。波花火に目配せすると、微苦笑を返されたが管理人室へと戻った。



 男性陣が入浴してから火花は風呂に入った。男性陣は皆、風呂に入ったものと思っていた。ライオン親子に続いて他の面々も風呂に向かったと波花火が言っていた。波花火も彼等に混ざってくるような口振りだった。脱衣所に繋がる磨りガラスが開き、火花は自分の裸身を抱いた。
「誰?」
 彼女の誰何(すいか)に入ってきた人物はどきりと肩を跳ねさせる。黒髪と日焼け痕に大きなコントラストのある身体、腰に巻かれた手拭いが一瞬で脳裏に灼きつく。磨りガラスはすぐに閉まった。
 火花は濡れた手拭いを身体に張り付けて、おそるおそる脱衣所を覗いた。いそいそと脱いだものを着ようとしているのは清和夏椰乃である。
「ごめんなさい。わたしてっきり、みんなお風呂入ったものだと……」
「別に。また出直すし」
 涼しい顔をしているが、その所作には焦りが滲んでいる。
「すぐ出るから」
 清和夏椰乃は聞こえているのかいないのか、何の反応も示さず脱衣所を出ていく。火花は済まなく思い、急いで入浴を終えた。脱衣所を出るとき、ライオン親子の父ライオンと鉢合わせた。上半身は裸である。肩幅は広く胸は厚いが腰は引き締まり、見事な逆三角形を描いている。そして胸は女体とは異なり平坦ではあるものの隆起していた。腹もまた筋肉と筋肉で溝ができている。
 彼は肩に掛けている黄色のタオルを下げた。入浴後にまたトレーニングに励んだらしい。
「っす」
 軽く会釈をされて、火花も応えた。濡れた髪を拭きながら大学生たちのいる部屋に向かう。だがロビーの給水機で水を飲む弥彦流星に会ったため、そこまで行かずに済んだ。
「清和夏椰乃くんだっけ、あの子いる?」
「いましたね」
 グレーのスウェット素材を寝間着としているらしいが、袖と裾を肘や膝まで捲っている。
「お風呂空いたって言っておいてくれるかな」
「分かりました。あはは、もしかして鉢合わせちゃいましたか」
 冬と違い、湿気の多い季節である。弥彦流星のまだ乾ききっていない髪が先程までよりも長く見え、少し幼くさせている。
「うん……まぁ。脱衣所で、ね」
「なぁんだ、そっか。びっくりしました。そういうことなら夏椰乃に伝えてきますね」
 紙コップの中身を一気に呷るとゴミ箱に放り込み、寝間着の大学生は火花に背を向けた。火花もまた清和夏椰乃のことを弥彦流星に任せて管理人室に戻る。冷房がよく効いていた。波花火はすでに布団を敷いて、その上で胡座をかいている。
「疲れたね」
 年下のいとこが話しかけた。ほとんどの仕事は彼がこなした。火花はそう疲れてはいない。
「うん……まぁ」
 髪を拭きながら布団を敷く。
「何かあったら……言ってね」
「うん」
 波花火の様子がおかしい。気拙そうであった。何かに怯えている。
「波花火さ」
「うん……?」
 彼はぎくりとした。
「何か言いたいことがあるの?正直に言ってよ。怒らないし……」
「い、いや……何もないよ」
「本当?」
「うん……本当」
 だがまだ彼は物言いたげである。
「実はここ、"デる"とか?」
 波花火は左右に首を振る。
「強いて言うなら…………、火花ちゃん、変わっちゃったねって……………」
 年上のいとこを怒らせはしまいかと、彼は狼狽えている。
「6年も経てば変わるよ、人は」
 波花火は彼女の返答に物足りなげだった。それから理解する。
「緋華(ひばな)のこと?」
 生きていれば波花火と同い年の、火花の弟である。この者の葬式を最後に波花火とは会わなかった。法事の際も理由をつけて合わなくなっていたのは、これといって彼を避けていたわけでも、火花自身に心変わりがあったわけでもない。波花火が言いづらそうにしているのを勘繰った結果、その出来事くらいしか無かったのである。まったく忘れていたことだ。6年経っている。実弟のことでも、忘れていた。
