極彩ぱれっと

青丹色


窓の外を見ると、一羽の鴉が大きな羽を広げて空を飛び去っていった。今日は、その暗い羽の色に似つかないほどの雲一つない快晴。青の対照(コントラスト)に四方八方を囲まれているであろう街並みを歩いてみたくなったが、生憎、今日は許されていなかった。自宅で療養する躰に堪えると、医師から止められているだけではない。これから客が来る予定なのだ。
けれども、約束の時間を過ぎても来客は現れなかった。仕方なく谷堂さんから貰った詩の書かれた半紙を眺めて過ごす。やがて一と半の時間が経った頃、突然、玄関の方から雷鳴のような音がした。現実に引き戻された私は、急いで玄関の方へと飛んでいった。硝子(ガラス)戸の向こうに微かに見えたのは、背の高い鈍色の(シルエット)であった。
戸の向こうの相手も私の影を見たのだろう、硝子を叩く雷鳴はぴたりと止んだ。恐る恐る戸を滑らせると、胴の辺りが最初に目に入った。そうして、初めて逆光によってまるで相手そのものが暗い影となって見えていたことに気がついた。続いて足元に視線を移すと、彼は高い下駄を履いていた。彼の背が高く見えてしまうのは、この下駄の所為に違いない。そう思いながら、首を動かしつつ爪先から彼の姿をゆっくり見回す。彼は薄汚れた丈の長い外套(マント)を引きずる形で羽織って、学ランの上着も腕は通さないで肩に掛けている。胸元にはさらしを巻くのみで、ちらりと覗く細い腕は、意外にもごつごつとしていた。総じて、高専の不良学生のような出たちをしている。そう思いつつ、彼の顔を見上げていった。
途端に、私は彼の瞳に惹きつけられた。彼の瞳は雨が上がった後、日を受けて空の影を写しとる厚い雨雲の欠片のような、ぎらぎらとした青黒い光を湛えている。この光は先刻(さっき)からずっと、私の細い片目を捕らえていたのだろう。そうして今、私が彼の瞳を見つめてしまった所為で、私の方が射すくめられて動けなくなっていた。
彼は私の視線を横目で捕らえながら、扉の前で静止したまま道を塞いでいた私の脇を何食わぬ顔で通る。捕捉から解放された私は、漸く口を開いた。
「あの……君が、大塩(おおしお)さんだね?」
振り向いてやっと、彼が下駄のまま私の宅に入ってしまったのに気がついた。慌てて彼に駆け寄り、外套の裾を引っ張って、大塩さん、と声をかける。ふわりと、不良青年らしからぬ香りが私の花を突いた。まるで青空を切る風のような、爽やかな香りだった。
「あァ、俺が()()だが?」
低く掠れた声は、何故か自身の名前の部分だけをゆっくりと、大仰に発した。まるで自分の名前を呼ばれて、嬉しそうに連呼する子供のような声だった。そうして、お互いに向き直ったことで、室内の柔らかい灯に初めて彼の顔がはっきりと写し出された。両の瞳の青黒い光はそのままに、瞬きは微かに柔らかくなって大きく丸い球に収まっている。軽い笑みを溢す唇は、健康的な赤ら顔に映えていた。――掠れ声には似合わない、青少年とも少女ともつかない顔立ちと、他人の宅に土足で踏み込むような、突飛な動き。それを眺めて、私は脳内で一つの仮説を立てていた――。
だが、今はこの風変わりな来客をもてなさなければならない。下駄を脱ぐよう指示すると、背丈が私と同じくらいになった彼を居間の方へと案内した。

檸檬色

 一
 詰まら無い。色が無い。綺麗じゃ無い。
 自分を取り巻くもの全てが、まるで活動写真を観ているみたいに、虚に目の前を流れて行く。唯一鮮明に見えるのは、自分の吐く血のあかアカ赤紅朱緋。最早、極彩色で無いものは、全て痛みを伴って目に入ってくる。
 久方ぶりに外に出てみる。何処を見ても、白黒のビルの隙間から覗くあおアオ青蒼碧。その上に、見ることの叶わない日差しの光の色が、胸中を支配している不吉なものにのしかかった。他の者から見れば、きっと今日はとても良い日に違いなかった。客観的にはそう感じた。其れなのに何故、自分だけがこんなにも無色透明の世界で生かされなければならないのだろうか――
 ふと、八百屋の前を通りかかると、ある一つの色が、素直に自分の目に入ってきた。其れは黄色であった。さらに目を凝らすと、其の黄色は、紡錘形に変化して、やがて檸檬に成り切った。
 檸檬を一つ取り上げてみる。優しく触れたのに、感触は冷たい。日に翳してみると、自分の見ている方は影になって、少しだけ暗い黄色が目を優しく刺激してくれた。一寸だけ嬉しくなって、八百屋の爺に声をかけ、籠の檸檬を全て引き取った。

