サンタクロースの思考実験
第一章
一
サンタクロースは怪異か否か。そう君に問いかけたら、君は何と答えるだろうか。
何せ、君自身がサンタクロースになると言い出した時には驚いた。それは今から七年程前のことだった。年の瀬が迫る十一月の終わり頃、レポートの整理に追われていた私のもとに、君がいつもの通りにやってきた。君は篭りっぱなしで忙しなく動く私を横目に、研究室の壁一面を埋め尽くすホログラムの資料を一つ一つ眺めていた。そう思うと、日めくりの形をしたアイコンを押した。今月のカレンダーが目の前に大きく表示されると、そこから一ページだけずらす。そして、予定がぽつぽつと書き込まれた表の下あたり、まだ空欄のままのとある日を指差しながら、ふいに私に呼びかけた。
「窓井くん。来月の二十四日の夜、空けててね」
いつものように強引で、でも少しだけ甘えを含んだような声に、文字を打ち込んでいた手が止まる。私は疲れた両目から眼鏡を外して、眉間を押さえながら考え唸った。
「来月二十四日……ああ、その日は多分、何も入らない」
「多分じゃ駄目。ぜったい、空けてて」
目のピントが合ってくると、いつの間にか君が目前にいたのがわかって、私は飛び上がりそうになった。掛けている私の目線に合わせて腰を曲げていた君は、その上体を起こすと、今度はそのまま私を見下ろしてきた。高い位置にある君の顔を覗き込むと、伏し目がちに見つめてくる視線は爛々として、紅を差した口元には薄い笑いを浮かべている。これは、彼女が私に頼みごとをするときに決まって現れる様相だ。だがいつも、頼まれているというよりも何かを試されているような気になって、私は彼女の提案に対しては断ったことなどなかったように思う。この時も慌ててスケジュール帳のアイコンを開くと、十二月二十四日、まだ白いままの枠がそこにあるのを見とめた。そばにあった電子マーカーを適当に取って、日付の数字をぐりぐりと囲む。君はそれを見て満足げに頷くと、ペン立てから予備のマーカーを抜き取って、ホログラムのカレンダーに向かった。それをまた一枚めくると、私が囲ったのと同じ二桁に花丸の印をつけた。
「ねぇ、期待してるから」
マーカーを片手に、教師が指示棒でするようにもう片方の手を規則正しく叩きながら、君は私に布告した。だが、彼女が私に何を期待しているのか、この時はまるでわからなかった。いや、心の奥底では薄々と勘づいていたのだろうが、疲れた頭脳が彼女の思いに対する思考をいつも以上に鈍らせていた。私は作業を止めたままの腕を胸の前で組んで、相槌とも同意ともつかない声でううん、と唸る。君は眉を下げて、一瞬だけ気落ちしたような表情で俯いてしまった。そうしてマーカーを元の場所に戻しながら、試すような視線と声色を再びこちらに向けてきた。
「今年こそ、サンタになってくれてもいいよ。じゃないと、私がなっちゃおうかな」
元々音の少ない室が、君の言葉で沈黙に満たされた。微かな音を立て続けていた電気ポットが張り詰めた空間を破るように沸騰を知らせる。君はとうとう耐えきれなくなったのか、私から視線を外して、珍しく顔を赤くした。当の私はというと、彼女の言ったことがまだ理解できず、ずっと黙ったままでいた。来月の二十四日、確かにこの日はクリスマス・イブだ。クリスマスと聞いて真っ先に思い浮かぶのがーーー赤いコートに帽子、真っ白な髭を湛えて、子供ににこやかにプレゼントを与える初老の男。そう、サンタクロースだ。君は私に、この愉快な男になってほしいのだという。それはおろか、私がならなければ君がなるのだと言い張ったことに心の底で驚嘆して、私はしばらく言葉を発することができなかった。第一、君とサンタクロースを頭の中で比較してーーー高い背丈で艶やかなほどには痩せている、短く整った髪の君と、ふくよかな体つきで、髭に埋もれた顔まで赤らめている老爺。似ても似つかないどころか、対極の存在のように思えて仕方がなかった。
「……君に、サンタクロースは似合わないと思うが」
正直、真反対の属性しか持たない老人になった君を見てみたい。そんな気持ちを抑えつつ、思ったことを正直に伝える。折角の張り切りに水を差してしまったか不安になって、君の顔をおずおずと見上げた。だが、君は目を大きく丸くして、唇を結んだ。よかった。そこにあったのは、機嫌がいいときの君の笑い方だ。
「言ってくれるじゃない」
君はそれだけ言い残すと、ロングコートを颯爽と翻して、ヒールの音をいつも以上に響かせながら室を後にした。折角だからお茶を、と勧めた私の声などまるで耳に入らないように、ドアは大きな音を立てて閉じられる。その姿は、慣れないことを言ってしまった後の照れ隠しのように思えて、私は何故だか、しばらく作業が手につかなかった。ふと、広げたままの電子手帳を見ると、赤く目立つ丸印がつけられた日付の欄に、クリスマス・イブと小さく書かれていることに気づいた。この日、私と君はサンタクロースになる。君の言いつけをまた反芻すると、私は無意識にも、手元のコンピュータでサンタクロースのコスチュームを調べていたのだった。
