紙上で踊る

前記 なもなきせかい

古き友がくれた(から)の世界にて
余生を君と共に過ごさん

――黄金(きん)の時代。

灼かな陽と大地とは君がため
間にまに流るる風は暖か


花も麦も育てるのが好きな君だ
豊潤な大地を気に入ってくれた

ささやかに風が吹き 
静かな雨は小川のせせらぎ

同胞に会うのが好きな君だ
たくさんの客を呼んだ

ささやかに交わされる会話
時折きこえる笑声のさざめき


平穏の時代(とき)
だが君はこれもひと瞬間(とき)と明日を危ぶむ

ここには文明も 明文もない
だがそれこそまさに 理想に見た憧憬

俺と君は文に 文字に 紙に書かれたものに縛られてきた
だがそのままでは 紙上に踊らされるだけではないか

法という条文から解放された俺たちは
せめてこの世界では 自由に生きようではないか

俺はこの世界に名をつけない
ただ君にも見せぬ記録として ここに書きつけるのみ


――白銀(ぎん)の時代。

眩い陽が花を散らせ
冷たい雪が落葉を枯らす


平穏は何故 無慈悲にもひとときか?
君の予言の通りになった

四季は美しいが 移ろいは安寧ではない
客人は農耕を始めた 土地の争いも絶えない

それでも俺は この世界を愛したい
それは君と送る この世界の日々を愛しているから

色とりどりの花に囲まれ 鳥とうたう君
照りつける陽のもと 小川に足を伸ばす君

鮮やかな風の香り 揺れる稲を刈る君
天から降り注ぐ白を 暖炉のもとで眺める君

そうしてまた花は咲き 陽は照り 薫風が吹き 吹雪が来る
美しきものが好きな君だ 世界に芽生えるもの全てを気に入ってくれた

時が流れ、四季が巡るのも悪くないと思えた


――青銅(どう)の時代。

美しき時がひととせ流れても
それでも待たぬあの鬨のこえ


我が天秤は裁き量るもの
水神の水瓶は酒を生むもの

君の剣は罪を抑止するもの
決して血では染まらない

私の世界では当然のことだ 誓いを立てるまでもない
しかし起こされてしまったのだ もっとも忌むべき「戦争」が

幾度の戦争で君と私は離されてきた
せめてこの世界の今生ではと その祈りも虚しい

花も鳥も血に染まり 川には死人が流される
風は過ぎゆく諍いの中に 月はそれをただ眺むのみ

そうして天から降るものは 雪か遺灰か?
寒さに耐え眠る君 遠くから今日も鬨のこえがする

私は征かなければならない 君と私の世の永遠の平和のために


――鋼鉄(てつ)の時代。

さよならの間もなく君をおいていく
終に潰えるこの世の果てに


身体が重い 寝床から起き上がれない
世界が変わりゆく 私も変容した

私に代わって君が征く 
戦禍 陰謀 欲に溢れてしまったこの世へ

君は正義を説き続ける しかし誰も耳を貸さない
国が生まれ滅び 生が生まれ死に ただ花だけは枯れたまま

私も世界も 幾年も生きた
生きすぎたのだ 我が身がふるのはその代償か

私はこの世界とともに、命を果てるのだ


――髪を切ったのか。綺麗な花飾りだ。泣かないでくれ。私は幸せだった。私と君だけの世界で、安らかに終わりを迎えられるのだ。
どうか、花咲く春を浴びるように、笑っていておくれ――