 二
 沢山の檸檬を抱えて、私はまた歩いて行く。袋の口から顔を覗かせる黄色の、瑞々しい香りを吸い込んで、冷たさを頬に擦り付ける度に、胸を覆っていた不吉なものは軽くなっていった。極彩色を湛えながら、段々と色づいていく景色に、自然と足は浮つく。だが、突然現れた不自然な白黒を前に、私は思わず止まって仕舞った。
 其の白黒は、本当に白黒なのだ。詰まるところ、色付く世界の中で、この物体は、白と黒という色を持っている。そして二つの色は、物も言わない冷たい威圧感を伴って、巨大なビルに成った。人を食べる怪物の、大きな口の様に、ビルの入り口が開かれて手招きしている。私は其れに吸い寄せられる様に、一階に備え付けてある、丸善へと足を踏み入れた。

 三
 白黒のビルは、何と其の中身も白黒なのであった。派手な装飾の万年筆、半紙で折られた便箋、西洋の絵画の贋作の前まで来て、漸く自分の胸中を度々苦しめる不吉なものが、再び湧き出しているのを感じた。早く此処から出たいのに、足は奥の、奥の方へと連れて行こうとする。終に、一番奥の書籍が積まれている所まで来て仕舞った。ーーー仕舞った。今は書籍が最も怖いのに。色の無い表紙の、文字、文字、文字に責め立てられる。思わず雀の鳴き声の様な、か細い叫びを上げ、腰を抜かしそうになった。あかアカ赤紅朱緋が、他の醜い色と一緒に、胸の奥から迫り上げそうになる。
 だが、既の所で私は溜飲を下げることが出来た。体勢を僅かに崩した時、抱えていた袋から、美しい黄色が転がり落ちたのだ。其の黄色は、先刻の様にまた紡錘形に変化し、軈て爆弾に成り果てた。そっと拾い上げてみる。相変わらず冷たい手榴弾だ。鼻に近づけてみる。爽やかな香りが、胸中にこびり付いた不吉なものを消し去っていく。大勢の命を奪う、爆弾らしからぬ香りだった。
 そうだ。私は今、爆弾を手にしている。そう実感した途端に、今度は私の方が、周囲の白黒を圧倒した。そして、すっかり晴れた胸中で、私は白黒に対して宣戦布告する。この黄色い爆弾が爆発してみろ、君たちは一瞬にして木っ端微塵だーーー。
 其れから、書籍の棚に向き合って、一番高く積まれたものの上に、爆弾を一つ置いた。此れは時限爆弾だ。あと何秒もしないうちに爆発する。其れに巻き込まれないよう、今は軽くなった足取りで、白黒の世界を後にする。脱出して見上げた空の青は、より一層綺麗に見えた。

 四ーーー後時譚
「よォ、峻」
 晴れやかな気分で歩いていると、突然後ろから声を掛けられる。其の声は、友人の大塩のものだ。少し勿体ぶって、ゆっくりと振り返った其の瞬間、

 白黒が終に爆発した。

 其の爆発は、正しく大塩の背後で起きた。炎の赤と橙、煙の白や黒や茶が混じった色、飛び散る欠片の鼠色、背景には青い空。そして、派手な爆発を歯牙にも掛けず、
「お前が出掛けるなんて、珍しィじゃないか」
 私に向かって話を続ける大塩の、硝子色の瞳と緋い唇。この刹那の間に、おもしろくて、色が溢れて、綺麗な景色が見られた。恍惚として立ち尽くしている私を呼び戻そうとしているのか、
「何処行ってた?今日は病院の日じゃあないよなァ?」
 大塩は私に掛けている話を、質問の口調に変えた。短気な彼は、流石にそろそろ気を悪くしそうだ。私は興奮を抑えつつ、やっとのことで答えた。
「白黒を……木っ端微塵にしてきた」
 私の声が心外に小さかったのか、大塩はあぁ?と訝しむ様子で見つめてきた。馬鹿な、大塩にはあれ程の爆発が見えなかったのか?ーーーいや、大塩のみで無い、周囲を歩いている人びとの中にも、今しがたの爆発に動じている者など一人も見受けられなかった。もしや、先刻の爆発は、私にだけ見えていた夢なのだろうかーーー?
 私の迷いを拭い去る様に、今も爆発を続けている背後の強い極彩色は、私の目を焼いてきて、思わず立ち眩む。今度は心配の気色を浮かべた大塩の硝子も、私の瞳を真っ直ぐに穿ってきた。此れ以上は流石に過剰摂取だと感じた。もう、周囲の理解など、得られなくても良かった。おもしろくて、色とりどりで、綺麗な世界は、私だけのものだ。
 そう思えて仕舞うと、世界の色は、忽ち私の味方に成った。腕に抱えている黄色は、優しい果物に戻った。其れを見とめると、私は袋を大塩に託し、千鳥の様な足取りで家路についたのだった。

