月世界戦争
第一話
「発射用意。十秒前、八、七、六」
――月が綺麗ですね。
今から三百年ほど前、俗に"魔術師"と呼ばれていたとある英国語教師が、生徒に"I love you"の訳を聞かれたときに出たフレーズを小さく呟いてみる。僕と外の世界とを隔てている四方八方のガラス張りの遥か上空を眺めると、濁りのない真黒の一面にただひとつだけ、ぽっかりと白い大きな口が開いている。この白い口を綺麗だと伝えた言葉の真中に、愛する想いを込める。それはまさしく、ほんとうに魔法のようだと思う。
僕だってほんとうは、魔術師になりたかった。魔術師になって、誰にも忘れ去られないような心意をこめて世界へ放つ。そうすればきっと、ずっと誰かの記憶の中で生き続けることができる。
でも、それはどうしたって叶わぬ夢だった。喉の奥に押し込めた溜飲が、渇いた溜息となって吐き出されると、目前の視界が白く曇る。空と僕との間は、透明で頑丈なガラス窓によって隔てらているのを否が応でも突きつけられてしまった。
僕はこれから、魔法にかけられたように白く輝く口――遥かの夜空に浮かぶ天体、月を痛めつける。月を頼りにしてやってくる怪異、故郷へ還る魔術師のからだもこころも粉々に打ち砕くという、醜い大人の作戦だった。
「五、四、三、二」
かのバービケイン卿は、月へ到達するために巨大な大砲を設計した。月と地球の距離、正中する時刻、正中した月にちょうど到達する軌道、大砲の重さと材質。あらゆる条件を事細かに計算し尽くして、ついに月世界に到達した。どんなに複雑な数や数式であっても、それらが組み合わされつなぎ合わされて、月世界への憧れを現実にしてしまったのだ。
数式だって、言うなれば世界を解き明かす魔法の呪文だ。世界を理解し、よりよく発展させ、あらゆる夢や可能性を叶える。そのために魔術師は魔法を使い、人間は数式を使って計算する。たったそれだけの違いだ。それなのに、大人は数式を使って魔法を否定した。自分たちが編み出した数式こそ世界の真理であって、魔術師の魔法はただのまやかしであると、永い歴史の中で何度も怪異を迫害してきた。
対月世界特別飛攻作戦。僕は新たに発足した作戦の、名誉ある第一号らしい。怪異が蔓延る月面へ、ありったけの大砲を積んだ宇宙船を飛ばす(けれどもきっと、あらゆる銃火器でも、ミサイルでも、爆弾でも怪異は屈しないだろう)。そうしてさいごに、宇宙船が直に月へ衝突する。はたしてこれは、月に新たなクレーターでも造る作戦なのだろうか?いくら僕が地球住みの下級層であるといっても、人一人の命を散らせる意図がわからない。ただ言えるのは、バービケイン卿御用達の月へ突き刺す大砲が、文字通りとなってしまったということだ。何という卿への、魔術師への冒涜であろうか。
「一。発射!」
あらゆる思考を巡らせる刹那の十秒間が終わる。たちまち、酸素と燃料に着火する轟音が機内の空気を震わせて貫いた。なけなしの命綱で身体中を椅子に固定されていても、内からくる不思議な浮遊感に軽く持ち上げられる。かと思えば、飛攻機がぐんぐん進むたび、反抗的な重力に上から押さえつけられて潰れそうになった。
やがて、空気のない空の層に達する。片道分の燃料を頼りに燃え続ける炎の微かな音、それから酸素マスクを頼りに刻み続ける自分の呼吸以外、何も聞こえぬ静寂に包まれた。僕ひとりを乗せた小型飛攻機は、柔らかく尖った紡錘型の頭の先をただ一点の白い標的に向けて真っ直ぐ飛び続けている。僕は視線だけを管制パネルの方にちらと移した。飛攻機の内部構造については忌避していて不勉強だったので、管制パネルの複数あるメモリの意味も、もちろんボタンやレバーの操作も全くわからない。だが地上で会ったさいごの人物、おそらく司令室の一員であろう女性は、少なくとも飛攻機が飛び続けている間、メモリの針が右に左に大きく振れたり、ボタンが明滅してけたたましいブザー音が鳴ったりしなければ安心して良い、と教えてくれた。今、メモリの銀の針はどれも十一時や二時の方向と、それぞれ指す角度こそ違えど、機体が度々震えるのに合わせて微かに振れるのみだった。ボタンも正常、不吉な音の前触れもなく静寂が続く。
僕は命綱に絡め取られていた肩の力を抜いて、ただ先の方を見据えた。視界はいつしか白灰一色に染まり、ごつごつとした岩肌が見えるようになってきた。白い口はちっぽけな鉄の兵器を、僕を受け入れるように、一思いに喰べてくれる。そう思うのは都合の良いことだろうか。加速は止まらない。先発の爆弾が月に到達して、次々と弾けていく。汚れた煙で見えなくなる前に、僕は美しい膚を目にじっくりと焼き付けて、瞼を閉じた。
古き時代の魔術師さんへ。あなたのおかげで、どれだけ間近に見ても月は今夜も綺麗です。
月世界戦争