黎明のスターダスト プロローグ
第一話
一
この世界に――この地にまだくにというものもなかった頃の話から始めようか。
ある集落、緑に富んだ山々と田園に囲まれた肥沃な集落にも、この日も夜が訪れ始めていた。空は西の方に明るい日の色をぐずぐずと残しながら、その反対側から訪れる青と黒を混ぜたような色に染まっていく。住民たちは焚火を囲むのをお開きにして、満たされた腹を抱えてそれぞれの住処に寝床を設えた。
灯りの炎が消え、人々の笑い声が消え、全てが寝静まる夜。地が静かになると、今度は天の番だ。その空間の暗い色の一面に、大小さまざまのひかりが点を描いて瞬き始めた。色とりどりの星々は、見えなくなった人々を噂するように明滅を繰り返している。
だが、集落の隅、物見櫓の天辺にわずかな気配があった。灯りひとつない中で蠢くそれは、ひとりの青年であった。青年は櫓の柱にもたれかかって、ただずっと、夜の空を見つめていた。暗い色を湛える青年の瞳にも、星々が燐光のように揺らめいて小さな空をつくっていた。だが、数ある小さな星々には目もくれず、青年の視線の先にはただひとつ、この空で一番大きい星があった。
「月」と人々が呼んでいるその星を毎晩見上げるのが、物心ついた時からの青年の日課だ。白金色の肌から放たれる白銀色の光に目が慣れて、周りの星が見えなくなるくらいに、毎晩ずっと見ている。いや、星が見えなくなるのは、月がほんとうは白い穴で周りの小さな星々を吸い込んでいるからに違いない。そうやって月に対する思考を巡らせるのも、青年は好きだった。
しかし、青年は月をただ見ているだけではなかった。月をただじっと見つめていると、風の音に混じって雑音のような微かな音が耳に入ってくる。それに耳を傾けるうちに、音は言葉の形をとって、「声」となって聴こえてくるのだ。
――きこえる?青い星の君、愛おしいあなた。
――早くこちらへいらっしゃい。
唄うような女声は、甘い囁きで青年を手招きする。それに誘われて、青年は無意識にも腕を月の方に伸ばしていた。この夜の空に開いた大きな穴に、ほんとうに吸い込まれてしまいたい。私もそちらへ行きたいのだ。しかし、月はなおも甘言を囁くのみで、青年の手を引くことはない。当然だ。青年はゆっくりと腕を下ろして、やがて俯き顔で空から背を向けた。
「オオチ様、今日もおはなしですかな」
いつの間にか、櫓の真下で長老が青年を見上げていたようだった。優しく細められた目に、オオチと呼ばれた青年はゆっくりと首を横に振った。
「早く、星様たちの声もきこえると良いですねぇ」
青年はただ、何も言わずに微笑んだ。青年と長老はおやすみを言い合って、それぞれの棲家へ帰っていった。
二
青年にはたくさんの「声」が聴こえる。昨晩の月のこえだけではない。風の呻きはこれから雨が降ることを教えてくれて、草や稲の囁きはその成長具合を伝えてくれる。しかし、聴こえるのはいい知らせだけではない。集落の人間が食物を調達するために狩られた猪や鳥は、苦しみの断末を遺して生き絶える。青年がそうやって狩猟には手をつけなくなると、今度は人々の不満が耳に入ってくる。俺たちは妻や子供のために、命からがら気性の荒い動物たちと戦っているというのに。お前は集落の穀潰しだ。――そんな言葉が、青年と集落の人々とをさらに隔てていった。青年は様々なものの声を聴くことができる。集落の人々には周知のことであるが、それを気味悪がる者がほとんどであった。
「――様。オオチ様」
寝ぐらに篭って目を瞑り、ひたすら鳥たちの声を聴いていた青年は、やっと目を開いた。額には汗が滲み、残暑の風が吹き込んでくる。目の前には、穀と木の実を両手いっぱいに抱えた長老が、にこやかに立っていた。
「朝から何も食べんで、お腹すいたでしょ。穀を拵えてきましたよ」
青年の前に、色とりどりの粒が広げられた。その中から赤い実を取り上げて、口に含む。腹に棲む虫が喜びの唸り声を上げると、青年は口を動かしながら口角を上げた。腹の虫は言葉を持たず、何を言っているのかわからない。それが青年にはいつもおもしろかった。長老はそんな青年を見て、わざとらしい笑声を大きく発するだけだった。その心には、僅かな畏れがずっと燻ったままだ。青年はもうただ無心になるしかなく、木の実やら穀物やらを口に放り込んだ。
この長老のように、青年に積極的に近づいてくる者も少なからずいる。そういった人々は、青年がかみさまなる者――地を照らし、雨を降らせ、稲や木に実を生らす存在――に近しい者と信じていた。人々は青年に微笑みかけ、食べ物をくれて、話を聞いてくれる。しかし、その心の内にあるのは、隠しきれない青年への畏れであった。青年をかみさまそのものであるかのように崇め、大切に扱う。それが青年には鬱陶しく、そして少しだけ、淋しくもあった。かみさまなんてそんな、目に見えないものなど、この地にいるはずもないだろう。もしいるとすれば――。