第一話 踊りて進まぬもの

 ここは神々が住まう処の会議室。この(へや)に、あらゆる世界中の無数の神が、着々と集合してくる。今日は全員参加が義務の、恐ろしく重要な会議の日だった。会を目前にして粛々と目を閉じる者、緊張で目を見開いている者、まるで会議などどうでもいいという風に気楽に談笑する者と、神々の様子は実に多岐に渡っていた。
 そのとき。永遠に高く突き抜ける天井の、その頂上の一点に、眩い光が現れた。騒がしい室が、一瞬にして静まり返る。光は線となると――ある者には美しい女神に、ある者には逞しい男神に、またある者には鳥に、龍に、一輪の花に――見る者によって異なって見える姿を形づくった。
 この者こそが、神の頂上に立つ者、全ての神々からも"カミ"と呼ばれ讃えられている者であった。
『議長は』
 静寂に包まれる室に、一筋の声が真上から降りてくる。――この声も聞く者によって違って聴こえるのだが――凛とした声は辺り一面に響いた。円形劇場型の室を取り囲んで座る神々は、その美しく恐ろしい声に撫でられたかのように、背筋を伸ばしていく。だが、恐れて黙っているだけではいけない。カミの仰られたことには、応えなければ。正義感に奮い立たされて、一柱の女神が背筋を伸ばしたまま立ち上がる。神々の視線を一手に引き寄せた彼女は、切り揃えた髪に似合う羽飾りと裾の短いドレスを揺らして、室の最下にある席へと静かに降りていった。
「私が、今回の議長をお務めします」
 途端に、最下の席を取り囲むようにして並ぶ無数の円形の議席から、拍手の雨がぽつりぽつりと降り注いだ。議長が名乗り出て、その神が進行するのに異議がない場合は拍手をする。これもカミが取り入れた規則の一つだ。もっとも、カミの前で反対する勇気も理由も誰も持ち合わせていないため、半ば形式ばったものになっていたが。
 こうして、議長を務めることになった女神は、未だに続く喝采の中、遥か最上に鎮座しているカミの姿を目にとめた。一番下の位置にいても、その姿は憎らしいほどにはっきりと見える。今はもういない、愛おしいあなたの形をとって。
 やがて拍手の嵐は収まり、再び静寂が訪れた。議長の女神は大きく反らした首を戻すと、深々と一礼をしてから、軽く咳払いをした。
「今回の議題は、『二大巨頭である世界のうち、何方(どちら)を消滅させるか』ということです」
 女神が口を開くが速いか、その背後にホログラムのような、真っ白い光の粒の集合体が現れた。女神が視線を再びちらと上に向けると、カミが頬杖をつきながら、微かに人差し指を動かしているのが見える。これもカミが気まぐれで取り入れたものであった。議長や議席の神々が考えていることをカミが先読みして、その意見を発するよりも早くに、光の虚像として映し出してしまうのだ。今回も光の粒が自在な動きを見せると、室のあちこちからおぉ、と感嘆が漏れた。女神はそれに構わずに、より大きい声で進行を続けた。
「――虚無の空間に時間を流し込み、私達が何かを生み出すことで存在させる。こうしてできたものには、『世界』と名付けられます。この定義に沿えば――私たちが正に今存在しているこの天上世界も、その一つと言えるでしょう」
 光の粒は色を持つと、空の箱のようなものをかたち作る。その箱に、一秒ずつ生まれては消えていく粒子が流れ込み、一粒一粒はあらゆる物体の小さな模型になっていった。そうしていつの間にか、小さい円形会議室になって、室には数多の神々のミニチュア人形のようなかたちをした光粒子が集合した。神たちは女神の周りで遊ぶ光に目を奪われ、身を乗り出してその光のジオラマに手を伸ばす。だが、前方の席に座る神の、その指先が触れようとしたとき、ジオラマは弾けてしまった。女神が口を開いたのだ。
「世界というものは無数に存在します。それは、カミの御意志によって、我々の一部に世界を創造する権利が与えられるからです」
 今度は光の粒が一ヶ所に集中したかと思うと、無数に分裂していった。そして、それぞれが小さな箱の形になると、室を目にも止まらぬ速さで回り出す。議席の神々の数名は、厳粛な会議の途中であることも忘れて、形式ばった先程の喝采よりも大きく手を叩いた。最下から見上げる女神の目にだけは、北極星の周りを星々が回っている空のような美しい景色が見えて、しばらく気を緩めてしまった。だが、やがて光速の箱が動きを止めると、女神はやっと我に帰る。小箱が止まった場所をじっくり観察すると、どうやら箱は、世界を創造した経歴のある神々のもとに飛ばされたらしい。優越感に浸る表情を見せる何名かを尻目に、女神はまた議長としての態勢を整えた。
「私が先程申し上げた、我々がいるこの場所。この世界は、カミの御力によって、絶対的であり恒久に不滅の場であります。それは、もう皆様がご周知のことでしょう。ですが、選ばれた者が創造した世界は、そうではありません。それらの世界はあまりに脆く、消滅してしまう可能性が――」
「きゃあ」
