灰心➺D2転調

灰心➺D2転調

玖堂家。それは天災と呼ばれる当主を育み、異世界に繋がる水脈を押さえ、火の池の黄泉をも隠し持つ闇。
そんなところだなんて聞いてない。
あくまで常識人のお嬢が関わる、非常識な人々のいやさきからいやはてまで。

拙作の正史と、スピンオフの橘診療所シリーズの境目になる短編集です。
スピンオフの初話であるため、今後正史のD2・D3を星空文庫に掲載する場合は非公開に戻す可能性があります(現在未定)
▼「キカイなお嬢と青い雷雲」:キカイなお嬢・後日談
▼「キカイなお嬢と紅い狐」:D2➺竜の仔の王・挿話
▼「灰心」:D2⇋橘診療所シリーズ分岐

update:2024.6.26 D2外伝

序曲:キカイなお嬢と青い雷雲

 
 玖堂(くどう)華柰。時の闇に架かる玖堂家の後の女主人(ミストレス)の、波乱に満ちた高校生活が幕を開ける。
 これはその、ささやかな一端。

 玖堂華奈(かな)が、高校から編入してきた二人に、校内を案内している時のことだった。
「ところでこの学校ってさあ。番長とかクイーンっていたりしねーの?」
 は? と、図書室の前で立ち止まった。高校からは下ろした長い黒髪をなびかせ、ブレザー型制服の学級委員長の華奈は怪訝に見返す。
 編入生の男女の内、一般的な爽やか系男子が、短い黒髪に珍しい緑の眼で楽しげに華奈を見つめていた。
「ええと……涼樹(すずき)君は、何を仰りたいのかしら?」
「え? 何って、言葉通りの意味だけどな?」
 意味がわからなかった華奈に、編入生も首を傾げる。

 もう一人の編入生、杉浦(くう)という茶髪を一つ括りにした眼鏡女子は、改めて説明した。
「涼樹(アキラ)様の仰るところによるとー、こうしたエスカレート式の学校には~、陰で生徒を取り仕切る実力者がいるということらしいですー」
 淡々と喋りながら、語尾を伸ばす口調の眼鏡女子に、華奈は呆れたように息をつく。
「バカバカしい、そんな話、聞いたことなくてよ。涼樹君はTVや漫画の見過ぎではなくて?」
「えー。でもこんな生粋のお嬢様が目の前にいるんなら、女神や天使がいたって不思議じゃないしさぁー」
「あのねぇ、そもそも貴方、貴方の中で令嬢と女神が同じカテゴリなのは、どういう――

 そこで更に、編入生の妄想を華奈が叩き切ろうとした時。
「――いるぜ。うちのガッコには、お嬢と帝王と魔王と女王が」
 がらりと、図書室の扉を開けて出てきた、金髪にピアスと指輪のどう見ても不良な男子生徒。
 露骨に嫌な顔をする華奈にも構わず、そんな戯言(たわごと)を言い切っていたのだった。


 あっはははは!
 不良の言を昼休みに、華奈から伝えられた「帝王」こと帝御(みかみ)那王(なお)は、六人で円形に座る屋上でお腹を抱え、笑い転げていた。
「やっぱし春日(かすが)、最高ー! そっか、俺、帝王かぁ。うちの気張り過ぎな名前も捨てたもんじゃないなぁ」
「あのねぇ、ミカミ君……そんな痛ましい仇名に喜ばないでちょうだい」
 巨大多国籍企業の後取り娘、生粋のお嬢様である玖堂華奈の、高校生活は始まったばかりだ。と言っても人間関係は中学校をかなり引きずっている。
「でも帝王は俺、お嬢様は玖堂さんとして、魔王と女王って?」
 なので、中学卒業直前に告白され、めでたく両思いとなった彼氏のナオと昼食をとるのは、当然のことではあったが。

 後四人、そこにいる面々は、女子陣をのぞいて特別一緒に昼食をとりたい相手ではなかった。
「そうそう、それ、おれもききてーし! 何でその後ダンマリなんだ? 春日」
 この話題の発端になった編入生のアキラは、穏やかだが陽気なノリの持ち主で、早くもこの場に馴染んでいる。
「……そーだなァ。魔王はオレだけど、女王をずっと、選びかねてんだよなァ」
 すかした調子なのは、ナオが崇拝する男子だ。華奈は天敵認定している不良は、アキラとナオに囲まれて意味ありげにニヤニヤとしている。

 そんな男子陣から少し離れて並んで座り、華奈の方を向いているのが眼鏡女子の編入生杉浦と、中学の終盤で転校してきた不機嫌娘、長い黒髪で稀少な青い目の竜牙(たつき)雷夢(らいむ)だった。
「……アホらし。アイツ、自分は魔王ってまだ言ってやがんの」
「まだということはー……以前からそう仰ってたのですかー?」
 炭酸飲料をストローで飲みながら、雷夢がこくりと杉浦に頷く。そのやりとりに改めて華奈は溜め息をついた。

「召使ちゃんも、アイツには関わらない方がいーし。バカがうつる」
「ちょっと竜牙さん。それはあたくしが言おうと思ってたのよ」
 杉浦を召使と呼んだ雷夢は、その眼鏡女子が華奈に始終付き従う姿を見て、そう呼ぶようになった。
「それと、杉浦を召使と呼ばないで下さる? あくまでこのコは、ただの編入生なんだから」
 本当は杉浦は、華奈自らが製作した人間型の機械だ。華奈の専属召使である正体を知られたくないので、そうして言葉を濁すしかない。

 華奈の歯切れの悪さに、不敵に笑って華奈を見る雷夢は、出会った頃から何処か人を見透かすような敏さを持っている。生来の鋭い目付きが、ともすればヤンキーにも見える美形だ。
「お嬢様ー……竜牙様ー……」
 華奈も大和撫子を自負しているが、雷夢とは黒く長い髪が被る。ぱっちり目で可愛い系の華奈に対して、まさに美形と言える雷夢にはいくらかのライバル心があった。
 そうして、雷夢の挑戦的な視線に半ば睨み合っていると、杉浦が困ったような声色を醸し出した。

 それを傍から見ていた不良は、華奈と雷夢を指差すと、両隣のナオとアキラに言い放った。
「あのどっちかが、女王でいーんだけどよ」
 華奈も雷夢も、不良のそんな戯言は聴く耳を持っていなかったが、
「オレがミカミをやるとしたら、女王くらいでなきゃ認められねーなァ」
「――はい?」
「……はぁ?」
 続いた言葉に、揃って不良を振り返ることになった。

 不良の唐突な発言に、ナオが最初ににこにこと反応した。
「えー。それ、どういう意味だよ、春日?」
「だって、ミカミはオレのオモチャだからな。生半可な女には渡せねーし」
 無邪気に笑うナオとは対称的に、不良はしれっと意地悪く笑い、その横でアキラがおおお、と焦る。
「か、春日……オマエとミカミって、もしかして……」
「ちょっと涼樹君! あたくしの彼氏に変な想像しないで下さる!?」
 アキラに掴みかかる華奈に、不良は横からぽん、と肩を叩いてくる無礼ぶり。肝心のナオは状況をわかっておらず、冗談と思っているのかずっとにこにこしている。
「ダメだぜ、お嬢様フゼイにオレの帝王はやれねーなァ。そうだな、少なくとも竜牙ちゃんくらいの女になってもらわねーと」
「……何ですって?」
「――は?」

 そして不良は、険しい顔の華奈と鬱陶しそうな雷夢の二人の肩に、一つずつ手を置き――
 宿命のライバルたる二人の関係を決定付ける、悪魔の(ささや)きを行っていた。

「竜牙ちゃんを上回るくらいイイ女になれば、お嬢とミカミの交際を認めてやるよ」
「……は、い……!?」
 華奈の中で、いつかのような制御不能スイッチが入った瞬間だった。
「別にあたくし達、アナタなんかに認めてもらう必要はなくってよ!!」
 そう口にしながらも、華奈は内心の動揺を抑えられなかった。
――あたくし……竜牙さんの下だと見られてる……!?

 不良は華奈だけでなく、日頃から何事にも動じない傍観者の雷夢までを、そこで巻き込んでいた。
「それまでは竜牙ちゃん。ミカミで良ければ、好きに使えよ」
「……はぁ?」
 怪訝そうな顔の雷夢。しかし珍しく、不良を見返していた。
「……女王なら、ミカミをパシっていいわけ?」
「って、竜牙さんん!?」
 それは紛れも無く、その提案は雷夢には魅力があることを示す。そんな珍事態を悟った華奈は、瞬時に沸騰する。

 最後の駄目押しは、他ならぬ天命トラブルメーカーの地雷踏みだった。
「あははは。春日、いつも竜牙さんのこと心配してるもんなぁ。俺にできることがあったら竜牙さん、遠慮なく言ってよ」
 雷夢は転校してまだ一年もたたず、何かと孤高で、彼らはよく話題にしていた。ナオはおそらく本心と善意で、そんなことを口にしていた。

 口を挟む隙間がないのか、始終ポカンと様子を見ていた杉浦の前で、華奈はまさに激怒してしまった。
「――冗談じゃなくてよ!! あたくしの彼氏に何様のつもり、アナタ方は!?」
「何だァ、文句あんの? ただのお嬢サンよ」
「竜牙さんも竜牙さんよ! ミカミ君はあたくしの彼氏って知ってるでしょう、あなた!」
「…………」
 日頃から不良と雷夢は、何かと声をかける不良を雷夢が鬱陶しがっている関係だが、何故かこの時は二人とも華奈をじっと見つめ、不良はにやにや、雷夢は無表情だが、確実に華奈の反応を面白がっていた。

 そんな中、事態の収拾を図ったのは、いつの間にか杉浦の隣でポカンとしていたアキラだった。
「……それじゃ、どっちが女王か、はっきりさせた方がいいんじゃね?」
「――!?」
 ぎん! と睨みつける華奈に、ひぃぃとアキラは杉浦の後ろに隠れる。
「竜牙と玖堂、勝負させて、勝った方がミカミのご主人様。ってことでいーじゃん?」
 はぁいい!? なりふり構わず睨む華奈と、へえ? と面白そうにアキラを見た雷夢を前に、
「いーじゃねーかー、ソレ。いーよな? ミカミ」
「え? 何かよくわからないけど、俺は構わないよ」
 この期に及んでも事態に気付いておらず、逆に華奈に何度も彼氏と呼ばれて嬉しそうな鈍いナオは、心から平和に笑っていた。

「そんな……ミカミ君、ヒドイっ……!」
 華奈は思わず、激した感情のままに立ち上がった。
 ばしん、と派手に、役者志望のナオの大切な商売道具――端整な顔をはたくと、倒れたナオに構わずに、一人屋上から駆け去ったのだった。

 そして何故か……。
 華奈と雷夢は本当に、休日である明日に、謎の体力勝負をすることになってしまった。
「おのれ竜牙雷夢、卑怯にも程があってよ! 頭脳勝負であたくしに勝ち目がないとわかっての陰謀!?」
「……勝負内容を作ったのは、ほぼ涼樹様ですがー」
「何よあの小市民、新入りのくせして図々しい! 平民なら平民らしく、平等な勝負内容を考えて欲しいものだわ!!」

 玖堂家の秘密の地下で、杉浦を調整し直すために華柰は研究室にこもる。華柰本来の性質、天才マッドサイエンティストたる覇気を盛大に纏う。
 普段は武装を制限している杉浦、召使型警護ロボット・ランクL・プロトタイプを限定解除すべく、数多のケーブルに繋がれた杉浦の前で、がちゃがちゃとコンピュータに指示を打ち込んでいく。
「ところでお嬢様ー……お嬢様の勝負であるのに、何故にわたくしの限定解除をー?」
「何故も何もなくてよ! この勝負、あたくしは決して負けるわけにはいかないのよ!」

 あの後、ナオからは何度も、杉浦の持つ華奈のPHSに着信があった。電波の悪い地下にこもりきりの華奈は、ナオに対する怒りも手伝い、反応する気になれなかった。
「どんな手段を使ってでも勝つ! お前はあたくしの援護をするのよ、杉浦!」
「援護、と仰いますとー……?」
「それくらい自分で考えなさい! 体力勝負ってことしか言われてないのだから、当日お前が自分で判断するの!」
 そのため、どんな状況にも対応できるように、華奈は杉浦の全限定を徹夜で解除する予定だった。
 せめて日程が事の発端、昨日にわかっていれば、もっと早くから調整を始めたのに。華奈は叩きつけるようにキーボードを打ち続ける。

