散りゆく桜の花のようにそっと15
☆
裕子さんの話を聞き終えたあと、わたしはすっかり言葉を失ってしまった。自分のなかに巨大な空白ができてしまったような感覚があった。
「・・・そんな冗談でしょ?」
と、いくらかの沈黙のあとでわたしはやっとそれだけ言った。
わたしの科白に、裕子さんはほんの少しだけ目元を微笑みの形に変えると、
「ほんとに冗談だったら良かったんですけどね」
と、寂しそうな声で言った。
裕子さんがわたしに話してくれたことによると、沢田は今から半年程前に事故に遭ってしまったということだった。そのとき、沢田は車でお客さんのもとに商品を配達に向かっていたらしいのだか、その途中でカーブを曲がりきれずに壁に正面から衝突してしまったという話だった。
幸い、どうにか一命は取り留めることはできたものの、強く頭をぶつけてしまったせいで、事故から半年が経とうとしている今でも沢田は意識不明の昏睡状態にあるということだった。
「でも、助かるんですよね?」
と、わたしは裕子さんの顔を見ると、すがるような気持ちで言った。裕子さんはわたしの問に、力なく首を左右に振った。
「今はまだなんとも言えない状態ですね」
と、裕子さんはわたしから表情を隠すように心持顔を俯けると、弱い声で言った。
「だけど、お医者さんの話だと、お兄ちゃんの意識が戻る可能性も全くないわけじゃないみたいです」
と、裕子さんはそれまで伏せていた顔をあげると、自分自身に言い聞かせるように言った。
「実際に、意識を失ってから五年とか六年が経ってから突然意識を取り戻すひともいるみたいだし」
わたしは彼女の言葉に耳を傾けながら、ここ半年程沢田から全く連絡がなかったのはそのためだったのかと変に納得していた。以前はそんなに頻繁ではないにしても、三ヶ月一度くらいの割合でメールが来ていたのに。
「もし良かったら」
と、わたしが黙って沢田のことを考えていると、裕子さんが遠慮がちな声で言った。
「わたし、これからお兄ちゃんの様子を見に病院に行こうと思ってるんですけど、一緒に行きますか?」
と、裕子さんは誘ってくれた。
わたしはぜひ一緒に連れて行ってくださいとお願いした。
☆
「俺、退院してからも、その入院してた病院に通ったんだよ」
と、沢田は話した。
「その病院で知り合った女の子に会うために。俺、入院してるあいだにその娘と結構仲良くなってさ、だから、退院してからもその娘のことが気になっちゃって」
「ってことは、沢田の方が退院するのが早かったんだ」
と、わたし感想を述べた。
「俺の病気はさっきも話したと思うけど、全然大した病気じゃなかったからね。だからあっという間に退院できたんだ」
「じゃあ逆に、女の子の方は結構重い病気だったの?」
わたしはふと気になって尋ねみた。
「彼女は心臓の病気だったんだ」
沢田はそれまでわたしの顔に向けていた眼差しを伏せて、少し小さな声で答えた。
「心臓の病気?」
と、わたしは沢田の言葉を反芻した。
沢田はわたしの言葉に黙って首を立てに動かした。
「難しい心臓の病気だった・・・心臓の弁がどうのこうのって・・・そのせいで、小さな頃からもう何度も入退院を繰り返してるって言ってた」
「・・そうなんだ」
わたしはどんなふうに言ったらいいのかわからなくてただ頷いた。
少しの沈黙があって、その沈黙のなかに、外の通りを走りすぎていく車の音や、近くの家で飼われているらしい犬の鳴き声が聞こえた。気がつくと、いつの間にか日は傾き始めていて、部屋のなかには半透明の青味かがった闇が染みこみはじめていた。
沢田は部屋のなかに広がりはじめた闇が気になったのか、それまで座っていたソファーのうえから立ち上がると、歩いていって、部屋の電気をつけた。とたんに白熱当の温かみのある光がやわらかく広がっていって、夜の最初の闇はその光のなかに音もなく吸い込まれていった。沢田は電気をつけると、また歩いて戻ってきて、もとのようにソファーに腰かけた。
「・・・彼女が本をよく読むようになったのはその病気のせいだって言ってた」
