竜の仔の王➺D2
自然の化身をヒトとした「竜」と共に、様々な時と場所を駆け抜けて戦うファンタジー。
DragonシリーズD2本編です。別作『キカイなお嬢のヒビと恋』はこの話の前日譚となります。
本作はノベラボに常時公開予定作で、原案は最古作ですが執筆は最新の書下ろしで初版です。今後大筋は変わりませんが、文章の細部はD3完結まで修正のある可能性があります。
多少でも変わり得る作品を公開しておくかD1本編共々悩んでおり、本作は不定期公開とします。
2024.6.26
Special Thanks
キャラクター原案
D2:Lime/K氏/N氏/K.Y
※序奏∴間奏章の呪文で「マタイ受難曲」を引用しています
竜の仔の王➺D2
自分はどうやら、奇想天外な人々が集結する高校に来てしまったらしい。
街の川原でこっそり眺める、竜牙雷夢の剣の訓練の度、涼樹明は出番を間違えた、と項垂れている。
「凄いや、雷夢おねいちゃん。もうぼくに教えられること、ほとんどないよ」
「ウソでしょ。そもそもカヅキくん、剣が本命じゃないのに強いの、反則だし」
あはは、と笑う少年は、人間離れした深緑の髪色。ここ五年、あちこちを転々としてきた雷夢が何処に行っても、ふっと現れて剣を教える謎の相手だ。
アキラはカヅキと、顔を合わせていたことはない。けれども雷夢が、「何でアイツ、あんなに凄いの」と竹刀を肩によくぼやくので、適当に相槌を打つのがクセになっている。
帰国子女としてスポーツ推薦枠で、中高一貫高校に通うのが竜牙雷夢だ。編入生のアキラはその高校が、幾人もの傑物が通う魔境とは思いもしていなかった。
雷夢単体は、ちょっと強過ぎるヤンキー、それだけで済む。しかし無愛想な雷夢が珍しく笑って付き合う、一見大和撫子の玖堂華奈は、まるで少女漫画から抜け出たようなお嬢様なのだ。
「ちょっと、涼樹君。暇なら日直の仕事、手伝ってくれなくて?」
見た目や喋り方だけでなく、天才の知能をもって多国籍企業の家を采配している華奈は、雷夢が華奈以外でよく絡むアキラに目をつけてしまった。
華奈には帝御那王という、舞台俳優志望の彼氏がいる。こちらも偉く名前がたいそうで、やはり富豪の家の次男らしい。春日蒼帷という、金髪の不良によくたかられかけているが、華奈が目を光らせている内は、不良も露骨な悪事はしない。代わりに雷夢にちょっかいを出しては、Wカップルのような雰囲気を醸し出すのを、雷夢はとても嫌がっている。
そんなややこしい四者の中に、四月からアキラは混じってしまった。救いはもう一人の転入生、杉浦空という眼鏡女子が、彼ら以上にときに挙動がおかしいことかもしれない。
「華奈様ー、大変ですー。校門に刺客らしき黒服集団が隠れておりますー」
もう、ドタバタにまみれている日常が、こんなものだと感じるようになってしまった。
黒く長い髪を揺らして、大真面目な青い目で雷夢は言う。
「ちょっと。私の大事な金づるに、手出す奴は許さないから」
華奈は慣れた様子で、至って平静にしている。がくっとアキラが、思わず笑っていた。
日本の高校は、今日も平和だ。ある不穏な「魔」の器が、眼を覚ましてしまうまでは。
➺序奏∴間奏 影武者
「なーなー。雷夢ちゃん、元気ー? 週末、どっか行かねー?」
もういったい、軽さしかないこの声色に、何度睨みを返してきたことだろう。
雷夢にこうして、塩対応を受けても気にしないアオイは、今日も金髪と笑顔が胡散臭い。
「行かないし。いい加減、私に絡まないで。迷惑」
雷夢はこの中高一貫制である学校に、中学の終わりから帰国子女枠で転校してきた。アオイはその時から既にいたが、アオイも中二の終わりからの編入組だと最近きいた。屋上でぼけっとするのが好きな雷夢の元に、性懲りもなく度々現れてくる。
寡黙な雷夢とはタイプの違うアオイと、つるむ気は雷夢にはなかった。しかし高校に上がって少ししてから、痛いところを突かれてしまった。
「あんたの正体、オレは知ってるぜ? 人間じゃないっしょ、雷夢ちゃん」
アオイは様々な意味で、雷夢の感じている現実の斜め上をいく。
「オレもさ、実は魔王なんだよねー。雷夢ちゃんも相当、妙に強いなんかっぽいけど、どー? 人外同士、オレと付き合わねえ?」
何で。とつっこむ以前に、「魔王」って何だ。そんな強そうな単語にはとても見えないひょろひょろの不良に、雷夢はいつも言葉に困る。
その気配には本当は、雷夢も気がついていた。春日蒼帷と名乗る生徒は、常に蒼い石の指輪を身にして気配を隠しているが、日本人などとは到底言えない魔力の持ち主のはずだ。雷夢はある事情で、日本に身を隠していると言え、自分の周囲に現れる人外生物には注意をしてきた。
魔力とは雷夢の持たない力で、魔道に長けた魔族に多いもの、と死んだ母にきいた。魔族というのも、ヒトの魂や血を糧にする生き物、としか知らない。ましてやその「王」のことなど、はぐれ者の雷夢にわかるわけもない。
「……いい加減、そのふざけた名称、名乗るのやめたら?」
「あー、やっぱり信じてないなァ? オレこう見えても、人間世界で気配を隠すの、それなりに苦労してんだけどさァ?」
そう言われると、雷夢がずっとお守りのペンダントで隠してきた気配を、気取られてしまったことは確かに非凡だ。雷夢は育ての母に、決して正体を気付かれてはいけない、と言われてきた。だから転校を繰り返してきたのに、この自称魔王は半年程度で、雷夢をロックオンしてしまった。
「……うざ」
とりあえずそれしか、思うことがない。自称魔王がどうして雷夢と同じように、人間のふりで高校に通っているのか、興味を持つ気にすらもなれない。
それでも「強い魔力」と感じる程度には、アオイの気配は異端ではある。ただしアオイ本人はこれまで、何度も雷夢にノックアウトされ、その都度「人間世界でなけりゃ!」と遠吠えをする。
放課後の屋上を後にした。追いかけてくるアオイを簡単にまいて、駅前に出た雷夢は、さびれた商店街をのんびり歩いた。
「高校に上がってから、絡んでくる奴、大分減ったな……」
何処から見ても、雷夢は無愛想だと言われる。否定をする気は特にないが、雷夢によく話しかけてくる玖堂華奈のように、笑顔が当たり前の相手の方が不思議に感じる。
不機嫌な顔で街を散歩していると、何故かよく同年代のチンピラに絡まれ、軽く相手をしただけなのに気付けば怖れられていた。華奈はそんな雷夢を「仕方ない人ね!」と、楽しさを隠せない顔で付き合ってくれるので好きだ。おそらく根っこは雷夢よりも、華奈の方がよほど好戦的な人柄に見えた。
大富豪の娘である華奈は、何がしかによく狙われている。暇なので雷夢が近くにいる時は逐一虫払いをしていたら、遊びに連れていってくれたり広大な家に招いてくれたり、勉強を教えてくれたりするようになった。人間でない雷夢にとって、勉学などはほとんど余計なお世話なのだが、どう人間でないかもよくわかってはいないので、とりあえず「日本」で生きるにはいるかな、と渋々教えられている。
「……でも……」
何となく、感じていた。この恵まれた高校生活は、終わりが近づいている。
いつかは帰らなければ。そう思い続けている爪痕があった。制服の下に着けているお守りのペンダントは、強くなりたいと雷夢が願っている理由だ。
青白く燈る小火を宿した、透き通る薄蒼い玻璃のような玉。小さなペンダントトップは、目をこらさないと中の火がよくわからない。
夕暮れになってくると、見え易くなる。今日もちゃんと燃えてる、と、聖夜前の三日月にかざしながらほっとした。
そんな束の間の大事な日課を、もっと聖なる火の持ち主に見られているとは知らずに。
「あら。何かいいもの、持ってるじゃない?」
へ。人の気配がしない商店街の三叉路、屋根の節目で一人、お守りを取り出したつもりの雷夢は呆然とした。顔には動揺を出さないでいるが、その涼やかな声には一瞬にして、寒気を感じる何かがあった。
静かに振り返った先、黄昏時のシャッター通りで、雷夢の青い目に映った玲瓏な声の主は。
「……何、その恰好」
雷夢は思わず、つっこみを先に出してしまった。
日本の都会の裏通りには、あまりに不似合いな赤い迷彩柄の軍服。長い茶髪をまっすぐなびかせ、派手な軍服と同じ赤い目の女が、数メートル先で雷夢を見ていた。
「あらあら、これでもこちらに合わせたつもりなんだけど? でも、そうね……貴女みたいな可愛い制服には、さすがに敵わなかった」
ふふっ、と軍服の女が、自分をお茶目に見せたいように笑う。しかし赤い目の奥には確実に殺意が灯り、軍服の方が正直だ、と雷夢は呆れて思ってしまった。
「いや……意味、わかんないし」
雷夢が呟いた瞬間、軍服にふさわしい大きな白い拳銃を女が構えた。
やばっ! と咄嗟に横に跳ぶと、雷夢の頭があったところを光の塊がまっすぐ飛んでいった。
「あら、避けちゃうの? 楽に仕留めてあげようと思ってたのに」
「っ――!」
全く心当たりがないが、軍服の女は本気だった。出会い頭から雷夢に殺気を向けて、速攻で勝負をつけにきている。
この辺りにひと気が無くなっているのを、もう少し訝しむべきだったのだ。いくら大通りからは外れると言っても、日本の都会で人の鼓動が全くない場所などそう存在しない。
軍服の女は拳銃としても不思議な、光を撃ち出す武器を連続で放った。
狭い路地の中では逃げられる場所が少ない。後退しながら光の弾を避けることに、雷夢が限界を感じ始めた直後のことだった。
「――って、マヤ!? お前、何してんだぁ!?」
呑気なようでいて、声色にはいつにない重さが混じったアオイが、通りの入り口から顔を出した。
「あら、ご機嫌麗しゅう、ルシフェルト殿。ちょっとお待ちあそばせ、お話はそこのお邪魔物を片付けてからね?」
「って――何、言って――!」
そこでアオイが、必死の顔付きで雷夢と軍服の女の間に入った。それは雷夢も、そして軍服の女も、思わずぽかんとしてしまう意外な展開だった。
そもそもアオイは、常にノリが軽くてマイペースで、こんなに素早く、かつ人外の速さで行動することなどない。軍服の女もそう思っていたようで、女の本気を雷夢と同じように感じて焦ったらしいアオイを、雷夢は少し見直していた。
しかし次の瞬間、あまりにいつも通りのアオイに、また頭が重くなった。
「オレのヨメに、何してんだよ! マヤ!」
誰が。それだけをぽつりと溢した雷夢に、軍服の女はひとまず、やれやれ、と銃だけは下ろしていたのだった。
そもそも、と軍服の女が両腕を組んだ。
「貴方が人間界ごときの化け物にいつまでも手こずってるから、いい加減連れ戻して来いって頼まれたんだけど、私?」
「手伝えとは言ったけど、殺せとは言ってない!」
何の話、と雷夢は、アオイの後ろで顔をしかめる。
「あれだけ鍛えてあげたというのに、どうしようもないコね、シアン。私も忙しいのよ、こんな空気の悪い世界で貴方を待てるほど暇じゃないのよ」
どうやらその女とアオイは、師弟に近い関係らしい。しかしおそらく、戦闘の実力は軍服の女の方が遥かに高く、理由はわからないが雷夢の命を狙っている。
そんな急場に、これ以上いるほど雷夢は物好きではない。軍服の女とアオイが言い合っている隙に、久しぶりに意識を強く集中させて、最近は使っていなかった「力」を放った。
「――え!?」
アオイの背後で、前兆なしに全方向に雷光が走った。さすがに当てると死んでしまいそうなので、電流は全て商店街を覆う屋根の鉄骨に渡した。
目晦ましだけ求めた光は、場から離脱する雷夢を見事に隠して、軍服の女の目も当面塞いでくれたようだった。
人の多い中央通りに出ると、アオイも軍服の女も、追ってくる姿は見られなかった。
「何なの、あいつ……いきなり殺しに来る?」
雷夢がずっと、日本のあちこちを引越ししてきた理由。軍服の女の「人間界」という言葉も含めて、嫌な予感だけが背筋に流れていた。
「……殺したいのは、こっちだってのに」
強くならなければ。いつか生まれた場所に帰って、奪われたものを償わせて、そして取り戻すために。
その日まで死ぬわけにはいかなかった。だから「人間界」に隠れてまでも、強くなるための時間を稼いできたから。
「でもあいつ……言葉、通じたな……」
雷夢と共に人間界を逃げて回る、育ての母の注意を思い出した。
雷夢の言葉は、お守りのペンダントの助けで日本人にも通じてきたという。けれどもう四年は日本にいるので、お守りなしでもある程度話せるようになり、今はほぼ日本語で喋っているので余計に口数が減る。
日本語で話す時には、お守りの翻訳効果はさぼっているはずだ。それなのに先程の女――どう見ても日本人ではない相手は、雷夢とさらさら話せていた。
お守りの翻訳効果と同じ芸当ができる者は、このお守りの主と同等以上に、優れた存在であるはずの者。喋れる人外が来たら逃げろ、と、育ての母は常々雷夢に言い含めていた。
追跡がないかを最大に注意し、育ての母と二人で住むアパートに戻った雷夢に、襲撃者の話を聞いた母が震え上がった。
「ええええ! 光の弾丸!? 何それ、どうしてそんなラスボスレベルをいきなり引き当てるの、雷夢ちゃんてば!」
そうなんだ……と溜め息をつく雷夢に、エプロンの好きな母が六畳一間に、家事後の姿のままでぺたんと座り込む。
「帰り道は、つけられてないよね!? 気配隠しは、お守りがしてくれてるはずだけど……」
「っても、アオイと知り合いみたいで、ここもいつ割れるかわからないよ」
一応雷夢は、華奈以外には自宅を教えていない。しかし華奈のあとをつけるなりすれば、アオイがここを知るのは簡単だろう。今まで、言葉が通じるほどではなくても、人外生物に出会えば雷夢達は引っ越しをしてきた。アオイの場合はあまりにただのチャラ男で、人間社会にも溶け込んでいるので、ついつい油断していたと言える。
暗い赤毛の、育ての母が残念そうに、両手を畳について嘆いた。
「そっかあ……せっかく、華奈ちゃんっていう素敵なお友達ができたのに、もうこの街も出ないといけない時が来たのね……」
「……」
雷夢もそれは、自覚があった。アオイという多少の不穏分子があっても、今回は見てみぬふりで留まりたかった。
そもそもこれまで、逃げることを繰り返す生活が不満で、不甲斐ない自身に胸がひっそり煮えたっている。
「……私、まだ、母さんの仇をとるには足りない? ……ユーファ」
先刻の軍服の女のような者が相手であれば、確かに勝てる自信は持ち切れない。それでもどうしても、尋ねたくなってしまった。
幼い雷夢を本当の母に託され、はるばる人間界に連れて来てくれたヒト。戦闘面での毅さはないが、異世界を隔てる闇を渡れる人魚に。
育ての母――長く生きて人化の力も持った人魚のユーファは、俯く雷夢に困ったように、あっさり爆弾発言を続けた。
「えええ? あのにっくき夢妖精くらい、いつでも星の彼方に送れちゃうと思うけど?」
「……え?」
「問題はお城と雷夢ちゃんのお父様でね、夢妖精にあることないこと吹き込まれちゃって、根が堅物だからクソ真面目に後妻を守ろうとしてるとこでね……あれ? 言ってなかったっけ?」
雷夢があまりに唖然としているので、やっと空気を読んだ育ての母だった。
聞いてない。雷夢は改めて、長生きのために少々記憶力の怪しいユーファに、声を抑えてしんみりと言った。
顔しか覚えていない父親の話は、初めて聴いた。
両親の確執を、雷夢は詳しいことを知らない。政略結婚のようなものであったらしく、仲の良い姿も悪い姿も記憶にない。
今の雷夢にわかることは、その男は娘であるはずの少女を、長く幽閉しているつもりなことだけ。まさか遠く人間界に、密かに逃されているとも知らずに。
母に関しては、父は死を望んではいなかった。そう聞いていたので、正直どう思っていいかわからない相手が父だ。
「……そんなに、強かったんだ? あのヒト」
母を殺したのは、後妻。そんな者を妻にすることには大いに文句があったが、雷夢自身は冷たく育てられた覚えがない。
「まあ、腐っても枯れても竜宮の王だからねぇ。でなきゃあのコを幽閉し続けることも、できないわけだから……」
しょぼん、と、言いながらユーファの方が項垂れてしまった。
雷夢もユーファも、共に願っていること。その未来を勝ち取るためには、見知らぬ女に殺されている場合ではない。雷夢はやっと、気持ちを固める覚悟がついた。
「とりあえず、明日はいつも通り高校に行く。アオイの出方次第で、すぐにここも引き払えるようにしておいてくれる?」
「そうね。せめて華奈ちゃんに、お別れはちゃんと言っておかなきゃね」
ちょうど雷夢が、この街に来て一年と少し。人間界に来てから一番楽しい時間だった。それは雷夢より破天荒な、華奈の影響だったのは間違いがない。
いつかは来る、とわかっていた別れ。特別アオイを恨むこともなく、雷夢はシャワーを浴びてすぐに眠った。水に長く当たるとユーファの足は魚に戻り、乾かすのに時間がかかるので、いつもお風呂は雷夢が先に使う。
洗面所の段差に座って足を乾かすユーファを横目に、雷夢の意識は落ちていった。不安になっても仕方がないので、あえていつも通りにしている雷夢をよそに、その夜は様々な者達が運命の渦中に溺れることになっていたが。
眠る時には失くさないように外し、小物入れに引っ掛けているお守りが、雷夢の頭のそばでうっすら光を発していた。
――大丈夫だよ。だって、あたしは……。
いつかの誰かの声が、広がり始めた夢に響く。
嘘つき、と文句を言いながらも、雷夢はその声の少女には弱い。昔から雷夢は、弱虫のくせに強がる相手とよく縁があった。
だからもう一人、つられて思い出していた。人間界に来る直前まで、何度か遊んだ弱っちい銀髪の少年のことを。
――僕は絶対、いつか君を見返してやる!