 突然の悲鳴に、女神の言葉はまたしても遮られた。神のひとはしらが、光の小箱に手を伸ばしかけたところで、その箱が勢いよく弾けてしまったのだ。触発されたかのように、各所で箱が弾けていく。室は最高潮の喧騒に包まれ、せっかく熱を帯び始めた女神の弁ももはや意味をなさなかった。騒ぎを止めようと、女神を中心とする幾柱かの神は声を荒げたが、小さく爆ぜる光に、驚嘆する神々は止まらない。女神はとうとう、俯いて目を伏せる。心の中では、自分の進行の手際の悪さと、カミがずっと弄んでいる、美しい光粒子たちとを責めはじめていた。
 諦念の中に閉じかけた女神の目がまばたいた、その刹那。室を飲み込んだ熱狂の渦は、突然、何の脈絡もなしにさっと消え去った。後に残ったのは、しいんと張り詰めた空気と、自らの席に粛々と座る神々の姿。その顔はまるで――騒ぎの当事者とみえる神に至っても――先程の喧騒の嵐など、歯牙にも掛けないといった様相を見せていた。室の最下層、皆から注目を浴びるど真ん中に立つ女神だけが、この異様な空気の不自然さに気がついていた。女神は彼方の上空を、今度はゆっくりと見つめた。カミは相変わらず、鍵盤を叩くように指先を動かしている。けれども、底知れない色彩を持つ瞳が、その時だけわずかに爛々と光った気がした。女神の胸には、冷たいものがすっと吹き抜けていった。
「どうした、続けなさい」
 声がした方に顔を向ける。初老の姿をしたひとはしらの神が、怪訝そうな表情で女神を見ていた。その傍には、光粒子の小箱。女神はまた、室の全体をさっと見通すと、小箱も元通りの形になって、元の場所に戻ったことを理解した。光粒子のホログラムの動きも、最初よりは落ち着いているように見えた。沈黙の視線を一身に浴びた女神の口もまた、粛々と開かずにはいられなかった。
「――主な消滅の原因は、二つあります。一つは、『膨張』によって巨大化した世界が小さな世界を取り込むこと。そしてもう一つは、何者かによって創造主である神が殺されていること。一つ目の『膨張』、こちらはご理解頂き易いと思います。エネルギーを持つ世界同士が触れ合うことで、より大きい力を持つ世界が小さい方を取り込む。エネルギーが爆発することがないよう、世界自身がそれぞれ均衡を保つように働きかけているのです」
 光粒子はまた球形になって、それぞれがシャボン玉のように膨れ上がっていく。神々の注目の中で、ある光の球同士がぶつかったとき、先に大きくなった方が小さな方を吸い込んだ。隣同士に着席していたふたはしらの神は、目を見開きながら顔を見合わせる。光粒子は続けて、手のひらくらいの大きさの球に縮んだかと思うと、小さな駒のような、ミニチュア人形のようなシルエットを形作っては球形に戻って、を繰り返していった。光粒子の興味深い動きに各所から囁きと小さな笑い声が漏れたが、それでも軌道に乗り始めた女神の弁は止まることはなかった。
「二つ目の創造主殺害、こちらも大きな問題ですね。創造された世界と創造主である神は、『アヴァタール』という魂の契約を結びます。この契約によって、神そのものが世界、世界そのものが神となる。つまり、ある一つの世界が消滅してしまうと、それを創った神も命を落とすというわけです」
「その逆も然りであろう?まぁ、あり得んことだが、私が命を落とせば私の世界も終わる」
「ご名答です。この仕組みを利用して、何者かがアヴァタールとなった神の命を奪っている事件が、近頃相次いでいます。そこで、本題に入ります――」
 女神はここで、呼吸を一つ置いた。それを見計らってか、上空の方から一筋の光線が放たれた。細く光る線は、各所に散らばる光粒子のミニチュアの影を貫いていく。光粒子は小さく弾けて不可視の粒になると、上へ、上へとのぼっていく。神々は光速の線が引き起こす様を呆然と目で追っていた。目線の先で、光粒子は二つの同じくらい巨大な塊になった。その光を背に受けるカミの顔が影になって揺らめく。最下にただひとはしら立っている女神だけが、顔を青くしていた。――まさか、貴方が?すべての祖である貴方が、私たちの命を奪うなんて――。
『鬱陶しかったのだろう。もう余計な解説は必要ない。司会者、会を進めるといい』
「カミの言う通りだ。どうした?様子が変だ」
 女神ははっとした。いつの間にか腰が抜けて、議席台に寄りかかっていたのに気がついた。慌てて背筋を真っ直ぐに戻して、ドレスの裾と髪を整える仕草をすると、咳を一つ払いながら誤魔化すように笑った。普段から厳粛な女神の、意外にも間の抜けた動きに、各所から小さな笑い声や野次が漏れ出す。女神は自分の頬が赤くなっていくのを感じながら、――議題の解説をしてくれていたカミへ向けた、勘違いの恥ずかしさ。愛するあなたの姿をした者に、疑いの目を一瞬でも向けてしまった後悔。その一瞬で感じたカミへの底抜けの恐怖心。――様々な感情を心中に渦巻かせた。そうしてもう一度、上空で悠々と鎮座しているカミを見つめた。あなたの姿をした存在が、目を細めて口角を上げている。違うわ。あなたはそんな笑い方をしない。女神は敢えて目線を冷ややかに外すと、静かになった室に手元の資料の紙が擦れる音を響かせた。もう上の方は見まいと、心に誓った。