青年は長老の後ろ、寝ぐらの入り口の方に目を向けた。日は青年の背の方へ傾き、青年が見ている方角には月が浮かび始めている。昨晩より僅かに満ちた、より広がったと言うべきか、白く輝く穴はこの夜も青年を惹きつけてくる。だが、麗しの声は音調だけが耳元で響いて、何を言っているのか聴こえない。きっと、遠すぎるのだ。青年はおもむろに立ち上がり、寝ぐらの内から覗くように入り口にもたれた。熱心ですねぇ、と呆れを漏らす長老を尻目に、青年は問いかけた。
「翁、この近くで一番高台になるのはどこだ?」
「高いところですかな。そりゃ、向こうのあの山でしょう」
長老が言い終わるのが早いか、青年の脚は速くなっていった。長老が慌てて追いかけると、袖を引いた。
「もう夜になりますよ。暗い山の道は危のうございます。明朝になると、月が反対にいくでしょう。あちら側の山も十分に高いですがね」
「夜になるから行くのだ。夜ではないと駄目なのだ」
青年は長老の腕を強く振り払った。そうだ。月は夜の星、夜に輝く穴だ。周りの小さい星々を従えて、一等瞬く夜のかみさま。俺のかみさまはこの世に月だけで、だから俺にだけ、その声を聴かせてくれるのだろう?俺も、早く会いたい。
月への渇望。自分を手招く月の声。それだけが、青年が暗い夜へと足を踏み入れるのを後押ししていた。
三
草木の生い茂る山道を、青年はひたすらに駆けていた。しかし、山道といっても獣道だ。幸いにも夜行性の獣の荒々しい声は聞こえず、穏やかな動物たちの寝息だけが耳に入ってくる。それでも無作法に生える枝に麻の服は破れ、足の皮膚を草花で擦っては被れてしまった。それに、青年の最近の食事といえば先程長老が恵んでくれたものばかりで、久々に感じた底なしの空腹感に足はもつれ、ついに根か石か、固いものにつまづいて転んでしまった。
青年はしばらく動けなかった。顔を地面につけたまま、気分を落ち着かせるように土の香りをゆっくりと吸い込む。それが意外にも芳しいことに、青年は気づいた。思えば、見て、触れて、聴いて、嗅いで、触れるもの――五感で感じ取ることのできるあらゆるものが、青年は好きだった。それが青年を傷つけるような畏れの声、人びとを襲う雨嵐や恐ろしい獣であったとしても、些細なことである。そのすべてが、この地にもたらされるのだから。けれども、月はそうではない。真白い月の肌が遠くに見えて、清廉な声は聴こえても、どうしたって腕が届かない。
そうだ、月だ。青年は土を握りしめたまま、身体を仰向けに回す。月は今夜も無事に浮かび、光は薄く漂う雲を払って霞ませていた。ははっ、と青年の口から泥混じりの笑声が飛び出し、瞳は霞んだ。――あぁ、届かなくてもやはり美しい。青年は月を見上げた姿勢で立ち上がり、また例によって白い穴に目を惹きつけられたまま、耳をじっと澄ませた。
――やっとこちらを見てくれた。
――さぁ手を伸ばして。早くこちらへいらっしゃい。
――届かないのね。もっと近くへ来て。
首を仰向けにしたまま、青年の歩は無意識にも進められた。月は思えば随分と大きくなっていた。月がこちらへ迎えに来てくれたのか、それとも青年が月に近づいたのか。青年には知る由もなかった。けれども、そのどちらでもよかった。月は手招きしてくれて、自分はそちらへ行きたい。それで十分だったのだ。
やがて、知らぬ間に青年は山の頂に達していた。もうこれ以上、お互いが近づくことは叶わない。ぼんやりとした意識の中に、月の声が響き渡る。灯に屯する羽虫のように、青年は巨大な顔の月の下で、行ったり来たり、回ってはふらついた。側から見れば酔狂の姿だが、青年の目にはもう、月しか映ってなかったのだ。
――そう、そのまま。引っ張ってあげる。さん、に、いち。
ついに青年の足はもつれて、視界がぐらついた。身体は地に引かれるようにして、柔らかい土に倒れ込む。もう土の冷たさも、木々の呟きも青年には届かない。それでも青年の顔は、穏やかな笑みに包まれていた。
やがて、一陣の風が吹き込んだ。瞬間、月が瞬きをしたことを、地上の誰もが見逃していた。そのまま素知らぬ顔で、月は何もない山の頂を優しく照らしている。
第二話
身体が浮いている。いや、これは沈んでいるのか。身体を動かしてみる。どうやら全身が何かに支えられているようで、ゆったりと寝返りを打った。そうして上を向いた青年の顔は何かに照らされて、瞼の裏は一気に明るくなる。
腫れぼったく重い双眸をやっと開くと、視界はまだぼやけていた。目に皺を寄せるようにぎゅっと瞑ったり、目を凝らすように絞ったりして、何度か瞬きをする。段々と意識がはっきりしてくると、目線の先には一面が白色の見慣れない空があった。その空には薄い雲も、照りつける太陽も、そして黒い夜を照らす星も、月もない。