 正直なところ、雷夢と体力勝負をして勝てる算段は、華奈には全く見出せなかった。
 あの不思議な黒い髪で青い目の不機嫌娘は、勉強はからっきしだが、身体的能力が恐ろしく高い。
 今まで何度か連れていったボウリングやスポーツセンターでは、華奈はおしなべて負け越し状態だ。
「ミカミ君のバカバカバカバカ……! あたくしより竜牙さんの方がいいって言うの!? あたくしを差し置いて竜牙さんに仕えるなんて言うなんて……!」
「はあー……はあー……?」
 その上最近わかってきたことに、どうやら雷夢は、いわゆる霊感を持つタイプらしい。
――玖堂サン、気をつけなよ。悪いものじゃないけど、何かに魅入られてるよ。
 そんなことをさらりと言うものだから、幽霊嫌いな科学の徒である華奈は、ちょっと距離を置きたい気持ちが芽生えていた今日この頃だった。

 何か対策を練らなければ。しかし今の華奈の焦燥し切った頭で、良いアイデアが浮かぶはずもない。
 そのまま無情に、杉浦の限定解除をするだけで夜は過ぎ去っていった。


「おはよー、玖堂……ってうわ、凄い顔だな!」
 勝負場所の高校へ向かう途中に、内容作成者のアキラを華柰は捕まえ、拷問にかけるしか思いつかなかった。そのどす黒い顔付きに、アキラが派出に後ずさった。

 がちり、とアキラが杉浦に羽交い絞めにされた。
「涼樹様ー、ここであらかじめ、勝負内容を喋って下さいー。拒否すれば感電していただきますー、回を重ねるごとに電圧を上げますー」
 語尾がいちいち延びるため、何とも気の抜けた脅迫だったが、あくまで一般市民のアキラは簡単に震え上がる。
「知らなかった……玖堂って可愛い顔して、鬼畜だったんだ……」
「どうとでも仰い。この件であたくしを負け認定したりすれば、アナタには明日の安全だって保証されなくてよ?」
 そもそも全部、アナタのせいなのよ! と華奈は、目の下のくまを隠すために必死に日焼け止めを塗った顔で、ぎろりとアキラを睨み付けた。

 あらかた勝負の内容を聞き終えると、杉浦は一足先に準備をしておく、と言って、高校に行ってしまった。
「もう、何の準備をするかくらい、言っていきなさいよ……」
 自分の判断で華奈を援護しろ。昨夜に言い付けた最大の指示を、その時華奈は、少しだけ懸念に思った。
「あ、あのさ……杉浦と玖堂って、どーいう関係?」
 アキラには杉浦は、同じ高校からの編入生だろう。
 そのため今のところ、他の学生より話す機会が多い相手が杉浦だった。
「杉浦はあたくしの親戚で親友よ。それ以外に何か疑問があって?」
「いや、何てーかさ。春日に心酔するミカミ以上に、何か杉浦、玖堂に忠誠誓ってね?」
「そうね。美しい友情でしょう?」
「友情で済ますのかよ、ソレ……しまったなぁ、おれ、変な連中に関わっちまったかな……」
 どうやら極力、厄介事は避けたいらしいアキラは、見た目以上に平和主義な小市民であるようだった。

「失礼ね。あたくしは竜牙さんや春日君と違って、至って真っ当で清楚な女子高校生よ」
 そこでアキラが、ダメだこりゃ。とがっくり項垂れた理由を、今の華奈に教えてくれる相手はもういない。
「ミカミは玖堂のこと、とても優しくて素敵なお嬢様だって、言ってたのになぁ……」
「ちょっとアナタ、どうしてそんなに残念そうにそれを言うのよ!?」
 見捨て置けないアキラの顔付き。しかし追求する暇はなく、二人は高校についていたのだった。

 不良や雷夢が、時間通りに現れることはめったにない。
 真面目に早めについた華奈は、先に着いていた杉浦と合流し、アキラと三人、校舎から校庭に下りる段差のコンクリートに座り、雑談しながら勝負相手を待つことになった。
「それにしても、肝心の景品のミカミが来ないっておかしくね?」
「仕方ないですー。ミカミ様は休日には、基本的にバイトをされていますのでー」
 アキラからあらかじめ聞き出した勝負内容を考え、必勝法を練る華奈に返答の余裕はない。アキラと杉浦の話をイライラとした面持ちで横耳で聞く。
「玖堂に比べてミカミって、イケメンだけどキャラ大人しいよなー。何で二人、付き合ってんの?」
「わたくしにきかれても困りますー。お嬢様にお尋ね下さいー」
「お嬢様かー……玖堂みたく徹底した奴も初めて見たけど、そーいうキャラ作り、疲れたりしねーの?」

 そこですっと立ち上がった華奈に、アキラと杉浦の視線がお、と集まる。
「キャラ作りなんかではなくてよ。あたくしはそもそも、こちらが素なのよ」
「ええ、まじで? 本気ならちょっと痛くね? それ」
「どうとでも仰い。今更普通の猫を被る気はなくてよ、あたくし」
 この立ち居振る舞いが、同年代の間では浮かび上がるものと知っていたから、普通を演じた中学までの日々。それは今の華奈には、最早遠いものに感じられた。

 それもひとえに、
「ミカミ君さえいいと言ってくれるなら……あたくしは誰に嫌われたって、あたくしらしく生きるの」
 華奈のお嬢様喋りをナオは喜び、何故か心から受け入れてくれている。
 不良や雷夢への態度も見るにつけ、生まれついて気さくな彼は良い意味で、人より下の立場に在るのが好きなように見えた。
 本当ならあの自然さは、執事やマネージャー向きなのかもしれない。
「そっかあ。ミカミって要は、腹黒権力者が好みそうな善人なんだなぁ」
 編入してきたばかりで、小心者でもずけずけ物を言うアキラは、思ったより頭が回るタイプのようだった。

 そのアキラの台詞は、華奈には一部だけ不本意だった。
 砂を払い、アキラと杉浦にくるりと背を向けながら、捨て台詞のように言う。
「腹黒だけじゃないわ。彼は尊い存在からも認められるタイプの、心がとてもキレイな人よ」
「ってーと……玖堂は、自分が腹黒とは認めんだな?」
 校舎へ向けて歩き出した華奈は、そちらに向かう目的も卑怯と言われることだと自覚している。悪びれずに両手を上げて肩だけを竦めると、雑談する二人を残して場を後にした。

 そうして、何が何でも勝つための仕込を、あらかじめ数箇所に華奈が仕掛けた後に。
 不良と雷夢が珍しく連れ立って現れたが、不良だけは私服で、それも何故か荒事でもあったように、あちこちが傷んで汚れていた。
「それじゃ、えーと、これから勝負内容の説明に入るぜ」
 ぎろりと睨む華奈、気だるそうに見つめる雷夢の前で。アキラは華奈には既に話した内容を、初めて口にするかのように説明を始める。
「この学校のイケメン帝王・ミカミナオのご主人様を決める選手権! 勝利者には女王の称号が与えられ、ミカミを好きにパシる権利が与えられる!」
「……ちょっと。その景品、本当に有効のつもり? あなた方」
 華奈は別段、ナオをこき使うつもりなどない。
 ただその権利が、雷夢に渡るのを阻止したいだけだが、雷夢が本気でそれをほしがっているかは、今になってふと疑問に思った。

 雷夢はちらりと、横目で華奈を一瞥(いちべつ)した後、
「別にいーじゃん? ミカミをどうしたって」
 不敵に、にやり、と珍しく笑った。それは華奈の神経を逆撫でするのに十分なあくどさだった。
 ばち! と視線をぶつける少女二人に、アキラがトホホ、としながら説明を続ける。
「ルールは簡単、まずこの校庭をトラック三週して、あそこのバスケットゴールにスリーポイントシュートを三回決める。その後いつもご飯を食べる屋上に上がって、既に揚げてある国旗を下ろしてもう一度揚げて、校庭に戻ってトラック一周でゴール」
 そして、と、アキラはそこが一番重要だというように、続く言葉の語調を強めた。
「これはタイムトライアルで、二人一緒にはスタートしない。一人ずつ時間を厳正に測るから、競争の途中でキャットファイトとかはなしだから」
 どうやらそれが、小市民アキラが最も避けたかった事態らしい。
 しかしその、一人ずつという穏便な配慮が、裏目に出ることになろうとは……この時点で知る人間は、いる由もなく。

 それじゃ、と、行程を説明し終えたアキラが、何故かここに来てから一言も喋っていない不良の方を見つめた。
「こんな感じだけど、いいよな? 春日」
「……別に、何でも。好きにすりゃいい」
 華奈は緊張の面持ちながら、ぼそっと、すぐ後ろにいる杉浦に軽く振り返りながら言った。
「何なのかしら、あの人。自分だって発端のくせに、何か妙に不貞腐れてない?」
「さぁー……来る途中で、竜牙様と何かあったんでしょうかー……?」
 元々さぼりがちな不良が、休みの日に学校にいる状況も不服なのかもしれない。
 制服を着る他のメンバーに比べて、鎖骨とシルバーのペンダントがあらわに見える緩い黒のシャツに、軽装でも洒落た赤のジャケットに蒼い石の指輪と、不良の格好は休み気分だ。気に入りの服が汚れてしまったことが不服、と言いたげに、何度も自らの体を見回していた。

 この場で実際、一番楽しそうなのは雷夢という、日頃の気だるげな彼女からは考えにくい光景があった。
 さて、とアキラがストップウォッチを持った。トラック上に自ら立つことで、ゴール地点がそこだと示す。

 タイムトライアルな体力勝負は、華奈のたっての希望で、華奈からスタートすることになった。
「――珍しいじゃん。玖堂サンが先手にまわるなんて」
「ふん。あなたとの今までのような、お遊びスポーツ勝負と一緒にしないで下さる?」
 華奈が仕込んだ必勝法は、華奈が先手でなければ意味がない。
 いつもなら相手の様子を伺い、後手を好む華奈だったが、今回は先に勝負内容を知っていたこともある。

 そして華奈は、颯爽とスタート地点に立つ前に――
 雷夢にびしっと人差し指を突きつけ、高らかに勝負を宣言する。
「今日こそあなたに、上に立つ者の覚悟を見せつけてあげてよ! 竜牙雷夢!」
「おー。さすが、大金持ちの跡取りの玖堂サン」
 期せずして女王杯となった勝負に、相手との身体能力差は知っていながら、逃げ出すことを華柰は考えもしなかった。
 これまでは嫌々勉強を教え、家庭教師もしている雷夢に対し、互いに得意不得意があるだけ、と、上下の差をつけようと思ったことはなかった。

 しかしその付き合い方が、先日のような事態――
「あたくしがあなたより下ランクと考える無礼者達に、目にもの見せて差し上げるわ!」
 そんな舐められたことを、周囲に思わせる隙を招いたのであれば。
 何が何でも、ここで一度、勉強以外で雷夢に打ち勝たなければ気が済まないのだ。

「……」
 華奈の気迫を黙って見守る杉浦に、杉浦自身の判断で華奈を援護しろと言い付けたことは、最早華奈は忘れ去っていた。
 それがこの後、信じられない事態を引き起こすことも知らずに。

 スタートの合図と共に、華奈は至って真っ当に、全速力でトラックを走る。
 杉浦、雷夢、不良は揃って端のコンクリートに座り、遠めに華奈の奮闘を見守る。

 必勝法・その一。
 ドーピングを、してはいけないというルールはなかった。
 徹夜明けにも関わらず、冴え渡る頭と、生来の抜群な運動神経以上に動く体。玖堂家警備部で緊急時に使用される秘蔵薬剤の効果だろう。
 危なげなくトラックを三周し、華麗にスリーポイントシュートを決めた華奈は、まっすぐ屋上には向かわずに、高校の学舎と並ぶ中学の校舎へと向かっていった。
「……あれ? 玖堂、試合放棄かよ?」
 屋上の国旗の揚げ下げが見えるゴール地点で、首を傾げるアキラは、高校からの編入生だ。そのためずっとこの学校にいる、華奈のショートカット法を悟れるわけもない。

「ったく――久しぶりよね、このも壁渡りも……!」
 必勝法・そのニ。
 校庭側とは間逆に位置する屋上の入り口と、そこから離れて校庭側にある国旗までは、中学の校舎から高校の屋上に外壁伝いに移る方が、危険ではあるが断然早く着ける。
 そもそも今日は休みであるため、高校の校内は使えず、長々とした外階段で屋上へ行くと、それだけでもかなり時間をロスする。
 それは優等生だった中学時代、高校の国旗まで揚げ下げを請け負った華奈ならではの発見で、その経路を使うことにはもう一つ利点があった。
「屋上の鍵は閉めちゃったから、竜牙さんはまず辿り着くのも難しいはず!」