 会議はやっと、本題に入っていく。

「数多存在する世界の中に、いわゆる『二大巨頭』があります。その二つは、ほぼ同じ規模の強大なエネルギーを持ち、今でも膨張し続けては小さな世界を食いつぶしています。このままでは、犠牲者が増えるばかり。とりわけアヴァタールの方々は、巨大な世界の魔の手が忍び寄るのではないかと恐怖に怯えています。そこに、メティス様より案が提示されました。『その巨大世界のどちらかを消滅させればよい』と。このご提案こそ、今回の議の主題です。二つの巨大世界のうち、どちらを消滅させるか。議決は多数決で執り行います」
「成る程。巨大化した世界が二つある、という話は聞いていたが。一つを消してしまえば、エネルギーは大幅に削られる」
「さすれば、犠牲者も一名で済むな」
「でも、それらの世界は誰がつくりだしたものか、が問題になってくるわね。誰かはわかっているの?」
「この二つの世界のうち一つはわかっています。『大陽世界』と呼ばれるもので、アヴァタールはアストライオスです」
 アストライオスの名前に、室がざわめき出した。幾千年も昔、兄のプトレマイオスによって我々の世界から追放された神。光と星を司るアストライオスの力は当時から絶大なものであったが、彼が我々の預かり知らぬうちに、いつの間にか強大な世界を築き上げていたとは。その事実に、神々の多くが身震いした。女神はざわめきが囁きのような私語になるのを黙したまま待って、また言葉を続けた。
「もう一つは『太陽世界』と呼ばれる世界。こちらはアヴァタールが不明となっています。太陽世界は、大陽世界の後に創造されました。そして、世界の形状から自然法則、生み出された生物、流れる時間まで、何から何まで大陽世界に似通っています。まるで、模倣したかのように」
「なんと……模倣とな?」
「同じような世界が二つもあって、それがエネルギーを圧迫しているというのですね?まさしくエネルギーの無駄であります」
「異なる点といえば、太陽世界は我々の関与があまり見られないところでしょうか」
「我々の関与がない……?して、太陽世界といったか。その世界は、誰が運用しているのだ」
「そうよねぇ。アストライオスが創り出したものと同じくらい発展しているっていうのなら、私たちの力みたいな、世界を動かす何かが必要なはずだわ」
「時間、自然法則等の環境は整えられていますが、創造主が手を出したと思われる部分はそれだけです。その流れで、太陽世界にも大陽世界と同じく『人間』が自然発生しました。けれども、それきりです。自然の中に人間が生まれ、そのあとは人間が赴くままに世界が変化していくのに任せている。創造主であろう神は、ただ人間の生く様を眺めているだけ。まるで、籠の中の虫を観察しているかのような関与の仕方ですね」
「つまりさぁ、太陽世界には、人間が『怪異』と呼んでいるような、我々(ぼくたち)に近しいもの――自然を超える力を持つものでさえも存在しないということかなぁ?」
「はい。今のところ、そういったものは確認できておりません。人間が考え出したものは存在するようですが」
 度重なる質疑応答の末に、室は笑声の漣に包まれた。
「人間なんて、お天気も自在に操れない、お花も好きな時に咲かせられない、無能な生きものでしょう。そんなのが創ってあげた世界を我が物顔で存在しているなんて、何だか癪ね」
「もう決まりだな。おい議長、早く決を取ってくれ。最も、もう答えは見えているが」
 ――太陽世界を消滅させる。ほぼ同一の二つの世界が、ほぼ同一のエネルギーを持って他の世界を圧迫し、我々を悩ませているのなら。我々とは関わりのない世界、無力な存在が蔓延する方を消滅させるのは理にかなっていると、室中の誰もが考えた。長い前置きの末に、議決は意外にも早く導き出されると思われた。
「お待ちください」
 しかし、最下の女神の胸中には、微かな蟠りが燻っていた。それは生来の正義感とも、愛おしいあなたへの手向けともいえるものであった。大多数一致の議決を前に、女神の声は自ずと震えた。
「その前に、太陽世界の創造主さまに名乗り出て頂かなくては」
「創造主を殺す者の正体は不明なのだろう?だったら不明のまま、ひと知れず殺して貰った方がいいのではないか」
「その者から守ることもできるかもしれません。夫と同じ犠牲者を出したくはありません」
 何名かの女神たちが、はっとして口をつぐむ。議長の女神も同じだった。もう人前では、あなたとの別れは心にしまっておくはずだったのに。明らかに動揺した女神に、意地の悪い若者の姿をした神がさらに釘を刺してくる。
「キミ、議題の当人に肩入れするつもり?しかも少数意見の。正義と公正の女神サマがそんな、アンフェアなことしていいのかなぁ?」
「私の夫も――その者に殺されました」
 室の空気が、一瞬にして凍りついた。先程の不自然な静寂よりも冷たいしじまが漂う。古い神々の誰もが、かつて正義の神同士であり――星人でもあった仲睦まじい一組の恋人たちのことを思い出して、俯いたり、深いため息をついた。ただひとつ、あらたかな笑みが高いところから落とされているのには、誰しも、もちろん女神でさえも気がつかなかった。女神は顔をゆっくりと上げて、視界に入る限りすべての神々の顔に眼差しを一つ一つ向けた。ふいに目が合った一柱の神が、誤魔化すように笑いながら両隣どうしで顔を見合わせた。
「……そうは言ってもよぉ、これから殺されるってんのに、名乗れねぇよなぁ」
「さあ、お名乗りください」