いや、月が二つある。青年ははっとして、二つの月を見つめた。今見ている月たちは、眠る前に見たものよりも小さく、より近く、そしてより美しい。白金色の肌は彩度を増して、夕日に照らされる秋の実りのように黄金色に煌めいている。見慣れた方の月は一夜ごとに欠けては満ちる、満ちては欠けるを繰り返すものだったが、今に見ている方は一瞬だけ全て欠けて、ずっと丸く満ちている時間が長かった。何とも不思議な月だ。それとも、二つもあってこんなに輝いて満ちているのは、まだ開けたばかりの焦点が合っていないからだろうか。青年は目元を軽く擦って、また双子の月を見上げた。
途端、青年は上半身を飛び上がらせた。目の前に、一人の女性が現れたのだ。
そうしてやっと、青年は訪れたことのない部屋で触れたことのないくらいに柔らかい寝床に寝かされ、見たことのない女性に看病されていたという状況に置かれているのを順番に噛み砕いた。
改めて、女性の方にまじまじと視線を向ける。月だと思っていたものは、彼女の双眸だったのだ。月が欠けては満ち、満ちては欠けるのを繰り返していたのは、白銀色の睫毛が羽のように瞬いていたのだった。
「おはよう、ガイア。お目覚めね」
彼女は子守唄をうたうような調子で、静謐だけれども芯のある声を響かせた。青年は体をこわばらせたまま、頭の中に疑問を巡らせる。自分の名をガイア、と呼ばれたことよりも、今のこの不思議な状況よりも、何よりも驚いたことがひとつ。――彼女が今、発した声。地上から聴いた月のこえと同じだった。
「呼んでいたのは君か」
「ええ。やっと来てくれたのね」
彼女はただ広く白い部屋の中、青年が寝ているベッドの周りをゆっくりと歩いて回る。青年は妙に落ち着かなくて、貰ったコップ一杯の水面と、一定のペースで視界に入り込む彼女の歩行をちらちらと交互に見ていた。
「何をしている」
「私はあなたの周りを回っているの」
「それはわかる。回るのに、何の意味がある」
「習性かしら。私があなたの視界に入るとき、あなたの世界は夜になるのよ」
「それなら、君が夜を連れてくるというわけか」
「違うわ。私はあなたと一緒に夜に行くのよ」
どういうことだろうか。青年はコップを脇の卓に置いて、彼女に構わずベッドから抜け出した。櫓と同じように、この部屋にも景色を眺める高台があった。そこに出てみると、最初に涼しい夜風が青年の頭を優しく撫でて冷やした。手すりの柵に手を添えて、いつものように身を任せながら空を見上げると、青年は息をのんだ。
深い色の夜空、一面に瞬く星々。だが、そのひとつひとつが眩むほどに輝いている。いつも見ているものとは比べ物にならないくらいの満天の星空だ。
「綺麗でしょう?あなたがいつも見ている空とは比べ物にならないくらい」
心の内がまた、聴き慣れた甘い囁きとして出てきたのに、青年は驚いた。いつの間にやら、彼女が自分のそばに立って、柵に頬杖をつきながらこちらを見つめていた。青年は胸から勝手に熱く込み上げてくるのをぐっと堪えて、また上空に目線を移した。この空にも月がある。周りを取り巻く小さな星々を率いるように白金色の光を放つ大きな月の姿は、いつしか爺に見せて貰った鏡の装飾に似ていて、それ以上に美しい。――爺や、爺だけでなくむらの皆は俺のことを心配しているだろう。俺も半ば強引に、この見知らぬ地へ連れてこられた身だ。されどもどうしてももう少し、ここにいたいと思った。彼女を見る。ずっとこちらを覗き込んでいて、目が合うと柔らかく微笑んだ。彼女の声にいつも吸い寄せられていたように、今度は瞬きをするたび、二つの月の瞳に吸い込まれそうになる。しかし、すぐに新月になると、二つとも沈んでしまった。突然、彼女の全身が揺らぐと、糸が切れたように崩れ落ちたのだ。青年は咄嗟に受け止める。細い彼女の身体は体温が低く、微かに震えている。
「ごめんなさい。あんまり眩しいひかりには弱くて」
目を伏せながら冷や汗を滲ませる彼女を、青年は室内へと肩を貸しつつ導いた。だが、彼女はまっすぐ寝台にはいかなかった。ふらつく足取りで進んでいくのを追いかけていくと、反対側にもうひとつ、外を見ることのできる高台があった。彼女は手すりにぶつかるような形で受け止められると、その衝撃を味わうかのように真っすぐに立ち直す。夜風を受けて、白銀色の長髪がさらさらと揺らめいた。青年はゆっくり近づいていくと、彼女が見ている先に、また別の巨大な星が見えてきた。それはいつも見ている月や星々とはまた違っていた。妙に暗くて、それでも見たこともないほどに深く青い肌をもち、そこにいくつかの模様を浮かべている。その色は月に似ている部分もあれば、むらを取り囲んでいた山々にそっくりなところもあった。その上をまた、白や灰色の薄衣が纏わりついている。青年は今まで見た星の中で――こんなにも暗く浮かんでいるものが、星であればの話だが――一番大きく、興味深い星だった。それでいて、どこか懐かしささえ与えてくれる星だ。青年はもっと近くで見たくなって、外の青い星の景色へと駆け寄ろうとする。そこで彼女が身を翻すように振り向いた。