故郷の思い出なんてほとんどない。幼い頃の雷夢は、生まれた城から外には出してもらえなかった。日本では考えられない古風な場所で雷夢は生まれた。
だから稀に、父がこっそり連れ出す不思議な森の泉で、幼い少年と遊んだことは貴重な記憶。けれど今まで、全くもって忘れていた。
柄にもない昔の夢のせいで、朝から気分が重かった。そんな雷夢の前に、何故か二つ隣のクラスから、玖堂華奈の彼氏が慌てた様子で現れてきた。
「竜牙さん、ごめん、ちょっといい!?」
「……?」
華奈が見た目によらず、破壊的な性格であるのに対して、彼氏のミカミナオはとても平和な善人なのだ。それがただ事でない顔をしているので、雷夢は自然と教室を後にする。
もう授業が始まってしまう時間だが、同じクラスのアオイはまだ来ていない。いつも重役出勤の不良なのでそれは気にしていなかったが。
雷夢を連れて、ナオは校舎裏まで来て、そこにある物には雷夢もかなり驚いてしまった。
「って――召使ちゃん!?」
「おかしいんだ、玖堂さんの護衛をしてるはずの杉浦さんが、こんな姿で……」
まるで教員や生徒から隠れるように、建物の陰に制服姿の女生徒がもたれて気を失っていた。いつも華奈の周囲に控えて、華奈の異様な召使だと雷夢は知っている杉浦嬢。
「玖堂さん、まだ登校してない。どうしよ竜牙さん、PHSはいつも杉浦さんが持ってて、玖堂さんに連絡は取れないんだ……」
ナオは初め、杉浦嬢から連絡を受けて、校舎裏、とだけ聞いたところで切れてしまったらしい。来てみれば呼吸もしない杉浦嬢のカタマリがあり、華奈に何かあった、それだけはわかる状態に震え上がったのだ。
「えっと、竜牙さんは何か気付いてそうだから言うけど、杉浦さん、実はロボットでさ」
「知ってる。ロボット、はよくわからないけど、人間じゃないとは思ってた」
いつも華奈のそばに付き従って、危険な飛び道具もあっさり取り出す杉浦嬢は、心臓の鼓動もない冷たい何かだ。だから死んでいるわけではないだろうが、ナオの懸念は雷夢も十分わかる。
この人間でない召使が敗れてしまう相手に、きっと華奈は絡まれてしまった。そこからいったいどうしているのか、ナオが授業を放り出してきたのも無理がない。
「ごめん竜牙さん、一緒に玖堂さんを探してほしくて、俺……」
「わかってる。玖堂サンは、大事な金づるだから」
たはは、とナオが、少しほっとしたように苦しく笑った。
召使を運んでいる余裕はないので、校舎裏に寝かせたままで、心当たりは何もないが、とにかく揃って裏門から高校を抜け出した時だった。
「あれ? お前ら、さぼり?」
金髪の不良がちょうど裏門に現れて来た。ナオが春日! と焦った顔のままで飛びついていく。
「玖堂さんがいないんだ、春日! 探すの手伝ってくれないか?」
え? と首を傾げる不良。
しかし雷夢は、金髪の姿を一目見た瞬間、言い知れない不快感が背に走っていた。
無防備に不良にすがりつくナオを、無言で掴んで不良から引き離した。
「え? 竜牙さん?」
「……ちょっと。アンタ、誰」
自分でも驚くほどに、険しい声色がこぼれた。
紛れもなく不良と同じ顔で、気配すら似た金髪の学生がそこにいるのに、雷夢の中で「コイツは違う」、その感覚だけが厳としてある。
よく見れば相手は、アオイが毎日着けている蒼い石の指輪をしていない。偶然外しただけかもしれないが、やっぱり違う、と雷夢に確信がつのる。
雷夢がナオをかばいながら、あまりに厳しい目色で睨むために、ははは、と不良が、降参するようにもろ手を上げた。
「ええー、マジかぁー。俺これでも相当、非の打ち所のない代打を自負してんだけどなー?」
「え? 春日……?」
「タツキライム、出生不明、ノーカウントで雷をぶちかます異端種だって聞いたけど。何か感覚まで鋭いっぽいの、反則でねー?」
華奈は雷夢に、あなた、霊感があるんじゃない、と言ったことがあった。よくわからない日本語だったが、要するに何がしかに感覚の鋭い者をそう言うらしい。
雷夢としては、そもそも襲撃者の知り合いだったアオイが警戒対象であることに加えて、翌日アオイの偽者が現れるなど、偶然であるわけがない。そう感じているだけだ。
とりあえず相手は、少なくとも昨日の雷夢の挙動を知る者なことは確かだ。雷なんてここ最近は、昨日しか使っていないのだから。
雷夢の名前に雷の字を当てられたのは、何もおかしな話ではない。小さな頃から雷夢は感情の起伏に合わせて、雷を自由に放つことができるのが特技だった。
「……ミカミ、注意して。アイツ多分、この高校がわかるってことは、玖堂サンの件に関係してる可能性が高い」
「え!? 春日が!?」
いや、春日のそっくりさんが!? と言い直すナオは、存外に雷夢を信頼しているのがついでにわかった。大して話したこともないのに、それは不思議だ。
「アンタ、玖堂サンの居場所を知ってるでしょ。連れてって。吐かないなら殴る」
「って今度は物理で来たし! さっきの人形ちゃんも、相当の破壊神だったけどさー」
「召使ちゃんを壊したのはアンタ? なら許さない」
瞬時にそこで、雷夢は不良の胸ぐらを掴んで締め上げた。
後ろでうわああ、とナオが驚いている。しかし華奈への心配の方が強いようで、雷夢の速断を止めには入ってこない。
「ちゃうちゃう、あんな人形ショートさせるの、真夜の姉御でもないと苦労するってェ! 俺はあんたを連れてくるよう言われたワケ、んでもって人間ボーイの方は本当は人払いしなきゃ駄目ってわけ!」
それでおそらく、アオイの姿でナオを違う所に連れて行こうとしたらしい。わざわざ事情を説明してくる相手に、雷夢は青い両目をきつく細めた。
「……確かに、ミカミ。アンタがついてくると、死ぬかもだけど」
「え!? や、やだよ、俺だけ置いてかないでよ、俺だって玖堂さんを助けたいし!」
「…………」
昨夕に不自然に、ひと気のなかった商店街を思い出す。雷夢もそうだが、人間だらけの日本の街で、人間でないことを見られるのは向こうも嫌なはずだ。だからナオを排除したがっている。
人間を害してはいけない、と雷夢は教えられてきた。それは倫理の問題もあるが、化け物の力を人間の世界で振るえば、警察のみならず人間界の番人に咎められる、とユーファは言っていた。
「いいよ。私の後ろから離れないならついてきて、ミカミ」
だからここでは、人間であるナオを連れて行く方が、相手には不利なはずだ。雷夢も確信は持てずに、ナオを守らなければいけないことが頭が痛いが、一人で残して校舎裏の杉浦嬢のようになっても困る。
そんな雷夢の頭痛をよそに、ナオは気丈に、うん! と、不良の背中を掴んで歩かせる雷夢に続いてきたのだった。
気持ち悪いほどアオイによく似た自称代打は、わざわざ人目につかない道を通って、雷夢とナオを街外れの廃工場にまで連れていった。いかにも殺伐とした鉄線に囲まれる立ち入り禁止区域に、南中した太陽が雲に阻まれて仄暗い影を落とす。
「警備どうなってんの、ここ」
「姉御が人払いをしてますよっと。お互い遠慮なく、全力出せた方がいいだろ」
そう、とそこで、雷夢は代打の背中を離した。道中特に抵抗もなかった代打は、アオイと同じように魔力は強いが、腕っぷしは弱そうな相手だった。
皮肉なことに、おそらく昨日の軍服の女が華奈を攫った。雷夢をおびき出すため、で多分良いのだろう。
雷夢も女も、やるなら白黒つけたいタイプに思える。せっかくここまでお膳立てしてくれたのだから、華奈さえナオに任せられれば、雷夢は初めて、自分を追い立てるものと戦うチャンスを与えられている。
「逃げるばっかりは、やめにしたいし……」
怒気で舞い上がりそうな黒髪に、おおお、と代打が汗を流して距離をとった。
「ほんじゃ俺は、ここで失礼! いっこだけ言っとくと、ルシ――いや蒼帷の奴は、このこと知らないから勘弁してやってくれな?」
「……え?」
詳細を聞く前に、解放された代打はぴゅーっと走って姿を消した。
確かに昨日、アオイは「オレのヨメに何してんだ!」とアホなことを言っていた。不良と言えど普通に高校生活を送っていたこともあり、こんな暴挙を起こしたい輩には見えない。
「竜牙さん……俺、玖堂家に連絡しておく。三十分たっても連絡がなければ、ここに乗り込んでもらうように」
「わかった。それまでが決着のリミットね」
ナオの判断は間違っていない。警察を呼ぶのが本来の筋だが、華奈がどうなっているかが全くわからず、人外とわかる相手を下手に刺激すると、何を起こすかの不安が大きい。
ナオ自身は、雷夢や誘拐者が人外生物だとは知らないだろう。玖堂家、特に華奈には秘密が多く、あまり警察沙汰を起こしたくないと配慮しただけだ。それでも華奈の身が優先なのは間違いなく、雷夢も平凡男子のナオだけに華奈を託すのは無理があると思っている。
ナオが召使の回収と現在位置を玖堂家の誰かに相談した後、二人で門をよじのぼって敷地内に入った。ナオは雷夢が引っ張り上げなければならず、帰りのことや突入準備を考えると、悪いとは思いながら門の内側を破壊して開けられるようにしておいた。
「た、竜牙さん……腕力、凄かったんだね……!」
凄かった、で済むレベルか。善良に感心するナオに呆れながら、雷夢は意識を集中させて、これから行くべき所を探る。
「……何、これ。……冷たい空気」
廃工場全体の空ろさとは違う、ヒトの気配が流れる一画。人間の気は拙いのでとても探れず、おそらく軍服の女があえて自身の位置を知らせている。
「余裕綽々、ってやつ。いい、そのケンカ、かってやるから」
買ってやるのか、勝ってやるのか、どちらにしても雷夢がコワイ。厳しい顔にナオが少し後ずさっていた。
冷たい気配を追った先は、壁に穴が開いて陽が差し込み、木枯らしが吹き抜ける広い作業場だった。右奥の壁に眠らされた華奈がもたれて座り込み、玖堂さん! とナオが駆けよっていく。
中央に立っている軍服の女。昨日よりよく見えている顔は、長い茶髪に赤の迷彩服とベレー帽を被り、爛々と赤い切れ長の目が雷夢を見つめている。文句なくかなりの美女と言えて、そして実戦慣れした目付きに見える。
「……何で、玖堂サンを巻き込むのさ」
開口一番にきいた雷夢に、軍服の女はふふ、と口元に手を当てて笑った。
「尋ねることが、違うのではなくて?」
「別に。あんたの正体や目的をきいたところで、どうせ殺しにくるんでしょ」
華奈を攫ったのはやはり、雷夢のためだと見ていい。ナオが必死に華奈を抱えて、なるべく外に近い場所に連れていくのも女は止めない。
聞く耳を持たない呈の雷夢に、軍服の女はふっと笑い、唐突に背を向けると、左の壁の穴から真っ暗な隣に入っていった。
「――!」
視界の悪い場所で戦いたいらしい。華奈達からなるべく遠ざけたいのは雷夢にもあるので、誘いにのって太陽光の届かない隣室に入る。
「……私に暗闇は、無駄なんだけど」
人間界に来てから、これも初めての雷夢の「本気」だろう。ちょうど試しやすい環境なので、雷になる寸前の大気を部屋中に展開した。
「――あら、素敵」
大きな雷雲が光るように、暗い部屋には今にも飛び跳ねそうな電場が満ちる。ほとんど何もない部屋だったので、これなら気兼ねなく戦えるだろう。
軍服の女は全く動揺した様子がなく、雷に包囲された状態であるのに、昨日と同じ大きな白い拳銃を取り出していた。
「……そんなもの撃てば、多分その場で感電するけど?」
「そうね。でもね、タツキライムちゃん? 雷というのは、空中の氷の塵が起こすものが大半と、貴女は知っているかしら――?」
光の弾を放っていた銃を、かち、っと女が撃鉄を起こす。次の瞬間、引き金に指がかかる間もなく。
「――!?」
雷夢の全身が凍りついた。急いで自身に雷を流し、動けるようにしてすぐ横に飛ぶと、銃から放たれた青白い火のような弾が危うくかすめていった。
部屋に満ちたはずの電場も大半無くなっている。まるで雷夢が放った雷の元を、白い銃が吸収して青白い弾にでもしたかのように、次々追撃を放ってくる。
「ウソ――」
視界が悪くなる前に、部屋を見ておいたのは正解だった。壁との距離だけ気を付けながら、女の銃撃を必死にかわす。
しかしこの場が、女が用意した舞台であることまでは防げなかった。
「はい、チェックメイト。あのね、戦闘はね、いかに自分のペースに持ち込むかが大事なのよ」
「っ――」
部屋の床のあちこちに、足を踏み入れれば氷がせり上がって動きを止める罠があった。電熱を流してもすぐまた床から氷が絡みつき、逃げることができなくなった。
闇の中で軍服の女が近付いてくると、そこで女は、思っても見ない行動に出たのだった。
「これね。貴女の正体を隠しているのは」
しまった、と思う暇すらもなく、雷夢の首に手を回した女が、お守りのペンダントの紐を断ち切って奪った。
「――!」
「あらやだ。ここまでとは思わなかった……まさか、本当に?」
拳銃をしまい、手元に光を浮かべた女が雷夢の全貌を見渡した。何故か殺気を収めて、雷夢をまじまじと見ている。
お守りが女に取られたことで、雷夢の隠していた人外の気配と、黒く見せていた髪が本来の青に戻ってしまった。あまりに珍しい空色の髪であるため、それだけでも正体が知られてしまう、とお守りの主がずっと隠してくれていたもの。
しかしある意味、軍服の女の言葉は一周回って、正体が知られたのかどうか不明な状態に雷夢を陥れた。
「昨春から指名手配のかかった、青い髪の魔竜。ここまで竜だと、考え過ぎだったかしら、私……何とも見事な髪と目色ねえ?」
昨春。指名手配。何のことだ。呆然とする雷夢を覗き込んで、女の赤い目からは本当に殺意が薄れていく。
「まあ、いっか。失われた竜の王女……それは、手に入れなきゃね?」
そのまま、動けない雷夢の首元に手を当てた。凍らされる、と雷夢は悟る。昨日は光の弾丸を使っていたのに、女の本領はどうやら氷使いらしい。
何処の誰が、昨春という微妙な時期から雷夢を探していたのだろう。雷夢が人間界に逃げて来たのは五年前で、この街に来たのは昨秋なのに。
尋ねるような隙もなく、軍服の女の手に青白い火が浮かび上がった――直後のことだった。
「――え!?」
「!!」
部屋一帯を、突然の眩い白光が満たした。雷夢はぐいっと腕を掴まれ、光に融かされた氷から解放されて、元いた部屋に投げるように押し出された。
目覚めていた華奈とナオが駆けよるそばで、信じられないものを雷夢は壁の穴から見る。
目をやられた軍服の女が、ようやく視力が戻ってきた頃には。女の前には、にやりと不敵な笑みを湛えて、透明な青の珠を填めた錫杖を掲げる雷夢がいた。
「……そ。これでこの場は、あたしの支配下になった」
誰、あれ。雷夢と華奈が、もう一人の雷夢に顔を見合わせた。
壁の穴から見えているのは、錫杖から発する光ですっかり部屋を明るく染めた、同じ制服を着ている少女。
「あ、貴女、まさか――」
「ばいばい。これだけ近いと、あたしも外さないし」
そのままもう一人の雷夢は女に掴みかかり、自らもろとも激しい光に包まれていった。
光も扱う氷使いの女は、捨て身の力がさすがに想定外だったようで、光に灼かれてすぐに舌打ちし、違う扉へ離脱していったのだった。
制服が焦げ始めていたもう一人の雷夢が、ふう、と錫杖を地につき、膝をついて疲れたように座り込んだ。
「あっちも、光の耐性持ちか……これは厄介な刺客に当たったね」
先程の光量は、相当無理をして発したものらしい。雷夢と華奈は、何も言えずに暗まる部屋に飛び込み、もう一人の雷夢を二人で抱えて工場の野外までひとまず走った。
ちょうど玖堂家の私設警備が突入してきて、華奈とナオから保護をしていく。砂の上にぺたんと座るもう一人の雷夢に、何も言えない本物の雷夢を横に、華奈が恐る恐る、やっと声を出して話しかけていた。
「あなた……どうして、竜牙さんにそっくり?」
長く青い髪と青の目。顔まで雷夢に瓜二つな少女は、しかし。
「……へへへ。あたし、雷夢の、影武者だから」
錫杖が光った。そのすぐ後には、少女の髪は紅くて長い、正真正銘のポニーテールへ。雷夢と同じ顔の目は紫に変わると、にこ、と雷夢と華奈を見つめて、いたずらっぽく笑った。
「……リンティ……」
雷夢は本当に、その少女が先程、雷夢を摸して軍服の女の前に立った時から唖然としていた。
これまで雷夢が、強くなりたかった理由。いつかは故郷に帰る、そう決めていたのは、この自称影武者な少女の存在――雷夢の青い髪と気配を隠すお守りをくれ、雷夢の代わりに故郷に幽閉されたはずの、共に育った相手のためだったのだから。
「ごめん、雷夢。待ち切れなくて、来ちゃった」
軍服の女が先程言った、「指名手配」の意味が何となくわかった。
城から自力で脱獄してきたはずの、見違えるように強くなった少女が、透明な青い珠の錫杖を握りしめて心から笑った。
*
雷夢とナオが連れ立っていった廃工場を見て、アキラが呆然とした。途中から「何これ、逢引き?」と後をつけてきたのだが、工場に入る二人を眺めていた時、アキラの肩はぽん、とあまりに気楽に叩かれていた。
「ちょうどいい。アナタも来なさい、雷夢のお供」
え。アキラが盛大にぽかんとした顔で、自分を見ているのがおかしかった。
「竜牙――……に、そっくり……」
制服は高校の校舎裏で、倒れていた人形と服を取り替えて着た。昨夜にあれだけ警告をしたのに、結局雷夢に手を出した刺客に、彼女は姿を顕さざるを得なくなっていた。
「影武者。そう言うんでしょ、アナタ達の言葉じゃ」
手にする錫杖をぎん、と地につくと、うわっとアキラが震え上がった。玖堂家の警備が突入する時の目印になるよう、戦場と入口の間に立たせておいた。
雷夢を襲った軍服の女悪魔が、彼女を見て驚くのは尤もだった。昨夜も気配だけは気取られてしまい、おかげで雷夢をつけ狙う「魔王」を殺せなかった。
「あ、貴女、まさか――」
今日は「魔王」が出て来ていない。雷夢に近付くな、と昨夜に痛めつけた。本当は殺しておきたかったのだが、今の弱小な「魔王」よりも、脅威であるのは突然現れた女悪魔だった。
「そ。これでこの場は、あたしの支配下」
氷と光を操る女の手口が見えたところで、雷夢と入れ替わった。女も相手が変わったことには気付いただろう。その上でやはり、少女と雷夢が同じ顔であることに驚いていた。
女が奪ったお守りを取り返せていない。少女には大して思い入れがないので、ま、いっか、と流す。
「……でも、ひとまず……」
玖堂家の警備が突入してきて、女悪魔も退いたところで、少女もやっと気を抜くことができた。
良かった、守れた。それ以外に何も、思うことはない。
「……リンティ……」
久しぶりの雷夢が、信じられない、という顔で少女を見ていた。
それはそうだろう、と思う。雷夢には五年、少女には五十年近く、もう時間が過ぎ去ってしまった。時間の流れの違う世界へ逃がした雷夢が、いつか帰ってくるのを待っていた少女は、その間に様々な変化を経てきてしまった。
それでも、雷夢に会いたかった心は変わらない。雷夢もちゃんと、こちらの世界で強くなっているとわかる。
この世界では少女も雷夢も、元の世界の十分の一しか「力」を使えない。女悪魔の最も厄介だったところは、銃に蓄えられた「力」が元の世界並みの量であったことに尽きる。
とりあえず雷夢も少女も、華奈の恩人として玖堂家に保護されていた。
本当は雷夢のために華奈は攫われたのだが、華奈が頑として認めないのだ。
「このあたくしが不覚をとるなんて、前代未聞の事態でしてよ! 竜牙さん、あなたには対策作りのため、傍にいていただく必要があるわ!」
嘘はついていないし、確かにまた華奈が巻き込まれないとも限らない。ナオとアキラはそれぞれ家に帰され、緊急通報用のベルを持たされていた。
限界まで「力」を使った少女は、まず休まされた。雷夢の隣の部屋でゆっくり寝かせてもらえた。おそらく二日近く眠り続けた後で、雷夢が改めて少女を起こしに来ていた。
「……もう大丈夫なの、あんた」
手練れで高位の女悪魔を追い払うには、「力」を出し惜しみする余裕はなかった。少女はあえて軽く笑いながら、険しい顔の雷夢に返す。
「えへへー。こんなにいいベッドで寝たの、初めて、幸せー」
そういう問題か。と雷夢が不貞腐れる。よほど心配していたらしく、安堵したような溜め息と共に、苦い顔付きながらも珍しく笑っていた。
「……久しぶり、ね。ちゃんと生きてるか、毎日確認はしてたけど……」
雷夢に渡した、姿と気配隠しの小玉は少女のものだ。妖狐である少女が持つ狐火玉は、化けたり化かしたりを本領とする。
その小玉に宿る青白い鬼火は、少女が生きている証とも言える。そう簡単に死ねない性質である少女のことも知らずに、雷夢は心配し続けていたのだ。
「何よー、ちょっと暗い地下牢でウン十年、食っちゃ寝で過ごしてただけじゃないー。誰も来ないし、食事はあるし、水あみくらいはさせてもらえるしで、至って平和な日々だったけどなあ?」
「ウン十年、か……それだけたつと、クソ親父達は、少しは何か変わった?」
「さぁねぇ。あたしは元々、ティアお母さんの秘蔵っこだしなあ。娘を幽閉してるくせに、全然訪ねてこなかった闇帝さんには近づけてないよ」
闇帝。雷夢の父の通り名になる。竜宮という、古の竜種の聖地を総べる、海竜の末裔である一人だ。
自然を司る竜種はもう、遠い昔に滅んでいる。そのことを少女は、長い幽閉の間に少しずつ思い出した。他ならぬ少女こそが、竜種を滅ぼした禍だったのだから。
「ほんと、母さん。急にリンティを連れてきた時は、この世の終わりかってくらい、真っ青な顔してたもんね」
雷夢と少女は、互いに五歳の頃に出会った。雷夢の方は少女のことを、何一つも知らされずに。
雷夢とそっくりな妖狐を見つけたから、こっそり連れて帰った。雷夢より薄い白蒼の髪の母、ティアリス・ナーガ・セイザーは幼い雷夢にそう説明した。世界樹という、世界中の化け物の膝元で目覚めた少女も、その頃は様々な記憶や夢が入り乱れていて、隠して育てられる理由がわかるようで不思議でもあった。
雷夢にだけは気軽に会わせてもらえ、城の敷地の森で遊んだ。「影武者」という名目が作られたのも、その頃のティアリスの判断だった。
「父さんと母さん、それくらいからだったかな。ほとんど喋らなくなったの」
「あの二人に何があったかは、あたしも全然知らないよ。あたしも急に、雷夢が危ないかもしれなくなったから、お守りを渡しておくのが精一杯だったし」
闇帝の後妻となる妖精の女が、その時ティアリスの命を奪った。少女も本当は殺されたのだが、少女にはそれだけでは死ねない理由があり、何度殺しても蘇る少女を仕方なく闇帝が幽閉したのが真相になる。
雷夢には教えていない。雷夢はそもそも、自分の一族が竜種の末裔であり、強大な化け物であることを知らない。そうした教育が始まる前に、人間界に逃したからでもある。
とりあえず、と。布団の中でごろごろし続ける少女に、青い髪を隠せなくなった雷夢は、迷うように話を続けた。
「あんたが無事なら、私は好きにすればいいわけで……でも、このまま人間界にいると、玖堂サン達に迷惑がかかるかな?」
「……」
うん、と。少女も正直なところを伝える。
「雷夢を襲った女は、確信はないけど、多分竜宮に巣食う魔族の関係者。ティアお母さんが恐れてた、竜宮の乗っ取りが近いのかもしれない」
「魔族……?」
「ティアお母さんを殺したのは、妖精だけど。裏には悪魔がいるって、大叔父さん達が調べてるよ。あたしも詳しいことは知らないから、一緒にききにいく?」
つまり結局、人間界を去って元の世界に帰ること。それが肝要であるのだと、俯く雷夢を見ながらはっきり言った。
人間界に馴染んだ雷夢が、去り難い思いは理解できる。それでも昔から芯がしっかりとした雷夢は、右手を握りしめながら頷いていた。
「あのマヤって女、私のこと、竜の王女だって言った。それが竜宮の娘なことを指すなら……」
それならこの運命の波から、逃れられる術はない。自分を追い立て続けてきたものと、向き合う覚悟を決めた様子の雷夢だった。
「日本でいう『竜』とは随分違うけど。私って、ほんとに竜だったんだね」
雷夢の元に現れる前、少女は雷夢の育ての親を先に訪ねた。
アパートを引き払う準備をしていたユーファは、少女の過去を知る貴重な相手だ。ひょっこり人間界に現れた少女に、心から驚いていた。
「あわあああ、ティンクちゃん! 良かった、生きてた! 暴走してない!? 心はティンクちゃんのまま!?」
少女は現在、リンティ・アースフィーユと名乗っている。ティンクとは古い過去の名に関係するものだ。
小さい頃からティアリスと共に、少女を心配していた人魚に他意なく微笑む。
「ユーファ。今までライムを守ってくれて、ほんとにありがと」
元の世界の妖姫服に、昨夜春日宅を襲ったことで血がついてしまい、雷夢の私服をアパートで借りた。結局それは制服を借りる杉浦に着せることになるが、平和に服を着替える異世界の少女に、うるうるとユーファの涙腺が崩壊していく。
「ティンクちゃん……全部思い出したから、ここに来たの……?」
「うん。今までは一応、平和優先で、黙って幽閉されてたけどね」
過去の少女は、何事も一人で背負い過ぎて、どうしてよいか本当はわからなかった。
ティアリスもユーファも、少女が少女として生きる道を一緒に探してくれた。その恩に報いるためにも、少女は必ず雷夢を守る、その覚悟の表明が「影武者」なのだ。
「カヅキから聞いてたけど、人間界は本当、空気の悪い窮屈そうな所だねぇ」
今の少女は、もうほとんど一人で動くことはない。今回人間界にやってきたのも、魔族側の情勢を見計らって、タイミングを相談してのことだ。
「ライムがいいなら、元の世界に連れて帰るよ。あなたはどうする? ユゥ」
最早かなりの年齢となり、世界間の移動が厳しいだろうユーファに、少女は一応きちんと尋ねておく。
こたえはすぐには求めずに、それから狭いアパートを出ると、雷夢に預けたお守りの気配を追って廃工場に向かった。
本当に少女は大丈夫なのか。まだそう心配している人魚に、今度はしくじらないよ、そう笑った。
「魔竜のこと、大分わかったから。あたしは本体じゃなくて、あくまで適合者みたい」
その件は竜の巫女と呼ばれたティアリスも、悩み続けてきたことだ。今でも少女の呪いがなくなったわけではないが、耐え易くなったのは確かだった。
「それに……あたしは、どこかで――……」
最早少女の目的は、こうしているだけで果たされたと言っていい。後は雷夢が平穏に生きていけるよう、ついでに竜宮を何とかしよう、それくらいだ。
ユーファが知る頃の少女は妖精だった。だから妖精という種族の事情を、多少なら知っている。昨今はまだしも穏健派だった前代の長が倒された後で、新しい女王、夢を司る妖精が竜宮に目をつけたのだ。
長く結界が張られていたはずの竜宮も、雷夢が生まれる少し前に力が解け、竜種の末裔では有力な闇帝が押えたまでは良かった。そこから末裔の中では血が濃く、巫女の力を得たティアリスと闇帝が竜宮を守るはずだった。
玖堂華奈に頼んだと言って、甘い差し入れを雷夢が持ってきてくれた。きゃああ、と少女の目がスイーツに染まる。
「んで、元の世界にどうやって帰るか、だけど。あんた本当に、玖堂サンちの井戸から来たの?」
「そーだよー、一人ならあそこで何とかなるんだけどなぁ。ここは凄いね、この国自体、海にも都市にもそこかしこに闇があるよ」
だからユーファも、雷夢を連れて辿り着いたのが日本だ。今では最早、誰かを連れての異次元移動は堪えられないだろう。
「毎日甘い物食べさせてくれたら、満月がくるもう少しまでに、一緒に帰れるくらいの力は戻ると思う〜」
「それって、二人で井戸に入んの?」
嫌そうな顔できく雷夢に、のんのん、と、翻訳の力を使う手間もなく脊髄反射で応える。
「この街、池のいっぱいある公園があるでしょ?」
「ありそうだけど……沢山ありそうなんだけど」
「何か凄い、お社があったとこの近く。空からちらっと見ただけだけど、あそこなら場の助けで、何人かくらいは元の世界に連れていけそう」
少女は妖精であった名残で羽を持っている。鳥のような白い翼と、妖狐の薄白い尻尾がアンバランスにあるが、とりあえず飛ぶことはできるので良しとしている。
「何人か、って言っても、私とユーファ以外、誰が行くのよ」
雷夢の育ての母自体、おそらく人間界に残ると見ている。それなら少女が連れて帰るべきは、自身を入れても少なくとも三人だ。
雷夢と少女が帰りの相談をしているお茶会に、途中で華奈が混ざってきた。サイドテーブルにお茶を置いて、ベッドのそばに座る。
「あなた、竜牙さんと違ってよく召し上がるのね。言っておくから、お菓子がほしければいつでも侍従を呼べばよくてよ」
「えっ、本当!? 玖堂さん、天使!?」
華奈の目には純粋に、世話焼きの好意が宿っている。雷夢が良かったね、と頭を撫でてくるので、二人して少女の食べっぷりは微笑ましいらしい。長女気質で気の合うだろう友人達だ。
次の満月には故郷に帰る、と言う雷夢に、華奈が目に見えてしょぼんとしてしまった。「悪魔に狙われたことに巻き込んだ」と、雷夢がまっすぐ説明したので、覚悟はしていた様子なのだが、雷夢の言葉をそのまま受け止められたわけではないのだ。
「悪魔やら魔王やら、それに春日君の偽者なんて……悪いけど、あたくしは科学者であることをやめる気はないの、竜牙さん」
それでも華奈の傑作という人形、「ロボット召使」が敵わなかった襲撃者に、華奈も現状が危うい綱渡りであることは認識している。
人間であるからと、華奈が害されない保証はないのだ。それはあくまで、悪魔側には「できれば避けたい」事態に過ぎないと、少女は魔のツテから耳にしていた。
「春日君、あれからずっと高校を休んでいてよ。あんなバカみたいな軽口の『魔王』が本当だなんて、とても思えなくって……」
「それはわかる。アイツ実際、弱っちいし」
またも息の合ったところを見せる、雷夢と華奈だ。まさか華奈の誘拐前夜に、少女が自称魔王を半殺しにしたので療養中、とは明かし難い。
実際、自称魔王は人間界に隠されているのも、まだ弱いからだ。今の内に芽を摘んでおきたかったが、一度失敗した以上、今後は暗殺対策をされてしまうだろう。
「あんなに強い女悪魔がついてるのは、あたしも想定外だった。雷夢はあの女のこと、何か知らない?」
「さあ……アオイの奴に、師匠風をふかしてたくらい」
赤い軍服の悪魔の存在は、聞いてきた情報の中になかった。自称魔王の扱い方にしても、魔王に従う配下であるとは考え難い。おそらく女は、個人的な縁故で偶発的に来た悪魔ではないだろうか。
「あと、私に殺気飛ばしてきた。というか、私を殺しにきたっぽい?」
「――それ、重要。何で後で言うの、雷夢」
とにかく人間界に召喚者なしで来れる以上、さぞかし名のある悪魔であるのは間違いない。それがどうして雷夢に殺意を向けたのだろう。
雷夢の青い髪と目を見られ、魔竜と判断される前から女は雷夢を殺そうとしていた。むしろ雷夢が指名手配の魔竜と勘違いした後、少女が入れ替わってすぐに撤退したほど、女悪魔の執念は薄くなっていた。
ちょうど少女がそのことを思い出した時、雷夢も同じ話を出した。
「そう言えばあの女、私のこと指名手配の魔竜って言ってたけど。魔竜って何? リンティ」
この質問を、避けられはしない。少女はすう、と息を吸って答えた。
「闇帝――雷夢のお父さんが、雷夢に化けたあたしを幽閉してたのはね。雷夢は古い魔竜の生まれ変わりで、存在するだけで危ないって言われてたからなの」
「ちょっと、あなた達。何て不穏な家庭環境で育っているのよ」
「じゃあ、リンティが城から逃げたから、私が指名手配された?」
こくり、と頷く。やっぱり、と息をつく雷夢は、あらかた予想済みであるようだった。けれどそれ以上は追及してこず、少しほっとする。
納得できない、という雰囲気を醸したのは華奈だった。
「実の娘を、魔物扱いで幽閉? あまつさえ指名手配なんて! あなたのお父様、了見が狭くてよ、竜牙さん!」
何かよっぽど悪いことをなさったの? と一応確認に来る。
「してない。雷夢とあたしが入れ替わったの、十歳の時だよ? そんな子供に何ができるっていうのさ」
「あら、まあ……」
「何か、後妻の入れ知恵で、そう思わされたっぽい」
「断言するけど、雷夢は魔竜じゃない。あたしはこれから、それを証明するために雷夢を連れていくの」
期せずして女子会となった場で、華奈が諦めたように溜め息をついていた。
「……どうぞ、身辺整理をしていらっしゃいな、竜牙さん。召使もバージョンアップさせていくし、玖堂家の心配をする必要はなくてよ」
「……別に許可、いらないけど」
ええい、と、ベッドの横に並べた椅子に座っていた華奈が立ち上がる。
「身の回りが落ち着けば、玖堂家私設秘書兼護衛の椅子を高待遇で空けておいてあげるから! あたくしに仕える幸運を享受してあげると言っているの!」
「仕える、じゃなくて、守る、の方がいい……」
否定しない辺りは、雷夢も人間界が気に入っている。そして華奈との別れを残念に思っている。それは華奈に重々伝わったようだった。
見送りには来ない方がいい。華奈にはそう言っておいた。
満月の日には悪魔の力も強まるはずであるため、異次元移動の「力」を構成している隙に襲われる可能性がある。
「それって、あなた達は襲われたらどうなさるの?」
「うーん、まあ一応対策は考えてるけど、肝心なのはいかにきちんと移動できるか、かなあ」
幽閉されている間、少女は魔道の修練を一心にしてきた。幽閉前から地下に隠されていた少女のため、ティアリスが生前に課題や道具を牢のあちこちに仕込んでくれたおかげだ。
ティアリスは竜の巫女という存在だったが、人間の血が濃くなってきた末裔のため、魔道を学んでいた。魔力自体は弱いので知識が主だった。
異次元移動は、魔道の「力」としては最上級と言えるほど難しい。魔力も沢山必要となり、よほど熟練の制御者でなければ安定して展開できない。
異次元移動ができるようになったから、脱獄もできた。妖精だった時期のある少女は魔力が豊富で、後はただ執念の日々。
満月まではあっという間だった。人間界に残るというユーファに、雷夢も別れを言いに行った。できれば戻ってくる、と最後に付け加えて。
「それじゃ、雷夢。敵が来たら、あたしを守ってね」
「わかってるし。だからこの剣、渡したんでしょ」
有名な神宮が近くにある観光地で、聖夜というシーズンらしいのに日中から人払いの魔道を仕込み、夜には誰もいない公園ができた。
人間界の記念、と制服姿の雷夢に、ある短剣を渡した。今のところ、雷夢の「力」を引き出すのに適する透明な珠玉が、短い柄に填まっている。
少女と相性が良さそうな池の端で、雷夢を背後にそっとしゃがみ、満月の浮かぶ水面を眺めながら手をかざした。
――月も、光も、この痛みを前に、沈んでしまった。
人間界にも、同じ歌があると聞いた。おそらくは人間界を行き来する化け物の誰かが、元の世界に持ち込んだのだろう。
――連れていかれる。縛られている。
水の中から月が消えた。真っ黒になった水の底に、元の世界に戻るための出口が開こうとしている。
雷夢がそばにいる影響だろう。脱獄の時よりよほど楽に「力」が使える。
立ち上がると、両手で掴んだ錫杖を掲げた。
――稲妻よ! 雷鳴よ!