 必勝法・その三。
 休み中に何故か開いている中学の校舎と、普段から壊れて開いている外階段からの屋上の鍵は、不良と雷夢の到着を待つ間に華奈は細工をしていた。
 と言っても、まず中学の鍵を壊して開け、秘密経路で屋上に行って内側から鍵をペンチで捻った。工具を常備するのは破壊博士の名を持つ華奈には当然のことだ。
「旗の揚げ下げだって、やり方も知らないだろうし……!!」
 必勝法というより、自分に有利なその点も思いながら、華奈は危なげなく国旗を揚げ直した。
 同じ秘密経路で校庭に帰り、悠々とゴールしたのだった。

 校庭から屋上に向かう際に、謎の方向に駆けていきながら、確かに華奈が屋上で旗を揚げ直した姿を確認したアキラは、深く追求しないことにしたらしい。
「へぇぇ。なかなか好タイムそうじゃん、お嬢」
 時間と共に機嫌を直したのか、ニヤニヤしている不良の隣で、杉浦が華奈の方を向いて言う。
「お疲れ様ですー、お嬢様ー。タオルと水筒がこちらにー」
「ありがと、杉浦……」
 そうして、ぜいぜい、と息を切らしている華奈を杉浦がコンクリートに座らせた。その前方で二番手の雷夢が、余裕の表情でスタート地点に立った。

「……」
「――?」
 華奈にスポーツドリンクなどを手渡した後、杉浦はおもむろに、校庭の端で段差を作っているコンクリートから立ち上がった。そうして何故か、アキラのいる方へ歩き出した。
「ちょっと杉浦、何処に行くの?」
 華奈としては、この場で不良と二人で雷夢の回を見届けるのが嫌だったのだが、
「大丈夫ですー。すぐ戻りますー」
 相変わらず空気など読まない機械の召使は、振り返りもせずアキラの隣まで辿り着いた。

 そしてそれは――
 スタートの合図が切って落とされた直後のことだった。
「――って、わ!?」
「涼樹様ー、避難なさって下さいー」
 雷夢が駆け出した後ろで、杉浦が突然、アキラにがしっと抱きつく謎の事態が訪れた。
「え、す、杉浦……?」
 華奈はただ目を点にして、己が機械を遠目に呆然と見つめる。
 杉浦は肩に担ぐようにアキラを抱え、自らの機械の肌には触れさせないようにしながら全速でコンクリートの方に戻ってくると、
「それでは作戦を決行しますー」
 とても無害な間延びした声で、その有害な援護活動を、あっさり開始していた。

「って、うわぁぁぁ!? 竜牙ーーー!!?」
 まず絶叫したのは、至って平凡な小市民、アキラだった。
「な、ちょ、杉浦、これ……!!」
「おー? ……竜牙ちゃん、生きてるかァ?」
 明るい日の光の下では、真っ白にも見えそうな広い校庭に、不可解な風切り音がした直後に。
 唐突な轟音と爆風と共に、トラック周縁の土砂が吹き飛び、黒煙が立ち昇った。
 もうもうと立ち込める煙は、トラックを走っていた雷夢の姿も覆い隠し、
「第一投、掃射完了ー。続いて第二投、いきますー」
 それはまだ序の口と、更なる爆撃音が軽やかな声色と共に続いた。

「やめなさい杉浦、何を考えているのー!!」
 この事態は紛れも無く、隣の機動破壊兵器の遠隔操作で、玖堂家近縁極秘施設より放たれたステルス超小型ミサイルの仕業と華奈はすぐに悟った。
「わたくしではありませんー。きっと小惑星群でも地球にぶつかったんですー」
 機密保持のためにあからさまな虚言を口にする杉浦を、がくがくと華奈は胸元を掴んで揺さぶる。
「こんなこともあろうかと、煙火消費許可はとってありますー」
 つまりこの爆発音は、プライベートな花火などの昼間実験であると、警察や消防は思っている。突然許可が下りることはないので絶対に偽造であり、そんな有能さはいらない、と華奈も愕然とする。

「だ、だだだ、大丈夫かああああ竜牙ぃー!!」
 爆心地に近寄るわけに行かず、ひたすら叫ぶアキラの隣で、不良は全く平静で楽しそうにする。
「二週、三週……お、もう、スリーポイントまで行けっか?」
 煙で全く見えないはずの状況を、どうやってかそこで中継までする。
「な……!! 竜牙さん……!?」
 不良の言った通り、爆心地から煙の中を抜けて現れ、早くもバスケットゴールへ向かう雷夢の姿があった。
「あの掃討をくぐりぬけられるとはー……侮れないです、竜牙様ー」
 それなら、とその破壊兵器は、先に校庭に来て仕掛けておいた、次なる仕込みを惜しげなく披露した。

 コンクリートとは逆の校庭の端の、バスケットゴールの下まで辿り着いた雷夢を、杉浦が目視で確認後に罠は発動した。
「ってわあああ!? 今度こそ本気で大爆発があああ!?」
「おやー、何ということでしょうー。眠れる不発弾でも暴発したのでしょうかー?」
 雷夢の足元から土砂が四散し、土煙が派出に舞い上がった。それもおそらく遠隔爆破できる地雷であると、華奈は愕然と頭を抱える。
「たとえ最小威力だって、そんなの竜牙さん、ただじゃ済まないじゃない……!!」
 全ての限定を解除した杉浦を、甘く見ていた、と激しく唸る。
 しかし土煙が少しだけ、治まった後には――
 そこには、高校の新制服が思い切り汚れて不機嫌な顔をしつつ、スリーポイントを鮮やかに三回決めた雷夢が、高校の校舎へ走る姿があった。
「う……嘘、でしょ……?」
 いったいどれだけ、素早く直下の爆弾から離脱すればその程度のダメージで済むのか。
 妨害だらけのその状態に、既に華奈のタイムより雷夢は大分遅れをとっていたが、めげずに屋上へと向かっていく。

 ところで、と、不良が面白そうに当然の疑問を口にする。
「これって反則になんねーの? どう見ても妨害行為じゃん?」
「ええええ!? 嘘だろこれ、この虐殺!! 本気で人為的工作!!?」
 連続する爆発、それに対する雷夢の平常さと、色々な意味で驚愕中のアキラは、平静な判断力を全く失っていた。
「そんな証拠はありませんー。竜牙様もご無事ですしー、試合は継続中ですー」
 けろっと答える杉浦に何も反論できず、アキラはただ呆然と屋上の国旗を見上げる。

「もう、杉浦ってば……!!」
 言いつつ、このままいけば勝利は自分のものだ、と、華奈は自身が仕込んだ必勝法を思う。高校の校舎前についた雷夢を、華奈は校庭から見上げる。
 雷夢は外階段から屋上に入るのも、旗の揚げ下げにも華奈より時間を要するはずだ。
 高校の校舎に辿り着いた時点で、既に華奈のタイムが上であり、ここから逆転されることなど有り得るはずがない。
「……」
 雷夢自身、かなりタイムロスがあることを自覚しているのか、何故か校舎前で立ち止まり、外階段には入らず屋上を見上げていた。
「……あたくしの……勝ち……!?」
 最早雷夢は、試合を放棄するつもりなのか。
 立ち止まって動かない雷夢の後ろ姿に、華奈は思わず、そう声に出すほどだったが。

 それから先に、華奈達が見守る前で起こったことは。
 ある意味、雷夢に対する杉浦の妨害工作より、有り得ない光景だった。
「――は……?」
「……ってぇ?」
「おー……お?」
「……はいー?」

 傍観する四者が、四様の驚嘆を洩らした視線の先で。
 雷夢は数度、足元のコンクリートタイルを踏み鳴らすと。
 まるで屋上から、彼女の背に繋がるワイヤーがあり、それに引き上げられたかのように――
 四階建ての高校の校舎を、華奈達にも届く程の音で地面を蹴ると、屋上まで一息に跳び上がったのだった。

「……!」
「――へぇ?」
 目前の有り得ない光景に、言葉を失ったアキラと杉浦を横に。華奈はまず自身の目を疑い、不良は意外なものを見た、というようにニヤリとする。
「そこまでやるかァ、竜牙ちゃん。どーやらよっぽど……お嬢には負けたくないみたいだなァ?」
「――!?」
 どうやら華奈とは違う方向で、不良も驚いている。心なしか不敵な目線に、きらりと紅い光を一瞬煌めかせた。
 カラーコンタクトだと思っていた青白い目は、その紅い光と共に、何とも形容し難い異様な気配が垣間見えた。ぶるり、と華奈は悪寒を感じた。

 よくわからない悪寒から逃げるように、華奈が屋上に視線を戻すと。
 一跳びで屋上についた雷夢は、国旗の揚げられたポールの先端に同じように一蹴りで跳び上がると。そこで何と、ぶちっ、と国旗を引き千切って着地した。
「な、なな、そんなのアリーーー!!?」
 遅いツッコミを華奈が発する前で、雷夢は引き千切った国旗を持って再び跳び上がり、ポールにしがみつくと、千切れた国旗を先端に括りつけた。
 今度は屋上から地面に躊躇(ためら)いなく降り立ち、まだ黒煙の上がっているトラックを走り、最後の妨害を忘れるほど演算不能な杉浦や、最早放心しているアキラの下まで全速で駆けてきた。

「――はい、終了!」
 アキラの持ったストップウォッチを自力で止めると、彼女はじーっと、難しい顔でタイムを覗き込んだ。
 しかしその、度重なる爆撃と土砂、そして屋上という空中から戻ってきた娘の姿は……。
 その異様さにも、改めて華奈達は驚かされることになった。
「あ、あなた――竜牙さんよね?」
「へ? ……――って、あ」
 何とか根性で声を発した華奈の前で。
 雷夢はふっと、横目に見えた自身の長い髪が、元々の黒からまるで空のような青へ。人間には有り得ない色合いに変わっていることに、ようやく気が付いていた。

「――マズイ、あれ、どこ……!!」
 珍しく焦り顔となった雷夢は、ストップウォッチを持ったまま、壊滅状態のトラックやバスケットゴールに駆け込んでいく。
 場には呆然とするだけの華奈、アキラ、杉浦が残されていた。

「あーあー。いつになく力、使い過ぎるからだぜェ?」
 そこでもニヤニヤと、不敵さを崩さない不良は、雷夢の髪の色の変貌に心当たりがあるらしかった。
「……どういう、こと?」
 屋上までの有り得ない移動法や、人間ならぬ髪の色への変貌。
 全ての意味を尋ねた華奈に、不良は改めて、有り得ないとしか言えない答をさらりと返した。
「だって――……オレは魔王で、あいつはそのヨメ予定だし?」

 爆風で紐が切れたという小さな天然石のペンダントを、何とか見つけたという雷夢が、しばらくしてからいつも通りの黒い髪で帰ってきた。
 ストップウォッチは駆け回っている間にリセットされており、雷夢のゴールタイムは、雷夢自身しか知らない状態になってしまった。
「私の負けでいいよ。途中、少しズルしちゃったし」
 あっさりそんな風に言う雷夢だが、こっそり時間を測らせていた杉浦に後できいた所によると、僅差で雷夢の勝ちの可能性が高いということだった。
「ズルって……あなた、あの有り得ない数分を、そんな一言で済ませる気なの?」
 そもそも、そこまでなりふりかまわず、雷夢に人智を超えた全力を出させた理由を華奈も思い返す。
「……それならあたくしだって、正々堂々だなんて、とても言えないわ」
 結局、華奈自身が仕掛けた罠は意味を成さなかったものの。さりげなく暴走の限りを尽くした杉浦を後ろに、華奈の自宅に向かって歩きながら、華奈はバツの悪い思いを噛み締めていた。

 今いるのは、華奈と杉浦、そして雷夢の女子メンバーのみだ。物言わぬままのアキラは不良が家まで送ることになった。
 雷夢は気まずそうな華奈に、何で? と、歩きながら不思議そうに言う。
「玖堂サンはそのままで、全力だっただけじゃん。私は、そのままじゃ負けたから、やっぱりズルかな」
「……??」
 言葉足らずの、雷夢の説明は、おそらく。
 それ以上は、自分の事情に踏み込むな。華奈にそう警告しているように見えた。

 推測を裏付けるように、雷夢はさらりと話題を変える。
「それにしても、ホントに制服、新しいのくれんの?」
「……仕方ないでしょ。あなた、ブレザーの予備は持ってないと言うし、そこまでボロボロにさせたのはあたくしの責任だし」
 ひとまず体型の近い華奈の手持ちを貸すために、共に自宅に向かっていた。
 妨害活動で大きく損傷した校庭の修復や、中学の校舎の鍵、国旗の弁償や隠蔽工作を思うと、今更ながら華奈は頭痛と眩暈を覚えるのだった。