二
人は、周囲の環境がどんなに変わろうと、自分たちの生活や慣習を後世に遺したがる。数年前、太陽光を避けるために地下での生活を余儀なくされてから、私たちの生活環境は大きく変わった。太陽から遮断された地下都市では、もはや朝と夜といった時間の流れ、春から夏、秋、冬といった季節の移り変わりとは関わりを持たないように思われた。それでも驚くことに、人は時計通り、カレンダー通りに動いた。人が時間に則って動こうとすることで、周囲の環境もそのように動かされた。幾億もの有機LEDで造られた人工の太陽は、夜の時間帯になると消灯され、朝が来るとまた灯される。さらに、春の時期には室内向けに遺伝子を組み替えられた花が咲き、夏は人工太陽がより強い光を放ち、秋には人工の月が満ちて欠ける。そして、今は冬。空の灯は早々に消され、氷を削ったであろう雪が降り、どこからか北風のように冷たいものが吹き込む。私は、心臓が縮こまるほどの寒さに震えていた。
寒い。そう、私が何を言いたいのかというと、寒いのだ。折角、地下での生活をしているのだから、いくらでも快適な気候にできるはずだ。それなのに、多数の人間はこれまで通り、冬の時期になると寒くなるということを望んだ。このような望みは私からすれば可笑しいものだが、それにしたって今日は寒すぎる。私は凍りついた黒い空を睨みつけた。
「窓井くん……窓井くんっ」
後方から笑いを含んだような声がした。振り向くと、なぜか出会い頭から満面の笑みを浮かべた君がいた。君は私の顔を見るなり、耐えきれずに声を上げて笑った。
「香川君、落ち着きなさい。何がそんなに可笑しい」
腹を捩らせるほどに笑う君が、広場の巨大なツリーの前で待ち合わせをする人々の注目の的となっている気がして、君の爆笑を静止させようと試みた。だが、それでも周囲の人間は私たちの方を見てくる。どうやら、彼らの焦点は最初から私の方にあったようだ。咳き込んだ息を白くさせながら、君は私の姿を頭から爪先までじっくりと見つくした。
「窓井くん。どうしたの、その格好。もしかして、私がサンタになってって言ったから?」
私は俯いて自分の服を確認すると、黙ったまま頷いた。この日の私は赤いコートにズボン、ブーツ、とんがり帽子。そして特注の丸眼鏡に、テープでつけただけの白い髭。そう、サンタクロースのいでたちだった。そして、今日というクリスマスの日に、こんな浮かれた服装をしているのは、君にサンタクロースになってほしいと言われたからに違いなかった。しかし、君には笑われ、周囲からは噂される。それが不服で、しばらく口も聞かずに俯いていた。君は見かねたのか、握りしめていた私の片方の手を取って、するりと指を組んだ。冷え切った細い指の感触が、手袋をしていても伝わってくる。
「そっか、ありがとう。……素直だねぇ、あなたは」
爆笑の涙を浮かべていた君が、今度は静かに笑った。ーーーそうか、なるほどね。そう捉えたのね。ーーー頭を私の肩に寄せた君は、一人呟く。何と言っているのかよく聞き取れなかったのだが、なぜだか残念がっているような、寂しがっているような語気を含んでいた。私は腕をもっと寄せると、新品の赤コートのポケットに二人分の手を入れ込んだ。
三
より力強く、より歩くのが早い君が先導して、いつしか君の行きたい所に辿り着くのが私たちの歩き方だった。この日も君に連れられるように、公園の歩道を道なりに歩く。だが、いつもより速度が控えめなのか、広場の待ち合わせ場所へと急ぐ男や、腕を組んで道から外れ、店へと入っていく二人組と何度もすれ違った。私は寒さに肩をすくめて、閉口したままであった。いや、無口になってしまうのも、いつものことだった。凍えた息を一つ吐き出すと、暖かい場所への渇望で頭が満たされる。君の方をちらと見ると、珍しく君も黙りこくっていた。赤くなったその鼻先に、手をまた強く握る。
奥の方まで来て、人気がほとんどなくなったところで、ついに君は言葉を発した。
「窓井衛人くん」
急にフルネームで呼ばれて転びそうになったのを、君が引っ張って制止した。眼鏡がずれて、白髭が剥がれ落ちる。髭を拾おうとしたが、一筋の北風に攫われてしまった。それでも君は構わずに私の手を引いていく。いつしか、開けた丘へと向かう上り坂の途中まで来ていた。君の軽い足取りに任せたまま、私はやっと口を開いた。
「何だい。下の名前まで呼ぶとは」