「そんなこともあったわね」
 6年。しかしその2倍には感じられた。そしてまったく、もう目の内に入りもしない実弟のことなど、その存在すらも覚えていなかった。
「でも違う。緋華は関係ないし、住む場所を変えて、職に就いて、全部捨てて帰ってくるって、結構簡単に、人間なんか変わるんじゃない。波花火も随分大きくなったじゃない。170もいかずに身長止まると思ったのに」
 波花火は俯いて、蹲(うずくま)っているように見えた。仲の良いいとこを、その実姉は忘れている。このことが衝撃的だったのかも知れない。波花火は昔から繊細だった。
「薄情でびっくりした?」
 項垂れたように年下のいとこは首を振る。だがそこには落胆が窺えて仕方がなかった。
「もうすぐお盆か」
 金をせしめるために制定されたイベントに過ぎないのだと、昔聞いたことがある。
「今年は、火花ちゃんも……?」
「そうなるね」
 飲み会が忙しい、仕事が忙しい、デートで忙しい。死んだ弟に感(かま)けて、一体何が得られるのか分からなかった。だが今年は、仕事もなく、恋人もなく、友人は置いてきた。地元の友人等に会うのも、その現状で気が引けた。
「七回忌か……」
 波花火が呟いた。故人と同い年の彼は、よく遊んでいた。母親同士、父親同士で仲が良かった。
「寝ましょうよ」
「弥彦(やげん)くんって、ちょっと緋華(ひば)ちゃんに似てるよね」
「え゛?」
 すぐには顔が浮かばなかった。
「そう……?」
「顔は似てないよ。利発な感じがさ」
 波花火はもう火花に顔を見せはしなかった。

2

 潺(せせらぎ)が聞こえた気がしたけれども、川まで出るには少し歩く。誰かが夜中に起きてシャワーを浴びているのかも知れない。
 火花(ほのか)は目が覚めてしまった。冷房が静かに息吹くほかに、規則的な寝息も聞こえる。彼女は水を飲みに管理人室から出た。台所に着く前に、前方から来る人影に脈を飛ばした。
「わぁっ!」
 相手も驚いた様子である。
「びっくりした。ごめんなさい」
「いいえ、いいえ……」
 それが誰であるのかを十分に判断できるほど火花はまだ彼等を知らない。ただ声から言って筋骨隆々とした人物ではなかったし、溌剌として落ち着きのない感じでもなかった。
「やっぱうるさかったですか?」
 そこで各々の目的に別れるものかと思われたが、相手はまだ話を続けた。
「え?」
 今のところうるささは何も感じ取れない。むしろ夜の静けさが、一緒にいる人物さえ妖しくさせた。
「食堂に使った部屋かも知れません」
 火花は首を傾げた。しかし相手には見えていないだろう。
「あ、あの……ちょっと一緒に来てもらってもいいですか……?すみません」
「分かった」
 少し言葉が震えているのは、暗闇を一人でいるのが怖いからなのか。大学生男子というものが、途端にまだまだ幼い年頃に見えてしまう。
 相手の名前が浮かんでこないまま、足音を殺して進む大学生についていく。広間に近付くと、「やめてよぉ!」「うわぁ」とそれなりに配慮しているつもりらしい喚き声が聞こえた。
 火花は眉を顰めた。前にいる大学生が扉を開け、広間に入ってすぐのスイッチを押した。ぱっと視界が拓ける。部屋の部屋の隅のソファーには、毒霧を噴射された節足動物の如くわたわたとした絣(かすり)わさびと、彼を抱き枕だとでも思っているらしいまま寝ている清和(きよな)夏椰乃(かやの)の姿があった。火花はその場で固まってしまった。
「お疲れ、わさび」
 そして火花がついてきたのは黒い短髪というすっきりした身形の割りに内向的な陰のある井守(いもり)海霧(かいん)であった。 