沢田はソファーのうえに腰を下ろすと言った。わたしはなんとなく明るく照らしだされた部屋のなかに向けていた視線を沢田の顔に戻した。
「心臓の病気のせいで外に出て遊んだり、激しい運動をしたりすることができなかったから、自然と本を手に取るようになったんだって」
「そっか」
と、わたしは相槌を打ちながら、病室でひとり熱心に本を読んでいる少女の姿を想像した。長い黒髪の、顔立ちの整った女の子。気の強そうな、でも、活発で明るい瞳をした女の子。
「俺、その娘に触発されて本を読むようになってから、そのうちに何か自分でも物語が書いてみたいなって思うようになったんだ」
と、沢田はわたしの顔を見ると、少し照れ臭そうに微笑んで言った。
「それでそのことを彼女に話したら、彼女がいいじゃないって、面白そうって言ってくれてさ。俺、結構単純だからそれですぐその気になっちゃって、書き始めたんだよ」
「それで早速、彼女に自分の書いた物語を見せてみたの?」
と、わたしは微笑んでからかうように尋ねてみた。
すると、沢田は苦笑いして首を振った。
「ほんとは書いたらすぐに見せるつもりだったんだけど、なにしろ、それまで小説なんて書いたことがなかったら、全然思うようにいかなくてさ」
と、沢田は口元を綻ばせていいわけするように言った。
「自分で書いた小説をあとで読み返してみると、ひどいんだよ。書いてるあいだは興奮してるからそのことに気がつかないんだけど、一日おいて読み返してみると、もう臭すぎて全然駄目でさ。物語のイメージは頭のなかにあるんだけど、それを具体的な形にすることができなくて。だから、とても自分の書いた物語なんて見せられなかった」
「でも、彼女の方は納得しなかったでしょ?」
わたしは小さく笑って言った。
「彼女は沢田の書いた物語を早く読みたがったんじゃない?」
わたしの科白に、沢田は苦笑するような笑みを口元に覗かせて頷いた。
「彼女はべつにヘタクソでもいいから読ませてくれって言ったよ」
沢田は恥ずかしそうに微笑んで言った。
「彼女は自分の身近なひとが新しく作り出した物語に興味があるみたいだった。それに実際のところ、彼女は大抵の本を読みつくしちゃってて、何でもいいから読みたいと思ってたんだと思う」
と、沢田は口元に浮かべた笑顔をそのままに弁解するように言った。
わたしは沢田の言葉に耳を傾けながら、その娘はたぶん沢田のことが好きで、だから、沢田の書いた物語を読んでみたいと思ったんじゃないか思ったが、口に出しては何も言わなかった。
「それで結局、沢田はなんとか物語を書き上げることはできたの?なんとか彼女に小説をみせてあげることはできたの?」
沢田はわたしの問に、ほんの少し表情を強張らせて曖昧な頷き方をした。沢田はそれとわからないほどの微かさで眼差しを落とした。
「・・・俺、彼女があんまり早く読まれてくれってせかすものだから、まだ途中までしか書いてない物語を彼女にみせたんだよ」
と、沢田は言った。そう言った沢田の顔にはまだ笑顔に似たものが浮かんでいたが、それはまるで花が萎れていくように徐々にその形を失いつつあった。
「そしたらどうだった?」
わたしの問に、沢田はいくらかぎこちなく口角をあげた。
「喜んでくれたよ」
と、沢田は言った。
「素人がはじめて書いたにしてはよく書けてるんじゃないって言てくれた。もしかしたらお世辞だったのかもしれないけど」
沢田はそう言ってから微苦笑した。
「でも、それですっかり俺得意になっちゃって、また続きができたらみせるよって彼女に約束したんだ。なんとか来月くらいまでは完成させてもってくるからって。でも」
と、沢田はそこで言葉を区切った。
「でも?」
わたしは続きが気になって沢田の言葉を繰り返した。沢田はわたしの問に、何秒間のあいだ黙っていた。それはわたしの問に答えることを躊躇っているようにも見えたし、何かについて思いを巡らせているようにも思えた。
「でも、続きがどうしても上手く書けなかったんだ」
と、沢田はいくらかの沈黙のあとで口を開くと言った。
「何度やり直しても、途中で止まっちゃうんだ。だから、一ヶ月たっても物語を完成させることができなくて」