「いや……。今どき、珍しいって思って。最近、というか結構前からだけど。『衛』だけで『まもる』とか、守とか護とか、とにかく『まもる』って名前が増えてきたって聞くでしょ」
「あぁ、あの人工衛星の影響でだろう」
「そう、『マモルくん号』。百年くらい前に、清咲灯詞博士が発明したーーー」
「『誰でも飛ばせる人工衛星』。個人が自由に書いたメッセージを、高性能翻訳AIが搭載された人工衛星に乗せて飛ばす」
「そうそう。わたしも、小さい頃に何回か飛ばしたんだよね。仕事のとき、何回か見かけたし」
「あんなのは、宇宙にロマンを求めすぎだ。大体は、宇宙空間上でごみになるのも知らないで」
「えー、でも。人が宇宙に行くのは、ロマンを求めてるからでもあるんじゃない?」
会話は自然と続いたが、君が珍しくフルネームで呼んだ意義をはぐらかされた気がした。その間にも、私たちはやっと丘の頂上に辿り着いた。息を切らせる私をよそに、君は手を離して丘の真ん中に立つ。いつしか、黒塗りのガラスドームの空には無数の星ーーーに見立てた小さな電球が幾千も灯されていた。まったく。肉眼とレンズの差を鑑みなくとも、出来合いの空は望遠鏡で見る本物の空より、圧倒的にみにくい。私は研究室に戻って、暖かいコーヒーでも飲みながら星の観察がしたくて堪らなくなった。だが、君を見るとそのような思いは消え去っていった。君はあの、試すような視線をこちらに向けていた。眼差しは真面目な熱さをも伴っていて、思わず射すくめられてしまう。
「ねぇ、どうしてあなたは『衛くん』じゃなくて『衛人くん』なんだろうね?」
「さぁ。先生の……育ての親の話では、私の父は人と違うことをやりたがった性格だったらしい。『まもる』というありふれた名前はつけたくなかったのではないか?」
「そっか。あなたと一緒だね」
私は、父親と同じ性格をしている。君が言うように、私は月並みで陳腐なことは苦手な方だった。そんな性格が父親と似ていると言われてしまうと、私自身でさえも会ったことのない父親のことを君は見透かしているような気がして、不思議でたまらなかった。眼差しの熱を少しだけ柔らかくして君は続ける。
「あなたも、誰も見つけたことのない星を探す研究をして、そうやってこれまでに九つも星を見つけた。……ねぇ、あなたが見つけた『Ga-810星』、見てみたい」
君は目を空の方に移すと、半狂乱のように出鱈目に首と体とを回した。だが、上にあるのは人工のガラスドームの空だ。私が見つけた星はおろか、本物の太陽や月でさえも見ることは叶わない。君もそれをわかっているはずなのに、必死になってGa-810星を見つけようとしている。不可解な行動だったが、何故だか私は、今見えている空は偽の物だと咎めることができなかった。私は黒々とした冷たい天球の一面を見上げると、自分を中心とした孤をなぞった。
「……18等星だ。たとえ地上にいたとしても、肉眼では見えない。だが、方角でいえばあちらの方だろうか」
君の顔が、指差した方角を素直に向く。私たちがこのまま真っ直ぐ上に昇って、同じ方角に向けた研究室の望遠鏡を覗けば、間違いなくGa-810星は見えるはずだ。私は解説を挟もうと試みたが、この星は発見者の私でさえも理解が進んでいなかった。
「……Ga-810星は白色矮星だ。太陽の58倍もある。望遠鏡越しに白く輝く」
今度一緒に見よう、と言っても、君は答えない。全てが不自然なほど均等に、眩しく輝く星空を前に、巨大な白い星が彼方に存在するであろう方向をずっと見つめ続けていた。
四
「ねぇ、衛人くん」
二人で黙々と空を見ていたところに突然、下の名前のみで呼ばれる。背筋に心地よい程度の電流のようなものが流れると、私の名を呼んだ君の声の波が耳を震わせた。それが鼻まで伝わったのか、くしゃみが一つ飛び出した。
「……やっぱり恥ずかしい。窓井くんでいいか、これからも」
君は微笑を漏らすと、先刻まで握り合っていた手とは逆の方の私の手を、彼女から掴まれた。手袋越しでも冷えた私の指は、君のコートのポケットに吸い込まれていく。その中で、何か小さく固い物が私の指先に触れた。取って、と言われるままにその小物を掴んで引き出す。それは、夜の空のように深い青色をした小箱だった。君と視線が合うと、小さな光を湛えた眼差しはこくりと頷いた。私は小箱の蓋に指をかける。
「Ga-810星、特別に写真を見せてもらったんだけど。白銀色……っていうのかな。綺麗だった」
小箱を開く時間は永遠のように思われた。君が呟くように何かを言っているが、ほとんど耳に入らなかった。それくらい、段々と中を見せてくる小箱に目を奪われていた。
「似た色の宝石、探すの大変だったんだから」