「もぉ、早く助けてよぉう」
 抱き付かれている力がそうとう強いらしく、引き締まってはいるが小柄な絣わさびでは振り払えないらしい。
「清和はその、夜になると甘えたで」
 見てはいけないデリケートな問題とぶつかった気になって凍りついている火花に、井守海霧は気遣わしげな微苦笑をくれる。
「で、今日の担当(イケニエ)はおでになっちゃったんス。もぉ!みんなして騙して酷いッスよぉ!」
 絣わさびは自由を赦されている足をばたつかせた。
「で、呪いのビデオは見つかったの?」
 井守海霧が茶化した様子で抱き枕を救い出す。
「なかったっスよ!ってかお姉さんに訊いたほうが早くないスか?ねぇねぇ、お姉さん!この合宿所には呪いのビデオがあるってほんとッスか?」
 絣わさびは火花の傍まで駆け寄ってきた。大きな目を輝かせている。大学生には見えないあどけなさがそこにある。ただでさえ周りと比べると小柄で、まだ垢抜けきれておらず、喋り方に迂愚な感じがある。
「え?聞いたことないけど」
 絣わさびは火花の淡々とした返答に、井守海霧を振り向いた。そのときに見えた耳の大きさも、彼を子供っぽく思わせてしまうようだ。
「言い出したのは流星(シュー)ちゃんだろ。大体、雲峰さんに失礼じゃないか。………あと、波花火さんにも」
 火花は小首を捻る。
「だってさ~、だってさ~、お姉さぁん」
「いいから、わさび。明日早いし、もう寝ようよ」 
 井守海霧はジャージに半袖シャツの裾を突っ込んだスタイルの絣わさびを引っ張った。彼等はソファーで寝ている清和夏椰乃をすっかり忘れたようである。
「夜中にすみませんでした」
 井守海霧は幼い弟と買い物にきたみたいに絣わさびを連れていこうとする。
「いいけど、あの子は?」
「寝ているし、このままで……」
「ああ、そう。じゃあ、おやすみなさい」
 一旦は火花もその場を去って、目的の水を飲むことに成功した。だがまた広間に戻ってきてしまった。運動する身体である。ソファーで寝かせておいていいのか。照明の消えた真っ暗闇を前にどうするか考えていると、またもや人影が近付いてきて慣れもせずたまげた。
「誰?」
「ぼくです。井守です」
「ああ、君か」
 先程と同じ声だった。何故戻ってきたのか分からなかったが、訊くのも面倒だった。人とのコミュニケーションは彼女にとって厄介なのである。
 広間にふたたび明かりが点く。井守海霧の傍に絣わさびはいなかった。ネイビーと白のパジャマがなかなか上品だった。彼はソファーで寝ている清和夏椰乃に用があるらしい。そう背丈の変わらない、眠っている相手を部屋に連れていく気のようだ。
「手伝おうか」
「だ、大丈夫ですよ」
 ところが井守海霧は清和夏椰乃を背負うことも担ぐこともできそうにない。火花もソファーまで行った。彼の背中に乗せるくらいのことならばできそうな気がしたのだ。
「みんなはもう寝ているの?」
「は、はい……」
「さっき一緒にいた子は?」
 からしだったかしょうがだったかいう名前だったが覚えきれていなかった。
「もう寝ました。横になったらすぐ寝ちゃうやつですから」
「そう」
 どうやって清和夏椰乃を連れていくかを考えた。彼の身体に触れようとしたとき、手と手がぶつかった。
「あ!すみません……」
 何か重大な失敗でもしたかのような謝り方に、火花は井守海霧の顔を捉えた。彼は火傷でもしたみたいに指先を抱いている。
「怪我した?」
 引っ掻いた感じはなかったが、井守海霧の様子からは、接触した箇所を痛がっているように見受けられる。
「へ、平気です!」
 だが今度は火花が平気ではいられなかった。清和夏椰乃は新しい抱き枕を見つけたのである。
「ひゃっ」
 腕を物凄い力で引っ張られ、彼女の身体は強く締め上げられた。さながら大蛇に捕まったガゼルである。