あともう一息。襲撃者は特に現れず、少女がほっとしかけて、最後の詠唱を口にしようとした時だった。
「――待てよ! 雷夢!」
ぎょ、っと。敵が現れないか真剣に短剣を構えていた雷夢まで、密かに動揺した少女と共に度肝を抜かれていた。
人払いをしたはずの公園に、大きな力を察知して現れたのは彼だった。いつもの「雷夢ちゃん」な軽口をやめて、紛れもなく自称魔王のアオイが。
――雲に、隠れてしまったのか?
詠唱が終わり、黒い池に入った者は、異次元移動ができる状態になった。
そこで何と、少女が腕を引っ張る雷夢と短剣以外に、世界の移動をする者が増えてしまう。
「連れてってくれ! オレは絶対、諦めないから!」
飛び込みさえすれば誰でも、異次元移動できるほど優れた式にできたのが不味かった。なにいいい!? と驚きながら引っ張り込まれた雷夢に続き、後を追ったアオイも呑み込み、やがて真っ黒の池は元に戻っていった。
移動人数が急に増えて、少女の魔力が悲鳴をあげた。「三人」と設定していた闇場が揺らぎ、予定と違う所に出口が開いてしまった。
「いたた……! ――って、アオイ!? リンティ!?」
「っつー……何だここ、かてぇ、腰打ったじゃねーかぁ……」
少女は喋ることができない。ごつごつとした岩場に落ちて、あと一人を何とか維持するのに精一杯だった。
「リンティ、大丈夫!? って――……」
少女の横に、やがてぼんやり、姿が現れてきた最後の一人。並んで起き上がった雷夢とアオイが、揃って少女の方を見て呆然とした。
「な……んで……」
「え、まさか……スズキ、か?」
ぜいぜい、と、丸まって倒れて必死に息を整える少女の背側で。
え。と、最初から少女が運ぶ予定だった者が、思わぬところで見せることになった姿に困る目をした。
「えっ、あれっ……竜牙、に春日……?」
ここは、異世界。生まれた世界に戻ってきたと、雷夢にはわかるはずの澄んだ空気が流れる夜であるのに。
最初に目にした相手が、まさかの学生服のアキラなことに、雷夢とアオイは二の句が告げなくなっていた。
「え、おれ何で戻ってんの!? え、おれ出る予定だっけ!? リンティさん、大丈夫かよ!?」
「――」
華奈の誘拐現場に少しだけ混ざった後、すぐに帰されたアキラが何故か、突然現れた少女の名前を知っていること。雷夢は青い両目を細めて、何かに気が付いたように呟いていた。
「……そういう、こと」
気付けば手ぶらだった自身にも、思うところがあったらしい。少女は別に、雷夢には知られても構わなかったが、自称魔王に大事な手の内の一つを見られたことは頭が痛かった。
しかも先日、半殺しにしたアオイの前で、今は少女が戦闘不能状態となってしまった。姿はばっちり見られているので、ここでお礼参りをされてもおかしくない状況なのだ。
いきなり飛び込みでついてきたアオイは、お気に入りらしい赤ジャケットで腕を組みつつ首を傾げて、妙に無害な声を出したのだった。
「何だよ……お嬢とミカミ以外、みんなこっち出身かよ?」
そういう問題か。と雷夢が顔に出したのもスルーして、アオイはそこで、にかっと明るく笑って言った。
「とりあえずオレ、こっちのパーティに入れてよ。魔王とかやらされんの、ほんとは全然趣味じゃねぇんだわ」
アオイ以外全員の、時間と思考が止まった。
雷夢だけが辛うじて、はあ……? と、拙く抗議の声を上げたのだった。
➺重唱∴間奏 同胞
どうしよう。コイツ本当に、ただのバカかもしれない。
想定外の四人の異次元移動で、動けなくなったリンティを背負って町を探す雷夢に、ついてくるアオイは至って気楽だった。
「オレんところは大丈夫だって。タイティーが代わってくれるから、ばれないばれない」
どうやらそれは、あの偽者金髪の仇名らしい。軍服の女はどうしたのかと訊くと、雷夢を襲った翌日、つまり華奈を誘拐した日の夜には悪魔の世界に帰ったという。
「あの女、私のお守り、取ったままなのに……」
「大事なもんなの? そんじゃ、今度会った時に返すよーに言っとく」
そんな二人の応酬を眺めながら、おずおずとアキラも山道を下る。こちらの世界も秋が終わったばかりだといい、服装が大きく外れなかったのは幸いだった。
あくまでからっと明るいアオイは、まるでアキラやリンティはないものかのように、雷夢に話しかけ続ける。
「でもさ、もう雷夢は髪色隠す必要ねーし、あれ、いらなくね?」
「こっちでも指名手配、かかってんの。どの筋にどう伝わってるかは、まだ確かめてないけど」
指名手配? きょとんとするアオイは、何も雷夢側の事情を知らない。ただ、軍服の女が「あれ、竜よ」と言い残したと言うのだ。
それでますます興味が湧いたというから、自称魔王たるアオイの発想は雷夢には検討がつかない。
何とか人里につき、リンティの持っていたお金で宿を二部屋取ると、男女別に分かれてやっと雷夢はほっとできた。
リンティは宿の質素な床で唸りながら、呪うように文句を呟いている。
「アキラだけなら、宿代なしでも済んだのにい……アイツ何なのよ、魔王のくせについてくるって、意味わかんないし……」
「……」
何となく、リンティの考えていることがわかった雷夢は、あえて部屋を分けて話せるようにして正解だった。
「……大丈夫。今のところ、アキラのことは気付いてないぽい。アイツ、バカだから」
「うううう……雷夢はやっぱり、気付いちゃったか……」
それはもう、あの状況では他に考えようがない。誰に聞かれているかわからないので、言葉にはせず、目だけを合わせて応える。
リンティは昔から秘密が多い。傷つけたくないので深追いはしない。
雷夢も前から思っていた。昨夜渡された珠玉の短剣は、元はユーファが人間界に雷夢を連れて来る時、持って出た護身用のはずだ。
けれどいつの間にか、狭い部屋の何処にも無くなっていた。それはおそらく、雷夢を強くするために。
自分の出生にけりをつけるために帰ってきたのに、アオイとアキラ、二人も同行が増えてしまい、雷夢の頭が痛いだけではなかった。
翌朝の食卓から早速、自称魔王と連れの諍いが始まった。
「あー? てめぇ、雷夢とそっくりだからって調子乗んなよ?」
「アンタこそ、何勝手に雷夢を呼び捨てにしてんの? 百年早いって体に教えてあげようか?」
雷夢はほとんどご飯がいらない。炭酸飲料があれば十分なのだが、こちらの世界の飯屋にはなく、仕方なくミルクを頼んだ。アキラは予想通り、何もいらない、と言う。高校にいた頃にも屋上に昼時に集まるだけで、何か食べる姿を見たことがなかった。
アオイとリンティは、質素なパンをいくつか頼んだ。その会計がリンティ持ちなので、リンティ側に文句があるのはわかる。
何やらリンティは、アオイに何か負い目があるのか、当面の旅費をもつことは渋々了承していた。しかし資金は脱獄してから賞金稼ぎを多少した程度として、今後は野宿! と告げられる。
全員が旅用の灰色の外套と水筒を買った。魔物の皮が裏地の外套の防寒性は、日本のダウンジャケットより凄い。誰もが人間界の服を着る不審者で、外套は脱ぐな、とリンティが注意する。
「おれの分、いった? リンティさん」
「うるさいなあ。アンタの出番は当分なしなの、一応」
アキラとリンティがこっそり話していた。アオイはアキラを自分と同じように、「人間界の方が楽しいからいた」無名の者と思っているようだった。アキラからは力の気配がしないからだ。
まずは雷夢の大叔父がいるはずの、山奥の隠れ里を探すことになった。
「一応ここ、西の大陸なのは、あってるみたいだから」
本当は異次元移動の際に、同じ大陸の世界樹の近くに出る予定だったという。その隠れ里へ行く道は他からは難しいらしく、アキラがリンティに「しゃーない、ドンマイ」と言う。
そうしてこそこそ話す二人に、山道を登るアオイが興味津々の顔で言った。
「あの二人、付き合ってんの?」
「んなわけあるか」
アンタの発想はそれしかないのか、と毒づいてみても、えーお似合いなのに、とアオイの返答は平和そのもの。
「だって多分、スズキって雷夢のお目付け役だったろ。派遣者はあの影武者ちゃんなんだろ?」
そういう理解なのか、と飲み込む。あながち間違っていない気がするので、まあね、と言葉を濁す。
「ずっと雷夢のことを見てるから、スズキに関しては警戒してたんだよな」
いったいこの自称魔王は、何が目的で雷夢についてきたのだろう。本当に言葉通りであるなら、何と色ボケした魔王であることだろう。
苦い顔しかできない雷夢に、ふっと、空気を読んだようなアオイが困った顔で笑った。
「正味、魔王って損じゃね? 笑いのネタにもろくになんねーし、雷夢達には警戒されるし、人間界のゲームじゃ絶対殺され役じゃん」
「……そうなの?」
というか、魔王って何なの? と改めてきくと、もーいっか、と達観したような自然な表情で、視線を雷夢から山道に戻してアオイは続けた。
「誰が勇者かは知らねーけど、ここでは魔王は、この世界をつけ狙う魔界の王様。この世界には、宝珠っていう強い宝があって、それを奪えって、古くから神サマに決められてるワケ」
「……???」
「だよな。オレも生まれは魔界じゃないから、人間界に行くまではこの世界に住んでて、宝珠、何それ美味しいの、状態」
軽い口調は続いているが、嘘には感じられなかった。雷夢は今まで、人間界でチャラチャラしたアオイしか知らなかった。あちらが本性だと今でも思うが、それは裏を返してみれば、人間界のような平和さが似合う相手なのだ。
「宝珠を奪ってこの世界を手に入れろ、ってのが『魔王』の悲願なんだけどよ。フツーにこんな不便な世界より、人間界のがまだよくねぇ? ご飯美味いし、音楽最高だし、服とか絶対あっちの方がイかしてるしさー」
宝珠なんて、四天王が勝手に守護者倒せばいいんだよー、と口調に嘆きが混じり始めた。ごつごつとした山肌には、いくつかよじ登らなければいけない小さな崖もあり、外套から両手を出さないと登れないので、高かった上着が汚れる、とぼやいている。
「四天王……日本でも何か、きいたことはある響きだけど」
「オレも全然、会ったことない。唯一、今代の魔王は? って訪ねてきた幼女がいたから、挨拶したら失笑された。なんやこの最弱の魔王は、って」
――くっ、と。「四天王」たる幼女の気持ちがわかり、つい笑ってしまった。あーひでー、と笑うアオイも、ウケ狙いで言っているのだ。
異世界の存在であるのを隠さなくて良いからか、高校の時より遥かに話しやすかった。前方ではちらちらリンティが、先導しながら雷夢達を振り返っており、何を話してるんだろ……と難しい顔なのも面白い。
ちなみに最後尾のアキラは、この体、動き難いんだって……と必死についてきている。高校でもスポーツテストの成績は人間並みだった。
日本の頃とは似ても似つかぬ生活になったが、これはこれで楽しいかも、と思ってしまった。強くなって早く帰らなければ、と思っていた日本での暮らしは、髪の色と一緒に雷夢の余裕も封印していた。
アオイもアキラも、見知らぬこの世界の人々よりは知った仲だ。リンティに至ってはこんなに早く再会できると思わず、もう竜宮の件、どうでもよくないかな、と雷夢は思い始めていた。実の母の仇がいる場所ではあるが。
アオイが「魔王とかやりたくない」というのは、不覚にも共感してしまった。コイツと気が合う時がくるとは、と、ロッククライミング中の背中を見て首を傾げる。雷夢達が隠れてひっそり暮らして、手出しをされない生活ならば、雷夢も平和に過ごしていたい。
けれどもこの世界では、「平和」とは人間界より得難いものであること。
特に化け物の「力」を持った者は、戦いのさだめから逃れる幸運は乏しいことを、山中の不自然な広場に出てから雷夢は思い出すことになる。
先頭を行っていたリンティが、咄嗟に空に逃げて警告を発した。
「雷夢、ひいて! アキラは森から出ちゃ駄目、隠れて!」
いったい何処から現れたのか、巨大な地精のような魔物が大岩を投げつけてきた。この魔物はほとんど砂の地面から「力」で岩を作れるらしく、一つ投げても次の瞬間にはもう二つ目を逆の手に持っていた。
「もー、巨体って苦手ー!」
リンティが空から、火の矢や光弾をぶつけても焼け石に水だ。雷夢も全力で雷をぶつけてはみるのだが、大地の属性に見える魔物には効きが悪い。
そうだっけ、こういう世界だっけ。どう戦うか、と雷夢が悩んで止まる。
そこで何故か、ふふん、と隣のアオイが、一気にテンションが上がったように、灰色の外套を自らの「力」ではためかせ始めた。
「やったー。オレの『力』、使い勝手悪ぃんだけど、多分相性最高ー」
今からいいとこ見せてやる! と、素直過ぎるバカなことを口にしながら、一歩進み出たアオイが指輪をする右手を正中に掲げた。
「――まずい、リンティ、離れて!」
雷夢が瞬間的に悟った通りに、その「力」はおそらく広範囲のもの。狭い日本の土地では発揮し難いだろう、大いなる「魔王」の威信の一端。
アオイがまっすぐ指を向けた先へ、指輪の蒼い石から放たれた光が、一直線に一瞬で魔物を貫いていった。雷のように相手に染み入る光とは違い、その光は刃の性質を持つと言わんばかりに。
おそらく急所を突き抜かれた魔物が、苦しげに暴れ始めた。雷夢達の方へ呻きをあげながら走ってくる。
「まだまだ。今のはほんの、ご挨拶だし」
今度はアオイは、まるで何かをつまむ手付きで、指輪の手を右上方に跳ね上げた。同時に現れた流れるような長い刃が、魔物の胴体を確実に剪断していった。
「……水?」
「そっ。光は直線だけど水は流体だし、水には光がのせられんだよ」
「すげー……春日って頭いいのか、バカなのかはっきりしてくれ」
気付けば二人の後ろにアキラが隠れ、場の成り行きを見ていた。
「とにかく春日は大人数対応、遠隔広範囲や巨体向きってことだな。竜牙は中距離・接近戦特化だし、リンティさんは戦闘可能な補助系かなー……」
「なにスズキ、オマエもゲームやんの? 何が好き? オレは断然DQ!」
えー絶対エフイーだろー、などと、雷夢には解読不能な会話が始まった。リンティは魔物の沈黙を確認しつつ、厳しい目付きでアオイを見ている。
凄いな、とは思った。魔王というのは、一応伊達ではないらしい。人間界では振るい難い「力」だったことも。
しかし手の内が晒されてしまえば、対策もできる大ぶりな「力」だ。それを雷夢に躊躇なく見せたのは、本当に敵対する気はアオイにはないのだろう。接近戦への対応も全然考えていないスタイルはいかにも「王」で、実際戦うのは四天王やら部下やらなのだ。
魔物から雷夢達の所に戻ってきたリンティが、難しい顔で見聞結果を言う。
「あれ、この辺りの移動を阻むための召喚獣だった。召喚者の気配を追えそうだから、少し寄り道するね」
何でまた、そんな。雷夢にも誰にも心当たりがないが、リンティが気配を辿った先で、まず納得したのはアオイだった。
もー! と。木陰に隠れて唸る質素な服の娘を、リンティがつまみ出した。
「ああもう、離しなさい、無礼者!」
「って……アーニァじゃねーか」
はっ。蝶のような羽を生やし、耳が尖った金髪の娘は、胸までの髪と紫の大きな目を揺らめかせてアオイの方へ振り返った。
「やだ、ルシフェルト様ああ!?」
「……なに。あんた達、知り合い?」
リンティが娘を離すと、わああ♪ と娘がアオイの元へ飛び込んできた。
「やだーもールシフェルト様ああ! お帰りになられたなら仰って下さいよう!」
「いやぁ。この辺、妖精の森が近いな、とは思ってたけどよ」
だからさっきの、番人だろ? とアオイがきくと、そーなんですう! とアーニァが口を尖らせた。
「話せば長いんですけど、今日のお宿は? ルシフェルト様」
「あー、じゃー、泊めてもらおっかな? 全員OKなら、だけど」
えー。いかにも不服そうな顔のアーニァだが、妖精の情報はききたい、とリンティが乗り気になった。
「ここ、真性の森じゃないよね? なのにどうして、あなたみたいな強いコが一人でいるの」
「一人じゃないですー! せっかくの隠れ場を台無しにした野蛮人には言いたくないですー!」
「……さっきの魔物、アオイが斬ったんだけど。それは?」
雷夢の冷静な一言に、アーニァは、があああん。と一気に顔色を暗くしてしまった。魔物が倒されたことより、アオイに刃向ったことがショックの顔だ。
「ごめんなさいルシフェルト様、アーニァは、アーニァはただティティを守るために……!」
「――!」
アオイが珍しく真面目な目になった。とりあえず、行こうぜ? と促すアキラに、アナタに言われたくないですー! とアーニァが騒がしく噛みついていた。
妖精娘というアーニァに連れられ、森の奥の小さな木製の一軒家に着いた。見た目は小さく屋根もメルヘンなのだが、中には十人は住めるらしい。
アーニァを出迎えてドアを開けた、もう一人の妖精がツインテールを揺らして叫んだ。
「あああああ! リンティ……おねえさまあああ!」
「げっ! ティンク!?」
何でここに!? と焦るリンティに、毛先が銀に変わる金髪の妖精が飛びつき、二人で倒れた。離せ、いやだああ、と呻いている姿に、ははは、とアオイが、軽さのない穏やかな優しい顔付きで笑った。
「元気そーだな、ティタニア」
「――!?」
金から銀になるツインテールの妖精が、驚いてアオイに振り返った。その隙にリンティが手の中から抜け出し、雷夢の後ろに隠れた。ティタニアと呼ばれた妖精は、うるうると紫の両目に涙を溜めて、アオイとリンティを交互に見回していた。
ティタニアが無愛想な雷夢に怖気づいて、うっ、と近付いてこなくなった。ふう、と息をついたリンティが呟く。
「おねえさま、ったって、五歳までしか一緒にいてないじゃん……」
どうやらリンティが雷夢に出会う前に、共に育った妖精らしい。アーニァとアオイはまた別縁らしく、リンティが去ってからのコミュニティと見えた。
妖精というと、実の母を殺した相手をどうしても思い出すので、雷夢はあまり良い気はしない。
しかしどうやら、妖精の中にも色々あるのだと、それから間もなくアーニァとティタニアに聞かされることになる。
「秘密基地」たる小さな家は、アーニァとティタニアが、妖精から身を隠す潜伏地だという。
「ルシフェルト様とタイタスが行ってしまってから、妖精の森は変わりましたの。アーニァはそもそも睨まれてましたけど、次代の女王ティティにもあの女王はやりたい放題、ひどい教育を」
そこでぐず、とティタニアがアーニァにしがみつく。アオイも青白い瞳の目をしかめ、自然に、ティタニアのツインテールの頭を撫でにいった。
「アーニァのクローン、フェネルが成功してしまって、もうアーニァはお払い箱なのですわ。アーニァの力はフェネルが引き継げます。力だけで生かされていたアーニァを、その時ティティが一緒に連れて逃げてくれて」
妖精の小家でお茶を囲みつつ、早速の重い話にアキラが縮こまった。「クローン」が何なのかよくわからない雷夢に、アオイが冷たい声でヒトの複製のこと、と教えてきた。
「本当、人間界とは違う方向で発展してるな、こっちは」
アーニァとティタニア、そしてアオイが座る向かいで、アーニァの前に座るリンティが大きな溜め息をついた。
「あの夢妖精。自分の娘にまで、その仕打ちとはね」
「って、リンティ?」
ティタニアが俯くだけでなく、アオイまでいつになく険しい目付きで、話し始めたリンティを見つめた。
「ティンク……ティタニア・クインは現女王、マブ・エルの娘。マブは竜宮ではメイベルと名乗ってるけど、前女王を暗殺して、世界樹の恩恵も奪って権勢を手にした女王」
そして何処かで闇帝に取り入り、邪魔者だった正妻のティアリスを殺した。目前のティタニアは雷夢にとって、実母の仇の娘になるのだ。
「アーニァは前女王の娘よね。生かされてたのが不思議なくらい」
ほんとですわ、と冷静に頷くアーニァは、相当苦労しているのだろう。それにしても妖精の内情に詳しいリンティに、アオイが何故か強い警戒の目線を向けていた。
五歳まではティタニアと一緒にいたのであれば、リンティが色々知っているのはおかしくない。ただしリンティは、十歳から五十年近く幽閉されていたので、幼く見えてティタニアも五十五歳以上のことの方が雷夢は驚きだ。
隣に座っているティタニアの頭を、アオイが優しい顔に戻って撫でた。
何かあの二人、距離、近いな。ティタニアが悪いわけではないが、母の仇の娘である者が、リンティやアオイに懐いているのは面白くない。
不快。そう感じている自分に気が付き、雷夢は自分でびっくりしていた。
妖精達の身の上話をあらかた聞いた後で。夜はアーニァとティタニアの、秘密基地に泊めてもらえた。メイベルを倒せば、あのコ達の助けにもなるかもね、とリンティが遠くを見るような目で言った。
「妖精って、まあ、好き勝手に生きる化け物だから。敵対すると厄介な種族ではあるんだよね」
アオイとアキラは一階で、アーニァとティタニアはそれぞれの部屋で。雷夢とリンティは屋根裏部屋で、夜を過ごしている。
星明りしかない屋根裏部屋は、天窓から光を宿す夜が見えた。人間界とは違って、夜空に溢れんばかりの星が満ちる。
「リンティは、あんまり恨んでないね。夢妖精のこと」
「あたしは正直、ヒトのことは言えないから」
「……何で。あんたはいい奴なのに」
世界樹の下で目覚めた妖狐で、家族はいないというリンティは、雷夢の代わりに幽閉された。
雷夢以外には悪人だよ、と笑う。そこにはきっと、沢山の意味があった。
ひたすら静かだった。夜中も車が走る人間界に比べて、風の音だけが入る屋根裏。藁を布団に二人で天窓を見上げている。
リンティが「あのコ達の助けにもなるかも」と言ったのは、雷夢が竜宮に喧嘩を売るか悩んでいるのを、気付いているからだろう。
「……たとえば夢妖精と手を組む悪魔が、あんたの言う通り竜宮を乗っ取ったとして。この世界はそれで、私が住めないような場所になりそう?」
「さぁねぇ。闇帝さんが、そこまではさせないんじゃない?」
そこで雷夢は、否応なく気付かされる。もしも真に、夢妖精の狙いが竜宮の掌握であるなら、次に邪魔になるのは闇帝――雷夢の父ではないかと。
「……ったく」
アオイのことを、弱っちいと笑えない、と項垂れた。
ヒトは結局、私情でしか動かないもの。身勝手の度合いで夢妖精が少々大きいだけで。
「雷夢は、無理しなくていいけどな」
その声は不思議なほどに穏やかだった。好きに生きて、と紫の目が笑った。
流れ星がいくつも窓枠に消えた。何かを願う時間もないまま。
その後はしばらく、二人して寝付けずにごろごろしていた。
すると階下に異変があった。こんな夜中に誰かが戸を開け、何事? と人が一階に集まる。
「――あ。ウソだぁ、何でまた意外にも、ルシーがここに?」
星降る真夜中の訪問者は、妖精達と知った仲らしい。蒼みがかった灰色の猫耳と尻尾を生やし、くすんだ青の目がくりっと大きい癖毛の少年が、外套を脱ぎながら人懐っこく笑った。
「って、オマエ……アバシリ?」
夜も更けていたので、詳しい話は明日、とそれぞれ寝床に帰った。妖精達には賓客、アオイには部下という立場らしい少年が、翌朝から道中に同行することになった。
預け物があったという妖精の家を出てから、少年は猫耳を隠して深く外套を被り、アオイに付き纏って笑い転げていた。