 それにしても……と。
 自宅の前で制服を一揃い受け取った雷夢は、息をついた華奈を見て、珍しくとても自然に、何故か嬉しそうに笑った。
「あー。楽しかったね、玖堂サン」
「……えっ?」
 いつも不機嫌な顔の娘は、一瞬の変貌を遂げた髪と同じ空のような目で、華奈をまっすぐに見つめる。
「いっぺん、全力の玖堂サンと、やりあってみたかったから」
「……はぁ?」
 華柰は呆ける。それではまるで、卑怯な手段、暴走する召使という要素も込みで、華奈の全力だと受け入れているような笑顔。
「ミカミに感謝しなきゃなー。それじゃね、玖堂サン」
「……はい?」
 最後までわけのわからなかった華奈を置いて、制服の入った袋を抱えながら、くるりと雷夢は駆け去っていった。

 しばらく呆然と、門の前に立っている華奈に、ずっと黙っていた杉浦がようやく声をかけた。
「お嬢様ー。竜牙様とのご勝負ー、竜牙様自らに負けを認めさせた見事なご勝利ー、おめでとうございますー」
「……何を言っているの。あたくし達は、竜牙さんに見逃されたようなものでしてよ」
「そうなんですかー? それではどうして、お嬢様はそのようにご満足なお顔をー?」

 本当は、多分、負けていたのだろう。避けられない事実を感じていながらも、華柰も結局、楽しかった。
 力の限りに、なりふりかまわず戦うことは、とても気持ちがいいものなんだ、と。不思議な清々しさを感じていたのは確かだった。

 しかしそんな感慨より、今は重要なことがあった。
「とりあえず、お前は原稿用紙十枚以上で反省文よ、杉浦」
「ええー。わたくしは何を、反省すべきなのですかー?」
「自分で考えなさい。自分で考えるという意味から、そもそも考え直すのが良くてよ」
 自分で考える。それは決して今日のように、思うままに暴走の限りを尽くせということではない。機械頭にどう教えればいいのか、華奈は苦い顔をするしかない。

 杉浦が更に何か、華奈への抗議を口にせんとしたところで。
「――玖堂さん? 良かった、やっと会えた!」
「――え?」
 門前で話していた華奈と杉浦の前へ、赤い夕陽を背にして、焦り顔で駆けつけてくる少年。善良な黒髪のイケメン、もといナオの姿があった。

「ミカミ君……!? 何、それ……!?」
 華奈がとても驚いたことには、ナオはツナギ服というバイト後の私服のまま、大きな白いバラの花束を抱えている謎の姿だった。
「昼間、竜牙さんに、今日中に玖堂さんに謝っとけって言われて……俺がみんなにいい顔をするから、玖堂さんがヤキモキするんだって」
「え……? 竜牙さん、が……?」
 唐突過ぎる花束を渡され、呆然と赤面するしかない華奈に、ナオはその日の事情を気まずげに説明を始めてくれた。

 今日が華奈と雷夢の勝負の日だと、ナオは一応、知らされていた。
 その前に雷夢が、不良に案内させてナオのバイト先を訪れるなど、夢にも思わなかったという。
「竜牙さんは、玖堂さんと本気でケンカしたいから、丁度良かったって言ってたけど。俺、今もよくわからないけど、玖堂さんをそんなに傷付けてたなんて思わなくって……」
「……――」
「俺、一番大事なのは当然玖堂さんだし、みんなにいい顔してるつもりもないんだ。だから――……どう謝ればいいかすら、わからなくって」
 それで苦し紛れに、この白バラを買ってきたのだと、俯きながらナオが素直な心を口にする。

「…………」
 華奈は無言で、杉浦を門の内へと押しやりながら。
 何一つ華奈を責めることなく、よくわからないまま反省している善人のナオを、真っ赤で、かつ不服な顔で、じっと見上げた。

 あなたねぇ……と。
 真っ赤な顔のまま、華奈が最初に口にしたのは、今ここで感じている素直な文句だった。
「だからって……バラの花束とか買ってきて、あたくしにどうしろって言うの?」
「…………」
「せっかくの今日のバイト代、これ一つでも、あっさり飛ぶでしょう? そんな無駄遣いをする暇があるなら、バイトよりあたくしの相手をしてちょうだい」
「……ハハハ。やっぱり玖堂さん、俺のために言ってるんだ」
 その辺りでナオは、申し訳なさそうな俯き顔から、困ったような笑顔に戻っていた。
 明らかに花束を受け取って赤面した華奈が、素直に喜べないのは、ナオの負担を思ってのことと感じているように。

 華奈はすう……と、気持ちを落ち着けるように深く息を吸う。
「……どうしたらいかわからないって、思って下さったのなら……」
 吸った分だけ、ゆっくり吐き出す。拙い声色で、自分でもよくわからないモヤモヤを、静かに伝える。
「それなら……あたくしに直接、きいて下さらない? どうしてあたくしが、傷付いたのとか……あたくしが何を思って、あなたに手を上げてしまったのだとか……」
 そこまでは何とか、華奈も言葉にすることができた。
 それ以上は上手く言えず、黙り込んでしまった華奈に、ナオはただ、ゴメンね、と優しい顔で笑った。
「直接聞こうと思ったんだけど……でも、何回かけても電話、繋がらなくて」
「……――あ」
 華奈もそこで、自分がそもそも、ナオへの連絡を拒否していたことに思い当たった。
「さすがに家にかけるのは迷惑だと思って、じゃあ待ち伏せするしかないのかなって、でもそれも咎められそうだしさ。だから本当に……ここでやっと会えて、良かったよ、俺」
 そうして、心から嬉しそうなナオの笑顔に。いつかのように、華奈はひたすら、自分を恥じ入るしかなかった。

 今度は華奈の方が、俯いてしまう。しかしそれをナオは穏やかな笑顔のまま、何も言わずに見守っていた。
「……そうね……」
 だから華奈も、素直に自分を省みる余裕が生まれる。
「あたくしも……きかれるまで待つのではなくて。自分から伝える努力を、しなければいけないわね」
 どうやら自分は、思った以上にモヤモヤを言葉にするのが、不得手であるらしい。華奈自身がそこで自覚していた。
 だからこうして、杉浦のことも言えないくらい、がむしゃらになってしまう癖があるのだと。

 ナオは変わらず、自然な微笑みと共に華奈を見つめる
「そう……かな? よくわからないけど、俺は玖堂さんが、どんどん本音で喋ってくれると、きっと嬉しいよ」
「……そうね。でも……きいて下さると、きっととても、言いやすいの」
 それは華奈にとっては、我が侭ともわかる望みでもあった。
「あたくし一人の努力だけでは、それは難しいことだから……」
 だから、自分の力になってほしい。
 恐る恐る告げた華奈に、ナオはまるで屈託なく、当たり前だよ、と笑った。

 白いバラの花束と、優しくて善良な恋人の笑顔。
 無愛想のくせにそんなお膳立てをしていく、不思議な青い目の友人。
 これ以上の幸せはそうそうないだろう。華奈はじんわり、噛み締めていく。
 あの不器用なお節介者に、明日は何と言ってやろう。そう堪えがたい微笑みが零れる夕暮れだった。
 バイト疲れの欠片も見せずに帰る、夕陽に溶けるナオの姿を、いつまでも見送りながら。


序曲 了

間奏:キカイなお嬢と紅い狐

 
 玖堂家の力を貸してほしい。そんなことをプライベートの場で言うような、不躾者は相手にしない。
 かつて、初恋相手ミカミ君にも「利用された!」と勘違いで憤怒した玖堂華奈は、甘いことを囁かれても誰でも突っぱねると心に決めていた。
 友人の、人魚だったらしい女親に、六畳一間のアパートで泣きつかれるまでは。

「華奈ちゃん、助けてえええ。ほんとに? ほんとに名前って変えられるの??」
 その日は友人が、高校に出なくなって五日目。何度も勉強を教えに通ったアパートなので、気軽に訪ねてみただけなのに。
「えっと……本当の改名なら、家庭裁判所で手続きしたらいかがかと……」
「精神的苦痛が理由じゃ駄目、って言われたのよう。もうこの名前で長年生きてるんでしょう、とも」
 「この名前」。そう言えば知らない、と、華奈を招き入れた母のことを尋ねようとした瞬間だった。

「ユーファ。ほんとに貴女、帰らないの? ――って」
 それは日本の町を歩くには鮮やか過ぎる、紅い髪でアイドルのような服の少女。颯爽と、ポニーテールを揺らしてアパートに入ってきた。
 あ、と華奈は、勝手に出歩く少女に瞬時に顔が苦くなった。
「あなた、屋敷で竜牙さんと引っ込んでなさい、とあれだけ言ったでしょうに。何のためにあたくしが、竜牙さんのお母様の様子を見に来たと……」
 友人が、「悪魔」などという謎の集団に狙われ、華奈まで人質として誘拐される事件があった。だからひとまず自宅に匿い、名前を変えて逃げた方が、と親にも勧めにきたのだ。それへの反応が、「名前って変えられるの!?」だった。
「その玖堂さんが心配だから、ついてけって言われたんじゃん。あたしなら人間の視線も、ごまかして出歩けるし」
 少女は、紅い髪に尖った耳や紫の目など、容姿が人間離れしている上にとても美形だ。それも友人とうり二つの顔をしていて、友人の方は黒髪に青目だと思っていたのが、本当は青い髪と目である正体が晒されてしまった。友人が高校に行かなくなったのはそのためで、友人と違って、この少女の方は容姿を気にせずに外に出られるらしい。

 友人の女親が、わざわざ来た二人にうるうると目に涙を浮かべて言った。
「わたし、もう、不便なあの世界には帰らないの! 狙われてるのは雷夢ちゃんだけだし、名前を変えられるならずっとこっちにいたい!」
 二人で黙る。どうしよう、自分は藪蛇なことを言った、と華奈が焦り始めた横で、紅い髪の少女が腕を組んで首を傾げる。
「玖堂さん。この世界でも、名前はそんなに大事なものなの?」
「……異世界人らしい竜牙さんに、戸籍があるのが奇跡よ。そこのところ、確かにあたくしも気になっていたわ」
 あ、それは……と、今度は友人の親の方が止まった。
 華奈はまだ、友人が本当に「異世界人」と鵜呑みにしたわけではないが、少なくとも人間でない相手だとは重々感じている。
「戸籍の背のりにしては、竜牙雷夢なんて名前は目立ち過ぎるし、そもそも犯罪ですけど。良ければ、そのカラクリを教えて下さるなら、お母様の改名に手を貸すこともやぶさかではないわ」
 どの道友人を安心させるために、親の保護はしようと思っていた。屋敷で使用人として働いてもらうことで、友人との話も既についている。

 そんな話をまだ知らない相手は、ごにょごにょ、と言い澱んでいた。
「雷夢ちゃんの名前は、あとで変えたの……まだ子供だったし、男の子みたいな名前だったからOKが出て……」
「……あとで? 元になる戸籍が、やはりあったということ?」
 ううううう。どうしても戸籍名を変えたいらしい女親が、口を割る気になるのはすぐだった。
「ユーファ、諦めなよ。人魚の重大な秘密とはわかってるけど、玖堂さんには隠し事はしない方がいい」
「――人魚?」
 ちょっと待って、聞き捨てならない。華奈がそうつっこむ暇もなく、はあああ。と大きな溜め息をついて、相手は話し出していた。

「ええと……わたし達人魚は、遥か昔から海の闇を渡ってこの世界に来れるのですが、道中何度も、人間様のご遺体に出会うことなどもありまして……」
「海の闇? 人間の遺体?」
 ちょっと待って、つっこみどころだらけ。逆に何も言えない華奈に、自称人魚が続ける。
「可能な時は、人間様になりすまして、そのままこちらの世界にとけ込んでいった者も沢山おりまして……雷夢ちゃんを連れてきた時も、私が元々人魚ネットワークの力で継いだ戸籍や、仲間が何人か造った子供の戸籍の一つを使いまして……」
 その戸籍は実際には存在しない子供達だが、女親自身も同様に、既に戸籍のある他の者の子供として以前に戸籍を造ってもらった。その出生届に記載された名が、致命的に間違っていると気が付いたのは、実際にこちらで雷夢と暮らし始めてからだったという。

「わたしは、ユーファ。戸籍では、『有不吾』となっています」
「…………」
「なにこれ。読めない」
 華奈と紅い髪の少女が、人魚が紙に書いた名前を一緒に覗き込む。自称異世界人の少女は漢字がわからず、何が悪いかもよくわからない、と言う。
「そう、それなの、ティンクちゃん……わたしもね、この漢字がね、そんなに変なものだって知らなかったの……」
 人魚ネットワーク、どうなっているの。華奈は大いに首を傾げる。
 人間界にとけ込んで長いと言うなら、どうして誰も、この漢字の当て方に疑問を呈さなかったのだろう。