『私だ』

 天上から、透き通った声が降り注がれる。室中の神々の背筋がその声に撫でられて、一斉にさっと首を上に向ける。女神も上を見てしまった。今度は、本当に、貴方なのね。

『私を屠ろうと言うのだな。おまえたち』

第二話 喧騒にて鎮まるもの

 度重なる中断と進行、喧騒と静寂の末に、ここに一つの結論が導かれた。しかし、それは誰しもが予想だにしていなかったものだった。
 我々の結論が、カミの命を奪う諸刃の剣となろうとは。
 だが、今も上空からひしひしと伝わる風格――自らの命を奪われることになる結論を前にしても、露も揺らぐことなく張り詰める威厳に責められて、神々のまた誰もが下を向いたまま一言も発することができなかった。
 それは、階下の女神も同様であった。敢えて見ないようにしていた遥か上空に視線が釘付けになる。貴方が太陽世界のアヴァタールだったなんて。アストライオスの模倣を、貴方が?太陽世界を消滅させなければ、他の小さな世界が終わってしまう。でも、世界が消えれば貴方も消える。世界の均衡を守るには、誰かが犠牲にならなければ。私は貴方を守りたい。でも、どうやって?第一、貴方はどうしたら命を落とすの――?
 思考が自身の信念とは逆に傾きつつあることに、女神は激しく首を振った。
 そこに、一つの人影が隣を横切った。人影はゆっくりと円形の床の中心へと歩いていく。神々が階下を注目し始め、ひそひそと話し声を立てているのを見るに、誰も彼が立ち上がったことにすら気づかなかった様子だった。
 女神は少し離れた所から謎の人物を覗き込もうとしたが、膨らんだ帽子の下の顔は見えなかった。――いや、そこに顔はなかった。辛うじて、大きい帽子とレースで飾り立てられた服の間には、頭部と思しき岩の塊のようなものが浮かんでいた。だがそのごつごつとした岩にも、正面に赤と青の宝石が埋め込まれているのみで、表情がまるで読めないのがより一層不気味さを掻き立てた。視線を感じたのか、紅玉と青玉の双眼が女神の方に向けられる。そのまま彼女の方へ大股で近づいていくと、手袋のような、包帯のような白い布で覆われた右手を胸の前に当てて、帽子を被った岩石を僅かに揺らした。それは議長である女神に敬意を表している仕草だと見てとれたが、周囲に影を落とすほどの巨体に見下ろされて、女神は固唾も息も飲み込むことしかできなかった。色違いの宝石を爛々と煌めかせながら、彼は女神の耳元に囁いた。
「やあ。結論は出たみたいだな」
 そのまま踵を返すや否や、再び最下の中心に立ち、仰々しく腕を掲げる。複数の神々が身を乗り出してその様子を伺っていたが、持っているものが何であるかを捉えるより早く、パアンとはじけた音が響いた。黄色い悲鳴がぽつぽつと現れては消え、幾柱かの神々を驚かせたそれは空砲の音であった。彼の手には、いつしか銃が握られていたのだ。何処からともなく弾丸を生み出し、慣れた手つきで銃に込める。彼方から見上げるカミの目には、弾丸に刻まれた数字――「451F」の羅列がありありと映ると、漂わせ続ける圧倒的で異様な空気が一種の恐れを帯びて張り詰めた。その途端、慄き騒ぎ始めていた取り巻きの神々が、一斉に唾を飲んだ。我々が畏れるカミが、突然現れた謎の存在に恐れている。誰もが初めて体感する緊張感に、一言も上げることができずにいた。このような雰囲気をつくった相対する二名を除いては。
『成る程、ダグの魔法か』
「魔法で殺されるのなら、お前だって本望だろう?」
『そのような魔法利器、どうやって揃えた?』
「こんなもの。対象を屠るためなら簡単だ。弱点がわかりさえすればな」
『そうか……。おまえと魔術師は、反りが合わないと思い込んでいた』
 固い表情に笑みが浮かぶ。再びカミに余裕が生まれたのか、それとも芯からささやかに喜んでいるのか。話を逸らすようなカミの発言は、銃口を向ける者を煽ったようだった。彼は照準を合わせると、引き金に指をかけた。
 無機質に弾ける音が、室内に張った空気を切り裂く。虫のように小さい、しかし速度を持った物体が、上空めがけて真っ直ぐに突き進んでいく。傍観者たちの中から、数名が後を追っていく。だが、加速していく未知の弾丸は、手を伸ばす神々の指をすり抜けていった。それに留まらず、銃を持っている者はその口を再び上空に向けると、哀れにも神々を何柱も撃ち落としていった。肉体が空中で幾つも弾ける花火の中を、一筋の弾丸はなおも易々と潜り抜けていく。それを受け入れるかのように、カミは穏やかに目を閉じた――。
 そのとき。その一瞬、白い塊が弾丸よりも速く、一筋の流星のようにカミの前を通過した。白いものはなおも続く弾丸の攻撃さえも悉く避けてしまうと、薄く目を開けていたカミを攫うように抱える。やがて高速で落下していく塊が停止したのと、弾が尽きた様子の岩石頭が舌を打ったのはほぼ同時だった。
 愛おしいものの姿を鏡写しにする最高神が、腕の中に大切に抱くは、白い肌と薄衣、氷のように涼しげな水色の瞳の青年。まだ幼さの残る顔は、どこか懐かしささえ印象付ける。細い指から当たり損ねた弾丸の欠片がこぼれ落ちていったが、それを歯牙にも掛けずに微笑みかけ合うお互いの姿は、まさしく室中の注目の的となった。
「……大丈夫ですか」
『ああ……。感謝する、セイン』
 セイン、という青年の名に、ちらちらと数名の神々が反応した。
「セイン、とな?まさか、アストライオスのせがれの?」
「本当に?あの方にはご子息がいたのですか」
「ああ。だが、アストライオスの罰を相手も共に受け……その子供は生まれながら神ではないという噂」
「まあ、低俗な」
「では、なぜ神でもない者がこの場に?」
「お前ら!……ごちゃごちゃうるせえなぁ」
 岩石頭の射手が焦ったそうに啖呵を切り、セインを鋭く睨みつけた。指先を擦り合わせるのを見るに、どう攻撃しようか考えあぐねている様子だった。――そうか、セインもこいつも、お互いに初めて顔を合わせるのか。それは()()()()。――カミは心中でひとりごちた。カミだけが、落ち着いた心持ちでふたりの対面を眺めていた。
「てめえも邪魔してんじゃねぇよ」
「おまえ……!あろうことかカミの命を狙うとは。何事だ?」
「おれはコイツらの決定の通りに動いてるだけっての」
「議決とて、議長の取纏めと宣言がなければ。おまえがしているのは奇襲だ、大罪だぞ」
 セインに目配せをされた女神は、自分が議長であったとつい忘れていたことに気がついた。いや、議長である前に、正義を司る者として事態を整理し、収めなければならない。だが、異様な三名の間に女神が入り込む隙は、まだ現れなかった。セインは目線を再び岩石の顔に移し、なおも問いただした。
「大体、おまえは何者だ。僕が言えたことではないが、なぜこの場に立ち入ることができる?なぜカミの弱点を知っている」
 質問が多いなぁ、と問われた方はため息をつく。その間もなく、女神は我に帰った途端に、鮮烈な息苦しさに襲われた。だが、その息を詰まらせたのは無機質な空気ではなく、華やかな香りだった。自分は今、首を絞められている。けれども、襲ってきた相手の腕の細さに、違和感を覚えずにはいられなかった。それもそのはず、室中の誰もが、岩石頭が女神を突然襲ったのを目撃した。それなのに今、女神を羽交締めにしているのは、明るい顔と派手な色の服装をした、華奢な女性だったのだ。
「Bo-4-19652。対神スタンダード『殺し屋ですのよ』。――さぁ、あなたの弱点はなに?」
 意識が朦朧とし始めた女神の耳元に、明るく歌うような声が響き渡る。一歩下がって傍観を決め込んでいた神たちは尚のこと、黄色い声で引き下がり、勇敢な神兵たちは武器を片手に二名の女性を囲い込んだ。正体不明の華奢な女性は紅を差した唇とアーモンド型の瞳を細めてにこやかに笑ったまま、女神の首をより一層強く締め上げる。神兵がにじり寄る度に、女神の苦悶を帯びた嗚咽は凄まじくなっていった。
 ふいに、神兵の群隊からセインが一目散に飛び出した。女性は驚いた様子で、空いた片手をセインに掲げる。だが何も持たない手が不意打ちを防げるわけもなく、絞首する方の腕が緩んだ一瞬の隙に、セインは女神を抱え奪った。
 室中から歓声のどよめきが上がり、セインを讃えた。神々はもはや観衆と化していた。だが、相手も対処には慣れている様子だった。剣幕を帯びた女性の顔は、セインに庇われている女神をまっすぐ見据えたまま近づいていく。その歩みを進めるたびに、顔も、出たちも、体格もみるみるうちに変わっていった。
 そうして現れたのは、中肉中背の初老の男性だった。地味な色のスーツにネクタイを締めた出たちで、目尻に皺を寄せて笑っている。男性は傍らに出現した赤いクロスで覆われているものをもったいぶって観衆に見せつける。それはテーブルサイズの銀の箱のような機械だった。大きい箱を撫でながら、まだ落ち着かない様子の女神をちらと見ると、箱に据え付けられたダイヤルの一つを回した。細いアンテナが揺らぎ、聞こえ始めたノイズは段々と鮮明になっていく。空気はいつしか沈黙し、誰もが箱から発せられる声に耳を傾けていた。
「スピカ」
 女神ははっとして、思わず立ち上がった。ふらついた足取りで銀の箱に駆け寄り、齧り付くように触れる。今、この箱から、あなたの声がした。忘れることのできない、忘れたくないあなたの声。なぜ?あなたは箱の中にでもいるの?声のぬくもりを、もう一度だけ感じたい。でも。皺だらけの手を握った感触も一緒に蘇ってきて、呼吸が上手くできない。今、あなたに会ったら破裂してしまうかもしれない。
 不安定に揺らぐ女神の姿を、数名の神が心配そうに見つめる。初老の男は空気を察してか、まるで自慢の品物を披露する商人のように、仰々しい態度で声を上げた。
「Yt-42-19582。これは死んだ者や、消滅した者と交信する装置。愛する方の元へ、いきたくはないですか?」
『やめなさい。その者はアヴァタールではない。セインもだ。奇襲は大罪ではないのか』
 初老の男から差し伸べられた手を危うく取りそうになったが、今度はあなたの――()()の声がした。本物よりも冷たい感触に、女神の目は覚まされた。引き留めるように女神の手を引いていたセインは、きまり悪そうに肩をすくめて女神に微笑む。――奇襲って。この子は私を助けてくれたのに。女神は異議を申し立てるようにカミを見上げたが、カミは露にも歯牙にもかけないといった様子で商人風の男性を見据えていた。いや、その姿はいつしか、岩石頭の奇妙なものにもどっていた。
「ま、そういうこと。おれはアヴァタール専門の殺し屋さ」
 得意げな調子で自らを誇示すると、再び懐から例の銃を取り出した。銃口はまた、遥か上空のカミに向けられる。今度は誰も慌てなかった。銃にはカミが唯一恐れた弾丸はもうこめられていないことを、誰もがわかっていたからだった。
 しかし、またしても突然のことだ。一柱の神が、うわぁ、と叫んだ。視線がその一極に集中すると、腰を抜かしている神の隣の席の神が、椅子に座ったまま息絶えていた。
「アストライオスの居場所を教えろ」
 カミを守ろうと上空へ向かい飛び出した者も、カミの目の前で軽く散った。空の銃口は脅しだった。弾丸などなくても充分に有効な脅迫だ。出方を伺うセインと女神は、見上げた先のカミの瞳がこれまで以上に深く、憂いた色に沈んでいることに気づいた。その瞳は、打ちのめされていく幾柱の神々を目で追っている。騒然、喪失、恐怖、それから遥か上空から降り注ぐ悲哀の空気を味わうように、赤と青の宝石だけが煌々と輝き続けている。
「お前らも、大好きな最高神サマに死なれちゃあ嫌なんだろ?それとも、議決のとおりに殺してやろうか?」
「もうやめて!」
 女神が悲痛な声を上げながら目をぎゅっと閉じたとき。豪雨のような喧騒は、囁き声の小雨になった。囁きに混じるのは、驚嘆と感嘆。それもそのはず、上空で鎮座していたカミが、最下へと降りてきたのだ。このようなことは、神々の会議が開催されるようになってから初めてのことであった。カミは騒ぎを起こした張本人である謎の岩石頭に近づいていくと、肩に手を添えて、やめなさい、と念を押すように告げる。このとき、神々の命を無差別に狙う攻撃は、完全にぴたりと止んだ。生き残った神々はほっと胸を撫で下ろし、やはりカミがお止めになったのだ、と納得の雰囲気を醸し出した。だが、対立するはずの二名の様子を眺めていた女神は、カミが降り立ったことはもちろん、岩石頭に向かって子供に言い聞かせるように諭している姿に小さな違和感を覚えずにはいられなかった。岩石頭の方も、神々に向けた残酷な仕打ちをあまりにも素直にやめてしまっていた。そうして銃を片手にちらつかせながら、子供のように無邪気に狂笑した。
「さぁ、アストライオスの所に連れて行け」
『この者を、しばらく牢に預かってほしい。裁きにかけてもかまわない。罪状は任せよう』
 二名の発言はほぼ同時だった。岩石頭はカミが言ったことを理解できなかったのか、一瞬静止したが、やがて手元から銃が落とされた。頭の岩石が僅かな赤みを帯び出し、暴れ出す寸前に思えた。だが、両の手にはいつのまにやら手錠がかけられ、一名用の小さな牢に収められていた。それでも、声だけは荒げるのをやめなかった。
「だから、おれは言われた仕事をやってるだけだ!」
『できれば、酌量を……。できるだけ優しくしてやってくれ』
 できるな?と、カミは女神に目線を合わせながら懇願する。憎らしいほど完璧にあなたの顔をした最高神様に頼まれては、断るなどまさしく言語道断だ。女神はまた、自分を睨みつけるように細まった二色の宝石をみつめて、この岩石頭が先刻(さっき)したように、自分に攻撃してくるのではないかと不安になった。だが、牢の中では素晴らしく大人しい。幸いにもアヴァタールではない女神には、本当に実害を与えられないようだった。――正直に言ってしまうと、新しく与えられた仕事の内容自体が嫌だ。此奴(こんなやつ)に対して公平な審判を下したくない、と考えてしまう自分も嫌になるのだった。
 それから、カミはセインを呼び止めると、誰にも聞かれないように耳打ちをした。セインは深く頷くと、上空へと退室したカミのあとをついていく。そうして、議長の女神と、彼女に捕らえられた罪人、罪人に屠られた神々と、遺された神々を取り残して、会議はお開きになるのだった。