「えっ、雲峰さん!」
「ふわわ~なの。お人形さん見つけた~」
 火花は第三者の声が聞こえたことに目を見開いた。クーラーによってほぼ乾いた髪に頬擦りされている。
「誰……?」
 彼女は低い声で問う。そのときの井守海霧の顔は「やっちまった」と言わんばかりである。
「清和です。夜になると、人が変わってしまうんです」
 格闘技をかけてきているのが清和夏椰乃なのは分かっていた。ただ、まだ彼をあまり知らないなかで、このような人物だったかと疑問ばかりだった。
「いい匂いしゅりゅ~」
 舌っ足らずで媚びた喋り方で、すりすりすんすんと髪では起こっているけれども、身体はがっちりと絡みつかれている。
「痛っ、痛いよっ」
「ああ、もう!清和、やめろよ」
 井守海霧が必死になって火花に巻き付く腕を解こうとするも、清和夏椰乃の蔦(つた)や蔓(つる)じみた四肢は執拗に抱き枕へしがみつく。
「本当、ごめんなさい、チームメイトが……」
 半泣きで井守海霧は火花を救出しようとするが、清和夏椰乃の力は意識がない分強かった。
「あの、ちょっと、誰か呼んできます」
「明日早いでしょう。わたしはこのままでいいから、君ももう寝たら」
「えっ!さすがにそれは拙いです。清和もびっくりするでしょうし」
「波花火(はなび)呼んできてくれる?管理人室で寝てるから」
 井守海霧は小刻みに頷いた。それから急ぎ足で、しかし跫音を殺して広間を出ていく。
「しゅりしゅり~。うふふ」
 清和夏椰乃はまだ髪に顔を擦り寄せている。骨がみしついている。互いに合宿所に置いたシャンプーを使わず、違う匂いがぶつかり合っている。肌に合わない他人の体温は服越しにタワシで撫で回されている心地だった。少しの間耐えていると、井守海霧が波花火がを連れてやって来た。波花火は苦笑いしながら、井守海霧と二人がかりで清和夏椰乃を引き離した。
「ありがとう」
「大丈夫?」
 火花は頷いて、清和夏椰乃を腕を肩に回す井守海霧を見遣る。
「2人にして平気?」
 彼女の問いに、彼はちょろりと目を泳がせた。今は清和夏椰乃はぐったりしながらも寝ているようだが、そのうちまた近くにいる者を抱き枕にしかねない。
「送るよ、助けてもらったし」
 火花が言うと、波花火がずいと前に出た。
「それはおれがやるよ。火花(ほの)ちゃんはもう寝なよ」
 清和夏椰乃は両脇を抱えられ、部屋へと連れて行かれた。火花は管理人室へ戻る。腋や首に溜まった汗が乾いていく。完全に目が覚めてしまった。暫くして波花火が帰ってきた。入ってきた瞬間に溜め息を吐いている。
「ごめんね、明日早いのに」
「ううん。いいよ、いいよ。おれのほうこそ、先に言っておかなかったんだし」
 彼は同室にいとこがいることを思い出したらしい。疲れた顔が瞬時に切り替わる。
「火花ちゃんこそ大丈夫?どこも痛くない?」
「うん」
「何かあったら言ってね……明日も、もう今日か。よろしくね」
 火花はまた頷いた。波花火が寝るのなら合わせなければならない。彼女は頭が冴えていたが、布団に横になった。


 漣(さざなみ)を聞いた。顔も思い出せない、同年代くらいの男の水着は、よくある膝丈で、青地にハイビスカスの柄が白抜きになっている。アロハシャツを思わせるステテコパンツと見紛う。
 彼が貝殻を見せる。両手を出してそれを乞うた。大きな、ごつごつとした指が砂を帯びた貝殻を放す。左右の掌がそれを受け止めようとしたとき、世界が切り替わった。

 目が開き、藺草(いぐさ)の匂いがした。白く固い布団は、家のものではない。ぶち抜きの隣の部屋に、いとこの姿はない。時刻を確認すると、起床予定の時間を過ぎていた。彼女は手櫛で乱雑に髪を梳かすと台所に向かった。
