たよりに

『Ua-9-196212』

 ブラックホールを抜けると、そこは宇宙のど真ん中だった。黒々とした空間に凍りついた星々が散りばめられ、静寂は辺りを延々と包んでいった。
 ふたつの影が、お互いに僅かな距離を取って空間を浮遊している。影のひとつは顔を顰めると、瞳をゆっくりと開いて、瞼の隙間から晴れた空の色を覗かせた。それから辺りを見回して、置かれた状況を少しずつ噛み砕いているようだった。

 ――飛行機に乗っていて、気づいたら時間も空間も捻じ曲げられた無の(あな)に吸い込まれてて、それで――、

 宇宙に辿り着いてしまった。

 空色の影は無重力が身体を回転させるのに任せながら、ふともう一方の影が、自分からどんどん遠のいていくのに気が付いた。その場で手を伸ばしただけでは、もう届かない。慌てて体勢を取り直し、近づこうと試みた。しかし、横切ってきた何かに遮られてしまった。それは顔ぐらいのサイズの、鉄製の発動機だった。だが発動機だけではない、ばらばらの気筒、塗装された鉄の肌、車輪の塵。ありとあらゆる鉄屑が波のように押し寄せては、巨大な星の引力に吸い込まれていく。空色の影は、これら鉄屑が自身の片方の手で捕え続けている、ぼろぼろの飛行艇によるものだとわかっていた。壊れた噴出口からは煙が立つのみで、炎を勢いよく吐き出すことはもうなかった。それでも、修理すればまた乗れるかもしれない。それに、自分が手を離してしまえば、還る手段を完全に失ってしまうだろう。空色は着陸脚を掴む腕に一層力を込める。しかし、重力も温度も無いはずなのに、段々と掌は重く、熱くなりつつあるのを感じた。その間にも、影同士はゆっくりと遠ざかっていってしまう。
 空色は遥かに浮かびながら小さくなりゆくもう一つの影を見て、初めて相手を視認した日のことを思い出していた。――あの時は望遠鏡越しに見ても、小さい粒のような君だった。今ははっきりと、君の身体が流されていくのが見える。肉眼で捉えているうちに、助けなければ――。重い機体に引かれていた腕は、ついに解放された。そうして自由になった両腕で、軽い空間を泳ぐようにかき分けていく。

 無重力に流されるままの身体は、どうやら気を失っているようだった。空色はやっとの思いで白い上着の裾を掴む。
「星くん。ねえ、星くんってば」
 真空のはずの空間でも、澄んだ囀りのような声が響いた。細い肩を何度か揺すると、浮遊する二体は体重がかかって頭が下になった。星くん、と呼ばれた影は、薄く閉じられた瞼に一度だけぎゅっと皺を寄せると、やがてゆっくりと開いた。その瞳は、右が果実のような赤、左は海の底のような青と、それぞれ色が異なっている。その名を星と呼ばれるのに似合う、連星のような双眸だ。
「サン……サンか。一体ここはどこだ?」
 無機質なまでに透き通った声は、青い影をサンと呼ぶ。サンは涙目を細めてえくぼを見せると、細い体躯に勢いよく抱きついた。二つ分の身体は無重力の流れに従って、やがて鉄の壁のようなものにぶつかった。背中で受けた星が呻き声を上げながらゆっくり振り向くと、それは見慣れた主翼のようなものであった。顔を青くして、星はサンを問いただす。
「おい、飛行機はどうした」
「あー、起きたらもう、壊れちゃっててぇ」
「だからって、手放したのか」
「重かったのだもの。ぼろぼろだったし」
「重かったって……地上よりは軽くなってるはずだ。それに、修理したら乗れたかもしれないだろう」
 抑揚の少ない声で詰る星の頬を、機銃口の部品が掠めた。向かい合うサンの背後に視線を移すと、鉄屑の集団が追いかけるように迫り来るのが見えて、星は組み合ったままのサンの身体ごと避ける。かつて自分たちが乗っていた飛行艇だったものが、残骸の川となって流れていくのを横目に、星は再びサンを見つめた。サンは舌先を出して肩をすくめるだけだった。
「帰れ、ないのか」
「うーん。ここがどこなのかもわからないや。ずいぶん、遠いところに飛ばされてきちゃったみたい」
 星の互い違いの瞳に翳が落ちた。サンの両腕からするりと離れて、深く息を吐きつつ浮かび流れてくる部品の鉄屑たちをかき集め始めた。いつものように、冷静に対処しようとしてくれているのかもしれない。サンは星の背中を見て、自分にも何かできることはないかと肩掛けの鞄を漁ってみる。けれども、いつの間にかファスナーが開いていて、中身がほとんど消え失せているのに愕然とした。残り一つの非常用缶パンがふよふよと浮き始めて、慌てて両手を伸ばして掴む。大事に鞄の奥に押し込むと、サンの指先にふと何かが触れた。ざらざらして薄いものと、硬い棒状のものだ。引っ張り出してみると、それは手帳大の紙と先が丸くなった鉛筆だった。
 サンの胸中に、懐かしい感触が沸々と湧き上がった。甲板だったであろう大きい欠片が横切ると、それを画板にしようと両腕で抱える。サンは久方ぶりに、絵を描きたくなったのだ。絵を描くなんて、いつぶりだろうか。幼い頃は、とにかく描くことが好きだった。父が譲ってくれたスケッチブック、無機質な白い壁、棚に並んだ分厚い本の中のページ。色んなところに描いては、時たま父が褒めてくれたのが嬉しかった。大人になったら絵描きになりたいと考えたほどだった。しかし、その願望を口にした途端に、父が自分の絵を見ては悲しく、厳しい顔をして、絵を描くのはやめて文学や数学、地理を勉強した方がいい、と諭されるようになった。サンはいつの間にか、絵を描くのをやめてしまった。
 こうして、何年ぶりかに絵を描くわけだが、いざとなると何を描けば良いのかわからない。指で鉛筆をくるくると回して思案すると、よく描いていたうわばみを思い出して描いてみた。昔よりいびつだが、お腹を膨らませたこの帽子のような形のうわばみには秘密がある。サンはふふ、と笑いを溢すと、二枚目を取り出しながらふと星の方を見た。今度は自分だけ遠ざかって、その背中がまた小さく見える。鉛筆を立てて、腕を伸ばし、片目を閉じるともうすっかり画家の気分だ。サンはどんな状況であっても、良くも悪くも決して後ろ向きな言動をしない。白紙にいびつな模様を一つだけ描くと、ようやく満足してぽつんとした相方の背中に近付いていくのだった。