「……ありふご? ゆうご? いずれにしても、『ゆうふあ』と読ませるには無骨過ぎるわ……」
「そうなんです! 良くて皆さん、わたしを『ゆーごー』と呼ぶばかりで、何処で働いても何だかいつも申し訳なさげに目を逸らされて……!」
 キラキラネームという概念も、まだ出回っていない時代だ。日本人では有り得なさそうな漢字の組み合わせに、関わりたくない、そう思う人間が多いことは想像に難くない。
 人魚達の戸籍の得方が、やはり発祥はなりすましと偽造であるのがよくわかったが、実際に人間界にかなりの数の人魚が棲んでいるなら、こうして他の仲間も来られる下積みが上手くいっているのだろう。

「…………」
 華奈は高速で脳内演算を処理する。隣で紅い髪の少女が興味津々な目で華奈を見ている。
 これは犯罪。そうとわかってはいるのだが、きっと華奈には、これから先の暮らしの予感があってしまった。
「……ありふごさん。わかりました、このお名前の改名も、あなた達人魚ネットワークの支援も、あたくし達玖堂家に今後は一任下さい」
「――え?」
 ぶっ、と紅い髪の少女が、大真面目な「ありふご」に笑いを堪え切れていない。
「お互い、協力し合いましょう? ありふごさん達はあたくしに、人魚ネットワークの戸籍を分けていただく。あたくしはそれにきちんと対価を支払い、また、人間社会への自然な参加を支援する。今すぐ回答せよとは言いませんわ。良ければ人魚の方達で、話し合ってみていただける?」

 たとえ血縁ではないとしても、相手は友人をずっと大事に守り育てた女親だ。友人に勉強を教え、時に遊びに連れていく華奈に感謝し、信頼してくれていた。この交渉が巧くいけば、戸籍偽造システムが一つ手に入ってしまうのだから、何と実りある労苦だったのだろう。
 この後、もう華奈達を巻き込みたくない、と友人は紅い髪の少女達と異世界に帰ってしまう。そうなるだろうと思っていた華奈は、無理に引き止める気はなかった。彼女らが本当に異世界の存在であるなら、この社会で暮らしていくことは相当厳しいからだ。

「……玖堂さんって、ほんとに雷夢のこと、好きでいてくれてるんだね」
 夕方になり、人間のSPを背後に潜ませた屋敷への帰り道で、護衛だよ。と連れ立って歩く紅い髪の少女が、急にそんなことを話しかけてきていた。
「雷夢が気を許すのもわかるな。こっちの世界の戸籍の話、できれば雷夢や、あたしにあげたいって思ってくれたんでしょ?」
「……何を根拠に、そんなことを」
 大体、竜牙さんにはもう戸籍あるみたいじゃない、と返すと、いつもは何処か不敵な顔をしている少女が、突然ふわりと優しく微笑んでいた。
「影武者のあたしにも、雷夢と同じ苗字、あげたいって。そう思ってくれたんじゃないの?」
「――……」
 狙われている友人と、そっくりな顔の少女。現れた時には友人の姿を摸して、わざわざ「影武者」と名乗っていた。それはとても不自然な影武者で、後で友人に真相をきいてみると、「違うんだけど、そうなってる」と、不服気に返ってきた。確かに雷夢の眼差しは、とても大切な相手を見るものなのだ。

 紅い髪の少女はにへ、と笑うと、小さく尻尾を出して続けた。
「っていう、あたしの願望」
 はっ。華奈も慌てて、ぽかんとしていた表情を作り直す。
「あ、あなた……?」
「玖堂さんが、あたしと雷夢の暮らせるお家、今みたいにくれればいいのになー、って。それくらいの力、あるよね? 玖堂さん」
 あるわよ! とつい、食いかかるように振り返ってしまう。
「あるけど、下心丸出しでついてくる者に施しなどなくてよ!」
「へへへ。知ってる」
 な、と、友人以上に華奈のペースを乱してくる相手だ。どうしてそこまで、懐に飛び込むようなことを言うのか、距離感がわからない華奈は目をぱちくりさせるしかない。

 紅い髪の少女は、不意に華奈から視線を離すと、暗くなってきた空を笑って見上げていた。
「知ってるもん。あたしはそうしたいけど……そういう未来は、どこにもないって」
「……え?」
「でも雷夢は、玖堂さんのお世話に沢山なりそう。だから――ありがとう」
「――……?」

 いったいこの時、華奈には何が言えたのだろうか。見た目からして、明らかに人間でない紅い髪の少女。
 それでも友人によく似て、不思議と敏くて、華奈にたやすく踏み込んでくる者。

「とりあえず、ありふご、は何とかしてアゲテ……あーおかしい……あり、ふご……」
 目線を空から地上に戻すと、再びお腹を抱えて苦しそうにし始めた。
「ユーファ、こっちに残るの、もう先が長くないからなんだよね。できれば早めに改名したげて」
「そうなの?」
「あれでも千歳越えてるからねぇ。人間界にいた方が、ちょっとは延命ぽくなるというか……」
 気の重いことを淡々と言う、少女の内面には触れられそうもない。「出歩いても大丈夫」の言の通り、少女の顔や表情も気付けばあやふやになっていく。

 ちょうど黄昏、逢魔が時だな、と何となく思った。
 こうして華奈を、魔の者がひっそり闇の影で守る。そんな未来が生まれたことを、今の華奈は知る由もない。


転調:後奏曲 -灰心-

 
 地球にすれば、異世界でのこと。宝の世界の三大災厄、「悪神」と「忘却」と三度目の魔竜が、全て封じられた遠い時代に。
 人間の国にある教会の一室で、風の語り部から「忘却」を畳んだ魔竜の話を聞いた彼は、どうしても思わずにいられなかった。
「なあ。それって魔竜が、自分を殺そうとしなきゃ解決だったんじゃないか?」
 長い翠の髪の語り部は、事情を聴きに来た「灰の神」に苦しい顔で笑った。何故なら魔竜は、魔竜を滅ぼさんとする者の記憶を消した「忘却」を、わざわざ己が手で片付けたという。その結果、自身の制御も失った魔竜は、封じられるべき災厄だと認められてしまった。
 魔竜の源となった宝、自然の化身の竜人が持つ逆鱗は、己を守るための心だ。だから自ら死に向かおうとすれば、逆鱗はたとえ魔と化してでも己を守っただけ。

 魔竜が魔竜となったのは、「悪神」と「忘却」の奸計もある。そして何より、同じ竜種にこぞって殺されそうになった結果、魔竜は「力」を強めていった。だから真に(わざわい)と化す前に、滅びようとあがいたのだ。
 語り部は苦く、笑って付け足す。
「そうですね。おそらく、貴方と同じです、アッシュ殿。ヒトの脆い心で不滅の現身を得てしまうと、出口を探したくなるのかもしれなくって」
 けれど魔竜が世に在ったことで、裏方の「悪神」と「忘却」の災厄は認識された。「灰の神」のように弱小な元人間ではなく、(いにしえ)の災厄は魔竜を利用して強大な竜という種を潰そうとした。自然の化身である竜種は、埒外の存在である魔竜を認めないとわかっていたからだ。

「『神』なんて災厄だろ、基本。面倒な古参を片付けてくれたことは、俺としては非常にありがたいんだがな」
「それでわざわざ、ディレスまで来たんですか?」
 さてな、と。ヒト型の人形を作るしか能のない「灰の神」も、現在特に何をするでもなかった。庶民に紛れて生きる彼の記憶を奪った「忘却」が、あとどれくらいの間、眠っているかを確認に来たのが大きい。
 ただ、「忘却」に抗った魔竜の話は、不思議なほどに彼の心に残った。それから魔竜が四度目に現れるまで、悪癖である初期化をせずに己の記憶を保っておこう、と思ってしまった程度には。

➺Aメロ -蒼-

➺Aメロ -蒼-

 欠片ほどの縁しかないのに、悪魔の陣営にも顔を売っておいて良かった。彼、いつの間にか悪魔の君主の一端にされた「灰の神」は、自分に言い聞かせるように思った。水や塵芥の扱いに僅かに長けて、現存期間がやたらに長いだけの彼に、蠅の悪魔の適性があるとされたのはどう考えても過大評価なのだが。
 おかげで別派閥の真性魔王一派が久しぶりに魔界から出た時、魔王が狙う一つである魔竜の情報を横から入手できた。魔王より一足先に、魔竜を追いつめることができた。
 千年待った。「忘却」の封印が解けるのはおそらく千年強と言われ、再び「忘却」が動き始めた時には、彼の魔竜の知識も盗られかねない。その前に会うことができて良かった、と、とりあえず押し倒した紅い髪の少女を真上で見つめて無情に想った。

「――あ……」

 現在いるのは、彼が人間界に出入りする時、使わせてもらう屋敷の一画。そこの富豪の友人として、魔竜の混じる一行が滞在することがわかったからだ。彼はホームステイ中でカジュアルな留学生なだけだが、魔竜と思しき紅い髪の少女を見つけられたので、相手が客室で一人になった時に押しかけていった。
 初対面の少女は、座っていたベッドで突然見知らぬ悪魔に組み伏せられて、紅い髪より更に赤い顔になると、あたふた彼を見上げて暴れ始めた。

「ア――ナタ、誰っ……!?」

 おそらく少女は、彼の気配が悪魔としてはあまりに弱いために、執事や召使とでも思ったのだろう。これだけ近付く間際まで警戒を見せなかった。
 異世界の(あやかし)である少女は、人間界では「力」が弱っているのも大きい。少女にとっては危険の少ないはずの屋敷で、隙を見て両の手首を抑えつけられ、そして何故か体が動かなくなるなど、全く想定外だったと見えた。

――……名乗れるほどの、名前もないわけなんだが。

 少女に覆いかぶさる形の、情け容赦ない彼は彼で、正直面食らっていた。
 彼は元々、有名な悪魔の適性がわずかにあるだけの、至って弱小な「神」に過ぎない。だから魔竜と相対するなら、まず無力化を、と思って、有無を言わせず両手を掴んで、彼の特殊な「力」を最大に送った。
 弱小な彼が悪魔をしていられるのは、ひとえにこの奇襲が誰にも有効なことだ。本当にただ、相手をしばらく無力化するだけの「力」。使い勝手の良いところには、特性を知られても相手に近付きさえすれば、いつでも通じる「力」であること。

「な、んであた、し……動け……――」
 仮にも魔竜と言われる化け物の少女は、こんな無力さが慣れないらしい。怯えというより戸惑いなのか、間近の彼を直視しながら真っ赤になってしまった。
――いや。そんな、つもりは。
 少女のその反応が、彼にも意外で、困ってしまった。
 魔性の紅をきらめかせる竜。それはこんなに、心細そうな涙をうっすら浮かべ、おどおどと彼を見上げるイメージでは決してなかった。
 強大で厄介な魔物を一つ、軽く拘束しただけのつもりが、これでは彼が無垢な少女を襲った絵面。とても始末の悪いことには、少女は年端もいかない姿で、よくて十五歳といったところ。更には並みいる悪魔の美女をもしのぐ美少女で、淡く潤んだ水葵(みずあおい)の紫の目に、マズイ、と彼は理性を落としかけた。
 これはやばい。魔竜がこんなに可愛いなんて聴いてない、と彼は、遠い日の語り部を脳内で責めた。

 動揺する彼が黙り込んでしまった下、少女はひたすら、ポカンとした赤面で彼を見ている。動けないので抵抗できず、状況もとんとわからないため、どうしていいのか、といったところだ。
 それも意外だ。在りし日には竜種を滅ぼすほどに暴れた魔竜というなら、こんな不躾者には相応の呪いを吐けばいいのに。


 外では木枯らしが強くなったらしい。分厚いカーテンをかける、黒い窓枠がカタカタと揺れた。灯りをつけずに眠っていた少女の薄暗い客室は、窓から差し込む日暮れの重い光しかない。
 立冬が過ぎ、聖夜の近い年の終わり。黄昏時でも見やすい紅い髪が客用布団の上に広がり、両目の奥の青い光が彼に向けられている。寒いのに袖のない上着と短い(ひだ)のスカートは小さな体を更に細く見せて、同じ年頃の人間より弱々しい生き物に見えた。少女がずっと、今にも泣き出しそうな紅い瞳で、彼を見つめていなかったのなら。


 こうした初対面時の暴挙について、二十年以上後に、まさかの同屋敷での再会があった。すっかり紅い魔物から蒼い天使になった相手は、不服気に彼に言ったものだった。
「いや、まさか、あの時のヘンタイが貴男とは思わなかった。いきなりヒトを戦闘不能状態にしたくせ、一言も喋らず去って行くとか、どんな状況!? って、三日くらいこっそり考えたからね?」
「……」
 黒ずくめに白衣の彼は、何一つ否定できずに俯くしかない。彼もまさか、お抱え医師になった富豪の下で、元魔竜に会うことになるとは思ってもみない運命の悪戯だった。