そこにはGa-810星があった。だがこのGa-810星は、乳白色の衛星と、大幅にずれた環を持っていた。ーーーいや、これは環ではなく、軌道を表しているのだろうか?だが軌道だとしても、真円すぎる。果たしてGa-810星の公転軌道は、真円になりうるかどうか?私は頭の中で思考を巡らせた。
ふいに、君の指が添えられたかと思うと、君は小箱からGa-810星を抜き取った。そうして、私の左手を取って寄せて、その薬指にゆっくりと通した。逡巡した私の思考が真に求めていた、けれども敢えて避けてしまった最適解へのピースが、君が次に発した言葉で綺麗にはまってしまった。
「窓井くん。私と、結婚してください」
私と、君とが、男女として結ばれる。願っても、叶うこともないことだと思っていた。だが、それを君も望んでくれていた。顔の熱が目の辺りに集中して溢れ出す。水滴が眼鏡のレンズに落ちて、目前のGa-810星と君の顔とがぼやけてしまった。
「ちょっと、何で泣きながら首振ってんのよ」
「ずっと……ずっと、君は、私にはもったいないと……」
一ヶ月ぶりにまた赤くなった君の顔を見る。君の瞼も、濡れて光っていた。それに気づくや否や、君が腕を伸ばしたかと思うと、強い力で抱き止められる。首と肩甲骨の辺りが締まって苦しいところに、背中を何回も叩かれた。凍えるほどの寒い夜であることを忘れるくらい、身体中が熱くなる。
「そんなこと言わない。私は、あなたがいい」
少しだけ鼻声混じりの、けれども芯のある君の声が、耳の近くで響く。ずれた眼鏡越しから、決壊したように溢れて止まらない。私たちは、こうして聖夜の寒空の中、お互いの中の熱を確かめ合うようにしばらく抱き合っていた。
五
私たちは丘を下ると、夕食をとるための店へと足早に向かった。この店は私が予約していたのだが、何せ君とでさえ、簡単に入るのが憚られるような雰囲気の場所だった。フランス料理なのかイタリアンなのか、それとも中華なのか。提供される料理のジャンルもよくわかっていないまま、楽しみ、と言ってくれた君に愛想だけの笑いを向ける。暫しの抱擁から離れた今、私たちの鼻先も、足元も、身体中の先端という先端が冷えきってしまっていた。繋がれた両手だけが、私のポケットの中で暖まる。
「結局、私の方がサンタになったね」
「いや。どう見たって、私の方がサンタクロースらしい」
両腕を広げて、自分の格好を君に見せつける。その拍子に私たちの手が飛び出した。君は咄嗟に、両手をより奥まで押し込む。それから、私の着ている上着をまたまじまじと見て、そりゃあ、どう見てもサンタだけど。と声を上げて笑う。なぜ君の笑いをこんなにも誘うのか未だに理解できない私を置いて、君は私の手を引くようにして歩く速度を早めた。一歩後方から、君の表情の見えない頭部とお互いが揃わなくなった歩幅を見る。ふと、私のサンタ姿を見て一頻り笑った後、寂しそうに肩を寄せた君を思い出していた。そうして今、まるで手が繋がれているのに、君が離れていくような心地に襲われていった。もしかしたら私は、君の期待を外れてしまったのかもしれない。
「五年後くらいになるかもね。籍入れるのは」
鬱々とした不安感に、君が追い討ちをかける。慌てて追いつくと、君は口角を上げつつ、困ったような顔を見せた。何故だ、と問いかけると、君は開いた方の腕をまっすぐ伸ばして彼方へと指を差す。
「私、行くんだよ。Ga-810星に」
指の先は、つい先刻私が君に教えた、Ga-810星がある方角と一致していた。
「再来月から、仕事でね。新しい星ーーーGa-810星の調査」
「そうか……本当に、君は離れていくのだな」
何の話?と君が問いかけても、私は苦しい思考を止めることができなかった。なるほど、Ga-810星へ行くのには、今の技術であれば最低でも二年かかると推定される。そこで一年ほど実地調査をしたとして、また二年かけて地球へと帰還する。君が挙げた五年というのも、希望的な最低年数であろう。君と結ばれるには最低でも五年、待たなければいけないのはおろか、再来月になると五年以上は待たなければ、君に会えなくなってしまう。そう思うと、無意識にも君の手をより強く握りしめていた。いや、そうすることしかできなかったのかもしれない。それでも、強い手の感触に気づいてくれたであろう君は、ずっと黙々とした私の歩みを止めて、正面から向き合直した。そして、空いた互いの手までも取って握る。熱のない指先を温め合うように、君は固く凍えた手で私の手を何度も押さえた。悶々と張り詰めた思考が、僅かに溶けていくのを感じた。そのまま、優しい笑みを零した君の瞳が、祈るように上を向く。
「だからさ、サンタさん。私が帰ってきたら、あなたから、結婚指輪がほしい」