 だが、あと一歩のところでサンは一度停止した。よく見ると、星の背中は小刻みに震え、とりとめなく鉄屑を掴んでは離していた両手は握り拳を作って下ろされている。速度を落として近付き、恐る恐る肩を叩いても、俯いた顔はサンの方を向くこともなかった。顔を覗き込んでみると、サンははっとした。
 両の瞳が、冷たく、虚な光を漏らしている。果実は血のような赤に、海底はガラスに成り果てて、焦点も合うことなく何度も瞬いた。サンはすぐさま項垂れた星の両手を取ると、指先まで冷たく凍えているのに驚く。星の方は、まだ暖かいサンの両手に包まれて、やっと気がついたようだった。
「……冷たい。静かだ。寒い。……かえりたい」
 吐息の混じった、悄然とした声。初めて聞く星の弱々しい部分だった。サンは再び、星を最初に見た時のことを思い出していた。あの時は、望遠鏡のレンズ越しに君を見た。ほんとうに、遠いところにいた。今、目の前に君がいて、こうして触れていられるのに、あの時とおんなじで途方もなく遠く感じてしまう。堪らず、星の顔に手を伸ばす。指先と同じくらい冷えた頬がサンの指に擦り寄せられた。サンは唇を噛み締めると、冷え切った身体を力強く抱きしめた。
「だいじょうぶ。大丈夫だから。僕がいるからね」
 痩せた背中を摩ると、肩越しに顔が動いたような気がした。途切れ途切れの鼓動が、打ち方を徐々に思い出すように速くなっては互いの身体を温めていく。顔に寄せられた耳に、言葉を一つ一つ紡いだ。
「ねぇ。僕、どんなところにいても――熱い砂漠でも、寒い宇宙でも、君さえいてくれればいいんだ。そう、ずっとここでふたりでいてもいい。これは僕のわがままだけれど――」
 言いかけて、サンの身体は引き剥がされた。目を見開いて相手を見ると、星はサンの両肩を軽く掴んだまま、いつも通りの表情のない顔で見つめ返してくる。それでも、頬には桃色が戻り、瞳も果実と海底となって和らいでいた。僅かに微笑むようにサンの目に映った口元は、なけなしの意志が籠った堅い口調を取り戻していた。
「だめだ。おれたちには任務がある。早く帰還しなくては」
 またそればっかり。サンは頬を膨らませて、少し寂しげに呟いた。それでも、星の細い指が自分の手を離さないで握り続けていてくれるのが、堪らなく嬉しかった。
 今度はえくぼを浮かべて、星の肩を抱く。二つの身体は勢いあまって踊るように回った。それがやがて静止に近づいていくと、ねぇ見て、とサンは手にずっと握りしめていた一枚の紙切れを差し出した。それは最後に描いていた絵だった。丘のような二又の線の上に、いびつな星型がひとつだけ。
「この絵、星くんを見て描いたんだ」
 不思議そうな顔で絵を覗き込む星に、内緒話をするようなひそめ声で囁く。それから、薄い紙切れ越しに星のことを透かしてみせた。脳裏には再び、忘れられない光景が広がった。
「初めて星くんを見たときと同じ景色だ。僕だけの、たったひとつの星」
 その星が、今、あちらの方から手を差し伸べてきてくれた。サンは感極まって、紙を握りしめる手を微かにふるわせながら、濡れた瞼で相手を上目遣いに見つめた。しかし、星が掴んだのはサンの拳ではなく、その掌にある紙と鉛筆だった。
「紙も鉛筆もあったのか。なぜそれを先に言わない?……まあいい。助けを求める手紙を書くんだ。輸送用小型飛行機を、さっき見つけた」
 それを先に言ってよー、とサンの方がずっこけながらも、ほっと胸を撫で下ろした。大丈夫、すっかり通常運転だ。それから小型飛行機を受け取り、取甲板を画板にして救助の文言を考え始めた。紙は残り一枚だけ、真ん中にはもう歪な星型を描いてしまっている。その星の輪郭がぼやけるまで、しばらく一点を見つめていた。