「あはははは、ルシーって本当、お気楽能天気なままなんだなぁー。見かけ倒しの四天王はともかく、ボクやテラーまで代打で騙せるわけがないじゃーん」
「アンタ達ねぇ。しれっとついて来てるけど、ここは魔王一派の地上拠点じゃないんだけど」
リンティが大いに不服な顔で絡む。しかしアオイはともかく、アバシリという少年を見てから、リンティの挙動に変化があった。
誰かに似てる、と。アバシリ少年の可愛い美形な顔を見つめて、何度も首を傾げているのだ。
「ルシーが一緒に帰ってくれるなら、ボクは離れてあげるけどね?」
「だってさ、春日。いい加減魔王、逃げ切れないんじゃね?」
るせー。と男子組で固まり、後ろを歩いている。アバシリは見つけてしまった以上はアオイを捨て置けない、追い払うなら悪魔達にアオイの居場所を言う、というので、連れて行かざるを得なくなったわけだった。
「でもオマエ、元々魔王とは関係ないだろ。何でテラーについてるんだよ?」
アオイの部下の部下。正確にはそういう立ち位置のアバシリらしい。
「それも知らない呑気なルシー君、その内足元をすくわれるよ〜。テラーが頭が痛い、って言ってたのもわかるなぁー」
本当に、いったいどこまで、「魔王」などという集団とこのまま関わるのだろう。雷夢は自分のことで精一杯で、竜宮のことを調べる邪魔にならないなら、と放置しているだけだ。
リンティは数日中には、雷夢の大叔父の隠れ里を見つける、と言った。世界樹の近くにあるワープゲートからでなければ、里に出入りしたことのある者だけが入れる結界がある地らしく、ティアリスがリンティか雷夢は連れて入ったことがあるはず、という成算しかない。とにかく近くまで行ってみるしかない。
「そんな厳重な所に、魔王一派、連れていっていいわけ?」
「駄目だと思う。あたしか雷夢、入れる方だけが入っちゃって、外で待ち惚けにさせるしかないよ」
人間の体力のアキラがいなければ、昨日にでもつけた位置にはいるはず、という。ここでアキラの正体を晒すと手の内を知られ、いざ魔王が敵に回った時が心配だ、と現状維持に留めている。
山ばかりを超えてきたので、人に出会うことは少なかった。だから雷夢は、指名手配の件をすっかり忘れていた。
まさか隠れ里の山の麓の宿場町で、武器屋で出くわした旅人の美少女に、店の外まで追いかけられるとは思わず。
「ちょっと、あんた……! 青い髪と目、それに凄い力……まさか、魔竜!?」
肩を掴んで呼び止めた旅人は、炎の色の髪を一つ括りに、装飾の凝る剣を背負っている。
騒ぎに駆けつけたアオイやリンティの気配も読んで、美少女はますます、剣呑な雰囲気となっていった。
「雷夢、どーしたんだよ? この気配は……」
「魔族や妖を連れてるなんて……あんた、何者なの、魔竜!」
その「魔竜」を探す指名手配は、悪魔と竜の末裔、そして天の者と、魔竜と戦い得る者にだけ出回っていると雷夢は知らない。
人の少ない町ではあるので、はいはい、散った散ったー、とアバシリが町人を追い立てていく。
「青い髪と目の魔竜。天を司る『地』の守護者、ミラティシア・ゲールの名にかけてあんたを捕まえるから。覚悟しなさい!」
うっわあああ、と。雷夢でなくアオイが激しく動揺した。
雷夢一行以外はいなくなった雑踏で、旅人の美少女が長い剣を抜いた。アキラだけは姿が見当たらず、アバシリとアオイがひそひそ話をしている。
「これ凄過ぎない、ルシー? 守護者を狩れば、四天王見返すチャンスだけどな?」
「絶対嫌だ! あいつにオレが魔王なこと言ったら、オマエ縁切る!」
そう言えばアオイはかつて、四天王が勝手に守護者を倒せばいい、などと言っていた。それならここで戦うべきは、本当は美少女とアオイだろう。
しかし間の悪いことに、つい今雷夢は、念願の長剣を武器屋で買ったばかりだ。強そうな剣士が向こうから喧嘩を売るなら、是非に買いたい。そう胸が高鳴ってしまった。
リンティが姿を消していることもよそ目に、笑うアバシリと焦るアオイが見守る前で、アオイのことは言及せずに剣を抜いた雷夢だった。
お互い剣を持っているので、右で括る髪を揺らす美少女と、剣の攻防が始まったのは当然だった。
「力」を使わなければ、町にも被害は少なくて住む。相手もそう考えたようで、強い力が感じられるのに、まっすぐ真剣で斬りかかってくる。
「ふうん、確かに天界人ぽい気配だけどー。宝珠はさすがに持ってないね、『守護者』は誇大広告だねー?」
にまにまと、見物しながら状況を分析するアバシリに、アオイの顔が引きつっている。
「こりゃ技量は、タッキーちゃんのが上だねえ? でもこのままいくと、タッキーちゃん……」
気が付けばアバシリは、雷夢を変な仇名で呼んでいる。その分析は鋭く正しく、炎の髪の美少女の戦い方は、「力」を使う剣筋の方が得意に見えた。雷夢は幼い頃に母の付き人から、人間界にいる間にはカヅキ少年から、体の動かし方や足運びも含めた戦闘用剣技を習い続けたので、接近戦ではそうそう遅れを取らないと自信が持てる。
「でも、人間レベルの長剣じゃ駄目だね。先にタッキーちゃんの方に限界が来る」
アバシリの言った通り、勝負では雷夢が押していたのに、相手を無力化できる前に剣が折れた。実戦では強度や切れ味の鈍りまで考えて動かなければいけないことも、雷夢にはまだ学ぶことだらけだ。
やば、と折れた剣先を雷夢が見つめ、旅人の美少女が姿勢を持ち直して攻勢に出ようとした時だった。
「雷夢! 使って!」
姿を見なかったリンティが、見たことのない剣を雷夢に投げた。刃の根本に透明な珠玉が填まり、異次元移動の時の短剣を長くしたような大ぶりの剣だ。
「サンキュ、リンティ……!」
短剣よりもしっかりした柄を、ぎゅっと握る。普通の剣にはない「力」が刀身に漲る。
次の一閃で美少女の剣を弾き飛ばし、喉元にぴたりと刃先をつきつけ、雷夢の完全な勝利だった。
「ちょっと、ずるいー! 『力』使わない勝負の感じだったじゃん!」
文句を言う美少女に雷夢はごめん、と謝る。
「先を急いでるんだ、私。ここで捕まるわけにはいかない」
嘘のない目と声に、美少女がぐぐ、と詰まった。おそらくそれは、剣を合わせている最中から、相手に生まれていた迷いだ。
最後に卑怯、と文句を言ったあたり、雷夢の剣のまっすぐさは勝負中から感じていたのだ。それが本当に捕縛すべき「魔竜」なのか、疑問を持つ程度には敏い者であるようだった。
場に戻っていたリンティが、最大の嫌がらせの一言を放つ。
「あなたの相手、あっちだけど? 天の守護者さん?」
アオイを指差し、魔王とまでは言わなかったが、何とも皮肉な指摘だろう。
「雷夢どころか、魔族にだって、あなたじゃ勝てないよ。あなた、ヒトも殺さない甘ちゃんだもの」
何い! と美少女が立ち上がって、涼しい顔色のリンティと睨み合った。雷夢は無表情のまま、ぽかんと二人を見つめた。
私も別に、殺す気ないけど。何故リンティがわざわざ、通りすがりの剣士に喧嘩を売るのか、世の中はわからないことだらけだった。
アバシリが人払いをしたはずの場へ、世にも不思議な髪色を隠すように頭に布をまく、外套のない町娘が駆け付けてきた。
「ミラ、どうしたの! 何の騒ぎ!?」
連れらしき薄蒼の髪の町娘は、ともすれば少年にも見える童顔。雪空を思わせる薄い髪色は、雷夢よりも珍しく思える。目も蒼で雷夢に近い相手なのに、美少女は言及しないのだろうか。
「……ウィジィ」
そう言えば美少女も蒼い目をしている。守護者仲間かな? と雷夢が思いかけた時、リンティが思わぬ叫びを発していた。
「まさか――あなた、セイザー家のヒト!?」
はっ、と町娘が警戒の顔を見せた。リンティはしまった、と気を取り直し、落ち着かせた口調で改めて向き直った。
「あたしは、リンティ・アースフィーユ。あっちは雷夢で、ティアリス・ナーガ・セイザーの娘なんです」
ええええ! と、派手に驚いた町娘に、隣に立った天の美少女が怪訝な顔をした。
「ティアさん……巫女の娘!? 何で今、どうしてここに!? しかも若くないですか!?」
尤もすぎることを立て続けにきく町娘に、リンティがすらすら話を進める。
「ティアリスは殺されました。雷夢は魔竜の疑いをかけられて、幽閉して封印されました。だから歳をとってないんです」
嘘の話だ。しかし次に続けた言葉は、沈痛な顔を合わせてもおそらく真実だった。
「ティアリスに付いてくれていた、フリュメ・セイザーも殺されました。ティアリスからは従弟だと、あたしは聞いてます」
「それ……行方不明の、おじい様の、名前……」
町娘の両目に涙が滲んだ。この町に近いはずの隠れ里で、雷夢の大叔父の関係者――血縁であることは間違いなさそうだった。
フリュメも、雷夢に剣を教えてくれた一人だ。そっか、死んでたのか。母が死んだことを考えれば当然だろう結末を、雷夢も今、黙って受け止める。
人間界は、時間の流れが違う。雷夢が隠れている間に、母の従弟のフリュメに孫ができていた。ティアリスと生家のセイザー家をつないでいたのがフリュメで、ウィジィは祖父に会ったことはないという。フリュメが死んでから生まれた孫で、ウィジィからティアリスはいとこ大伯母になる。
「雷夢さんとリンティさんだけ、ついてきてください。うちに案内します」
ウィジィの親友というミラは、天の者として魔族を見張る、とアオイ達と宿場町に滞在することになった。逃げたいなら逃げれば? と雷夢は言ったが、待ってるさ! と何故か泣きそうな目線が返ってきた。
隠れ里に帰るために三人で町を出てから、山を登るウィジィは感心しきりだった。
「嘘みたいですね、幻じゃないんですよね……もう私には、幻は使えなくなったはずだし」
「?」
首にかけている奇妙な笛のペンダントを触り、ウィジィがはにかむ。
「これ、本来は神獣ぽぴゅーんとセットの幻の笛なんです。使い方を発見したのがティアさんだと聞きました」
今は笛だけがあり、幻を作る本体の神獣がいないという。
ぽぴゅーん、と聞いて、雷夢はリンティと顔を見合わせた。その神獣は城の周囲の森によくいて、竜の血をひくものにだけ力を貸すのだ。
雷夢は何故か、頭痛がした。リンティも何も言わず、心なしか神妙な顔でウィジィに続く。
「ティアさん、野外研究が好きで、髪を染めてまでよく里の外に出てたらしいです。色んな人と知り合いで、里にも連れて来てたとか」
隠れ里には、里の住人が付き添えば誰でも入れる。だからアオイ達は宿場町に置いてきたのだ。スズキがいねぇ、とアオイが不思議がり、アバシリがにまにまとしていたのが雷夢は多少気になる。
「しっかし、あんたの顔、本当気付かれないよね」
リンティは雷夢とそっくりであるのに、ウィジィもミラも何も言わなかった。最初に影武者として入れ替わった時を除き、以後は顔をあやふやにさせる術を常に使っているのだという。
「まあ自称魔王には、術のない時に顔を見られたから、効いてないけど」
そうなんだ、と納得する。雷夢はリンティが先にアオイを襲ったことを知らないが、あんまり追求しない方がよさそう、と話題を引っ込める。
ウィジィには悪いが、帯剣はさせてもらった。隠れ里でも危険は有り得るし、またアキラのためでもある。
しかし入り口の茂みから入ってすぐに、ウィジィの歳の離れた兄に出くわし、兄が子供の手を引きながら無愛想に言った。
「うちの巫女の娘? それならもう、ひいじいの所にまっすぐ行けよ」
ウィジィと同じ、薄蒼い髪の兄だ。本来人間にない色であるので、血縁であるのがよくわかる。
「え、でも、早くても着くのが明日になるよ?」
「でも俺達じゃ、何も知らんし。泉の鍵を渡すから、ちゃっちゃと霊法の里まで連れてけ」
そう言ってウィジィに、着けていた腕輪を兄が手渡した。
兄は剣士であるようで、フリュメの孫だな、と雷夢は納得する。
「すみません……隣の山に、これから行きます」
ウィジィの申し出に雷夢は頷き、リンティは何故か、少し安堵した顔だった。
アオイ達を長く待たせることになるが、路銀はアバシリが豊富に持っていたので心配ないだろう。ちょうどリンティのお金は尽きてきている。
そうして隣の山に出向いて、小さな泉に出ると、ウィジィが水に腕輪の手をつけ、ここに入って下さい、と伝えた。隠れ里よりは緩い結界になるが、知らない者が泉に入ってもすぐには使えないワープゲートらしい。
泉の先は、ウィジィ曰く、「本当は女の子しか来ちゃ駄目なんです」という荘厳な秘境だった。女官が来訪者を出迎え、ウィジィの曽祖父、フェンサの血族であることを伝えると、秘境唯一の男性剣客の元へ三人揃って連れていかれた。
リンティ曰く、幽閉されている時にフェンサからフリュメへの手紙があり、城でティアリス達を憐れに思っていた侍従が隠れて渡してくれ、夢妖精と悪魔のつながりを知ったキッカケだという。
「信じられん! あの手紙を見て来てくれたのか!」
九十歳越えには見えない老人が、雷夢とリンティを喜んで出迎えていた。物作りに特化した秘境で剣を造りながら、虫払いで重宝されている身らしい。
元々はティアリスが、秘境の巫女と懇意だった。そのツテで巫女の館に老兵として滞在するフェンサは、息子であるフリュメの死をリンティから伝えられて、やはりな……と重く俯いていた。
「夢の妖精マブ・エルは、昔から悪名高い魔縁堕ちだった。詳しい話を知るのは、東の大陸に行ったフェラルの方でな。手紙を書くから、それを持ってカシドレイクに行きなさい」
始終、リンティが窓の外を、ちらちらと見ていた。浮かない顔をしているが、雷夢は何故か、この秘境の空気は懐かしい気がした。
途中で秘境の巫女が話に加わって来た。雷夢の剣を見るなり相好を崩した壮年の巫女は、それを造ったのは自分、と驚く話を口にしていた。
「ナーガ様のご息女、よくいらして下さいました。その『神立風』の器は、わたくしが『無常風』を元に、ナーガ様のご依頼でヒトに偽装した霊剣なのです」
その剣は長剣「神立風」の時には、力を封じて無難なアキラの姿に。元の短剣「無常風」なら、雷夢にこれまで剣を教え、自らも戦えるカヅキになる。
竜種の王者の秘宝という透明な珠玉が、二人もの少年を世に再現している。アキラもカヅキも雷夢のために、ティアリスがユーファに託したのだ。
リンティが悲しげな顔をしていた。ティアリスから剣の制御法を教えられていた少女は、何か想うところがあるようだった。
*
喚ばれざる魔王が異次元移動についてきた時、次元の狭間に置去りにしなかった時点で、妖狐の少女は魔王に負けたようなものだった。
初日の宿で雷夢が寝付いた後に、動かない体を鞭打って屋上に出た。待ち構えていた魔王が、人間界より大きな月を背にして静かに言った。
「なぁ。マヤが言ってる、魔竜ってあんただろ」
あの軍服の女悪魔は、何を伝えていったのだろう。少女を見抜く青白い瞳に、魔王は何故確信を持って言っているのか。
「雷夢は指名手配されてるっつーたけど。あれは違うだろ、普通に考えたら追われるべきは魔竜だろ」
「……は?」
「雷夢、いい奴なのに魔竜なわけがねーじゃん。問答無用でオレを殺しに来たあんたの方が、よっぽど魔物だし」
呆れたことに、この場合は魔王の願望が真実だった。というよりは、ヒトを見る目があるのだろう。
とりあえず魔竜の件は無視し、アンタを襲ったのは雷夢に言うな、と口止めすると、じゃー旅代もって♪ とあっさり了承されてしまった。
普通、自分の命を狙った相手に、多少の旅費の負担程度で納得できるだろうか。それどころか魔王は、少女を心配するような目色で、内容は重い軽口を続けた。
「何で雷夢に隠し事すんだ? オレが魔王だから襲った、それだけの話だろ?」
「……」
これはおそらく、自称魔王は命を狙われ慣れている。異次元移動で疲れ切った体で屋上に来た少女を、純粋に雷夢の影武者として受け止めている。
「……別に。アンタが魔王と名乗ってるから、襲ったわけじゃない」
「?」
素直に首を傾げる仕草が、癇に障った。この相手は魔王という過酷な生まれであるはずなのに、あまりに悪意が無さ過ぎるのだ。
「ライムに近付く奴は、あたしが殺すの。せいぜい気を付けておくことね」
言い捨てながら、機会はもう過ぎてしまったことにも気が付いていた。
嫌な奴なら良かったのに。その思いは旅の中で、増す一方となってしまう。
少女とは因縁のある泉の里に、泊めてもらえたせいなのだろう。昔の夢が少女を襲う。
泉の近くで起こった惨劇の後、竜宮に捕らえた少女とフリュメを、夢妖精が自ら殺した。一人だけ蘇る少女を何度も貫き、禍の証を闇帝に見せつけていた。
――殺しても死なない。ほら、これが魔竜ですわ。
闇帝の娘と同じ青い髪に化けた少女が、誰にも殺せぬ魔物であること。それは彼には、静かな絶望の足音だっただろう。
――自分の子供だからって、ナーガ殿は魔竜に情が移ったのです。
夢妖精は、合理的としか言えない。自身の娘のティタニアのことも、妖精の森の統治に利用する方法しか考えていない。
あまりに何度も殺されたので、身体が壊れては治る間、少女は竜の墓場と呼ばれる闇に迷い込んだ。そこで出会った番人達が、まだ何もかもが胡乱な少女に、生きる指針を与えてくれた。
――いつか、闇帝の城を出る日が来たら、ディアルスに逃げて悪魔を喚んで。
竜種の珠玉に魂を纏わせることで、番人達は墓場の外の情報を得ていた。その珠玉を填める短剣をティアリスが継ぎ、霊法の里の巫女がヒト型の偽装を与えた。
番人達が誰であるのか、やっと思い出した時に、地下牢の少女は長い眠りから醒めた。そして新たな、これからの夢を見るようになった。
ウィジィの隠れ里から霊法の里に行き、一晩泊まって少女と雷夢は宿場町に帰った。その後に何やら、夜もふけた食堂の隅で話すアオイ達を見つけた。
「だろ、四天王ちょっと調子乗ってるだろ! 今まで『地』の侵入すらろくに成功してねーのに、何で宝珠取れるって思ってんだか?」
「そりゃねぇ、マジに魔王っぽいくせして、止められないアンタも相当ださいしねぇ」
「それは言わないであげてー、ミラちゃーん。むしろ四天王の方が人界の覇権欲しがっててね、魔王なんて後付けのカリスマに過ぎないんだよー」
天の者、炎の髪の美少女ミラと、魔王たるアオイや部下のはずのアバシリが、和気藹々と駄弁っている。何あれ、と隣の雷夢が呆れるのも無理はなかった。
ミラとアオイはともかく、アバシリは力の相性が悪くて気配が弱り、猫耳がふにゃんとしおれている。それでも微笑ましいような顔で、天の者と魔王を見守っていた。
資金源のアバシリの厚意で、少女と雷夢、ウィジィにミラの女子部屋を宿にとってくれた。剣からヒトに戻して連れて帰ったアキラと、アオイ、アバシリが別の同室で休んでいる。
「いや。あれただのバカでしょ、魔王」
「ミラ……仮にも守護者になりたいヒトが、それでいいの……?」
現役守護者の友人がいるらしいウィジィは、ある意味少女や雷夢より驚いている。
「実際あのネコマタの言う通り、魔王の攻勢が激しくなったのは四天王が出現してからだって習った。神暦の頃は『神』の方がうざい敵だったみたいだし、まぁ何よりあの魔王、確かに魔族だけど、話しやすいじゃん?」
ふうん。と雷夢が面白くなさそうにしていた。騒がしく過ぎていく夜に、少女は苦く笑うしかない。
色々と、思うところがあった。眠れず過ごした妖狐の少女は、翌朝一行が驚く提案をする。
「別行動――って? リンティ?」
「雷夢はアキラについていって。最初の予定通り、手紙を持って大叔父さんに会いに東の大陸に行って。あたしは蒼帷を、連れて行かなきゃいけない所がある」
雷夢がとても驚いているのは、提案の意外さにだけでなく、少女が初めて真面目な顔で、自称魔王を「蒼帷」と名前で呼んだことにあった。
「オレを連れてく? 何で?」
「……理由はきっと、アバシリ君が知ってる。でしょ?」
「んー……あー……」
ばれちゃったか、という顔で猫耳少年が黙る。少女も半信半疑ではあったが、アバシリの気配が弱っているからの提案でもある。
そこで意外にも、ミラが東への旅に名乗りを上げた。
「ウィジィは里に帰りなさいよ。あたしはしばらく、指名手配の真相を自分で確かめるから」
「え!? ミラ!?」
「魔王も魔竜も、全然悪い奴らに見えないしさ。今度はちょっと、魔竜についてってみることにする」
剣の再戦もしたいしね! と続けて強調する。雷夢もそれは思っていたようで、今まで一緒に来た少女が外れることだけが不満、と渋い顔をし続けている。
ま、いーじゃん、と場を取りなしたのは、まさかの魔王だった。
「東は確かに、遠いからな。こことの間、ジパングで待ち合わせにしたらどーよ? ジパング、実は竜宮に行けるゲート、あるし」
え!? と少女が、誰より先に驚いていた。知らない情報であるのに加え、まさかのアオイがそれを言い出したことに。
「雷夢もいっぺん、ジパング見てみな? 日本の京都みたいで面白いから。オレあそこが好きだから、日本に潜伏してたんだよなー」
何それ、と雷夢が、微かに顔を赤くして呟いていた。アオイが話をごまかしたのがわかったのだ。
アオイにそもそも、竜宮に行く用事はない。けれど何がしか、雷夢の力になろうとしての言葉だろう。
ミラに魔王と明かしていることを含め、数日見なかっただけなのに、水面下には静かな決意を感じる。アンタ成長、早過ぎない。少女は思わず内心で毒づく。
アオイの空気がいつも通りに軽いので、ちょっと二手に分かれるだけで、すぐにジパングで合流できる。雷夢もそう納得したようだった。
一行の旅はまだまだ、始まったばかり。早く平穏な暮らしを手に入れるため、現在直面している危機の情報を知りにいくこと。自分の問題だしね、と雷夢が、フェンサの手紙を握りしめた。
そうして雷夢とアキラ、ミラが宿を出た後、ウィジィも隠れ里に帰った。霊法の里への獣道を引き返す少女に、アオイが早速名前を呼んで話しかけた。
「あれで良かった? リンティ。何か雷夢に教えたくない話があんだろ」
不服であるが、いちいち敵意を見せる余裕もなかった。代わりにアバシリが間に入り、ごめんねー、と猫耳を平たくしていた。
「あのね、アースフィーユ。騙すつもりじゃなかったんだ、ごめん」
へ? と目を丸くするアオイの前で、背中を向けたまま少女は立ち止まる。
「……今の方が、アナタの本当の姿なのね。ラナトイル」
「うん。テラーにそろそろ力をもらわないと、人化をし続けるのもきつい」
ふわ、とアバシリの外套が舞った。次の瞬間、灰色から蒼に変わった髪が伸びて、化粧もばっちりな乙女の姿になった。
「ラナトイル・ナーガ。タイタス・オベロン・ルキフゲと共に、あたしを匿ってくれた竜種の末裔」
「え!?」
「正確には竜種の末裔、かつネコマタの仔ね〜。もうちょっと長く眠ってる予定だったんだけど、テラーに発見されて封印解かれちゃってさー」
「え!」
テラーが!? とアオイが、アバシリの外套に掴みかかった。
「ってか、タイティーも絡んでんのか!? オレの知らないところで!?」
少女はむしろ、誰もが「魔王」に何も教えず、この旅を黙認していることが我慢できなくなった。
魔王はただのバカ。ミラの言葉に、少女も痛く同感だった。
この魔王は現在必死に、雷夢に追いつこうと背伸びを始めた。それはいずれ、アオイに冷たい現実を突き付けるだけであるのに。
――正味、魔王って損じゃね?