葡萄色

 あはれなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。


 あたりがようやく白み始めた明け方ごろ、閉め切った窓の隙間から、非道く大きい咳の声が漏れ出した。喉元に引っかかって取れないものを何とか掻き出すような声音は、鷹匠が笛で鷹を呼び出すように、不吉で奇異なるものを誘う効能でもあるのだろうか。一羽の鴉が、住宅地の間に流れる静寂を切り裂くような羽根音を立てたと思えば、家々の合間を縫って飛んだ。そうして咳の主が潜んでいるであろう一軒の前に辿り着くと、黒々と濡れた嘴で硝子戸を煩く突くのだった。
 女中が慌てて、起き抜けに扉を開ける。だがそこに大鴉の姿は無く、代わりに高下駄の若者が羽織にも袖を通さないまま、息をきらせながら堂々と見下ろしていた。寝ぼけ眼の女中を素通りして、下駄も無造作に脱いで奥へ入っていく。
「峻!」
 まだ眠っているであろう近所の都合など微塵も厭わず、若者は家の主人の、友の名を叫んだ。羽織の隙間から墨を固めたような色をした羽根がはらはらと降って、歩くたび足元に着地するのにも構わなかった。
「峻!」
 最奥の部屋の襖に手をかける。しかし、部屋の方からは感染るから駄目、と制止が入った。若者は仕方なく床に腰を下ろすと、開かずの襖の向こうの相手にはっきりした声で話し掛けた。
「峻。お早う。先よりは落ち着いたか。下の下の目覚めだなァ?」
「ごめん、大塩ぉ。葡萄酒をこぼしちゃって」
 確かに、いつもの常套句(ジョーク)が飛び出す程には調子を取り戻したようだ。峻は喉の奥から吐き出されたあか黒いかたまり――喀血を葡萄酒に見立てて、大塩や友人達を驚かすのが好きだった。その喩えを初めて見たとき、白い蒲団にじんわりと赤い染みが広く滲んでいたのを思い出して、可哀想に、これは今回も洗濯が大変だ、と大塩は女中を慮るのであった。