「波花火」
 すでに着替え、エプロンを下げた波花火が振り返る。鍋の前に立っている。
「ごめん、寝坊した」
「昨晩バタバタしちゃったもんね。仕方ないよ。それより、ちゃんと寝られた?」
「うん……」
「それならよかった。ちゃんと寝ておかないと、熱中症になっちゃうから」
 怒りも呆れもせずに波花火は柔和な表情を崩さない。
「波花火は」
「おれもちゃんと寝られたよ」
「具合悪くなったら言って」
「火花ちゃんもだよ」
 人数分の玉子焼きを作り、ウィンナーを焼く。味噌汁にはごろごろと野菜が入り、出汁に使った煮干しが添えられている。ごぼうしりしりの胡麻和えは冷凍食品で、甘橙を両断したのがデザートだ。
 食事の支度が済むと、火花は管理人室でひとり飯を食った。朝から活気のある大学生たちと顔を合わせて物を食う気にはなれなかった。彼等にも気を遣わせかねない。
 テレビで夏の風情を浴びながら、細切りのきんぴらごぼうみたいなのを口に運ぶ。
 ザーーーーッ
 テレビの画面が2秒ほど、砂嵐に覆われた。白と黒、或いは視覚混色されたグレーは急性の明滅に似ている。鼓膜を掻き毟る音は耳鳴りにも似ていた。火花はぎくりとした。電波障害か、テレビの接触不良か。
『ほのちゃん』
 火花はテレビに一瞬、人が映った気がした。さらには呼ばれた気もした。振り返る。しかし誰もいない。寝不足が祟ったに違いない。
 テレビに向き直ると、砂嵐などはなかった。画面はしっかりと、猛暑に見舞われた地域と汗だくのリポーターを映している。
 甘橙を剥いているうちに、廊下が騒がしくなった。大学生たちは朝食を終えたらしい。火花は少し食うのを急いだ。波花火になんでも任せるわけにはいかない。
 飯を食い終え、自分の食器を片付けるついでに食堂代わりの広間に寄った。すでに一部の食器は片付いている。空いた皿や茶碗を持てるだけ持って台所に行くと、蛇口から水を出しているのが聞こえた。波花火はまだ火花に気付いていなかった。
「波花火」
「あ、火花ちゃん。ごはん、食べられた?」
「うん。今、食器持ってくるから。あのさ、」
 波花火は振り向いたまま、水に沈めた食器を流水に当てた。スプーンが水を弾き、繁吹を上げて彼を襲う。
「ぴゃっ!」
 波花火は奇声を上げる。エプロンが所々色を濃くした。
「濡れちゃった……」
「ごめん。変なタイミングで話しかけたね」
 火花は淡々とした態度で謝った。波花火は眉を下げたまま彼女を見る。
「火花ちゃんの謝ることじゃないよ。余所見してたのおれだし。で、何か話があるの?」
 彼は、この小さな失敗について大きく捉えていたようだ。落胆を引きずっている。あまりにもくだらない話題を振ろうとしたことが、火花は悔しくなってしまった。
「なんだったっけ。忘れちゃった。思い出したらまた言うよ。くだらないことだから」
 火花は水場に今持ってきた食器を置いた。そしてまた広間の食器を片付けに戻る。
 最初は手分けして作業していたが、広間の食器を運び終えると、波花火の洗ったものたちの水気を拭き取って、水切りに置く。こうして朝飯の片付けが終わり、波花火はアイスを勧めた。
「さっきの話、思い出した?」
 波花火は青いアイスキャンディーを舐めながら訊ねる。火花は本当に忘れかけ、その問いで思い出しはしたが、時間が経つとどうでもよくなってしまった。呪いのビデオの有無だの、幽霊が出るかなどと訊くのはばかげている。話すのも面倒になっていた。
「なんだっけな」
 火花はアイスを齧り冷蔵庫の前に居座っていたが、腰を上げていとこから逃げた。管理人室の冷房は止まっているため、網戸にして、彼女は窓辺で扇風機を点ける。アイスの表面は白ずみ、もうすぐで溶け出す。こぼす前に舐め上げた。口に入れた瞬間から液体と化す。