その通りだ、とあの時思った。けれどアオイは、「最弱の魔王」と楽しそうだった。
それは少女が思う「魔王」とは違う。「魔王」を求める環境においては、許されないはずの甘さだ。
「アンタ……雷夢達と一緒で、一人じゃなくなったでしょ、アオイ」
「――……」
自分のことを、最弱と笑っていい環境がある。誰にも強くなれ、と強制されない。だからここで、彼は自ら強くなろうと望み始めた。
その健気さが辛かった。そんな「蒼帷」の姿を見ている、雷夢が心を開き始めていることも。
「雷夢達といたいなら、アンタに教えなきゃいけないことがある。それを話すために、ついてきてくれる」
絞り出すような声で、何とかそれだけ告げた。
女装のような「ラナトイル」から、元の猫耳に戻ったアバシリも、しゅんとした顔で二人の後に続いた。
弱くても、魔王でもそこにいていい。魔竜の烙印を持つ少女には、その幸運は幻だとしか思えない。受け入れられた方が強くなれる、そんな夢物語はいつか終わる。
実際にかつて、一度終わったのだ。霊法の里でありありと思い出してしまった。
霊法の里に踏み入る必要はない。里の神泉に違う方向から入り、森の泉の水際に立った。
「……ここに来ても、何もわからない?」
「――何が?」
それよりアバシリ達と、リンティの関係! そう喚く魔王は嘘をついていない。
仕方がないので、言う。
「ここは、マブ・エルが……ティアお母さんと、アンタを殺したところ。碧」
普通、自分の命を狙った相手の、話を聞こうと思えるだろうか。魔王は命の危機に慣れ過ぎている。
「アンタは何も覚えていない。それは殺されたから。雷夢と遊んで、雷夢をかばって、アンタは殺されたの」
「え……?」
「実際は雷夢でなく、雷夢に化けたあたしをかばって。アンタもさすがに、マブ・エルが雷夢の母親を殺したこと、この道中で気が付いたんでしょ?」
言葉に詰まるアオイが、確信を持ったのは宿場町だろう。ティアリスは殺された、とウィジィに告げた時だ。あの夢妖精、と以前に少女が言った時にも、珍しく険しい表情を見せた。
だからアオイは、雷夢が竜宮に行くのを覚悟したのだ。そこにいる夢妖精と戦うことを。
「マブ・エルは……アンタの母親でしょ。碧」
ティタニアに優しいのは、妹だから。妖精の子なのに妖精ではないのは、もっと強大な血が目覚めているから。
「雷夢はマブ・エルに殺されたティアお母さんと、闇帝の娘なの。この意味、わかるよね?」
アオイの血の気がひいた。アバシリは黙って俯いている。
雷夢の出生を、今まで誰もはっきり口にしなかった。雷夢の母のティアリスや、指名手配の魔竜が何者であるのかを。
「それじゃ……オレと雷夢は……」
「腹違いの兄妹。マブ・エルが闇帝の仔以外の、竜種の末裔を身籠ったのでない限りは」
その線はない、と少女は見切っていた。闇帝も碧も、強い水への介入力を持っている。島国ジパングに根を下ろしていた闇帝の一族は、海竜の傍系の血筋なのだ。
「アンタの指輪が力を補助するのは、ティアお母さんの逆鱗が宿る指輪だから。海竜の仔であるアンタを、竜種としても有効活用したかったんでしょ、アンタの母親」
ティアリスは、逆鱗だけを発現した竜種。だから巫女と呼ばれていた。竜種の「力」の制御に特化した、逆鱗を末裔に捧げる者が巫女だ。
――僕は絶対、いつか君を見返してやる!
そんなことを叫ぶ、ヘンな子がいる、と少女はかつて幼い雷夢に聴いた。
内緒だよ、と。父にこっそり連れ出される、遠い泉で会うと。母が連れてきたリンティと同じように、父も雷夢に秘密の友達を作ろうとしていると。
それは父が母と婚儀を結ぶ前に、夢妖精と作った兄とは知らずに。
闇帝も知らなかったのだ。夢を司る妖精の巧いところで、子供だけは愛してほしい、と闇帝の情に訴えた。いつか家族だと明かすために、雷夢に会わせることを望んだ。
少女がそれを知ったのは、脱獄の後、闇帝が魔王と知らない碧を認知した事を聞いてからだ。最初は嫌な予感がしただけの少女は、ティアリスに謎の少年の存在を話した。ティアリスも誰? と首を傾げ、雷夢の代わりに少女が少年に会いに行ってみることになった。ティアリスが追って来れるように、小さな力の目印を残して。
少女が雷夢でないと気付いたのは、少年一人だった。闇帝も夢妖精も、青い髪に化けた少女を雷夢と思い込んだ。影武者と言えるほどに、気配も似るので疑われなかった。
お前誰だよ、雷夢ちゃんのニセモノ! 少年は最初怒ったものの、いいよ、遊んでやるよ、とすぐ打ち解けていた。夢妖精や闇帝からも離して育てられて、淋しい身上だったのだろう。
いつも日が暮れたら、闇帝が迎えに来ると雷夢に聞いていた。しかしその日は、ティアリスが竜宮を離れたことを察知し、現れたのは夢妖精だった。
――お母さん……どうして……?
まず夢妖精は、幼い少女を容赦なく飛刃で貫いた。その後、幼子達の前に飛び出したティアリスと、少女をかばおうとした実子を射った。魔竜となった雷夢が碧を殺したから反撃した、そう闇帝に正当化するために。
ティアリスは最後に、ユーファに逃げるよう伝令の短剣を飛ばした。その日は少女が雷夢と入れ替わるため、少女の狐火玉を雷夢に持たせ、竜宮から出して預けていた。
「あたしはその後、幽閉された。アンタが生きてるとは思ってなかった」
「…………」
「でも城を出て、タイティーに会ったの。アンタにそっくりで、竜種のはぐれ者のラナトイルに会わせてくれて……アンタはもう、昔とは違うとタイティーに聞かされたから、マブ・エルに駒にされる前に消したかった」
それでもアオイは、風体は違えど雷夢の味方だった。ティアリスの逆鱗を使いこなし、ティタニアやアーニァ側につく兄貴分だった。
「……あの時、かばってくれて、ありがとう」
口を引き結ぶように黙っていたアオイは、どうやら少女の言葉を疑っていない。そういうところも含めて、歪んでいない相手なのだ。
そのまま無言で、自身の補佐をしているはずの蒼い石の指輪を外した。
「……?」
少女の前で、涙を堪えるような顔で、指輪をアオイが泉に投げた。
ドポン、と取り返しのつかない水音。唖然とするだけの少女に、やっと口を開いていた。
「……雷夢はこれから、あの女を殺しに行くだろ」
たった今、アオイが捨てた蒼い石は、ティアリスの逆鱗を宿すものだ。それを使っている限り、自分は雷夢の仇の側にいる、と思ったらしい。
「オレも、自分で強くなる。母親よりも雷夢をとる。……妹として、でも」
少女は何故か、その気持ちはわかってしまった。しかし実際問題、アオイがつい今したことは、雷夢の母の形見を失い、そして。
「うわー、それは直球過ぎだよ、シアン。マブと戦う気、ほんとにあるの?」
むしろあれで、タッキーちゃんの代わりにマブを殺してあげなきゃ、と、ずっと沈黙していたアバシリが呆れたように指摘した。
「……シアン。それが今の、アンタの真名?」
少女は無意識に、話を逸らした。
そこで突然、知らない男が代わりに応えていた。
「碧・ルシフェルト。もしくはルシフェルト・碧・春日。竜種でも魔王である身は、いずれを真名とするかは難しい」
水際にいた少女達の後ろに、世にも目立つ、黄金色の鳥頭の男が、森側に降り立っていた。鼻と耳までしっかり覆う、ぴっちりとした全身黒スーツに、肩と胸に白い装甲を着けて、時代錯誤というより人間界の特殊な兵のような出で立ちで。
「って、テラー!?」
「わーい、テラーだー。姿を見せたってことは、そろそろやる気ー?」
「我も、竜種のはしくれを自負している。竜種の聖地、竜宮の汚染をこれ以上は見るに忍びぬ」
「って、テラー全然竜種じゃないじゃん、死竜いるだけで悪魔としては多分毒蛇じゃん?」
その悪魔の男について、少女は存在だけを、タイティーから聞かされていた。
脱獄の時、次元の移動で世界樹の元に着いた少女は、妖精に捕まりかけてディアルスへ落ち延びた。墓場の番人に教えられた、「タイタス・オベロン・ルキフゲ」という悪魔を召喚すると、彼は今代の魔王の代打と名乗った。
――俺は今、死竜使いの悪魔と組んで竜宮の内を探ってる。俺自身はマブ・エルへの反感くらいだが、悪魔達が守るべき魔王にとっても、マブは多分危険な存在でね。
タイティーは妖精の幹部の子に生まれたものの、魔王の相方の適性を発現したため、妖精の中では独断で行動していた。幼い少女とティタニアを夢妖精から離して育て、少女を魔竜としてティアリスに託したのはタイティーだった。
――あんたは世界樹の伝承通りの魔竜に見えた。マブに渡したくなかったし、他に魔竜の資料を持つのはセイザー家くらいだからな。
今回少女が雷夢だけを東に向かわせたのは、ティアリスの叔父のフェラル・シアトスに会わせ、本当に聞かせたいのは魔竜の話だった。夢妖精のことも知っているはずだが、そちらは重要ではなかった。
「まあとりあえず、アースフィーユはこれから、マブ・エルを殺しに行く気でしょ。だからタッキーちゃんを遠ざけたんでしょ?」
え!? と驚くアオイの横で、少女は無表情のまま頷く。
しかし、と男悪魔が、露わな鬱金の目で少女を見据えた。
「勝算はあるのか? 魔竜殿。我は魔王と共に在る者。貴殿に力を貸すなら、シアンを納得させてもらいたい」
男悪魔の、言わんとすることはわかった。力の制御用の指輪も無くし、今のアオイを戦線に加えるのは危ないからだ。
「蒼帷は、ラナトイルとジパングに行って、後から雷夢を竜宮に連れてきてほしい。それまでには終わらせておくから」
「マジかよ!?」
「ラナトイルに戦地で傷付かれるのは困るし、あたしもアンタに、まさかこれを頼めるとは思わなかった。蒼帷。ティタニアと雷夢のために、竜宮を取り戻すのに協力して」
少女の身を案じるように、アオイの目が曇った。少女――魔竜の実質は明かしていないのに、まるで妹を見るような眼差し。
わかった、とアオイが項垂れた。そうでなければ、雷夢を迅速に竜宮に連れて行ける者がいないからだ。軽いが人の好い相手であるのは、少女も嫌というほど感じていた。
「テラー、死竜は〜?」
「次善の策のために預けてある。使わずに済むのが最善の道だ」
死竜の使い手は、仕える魔王をかつて殺され、夢妖精に強い不信感を持ったときく。それだけではない因縁があることを、この時の少女は知る由もない。
そのまま霊法の里の神泉で、テラーがネコマタのアバシリに力を補充した。猫耳を隠して髪の長いラナトイルになったアバシリとアオイが、ジパングに向かっていった。
この男悪魔は何かと、補助系の「力」や道具の扱いに長けると見えた。だから自らを六百前に封印したというラナトイルを、解放して人化の維持までできたのだろう。
少女は無言で、テラーを背後に歩き始めた。これから少女の力を強める土地を探して、次元移動で竜宮に飛ぶのだ。
ふと思ったのは、脱獄して世界樹の元に着いた時に、少女を捕まえようとした夢妖精の手先のことだった。
――投降しなさい。忌まわしき魔竜。
世界樹は大昔から、妖精が管理している神木だ。他に場所を思い付かず、降りるには危険な地とわかっていた。
しかし出て来たのはまだ幼い妖精で、長い前髪で目まで隠していたので顔はわからなかったが、「力」がない魔力だけの、おかしな妖精が少女を捕縛に現れてきた。
思えばあれが、アーニァがクローンと言ったフェネルだったのだろう。妖精の姿は精神年齢を反映することも多く、まだ作られたてだからああも不安定な状態だった。
――……やめなさい。あなたの言う通りあたしが魔竜なら、あなたは勝てない。
自らの分を、何もわかっていない幼い妖精。夢妖精に利用されていることも、魔力をぶつけるだけでは弱いものにしか通じないことも。そして少女が実際に、〝魔竜〟であることの危険さも。
雷夢の指名手配の通り、魔竜というのがただの名目であれば良かった。幽閉されたのが本当に雷夢なら、それは言いがかりだった。少女を閉じ込めた夢妖精は、歴史的には至って正しいことをしたのだ。
寸止めに抑えはしたが、幼い妖精を圧倒してディアルスへの行き方を吐かせた。相手は屈辱だっただろうし、そこで妖精を殺さなかった魔竜を、不可解、という目でずっと怯えていた。
――……あなたがここで死んでも、悲しむヒトはいないのね。
憐れにしか思えなかった。幼いのに独り夢妖精の命令を守り、使い捨てられるはずのさだめが。
アオイも独りだっただろう。だから重ねて思い出した。
ディアルスで会った、シャイナ・ディレス・ディアルスという女王は、少女が過去で僅かに見知った火竜の末裔で、火の珠玉を受け継ぐ人間だった。悪魔召喚を行うという少女の無茶を、聖域を貸して成功させて、顕れたタイティーから少女と共に夢妖精や竜宮の情報を得たやり手だ。
その後に引き会わされた、一見若いラナトイルも聡明で、ヒトは清濁を併せて物事を巧く回していくと少女は学んだ。かつて自身を、魔竜だから滅ぼさなければ、と思い詰めた少女と違って。
――でも……あたしは何処かで、死ぬみたいだから。
一時迷い込んだ墓場の番人に、少女はそう伝えた。
昔から少女の大きな呪いだった夢が、今度は救いを教えてくれたと。
➺変奏∴独唱 魔王
テラー・棯・阿紫太郎。元婚約者にヤケクソで贈られた、無茶な名前を律儀に名乗る悪魔が彼だ。
彼の父は、魔王に直属の有名な悪魔だ。父にとって庶子の彼は家を継ぐ気はないのだが、いかんせん嫡子の出来が悪い。せめて久々の魔王をサポートしてくれ、と現当主の父に頼まれ、新魔王が赤子の頃から仕えていた。
「すまん、真夜。お前とは結婚できなくなった」
「……は?」
彼には高位な悪魔の幼馴染みがおり、十歳の頃に婚約をした。そちらを優先して実家とは離れて過ごし、魔王をあやす傍らで、気が強くても本当は可愛い婚約者を実直に愛していた。
それが今や、魔界を出て西の大陸西端の寂れた館で、一人で竜宮を監視する日々。この生活は今代魔王の益ともなると判断したからで、現在は四度目の魔竜とされる、紅い髪の少女と手を組むことにした。それも若い魔王のためになると同時に、己の悔いへの手向けになると思ったからだ。
竜宮という隣の小さな大陸。そこを現在牛耳る妖精を、暗殺するつもりの少女を、彼も同伴するため館に招き入れた。
「……何、ここ。落ち着く」
「母方の文化に近付けた造りだ。貴殿に合うのは、そうだろうな」
煉瓦の塀と瓦の屋根があり、石を敷き詰めた敷地に建つ灰色の館。魔界東方の悪魔となった彼の母と少女は、素体が同系統の妖なので、さもありなんといったところだ。
少女とはほぼ初対面なのに、知り合いを通して何度も時勢を相談してきたせいか、互いに緩い信頼感が何となくあった。権謀術数を巡らせる魔の者の世界において、多分裏切らない相手、と緊張せずにいられるのだ。
来る道で既に説明した現況を、彼は改めて竜宮の地図を広げながら尋ねた。
「某日の未明より、闇帝、こと夜刀神・海破は、忠臣達と城を出るはずだ。西の四天王との定期会談は船上で行っているが、異変を気付かれたら船からでも、城に向けて海竜を喚ばれる可能性がある」
菱形の大陸である竜宮で、統括者たる闇帝の城は北東の海浜に佇んでいる。大陸の中央には湖があり、ヒトが住み難いためだ。
「城がぶっ潰れるだけだし、海竜は喚ばれてもいーんじゃない?」
「マブ・エルだけでなく、兵士や従者も犠牲になるが」
「要するになるべく、騒ぎを起こすなってことでしょ。そのために二人で潜入するんだし、アナタはとにかく、あたしに体力や魔力の強化をかけて隠密に徹して」
まるで幼馴染みのような気の強さに、彼はふっと微笑んでしまった。口元は覆面の内なので少女は気付いていないだろうが。
〝魔竜〟について、彼が知っていることは少ない。魔王の母である夢妖精が狙う竜宮を調べる内に、東の大陸で凍った湖から発掘した六百年前の竜種、ラナトイル・ナーガが教えてくれたこと程度だ。
――魔竜は世界樹が、二たび匿ったんだよ。生まれるとしても竜宮じゃなく、世界樹の近くのはずだけどな。
三度目の魔竜は、千年前に発生したと記録がある。二度目の魔竜は二千年前で、歴史上は百年に満たない竜暦を終わらせた禍だった。
八百万の神々が世界を牛耳る神暦が終わり、竜種の台頭で竜暦は始まっていた。短い竜暦と現在の宝暦を合わせて五百年がたった頃に、気候の大変動が起きた時期があるが、ラナトイルが己を封印したのはその頃だという。
――今みたいな四天王や魔王の括りが始まったのも、その辺りからだと思う。ボクは聖だ魔だ、光だ闇だに嫌気がさして、〝小天地〟を守るために自分ごと封印したの。
「魔王原理派」である彼は、ラナトイルの言に納得した。魔王とは、宝珠や四天王のために在るものではないと思っている。
宝珠は太古に、天界に在った天上人の「力」を降ろされた天の宝だ。古の気高い天の鳥と、魔の海に堕ちた悪魔の分断が凄まじかったことは想像できるが、この世界はかつての天上人が宝箱と呼んだのと同じように、暇潰しの娯楽に過ぎない。
――こんな不便な世界より、人間界のがまだよくねぇ?