「だからね。私はあなたの、あの青い星が好き。地球。あの星でやっとあなたを見つけた。あなたはあの地球そのもの。来てくれてうれしい」
夜風の旋律。鈴虫の奏で。そのどれにも形容しがたく美しい彼女の甘い囀り。今度は青年の方が鼓動が跳ね上がったのを自覚して、熱い汗が噴き出した。青い星を背に、彼女の表情はなぜか逆光を受けたように暗く見える。だが、頬に薄い紅色が差し込み、瞬きは二つの月の色を取り戻しているのはわかった。ふと、強い風が一迅、彼女を連れ去らんとするように吹いた。だが、激しく揺れたのはまたしても長髪だけで、彼女は覚束なかった足が嘘のようにしっかりと立っている。彼女の全身を包んだ闇の中、浮かぶ三日月の笑みは、優しさも妖しさも両方持ち合わせていて、まるでほんとうに、愛おしい月のようだ――。
「私は月。あなたが見つめていた白い星そのもの。月の星人」
第三話
星人。それは星のひかりを生命エネルギー――いわゆる「魂」として宿している者のことをいうらしい。姿かたちは人類と一緒で、けれども光のエネルギーを利用して超常的な力を発揮することもできる。
青年は、自分が暮らしていた星が地球という名を持ち、さらに自らが地球の星人――ガイアであることを聞かされ、内心戸惑っていた。目の前にある、青く巨大な星。くっきりと映える青の美しさと、凹凸とまだら模様の激しい陸、薄い雲のベールを纏う星の姿に、自分がこの星で暮らしていたことでさえも実感が湧かない。ましてや、目の前の遥かにある地球からこちらへ引き上げられて、自分が地球そのものであると告げられても、爺がよく聞かせてくれた迷信の類いにしか思えなかった。
されど、そばにいる白銀色の女性。ディアナの正体が毎晩見ていた月そのものの存在であるということは、妙に納得しうる。ディアナが目前の地球をじっと見つめているのを横目で見るたび、毎晩、月へ抱いていた慕情のようなものを思い出さずにはいられなかった。
ふと、地球の隅から、暗い影が差し込み始めたのがわかった。ちょうど月が一晩ごとに欠ける様子と似ている。青年が眺めているうち、影の一部分は地球を喰らうようにどんどん広がっていった。
青年の思考の中にまで影が広がるように、疑問が沸々と湧き上がってくる。――地球に影ができる。満天の星空を思い浮かべてみる。星々は、色とりどりの色彩の光を持って瞬いている。だが、地球は自ら光を発しているようには見えない。
「俺の星は光を持っていないように見えるが」
「ひかりを持たない星もたくさんあるのよ。月だってそうだもの」
「いや、君は夜空で一番大きく光っているじゃないか」
青年が言うと、月の瞳に雲が群がるように、ディアナはふっと哀しげに笑った。
「星人の魂の本質って、星のひかりだとよく言われるわ。でも、ひかりを持たないものにだって、魂は宿るでしょう」
現に、地球上で発生した人びとも魂を持っている。ディアナはそう付け加える。だが、ガイアには初歩的なことでさえもまだ飲み込めなかった。
「そもそも、魂って何だ?」
「そうね。魂とは?魂の本質とは何か?それはね、意思とか想いとか、――こころ。そういう、目には見えないけれど一人ひとりが持っているものなのよ」
どれほど難しい顔をしていたのだろうか、ディアナは小さく声を上げて笑った。柔らかい眩しさに、ガイアは懊悩の糸が解れたような気がした。それから、ディアナは幼子にするように、ガイアの手を引き寄せて部屋へと連れ戻した。部屋には嗅いだことのない芳しい香りが漂い、ガイアの緊張はまた解されていく。卓の上には、メイドが気を利かせて淹れてくれたらしい茶が二つ分、それと細々とした菓子が並べてある。茶の色鮮やかさも、菓子の一つ一つも青年にとって初めて見るものだったが、落ち着く香りはどこか懐かしささえ与えてくれる。
ディアナは慣れた手つきで茶を一口啜ると、話を続けた。
「たとえば、私があなたを想って、地上のあなたを呼んでいたこと。それにあなたが応えてくれたこと。これはあなたへの想い、あなたと私がお互いに出会ってみたいという意思、こころが為せたわざなのよ」
ディアナの熱のこもった言葉に、ガイアは全身を震わせた。
「俺は毎晩、月の声を聴きたいと思っていた。声に引き寄せられたいと思っていた。それがこころということか」
ディアナは頷いた。
「人びとに心があるように、星にも想いが宿っている。星人として生まれたときからもっている、こころが」
彼女の視線は白金色に揺らめき、ガイアを射抜く。ガイアの内から熱いものがこみあげて溢れそうなのがわかる。これが、こころというものなのだろうか。