次に君が小さく零したのは、一つの願いだった。それを聞き入れる間もなく、君の顔がまたしても赤くなっていく。私はといえば、暖められた思考は君から提示された願いのことで頭が一杯になっていた。結婚指輪。君が望むのであれば、指輪でも宝石でもいくらでも工面できるだろう。だが、サンタクロースを介するとなると話は別だ。困った。私はサンタクロースの知り合いではない。先刻の口振から、君なら知っているのだろうか。しかし、当の君に聞くのは野暮にも思われた。
「じゃ。これは婚約指輪、ってことで」
照れを隠すかのように、君は繋がれていなかった方の私の手ーーーGa-810星が瞬く左手を胸の前に掲げる。今度は其方の手同士が、君のポケットに吸い込まれていった。駆け出した君に息を上げる私。空では、相も変わらず均等な輝きの星々が地を見下ろしている。だが、この聖夜に交わされた五年越しの約束によって結ばれていくであろう私たちには、つくり物の星、街を彩る電飾でさえ、祝福の灯りに見えるのであった。
六
そうして、八年の歳月が経った。私の左手薬指には、今でもGa-810星が輝いている。だが、この星をくれた君はいない。机上のモニターは、女性宇宙飛行士の行方不明を告げる記事を映し出す。Ga-810星に照準を合わせたままの望遠鏡は、対象の星以外、屑一つ写さない。かといって、窓の外には面白みもない人工星が嘲笑するのみ。季節が堂々と三十二回巡って、今年も君のいない聖夜が訪れようとしているーーー。
第二章
一
さて、惚気じみた思い出を振り返るのは止めて、最初の問いに戻ろう。“サンタクロースは怪異か否か?”このような疑問を抱いた発端といえば、つい二週間ほど前のことだ。助手の名月君に、こんなことを言われた。
「衛くん、今年は望遠鏡がほしいみたいですよ」
もうそろそろ、クリスマスのプレゼントは教授が用意してください。そう付け加えた名月君の言葉に若干の違和感を覚えつつ、私はいつも通りに事務的に返答した。
「そうか。だったら、サンタクロースの居所を調べておいてくれ。生憎だが、私は幼少期以来、彼に会っていない」
菓子器を物色していた名月君の手が止まったのを感じた。顔を上げると、彼女の目は見開かれ、私をまじまじと見つめていた。それから、なぜか嘲笑を含むように唇を震わせて、私に問いかけてきた。
「教授、まだサンタさんを信じてるんですか?」
「いや、信じるも何もーーー、まさか、君は会ったことがないのか?憐れな奴だ」
「勝手に馬鹿にしないでください。だって、サンタさんなんて存在しないーーー」
言いかけて、慌てて口を噤む。そうして、再びわざとらしい仕草で菓子の品定めを始めた。だが私は、名月君が途中で止めてしまった最後の言葉を聞き逃してはいなかった。
「おい。サンタクロースは存在しないと言ったか」
「そっか、すみません。夢を壊しちゃいけませんよね。ーーーええ、いマスとも。サンタさんはイマスイマス」
「そんなことはどうでもいい。『サンタクロース』という人物は実在するのか、しないのか。正直に答えなさい」
名月君の顔と肩が強張った。声が低くなり、口調が荒くなってしまった。私は唾を飲み込み一呼吸おくと、両手を顔の前で組んで名月君の返答を待った。それでも、私の視線は無意識にも攻撃性を孕んでいたのだろう。口を開いた彼女の声は、いつもより小さく萎縮していた。
「はい。サンタクロースは……存在しません」
否定の単語を聞いた途端に、身体中の力が一息で放出されていくのを感じた。発条のついた椅子の背にもたれ、再び全身に入り込もうとした力を全て脳に運ぶ。急激な思考は、実に様々なものを提示してきた。幼少期、クリスマスの度に現れた、赤コートに白髭の老人。その姿を模した私。そしてーーーあのクリスマスの夜、サンタクロースを名乗って指輪と告白をくれた君。左手薬指のGa-810星が微かに光ったのを見ると、指先が冷えていたのに気がついた。この指を温めあう君は、君はーーー
大丈夫ですか、と声が聞こえて、はっと我に帰る。慌てて両手を薄い白衣のポケットに突っ込むと、眉を下げた顔の名月君に向き直った。危うく、助手に弱い部分を見せてしまうところだった。今は、冷たい感傷に浸るのは我慢して、「サンタクロース」のことについて浮かんだ疑問を解消しなければならない。
「分かった。サンタクロースは存在しないのだな。では、私が幼い頃のクリスマス、毎年会っていたいかにもサンタクロースの男。彼は誰だ?」
「さぁ。実際、その状況にいないのでよくわかりませんけど。ーーー教授って確か、養護施設の出ですよね?」
「ああ。十八の時、大学に入るまで世話になった」
「じゃあ、もしかしたら、施設の子供達向けのボランティアの人じゃないですか?それか、施設の先生とか。声とか体格とか、似てる人いませんでした?」
「ふむ……」