魔王の望みがそこにあるなら、彼は従うだけだ。幼馴染みは幸せにしてやれなかったが、魔王ルシフェルトの幼名碧は彼がつけた字だった。
あまりに短く終わった竜暦の世は、竜種が高潔過ぎたことに因があると言われている。竜種とは個々が正しく在れば、世界も良くなると本気で思っている自然の化生だった。
早い話、異種族どころか自種族の中でも折衝や問題介入をあまりしない。大雑把な規律を決めると、後は地域の自治や私刑に任せた。
カリスマの独裁者もなければ、集団で公益を求める政治もない。王者の竜が強くても権力もない。ラナトイルの一族は貴重な調整役だったというが、それに嫌気がさすということは、つまり向いていないの一言だった。
「……だからマブ・エルのような老獪に、つけこまれるのだろうな」
「竜種のこと? っても今の竜種はもうほぼ人間だけど」
独り言がつい口に出た彼を訝りながら、少女は貸し与えた部屋に引っ込んでいった。力を蓄えておいた方が良いので、決行日まで寝倒す、とのことだった。
確かに異次元移動を可能とするような、並々ならぬ力は感じるものの、良くて四天王の域は超えない妖狐。それを〝魔竜〟と呼んだかつての竜種は、いったい何を恐れたのだろう。
「あの程度の魔など、魔界では珍しくもないというのに」
少女が残す白い翼に隠す、錫杖の珠の力で不滅であること。その特性の話は彼にすれば、大きな脅威ではなかった。それより魔法の域と言える少女の魔道の方が、あまりに柔軟で面倒だろう。魔竜が幽閉で済まされたのは、その制御力を魔王の糧とする目算が夢妖精にあったからだ。
夢妖精の件もそうだが、強大な自然の「力」を持った竜種は、凡百の化け物の到達点たる魔道を軽視している。魔王からの貴重な褒賞、人間界製の無骨な人形を飾った部屋で多種の武器を手入れしながら、それらの道具を魔道で使いよくしてくれる幼馴染みを想った。
仕方がなかった。幼馴染みを真に愛していればこそ、彼は身を引くしかなかった。あの頃の潔癖さは、竜種を笑えないかもしれない。もう六十年は前になる婚約破棄の件のこと。
彼自身は、魔王と竜宮のことで充実した日々を過ごしているが、幼馴染みはふらふらと独り身で、酒浸りの毎日で軍役ばかりを好む。
魔王の教育を頼んでからは、昔のように気楽に話せる仲に戻れた。それは幼馴染みの優しさだろう。生粋の悪魔であれど、天上の鳥でもある女なのだ。
「この件のケリがつけば……彼女と隠居を賜わることもできようか?」
大きな拳銃を包んで出た声に、いやいや、と一人で頭を振った。魔王は意中の相手が腹違いの妹とわかり、失恋したばかりなのだ。彼だけ幸せになるなど申し訳が立たない。
幼馴染みも、「アンタまだ引きずってたの!?」と引くかもしれない。優しさを好意と勘違いしている可能性が高い。
定期化した闇帝と四天王の会談といい、夢妖精は確実に、竜宮を魔の領域にせんとしている。とっくに魔である夢妖精の野心は、強大な海竜との仔に魔王の虹白の瞳があった時から、魔の掌握を望むまでに広がっていた。
魔王とは、妖精ごときの私物でもありえようがない。たとえ実の母であっても、幼い碧を迷わず討った時から、彼は夢妖精を始末する日を待っていた。
碧自身に殺された記憶があれば、討伐の命も受けられたかもしれない。あの場で竜の巫女も殺されたことで、彼の独断で夢妖精の処断には進めなかった。夢妖精が闇帝に取り入り、魔王の蘇生を計算しているのはわかったからだ。
会談の日が、やがてやってきた。彼の使い魔の報告で、闇帝を乗せる船の出港を確認した。
紅い髪の少女は彼を連れて、闇帝の城の外郭へ次元移動で館から飛んだ。館が少女に合った場所なのが幸いした。
人間も魔族も入り混じる衛兵を、先鋒の少女を囮に彼が陰から眠らせる。幼馴染みの銃のおかげで、遠隔から全て援護できる。少女は武器の錫杖も出さず、自身を幽閉していた城に押し入る。
玉座の間に入った時に、夢妖精からの反撃が激化した。大広間一杯を包む夢の波動が、飛び込んだ少女を包んで閉じ込めていた。
「これは、悪趣味な――人間でいう、トラウマの再生か」
夢妖精は、生粋の魔道家や魔族以外には厄介な相手だ。妖精自身が人の夢を見ることはできないが、相手の記憶を夢で掘り起こすこと、同時に体に働きかける催淫夢を得意とする。そのため魅了の魔術を極めた妖精でもある。
夢で相手の精気や正気を奪う。魔竜という業を背負う少女は、広間から霧のようなぼんやりした宙に隠されてしまい、己の心の傷という悪夢を見せられているはずだった。
彼は隠密に徹する約束なので、場には出ていかない。大規模な夢を展開している今なら、おそらく夢妖精にも隙ができているはずだが、彼には夢妖精を殺し切れる決定打がない。
ヒトだけでなく、物も魅了できる夢妖精は、広間中に様々な形状の刃物をふわふわ浮かせている。これだけ同時に多くの「力」を使える敵は、ともすれば四天王より厄介な相手でもある。
「それもまた、運命か。竜種が精進して魔術に耐性を会得していれば、このような目晦ましなど子供騙しであろうに」
彼は妖精の夢には取り込まれずに、冷静に戦況の把握ができている。夢妖精に一片たりとも同情を感じていない。
悪魔の類で、魅了に引っかかる者は少ないだろう。あまりに初歩の精神干渉だ。
それなら魔竜はどうだろうか。今この悪夢の霧の中で、魔竜を宿す少女はいったい何を見ているのか――
フっ、と。浮かび上がる無数の刃物が、ジャラジャラと石の床に落ちた。
立ち込めていた霧の色が、一箇所に集約して紅く変わった。
そのまま霧の塊がヒトになるように、少女が場に戻ってきた。紅いポニーテールを白い翼の間に揺らして、手には薄青の珠玉の錫杖を掲げて。
「……あーあ……面白く、ないったら……」
彼が安堵していることも知らずに、少女はゆっくり顔を上げる。
「こんなの……ほぼ、あの悪魔男の見立て通りじゃない」
鋭い両目を開けた少女は、見晴らしが良くなった広間で三間先の玉座を見つめた。右目は紅い魔の眼に変わり、左目は紫のまま、妖狐の縦の瞳孔に白いドレスの妖精を捉える。額に青黒い、蛇のような紋様を浮かべて。
「せっかくわたし、長い眠りで魔竜のなり方、忘れてたのに……思い出させてくれて、ありがとうね?」
彼は作戦の段階で、「マブ・エルは必ず精神攻撃を行ってくる」と助言した。
予想通りに、あえて自身の呪いを叩き起こした少女の周囲に、夢妖精が魅了していたはずの刃物が再び浮き上がっていった。
「何度も何度も、これで殺してくれてありがと。お返し」
自らに向けられた「力」を、憶えてしまう魔である少女。魔道を学んだ今では最早、竜種の「力」に留まらずに、魔術も体得してしまう。それは確かに厄介だ、と彼は思う。
夢妖精が自身の「力」のはずの刃で、玉座に座ったまま全身を貫かれた。物言わずに事切れるよう、磔になった玉座でだらんと俯く。
しかし少女も彼も、警戒は全く解かずに玉座を注視する。
やがて、魔竜よりは遅い速度で、ドレスまで白く夢妖精の身体が復元されていった。
「……もう、悪い子ですのね。わらわを殺せないことはわかっているでしょうに、わざわざ、痛めつけるのですか?」
くすり、と微笑む妖精の姿は幼い。ぱっちりした紫の目が大きく、体は小柄で、背には大きな蝶の羽が透けて生えている。
夢妖精の魅了の、大きく困る点がこれだ。五百の歳にも迫る老女が、魅了にかかる男達から長年精を奪い続け、おそらく城レベルで溜め込んでおり、自身への常時の復元魔術を使っている。だから姿も常に若返っている。
これを殺し切ることは、補助系魔道に長ける彼にはできない。魔竜の少女は、回復も攻撃もかなり無制限に続けられるが、この城ごと吹き飛ばすほどの出力はない。夢妖精の溜め込んだ力が尽きるまで戦っていると、さすがに闇帝が帰ってくる程度には時間がかかる。
しかし仮にも、この城に幽閉されていた少女が、対策を考えていないと思える甘さが命取りだった。
もしくは、夢妖精以外の高度な魔道を封じる陣地で、自らが破られるはずがないと慢心していたのかもしれない。
その時、目前の少女とは違うことで、夢妖精の顔が疑惑に染まった。
「なに? ルシーの気配と……もう一人?」
どうやら、闇帝の留守を待っている間に、魔王達に追いつかれた。早く片付けなきゃ、と魔竜の少女の口角が下がる。
夢妖精が驚いているのは、二人目の「魔竜」が現れたからだろう。
本来その竜の王女は、魔竜でも何でもない者。そもそも目前に現れてきた少女は、目も髪も青くないと、夢妖精は気付かなければいけなかった。
少女がいつもは自分で被る化けの皮を、今日は彼が代行したので、彼以外は紅い魔だと認識できていないのだろう。それでも夢妖精や、闇帝は鈍い、と彼は思う。
闇帝の子、と正門を通された二人が、広間に辿り着いてしまう前に。
少女は無言で玉座の前に立つと、まっすぐ手刀を放つように、己が手で夢妖精を貫いていた。
「ぐ――……」
苦しそうだが、その直接の侵襲だけでは殺せない。手を引く間もなく復元が始まり、むしろ少女を取り込まんと、夢妖精の体から肉片の突起が伸びる。
「……あたしがティンクと育ったこと、無関心なあなたは知らないよね」
夢妖精がハッ、と目を見開いた。少女の紅の右眼が見えたことだろう。左目には妖精だった紫を残す魔竜が。
「月の性を持つティタニアの力。陽の光を魔性に換えて、魔族や妖の魔力を強める月精。それだけ魔力を貯め込んでいく、月自身の本当の意味」
幼い頃に何度も喰らわされた、と言わんばかりに。夢妖精の実の娘で、気性は弱気でも奪う性質は同じ「月」を、少女は憶えていた。
「あ――あああああ……!!!」
夢妖精が陣地を作り、城ごと溜め込む力を少女が奪う。白い翼が急速に紫暗に染まり、あり過ぎる魔力を雷の波として同時進行で噴出していく。
「……さよなら。ティアお母さんを殺したこと、後悔するといい」
翼の背後に発する凄まじい衝撃波の連続に、玉座側の奥に潜む彼は、位置取りを決めていて良かった、と胸を撫で下ろしていた。今回の切り札となるティタニアの「力」の行使のことまで、作戦会議で少女は彼に正直に伝えた。勝算はあるのか、ときいた彼への答だった。
夢妖精は間違いなく滅ぶ。このペースなら魔王が広間に着く手前で、魔力を奪い切られるだろう。
しかし一つ、気になることが起こっていた。
竜の王女と二人で、城の中庭を走っていたはずの魔王が、王女を別棟に入らせて外から扉を壊した。鍵をかけずとも鉄製の扉は、光熱で歪まされるとかなりの難攻な障壁に変わる。
「シアン……?」
王女を巻き込みたくないのだろうか。更には魔王の気配が、つい先程から指輪なしでも細かく光を使える鋭気に変わった。本当にたった今で、顔を見ない間に地獄の修行をしてきたというわけでもない。
何を言い残す猶予もなく、夢妖精が灰と散った。魂の依り代である羽も、完全な霧散を少女が確認した。
少女の目には、復讐を遂げた高揚は見られなかった。ただ敵であっただけで、むしろ彼の方が、長年のわだかまりに区切りがついていた。
そしてそれは、実の母に手にかけられた、お飾りの魔王も同じことだったのだろう。
「――へぇ。本当にあれ、殺せちゃったんだな」
「!」
ぼろぼろの扉を一人で開けて、もうすぐ南中する陽光を背に、魔王の声を出す人影が立った。
彼の背筋に寒気が走った。最悪の状況を悟ると同時に、咄嗟に救援要請だけを飛ばした。
「それならその『力』――僕にくれよ」
扉の方へ、振り返った少女。その眉間を一瞬で、碧い光線が大長径に貫いていた。
両目を潰され、血煙を上げ、白い翼が消えていった。錫杖を落として少女が倒れた。
その妖狐の少女が、〝魔竜〟の器である限りは、紅い右眼と額の紋様が蘇生をさせる。
そのはずなのに、それが少女の呪いであるのに、身体の回復が始まろうとしない。
「な――」
右眼を潰されたからであるのか。
彼は思わず、少女に近付く魔王の前に出ていた。長年仕える悪魔であるのに、背信行為となりかねないこと。
扉の後光から出てきた魔王は、魔族らしい妖艶な笑みをたたえる。いつの間にか、今までの金から銀髪に姿が変わっていた。
「テラーじゃないか。オマエのおかげで、僕は還ってこれたよ」
「シアン……!?」
「あのクソ女の呪縛のせいで、四天王ごときに侮られる始末だ。でもバカな蒼が、せっかくの逆鱗を捨てたりするから、代わりに魔竜をもらわなきゃな」
この碧は、夢妖精が消えたことで、封印の解けた魔王としての心。
だから、どけよ。そう嗤っている。
彼が無意識に、後ろの魔竜を守らんとしていたことを、魔王も無自覚に悟ったのだろう。爆発する水をぶつけられて、彼の前面は心臓が見えるまで四散し弾き飛ばされた。
それでも魔王は充分、手加減したつもりだろう。でなければ彼は上半身ごと失っていた。
遠くなっていく意識の中で、魔王が仰向けに倒れる魔竜の、額に手を当てたのが見えた。
「魔竜の本質は、竜の巫女と同じ。逆鱗の運び手だと母が教えてくれたよ」
光を纏う手が額に触れた。青黒い紋様を抉り、魔王が逆鱗を奪う。少女の顔面は上半分が陥没し、目もあてられない状態になってしまった。
よりによってそんな時に、竜の王女が辿り着いてしまう。
「アオイ、あんた何考えて――……え?」
扉からは直線上の最奥、玉座の近くに立った魔王と、足元に転がる紅い髪の少女が王女に見えたのだろう。魔王の陰に隠れることが、まだ幸いだったかもしれない。
そこにはまごうこと無く、昏く匂い立った死出の虚。事態に硬直した王女の声が止まってしまった。
「……雷夢ちゃん」
真っ白になった王女に、銀髪の下で微笑む魔王が振り返った。動かない少女の錫杖を拾い、扉の方に歩き始めた。右手には少女から奪った肉片、魔竜の逆鱗を浮かべて。
ふわり、と魔王は綺麗に笑いながら王女に近付く。
「雷夢ちゃんには言ってなかったっけ。あいつ、僕を殺そうとしたんだ。そして今、僕の母親も殺したから、僕に殺されても仕方ないだろ?」
「――」
「それにこの方が、魔竜も幸せだと思うよ。どうせ魔物と呼ばれて生きていくなら、魔王のものになればいい」
扉とは反対の左奥に飛ばされ、指一つ動かせない彼は、玉座の少女も扉の王女も援護ができない。魔王に仕える身であるのに、そちらを助けたいと思う己にも不信が芽生える。
まだ彼は縛られていたというのか。幼馴染みとの未来を失い、彼を竜宮の監視に向かわせた遠い日の縁。
気にするな、と彼に笑った巫女。幼い魔王が殺されて後、再びヒトらしく動けるようになるまで、長く眠り続けた魔王をひっそり守った蒼い逆鱗。
「愚、かな――……」
闇帝が贈った、蒼い逆鱗が宿る指輪を、アオイが捨てた時から気付いておくべきだった。
春日蒼帷は、不器用な父の愛と、逆鱗の譲り主の優しさと共に在った。それなら逆鱗という魂の補助を失った後は、本来の魔族に戻るだけだと。
「我は…………魔王よりも、竜のアオイを、選んだと言うのか……――」
呆然として動けない王女に、魔王が間近に迫っていった。やめろ、と呻いてしまう彼の真情は、その王女が蒼い逆鱗の巫女の娘であるから。
それは言葉にできない類の重い思慕。そんな昔の心に戻ったこの時、彼の願いを皮肉にも叶えたのは、彼が手を離した幼馴染みだった。
「――乗って! 竜の王女!」
出現と共に疾走した獣に、魔王が撥ね飛ばされた。彼が預けた死竜を駆る幼馴染みが、魔王の落とした錫杖だけは掴んだ王女を、死竜の背に引っ張り上げた。
もしもの時の手。夢妖精の打倒に失敗した時、次元移動できなくなるだろう少女の代わりに、死竜で逃げるだけの策。彼には力不足で次元移動の儀が難しい。彼の家につく死竜は、馭者を異次元にも運べる移動用の獣なのだ。
腐った飛竜のような死竜を、高位の悪魔な幼馴染みが使えば、幼馴染みの手であと一人を運べる。幼馴染みはよく彼に死竜を借りて、それで先日も魔王の代打を連れて人間界に遠出していた。
手は二つしかないので、死竜とあと一人を掴む幼馴染みは、他にはもう運べない。しかし死竜は、扉から一度ちらりと玉座を見た後、僅かに逡巡してから左奥の彼の方に来た。ぼろぼろの体をがちっとくわえた。
「馬鹿テラー、これくらいで死ぬんじゃないわよ!」
そのまま無理やり、三人での異次元移動の暴挙に死竜が出た。彼の体はその負荷でますます削られ、魔界の幼馴染みの城に着いた時には、簡単に死ねない魔族と言えども、生きているとは言えないほどにズタズタだった。
竜宮の城に、魔王と紅い髪の少女を置いてきてしまった。竜の王女が愕然と立ち尽くすのを、幼馴染みが彼をお姫様抱っこで運びながら喝を入れた。
「しっかりしなさい! 貴女が腑抜けているとリベンジも覚束なくなる!」
そこで、彼の足側を支える手を離してまで、幼馴染みが人間界で奪ったという小玉のペンダントを王女に押し付けていた。
王女はハッとして、その小さな狐火玉を受け取る。最早ヒトを化かす力もないペンダントは、王女がエントランスの灯りにかざすと、中の火は途切れそうでありながら消滅はしていなかった。
「……リンティ……――」
王女の青い目から涙が滲んだ。頭を振って両目を拭うと、城の主である幼馴染みに素直に従い、彼の治療をしている間、防備が弱まるという城の警備を引き受けていた。
魔族や鬼妖。魔性を持ったそれらの化け物は、身体が死んでも魂が残り、相性の良い器があるか、死竜のように己の骸を維持して操る化生もいる。新たな魔物としてであれば、少女の再起はあるかもしれない。
それは王女の願う再会ではないだろう。時間がかかるが、まだ回復可能な彼に比べて、紅い髪の体は確実に滅びた。それでも多分、幼馴染みはこれから魔王に牙を剥くため、王女を自身の手元に置いた。
「……絶対、助けるけど……魔王についたら、縁切るからね」
元々幼馴染みは、魔王とは別派閥の悪魔だ。魔王の勢力があまりに力を増すと、幼馴染み達には有害になる。彼もそれはわかっていて、以前は選べなかった幼馴染みを、今後は何より優先するとこの夜に決める。
天上の聖火を宿す鳥の目が、横たわる彼を覗き込んで潤んだ。
彼の手がそっと握られた。長く求めていた大事なものを掴むように。
*
もう興味を失くしたかと思っていたが、赤い軍服の女悪魔は、ずっと雷夢のことを調べていたという。最初の殺意も含めて、何で? ときくと嫌がりそうだったので、そっとしておくことにした。
人間界では迷彩服スタイルだったが、常に蒼い夕闇のような魔界においては、丈の短い赤い制服のような軍服を着ている。
自身の城の内でまでも、赤い外套を身に着けており、貴族は居候にだらしない姿は見せない、と言った。
「私、居候扱いでいいの? 真夜さん」
「それ以外の何だと言うのかしら。鬱陶しいから、早く竜宮奪還計画の目処をつけて出て行ってくれる?」
顔を合わせるとこれだが、かつては見も知らぬ他人どころか、殺意を持っていたはずの雷夢に対して、敬意故にざっくり接している節があった。見下している相手には殊更丁寧に振舞う、慇懃無礼な悪魔なのだ。
「魔竜の逆鱗を奪った魔王を倒せるのは、残念ながら貴女くらいでしょうね。期待に応えてくれなければ、滞在中の宿代を後で請求するからね」
玖堂華奈を思い出してしまう、お嬢様仕草のせいもあった。突然双子の妹と父を殺され、天涯孤独になった雷夢を匿う女悪魔に、雷夢はもう悪意は持てなかった。
東の大陸に行って、雷夢は魔竜と母の話を教えられた。その後にジパングで、アオイに実は兄妹らしい、と伝えられた。混乱する暇もなく竜宮に行くと、突然苦しみ出したアオイが銀髪に変わり、雷夢を足止めしてリンティを殺し、後には城に帰ってきた闇帝も魔王が手にかけた、と真夜に教えられた。
「何か、もう……」
テラーという男の治療に真夜がかかりきりなので、城の警備を引き受けた雷夢は、とりあえず暇だった。あまりに様々な動揺に襲われたので、逆にいずれも実感が湧かないままという、ふわふわとした時間が流れている。
「日本、平和だったよね……こっちは、時間、早過ぎるな……」
何で魔竜が妖狐なのかしら、と文句を言う真夜が、返してくれた狐火玉を見つめた。火は今でも消えていないが、玉の中心にある泡にしか見えず、昔のような揺らめきは見られなかった。
東の大陸から近いジパングの港町が、アオイとの約束の合流地点だった。母の叔父、フェラル・シアトスがいるカシドレイクまでミラもついてきて、先導するアキラの後ろで色んな話をした旅だった。
「ワープゲートを使えば結構狭いでしょ、この世界って。『地』から見下ろすと更に小さくてね、大体いつもジパングの上空を『地』は漂ってる」
ミラは空に浮かぶ天の民の島、「地」で暮らしているという。リンティとは違う羽の寄せ集まる翼も持っており、聖地に行けば天の島に帰れるため、後は北の島に行く、と言っていた。
「北の聖地も四天王が近くにいるんだけど、東西南北結局どこも、四天王の縄張りになっちゃったしね。魔王がもっとしっかりとして、あいつら魔界に連れて帰ってくれたらいいんだけどさ」
「帰り道の途中に、四天王がいるってこと? それで何で『地』、攻められてないの」
ミラのように剣も魔法も使える身なら、こうして地上に降りられるのはわかる。しかしそれ以外の者は、「地」の出口を塞がれる――包囲されているのと同じ状態ではないだろうか。
「魔族が『地』に来てみなさいよ。聖の気と強い光、両方にやられてあっという間に地上の妖怪より弱っちくなるわよ」
魔である生き物に聖の気は猛毒で、光は大概の化け物を弱らせる病らしい。ミラがアオイと打ち解けられたのは、ミラの聖なる気に対して全く平気そうにし、なおかつアオイが光を使う化け物であるからだった。
