百合の君(6)
蟻螂が幼い頃、母は山菜を採りに行こうといって彼を連れ出し、そのまま置き去りにした。彼は母を恨まなかったが、ただ、言葉によって整理することを知らない心を、鬱蒼と茂る森のような闇がずっと覆い尽くしていた。彼はその時、寂しいという言葉さえ知らなかった。
そんな蟻螂に言葉を教え孤独を癒してくれたのが、穂乃だった。何年も森の中を彷徨っていた蟻螂は、その眩しさに戸惑った。そしてとっさに逃げ戻ろうとした。しかし、何かあたたかいものを感じて立ち止まった。彼女の顔は、笑っていた。十間の距離を目の前のように感じたのは、彼の尋常ならざる視力のせいだけではあるまい。
そして実際、歩み寄っていた。引きつけられていた。彼を見た人間は、みな逃げるか石を投げるかしたが、穂乃はそのどちらもしなかった。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
そういって彼女は両手を広げた。武器は何も持っていないという合図だ。少年はその仕草に母を見た。自分を抱きしめようとして手を広げている。山の中で消えてしまった母親は、少女になって戻って来た。
「私は穂乃、あなたは?」
「ギロウ」
「強そうな名前ね、素敵」
穂乃がどのような気持ちでその言葉を使ったのか分からないが、蟻螂は初めて聞く「素敵」という言葉に心躍らせた。自分を褒めてくれている。認めてくれている。この娘が言ってくれたように、自分は強くなりたい。
穂乃と会ったひと月後、蟻螂は初めて猪を仕留めた。自分に殴られて動かなくなった猛獣を見て、蟻螂は穂乃に一歩近づいたような気がした。
仕官した翌朝、人間よりは蜘蛛や虫の棲み処となっている長屋に、やや年長の男が土足で上がり込んできた。痩せていかにも弱そうで、こいつなら今の自分でも倒せると蟻螂は思った。
「赤目の山猿が向生館の門下生になるなど、殿の特別の思し召しぞ、ありがたく思え」
いきなり言ってきたが、何のことだが分からない。蟻螂はその瘦せっぽっちをじっと見ていた。期待したような反応が得られなかった男は、たじろいだようだったが、弱みを見せまいと再び声色をつくった。
「道場だ、お前に剣術を教えてやるのだ」
蟻螂は跳び上がった。ありもしない荷物を片付け、できもしない身支度をしてよろこんでついて行った。
向生館は道場ではあるが、三方を川と崖に守られた煤又原城の二の丸を兼ねている。ここで鍛錬した兵がいざとなったらそのままここで戦うのだ。そのため周りには木杭の塀が張り巡らされ、櫓には本物の見張りが立ち、裏の直角に曲がった階段の先には本丸の門が見える。
その緊迫感は、まさに蟻螂が求めるものだった。館内で飛び散る汗も、掛け声も、すべて勝利と生存という単純な目標に向かっている。
「お前が新入りか」
見ると赤い顔に真っ黒でもじゃもじゃの髪と髭を生やした固太りの男が、いやな目つきで見下ろしていた。蟻螂より三寸ほど背が高い。
「わしが師範の木怒山だ、本当に赤目の人間がこの世にいるとはな」
いきなり左腕を木刀で叩かれた。「どうした、剣を学びに来たのではないのか? そうか、山猿は木の枝しか持っとらんか、それじゃあ教えられんな」
蟻螂は案内してくれたやせっぽっちの木刀を奪って、思いきり突きを繰り出した。が、よけた木怒山に脚を打たれ蹲った。「山猿は礼儀も知らんのか」と他の門下生まで小突いてくる。若い男達のこと、冬場とはいえ蹴って来る足が臭かった。蟻螂は、正面にいた門下生を殴った。殴られた門下生は吹っ飛んで壁に激突し、なにか字の書いてある掛け軸が落ちた。
乱打がやんだ。みな梟のように首をくるくる回して顔を見合わせ、その視線は最後には最初の地点、すなわち吹っ飛んだ門下生の上に落ち着いた。彼は動かない。少し気の利いた奴が走り寄り、息を確かめる。「生きてるぞ」の一言でほっとしている奴らはもう蟻螂とやり合う気はないが、木怒山は違った。
「何やっとんじゃ!」
本気になった木怒山の剣は、目にもとまらぬ速さだった。
頭を打たれ胴を殴られ、蟻螂は再び襤褸屑になった。息だけでなく、傷口からも湯気が立っているように見える。蟻螂は考えた。なぜ目が赤くて山で育ったからというだけで、このような目に遭わせられるのだろう。人はなぜ何もしていない自分を憎み、迫害するのだろう。
もう蟻螂には誰一人目もくれない。蟻螂が来た時と同じような稽古が、何事もなかったかのように継続されている。蟻螂は真冬の寒さに失われてゆく体温を思った。
百合の君(6)