言いながら当時に状況を思い出しているのか、沢田の顔には何か焦燥感にも似た表情が浮かんでいた。
「俺、その頃、二週間に一回くらいの割合でその娘が入院している病院に通ってたんだけど、あまりにも物語が進まないものだから、彼女に言ったんだよ。ごめんって。次お見舞いに来るときまでに小説を書き上げることはできなさそうだって。なんとか頑張ってみるけど、難しいかもしれないって」
「・・そう」
と、わたしはどう言ったらいいのかわからなくて、沢田の顔を見つめて相槌を打った。
「そしたら、彼女、ちょっとだけ寂しそうに微笑んで、それなら仕方ないねって言ってくれたんだ。焦らないでいいから、いい物語を書いてねって。その彼女の言葉を聞いて、俺すごく申し訳なくなっちゃってさ。ああ、彼女は俺の書く物語を楽しみに待っててくれたんだなって思って」
わたしは沢田の話に耳を傾けながら、ずっと幼い頃の思い出を思い起こしていた。父親に遊園地に連れて行ってもらえるはずだったのに、急遽父親の仕事の都合でいけなくなってしまったときのこと。
「・・・それで?沢田はやっぱり次に会うときにまでに物語を書き上げることはできなかったの?」
沢田はわたしの問に、思いつめた表情で弱く頷いた。
「・・・だから、辛かったよ」
と、沢田は言った。
「その次に彼女に会にいったとき。彼女はただ微笑んだだけで特に何も言わなかったけど、やっぱり彼女が残念そうにしてるのがわかったからね」
わたしは沢田の報告を受けて、落胆を隠そうとして無理に微笑んでいる女の子の姿を想像した。
「だから、そのとき俺、彼女に約束したんだ。次までには、次までには、必ず物語を書き上げて持ってくるからって。そしたら彼女は微笑んでうんって言った。今度会うときを楽しみにしてるって」
沢田はそこまで話すと、いくらか話し疲れたように黙った。わたしも黙っていた。ふと窓の方に視線を向けると、カーテンの隙間から夜の闇に黒く塗りつぶされた世界が覗いて見えた。沢田はわたしの方に視線を向けると、わたしの手元に置いてあるマグカップが空になっていることに気がついたようで、新しくお茶をいれようかと尋ねてきた。わたしは曖昧に微笑んで大丈夫だと答えた。
沢田はわたしの返事に頷くと、俺は自分の分を入れてくるよとどこか疲れた笑顔で言って、それまで座っていたソファーから立ち上がると、台所の方へと歩いていった。わたしはなんとなく立ち上がって歩いていく沢田の後ろ姿を目で追った。
しばらくして沢田はインスタントコーヒーをいれて戻ってくると、さっき同じようにソファーの上に腰を下ろした。そして黙ってコーヒーを一口啜った。沈黙のなかに外の通りを走りすぎていく車の音が静けさを引き立てるように響いた。
「それで?そのあとどうなったの?」
と、わたしは沢田が戻ってくると、続きが気になったので恐る恐る尋ねてみた。すると、沢田は視線をあげてわたしの顔を静かに見つめた。それから、沢田はまたすぐに眼差しを伏せると、黙ってコーヒーカップを傾けた。沢田は話しの続きを話そうかどうか迷っているように見えた。
「・・・俺、そのとき、知らなかったんだけど・・」
と、沢田はいくらかの沈黙のあとで、口を開くと言った。
「彼女はその週に手術の予定を控えてみたいなんだ」
と、沢田は言った。
「手術?」
と、わたしは沢田の言葉を小さな声で反芻した。沢田はわたしの科白に黙って頷いた。
「俺も、これはあとになって彼女のお母さんから聞いて知ったことなんだけど」
と、沢田は言いにくそうに言葉を続けた。
「あ、俺、彼女のお見舞いに行っているうちに、彼女のお母さんともだいぶ仲良くなったんだけど」
沢田はわたしの顔をちらりと見ると、付け足すように言った。
わたしはうんと相槌だけを打った。
「・・それで、彼女の心臓の病気は俺が思っていたよりもずっと進行してたみたいなんだ」
と、沢田は小さな声で話し続けた。