真夜にも魔王とは、宵の明星と呼ばれる光の主なのだと後に聞いた。悪魔にも光への適性を持つ者は存在し、真夜もその一人だと言う。
ミラはくくく、と雷夢を見つめて、実に楽しそうに笑っていた。
「アイツほんと、あんたがいない間、バカばっかり言ってたわよ。オレは雷夢とハッピーに人間界に帰りたいから、宝界なんて守護者にやるから見逃してくれ、って」
「……何、それ」
言っている姿が想像できてしまう。何かと雷夢、雷夢と、ミラが呆れてしまうほどに、アオイの行動基準は雷夢に偏っていたそうだった。
「雷夢は無愛想だけど、いい奴なんだって何度も言ってた。いつも自然に周囲をよく見てて、人に関わらないのは傷付けないためなんだ、って」
つまりアオイは、ミラが雷夢を指名手配扱いすることも気になったのだろう。「見逃して」は魔王だけでなく、雷夢のことも入っているのだ。
淋しさも苦しさも、全然見せない奴なんだ、と。中学高校と、いつも誰かといたアオイにすれば、その孤高さは憧れであり愛しさなのだと、ジパングでも静かに伝えられた。
「オレ達、どっちも闇帝の子供なんだってさ。末長く仲良くしてよ、雷夢」
あの時ほど辛そうな顔は、後にも先にも見たことがなかった。ジパングからどう竜宮に行くか、特殊なゲートの制御法を雷夢に丁寧に教え、妹として優しくしている時間はずっと。
人間界でアオイは初めて、魔王と関係ない普通の友達ができたらしい。魔王であることを竜宮の諸氏に隠すために、妖精の森でも素性に関する箝口令を敷かれ、隔離されて付き人しかいない生活。人間界では一人暮らしで、学校が一番楽しかった、と言った。そのわりにはよくさぼっていたが。
「……バカじゃないの」
雷夢もそうだ、と言えなかった。人間界に来る前に、雷夢にはリンティがいた。雷夢の名前は、漢字圏のジパング育ちの父がつけたときいた。
碧の呼び名はテラーが。闇帝がそれを漢字読みしたアオイに、蒼帷と字をあて直したのは真夜らしい。元々魔王たる悪魔の名しかなく、隠されるのに魔王としてだけ必要とされる。天に追われて、四天王には嘲られる。人間界の生活はどれだけマシだったことだろう。
天涯孤独となった雷夢は、そうしたのは魔王なのに、似た境遇だろうアオイの痛みを感じてしまった。歪まずに笑っていた「蒼帷」の方が、奇跡に近かったのだ。
東の大陸では色んな話を聞いたが、断片的にしか思い出せない。部下もほとんど置かない真夜の城の巡回の合間、客間に寝転がっては咀嚼している。
二十五歳まで独り身だった母が、闇帝に嫁いだのは竜宮を守るために。
父に巫女の力を捧げるはずだったというが、闇属性の父と稀少な光を持った母は力の相性が悪いためか、父に力は継がれなかった。そこからすれ違いが始まったのだ。
竜種の末裔が封じられていた湖のある山里に、婿養子に行ったフェラル・シアトスは居を構えていた。その地の竜種はナーガの姓を持ち、かつての魔竜の封印者かつ擁護者であるのだと。
「ナーガの末裔は、ここカシドレイクと、西のセイザー家に分かれて血を繋いだ。セイザーはディアルス王家の傍系が開祖で、風の珠を継いだ血の濃い竜でな。魔竜を知るナーガの子孫を絶やさないため、なるべく竜の末裔と血を繋いできた。それでも弱体化が避けられなくなった頃に、生まれたのがお前さんの母さん、竜の巫女のティアリス・ナーガ・セイザーだ」
雷夢の剣に填まる珠玉を、フェラルは風の珠だと言った。ナーガの血には本来合っていないが、強い光の者であれば使い得るものらしい。
「闇帝――夜刀神は、ティアリスに執着しておったよ。よりによって我が子から魔竜が出たのは、竜宮の結界のことを考えれば当然だと言っても、ティアリスが不貞を働いたのだとマブ・エルに吹き込まれ、今だに嫉妬に苦しんでおるわ。そもそもナーガの家自体が、魔竜を伝える血筋だというのに」
竜宮の結界は、そもそも三度目の魔竜が張ったものだった。だから新たに魔竜が生まれる時に、リセットされたということ。
フェラル曰く、千年前にブルーライムという、青い髪の竜人がいた。その竜人の双子が三度目の魔竜で、雷夢の名は同じ青の髪のブルーライムからとられている。リンティの名も三度目の魔竜の愛称だといい、雷夢の出生と同時期に世界樹の下で目覚めた少女が、おそらく四度目の魔竜だとティアリスに預けられたのだ。
しかしティアリスは、リンティの存在を闇帝に明かさなかった。魔竜の詳細を知っているのはセイザー家だけで、青い髪の竜人が顕れる時は魔竜に注意しろ、としか他家には伝わっていない。
リンティが魔竜の可能性が高いと知られれば、幼い内に滅ぼす方法を誰もが考えただろう。それでは先祖達の過ちを繰り返すことになると。
「魔竜自身に、己の魔を制御させられないか。魔道に通じていたティアリスはそう考えて、内密に引き取り、お前さんに会わせたんだ」
ティアリスの願いは、おそらく叶っていた。雷夢の妹のようなもの、とあの優しい母は考えたのだろう。
リンティが目覚めた時から持っていた薄青い珠玉も、伝承通り「雲居空」だとティアリスが見定めた。霊法の里の巫女に頼み、珠玉を填める錫杖を造ってもらった。魔竜の存在を見守るとされる竜の墓場の番人達を、世に再現するために風の珠にも新たな細工が施された。
風とは、物事を転換する「力」でもある。カシドレイクに着くまで同道したミラが、アキラの後ろ姿を見ながら言っていた。
「あたし、風読みって言われるくらい、風とは相性いいんだよね」
火の家の傍系に生まれたらしいわりに、「風読み」であるミラは、疲れた、とすぐにへばるアキラを見かねて、天の民たる「力」を貸してくれた。
「アンタの『力』、抑えられ過ぎ。人間界じゃないんだから、もっと気楽にやんなさいよ」
曰く、「神立風」のアキラは光であるが、「無常風」のカヅキは闇で、珠玉本来の光を抑えておかないとカヅキに負担がかかるのだという。
「それなら中間にしちゃえばいいでしょ。風ならそれくらい変われる」
アキラを長剣の「神立風」に戻すと、ミラは自身の霊力を注ぎ、珠玉の性質を変えた。天の民や霊法の里の巫女が扱う「霊力」は、既にあるシステムを回す魔力とは違い、システム自体をいじる性質があるとのことだった。
加えてミラが、全ての元素に通じる「空」の素因を持つからできる、と。
そうした竜宮以外のことだけでなく、竜種のこともろくに知らず、雷夢は一人では何を考えようもなかった。
「やっぱ……やるしか、ないか」
魔界では、自然の力は大きく削がれるようで、雷夢の剣はヒト型になれないと真夜に言われた。それでも竜宮に行く直前に、アキラがふっと、ある真実を口にしていた。
竜宮では戦う気だったので、「神立風」の長剣を背負っていって、今でも寝台に立てかけてある。
――この件が終わったら、リンティさんのこと、思い出すこともできるよ。
いつも竜牙、と雷夢を呼ぶアキラが、その日は「ライムさん」と呼びかけてきた。そしてそんな、謎の内容を続けた。
アキラ曰く、リンティが使う錫杖の珠には、雷夢の昔の「力」が眠っている。もしも竜宮で今以上の力が必要になれば、リンティが嫌がっても取り戻せ、と言われたのだ。
「……リンティが魔竜の、再来だったら。私は、ブルーライム、ってことよね」
母と共に、「雷夢の影武者」だと言い張っていた少女。違うと思う、と言うと嫌がるので、長く秘めてきた心があった。
別のところで生まれた妖狐。それでも雷夢には、リンティが妹にしか見えなかった。それを言葉にしてしまうと、重荷にさせそうで言えなかった。
フェラルはブルーライムの双子が、三度目の魔竜だと言った。リンティは多分、その話を雷夢の傍で聴くのが辛くて、雷夢だけをフェラルの元に向かわせたのだ。
「昔のリンティを思い出す……つまり、ブルーライムの記憶、ってこと」
アキラもはっきりとは言わなかった。おそらく雷夢と同じ理由で。
むく、と客用ベッドから起き上がった。「神立風」と共に、城からそれだけは持ち出した、リンティの錫杖を手に取って立った。
「死ぬかもしれないけど。珠を付け替えるだけでいい、って言ってたっけ」
その「死ぬ」には、沢山の意味が含まれている。アキラは言わなかったが、雷夢はおおむね汲み取っていた。
「神立風」と「無常風」は、この霊剣に填まる珠でなくなれば、アキラもカヅキも多分、ヒト型にはなれなくなる。
本当に錫杖の珠に「ブルーライム」がいれば、竜牙雷夢という自分もどうなるかがわからない。
「楽しかったから……だからずっと、不安だった」
幼い日々も、人間界の暮らしも、ある日突然終わりを告げた。
幸せは終わってしまうもの。もう、かえってはこない。
そんなちっぽけな、「雷夢」の痛みも消えれば良かった。
硬く填まった二つの珠を、無情に押し出して付け替えた。体の奥で、心臓が破れた気がした。
暗転していった視界の中で。
雷夢の岸辺に現れたのは、「ブルーライム」ではなかった。
リンティが持った錫杖に填まる、「雲居空」が最後に視たもの。錫杖を握りしめて闇で震える、子供のリンティの背中があった。
リンティ! と叫びかけて止めた。闇の先に光が見えて、そこに向かうアオイの姿も見つけたからだ。
リンティが必死に、後ろのライムにも気が付かずに、アオイを追いかけて赤いジャケットを掴んだ。
――待って、蒼帷……そっちに行っちゃだめ!
アオイは光の方を見たまま、苦しげに笑うと、そっと立ち止まった。
そして言った。リンティ。オレ達、もういらないみたいだよ、と。
「そんな――こと――……」
ライムの姿は二人に見えていない。リンティがアオイを掴んで俯くと、ふるふると肩を震わせ始めた。
雷夢が魔竜ではないこと。魔王が操る魔竜が他にいるなら、雷夢と闇帝は和解できる。もう夢妖精の邪魔はないから、竜宮は悪魔を拒む正常な地に戻る。
夢妖精を倒せば、自分の役目は終わり。リンティはそう思っていたのだ。
何故なら、何処かで、自分は死ぬから。
預言の力。昔からそんな呪いを持った少女は、魔竜である己が滅びることができる未来を視ていた。
だからもう、誰か――ライムを傷付ける夢を、恐れなくていいと。
――でも……アンタはダメ、アオイ。
こっち、と。腕を引っ張って振り向かせると、アオイにはっきりと言った。
――諦めちゃダメ。ライムが絶対、アンタを助けに来てくれるから。
二人の姿が、光に消えた。アオイは最後、ぽかんとした顔をしていたように見えた。
「……ライムさん。お別れ、できた?」
気付けば暗闇が、薄明るい荒野になっていた。
背後の声には憶えがあった。両手を握って俯きながら、彼女は応える。
「……遅い。武丸」
今までずっと、「アキラ」をしていた相手。どうしてそうできたかはわからないが、そんなことはどうでも良かった。
「アキラ」も「カヅキ」も、もう会えないのだろう。けれど大事な相手、とわかっていた。だからそれで、彼女は良かった。
「お別れなんて……できるわけない」
痛いものは、痛い。大事なものは大事。
彼女が彼女であることは、そんな想いの中に詰まっている。
薄れゆく景色の中で、最後に振り返ると、ズボン型の不思議な和服を来た青年が笑った。
「おれ達、竜宮にいるから会いに来てよ。佐助なんて面倒くさがって、出てこないし」
知った姿とは、大分違った。そのことには安堵して、ライムも無理やり微笑む。
気が付くと、全く知らない家で寝ていた。人間界の中華風の部屋に見えて、「?」と天蓋付きの寝床で身を起こした。
「貴女ねぇ。いくらパワーアップのためでも、ヒトの城でいきなり心臓止めないでくれる?」
「え」
とても不機嫌な顔の真夜が、珍しい部屋着と見れる赤い民族服で座っていた。
どうやら雷夢が突然倒れて、自然の足りない魔界にいると危ない、と判断された。地上にあるテラーの館まで、テラー共々移したと言う。
「水あみが終わったら、広間に来なさい。作戦会議が待っているわ」
雷夢の寝台には、薄青い珠玉の霊剣しかない。新たな「黄雀風」となった珠を填める錫杖の方は、使う当てがあると真夜が言っていった。
色々と、おかしな気分だった。竜牙雷夢であることは何も変わらず、ただ、昨日のことのようにブルーライムとしての思い出がある。
「まあ、私……何もかもに違和感、昔からあったし」
玖堂華奈は、それを「霊感」だと言っていた。ずっとそこにあった心に、ブルーライムというラベルがついただけのことに思えた。
広間に行くと、知り合いも知らない相手も、揃って大きな円卓を囲んでいた。テラーという男悪魔は今も動けず、魔王の力で魂レベルの損傷を受けているので、人間より回復が遅くなるらしい。弟のように可愛がったアオイ相手でなければそうはならなかった、と真夜がふくれている。
「おはよー、タッキーちゃん。魔竜の回収に行きたいから、協力してねー」
アバシリ、もとい、ラナトイル・ナーガ。ブルーライム・ナーガの伯父の子孫だ。竜宮に行く雷夢とアオイの後援の役として、ジパングで待機してもらっていた。魔竜を止めるナーガという、そのさだめは忘れていないのだ。
円卓にはあと四人。真夜と、知らない双子らしき女性が二人。最後に金髪の前髪で目を隠している、幼げな妖精が居た堪れなさそうに座っていた。
「あ、このコはフェネルちゃん。ちょっと寄った妖精の森で殺されかけてたから、拾ってきちゃったー」
「あとの二人は、ディアルスという国の女王。竜宮に東西の四天王が招集されたから、増援要請したってわけ」
あまりにさらっと言うので、つっこみ難くなってしまった。何故一国の女王たる者が、それも二人、竜宮に関わるのだろう。
「フェネル……はあれか。アーニァって奴の」
そうそう、とラナトイルがアバシリ少年の姿で笑いながら、蒼い珠玉を填め込む棍棒で隣の妖精をつついていた。
夢妖精が失墜したので、配下として妖精の森を仕切っていた幼い妖精は、仲間に恨まれたという。
「アーニァとティタニアは、ルシーに呼ばれて竜宮に行っちゃったよ。タイティーもルシーにつかざるを得ないし、今の竜宮、わりと堅固にされちゃったわけ」
それで少しの戦力でも使いたい、と言わんばかりのラナトイルだ。雷夢もアーニァのことは覚えていたので、その方が良さそうか、と頷いていた。あのレベルの召喚獣を呼ばれたら、アオイに辿り着く前に足止めをされる。
顔も服装もそっくりな女王達が、二人でふふふ、と雷夢に微笑みかけた。
「この件に助力すれば、長年の悲願、風の珠玉を我らに賜ると確約を頂きました。西の四天王、風使いの魔族の相手はお任せ下さいませ、ライム様」
は、はあ……。目を丸くする雷夢に、ラナトイルが竜宮の簡易地図を見せて、東に西の四天王、西に東の四天王がいると説明した。それぞれ、本来の持ち場に近いのがその地点らしく、南と北の四天王は近いジパングへの警戒のため、招集されていないそうだった。
「だから竜宮の北側はアーニァちゃん、南はタイティーとティタニアに任されててね。西にいる東の四天王は、まあ知った仲だから、ボクがお相手するよ。アーニァちゃんは、フェネルちゃんに。タイティー達は、ほんとは相性悪いんだけど、マヤにお願いするしかないかなぁ」
作戦会議、と言うが、既に決まった策を雷夢に説明しているだけだ。北東にいる魔王はおそらく、雷夢が片付けることが前提になっている。
別にいいけど、と苦く笑った。真夜は最初から、「魔王を倒せるのは貴女くらい」と言っていた。
世間知らずの雷夢には、大掛かりな戦いの計略は難しい。協力者が信頼できるかを見極めるくらいだ。
唯一、気になることはきちんと先にきいておく。
「それで、リンティとアオイのことは、どうするかは私が決めていいの?」
魔竜と魔王。現在どうなっているかわからないが、最悪のタッグを前に、雷夢の懸念はその点だけだ。
「タッキーちゃんが生きてる限りは、いいよ~。死んだら知らないよ、まとめて封印するくらいしかできないかもねー」
苦しげに笑うラナトイルは、古いナーガのさだめよりも、リンティとアオイへの愛着で戦線に加わることを決めたようだった。
真夜など完全に、テラーをボコボコにされたことへの八つ当たりだろう。悪魔としての利害も絡むようだが、それこそ大義名分に過ぎない気迫が見える。
相変わらず私、流されてばっかりだな、と。竜宮への殴り込みを明日に控えて、雷夢はテラー宅のバルコニーから星を見上げた。
ライムは受け身だから、狙われるんだよ。リンティがそんな風に言っていた大昔もあった。
「……無理するなって言ったの、あんたじゃん」
今から願えば、叶うだろうか。流れ星を探してみたが、その夜には一つも見つけられなかった。
竜宮の東西南北、それぞれ全てに喧嘩を売る。そのための全員の配置が整う決行日の朝に、雷夢を真夜が死竜で運んだ。
「帰りの保証はないわよ、竜の王女」
わかってる、と笑って礼を言った。下ろされた海岸から、闇帝の城まではそう遠くない。他の領域の敵を皆で足止めしてもらう作戦なので、雷夢は遠慮なく魔王と対峙ができる。
真夜などはずっと、「単純な仕事過ぎて面白みがない」とぼやいていた。そもそも竜宮の布陣自体、幼い魔王の行き当たりばったりな采配で、力は強くてもまだまだ子供、とばっさり切っていた。
もう、闇帝の城が自分の家という感覚はなかった。先日はアオイと行った道を、今日は一人で静かに辿った。
何となく、その予感はあった。アオイは闇帝の城では待たずに、海と城の間で魔竜を喚ぶだろうと。
「……そっか。父さんが使ってた海竜は使えないんだ、アンタ達」
森に入る直前の砂地が、仄暗い朝もやに蝕まれていく。背にする砂浜で、かつてライムは魔竜を止めた。今と同じような夜明けの時間帯だった。
「リンティの魔法も、全然使えてないし。こんなくらいの、悪夢の再現しかできないわけ」
何故か辺りは、海でなく山の中の大きな泉に変わっていた。
雷夢が昔、腹違いの兄である少年と遊んだ場所だ。この光景を創っているのは、リンティの力の残骸だろう。死骸はもう残っておらず、魔王の力を助長するもやになっているのが感じ取れた。雷夢はこうして、場に在るものの本質を感じ取ることが、ライムの頃にも得意だった。
人間界から戻ってから、雷夢は大体制服の上に外套を着ていた。今日はぼろぼろにすると嫌なので、真夜にもらった浅葱色の身軽な戦闘服に黒の外套を羽織った。
数メートル前に、魔王らしくシンプルな黒の軍服でアオイが立っていた。銀髪のかかる額には青黒い紋様が光り、リンティから奪った魔竜の逆鱗だろう。
まるで昔のように、泉の横で佇むアオイが、不敵な笑顔で口を開いた。
「遅かったな、雷夢ちゃん。もう誰にも、僕達が遊ぶ邪魔はさせないけどな?」
わざわざ魔竜の力を薄く広げ、泉を創り出した魔王は、四天王には「竜宮を押さえれば天にも対抗できる」と言っていると聞いた。魔王自身の目的は雷夢と同じで、竜宮で二人で会うため、邪魔者が余所に行くよう竜宮中に部下を散らばせたのだ。
竜宮は、闇帝の一族以外の僅かな居住者は、ほとんど魔族や神獣だった。世界にも魔界にも居場所の無い弱い魔族達を、一時的に隔離して監視する場所になっている。
「雷夢ちゃん、僕、竜宮を取り戻したよ。後は雷夢ちゃんが、帰ってくるだけ。魔竜の件も片付いたし、これから二人で竜宮にいようよ」
いら、と。雷夢ちゃん、と呼ばれる度に、アオイに会った頃が思い出された。ずけずけとヒトに踏み込んでくるアオイは、家族しか言わない「ちゃん」付けを使い、気安く呼んでくる距離感が苦手だった。
「……竜宮、取り戻せなんて、私は言ってない」
「そうだっけ? 雷夢ちゃんの悩み事、全部解決したつもりなのにな?」
「……は?」
「これでもう、雷夢ちゃんは魔竜とは呼ばれない。魔竜と戦う必要もないし、魔竜も僕の制御下では暴走することがない。それは僕にしか、できなかったよ」
魔竜の嘆きを、魔王は奪った逆鱗で知ったのだろう。綺麗な笑顔が、いかにも魔族らしく見える。雷夢とこの泉で会っていた頃から、まるで時間が止まったような幼さ。
「紹介しようか。僕が使えば、魔竜はこんなに凄い力になるんだ」
泉の水面が、雨が降っているように震い始めた。魔王周囲のもやが集まっていき、波打つ水の色が変わる。
「トリウィア・テウメッサ。誰にも真似できないような、僕だけの辰狐」
透明な黒になった泉から、三つに分かれた尾のような水柱が立ち昇った。雷夢めがけて一つが突き下ろされて、後ろに跳んで避けると泉に戻っていった。
「……ニセの泉なのに、やるじゃないの」
先の一閃は、ただの披露だ。魔王は何処でも泉を作り出せて、泉の数もおそらくもっと大量に展開できる。尾のような水の突貫だけでなく、以前にアオイが見せた剪断の水光や、直通の光も全ての泉から繰り出せるだろう。
それにしても、すぐに手の内を晒す甘いところは変わっていない。
今頃、竜宮の東西南北の全てで、それぞれの戦いが起こっている。雷夢もまさに、自身の運命の地にいる。
前の時に、ライムは魔竜に負けたと思っている。雷夢としてもそうだが、リンティが突っ走っていくことを、彼女はくい止めることができない。
「……双子なのに、な」
走ることをやめてしまえば、絶望に追いつかれる。いつまでも明けない闇があった。
「あんたが私の……光だった」
ただ一緒に、幸せになりたかった。それでも一人は、流れゆく日を変えることができない。もう一人は何かを変えて、そこからいつも引き返せない。
大気を昏く漂うだけの、魔竜のもやは穏やかだった。それがきっと、答なのだ。
僅かにだけいたジパングで、雷夢に兄だと告げたアオイも、こんな暗い空の下で哀しく尋ねた。
――雷夢はオレのこと……恨まないの?
雷夢の母を殺した者が、アオイの実の母であること。雷夢はティタニアにも何も言わなかった。子供に罪はないし、と返した。
――守れるなら、何だっていい。アンタのこたえは、決まったの?