僅かな記憶を辿ると、毎年聞こえたサンタクロースの声は、声の質を変えてはいるものの、確かに施設長のものと似ているように思われた。背丈も同じ程度で、サンタクロースの方が恰幅がよかったが、服の裏に綿でも詰めれば済む話だ。私が会っていたサンタクロースの正体については置いておくとして、私は最も気になった問いを名月君に投げかけた。
「ではーーーなぜサンタクロースという者がいるのだ?」
「え?えっと……サンタさんは……」
「存在の意味ではない。言うなれば……必要性だ。サンタクロースという人物は実在しないというのが真であるとしたら、なぜ今でも世界という規模で知られている?」
哲学じみた疑問に、名月君は真面目に唸る。私が視線を離さなかったためか、彼女は目を伏せてしばらく黙り込む。やがて顔を上げると、誤魔化すようにはにかんだ答えが返ってきた。
「詳しい発祥とかの話だったら、私にもよくわかりません。でも、何だか……ほら、クリスマスといえばサンタさんって、イメージできません?」
「はァ、まあ、そうだな。だったら、なぜそのようなイメージが流布していると?」
「クリスマスイブの夜、寝ている子供達の元に、プレゼントが届くでしょう。本当は、プレゼントを用意したのは身近な大人なんですけど。でも大人は、子供達にはサンタさんからの贈り物だって、教えてあげるんです」
「ふん……魔法使いどもが好みそうな話だ。そんなことをして何の意味がある」
「すると、クリスマスが近くなるにつれて子供達はプレゼントをくれるサンタさんへ思いを馳せるようになります。でもそれは、子供達がサンタさんを信じていることが大前提です。ーーー要するに、子供達が大人から教えられた『サンタさん』のことを信じてきたから、毎年のクリスマスが特別な日になっているのではないかなと」
私は目を閉じながら、名月君の力説の要所要所を噛み砕いていた。どうやら、サンタクロースの正体は子供の身近にいる大人であるらしい。世界中の大人はサンタクロースという存在を騙り、それを信じた世界中の子供はクリスマスの夜になると、本当は存在もしないサンタクロースのことを焦がれる。世界規模で存在を信じられ、思考を寄せられるもの。それはまるでーーー、
「まるで怪異ではないか?」
二
サンタクロース。彼が多数の人々に知られ、信じられている者であるということを理解してから、私の思考は「サンタクロースは怪異である」という論を組み立てた。だが、怪異というものは実在が前提となっている。清咲のように視える者たちによれば、怪異どもは確かに存在し、超自然的な力によって我々を苦しめてきたという。暴挙を尽くした怪異を数千年前に鎮めたのも清咲家の者であった。だが、僅か数百年程前に光輪病が発現してからというもの、我々が不可解な病に苦しめられていく間に、何の因果か怪異の力は増幅していった。こうして地下に追いやられた我々は、光輪病の解明とともに、怪異の捕縛とを急いだ。しかし、当然のことだが端から存在しないものは捕らえることなどできない。それでは、サンタクロースは怪異ではないということだろうか。いやーーー、私は大多数の子供達はサンタクロースの存在を信じ、クリスマスには到来を待っているという真相を聞いて、怪異と対峙する時のような胸騒ぎを覚えていた。果たして、猛威を振るう怪異どものように、サンタクロースを檻に繋ぐことはできるのだろうか?いやーーー、
「でも、嫌だなぁ。もし本当に、サンタさんが怪異だったとしたら、教授はもちろん、政府も黙ってないですよね」
悶々と巡り始めた思考が、名月君の何気ない声に断ち切られてしまう。サンタクロースがまるで怪異のようだと言った私のことをまたもや嘲笑した名月君であったが、それきり黙々としてしまった私の真剣さが伝播したのであろう。彼女はサンタクロースが怪異であるという仮説を基にした意見を発した。だが、その発言はまるで、サンタクロースという怪異を庇い、我々を、というより世界政府を敵に回しているように私には聞こえてしまったのだ。名月君の意図は不明であるにせよ、それほどまでにサンタクロースの影響力は凄まじいものなのだろう。実際、私も先刻まで彼の実在を信じていたのだ。私は自分にも言い聞かせるように、次の思考を口に出していた。
「サンタクロースは存在しない。この事実こそ全てだ。存在を認識し、恐れることこそ怪異が力を増幅させる所以なのだ。もしサンタクロースが怪異だとすれば、その存在を認めることは明らかな愚行の一歩だろう」
この時、私の脳内にある一つの閃きが走った。デスクを叩くように立ち上がると、閃きは居ても立っても居られなくなったかのように、私を動かした。まずはモニターに映るスケジュール画面のイラストを消し、テレビ画面で繰り広げられていた季節のアニメーションコマーシャルを消し、名月君が手にしていた焼き菓子の包みを取り上げると、一瞥して捨てた。このように私が半狂乱の行動をとってしまうのは、助手にはなれてしまったことなのだろう。名月君は私のことなどお構いなしに、焼き菓子を素手でつまみ続けていた。