「あなたは、自分がどこで生まれたか覚えてる?」
ディアナは続けて問いかけた。メイドが新しい茶を淹れに行った時のことだ。ガイアは腕を組んで考える。そういえば、物心ついたときにはすでにオオチ「様」――むらの特異な子どもとして奉られ、月の声も聞こえていた。だが、物心つく前の記憶は曖昧だ。いつから神童として扱われ、いつから声が聞こえてきたのか。ガイアにとってあまりにも普遍的なことで、深く考えたことはなかった。
「幼少の記憶はあるが、生まれたときのことはさすがに覚えてないな。だが、皆そうではないか?幼少のことを語らうとなって、だいたいが一番古い記憶で、二足で立ち歩き始めたときだったと思うが」
ディアナは共感を示すように小刻みに頷いた。
「あなたの星は、とてもおもしろいの。私が地球を初めて見たとき、信じられないくらいたくさん雨が降っていた」
それから、思い出を奥から取り出すように、伏目がちの瞳を輝かせて言葉を続ける。
「雨は地にたまって、海になった。そうして、海の中にほんの小さな生き物が生まれた。生き物は大きくなって、地に上がって、その姿をどんどん変化させた」
ガイアの方は海を思い出していた。先ほど見た巨大な地球の、表面のほとんどを覆う深い青。それがきっと海なのだろう。海は果てしなく広い。それは地上で眺めたことがあるのでわかるが、まさか広大な海が、空から降り注ぐ雨の一粒の集約であるとは思いもしなかった。しかし、ディアナは信じられないほどおもしろい話を続ける。
「いっとうおもしろかったのは、竜が地上も空も駆け回っていた頃ね。竜が地球を支配していた時代があるなんて、まだ知らなかったでしょう?」
「竜……本当に?見たこともないが」
竜は空想上のものだという認識だ。どこかの地方で、神として祀られているということも耳にしたことがある。しかしまさか、地上に本当に竜がいたというのか。
「竜の支配は幾万年も続いた。でも、滅んでしまった。突然飛来した隕石――小さな星が降ってきてね」
ディアナが細めた瞳の隙間から金銀の光が漏れ出ているのをちらと見る。神とも崇められている竜が、降り注いだ星によって滅亡したという事実にぞっとする。俺があのまま地上にいたら、俺も、爺も、むらのみなもいつしか突然の星によって命が奪われるのだろうか。
暗くなったガイアの面持ちにディアナははっとして、新しい茶をお互いのカップに注ぐ。それから、つとめて明るい声を出して言った。
「あなたのこと、何度も呼んだのよ。海水の微生物のあなたも、竜のあなたも、まだ小さな猿だったときのあなたも。でも反応はすれど、こちらへくる方法がわからないみたいだった」
「はっ?」
ガイアは目を瞬かせた。
「信じられない。俺は微生物で、竜で、猿だったと?」
ディアナは真剣な面持ちで頷く。
「やがて、人類が生まれた。私たち星人みたいな姿かたちをした生き物が発生したの。しかも、自然に。――そうしてやっと、人類の姿を得たあなたは、呼びかけに答えてくれた」
身を乗り出すようにして、手を卓の上で組む。触れ合ってもないのに、彼女が手を添えてくれたようだ。暖かみのある色が戻った眼差しは、また微笑みをくれた。
「あなたはこちらへ来てくれた。地球に人類が発生したことで、あなたという地球に、こころが芽生えたからだと思うのね」
第四話
翌日。とはいえ、この世界は不思議なもので朝と夜の区別がなかった。ずっと空は暗く、巨大な白金色の月を中心にして星がその周りに散りばめられている。ずっと夜なのだ。
ガイアがこの地に来訪して、ディアナに様々な話を聴き、そうして彼女が切り上げて、おやすみを言う。それからしばらくして、彼女がまたおはようを言いに来る。外はまだ暗がりであったが、きっと地球でいう朝が来たのだろう。ガイアは素直に寝室から抜け出して身支度をすると、執事らしい男に食卓の間へと案内される。
ディアナの住居は実に広く豪奢だ。混じり気のない白で塗られた壁は神秘的な紋様で飾られ、天井に吊り下がる電飾には透き通った石が煌めいている。遠くまで長く続く純白の道は、しかし驚くことに住居内にあるものなのだ。ガイアが地球にいるときに暮らしていた、洞穴を掘って木や藁で雨風を凌ぐものとはまるで違っていた。
いつか住み慣れたとしても、案内がないと迷ってしまいそうだ。ディアナと朝食を囲みながら冗談めかして言うと、城内を案内してあげましょう、と彼女は得意げに笑った。なるほど、ここは城であったか。といっても、城というものは海を隔てた隣国に途轍もなく長いものがあると耳にしたことがあるのみで、実際に目にしたのは初だったが。
そういうわけで、ガイアとディアナは今でいう白鷺の城も、幾万も続く長い城も顔負けの城を散歩することになった。
「ここは図書館。たくさん本が置いてあるの。この世界のことも、地球自身のこともよく知れるかもね」
