文シリ太芥
編集者との打ち合わせを終え、僕は出版社の建物を出た。
するとなんと言う偶然か、あの人がこちらに向かって歩いているのが見えた。
「芥川先生!!」
全力で走って来る僕に気付き、あの人が立ち止まる。そして笑顔で手を振った。
ああ……、笑顔で手を振る芥川先生。この世で一番尊いものを見てしまった。
「お久しぶりです!」
僕は走り寄って行って思い切り頭を下げた。するとあの人が「元気だったかい?」と言ってくれた。
「はい! おかげさまで!」
僕は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「それは良かった」
そう言ってあの人は微笑む。僕は胸を高鳴らせつつ尋ねた。
「今日はどうされたんです? 先生も打ち合わせですか」
「いやちょっと近くに来たものだから……」
そこであの人は少し言い淀んでから言った。
「君がいるんじゃないかなって」
…………!! 夢じゃなかろうか。
「芥川先生だったらいつでも呼びつけてくれていいです! そしたら毎日だって会いに行きますよ!!」
僕の言葉を聞いたあの人は一瞬きょとんとした表情になり、それから声を上げて笑い出した。
「太宰くんは面白いことを言うなぁ」
「そんなことないですよー」
僕はすっかり上機嫌になって答える。しかし、ふと気付いた。
僕の知る限り、あの人は他人に会おうと思ってわざわざ出向くような人間ではないはずだ。ましてやそれが僕のような男であるなら尚更のこと。
それに今、「君に会いたかった(意訳)」と言った気がするが……。これはどういう意味だろうか。ひょっとして「君のことが好きだから会いたかったんだよ」とかそういう話なのか?! まさか! そんなはずはない。そんな都合の良いことがあるわけがないじゃないか。落ち着け。勘違いして浮かれるなど愚か者のすることだ。
そうだ。きっと今のは聞き間違いなのだ。あるいは冗談で言っただけかもしれない。
「でも本当嬉しいです。僕なんかの顔を見たいと思ってくれて。もちろん僕は芥川先生に会えるならどこへだって行きますけどね! むしろ許されるなら二十四時間一緒にいたいくらいです!!」
「え?」
「あ、いえ、何でもありません」
危なかった。思わず本音が出てしまった。
「ところでこれから時間ありますか?」
「ん、あるけど……」
「じゃあ一緒に食事行きましょう!」
「別に構わないけれど……」
これであの人の時間を独占できる。今日はなんて素晴らしい日なんだ。
――こうして僕らは食事を共にすることになったのだった。
「どこがいいかなぁ……」
正直、この辺りは出版社近くの喫茶店くらいしか利用したことがないため、食事出来る店はよく分からない。
困った僕はスマホを取り出し、検索することにした。
文明の利器とはありがたいものである。
“平成地区 おすすめの店”と入力すれば、たちまち数件の店が候補に挙がるのだ。
『割烹・和光』
ここが良さげである。レビューも平均点4.0点と悪くない。
早速その店のサイトを開き、予約を入れた。
「じゃあ行きましょうか」
そしてあの人と肩を並べて歩き出す。
しばらく楽しく会話しながら素晴らしい時間を過ごしていたのだが、ふと嫌な予感がした。前方に目を凝らすと、見覚えのある顔が歩いて来る。
「げっ、し、志賀直哉……!」
僕は思わず声を上げた。何故よりによって奴が現れるのだ。神様は僕と芥川先生を引き裂こうとしているに違いない。許せない。僕は心の中で神を呪ったが、すぐに冷静になった。
いかん! このままでは先生との素晴らしい時間が邪魔されるではないか。
僕は急いでその場を離れようとしたが、遅かった。
「やあ! 太宰くんじゃないか!」
志賀直哉はこちらに向かって手を振って来る。僕は無視したかったが、
「あっ、志賀さん」
芥川先生が笑顔で挨拶する。
「芥川くんも一緒か。何してるんだい」
「ちょっと食事に行こうと思いまして」
「へぇ、そりゃ奇遇だな」
「志賀さんは?」
「僕か? 僕は仕事だよ!」
そう言って奴は胸を張る。僕は内心ムカついた。
「へ~良かったじゃないですか。珍しくやる気になっていらして。お忙しいでしょうから僕らはこれで」
とっととこの場を離れたい僕は話を切り上げるようとする。
「……というわけで雑誌の取材を受けた帰りなんだ! 暇だから良かったら君たちに付き合わせてくれないか」
「はあ?! 駄目に決まってんだろ! ねえ芥川先生」
「もちろん良いですよ。賑やかな方が楽しいですから」
「じゃあ決まりだな」
と言って志賀は勝手に先を歩き出した。
僕は頭を抱えた。ああもう!! どうしてこんなことになるんだよ!
せっかく芥川先生と二人きりだったのに! 僕たちは結局三人で食事をすることになった。
そして今、その食事の最中である。
「芥川くん、こっちの煮物はどうだい」
「はい! とてもおいしいです」
「はははっ、君は素直でいい子だねぇ」
「そんなことないですよ」
楽しげに話す二人の姿を見ていると、だんだん腹が立ってきた。
なんで僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ! そもそもこの男が僕の邪魔さえしなければ、今頃二人で幸せな時間を過ごしていたというのに!
「おい! 芥川先生は僕はと一緒に飯を食いに来たんだぞ! お前が割り込んでくるんじゃねーよ!!」
「ん? そうなのか?」
志賀が不思議そうな顔をする。
「そうだよ。分かったらさっさと飯食って帰れ」
「なんだ、つれないなぁ」
「うるせえ!」
「まあまあ、そんなに怒らないで」
芥川先生が間に入る。
「でも!」
「それより太宰くん、これすごく美味しいから食べてみて!」
芥川先生が小鉢を差し出してくる。
「はい……」
僕はしぶしぶ箸をつける。確かにこれは旨いなと思った。
「うん! うまいですね!」
僕は無理矢理笑みを作った。しかし、その時ふと視線を感じて目を上げると、目の前の志賀が僕を見つめていた。なんだ?文句でもあるのか?
「いや~太宰くんはほんと芥川くんのことが好きだなあ」
「当たり前だろ。僕の尊敬する人だ」
「作家冥利に尽きるな、芥川くん!」
「え? いや……」
突然話を振られた先生は困惑しているようだったが、
「ええ、本当に嬉しいです」
そう言って微笑んだ。
「そっか。なら良かった」
志賀は満足げに笑う。
「……なに笑ってんだよ」
僕は睨むが、奴は気にも留めず言葉を続ける。
「なあ、太宰くん。君は芥川くんのことが好きかい?」
「え?」
唐突に聞かれたので僕は面喰らう。
芥川先生のことを好きかだって? そんなの決まっているじゃないか。
「ああ、大好きだ」
「そうか。じゃあ僕は君を応援することにするよ」
「応援……だと?」
僕は眉をひそめ、奴の顔を見る。
「ああ! 君の恋路を応援することにした!」
「はあ?! ふざけるな! 誰がお前なんかに!」
「おいおい、落ち着けよ。別に取って食おうっていうわけじゃないんだぜ」
「じゃあどういうつもりだよ!」
「ただ僕は純粋に彼の幸せを願っているだけだ」
志賀が真剣な顔で言う。僕は戸惑った。こいつは一体何を言っているのだ。
「あ、あの~、さっきから二人とも何の話をしているんですか」
芥川先生が恐る恐るという感じで聞いてきた。
「ああ、それはね」
志賀が言う。
「太宰くんは芥川くんのことが好きで好きで仕方がないらしいんだ」
「おいっ?!」
僕は思わず叫んだ。
「え? ああ、はい。彼のような若い作家に僕の作品を読んでもらえてるのは光栄です」
「いやそういう意味じゃないんだ」
「ちょっと黙れ……! と、とにかく僕は芥川先生を尊敬してるんです! それだけでいいでしょうが!」
「い~や! まだまだだね! 僕はもっと君たちの仲を取り持ってやりたいんだ!」
「はあ?!」
「なあ芥川くん!」
志賀はいきなり先生の手を握る。
「は、はい?」
先生は目を白黒させている。
「太宰くんは君を独り占めしたいみたいだけど、僕は違うと思うんだよ」
「えっと……」
先生は困っているようだ。そりゃそうだろ。急に手を握ってきてこんなことを言い出すなんて、完全に変質者だ。ていうか先生から手を離せよ!