 事態はおかしなことだらけだった。しかしとりあえず彼は、疑念を横に置いた。今は彼の雇い主の娘のことで、この蒼い天使と交渉をしなければいけない。
「で、ナナちゃんの件は、お前さんがこれから手を打ってくれるのか?」
「仕方ないでしょ、玖堂さんにはホントに色々恩があるから。でもあたしが表立って動くわけにいかないし、全部貴男――橘カイの横槍ってことにさせてもらうけど、よろしい?」
 ただの人間である雇い主は、末の娘が不治の病にかかったことで彼をお抱えにした。彼は人間の病には普通の医師で、せめて苦痛少なく看取ることしかできない、という話だったはずだが、ある時からおかしな状態に屋敷が変貌していた。
「……この屋敷をゲヘナに変えたのは、俺じゃないが?」
「知らないわよ、あたしに言われたって。あたしは玖堂さんの守護天使をしてただけなのに、どうしてわざわざ、娘さんの病気にまで関わることになったのかしら……」

 橘診療所。ただのお抱え医師なはずの彼の居室が、いつの間にか「屋敷の内に建てられた診療所」に変わっていた。
 もうとっくの昔に廃業していたはずの、「灰の神」本来の特別な技能、「灰人形」を作る業のための設備まで地下に整っている。そうでなければ雇い主の娘を、人形にしてでも生かすことはできなかった。それもただ灰人形にするだけでは(ナナ)の心を維持できるかが怪しかったので、一度娘の霊魂を見習い天使として自我の補強をした上での、彼と蒼い天使の共同謀略となった。
「玖堂家は確かに、人間界における時の闇の一端だったけど、あたしが知ってる頃には異世界に繋がる古井戸があっただけよ。それがどうしてこんな、アナザーワールドワイドな診療所になってるの?」
「俺に言うな。雇った覚えのない外来医までいるし、誰も彼も当たり前に診療所があった顔をしているし、俺は嫌でも、院長をやらなきゃいけないらしい」

 そう言いながら、彼には本当は、頭の痛くなるもう一つの記憶が怒涛のように押し寄せていた。目前の蒼い天使はわかっていない、彼とその相手を引き合わせた縁。
 この蒼い天使が顕れた時から、彼は「橘診療所」に引きずり込まれた。蒼い天使と同じ姿かたちで、髪と目色の違う紅い妖。地獄の底で生まれた彼女が誘う、「有り得なかった世界」の夢へ。

➺Bメロ -蒼-

 魔竜に会おう。不滅の「灰の神(アッシュ)」である自分の記憶を、初期化を千年やめてまで企んだのは、恨みつらみだと彼は思っていた。
 「橘診療所」の見慣れぬ天井。ソファに寝そべり、煙草の煙をくゆらせ、院長の彼、橘(カイ)は思う存分微睡(まどろ)む。

 魔竜が「忘却」を、ボロボロにして封印したせいで、「忘却」は大半の「力」の制御ができなくなった。そのため「忘却」が大量に盗っていた、彼の古い情報が戻った。
 最早他人事のような記憶だったが、不滅という存在はなかなか重い。彼が最初は人間に生まれたこともあり、「神」を降ろして歳をとらない体になった時に、初めて自らを殺してみようとした。その結果は自身の記憶をほとんど失うだけで、廃人の状態になって傷がゆっくりと癒えた。自分が誰かわからないままうろうろしていると、やがて常識だけが復活してきた。
 彼の眼は、「神」になった時から「神眼」というものであるらしく、何かを眼に映していればそこにある「意味」、世界の在り方を勝手に認識していく。見ているだけでヒトに戻り、己の業も再び扱っていく。
 だから彼は、自死という初期化で何度記憶を失くしていても、いずれ同じような彼として生活する。「意味」を捉える眼の情報は時代ごとに変わっていくが、受け取る彼は結局彼でしかない。
 忘れたい記憶は、世にいる限りは沢山できた。幾度も自分を殺して初期化し、永い時を往く旅に耐えた。「忘却」が何故それを保存していたかはわからないが、実は腐れ縁だったからかもしれない。「忘却」達の存在すら忘れさせられていたが、彼の初めの名前は「灰夜(かいや)」だった。「忘却」は「白夜(はくや)」、「悪神」は「悪夜(あや)」で、古の女神に近い「神」に送られるのが「夜」の名なのだ。

 とりあえず彼に、そんな諸々の記憶を突然取り戻させた魔竜を、彼は逆恨みした。

――それって魔竜が、自分を殺そうとしなきゃ解決だったんじゃないか?

 酷いとばっちりを喰ったものの、「忘却」が派手に征伐されて、それで魔竜が報われたのなら良かった。なのに事もあろうに、魔竜は魔竜自身を殺すために、「忘却」の過保護をはねのけていた。
 利用するためであったとしても、「忘却」が消したのは魔竜を滅ぼさんとする者達の記憶だ。わざわざその仄暗い(とばり)を、引きはがす必要はあったのだろうか。どうして「魔竜」を負った少女はそこまで、自らを滅ぼすべきものと断じていたのだろう。

 「魔」とは古来より、「神」にしか救い得ないと言われている。生き物が本来辿る必滅の運河を離れ、我執だけがどんな形でもあり続ける歪んだ魂。さりとて闇に在る「神」のように、不滅の「意味」は持ち得ないもの。
 それが何故、「神」にしか救えないかはわかっていない。「魔」でなくなるためには、「神」に塗り変えられるのが早い、その程度の話だ。
 「神」は不滅で、たとえ誰かに命を奪われた時も、相手の命に遷って続く。「力」が勝れば相手が何者でも「神」に書き換えられる。それをヒトは祟りや神隠しと呼ぶ。
 彼のように、彼だから降りてきた「神」も存在している。世界のヒトは全て「神」の器に過ぎず、気まぐれに闇から出る「神」はそうして、己の「意味」を体現できるヒトに降りる。たとえば彼が、「水を(けが)す」才能しかない異端の弱者であっただけでも。

 「魔」でなく、「神」にする。そんな下らない、暇潰しのつもりだった。
 魔竜は多分、そんなことを望んでいない。彼の記憶を戻したことの仕返しに、嫌がらせをしてやりたかっただけ。
 彼も魔竜も、要するに死ねない生き物なのだ。それが「神」でも「魔」でも、別に大差はないことだろう。玖堂家の客室で間近で魔竜を見るまでは、彼はそう思っていた。

――あなた、誰……?

 細い柳の眉をよせて、耳まで赤らめていた魔竜の少女。押さえつけられた手の、指先が飛び飛びに震えていた。
 「神」にするなら、彼をここで魔竜に殺させるか、彼が魔竜を殺せばいい。弱小な彼だが、彼が操る「力」の灰は、大気でも物でも体であっても、対象の内にたやすく侵入できる。そこに微かでも水気が存在すれば混ざり、穢れた水を含むものの動きを封じられるのが彼だ。
 「水」は、世界が創造される前から漂っていたとされる、天上の(しゅ)がもたらす原初の(めぐみ)。彼自身はとても弱い生き物でありながら、彼の担った「意味」はあまりに普遍で、ほぼ万物に通じる「力」であるために、悪魔の王の一端にもされてしまうわけだった。

 だから彼は、弱いが魔竜を殺せる稀少な一人だ。普通の者が殺せば魔竜は復活するだけだが、「神」の彼が殺せば魔竜は彼に命を奪われ、彼の命に潜む「力」となる。
 魔竜など取り込んでも制御をできる気がしないので、そこから彼がどうなるかはわからなかった。それでも、そうしてやろうと思っていたのに。

 動きを封じられた少女が、彼を殺せないのは当たり前だ。灰の効果はそう長くは続かず、早く殺さなければ彼は返り討ちにあう。
 それなのに少女の瞳の内を、食い入るように見つめてしまった。思えばあれが、地獄の火の池(ゲヘナ)の入り口だった。
 あの瞬間に、彼が黙って立ち去るか、それとも――

「……前世の記憶が戻る系主役って、こういう気分なのか、ひょっとしたら」

 道はその時、おそらく分かれていた。
 彼はそこで、蒼い天使が言うように無言で去ったはずなのに、「橘診療所」にいる(カイ)には違う夢の続きが見える。
 
 違う夢と言っても、起こることの大半は似ている。
 蒼い天使と知り合った後、やっと見つけた! と、彼の居所に海の竜が乗り込んできた。魔竜を待っていた旅の途中で、彼が気まぐれに懲らしめた高位の悪魔だ。
「この乾燥した躯体であれば、貴方にも封じられないでしょう、蠅の悪魔!」
「……アホか。内外に空気があればそこには水気があるし、水素を全く含まない稼働物はそうそう存在しない」
 彼が魔竜に会った、二百年以上前――玖堂家では二十数年前の時の魔王は、もう隠居している。最新魔王もやられた現在、残存勢力のツテで、悪魔であるその海竜は丈夫な依り代の人形を得ていた。
 初めて会った頃には自我を持ったばかりの若い海竜が、工夫すれば召喚者なしに現界できる異端のために、人間達に偉そうな顔をしていた。ちょっとばかり動けなくして驚かすと、恥をかかされた! とずっと彼を恨んでいる。ここ百年は落ち着いていたが、どうやら今は暇らしい。

 端整な顔と蒼い漢服で、「力」まで使える出来のいい人形に宿っているが、世の物質を構成する原子自体、水素という原初の粒子に色々足したものだと彼は学んだ。もっと細かい素粒子の高次生物でもない限り、彼の「力」を防げはしない。
 いつも通り動けなくしてやると、何故! と怒鳴りながら、玖堂家保健室の寝台にへばっていた。この光景はどんな彼の居場所であっても起こるものだ。

 動けなくはできても、生き物でないものを殺し切れる「力」は彼にはない。生き物なら何とか殺せるように医学は学んでいるが、悪魔は概念と「力」なので、ヒトや物に宿らないよう、散らしておくくらいしかできない。
 魔竜の少女は殺せただろう。だからあの時、彼はついうっかりと、勿体ない、と思ってしまった。
 その少女はおそらく彼だけが、本当の意味で殺してやれる。(のぞ)みを叶えてやれる、とわかってしまったから。

 「魔」である限り、周囲から糧を取り込めば魔竜の体は復元してしまう。竜の糧とは自然なので、何処にいてもいずれは回復できてしまう。
 特にその少女の回復が早いのは双子の姉の「力」が大きいためで、姉に生かされ続ける竜の巫女だった。玖堂家に滞在した少女と双子の姉の姿を見たので、彼には魔竜の抱えるひずみの根本がわかっていた。

 ふう、と居室で机に足を預けて休んでいたら、隣の保健室で物音がした。
 まだ動ける時間ではないはず、と思いながら、一応確認のためにドアを開けると、はたしてそこには思った通りの光景が広がっていた。
「――ありゃ。本当に適合、できてしまった……このコやっぱり、父さん達の力を継いだ竜っぽいなあ」
 寝台の上、今まで白青の髪と薄青い目だった人形が座り込んでいた。ある妖狐の宝の首飾りをかけて、様相のみならず声色まで変えて。
 彼は知っていた。この診療所にはこうしていつか、青白い狐火玉を媒介に天使が降りることを。
「あ、こんにちは、キッカイ先生。あれから菜奈ちゃん、お元気してる?」
 にこり、と蒼い髪と水葵の目で、本来人形を動かす海竜と取引した者が笑った。海竜も不本意ではあっただろうが、魔力の提供者がいる方が人形の稼働が安定するのだ。

 その色合いと人懐っこい声は、紛れもなくいつかの蒼い天使。
 どんなところと場合においても、次代の竜の巫女を助けるために、必ず彼の前に現れるかつての魔竜だった。
「……わかりきったこと、きくな。……〝なぎ〟」

 「?」と人形が、首を傾げた。あどけない表情は無防備そのもので、狐火玉の後ろの背には炎獄(ゲヘナ)の翼が揺らめくことにも気付いていない。
「この海竜、なぎちゃんって言うの? 可愛い。貴男、『神』だけあって、名付けは基本バッチリよね」
 無邪気な天使は、いつもこんなに幼くはない。むしろ蒼い天使であるのは、魔竜であったことの代償のはずだ。それは償いというものではなく、滅びることができない魂のため、魔竜でなく天使として働くように鎖につながれた話。

 紅い妖の青白い火が、近付いてきていた。彼がどれだけ逃げようとしても、他ならぬ彼こそがその妖狐を炎獄から連れ出す。
 否定したかったのだが、無理なようだった。憑依の時に着崩れた漢服で、大きな袖でぺたん、と座り込む人形が愛らし過ぎた。
 そんな感情が浮かぶ相手は、どれだけ探しても他には見つからなかった。