天井が果てしなく吹き抜けた大広間に図書館はあった。だが、ガイアは何せ「本」というものに触れるのは初めてだった。壁一面を埋め尽くす色とりどりの板の一つを手に取ってみる。ずっしりとした重みがあり、手触りの良い表面はなぜだか温かみがあった。板はどうやら開くことができるようで、その先には薄い生地が幾重にも重なっている。その生地の表面には、黒いしみのようなものが無数に、規則正しく整列している。どうやら「・」と「―」の羅列のようで、あるきまりに従っているようだが、どうしても詠めない。これは、いわゆる隣国で開発されたいう「文字」というものなのだろうか。文字があれば、自分の言ったことなどを残せるようだが、ガイアはまだ文字というものをよくわかっていなかった。またいつか、読み方をディアナに教えてもらえればいい。
そう思ってはっとして、ガイアは板を元の位置に戻すと、ディアナを探した。彼女は板を物色するように眺めていたが、ガイアが来ると静かに微笑んで図書館をあとにした。思えば、自分はどれほど本を眺めていたのだろうか。また夜になりやしないか。ガイアにはまだ、窓の外を見ても時刻の区別がつかなかった。
城内には実に様々な施設があり、いろいろな品が置いてある。食物を育てる畑、美術品を飾り立てる部屋、遺跡のような年代物が展示されている広間、外の景色がガラス張りで見える浴場、水を張った大海のような湖に飛び跳ねる噴水。
まさに文明を集約させたひとつの世界が広がり、ガイアにはまだ不慣れだった。巨大な白い画面が壁一面を覆う部屋に連れられ、妙にツルツルとした肌の機械人形が飲み物と菓子を、床を滑りながら運んでくる。ガイアは下を俯いたまま飲み物だけ受け取ると、勢いよく口に流し込んだ。だが、爽やかに弾ける音が飲み物から聞こえて、舌を刺激する。思いもよらない痛みに、ガイアは咽せてしまった。
「大丈夫?……ごめんなさい。ちょっと急ぎすぎたわね」
ディアナは近くにいたメイドに、映画は今度にするわ、と告げると、ガイアの背中を優しく摩り始めた。
「すまない。この城はびっくりすることだらけだな。目が回ってしまった」
もう一度、泡が無数に浮かぶ飲み物をあおる。口の中で泡が弾ける音を聞くのは慣れてしまえば面白かった。しばらく二人の間にささやかな沈黙が流れる。だが突然、それを破るように、室内の灯りがすべて消えた。ディアナが癒しを求めるような息遣いで深呼吸をひとつしたのが気配でわかった。ガイアは、彼女が光に弱いということを思い出していた。城内の灯りといえば、今でいう常夜灯ほどのほんのりとした明るさの程度だったが、それでも彼女も、少しずつ消耗していたのだろうか。二人の間に置かれたトレイの上で、飲み物を取る指先が触れ合う。お互いに一瞬戸惑ったが、ガイアは素知らぬふりをして、灯りひとつない真黒の天井を見つめていた。
やがて、黒い空間にぽつぽつと小さなひかりが灯り始めた。それは無規則に、無数に散らばっていく。色も大きさもまばらで、一筋の尾を引きながら彼方へと飛んでいくのもある。まさにガイアが地上で毎晩見ていた、そして昨晩二人きりで見た夜空と同じ光景だ。
二人はしばらく感嘆の声を漏らしながら見ていたが、ディアナはまたいつもの調子でガイアに問いかけた。
「ねぇ、あなたも夜が好き?」
「ああ。月が見えるから」
ちょうど、夜の面を縫って月が昇ってきた。月明かりに照らされたディアナの真白い顔は、赤みを取り戻していた。
「君こそ、星のひかりは大丈夫なのか」
「ええ。あまり見すぎると、昨日みたいになってしまうけれど。――本当に、少しだけなら平気なのよ。なのに、お父さまは――」
言いかけたところで、この部屋で起こったことがそのまま巻き戻るように、星のひかりはぽつぽつと消えていく。もとの一面の黒になると、また部屋の明かりがすべてともった。無機質な明かりに照らされたディアナの俯き顔は、長い髪に隠れて見えない。ガイアもまた言いあぐねていると、ディアナは握りしめていた拳を後ろ手に回して、つとめて明るい声で言った。
「行きましょう、ガイア。ごめんなさいね、最後にどうしても一緒に行きたいところがあって。ついてきてくれる?」
ガイアはああ、とだけ言って彼女についていく。
思えば、ガイアはディアナのことをまだあまりわかっていない。お父様、と消え入りそうな声で言っていたことから、父親はいるのだろうか。けれども、あまりいい関係ではないということか。この広すぎる城で、父親と二人だけ。どんなに心細いことだっただろう。ガイア自身もまた、むらの人々に崇められ、見えない壁をつくられ、夜な夜なひとりで月を眺めていた頃を思い出していた。