「芥川くんにはみんなに愛される才能がある。だから皆で仲良くした方がいいんじゃないかな!」
「は、はあ……」
「な! いい考えだろう?」
志賀が僕を見て得意気に言った。
こいつは何を言っているんだ。
僕は心底ムカついた。こいつやっぱりぶっ飛ばしてやる!
「ねえ、太宰くん」
僕が拳を握りしめた時、先生の声が聞こえた。見ると、先生は少し寂しげに笑っていた。
「僕は……その、皆さんに好かれるような人間ではないんですよ」
先生の表情に僕はハッとした。
「僕は自分勝手で我が強くて、傲慢で嫌な性格なんです。それにいつも周りの人に迷惑をかけてばかりいる。きっとあなたにも沢山ご心配をおかけしたことと思います」
「そ、そんなことないですよ!」
僕は必死で否定する。
「先生が優しいことは僕が一番よく知っています。誰よりも人のことを考えていて、他人のために行動できる人だってことも。僕がどれだけ貴方に助けられたか分からないくらいです」
「でも僕はそんな立派な人間じゃないんだ」
先生は首を横に振る。
「僕は自分が傷つくのを恐れてばかりで、大切な人達を傷つけてしまったこともある。自分の気持ちすら上手く伝えることができない。本当に情けない男なんです」
「芥川先生……」
僕は何も言えなかった。すると、ハッとしたように先生は取り繕うように笑顔を作る。
「あ、すみません。つい変なことを話しちゃって……。ほら、太宰くん。ご飯冷めちゃうよ」
しかし、僕は動けなかった。
先生のことが好きだ。本当に好きだ。だからこそ、今の話を聞けば分かる。この人はずっと苦しんできたのだ。自分に自信を持てなくて、周囲の期待に応えられなくて、辛い思いをしてきたんだ。
僕は改めて先生を見つめる。彼は弱々しく微笑んでいた。その姿はとても痛々しかった。
「……」
僕は箸を置き、席を立った。そして先生に向き直り、頭を下げる。
「先生」
「え?」
先生は驚いている。
「先生がそんな風に思っているなら、僕はもっと努力します」
「太宰くん?」
「先生に認めてもらえるように頑張ります。それでいつか必ず、先生の悩みを解決してみせます」
「……」
先生は呆然としている。
「だから……待っていてください」
僕はそう言って再び深く礼をした。
「……ありがとう」
しばらく経ってから、先生が小さな声で呟いた。
顔を上げると、先生は照れたように頬を染めていた。僕は胸がいっぱいになった。
ああ、やっぱり好きだなあ。
「あーっ! もう我慢できない! 僕は帰る!」突然志賀が叫び、立ち上がる。
「つまらない!応援のしがいがないじゃないか」
志賀は怒った様子で店を出て行った。
まったくあいつは何なんだ。せっかく良い雰囲気だったのに台無しじゃないか。
「まあまあ、太宰くん。落ち着いて」
芥川先生が苦笑いを浮かべている。
「……僕らもそろそろ出ようか」
先生が時計を見ながら言う。
「そうですね」
僕は少し残念だったが素直に従うことにした。会計を済ませ、二人で外に出る。
「今日は楽しかったです」
「うん。僕もだよ」
先生は優しく笑う。
「先生」
僕は立ち止まり、先生を見る。先生もまた足を止めた。
「ん? 何だい」
「あの……今度、一緒にどこかに行きましょう。今日みたいなたまたま会っての食事じゃなくて、待ち合わせて」
僕は勇気を出して言った。
「僕と?」
「はい! 先生と一緒に行きたいんです!」
「ええと……」
先生は少し戸惑ったように視線をさまよわせる。
「ダメですか?」
僕は不安になって聞いた。すると先生はふふっ、と小さく笑って、
「いや、嬉しいよ」
と言った。
「良かった!」
僕はホッとして笑った。
「じゃあ、また連絡しますね!」
「うん」
「それでは失礼します!」
僕は深々とお辞儀をし、その場を後にした。
天国に来てから一番の軽やかな足取りで。
文シリ太芥