リンティが言ってくれたように、無理するな、と言った。夢妖精の味方でいていい、と。
アオイはじわりと涙を浮かべ、ほんのひととき、雷夢を抱きしめて答えた。ありがとう、と、苦しいだけの声で。
だからあえて、今、言わなければいけないことがあった。
いつの間にか、魔王と雷夢を囲む周囲が、無数の泉に置き替わっていた。
「雷夢ちゃん。僕と一緒に行こう?」
雷夢の背後で、三枚の長い葉のような水が突き出た。これが最後通告であるとわかる。
可能な限り、感情を抑えて、雷夢は答えた。
受け入れてしまえば、楽だったこと。彼がリンティを殺さなければ、見せずに済んだ顔だったのに。
「……誰が」
一息だけで、見えている全ての泉に雷撃を放った。
竜宮にいて、そして「雲居空」が背にあることで、雷夢の力の桁が変わった。剣と雷しか使えない雷夢は、その二つを幼少から極めてきた。
魔竜のもやが泉を作ったことで、場は水の気も豊富で電場が作り易い。どの泉も吹き飛んだ後、再構成させないように光の揺らぎを維持する。
「竜宮から、出てって。ここはアンタが、いていい地じゃない」
魔王、と。異端の迷子を静かに拒絶した。
この場所はもう、常なる夜となったのだから。夜明けの光は、いらないのだと。
言葉一つなく、魔王の操る水が走った。
雷夢を後ろから、宙に出た尾が貫いていた。
魔竜のもやは、泉にせずとも刃を作れる。あえて泉を見せていたのは、脅迫するためだけだ。
ぐらり、と足の力が抜けた。水の尾も場から消えて、支えるものがなくなった雷夢は崩れ落ちた。
「あーあ。後はマヤを、さっさと片付けにいくか」
もう死にそうな気配だけど、と。
雷夢の眼に確信を起こす、本音の心を魔王が言った。
水に光が混ざることで、ヒトを貫く硬度となった「力」が、雷夢の心窩を貫いていた。込み上げてくる血と、弾ける血潮を魔王に見せるように。
ただ、痛い。気が狂いそうだった。
意識が落ちればマシなのだろうが、竜人として丈夫な体を持った雷夢は、すぐに死にゆくことができない。呼吸もできずに、あまりの痛みが吐き気に変わり、体が固まろうとする。
――……こんな……。
雷夢は多分、覚えている限りにおいては、最も深く傷付けられた。
厳しい剣の師に恵まれ、小競り合いの絶えない世界で、痛みには慣れているつもりだった。けれども幾度も、死んでも治る、と己を殺させたリンティほど、命が零れる悪寒を感じたことはなかった。
――こんな……に……いた、い…………。
それでもこれは、雷夢が問わなければいけなかった。魔王はここで、雷夢も殺しにくるのかどうか。
答がどれだけ痛くあっても、死に逃げるわけにいかない。背中の剣に填まる珠玉の熱で、雷夢は身を焼きながら地面を蹴った。
「――え?」
魔竜のもやを体内に仕舞い、歩き出そうとしていた魔王を、奇襲で力の限りに殴った。
確かに致命傷を受けた雷夢が、こんなに一瞬で反撃する姿に、魔王が目を丸くしながら地面に投げ出された。
唖然、としている魔王の顔は。雷夢が立ち尽くしているから、衝撃も忘れて見上げている。
何度も死地から還った魔竜。同じように、自身の命を竜の眼で汲み、完治しているはずの雷夢の全身が痛んだ。
「……アンタ……バカじゃ、ないの……!?」
もう、傷はほぼなくなっているはずなのに、無理やり立った痛みが消えない。
だから隠すことができない。止めどなく涙が溢れる情けない眼を。
「リンティにテラー……闇帝、真夜……アンタが自分で殺していくの……全部、アンタの大事なものばかりじゃない!」
雷夢の叫びに、未だに座り込んでいる魔王に、馬乗りになって胸ぐらを掴んだ。
彼がアオイでなく魔王ならば、寄り添えない者達のこと。本当の心は彼を、大事に思っていても。
あえて雷夢が魔王を拒絶したのは、自分も殺されるかを確かめるためだ。
「そんなことしか、そばにいさせる方法を知らない――大馬鹿者でしょ、アンタ!!!」
悔しかった。雷夢の予想が外れていれば、ただの殺戮者として殺しにいった。
ティタニアやアーニァ、タイティーは彼が守る相手だ。だから裏切りの気配を感じても放置している。
けれど雷夢は違ってしまった。魔王は雷夢を、必要としている。
間近で雷夢の泣き顔を見る魔王が、いつまでも愕然と雷夢を見つめた。
涙が止まらない。抜けなくなってしまった剣が、背にのしかかる体が熱い。
「アンタもリンティも、勝手なのよ!!!」
その嘆きは雷夢も知っていた。魔王が言った通り、魔竜は滅びを望んでいた。
魔王は愛してくれる者を諦めた。魂だけを奪うために、欲しい者ほど殺していくことを決めた。周りと上手くやりたい「アオイ」の心を、いらないものだと捨ててしまった。
「絶対諦めない、って言ったくせに……嘘つき……!」
どうしてこんなに、嗚咽が洩れるのかがわからなかった。
そしてどうして、雷夢に締め上げられている魔王が、いつしか銀髪がへたれた顔をしているのかも。
「……雷、夢……」
左右の眉もへの字に下がったアオイは、まるでもらい泣きしたと言わんばかりだ。
ふと気が付けば、アオイの額の、魔竜の逆鱗が消え去っていた。両手を後ろについたままで、襟ぐりを掴む雷夢を見上げている。
まだ涙が止まらない雷夢は、何が起こったかは悟りながらも、文句を引っ込めることができなかった。
「大体何で、私とアンタが兄妹なのよ! こんな弱っちい兄、願い下げだから魔竜と兄妹してなさいよ! アンタ達の方がそっくりだし!」
「――」
「魔竜だか魔王だか知らないけど、勝手に嘆いて暴走してるんじゃない! いつも置いてかれるこっちの身にもなりなさいよ!?」
「……」
どうしよう、と。初めての事態に雷夢も困った。
言えば言うほど、涙が込み上げてくる。肋骨にまで泣きぐせがつき、しゃくりあげを繰り返している。
何だか全てが、どうでもよくなってしまった。そもそも殺し合いをしたい性格でもなかった。
双子の妹を本当に追いつめたもの。夢でしかなかった幻を思い出した。
――お願い、あたし……ライムを殺す夢を見るの……。
出口のない心を持つ時、人は滅びを望むのかもしれない。痛みを隠して、そのせいで感じ続けて、明日を忘れてしまった頃に。
あと何度殴れば、アオイは痛い、と言うだろうか。殺しにきたリンティにも笑いかけるバカなので、相当時間がかかる気がする。
そんなことを思っていたら、竜宮にひときわ、冷たい風が吹いた。まるで魔竜が、昏いもやから蒼い木枯らしになったように。
アオイが黙って、苦しく笑った。言葉は何もいらなかった。
痛いものは、痛くて良かった。この地に戻ってきたライムは、そう言えば「雷夢」の誕生日が近いことを思い出した。
どうでもいい、と一人笑った。
*
魔竜のもやを吹き飛ばして、広がり続けた雷が雲になった。竜宮全てを覆う雨が、雲間に光を零しながら荒くれ始めた。
西の山辺で、東の四天王とお茶を飲んでいたアバシリが、目を丸くして空を見上げた。
「ありゃ。これは、タッキーちゃんの雷雲だねえ」
「そうなん? このタイプの力やと、今代魔王の坊ちゃんは相性が悪そうやねぇ」
お団子頭の女の、幼げでひらひらした礼装の姿。踵の高い靴は乏しい戦意を示して余りあるだろう。
「ま、最初からばればれやったけどな。魔王、混乱しとるだけやろって」
女は旅行気分で竜宮に来ていた。なのでアバシリも平和に、茶飲み仲間とだべる。
北の谷では、ひっぱたかれて座り込むフェネルを前に、取り上げた棍棒を握りしめてアーニァが叫んだ。
「もう、信じられませんわ! こんなひよっこに〝小天地〟を持たせて、あのネコマタは何を考えてるんですの!?」
雨に打たれて、フェネルには見えていないだろう。アーニァの目から、雨だれ以外の水が滴っているのは。
「殺す気ですの!? マブより最悪なスパルタ教育でしてよ!」
アーニァが、こんなことなら預かった時に封印しておけば良かった、と棍棒を振り回していた。ラナトイル・ナーガが、己を封印してまで後世に伝えた凶悪な力を、いつまでも憎そうに手離さなかった。
――あなたが死んでも、悲しむヒトはいないのね。
その声が何故か、とても辛かったこと。それも忘れてフェネルは呆然と、ぬかるむ地面にいつまでも両手をついていた。
東の城の屋上では、激しくなってきた雨に打たれて、風の珠玉の錫杖を掲げる修道女に西の四天王が苦戦していた。
最も魔王に近い血筋である西の四天王は、同じ西の大陸で雄を競う相手に、腹立たしげな眼光を向ける。
「おのれ、人間如きが魔王勢力に刃向い、ただで事が済むと思うか。ディアルスの王女、必ず咎人としてその身を投獄してくれよう」
「あら、何のこと? 私は『ブリーズ・アディ』。ディアルスの王女は、今日も普通に、城で執務をしているはずだけど」
西の大陸北東端のディアルスでは、双子や歳の近い同性が王家に産まれると、必ず一人は隠されて育つ伝統がある。国宝である火の珠玉も、いつも通り持っているシャイナ王女は、外交問題で糾弾されようがない。
降りやまない雨に、まさに、空が泣いてるみたいだねぇ、と。
お茶会の終了を宣言したアバシリに、やれやれ、と東の四天王が、転位の力で消えていった。
➺結尾∴縁
全く、と。良い死に場所はなかなか無いもの、と、真夜・フルーレティは南の城内でぼやいていた。
戦況は捗々しくなかった。アバシリが言った通り、竜宮の南の二人を相手にするのは、真夜でなくても大変な上、真夜は彼らと相性が悪い。
「真夜の姉御、諦めなよ。たとえ俺達を攻略したところで、ルシフェルトの奴、姉御のことは確実に殺す気だぜ?」
タイタス・オベロン、通称タイティー。もしくは魔王の相方、力の管理役である悪魔ルキフゲ。それはどうでもよく、問題はルキフゲが溺愛するティタニアで、そもそもルキフゲはティタニア可愛さに、ティタニアの兄の魔王に仕えるようなものだった。
「真夜の姉御は、氷の悪魔フルーレティとしての力を、陽の光の無い場所でしか使えない。俺もティタニアも光耐性ありありだし、月のティタニアがここにいる限り、姉御は氷を使うことはできない」
そう、天上の鳥の性を持った真夜は、聖火があればそちらを先に「力」にしてしまう。太陽光も月光もない場でないと、銃に込めた力も勝手に光に変わる。
そんなことはわかっていたので、両手に持った一対の小剣で、直接ルキフゲに向かった。補助役のティタニアが防壁を張るのは避けられないが、ティタニアを狙ってもルキフゲに隙を見せることになる。
魔力の多い妖精出身のルキフゲは接近戦に慣れていない。真夜はどんな条件の戦地でも勝ってきた悪魔の貴族だ。与えられた仕事がこの場であるなら、気に食わなくても全力を尽くすだけ。
幼い頃は人間のように、キレイな花嫁になる、と願っていた。素朴で儚い悪魔の令嬢がいた。
その運命を大きく狂わせ、強くなろうと真夜に思わせたのは竜宮。これはやっとのリベンジなのだ。
連れ合いになるはずだったテラーの魂を奪われたのは、今に始まる話ではなかった。
「すまん、真夜。お前とは結婚できなくなった」
「……は?」
よりによって、真夜が彼と深く結ばれた数日後に、そんなことを言われるとは夢にも思わなかった。
成人の儀を終えた真夜を祝い、酒に弱いテラーが酔っ払って婚前に手を出した。テラーは何も覚えておらずに、酔いを覚ましてくる、といつもの修行の旅に翌朝発っていった。
そして帰って来たと思えば、頭に包帯を巻いてその言い草だ。
よくよく話を聞いていくと、実直なテラーは口を割った。何でも山中で水行時に、何故か大量に流れてきた氷塊で頭を強打し、気付けば滝の内側の洞窟で見知らぬ女と寝ていたという。
大馬鹿者のテラーは、真夜と既に契りを交わしたことを忘れ、大切な純潔を違う女に捧げてしまった、とさめざめと嘆いた。
言わなければわからない、とその女には勧められたという。けれどその後、テラーの「力」に異変があった。「竜の巫女」という女が竜種の誰かに渡すはずの「力」を、悪魔のアスタロトの血のテラーが何故か受けてしまったのだ。
これでは隠せようはずもない、と。馬鹿正直に、テラーは己の不貞による婚約破棄を申し出た。テラー・橘・アスタロトになるはずだった彼に、真夜は阿紫太郎の名前を贈り、テラーが望む通りに婚約を辞めた。
泥棒猫を殺してやる。そう思って真夜が「竜の巫女」について調べ始めた頃に、突然竜宮の結界が解けた。それによって竜の巫女はジパングの闇帝と急遽婚儀を結ぶことになり、手をかけられない有力な相手になってしまった。
竜の巫女は、竜種のくせに魔道の研究者であり、偶然テラーと同じ山で魔道の修練をしていた。補助系以外の魔道はヘタクソで、川面で使えない氷をごろごろ失敗発生させて、下流にいたテラーを殺しかけた。手当をしようと慌てて洞窟に運んだのだ。
「あのバカ……私を抱いた記憶はなかったくせに……」
外の世界に出る時には、長い髪を茶色に染めていた竜の巫女が、その日は赤い服を着ていたのが仇となった。
頭を散々打ったテラーは、自分を心配しているおぼろげな女を、暗い洞窟で真夜の影と見間違えた。
氷塊に頭を打たれたこともあって、氷使いの真夜が上流にいたという、突飛な発想が浮かんだとテラー本人に聴いた。
真夜、と介抱する男が抱きついてきたことに竜の巫女は驚いていたが、男の体が水行後で冷え切っているので、自分の氷のせいと勘違いし、温めなければ、と受け入れてしまった。その頃の巫女には縁談はなく、怪我をさせてしまった男を助けたい一心だった。男が違う女の名をしきりに呼んでいたので、その人には隠した方が……と、後で目覚めたテラーに伝えたのだ。
テラーが巫女から与えられた「力」は、死竜に異様に懐かれるだけの竜の縁。アスタロトの嫡子を差し置き、アストロトの血筋だけを認める死竜を、最も御せる庶子となってしまった。
何という下らない話なのだろう。どうしてそんな若気の至りで、その後のテラーは竜宮に関心を持ち、いつか竜宮に行く竜種の魔王にも心を捧げるようになったのだろう。魔王に仕える悪魔であるべき、アスタロトの家は継いでいないのに。
そこまで真夜の話を聞いたところで、雷夢が、うわ……と両目をひそめた。闇帝の城に以前のままで残されていた、自室の寝台を真夜に貸して、隣に置いた椅子で付き添いながら体を竦めた。
「それって……まさか……」
「そうよ。あのバカ、無自覚でも、親になった縁に引っ張られたんでしょ。人妻になった竜の巫女じゃなくて、生まれた娘のいる竜宮が、バカの魂を惹きつけたのよ」
現在真夜は、倒れかけていた南で助け出されて、雷夢が制圧した闇帝の城に運び込まれた。運んだのはテラーが駆ってきた死竜で、魂の破損で動けなかったはずのテラーは、自身の館に置いてあった、取って置きの依り代に己の狐火玉を遷すことで、体を替えて戦地に馳せ参じていた。
「助けに来たぞおおお! 真夜ああああ!」
銃駄無十分の一のスケール。などといった、テラーが遷れる魂を宿すほど気に入っていた、飾り物の金属人形。人間界にいる頃のアオイからの、とても貴重な褒賞らしい。
ルキフゲと真夜は絶句した。ティタニアはぽかんと金属人形を見つめ、補助系魔道が得意なテラーにあっという間に眠らされた。
「ってアンタ、今自分の体を離れたら確実に本体死ぬでしょうが!?」
近接で戦うには分の悪いルキフゲは、手段を選ばず真夜を攻撃魔道でいたぶっていた。前に出た金属人形は、真夜が渡した銃をいくつも体に埋め込んでいて、全ての銃口をルキフゲに向けた。
ハチの巣にされかけたルキフゲは、眠ってしまったティタニアを抱えて、あっさり南の城を捨てて逃げたのだった。
そうして、がしゃん、がしゃんと歩く金属人形にその場でプロポーズされた真夜は、死ね、とだけ答えたという。
「うちの城で、眠る貴女を死竜に見せたら、すぐさま懐いたからね。竜種の繋がりを越えて、貴女にはアスタロトの血が流れてる。竜の巫女も、近い時期に突然結婚したものだから、貴女が誰の子なのかは自信がなかったんでしょう」
だから巫女は、闇帝を愛していながら安心させてやれなかった。
竜の巫女を殺せなくなった真夜は、テラーの子ではないのか、と竜宮の王女を疑い、代わりに殺意を持った。
「今更だなんて、自分でもわかってた。確信もないし、八つ当たりだった。でも実際に妖狐のあのコが現れると、色々迷いと疑問が出てきた」
雷夢のペンダントを奪った時に、それが雷夢自身の狐火玉でないのはすぐにわかった。雷夢にかかった指名手配の嫌疑は、「魔竜」であることも不審に思った。
雷夢がそこで、痛ましげに首を傾げながら、本音を話す真夜の痛いところをついてきた。
「むしろ……私達がテラーの子供で、真夜さん、納得したんじゃないの」
そうでなければ、テラーは竜の巫女に魂を掴まれていることになる。行きずりだけの縁のはずが、巫女を死なせた竜宮のことを、いつまでも引きずって監視している。
巫女自身は、己の蒼い逆鱗を自力で物質化し、闇帝に結婚指輪として捧げた。竜宮を二人で治めるための政略結婚だったが、生真面目な闇帝を愛することは難しくなかったのだ。闇帝にも巫女と出会う前に、夢妖精との子供があったとは知らずに。
一度殺され、竜の眼で蘇生した碧が眠り続ける間に、闇帝は竜種の後継ぎとして碧に指輪を渡して、公式に我が子であると認知した。その指輪に宿る逆鱗こそが、春日蒼帷を作る礎となった。
今回、魔王としての碧を結局蒼帷が抑え込んだことに、真夜は感傷を隠せなかった。
「……複雑だったわよ。あの女の逆鱗を着けるシアンが、マヤ、マヤ、と慕ってくるんだから」
蒼帷がヘタレで、鍛えてくれ、とテラーが真夜に泣きついたので、気軽にテラーと話せる間柄に戻れた。光を扱える悪魔がそうそういないとはいえ、別派閥の真夜が魔王を擁することの懸念はあったが、家を継いだ嫌味な長兄が苦労すればよかった。
「貴女のペンダントも、魔竜の妖狐も、見たら何だか納得しちゃった。これを何とかしない内は、テラーは帰って来れないって」
しかしその果てにテラーが、まさかあんな金属人形の悪魔になるとは。真夜を助けようとした純情はわかるが、あの男はいつも肝心の真夜の気持ちを聴かない。
けれども、今回こそは死ぬかと思ったので、しばらく真夜の城に謹慎で許すことにした。魔王一派のルキフゲと真夜の対立は当然のことだが、魔王が兄のように慕うテラーを殺しかけた時、次は自分、と真夜も何となく予感があったからだった。
「……シアンのためには、良かったことだわ。貴女が、闇帝の娘でなくて」
「……」
「あの子、自分を見失うくらい一人ぼっちなの。貴女にはわかるでしょ? 支えてあげて」
今ここで、真夜がバカバカしい過去の話をするのは、まず蒼帷が可愛かったからだ。
ついでにこのまま、蒼帷が魔王の台頭を抑えていれば、テラーと晴れて隠居ができる。手伝う気が無いなら殺す、と微笑む真夜に、雷夢は困ったように笑い返していた。
竜宮の騒乱は終わった。魔竜と魔王を、竜の王女が倒したことになって。
➺後奏∴空
自分はどうやら、竜宮の王になってしまったらしい。
十歳まで育った城で、城主の娘ではなかったのに、もう女王をして二年近くがたった。
すっかり竜宮の生活に慣れた雷夢は、屋上の鋸壁の間から海を眺めた。
竜宮。この小さな菱形の大陸には、現在ヒトは雷夢達しかいない。
強い化け物を生み出す禍根の土地は、一年かけてヒトを追い出した後、アオイが魔竜のもやで大陸ごと包んだばかりだ。かつては魔竜の結界で隠されていた地は、それでひとまず、誰にも見つけられない秘境になった。
「まだまだ、これからなんだけどさ」
リンティが竜の墓場から、もやを維持してくれていると武丸達に聴いた。墓場の住人とは夢で会えるだけで、雷夢が竜宮にいる時にだけ、武丸や佐助のように生者のまま墓場にいった者が顕れる。生者と死者の境は、死者側には大きいらしい。
元々魔物――生者でないリンティは、竜宮の結界が落ち着けば死天使にされる、ときいた。どの道会うことはできない死者扱いだ。
アオイとは三つの約束をして、少しずつ竜宮の封印を一緒に固定している。勝手に死なない、弱いものいじめをしない、無駄な力を使わないこと。守ってくれる限りは傍らで生きる。いないとこうして、待ちたくなるくらいには、雷夢の中に住みついている。
砂浜に黒い転位孔が開いた。天の民が守る「地」に行っていた、アオイが帰ってきたのだ。
半年前からアオイは魔王として、天の「地」と休戦交渉をしていた。穏便に話を進めていたのに、魔王を擁立する側がこの度、かねてから仕掛けていた罠で大規模な襲撃を行った。アオイの意思に反する奇襲なので、蹴散らす手伝いに行ったのだった。
「ただいま。悲報ばっかりだけど、きくか?」
「やだ。この世界本当、物騒で嫌い」
アオイが掌の上に連れる、天の民の羽には嫌な予感しかしない。苦く笑ったアオイは、数少ない他の住人の元へ、先に仔細を説明しに行った。
魔王は「地」側に、光と闇や、そして聖と魔など、相反する「力」同士を削り合わせる力の仕様の改変を要求した。
その壁は神暦が終わる時に、世界中の力のフィルターという「地」に「神」が付加した、余分な制御なのだという。「神」など純血の化け物以外、言葉が通じ難かった化け物同士に、更に力の押し合いを発現させる隔壁の強化だ。
「ミラ、アキラとカヅキの壁を解放してくれたもんね。『地』でならそれが世界レベルで解放できるの、アンタの見立て、間違ってなかったね」
その押し合いは、「地」に来る魔物を撥ねやすくするための障壁でもある。当然「地」側は、隔壁の除去の受け入れをしぶっていたが、今回大量の魔物に侵入されたことで、闇属性の多い地上の化け物の助けを呼べない壁でもあると認められた。アオイや光の耐性を持った者しか増援に行けなかった。
裏をかかれて、天の島に魔族の侵入を許した以上、おそらく今後も同じことが起こる。そのため襲撃者を排除し終わった後で、「地」の現在の統率者アレクシス・ソウルは、「地」を共に守った魔王の要求の内、光と闇の力に関しては、隔壁の付加をなくす制御の改変を受け入れていた。
「良かったね。アレクシス、ウィジィの旦那さんでなきゃ、襲撃も魔王の差し金だって疑いを下げなかったでしょ」
「そうだな。でも『地』には、次代の魔王の相方が既に生まれてたから。オレとソイツが共鳴しない以上、オレへの疑いはわりと簡単に晴れたよ」
アレクシスは、最強格の宝珠の守護者で、まだ若い青年の長だ。炎の髪の美少女、ミラの腹違いの兄だといい、今回の襲撃でミラが命を落としたことを雷夢は最後に聞かされていた。
「だからこの羽……か」
アレクシスとアオイ。王たる魔族と天の守護者は、どちらも命を司る「力」を持った鏡。
ヒト、ものの生成と崩壊を司る「空」が、限られた王者だけの「力」。アオイが魔竜のもやを残したように、アレクシスもミラの命をミラ自身の羽に留めた。最早蘇生は叶わないというが、ミラが度々話していた魔王に、できれば妹の羽を見守ってほしい、と託したのだ。
アオイは本当に、魔王の心に乗っ取られかけた三年前から、急ピッチで強くなった。元々大きな「力」の使い勝手が悪かっただけで、様々な「力」を憶えている魔竜の逆鱗は、アオイをかつてない竜の魔王に導いていた。
今ではもう、雷夢も勝てるか怪しい相手だ。雷夢の有利な点は、竜の珠玉でほぼ無制限に回復できることくらいだろう。
「でもこれで、今後生まれる化け物達は、神サマや妖精みたいに言葉の翻訳ができるようになるんでしょ?」
光と闇の分断の結果、言葉も通じ難くされていた世の化け物達。
アオイが魔王でも、言葉が通じる者とは打ち解けられたように、一つでも世界に絆が増えることを雷夢は願う。
これ以上、難しい話はなしに、お疲れ、と笑った。
「遊びに行こうよ。たまにはゆっくり」
まずは竜宮を、さっさと閉じよう。天の羽の主や魔竜が、いつ眼を覚ましてもいいように。
To be continued?
D2-DKD 了 2024.6.26
竜の仔の王➺D2
ここまで読んで下さりありがとうございました。
本作DシリーズD2は、CシリーズC1につながる話で、かつAシリーズでメインに扱う「魔王と守護者」の歴史の一つでした。
前日譚『キカイなお嬢』も含め、Dシリーズの中では一番明るいのが本作D2です。ただ、裏面では色々暗いことが起こっているので、Cry/シリーズやAシリーズにつながる流れとなります。
D3はカオスで、書き切れるかが非常に謎です。D3前日譚にはDKL'sという、大昔にごくライトに書いた携帯小説があります。
DKL'sは本作D2を公開した場合、可能なら8月に星空文庫にUPしたく思っています。D3がCシリーズとの関連が濃いため、昔のファイルにUP予定なので公開時は下記のURLになります。
→https://slib.net/119597
D1では魔竜、D3ではCry/シリーズと探偵シリーズの面子が登場します。Dシリーズは自作全体の土台で他作品の補完要素が強いため、どこかで期間限定公開しようと思い、こちらがあります。
D1に引き続き、心が挫けたらノベラボでのみの公開に戻します。こちらはあくまで本編雛型とお考えいただけますと幸いです。
初稿:2024.6.6
※追記 8/8
なお、本作D2で魔竜の運命が変わった場合、星空文庫掲載の天国ルートな拙作とは違う橘診療所ルートに分岐します。
橘診療所ルートのパラレル作品は主にパブーに掲載しています。下記リンクの初話がD2関連作となります。
→https://puboo.jp/book/135935
※常時公開は下記で
ノベラボ▼『竜の仔の夜➺D1』:https://www.novelabo.com/books/6335/chapters
ノベラボ▼『竜の仔の王➺D2』:https://www.novelabo.com/books/6336/chapters<6/26UP>
ノベラボ▼『竜殺しの夜➺D3』:https://www.novelabo.com/books/6719/chapters<未執筆>