ディアナの手招きで入った部屋は、ひっそりと暗かった。しかし、暗い中で真っ青の光が所々目を引く。円柱状の柱が無数に立って連なっているのがわかると、それは一本ずつが水槽だった。青い光に照らされたそれらは、一つ一つが海の世界のようだった。近づいて見ると、大きさのまばらな魚たちが群れをなして軽やかに、自由に泳いでいる。青と黄の縞模様、紅玉のようにつぶらな大軍、白く細い指の間を撫でられるように滑る橙色、透明で丸っこい不思議な浮遊物。ガイアは摩訶不思議な生き物たちの虜になっていた。
「すべて、地球の所にもいる海洋生物よ。見たことがある?」
ガイアは首を横に振った。魚といえば、むらの青壮年たちが海から捕ってきてくれて、皿の上で死の靄を纏わせた瞳をこちらに向けてくるものしか見たことがなかったような気がする。生きた魚とは、こんなにも鮮やかで活き活きとしているとは。命を捕って食べる人類の傲慢さに、ガイアは初めて奥歯をぎりぎりと鳴らした。
目の前の水槽の中、指ほどの体長の魚が、口をぱくぱくさせて細かい微生物を食べている。それを見て、ガイアに新たな疑問が湧いた。
「俺は微生物で、竜で、猿だったと言ったな。だが、その記憶はない」
「そうね。一つは進化の問題ね」
進化?ガイアにはまだ知る由がない概念だった。何せ、科学者が進化論を唱えたのは、ガイアが地球を抜け出してから千五百年以上も後のことである。
「最初、地球は全て海だった。その中に、小さな生物が生まれた。陸が現れると、陸上で生きられる生物が生まれる。それは竜に進化した。そうして、やがて竜が滅ぶと、生き残った生物の中で頭脳の高い生き物がより多く生き残る」
ディアナは静かに語り続ける。信じられない話ばかりなのに、妙に耳にしたことがあるような懐かしさを感じてしまうのはなぜだろうか。透明なガラスに、疑問符だらけの顔が写り込む。
「そうやって、頭のいい猿が増えて、進化して、人類になったのでした」
寝る前の読み聞かせをする母親のように、ディアナは手をひらひらさせた。ガイアは眉間に皺を寄せたまま、続きを待って眠れない幼子のような表情になる。
「俺たちは頭のいい猿だと?」
「そうなるわね?まぁ、だからこそ。地球の意思や想い、こころを受け止めるほどの肉体と頭脳を持つ人類になれたのよ。それまでに、ある程度の時間はかかったけれど」
「一体どのくらいかかった?」
「そうね。……ざっと、四十六億年くらいかしら?――何、驚いた顔しているの。その間、あなたは地球に生まれたいろんな生き物に渡って、生き延びてきたのよ」
それこそ凄いことじゃない。ディアナは柱の間を縫うように、身を軽やかに回しながら無邪気に笑う。ガイアはぎこちない指を、水槽に添えてみる。食い意地の張っているらしい魚が、自分と同じくらいの大きさの指に齧り付こうと、懸命に口を動かしている。それでも、皺のよった小さな唇はガラスを滑るだけだった。
それから、ガイアはどうしても気になっていた疑問をもう一つ投げかけた。
「なぜ、地球のことにそんなに詳しいんだ?」
「だって――、だって、ずっと見てたもの」
「四十うん億年、途方もない年月を?」
「地球はおもしろくて、目が離せない。あなたのことを記録すると止まらないのよ」
おもしろい。ガイアはなぜか、言葉をするりと飲み込めなかった。
「だから、わからないことは何でも聞いてね。私は自称・地球のエキスパートだから」
――なんだ、ディアナにとって俺はただの興味深い観察対象ってことだ。そう思うと、ガイアの中の何かが萎んだ。ディアナの方は楽しげな口調で話しながら、白銀の瞳にまた、哀しみの色を湛えさせていた。
第五話
そこに、ひたひた、ひたひた、という音が聞こえてきたのは、水槽を順番に見ていって半分くらいになったときだった。水滴が歩いているような音に、ガイアは周囲を見まわし、ディアナは焦った調子で入り口とは間反対の先にあるドアの一つを開けた。
そこには、子どもが立っていた。黒い髪、黒い服を着ている細身の子ども。しかし、その全身が濡れそぼっていた。肌に張りついて乱れる前髪の隙間から、橙色と緑色を重ねたような色の光が微かに覗き込んでいる。どうやらそれは双眸らしかったが、深く澱んでいた。その視線に責め立てられている心地がして、ガイアは目を逸らす。
ディアナは子どもの肩に手を添え、子どもの目線をまっすぐ見るように屈む。指先がわずかに震えていた。
「ポルックス。どうして」
「……ガラスを割って出てきたの」
「だめじゃない。お父さまに見つかったらどうするの」
「いいの。兄ぃにに会えるなら」
不思議な会話だ。ガイアは横耳を挟みながら聞いていた。このいたいけな子どもは、――ポルックスはガラスにでも閉じ込められていたのか?それを割って抜け出した。兄に会うために。でもそれを、ディアナの父は許さない。ディアナの父は子どもを閉じこめるような者だ。会ったこともないのに、不信感がどんどん募ってゆく。ディアナも、父の行動を咎めはしないのだろうか――?