 いや。やっぱやめた。サンは鉛筆を放ると、丸めるように小さく折りたたんで飛行機の収納部に入れる。そして星が止める間もなく収納部の蓋を閉じると、かちゃり、と施錠される音がした。錠をかけた飛行機は、目的地に着陸するまで開くことができない。何をやってるんだ、と咎める目つきの星に、サンは重要なことを話すようにゆっくりと解説し始めた。
「この宇宙で、遭難した人は僕たち以外にもきっといる」
「あぁそうだな。それがどうした」
「これは遭難した人の家族にも向けた手紙なのさ。この手紙が地球に届けば、自分たちは生きてきたよ、ここにいるよ、元気だよって伝えられる」
 星はいくらか目をぱちぱちさせて、またサンのいつもの発作が出た、と呆れるように肩をすくめた。
「優しいな、サンは」
「違うよ。君のおはなしでしょう?」
 きょとんとした星に、サンは柔らかく微笑んで続ける。
「前にきみは、命題が()()()()()って困っていたけれど。たくさんあるきみのおはなしの中で、僕がとりわけ気に入ってるおはなしがあるんだ。そのおはなしの、若い飛行士さんのまねだよ。覚えてるかな、星くん」
 星は瞳を閉じて思案を巡らせる。――宇宙で遭難した二人、小型輸送機、手紙。それから、一つ星の絵。頭の中に次々と思い浮かべると、今度は()()した。――未だ不安定な宇宙開発、地上の追跡から逸れた宇宙船、それに乗っている、地上に家族を遺したまま散った命たち。おれはその一例を、明確に()()()()()。見た覚えはないはずなのに、瞼の裏に鮮明に焼きついている。老人と、若い男の宇宙飛行士。壊れた宇宙船、もう助からないと知ったふたり。若い方が遺した、やさしい手紙。そう、この物語(せかい)の名は――、
「……『Ua-9-196212』か」
 無意識にも身震いしながら、星は両目を開いた。心配そうなサンの顔つきは、しかし一瞬にしてぱっと明るくなった。
 それから、小型飛行機の点検をする片手間に、ふたりはいくつかの会話を交えた。
「このはなしが、好きなのか」
「今の僕たち、そのおはなしの二人に似てるね?」
「いや、そうかもしれないが、そう思いたくはないな。あいつらの末路は――、」
「いいじゃない。結末も切なくてすきなんだ。それに、僕は君がいてくれれば、どんな最後になったっていい」
「また、そんなことを言う」
 やがて作業を終えると、星は念の為、甲板に世界一簡単な救難符号を打ち付ける。いよいよ、発射のスイッチが押された。飛行機は小さく燃え盛る炎を見事に噴出させる。推進力が描く放物線を見送ったふたりは、しばらくお暇になるであろうそれぞれの口から、小さく言葉を出し合った。
「僕の描いた星、誰か解読してくれるといいな」
「おれが打った符号の方が簡単だろう。それ以前に、地球人が拾ってくれるといいが」
 ――さよなら。あの物語(せかい)の二人は、宇宙の男たちは最期を別れの言葉で締め括って、永遠ともいえる眠りについていた。でも、おれたちは違う。星はサンが優しく繋いできた手を、力強く握り返した。
「絶対に、還るぞ」
 握り合う手と手に、熱が籠る。ふたりは安らかな顔で、色とりどりの光を宿した瞳を閉じた。
「おやすみ」

たよりに

✴︎参考文献✴︎
星新一「宇宙の男たち」-『宇宙のあいさつ』

たよりに

『二重連星掌編集』のふたりと、「ちいさな王子」の物語です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted