蝶を狩る
「命は助かった。けれど――俺は以前のあいつに会ったことも、見たこともないが、これだけは言える。あいつは前のキタルファとは、同一ではないよ」
弟の怪我を治してくれた医者の、淡々とした言葉が今でもシェアトの脳裏から離れない。ペルセウスから紹介された医者、アスクレピオスの腕は確かに凄まじいものであった。何せ弟は、頭と身体を真っ二つにされて、首から上だけが残された状態だったからだ。その生首に新しく生成された胴体を繋ぎ合わせ、一週間の眠りを経て見事に目覚めさせた技は、奇跡としか言いようがなかった。
けれども。アスクレピオスの言った通り、目覚めた弟、キタルファは、大怪我をする前の健康で、元気な彼とはまるで別人のようになってしまっていた。一族の中でも飛び抜けて美しい容姿と、それに伴って現れる独特の雰囲気。これは現在でも変わらない。だが、性格や気性といった、目には見えづらい変化が、弟に現れたようにシェアトには感じられた。以前のキタルファは、目に見える美しさとは裏腹に、気性の激しさをも持ちあわせていた。一族の風習である狩猟の時にも、残忍さを感じられる方法で獲物を狩り、食事の時にも、周囲の大人たちからマナーを度々注意されていた。言葉遣いも荒く、普段の態度も決して褒められるようなものではなかった。それでも、狩りや戦いがあまり得意ではなかったシェアトにとって、キタルファの美しさと強さは、一種の憧れでもあった。
だが、その美しさも強さも、今では形を潜めている。首を切断されたことが神経系に影響を及ぼしている、というアスクレピオスの推定は正しく、キタルファの意思や感情、痛覚は鈍くなってしまっているように思えた。常に一点を見つめ続けているかと思えば、急に立ち上がって走り出し、壁や柱などのわかりやすい障害物に足を取られて転んでしまう。それで怪我をしても、髪が乱れてしまっても、まるで気にすることもなく、再び座り込んだままぼうっとしてしまう。この突拍子もない行動を一日中繰り返しているキタルファには、自分以外にも見守ってくれる人が必要だとシェアトは考え、先月からキタルファをスコラに通わせていた。
シェアトが今いるプトレマイオス邸のテラスから、スコラの教室の様子が伺えることがある。なぜか決まって窓際の席に座るキタルファの様子を覗くのが、いつの間にかシェアトの日課になっていた。
「キタルファ、毎日頑張っているな」
ちょうど通りかかったペルセウスが、シェアトに話しかけた。彼こそがシェアトとキタルファをメデューサから救い出した張本人であり、今でも二人兄弟のことを度々気にかけてくれていた。
「そうですね。……でも、ちっとも楽しそうじゃない。スコラに通うのは、我々クティノスの、憧れの一つなんです。だから、少しは楽しんでくれるかなと思ったのですが……」
「そりゃあ、スコラに入れたのはお前で、あいつ自身の意志じゃあないからだろう」
雷に打たれたような衝撃が、シェアトの全身に走った。今のキタルファにも、自分の意志がある……?シェアトが死ぬほど信じたくても、信じられないような話だ。呆然としているシェアトに脇目も振らず、ペルセウスは続ける。
「お前は昔の、キタルファを取り戻したいと思ってる。でも、……あっ、キタルファ!」
急に大声を上げたペルセウスに驚いて、シェアトはその目線を追った。その先には、窓から身を乗り出して、そのまま落ちてしまいそうなキタルファの姿があった。教室内はパニックになった生徒たちと、キタルファを戻そうと引っ張っている教授とで騒然としている。その教授たちの必死の静止にも、キタルファはものすごい力で反発して、今にも教授ごと落下してしまいそうだった。咄嗟の判断で、シェアトはキタルファと教授たちを助けようと、テラスから身を乗り出した。だが---キタルファは何かに向かって懸命に腕を伸ばしていることに、彼は気がついた。
手の周りを、ひらひらと軽やかに飛んでいるのは、青く綺麗な羽を持ったアゲハ蝶であった。その蝶をどこかで見たことがあるような気がして、シェアトが下に降りるのを躊躇ってしまったその時。ついに教授の力に打ち勝ったキタルファは、空気の抵抗を殆ど感じさせない軽い力で、真っ直ぐに下の堀に落ちていった。堀に溜まった水が彼を受け止め、飛沫は水柱を作り出した。シェアトはテラスから降り、斜面を転げ回るようにしてキタルファの元へ駆けて行った。全身を水に浮かべたキタルファは、空の一点をいつもと同様に見つめていたが、やがて何かを思い出したように自分の手を見た。そして、シェアトにもそれを見せてきた。手には、キタルファの胸に押しつけられて潰されながらも、まだ日を受けて輝いている青い蝶がいた。その刹那、シェアトはすっかり昔のことを思い出していた。
まだ自分達が幼かった頃、子どもたちの間では狩りの真似事として昆虫採集が流行していた。そして、採取が難しいことで人気だったのが、速く飛ぶ青い蝶だ。その蝶を、まだ走ることもままならなかったキタルファが、いともたやすく捕まえたのだ。この栄誉は子どもの羨望だけでなく、大人たちの賞賛も集め、シェアトがキタルファに最初の誇りを抱くきっかけともなった。シェアトはその蝶を標本にして、家中で一番高さのある場所に飾ったーーー
幼少期のことが走馬灯のように脳裏を過ぎ去っていった時、キタルファに胸のあたりを押さえられて、シェアトは思わず水に落ちてしまった。水を吸い上げた体を漸く起こして胸元を見ると、白い軍服に青と銀色に光る鱗粉がすっかりこびりついていた。特徴的な鱗粉を見て、この蝶はやはり、あの時の青い蝶だったとシェアトは確信した。きらきらした粉と一緒に、薄い羽が水面に落ちると、シェアトは慌てて羽だけでも大事そうに掬い上げた。その様子に、頭からすっかり濡れそぼったキタルファが、ふっと小さな笑みを漏らしたような気がして、シェアトはさっと彼の顔を見た。後からゆっくりと追いかけてきたペルセウスは、キタルファから引っ張り上げると、シェアトにも手を差し出して言った。
「ほら、な。キタルファは変わっちまったって、その考えが間違ってるとしたら?」
キタルファにも、変わらない部分がある。それが偶然だったとしても、自分の主観で都合よく捉えられたことだったとしても、それを信じてもいいのかもしれない。
シェアトは、一枚だけ残された蝶の羽を日に透かして、キタルファにもそれを見せてみた。薄い羽は空の青を吸い込んで、より一層美しく見えた。
蝶を狩る