 少し離れたグラウンドから喧騒が聞こえる。夏朝は昼のように眩しい。網戸の向こうに見える熱帯雨林よりあるいは暑く蒸している雑木林は、上は鱗の如く照っていたが、下は色濃い陰を落とす。そこに、人影がいるように見えた。火花は二度見する。手に、ぞわりとしたものが這う。それは溶けたアイスだった。
 ドアが開いた。
 続けざまの情報に火花はぎく、と脈を飛ばす。しかし怯えることはない。その正体はいとこの波花火である。
「ちょっと裏山まで行ってくるね」
「裏山?大丈夫?外暑いけど……」
 太陽に焼かれて炙られたセミが鳴き叫び、喚き散らかしている。
「大丈夫」
「何の用?」
「裏山の祠のお供え物。やって来いって話だから」
 彼の腕には小さなメロンが抱かれていた。張りはなく、色も良さそうには見えなかった。
「わたし、ここのあれこれ分からないし、わたしが行くよ」
「え?」
 波花火は目を丸くした。
「でも、外、暑いよ」
「平気。飲み物持っていくし」
「菅笠(すげがさ)被っていく?」
「帽子持ってきてある」
 こうして波花火に心配されながら火花は裏山へと出た。熱風と鋭い日差しで、この気候のなか屋外で運動などは、虐待の沙汰になりかねないと彼女は思いながら、グラウンドの脇を通る。想像していたよりも多い人数で練習に励んでいた。
 裏山の入り口は数メートほど罅割れたアスファルトで舗装されていた。そして山道がはじまるけれど、緩やかな勾配を描き、山登りという感じではなかった。木々に反響しているからか、セミの声が風鈴に似た余韻を残し、澄んで聞こえる。
 波花火からは花束と酒の小瓶を持たされた。小ぶりとはいえメロンも持たせるのは気が引けたのであろう。出てきてしまってから、波花火は草毟りや掃除をするつもりだったのかと思い当たる。
 裏山の頂上にはすぐに着き、大きな木の根元に屋敷神みたいなのが置いてあった。汚れた皿をとりあえず逆さにして落とせるものだけ落とすと、その上に酒を注ぐ。
 祠の屋根の瓦は枝葉を擦り抜けた陽射しで白く炙られ、微かに虹を帯びている。
『あの世は暑いと云うからな』
 昔、誰かから聞いた。
「あの世は暑いけど、ここほど暑くはないと思うヨ」
 人の声はこのそう高くない山の下で威勢よく聞こえている。しかし、それはすぐ後ろで聞こえた。
 火花はぎょっとして振り返った。目が焼けそうなほど視界が白ずんでいる。そこに陽炎みたいな人影が書道用半紙の墨汁のしみみたいに突っ立っている。それを彼女は太陽のせいだと思った。だが確かに人が立っている。ヒマワリの束を抱く、同年代か、或いは少し下くらいの青年だ。何か話しかけられたのも忘れて、火花は見覚えのない人物を不躾に観察した。汗ばんで、顔が赤い。何よりも、この炎天下の猛暑の中、帽子も日傘もなく、へらへらと笑っているのが、最も怪しく、不可解で、胡散臭かった。綺麗に咲いたヒマワリは、花を納める農家であろうか。
「大丈夫?君……」
 波花火のような、人との折衝を恐れての笑みではない。奇妙な青年の汗で光る顔を莞爾(かんじ)としている。まず火花は、変質者に会ったという発想よりも、相手が暑気中(しょきあた)りを起こしているのではあるまいかと考えた。彼女はポケットに突っ込んでおいたペットボトルを差し出した。結露している。これも出先にいとこに持たされたものであるが、これは人が飲むためのものだ。
「飲んだほうがいいんじゃない?まだこれ開けてないけど。何か持ってるの?」
「いいの?でもキミハ?」
 どこか頼りなさそうな青年はキツネみたいに目元を眇めたままだ。
「わたしの家はすぐ下にあるから。もう帰るし」
 事情を話すほどの関係ではない。帰る場所で寝泊まりするところというのならば家と表現しても差し支えないだろう。