突然、ディアナが倒れた。ガイアは糸が切れたように慌てて駆け寄る。彼女の白い肌はより蒼白さが増していて、今にも透明になってしまいそうだ。白銀の睫毛が伏せられ、冷や汗をかいている。子どもはその場にうずくまって、ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟いたのが聞こえた。
「ディアナに何をした?」
「やめて、ガイア。私が悪いの」
「そうだ。おまえには一等級は強すぎる」
地を震わせるように、身体の芯に響く声が部屋中をこだました。子どもは反射的に立ち上がり、踵を返して逃げようとする。それより素早く、大の男が二人立ち塞がった。筋骨隆々の方が転んだ子どもの腰を掴み、持ち上げる。細い方が顔をぞんざいに掴む。ぐしょ濡れの顔が、涙でいっぱいになっていた。
「やめて。やめなさい」
ディアナが息も絶えそうな声で男たちを睨みつけた。白金色のひかりは鋭く、男たちは渋々といった様子で子どもを地に下ろした。だが、襟首を掴む手は離さなかった。
「いい子だ、ディアナ。疲れたろう。今日はもうおやすみよ」
地響の声。しかし、今度は妙に軽く、優しい。次の瞬間、ガイアは飛びのいた。二人の間に、いつの間にか大男がディアナの肩を抱くようにして立っていた。甘言を囁く妖蛇のごとく、男はディアナに取りついている。
「ごめんなさい、お父さま」
今までに聴いたことのない、ディアナの冷たく抑揚のない声。ガイアは血の気が引くのを感じた。これが、この大男がディアナの父親か。想像を絶する恐ろしさだ。ディアナと同じ白銀の長髪には白い毛が所々混じり、豪奢な服装は得体の知れなさを増調させている。背を向けるような形で顔を窺い知ることができなかったが、出たちだけで並々ならぬものを感じさせる。
「でも。ポルックスは許してあげて」
ディアナの声にわずかに芯が灯る。ガイアの固まった身体がようやく動き出すと、一直線にポルックスの元へ駆け寄った。護衛らしい二人のちぐはぐな大男に槍の切先を向けられながら、ガイアはポルックスの両手を取って顔を覗き込む。お互いの瞳がぶつかる。ガイアは息をのんだ。澱んでいたと思ったポルックスの瞳は、近くで見ると橙色と緑色の煌めきが奥行きまで続いて、うつくしい。吸い込まれそうで、思わず見惚れていた。
だが、ガイアの手に何かが入り込む。そっと覗き込むと、それはポルックスの瞳の色と似た、不思議な色合いの石だった。両手が影になると、自分から白い光を発する。
ガイアは改めてポルックスの瞳を見た。橙と緑の斑目は、何かをすがっている。
「これ。この石を、兄さんに渡せばいい。そうだな?」
ポルックスが答えるのを待たずに、二人は引き離された。細身男にポルックスは取り押さえられ、筋肉男にガイアは引っ張られる。ポルックスは涙を流しながらも、大人しく奥の方へと連れて行かれる。もう、ガイアもディアナの方にも目を向けることはなかった。それでも、最後に目配せした一瞬で、ガイアはその答えを理解していた。
「お前は誰だ」
またしても、地を震わせる重低音。その次の瞬間には、ガイアは宙を舞っていた。あまりにも突然のことで、しかも放り投げられたような形になったので、ガイアは柱に全身をぶつけて、勢いよく顔から地に落ちた。ガイア、と悲痛で愛おしい声に撫でられて、見上げると目前にディアナの顔があった。彼女の顔はいまだに透明に近い白色で、瞳は潤んでいる。安心させようと笑う暇もなく、口元に生暖かい液体が流れた。塩気と苦味が襲ってくる。
甲高い靴音と、重々しい衣擦れの音。黒く艶のある切先が目前に近づく。どうやら父親の靴らしい。それで踏みつけんと、品定めをするかのように足を揺すっている。
ガイアは痛みの残る顔を上げて、父親の顔を見ようとつとめた。しかし、今度は遥か高く、逆行のせいで見えない。それでも、なぜか眉間に皺を寄せたのはわかった。
「こやつ、光がない」
「そう、そうよ。話していたでしょう。彼が地球の星人。ガイアよ」
足の振動が止まる。途端、父親は巨大な身を屈めて、ガイアの顔を注視した。ガイアの方もやっと、彼の顔を捉えることができた。
皺が所々に刻まれた白灰色の肌、鷲のような鼻立ち。いつしか風の噂で聞いた、異国の地に住む人々のはなしからイメージしていたような、影が深くできる顔た。そしてなんといっても、やはり瞳に目が行く。黒い目だ。星一つない夜空のようで、吸い込まれるのではなく――強い力で引っ張られそうになる。声と同じく重々しい色だ。
「お前、先の餓鬼の瞳を見てどうだった」
低い唸り声。なぜか声音を潜めるようにしているためか、がらがらと皺がれて聞こえる。ガイアは答えに迷った。間違えれば、突き飛ばされてしまうかもしれない。ただの悪い妄想だったが、確信に近いような気がした。
「苦しくはなかったか。強くはなかったか」
こちらを気遣うような言葉だが、慈しみのかけらもない。むしろ脅されているような心地だ。ガイアはディアナをちらと見る。彼女もまた、彼をまっすぐ見据えていたが、いつになく複雑な表情を浮かべている。ディアナは、ポルックスの瞳をずっと見ていると、苦しくなっていた。彼女はひかりに弱いということをまた思いだす。でも、俺は――
「……強い眼差しだったとは思う、吸い込まれそうなくらい。でも、苦しくはならなかった」
ガイアは一つ一つ、言葉を選ぶようにして答えた。蚊の鳴くような声だった。しかし、暫しの沈黙の後、父親はふっと笑った。小さな嘲笑でさえも、重々しい空気を震わせるようだった。
「お前に仕事をやる」
黎明のスターダスト プロローグ