「でも、たとえサンタさんが怪異だとしても、私たちに害をなすのは想像できないです。ーーーって、教授、怖いこと考えてません?」
名月君の問いかけに、私は睨みつけた視線で応じた。モニター、テレビ、菓子の包み。これらに共通して描かれていたものは、そう、赤服白髭のサンタクロースだ。サンタクロースの存在を信じることが愚行の一歩なら、私が今していることは、快挙への小さな一歩だろう。サンタクロースよ、お前が怪異として我々を苦しめる前に、私がお前の存在を否定してやるのだーーー。
私は研究室から飛び出すと、常に身につけている無線を世界政府へと繋いだ。名月君は勢いよく閉じられた室の扉を開けると、私の背を見送りながら叫ぶ。
「教授!衛くんへの望遠鏡、引き落としでいいですかーーー!」
「必要ない!」
三
クリスマスの朝。底冷えの残る廊下を縫って、私は研究室から少し離れた一室の扉の前に来ていた。カードキーを翳すと、無機質な鉄の扉が無機質に開く。その途端、室内の眩しさが寝起きの眼を攻め立ててくる。部屋中の電気が点けっぱなし、床は玩具と電子機器まみれ。何故かタイマーが設定されていたエアコンだけが止まっていて、私の吐いた溜息は白い霧となった。極彩色の光を放つテレビの画面は、ニュースを穏やかに発信していた。
『今年は寂しいクリスマスとなりました。こちらはアメリゴ国、十歳のヴィッキーちゃんにプレゼントを渡すお母さん。ヴィッキーちゃんは戸惑いを隠せません。世界政府は先日、サンタクロースの慣習を廃止する方針を発表しました。この施策は雛菊国主導のものとみられーーー』
「衛!!」
ありきたりな名前を叫ぶ。足元のクッションが蠢いて、被さっていたタオルケットが掲げられると、その名を呼ばれた顔が出現した。赤くなった高い鼻筋に、目尻だけが引き締まった大きな瞳、燻んだ色の黒髪。どこをとっても、まるで君をそのまま小さくしたかのような存在が私の目の前にいる。それが、怯えた目つきで私を見上げてくるのが堪らなくなって、いつものように目を背けた。やがて突き刺さってくる視線を感じなくなると、私は彼の観察をーーーこれもいつもの慣習だったーーー始める。彼は辺りを何度も見回して、座ったままタオルケットやクッションを持ち上げる。子供用の背の低い机の上に乗ったパネルを認めると、短い指で操作した。エアコンから音が鳴り、暖かい風が部屋に吹き込んでいく。だが、探しているものはパネルではなかったらしい。彼は続いて、テレビの隣に備え付けられた造りもののクリスマスツリーに駆け寄る。ツリーの周りを一周して、下から覗き込み、テレビ台の裏まで探す。それでも所望のものは見つからないようで、座り込んで呆気に取られた顔をした。動作が止まったところで、私は腕時計型のモニターを確認する。彼のバイタルは安定しており、どの臓器も異常はない。だが、感情指数は負を示し、pmr値ーーー生まれつき彼の眼球に取り付けられていた詳細不明の受信機の周波数を測定したものーーーも乱れている。私は見えなくなった息を吐くと、壁のボタンの一つを押した。指紋を認証して、壁の奥から擦るような音がする。それが止まるのを待ってから、小型の取手を引く。そこにあったのは、簡素なトレイに乗せられた粥の椀に、湯気を立てるスープ。小鉢の中の錠剤を転がすと、いつものものに併せて負の感情を和らげるサプリメントも入っていた。私は頷いて、トレイをテーブルの上に置いた。
「衛。朝食だ」
背中を丸めて俯いていた彼だったが、私の声に時を動かされたかのように飛び跳ねた。急いで椅子に掛けると、いつもと変わらない朝食を虚ろな目で品定めする。一瞬だけ目線を私の方に移すと、匙を手に取って口に運び始めた。私は観察を再開しようと、立ったまま食事の様子を見ていた。まだ覚束ない手元の匙は食器に当たるたびに音を鳴らし、落ち着かない面持ちで私の方をちらちらと見上げる。負の感情指数に一気に振れたのだろう、腕のモニターが微かに震えて、私は白衣のポケットに両手を隠す。それからは気にかけない素振りをしながら彼に視線を度々注いだが、彼はもう私の方を見ることはなかった。
四
「ねぇ、おとうさん」
ふいに小さな声がした。それが私への呼びかけであると気づくのに数十秒かかってしまった。私が彼の方を注視しないうちに、彼は言葉をぼそぼそと紡いだ。
「サンタさん、こないの?」
サンタ、という言葉が彼の口から飛び出した時、背筋に戦慄が走るような思いがした。なぜ、彼はサンタクロースのことを知っている?