「……ところで、お前さん。俺の嫁になる気は、ないか」

➺サビ  -紅-

 長年待った魔竜を人間界で見つけ、立冬が過ぎた後の年の終わり。長い黄昏の陽に溶けそうな紅い髪が、客用布団の上に広がっている。魔竜たる少女はずっと、泣き出しそうな紅い目の奥、青白い瞳で「灰の神(アッシュ)」を見つめていた。
 木枯らしが強くなっていった。分厚い紅のカーテンの窓がカタカタと揺れた。灯りをつけずにいた少女のベッドを、窓から差し込む夕焼けの赤が染め上げている。

 彼は正直、驚愕していた。
――いや。そんな、つもりは。
 あなた、誰……? と弱くきかれた。その場で思わず、口を開いていた。
「……名乗れるほどの、名前もないわけなんだが」
 言葉をかわす気などなかった。魔竜を殺すか、それとも殺されてやるか、悩むのはそれだけのはずだったのに。
「あんたこそ、誰だ。俺は魔竜を探してきたのに……あんたはただの、可愛い化け狐じゃないか」

 きょとん、と少女が、大きな紅い目を丸くした。次の瞬間、えええ? と体を激しくのけぞらせるまで。
「何それ、離して、意味、わかんな……」
 少女はおそらく、初心というより、感覚が鋭い方なのだろう。思わず声を出してしまった彼の、必死に抑える熱を感じ取っている。少女に向けられた強い想いは、彼が一番驚く程に体の奥から沸騰していた。

 紅い髪のはずの少女に、何故か蒼い髪が重なってみえた。潤んだ縦の細い瞳の内で、黒髪に黒目の彼が顔を歪める。
 「神」となってからの彼に、普通の人間のような情欲は薄くなっていた。命のやり取りが「力」の受け渡しになる「神」一般には、「力」を継ぐ子孫を作る行為は、己の「意味」を失うことだ。それは子孫が「神」になることであり、彼はそれだけはさせたくなかった。
 滅びることができない身など、自分一代で十分なのだ。魔竜のことも、彼なら滅ぼしてやれるかもしれない、そう思ったから追いかけてきてしまった。
 滅びたがっている魔竜の、抱え続ける苦しみがわかった。それだけのことだったのだと、こんなところでやっと気がつく。

 彼がここで関わらなければ、腕の下で震える魔竜は、やがて蒼い髪の天使となっていく。どうしてなのかそんな記憶が、何処からかもわからず理性を奪った。
 その往く先は、つまらない、と。これから彼を、永遠に振り回す紅い誰かを、みすみす逃す手はあるのだろうか、と。

 まさに悪魔のささやきだった。地獄の谷底、火の池のさざなみを司る暗黒の天使()は悪魔と言ってよく、こうして時折地上に運命の悪戯をする。
 この屋敷、玖堂家には異世界につながりやすい闇がある。やがて「橘診療所」という炎獄の入り口が建てられ、数多の異世界につながる中継点となる。そんな幻想が燃え上がるのは、魔の竜だった蒼い天使を、炎獄の支配者が欲しがったからだと後に彼は知る。
 橘診療所のスタッフ面々は、自覚がないがほとんどが炎獄の天使の影を持つ。免れているのは蒼い天使の守護する雇い主と、その家族くらいだろう。


 彼の前に現れた四度目の魔竜は、素体は妖狐として世に顕れていた。
 それでも魔竜の業は消えない。「魔」とはそうして、一度囚われたら救われない魂を抱え続けるものだ。
 その時点では妖狐として行動していた少女を、古い魔竜と一目で看破した彼を、当然ながら少女は警戒を始めた。魔竜他を狙う魔王一派に既に重く関わっており、一派の情報をやる、と提案する彼に、ある意味魔王本人を見るより怪訝な紅い目線を向けた。

「アナタ、いったい何が目的なの?」
 魔竜以上に、その姉である竜人を魔王が狙っているので、少女はやむにやまれぬ、と彼から何度も情報を引き出しに来た。その都度彼は、素直な心を伝えるのだが、赤くなるばかりの少女は受け取ろうとしない。
「だからあんたに、生きててほしいだけだ。どうせお互い、死にたい時に消えられる身じゃないからな」
 彼、「灰の神(アッシュ)」の特性も教え、彼ならいつでも少女を殺せる、止められると言った。だから少女は最早、己の「魔竜」に怯える必要はないのだと。

 少女はずっと戸惑いながら、自身の業を話せる稀な相手に、遠からず心を開くようになった。
「どうしてそんなに、あたしのこと、知ってるの……?」
 少女が魔王を利用する勢力の元へ、姉と離れて乗り込む直前のことだった。少女に協力して砦を提供した、魔王の配下の館へ彼は訪れた。
 魔竜を知ったきっかけである、「忘却」のことを話し、ついでに腐れ縁だと告げた。彼の来訪に少女は初め、酷く驚いていたが、自身の過去を知られる理由を納得すると同時に、何故かとても不満な顔で、謎の不機嫌になってしまった。
「あの女と、長い付き合いなんだ……へえ……」
 「神」同士だもんね、と、長椅子の上で膝を抱えてしまう。広い寝台に座って横目に話していた彼は、少女の目の奥、青白い火の意味がわからなかった。

 彼は、自分の命を狙う者は大軍規模で足止めできるが、逃げるだけで鎮圧ができない。灰を紛れ込ませた相手は命を奪うこともできなくはないが、悪魔である前に「神」な故に、殺生をすると抱える命が増える。ヒトも本当はそうして命のやり取りをしているものだが、「神」ほど直接互いの命と向き合う生態ではない。
 悪魔は逆に、殺した相手の命を抱えず、魂だけを奪う魔の性を持っている。だから悪魔に殺された者は、黄泉路に迷って悪魔となることが多い。自意識がおおむね「神」である彼は、悪魔として相手を殺すことが難しいのだ。

 そうしたわけで、彼は弱小を自称し、戦闘には根本的に向いていない。足止めができるのは短い時間で、相手を殺すためか、彼が逃げるためにしか使えない。
 それなので少女の、魔王擁立勢力との対戦には彼は同行しなかった。そもそも秘密裏に助力することに作戦上の意味があるので、ついていく必要を感じたこともなかった。
 けれどそれを、初めて後悔することになった。魔王の配下の館から出た魔竜の少女は、謎の不機嫌の理由を説明することなく、魔王の変貌に不意をとられて魔竜たる逆鱗を奪われてしまう。

 彼の配下にあたるものの、どちらかといえば彼に温情をかける悪魔の令嬢が、逆鱗を抉り出される大怪我を負った少女をぎりぎり助け出していた。
「死竜が助けようとしたから、仕方なく、よ。あのバカ……私とこの子を逃がすために、自分の守りを捨てちゃったのよ」
「……すまない。まさか死竜が、こちらをとるとは……」
 令嬢の連れ合いになるはずだった魔王の配下、死竜の乗り手がそこで魔王に取り込まれた。その男は魔王を利用する勢力に牙を剥いて、少女を助けていた。
「死竜が認めたのなら、この子にはアスタロトの力が流れてる。妖狐な時点で、まさかと思っていたけど……あのバカの娘よ、紛れもなくね」
 悪魔と狐仙の混血がその男だった。彼も少しは疑ったのだが、何分魔竜は、あやふやな生まれだ。男の若気の至りも知らず、魔竜の双子に狐の縁もほとんど見えなかったので、少女が妖狐である現実を軽視していた。

 魔王の類でもなければ、竜の魂たる逆鱗を他者が完全に分離することはできない。
 本当はここで、魔王は魔竜を自らの「力」とするはずだった。そのことを彼は、目覚めた少女からきくことになる。


 どうして、生きているんだろう、と。
 額に派手な穴があいた少女は、魔王に魔竜たる魂を奪われ、身体を復元できずに終わるはずだった。令嬢の城の寝台でそう呟いていた。
「あたしの代わりに……また、ヒトが、犠牲になっちゃった……」
 額にあった逆鱗を失い、回復の要の右眼も潰されかけた少女を、裏切った死竜の乗り手がかばった。包帯をかける傷で済んだ右眼が、四度目の魔竜たる逆鱗のない少女を治したのは、魔竜でなく少女自身が生きようとした表れだった。
「あのヒト、ほんとは、戻れるはずだったの……でも、自分が消えても、生きてくれって……あたしは今、どこにいるの……? アナタ、は……どうして……」

 横たわる少女を看ていた彼は、そこで初めて、少女が未来を夢で視る者だと知る。
 正確には、少女が視る夢の本質は「過去」だった。少女は遠い日、未来を夢で知る魔竜を己に降ろしたのだ。少女より以前の、最初の魔竜が見た夢を追い、少女は自分達の未来を知った。その夢で知った自身――二度目と三度目の魔竜を、禍だと断じて滅ぼそうとした。

 彼は後悔していた。少女に土壇場で生きたいと思わせたのは、彼でなく少女の父であったことと。
「あんたは、ずっと……知っていたのか……?」
 少女はいつか、魔王の糧となる未来を受け入れていた。その先に実体なき蒼い天使となり、橘診療所の彼と出会うはずであったことも。
「……ううん……さすがに、ただの夢、って思ってたの……嫁になれなんて、あたしに言う奴、いくらなんでも、頭がおかしい……」
 ずっと少女に付き添う彼に、何の遠慮もないことを言う。彼も否定したく思っていた、未来の炎獄にある彼の感情。そのせいで少女に関わってしまった。
 彼はいずれ、この少女に嫁になれ、と言うのだ。それを知ったのがあの黄昏の玖堂家で、ここにいる(アッシュ)と蒼い天使が関わる(カイ)が、「橘診療所」の淵で交じった瞬間だった。

 二十年以上の時差があるのに、彼と彼は互いの感情を知った。それはおそらく、感情自体はとっくに存在していて、目を背けていただけだからだろう。
「……じゃあ、言う。あんたの望みを、これから俺が、叶える手伝いをする。だから……」
 頭がおかしい。それはまさに、少女の言が正しい。
 だから千年、時を待った。自ら滅びはできない彼と、「神」以外で永く傍らに在れる相手を。
「俺だけのあんたに、なってくれるか」

 こたえを聞く前に、彼はあの日のように、少女の手首を掴んだのだった。

➺Cメロ -紅-

 「力」――心の制御を担う逆鱗を分離されて、魔竜の少女はまともに戦えなくなっていた。双子の姉の再三の言い付けもあり、支援者の令嬢の城で大人しく守られていた。
「大丈夫かな……向こうも記憶、戻っちゃったはずだし……」
 双子の姉に、昔の力と共に記憶を宿す宝を、少女は返した。使わずに済むなら封じたままでいたかった、と、療養する寝台で膝を抱えながら言った。
「仮にも魔王相手に、力の出し惜しみは無理だろ。とられたのは逆鱗だけで、魔竜の本体が魔王に渡らなかったのも僥倖だからな」
 ほら、と貴重な林檎を切って出すと、無表情のまま少女の頬が赤くなった。彼の前ではずっと素直でない少女の、嬉しさの表現だと段々わかってきた。
 この妖狐はとにかく、甘い物が好きだ。徐々に食べ物で釣っていこう、と決めた彼に少女がほだされたのは、魔王と姉の戦いが決着した少し後のことだった。

「おねえちゃんが、とられた……やっと、ふつうに、いっしょにくらせるとおもったのに……」
 う、う、と幼い子供に戻ったかのように、令嬢の城で泣き続ける妖狐。変貌した魔王を正気に戻した姉が、そのまま魔王と人間界――玖堂家で働き、二人で暮らすと決めてしまったのだ。いつまでも長椅子の座面で膝を抱いて拗ねている。
「やっぱりアイツ、ころしておけばよかった……まけたあたしがわるい……ずるい、くやしい……」
 やれやれ、と背面から頭を撫でると、回した腕にしがみついて、そのまま長々ぐずっていた。
「あんたも人間界で、一緒に住んだらいいだろ?」
「……ダメだよ。竜宮、また魔族に占拠されないように、あたしが封印しておかないと」
 お。と彼は笑う。今度は突然、大人びたことを言う少女。この度の戦いの地は、その判断が尤もだと彼も思った。
「じゃあ、ついてってやる。残存勢力の掃除くらい、手伝えそうだ」
「……――」
 そこでやっと、少女が振り返った。紅い目の涙は止まっていて、じーっと、何かを抑えるように不服気に、彼をひたすら見つめていた。
「?」
 複雑な視線の意味を、令嬢の城を出て一日目で、彼は驚きと共に知ることになる。

 双子の姉から「力」を預かり、魔王から逆鱗も返してもらい、健全に自身の意志で魔竜となった少女は、姉が魔王から奪回した竜宮の城に彼と二人で行った。
 少女にとっては長く幽閉された地で、多少は勝手を知る城だという。着いてすぐに結界を張り、何人も訪れられないようにしたところで――

