Laundry
夜中の一時に、練馬のコインランドリーでひとりポツンと乾燥機をかけていた。回している間、自販機の缶コーヒーなんか飲んだりして、キッカリ三十分、ただグルグルと動く乾燥機を眺めている。
そうして無為に時間を過ごすと、軽いアラームが鳴って、乾燥機は回転を止めた。
止まった乾燥機を暫く眺めた後に、おもむろにイスから立ち上がって、フタを開けてみれば、中の洗濯物はひとつ残らず失くなってしまって、代わりに裸の女がゆったりとその内側から這い出てきた。
女は歯磨き粉みたいにその穴から現れると、恥じらいもなくその豊かな胸を張って、ただ呆然と立つ僕を見た。
「ねえ、幸せってなんだと思う?」女が言った。
そんな彼女の言葉を聞くまで、膨大な思考を巡らせていたわけだけれど、なんだかあまりにも超自然的な現象に、変に諦めがついてしまって僕は考えるのをやめた。そうして彼女の問いかけにすっかりと身を任せて、その張った若い素肌を見ながら、思ったことをそのまま呟いた。
「乾燥機から素敵な女性が出てくること?」
僕は彼女の胸を見ていた。
「あのねぇ」彼女は呆れているようだった。「そんなことがそうそうあるわけないでしょ」
「それ、君が言っちゃうんだ」
僕は改めて彼女が這い出てきた乾燥機を見たけれど、相変わらず僕の洗濯物は何処かに消えたままだった。
「そうやってさ」彼女は溜め息混じりに言った。「非日常に幸福を求めちゃうとさ、いつまでたっても現実に満足できなくなるのよね」
「そりゃ現実は辛いもの」僕はポケットに入ったタバコを探って、気持ちを落ち着かせるために口まで持ってきたけれど、ここがコインランドリーであることを思い出して言った。「好きにタバコも吸えないしね」
「いいのよ、吸っちゃえば」
彼女はそう言うとどこからか(改めて、彼女は裸でポケットなんてものはどこにもないのに)ライターを取り出して、僕の口元で火をつけた。
少し躊躇ったけれど、今更なんだか公共のルールを守るのもバカらしくて、言われるがままタバコに火をつけて、煙を深く吸った。
「これが幸せ」彼女が言った。
「公共のルールを破ることが?」
「ねえ、あんたバカなの? 文脈を読みなさいよ。それともスターウォーズを見て戦争反対とか真面目に言う奴?」
「さあ、スターウォーズ観たことないから」
彼女は呆れた顔で腕を胸の下で組んだ。下から持ち上げるみたいに。そうして足を広げて、いかにも今から説教をしますといったふうに少し顎を上げて僕の目を見た。
「いい? 幸せってのはね、ココアをお湯で割らずに牛乳でちゃんと割ること」彼女は言った。
「は?」
「いいから聞きなさいよ。それと目覚ましをかけずに夜眠ること。好きなものを食べて、好きな量を食べること。カロリーとか気にしないの。嫌な奴からの電話は出ないし、一緒に食事なんて仕事でも絶対に行かない。やりたいことに時間制限はつけない。ゲームは一日何時間とかそういうあれね。読まない本を買ったっていいし、弾けないピアノも買ったっていい。雨の日に傘を差さなくたっていいの。それとなにより洗濯物にシワを作らないこと。着るときに気づくとホント最悪だから」彼女はそこまで一息で言った。「まだまだある」と付け足した。
「まあ、言いたいことはわかったよ」僕は言った。「だいたいね」と付け足した。
「それならいいのよ」
彼女はそう言って笑った。それからこちらに背を向けると、素敵なお尻を付き出して、乾燥機の中へ戻っていった。
「君はさ、一体なんなんだろう?」彼女が乾燥機のフタを閉める前に聞いた。「また会えるかな?」
「ねえ、言ったでしょう? 非日常に幸せを求めちゃダメよ」それから彼女は顔だけを外に出して「楽しんで」と言った。それからまた中に入ってしまって、乾燥機のフタは大きな音を立てて閉まった。
乾燥機の終わりを告げるアラームで目が覚めた。時間はもう夜中の二時を過ぎた頃で、静かなコインランドリーに、客は相変わらず僕しかいない。
揺れる頭を落ち着かせると、おもむろに席を立って、乾燥機のフタを開けてみる。
中からふんわりとしたシワのない温いシャツを取り出すと、なんだか少し幸せを感じた気がした。
Laundry