「なぜ……なぜそんなことを言うのだ」
「なっちゃんが、いってた。いい子にしてれば、サンタさんが望遠鏡をくれるって」
やはり名月君か。私は心中で舌を打つ。彼にはサンタクロースのことを教えてはいけないと散々釘を刺したはずだ。それなのにーーー。名月君は彼に対して甘いことが多々あった。その甘さがまた一人、サンタクロースを待ち侘びていた子供を増やしてしまった。しかも私自身の息子だ。これは由々しきことだ。やはり彼には、私から伝えておくべきだったのだ。
「いいか、サンタクロースはいないんだ。名月君はお前に嘘をついた」
私は彼へと見下ろす視線を向けたまま、その反応を待った。バイタルの数値が緩やかに上昇していくのが腕を見なくともわかる。彼の表情は私が言ったことの意味を理解できない、と告げており、口は涎を垂らしながら阿呆らしく開いている。可哀想なやつだ。私はこのような顔を、今までに幾度となく見てきた。超自然的な幻想ーーー怪異も然りーーーに惑わされ、真実ではないものを信じやすい子供の顔。私もそうだったかもしれないが。だからこそ、怪異や幻想に関する知識は、早期の矯正を行わなければならない。私は足元にあった椅子をずらし、彼の向かい合わせで腰掛ける。子供用の椅子は、軋むような音を立てた。
「サンタクロースはいない。これが真実だ。お前は本当のことだけを知って生きるべきなのだ。この先、本当にいるもの、あるもの、視えるものだけがお前たちの真実となる。いないものなど、信じる必要はない。サンタクロースはいないのだから、そんなものなど信じなくていい」
一区切りつけて、唾を飲み込む。私の声音が強くなるにつれて彼の目は見開かれていき、瞳には光るものが湧き出てきた。あまりの居た堪れなさに顔を逸らす。何故、泣き出してしまうのか。そんなにもサンタクロースに会いたいというのだろうか。いっそのこと、私がサンタクロースになってしまおうか。ーーーいや、きっとできないだろう。あの夜のことを思い出して、今度は私の方が溢れ出るものがありそうだ。それほどまでに、熱いものに溶かされ、澱んで、零れる彼の瞳の色が、君に途轍もなく類似しているのだ。私はもうサンタクロース、という忌み名を出すのは止めて、話題を変えることにした。
「望遠鏡など、ここから見てもガラスの空ばかりだ。電気の星を見ても面白くないだろう。星が見たい時は私に言いなさい。本当の宇宙と星を見せてやろう」
お前は恵まれていると、最後に呟くように付け足す。そうだ、お前は恵まれている。世界政府はこの先、親が子供にプレゼントを渡すというクリスマスの慣習も廃止するつもりだ。そうなってしまう世の中で、たとえプレゼントという概念が無くなっても、お前の願望だけはできるだけ叶えていきたい。そうすることで、香川君がまだ私の為にのこしていたであろう願望を叶えることができるとわかっていた。それなのにーーー、錠剤を素直に飲み干すお前の浮かない顔。頬を流れる一筋に、また新たな問いが次々に膨れ上がってきた。ーーー光年先の宇宙を見渡す私の望遠鏡は、偽の空しか映さないものに負けるのか。私は、存在もしない赤服の老人に負けるというのか。
香川君。君の願望は、どうすれば叶えられる?
サンタクロースの思考実験