「そうなんだ。ありがとう。でも、気を付けてね」
 皿の上で酒の小瓶をよく振って、最後の一滴までよく切った。青年はペットボトルを開けようとする素振りもない。熱中症が進行し、まさか開けられないのか。
「開けられない?」
 よこせとばかりに火花は手を出した。表面の濡れたペットボトルが返ってくる。そして彼女は開栓する。そしてまた渡した。
「ありがとう。暑くって」
 呂律は回っていた。ふらついたところもない。
「早く帰ったほうがいいよ」
 火花は相手を年下と決めてかかった。もう振り返ることもなく祠を後にする。山を降りて合宿所に着いた頃には、火花は裏山の頂上で会った暑気(あつけ)に中(あ)てられたふうな変な青年のことなど忘れてしまっていた。
 波花火と晩飯の支度をして、クーラーの効いた部屋でテレビを前にひとり飯を食い、片付けが終われば風呂に入る。そうして布団の中で眠りに就くと、それを邪魔するものがあった。部屋の窓をこんこんと叩かれているのである。すでに消灯していた。ぶち抜きの隣の間には波花火が寝ているが、彼にはこの夜更けのノックは聞こえていないらしい。こんこん、こんこん、と2拍ずつ区切って、窓を叩いている。ここに泊まっている大学生たちであろうか。それか、他の棟の者が何かしらの事情でここに来ている。
「波花火」
 火花はタオルケットを被ったまま声を殺して隣の間に眠るいとこを呼んだ。叩かれている窓よりも、いとこの布団のほうが離れている。窓外に聞こえることはあっても、波花火に聞こえることはなかった。
 こんこん、こんこん、こんこん
 不審者かも知れない。火花はタオルケットを被る。窓の鍵は閉めたはずだ。合宿所の玄関も波花火が鍵を締めたはずだ。
 寝たふりをした。合理的な行動の手順などは、こういうときに思いつきもしないのだ。相手に存在を知られてはならない。そして窓を見るようなことをして不審者を認めるようなことがあってはならない。
「波花火……」
 もう一度呼んだ。
「緋華(ひばな)じゃないの?」
 波花火ではない、瑞々しく澄んだ男の声が布団の真上から降った。波花火ではない。誰か分からない。誰かは分かる。しかし有り得ない。否、ひとり、思い当たる者がいた。山の上で会った青年だ。彼は、火花の知る声をしていた。
 彼女は眦が裂けるほど目を見開いて震えた。


 雨の音で目が覚める。朝のはずだが、まだ部屋は暗かった。隣の間には波花火が行儀良く寝ている。彼は寝相がいい。
 火花は布団を這い出た。冷房が喉を嗄らして、小さく咳き込み、枕元のペットボトルを飲む。ペットボトル……彼女は飲んだ瞬間に、これを用意した覚えがないことに気付く。いいや、気の利きすぎるいとこが置いたのだ。だが栓は開いていなかったか。火花は考えないことにした。開いていたとしても、大学生たちとは冷蔵庫が別なのだ。とすれば波花火のものである。波花火の飲みかけならばそう厭悪することもない。
 そして彼女は部屋を出たとき、玄関ホールに置かれたヒマワリの花束に愕然とする。脳髄の茹でられかけた変な青年が来たのだ。火花は焦りながら玄関戸を引いた。だが開かない。内側から施錠されている。
「おはようございます」
 ぶっきらぼうな朝の挨拶があった。咄嗟に身を翻すと、そこには清和夏椰乃が立っていた。

放置【TL】 銀紙に映る

放置【TL】 銀紙に映る

都会から帰ってきた女がいとこと合宿所を手伝う話。

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更新日
登録日
2024-06-13

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