「彼女は俺と話すとき、全然そんなこと話してくれなかったから知らなかったんだけど、ほんとに、彼女の心臓はほんとに危険な状態になってたみたいなんだ。このまま放置しておくと、すぐ死に直結するような。だから、そんな状態をどうにかするために、彼女は今までも一番難しい手術を受けることになってたみたいで」
「それで?」
と、わたしは言った。
「手術は成功したの?」
沢田はわたしの問に、視線をあげてちらりとわたしの顔を見ると、またすぐに逃げるように視線をもとに戻した。
「手術自体はなんとか」
沢田は歯切れの悪い答えを返した。
「でも、術後の経過があまりよくなかったらしくて」
と、沢田は言葉を続けた。
「手術のあと、一度意識をとりもどした彼女はまたすぐ意識を失って、そのまま昏睡状態になっちゃったみたいなんだ」
わたしは沢田の話に何かコメントしようとしたけれど、上手く言葉がでてこなかった。
「
・・・俺、その次の週も物語を書き上げることができなくて、でも、彼女に悪いから途中まででもいいからみせようって思って彼女に会いに行ったんだけど、そしたら、彼女はテレビとか映画でしか観たことがないような呼吸器をつけて眠ってたんだ・・・俺、そのときはじめて、彼女の手術のこと、お母さんから聞いて知ったんだけど・・・それで、俺、彼女に話しかけたんだ。まだ小説、途中までしかできないけど読んでよって。面白いかどうかわかないけど、せっかく書いたからさって。でも、もちろん、彼女は何も答えてくれなくてさ」
沢田はそこまで話すと、話すべき言葉を見失ってしまったように黙った。黙って、足元のフローリングの床あたりをじっと見つめていた。
「それで、彼女はどうなったの?」
わたしは結末を聞くのが怖いような気もしたけれど、思い切って尋ねてみた。
「もちろん、なんとか助かったんでしょ?」
沢田はわたしの問にいくらかのあいだ黙っていた。黙って、当時のことを回想しているようだった。そして沈黙のあとで沢田は俯けていた顔をゆっくりと上げてわたしの顔を見ると、力無く首を振った。
「彼女はそのまま息をひきとったよ」
と、沢田は言った。深い哀しみの色素を帯びたような弱い声だった。たとえば、冬の冷たい風が空き地の枯れ草をそっと揺らしていくような。
「俺、その次の週も、彼女に会いにいくつもりでいたんだけど、でも、彼女に会いにいった日の翌日に、彼女のお母さんから電話があって、いつも娘に良くしてくれてありがとうって言われて、娘は今息をひきとったからって言われたんだ」
沢田はそう言うと、まるで哀しみを自分の内側に閉じ込めようとするように瞼を閉じた。そして何秒間のあいだそのままでいたあと、沢田は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。しばらくの沈黙があった。それはまるで沢田の友人の死そのもののように、わたしと沢田のあいだでゆっくりと重みをもって広がっていった。
「俺、自分のせいで、彼女は死なせてしまったような気がしたよ」
いくらか長い沈黙のあとで、沢田は口を開くと言った。
「もし、あのとき、俺がなんとか物語を書き上げていることができれば、そしてその物語を彼女に見せることができていれば、もしかしたら、彼女は死なずにすんだのかもしれないって、彼女は助かったのかもしれないって、そんな気がするんだ」
わたしはそんな沢田の科白に耳を傾けながら、死んでしまった沢田の友人のことを考えていた。彼女は手術を受ける直前一体どんな気持ちでいたのだろうかと思った。きっと不安だったろうし、怖かったに違いないと思った。そしてそんな彼女にとって唯一の楽しみだったのは、もしかしたら、沢田の書く物語だったのかもしれないな、と、わたしは感じた。たぶん、彼女は手術を受ける前に沢田の物語か読みたいと思っていたはすだ。そして彼女は・・・。
「でも、だからそのぶん、余計に、沢田は頑張っていい物語を書かなくちゃいけないんじゃない?」
と、わたしは少し迷ってから言った。すると、沢田は顔をあげてわたしの顔をいくら戸惑ったように見つめると、それから、
「そうだね」
と、少し哀しそうに静かに目元で微笑んで頷いた。
散りゆく桜の花のようにそっと15