 なんだ、これは。ツンデレのデレか。(アッシュ)の知らないはずの概念が、おそらく橘診療所から流れてきた。
 現在制圧済の領域に結界を広げ、疲れた、と唸る少女を、少女の希望で質素な部屋に休ませにいった時だ。
 これから毎日、敵の動きを彼が止めては少女が排除し、いずれ竜宮全体を結界で覆う日々の一日目のこと。黒ずくめの彼が寝台を整えてやっている時に、ていっと後ろから少女が彼を押し入れ、そのまま一緒に、未完成の寝床に入って甘え始めた。彼は呆気にとられてしまった。

「……??」
 背中側から、何も言わずにくっついてきて、彼に振り向かせないので表情がわからない。ぎゅっと掴んだり抱きしめたり、すりすりと頬をよせたり、まるで動物のような触れ方をしてくる。
 少女と違って寝間着にも替えていなかった彼は、少女が満足して寝つくまでは、自身の鼓動を抑えるためにもそっぽを向いて好きなようにさせた。

 少しでも動くと、眠っていても離すまい、と掴んでくる少女を置いて、狭い寝台を抜け出すのは無理そうだった。諦めて彼は、眠れないまま夜を明かす。
 少女は彼に、これまで何の返事もしてこなかった。元々人付き合いが少ない「魔竜」なので、話し相手であるだけで特別なこと、気を許した者の隣でないと寝つきはしないことも、看護をしてきた身には一応わかっている。
 だからおそらく、二人で竜宮に行く時点で、少女の中ではとっくに彼が伴侶であるらしい。我侭だな、と、平和な寝息に一人ごちる。

 後からうっすら聴いたことには、本当はずっと彼に触れたかったが、彼女のために連れ合いを失った令嬢の城では、とても近付けなかったという。
 真っ赤になるのを見せたがらず、向き合って眠っても彼の胸に顔を埋めてしまう。自身には進んで触れさせないわりに、彼には何かとくっつこうと、肩や腰を度々揉んでくれる。「神」である彼は子供を持つかが悩ましいので、無理に関係は進展させない。

「白夜、随分たったけど、いつ封印が解けるのかな……」
 竜宮の封印、間に合うかな、とよく頭を悩ませている。封印はできても、何かが上手くいかない夢を視る、と彼を恨めしそうに見るのだ。
 そう言えば、姉の件で察しておくべきだった。彼女は当初から魔王を嫌っていたが、いつか姉を奪われると知っていたかららしい。
「白夜が起きたら、絶対、〝腐れ縁〟のアッシュに何かしてくる」
 彼女の独占欲は強い。それは遠く、知人レベルにおいてまでも。

 今まで見ることのなかった未来の夢が、最近は彼女に押し寄せてくる。そう不安げに話すことが多くなった。
 彼女曰く、これは彼女の知らない未来。自分が生きているのが想定外で、どこにつくかわからない流れが怖い、と、竜宮を少しずつ閉ざしながら俯いている。

 彼女も彼も、方針は一致していた。なるべく人世に関わらずに、竜宮に引きこもること。
 しかし神域である竜宮の気だけで生きられる彼とは違い、妖狐の彼女は定期的に甘い物が要った。彼も煙草の葉はほしく、二人で茶っぱや果物、小麦やサトウキビに乳牛と飼料を育てて暮らしていると、竜宮全域の制圧がつい後回しになった。
「ごめんね、アッシュ。あたし、助けてもらってばかりで、アナタに何もしてあげれてない」
 別に、と、すっかり自給自足生活に慣れた彼は、思えばこの頃が一番幸せだった。
 何か他に、ほしいものは? ときくと、彼女は飽きずに顔を赤らめ、彼の黒い目から顔をそらして、はにかむように口にしていた。
「……名前。アナタだけの、あたしの名前」
 ぐ、と彼がつまる。前からちょくちょく、彼女が望んでいた件を改めて言われた。
 彼は何故か、気が進まないのだが、彼女曰く最初の愛称は姉のもので、魔竜の名はやはり好きではなく、彼からの特別な名前がほしいと言う。
 彼としては、魔竜の紅い花(フースィア)が名付けとして勝てそうにないので、彼女の望み自体は可愛いが逃げ回っていた。彼女は魔竜の名のアナグラム(アースフィーユ)を通称として名乗り、彼もあえて名を呼ぶ時はそれを使っていた。

 それでも、まだ視ぬ運命が怖い、と何度も彼女が泣き出しそうに言う。だから彼は、そんな荒波が訪れないよう、祈りを込めて「(なぎ)」という名前を贈った。
 太古から水を穢して動きを止める、彼だけが解る名。彼女はとても嬉しそうに……そして、最早ごまかすことができないように、火の池に揺らめくさざなみを伝えた。
「ああ……やっぱり、あたしが、『凪』だったんだ……」
 その名を持つ紅い妖狐が、これから引き起こす様々な出来事。とっくに炎獄の支配者に目をつけられていた彼女は、いつか自身がその名を持って、火の池の天使となる未来を視ていた。
 それは逃れることができず、彼女自身が選んだ末路。魔竜でも蒼い天使でもなく、さざなみの妖狐としての彼女の名前。
 それでもずっと、認めたくなく、せめてさざなみを鎮める「凪」たれと望んだ哀しい賭けだった。

 (アッシュ)(カイ)と感情を共有したように、炎獄の一員、〝さざなみの凪〟と彼女もつながってしまった。いつかさざなみとなる自身を夢で視続け、彼女は既に「凪」になっていたと言える。
 それでも二百年近くは、彼と幸せに竜宮で暮らした。その思い出で充分だと言うように、最後まで彼のことを愛おしそうに、青白い瞳は見つめ続けた。

「ねえ。咲杳(さくら)桃花(とうか)のために、玖堂さんの家に診療所を建ててほしいの」
「……は?」

 竜宮と人間界では、時間の流れ方が違う。人間界での二十年は、竜宮では二百年に迫り、玖堂家の時間では彼がちょうど橘診療所の彼になる頃合いだった。
 「神」にはならないから、と、「凪」は彼との子供を望んだ。彼の水を止める「力」が半減したものの、確かに「神」でないヒト、水気を操る業を継ぐ長女の咲杳と、魔竜の逆鱗を継ぐ次女桃花が二人の間に生まれた。
 それまで「凪」は、何も尻尾を出さなかった。娘二人が幸せになるために、姉夫婦とその子達のいる人間界での足がかりがいる、と、彼に「橘診療所」の院長となることを望んだ。

「……大好き、アッシュ」

 「凪」がいつから、荒れ狂う運命のためだけに生きるさざなみとなったのかはわからない。彼に何の相談もなく、「凪」は長女を強力な悪魔に、次女を妖精に預けて竜宮を閉ざした。
 そして彼が、最も衝撃を受けた結末。死にゆく運命にある次女を救うためだと、彼女は自らの身体を魔竜の逆鱗の縁で次女の魂に明け渡した。彼女も次女も、そうした魔竜の巫女であるさだめだと言い、次女を守ろうとする飛竜の男の元へ「凪の身体」は去ってしまった。
 娘に身体を譲った凪の魂はさざなみの天使となり、そのままずっと彼の元に在ったが、彼にはそれは、裏切りとしか思えなかった。彼の「力」が半減していなければ、飛竜の男を殺していただろうほど。

「……ああ。俺も、あんたのこと、笑えないな」

 彼だけの彼女になれ。かつて彼は、彼女にそう望んだはずだった。
 娘達の当座の生活だけは何とか目途をつけると、彼はその後、凪の魂を玖堂家の闇の一部に閉じ込め、千年以上ぶりに自らを殺して、記憶の初期化を行っていた。
 橘診療所の院長として、彼に重なる彼が存在するため、全てを忘れ切ることはできない。それでも耐えることができなかった。彼以外の男のそばに、凪であった者が在る地獄の沙汰を。

 彼と二人だけの世界。閉じ込められた黄泉を、凪はそう呼んでいることも知らずに。

終曲:-空- 橘診療所シリーズ1

終曲:-空- 橘診療所シリーズ1

 人形の躯体で動けるようになった、蒼い天使に唐突な求婚をしてから。
 橘カイがアッシュである世で、彼を院長にした()が診療所の一部に幽閉されている。それを彼は、ようやく思い知っていた。
「……いや、それ。俺の記憶じゃないし、俺の罪でもないだろ」
「あははははは。すみませんねえ。うちの魔竜が、迷惑かけて」
 彼が診療所で(からだ)を整えてやった、不死の人間が笑っていた。
 正確には自分で死んだ人間を縁あって乗っ取り、不死人として行動している黒ずくめの女だ。
「でも言った通りだったでしょ? 天使のナーガたん、動揺したでしょ」
「いちいち何処でも、俺とあいつの縁を結ぶな。そもそもあいつ、普通に天使やってからもう二百年以上はたってるくせに、何で未だに反応が乙女なんだ」

 彼の頭が激しく痛くなった。橘診療所は異世界も並行世界もつないでしまうパラレルワールドワイドであり、そんな所にずっといる(カイ)は、彼とは違う運命を辿った(アッシュ)の記憶もこうして知ってしまう。
 つながってしまっているので、アッシュの嫁である凪が扉の一つの先にいる。彼が出会った蒼い天使と、同じ存在でも違う運命にある紅い妖狐が。

「妖狐の凪たんにも、会ってあげれば?」
「やめてくれ。俺でない俺がそうしかねないから、(そそのか)さないでくれ」
 本当にどうしようもないこととして、今の彼は、妖狐の凪と二百年は円満に暮らせた(アッシュ)が羨ましかった。
 その後に待つのは地獄のときだろう。姉を盗られた、と嘆く凪に負けず劣らず、彼も独占欲の強さが過ぎる。幸せな時間が続いたからこそ、苦しみが大きくなるのは痛くわかるが。

 こちら側の蒼い天使が、堕天してでも海竜の人形を使おうとしているのは、姪である今代の魔竜(アースフィーユ)の代わりに悪魔の城を管理するためだ。天使の身では魔界に入れず、五代目になる魔竜の巫女が担う悪魔(アスタロト)には、悪魔としての彼(バール)の伴侶となるさだめもある。
 魔竜である姪には既に、飛竜の男という連れ合いがいる。凪の件で意趣返しをするなら、彼がその姪を娶ってしまうのも一つだが、この世界での飛竜の男には酷いとばっちりだ。

 ナーガという、かつての魔竜の姓を名乗る蒼い天使に、彼はやがて「ナギ」の名を贈る。ナーガは人間界では竜王を表す言葉で、女の竜をナーギィという、と。
「……この、物好き。あたしなんかの、どこがいいのよ?」
 人形の顔をも真っ赤にしてまで、蒼い天使はその名前を受け取った。
 応えることはやめておいた。彼女を「凪」にしないために。


灰心 了

灰心➺D2転調

ここまで読んで下さりありがとうございました。
この話は拙作ファンタジー正史Dシリーズから、パブー掲載の橘診療所シリーズへの分岐点で、続きがいくつかパブーにあります<https://puboo.jp/users/sky-lux
序曲は大分古い過去作ですが、「紅い狐」と転調「灰心」は新作書下ろしです。橘診療所シリーズ向けの導入としました。
星空文庫への今後の掲載作を現在検討中のため、場合によっては本作は非公開とします。
とりあえず今年は、Dシリーズ完結を目指しております。気が向けばお付き合い下さいますと幸いです。

初稿:「キカイなお嬢と青い雷雲」2015.7.21
//「紅い狐」2024.5.30(星空文庫限定作)
//「灰心」2024.5.17

※Dシリーズは正史の物語であるため、本編は下記に掲載しています
ノベラボ▼Dragonシリーズ:https://www.novelabo.com/authors/4396/series/332
※「灰心」はスピンオフ橘診療所シリーズ初話のため、同シリーズ中心のパブーに単独で掲載しています
https://puboo.jp/book/135935

灰心➺D2転調

∴DシリーズD2外伝∴ 別作・キカイなお嬢の後日談+@の短編集です。おおむね単独で読めます。キカイなお嬢はドタバタ学園物ですが、同じ舞台のD2は現代⇔異世界ファンタジーで、その狭間にお嬢の玖堂家があります。「灰心」はD2スピンオフで、別サイト(パブー)掲載の橘診療所シリーズ初話です。 image song:茨の涙 by L'Arc〜en〜Ciel

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-06

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 序曲:キカイなお嬢と青い雷雲
  2. 間奏:キカイなお嬢と紅い狐
  3. 転調:後奏曲 -灰心-
  4. ➺Aメロ -蒼-
  5. ➺Bメロ -蒼-
  6. ➺サビ  -紅-
  7. ➺Cメロ -紅-
  8. 終曲:-空- 橘診療所シリーズ1