「……大塩」
 いつしか胡座でうたた寝をしていた大塩は、友が雀の囀りにも満たない小さな声で呼びかけているのに気がついた。襖にもたれたまま、あァん?と物臭な返事をする。咳はすっかり止み、ひゅうひゅうと北風のような息を混ぜながらも、峻はいつもの饒舌を取り戻していた。
「ねぇ、大塩。こっちに来てよ。今日はほんとうなんだよ。今日はここに葡萄酒がある。異國の、伊太利の酒だよ。ぼくがグラスに注いでやったから、こっちに来て見なよ」
 また始まった、と大塩は溜息を吐いた。峻は本当に酒にでも酔ったような惚れ惚れした調子で続けた。
「大塩にはまだ言って無かったかな。ぼくたち怪異は血花病には罹らないんだよ。きみも()()()()だけれど魔術師だろう。ほら、感染るってのは嘘だから、早くこっちに」
「――お前は罹ってンだろうが!」
 早朝の怒号と勢いよく襖を開ける音に慄いたのか、窓の外で路頭の鳩が飛び去っていく羽音がぱたぱたと鳴った。硝子窓から朝日がやっと差し込み出した時分で、室の床にまだ熱を持たない光と陰が静かに煌めいている。その淡い光に照らされた白い(シーツ)と布団についた鮮血、グラスに並々と揺れる赤紫、そして半身だけ身を起こした峻の顔を大塩は交互に見やる。
「ほら、どうぞ。美しいでしょう」
 立ち尽くしたままの客に、微光を反射させたグラスが差し出される。大塩は生暖かい熱を持ったそれを受け取ると、再び身を倒そうとした峻の肩をがっしり掴んで制止した。肩を強張らせる峻の顔を、大塩はそのまま間近で覗き込む。眼の色が窺えないほどにほっそりとした糸のような峻の瞼と、びいどろのように鋭くぎらぎらした大塩の瞳がぶつかる寸前、やっと瞬いた大塩の眼が相手に問いを投げかけた。
「何ンだお前。笑ってンのか」
 答えるより早いか、峻の喉につっかえていたあか色がまたせぐりあげてくる。途端、朝一番のものよりもさらに激しい咳が一発飛び出した。同時に大塩の躰は一瞬にして黒い羽根に覆われ、みるみるうちに一羽の大きい鴉へと姿を変貌させた。趾で持ちきれなくなったグラスが床に落下し、畳の上に静かに転がって真っ赤な放物をつくる。染みは布団にまで広がって、峻が着ている寝衣までも侵食し始めた。
 真ん中に居座る室の主人を囲うようにして、鴉は腹の底からけたたましい鳴き声を上げながら狂ったように飛び回り続けた。だがやはり、鳥が自由に飛ぶにはあまりにも狭い室だった。鴉は箪笥に衝突すると、垂直に静かに落下する。翼はまた堅い腕へと変質していき、大塩の姿に戻るや否や、鳴き声も呻きとなって終わった。
 嵐のような喧騒が起き出してから、峻の方は小刻みな拍子で咳を発射させていたが、鴉が脳震盪を起こして大塩が気を失うのと同時に、咳の雨はようやく止まって肺臓から北風を吹かせ始めた。細く冷たい指で頬を覆うと、熱っぽさがゆっくりと溶けだす身体を後ろに倒れ込ませた。山のように散り積もった墨色の羽根が、峻の背を柔らかく受け止めて舞い上がる。それでも、峻は友に言われたことをゆっくりと咀嚼せずにはいられなかった。
「ぼく、笑ってる……?」
 こんなにも苦しいのに。喉を、奥の肺臓を侵す流行病のせいで。どうしてぼくが?ぼくたち魔術師は、怪異は血花病に罹らない筈ではないか。それなのになんでぼくが?こんな特別なんて要らなかった。特別。そうだ、ぼくは些細な特別が好きなんだ。だから丸善(はいいろ)を真っ黄色の爆弾で木っ端微塵にしてやった。自分の身体は異國の葡萄酒を醸造する機械であり、いつしか中で煮えたぎる緋色を絞り切って燃え尽きるのだ。そうでもしないと、そうならないと、特別な筈の世界が全部ぜんぶどうでも良くなって仕舞う――。
「っふ、ふふふふふ」
 北風混じりの笑声が室に響いた。咳に比べれば微々たるものでも、峻にとっては久方ぶりに腹の底から出した声だった。――日の出前、鶏の目覚めよりも早く飛んできてくれる鴉の腹心、
「大塩ぉ。僕が笑って仕舞うのはね、」
 床に散って台無しになった葡萄酒。特別な世界はこんなにもおもしろい。だからぼくは笑ってしまうのだろう。

 峻は寝転んだまま、ふと窓の外を見た。昏い室に見合わず、空は爽やかに澄んでいる。ちょうど窓からは、西の方角、まだ沈みきらない月が目玉のようにぽつんと小さく浮かんでいる。それを見て、峻は二月ほど前に月世界へと旅立った友のことを思い出していた。――彼は、異國の詩を引っぱって月へとすんなり行くことのできないもどかしさを例えていた。何度も空に挑んでは太陽に蝋を燃やされて落ちていく勇者のはなし。その勇者の真似をして、彼は何度も挑んで、ついに月世界に到達して姿を消した。
 ぼくもいつかゆけるのだろうか。彼は夜の月を目指していったけれど、ぼくはちょうど今見ているような、まだ沈んでいない朝の月に向かってゆきたい。反対側で昇る日を背に受けて、身体を溶かし尽くしてゆきたい。
「君があの月まで飛べるようになったら……ね」
 そうだ。しかしまだまだゆける時期ではない。それまでは、特別が溢れる色とりどりの世界を過ごしていくのだ。いつか、全てが如何でも良くなって仕舞うまで――。
 そうして峻は、数ある特別のひとつである黒い羽根を一枚握りしめて、あかく染みついた布団にくるまって安らかな眠りを貪った。

極彩ぱれっと

✴︎参考文献✴︎
梶井基次郎
『檸檬』
『Kの昇天-或いはKの溺死』

三好達治
『測量船』

極彩ぱれっと

不治の病を患う魔術師・峻と、鴉の怪異・大塩の友情(?)物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-02

Copyrighted
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  1. 青丹色
  2. 檸檬色
  3. 葡萄色