第三話 遺して死にゆくもの

 天高く聳え立つ本棚が幾重にも並び、見えなくなるまで奥深く続く壁には一定の間隔で真円の窓が取り付けられている。その窓の一枚一枚は、絵画のように異なる様相を写していた。ここはカミが建設した図書館であり、彼がとりわけ気に入った場所であった。自由に開放されており、知性と思想、文化を重んじる神や世間話の好きな者の憩いの場にもなっていた。
 だが、カミが一歩でも足を踏み入れると、その姿を見とめた神々は読書や学習、お喋りをやめてその場から離れたところへ行ってしまう。この日も逃げるように去っていく神々を横目に、カミは堂々とその歩みを進めていく。しかし、今回はその後ろを、小走りで必死についていくセインがいた。
 セインはカミに、父親であるアストライオスの姿を見ている。その生き写したように華奢な背中は、なぜか本物よりも大きく、そして深い寂しさを抱えているように思えた。
 段々とカミの歩行が遅くなるにつれて、セインのペースも大股歩きに変わっていった。カミの顔を後ろから覗き見ると、美術館でゆっくり絵を眺めるときのように、窓の外を一つずつ見定めていた。セインの顔も自然と窓の方に向く。
 ある一枚の窓の外では、目と唇がタコのように飛び出した、薄緑色の肌を持つ奇妙な二人組が、何かを企むように話し合っていた。噂で聞く「悪魔」みたいなひとたちだ、とセインは思った。二人がいるのはどうやら宇宙船のようで、望遠鏡をかわるがわる覗いている。その接眼レンズは、不自然な程にこちら側に向いていた。まさか、と胸を弾ませて、レンズに当たる穴に目を近づける。その向こうには、綺麗な青さを持った星が焦点に据えられていた。セインは感嘆のため息を漏らしながら、無意識にも慣れた手つきで指先を動かした。レンズ越しに見える景色は青い星へと向かっていき、ついに星に張り付いている陸地のようなものの様相がわかるくらいに近づいた。ぼやけた焦点を合わせると、粒のように小さい何かが、跳ねるように蠢いている。それは星の住民らしかった。星には雪が積もり、小さい粒が楽しそうに遊んでいる。星全体の雰囲気が静かながらも明るく見えるのは、どうやら冬の夜を祝う祭りを行っているためらしかった。しばらく見とれて動けなかったセインだったが、ふと優しい呼び声がして、顔を上げるとカミが立ち止まってこちらを向いている。慌てて立ち上がって、カミの元へと駆けていった。窓の外の二人組は再び望遠鏡を覗いて首を横に振ると、青い星から宇宙船を遠ざけるのだった。

 カミに追いつこうと足早になるセインだったが、窓の前を通り過ぎるたびに、一つひとつ違った様相を見せる外の景色に思わず立ち止まった。ある窓の外では、酒太りした不健康そうな青年と悪魔のような人物が噛み合わない会話をしている。別の景色の中では、着飾った女性が楽しそうな面持ちでデパートを練り歩いていた。彼女は食器店でフォークを手に取ると、あたりを見回して鞄にフォークをさっとしまった。セインだけが、鮮やかな手腕の万引きに気づいて声をあげそうになった。
 そうして、どの窓を見ても後ろ髪を引かれる心地でいたセインは、ついにある窓の前で再び立ち止まってしまった。その外側では、宇宙船を前に老獪な男と血気盛んな青年が口論をしているのを、痩せ細った人びとが群がって眺めていた。年配者と青年の、おそらく宇宙飛行士。歳差のある宇宙飛行士の男たちの姿は、セインに馴染みのある既視感を与えた。口論の末に、年老いた方だけを乗せた宇宙船は空へと放たれていってしまう。若者の方は、空の彼方を見上げながら満足そうな顔をしている。――なぜ、どうして一緒に帰らなかったんだ?――セインは一人でに胸をぎゅっと押さえた。手を伸ばすように窓に触れたそのとき、窓全体が一瞬のうちに暗転した。驚いて手を引っ込め、黒い窓をまじまじと見つめた。そこには一つの文字の羅列が浮かび上がった。

『Ua-7-196212』

『それはワールドコード。いわゆる世界のほんとうの名だ』
 振り返ると、いつの間にか引き返してきたであろうカミがいた。カミの指が窓に触れると、再び景色が開けるように現れた。今度は宇宙船の中で老人と若者が口論をしている。セインは胸を撫で下ろすと、カミに向き合った。
「ワールドコード……。世界にも名前があるのですか」
『そうだ。自ら名前をつけるアヴァタールが多いが、魔術師に本名があるように世界にもほんとうの名というものがある、らしい』
 カミの指が何度も触れて、暗転する。羅列が現れ、世界の様子が見える。
「でも、僕が先ほど覗きながら触れたときは、このコードは現れませんでした」
『世界そのもの、またはアヴァタールが彼奴(あいつ)に屠られたとき。ほんとうの名は初めて与えられ、判明する。おそらく扱いやすいよう、彼奴がつけたものだろう』
 セインの胸に、ひやりとしたものが流れた。
「では、この景色は――」
『私がつくったジオラマだ。おまえが触れたというものは、魔術師ライマンの力を拝借し、あらゆる()()()世界の様相を現在時間で写している方だ』
 ジオラマと生きている世界、半々といったところだろうか、とカミは淋しげに笑う。
 セインは窓の外に、宇宙船が侘しい星に降り立ったのを見つめた。再三口論をする宇宙飛行士たちも、貧しい住民が暮らす星も、それらがあったはずの世界そのものが、すでに存在しない。けれども、青い星が見える望遠鏡や、悪魔のようなひと、盗みを働いた女性は、今もどこかの世界で存在しているという。この部屋の無数の窓は、どこかにある生きた世界も、かつてあったのに殺されてしまった世界も、景色として写し出す。そうやって近くに見えるのに、セインにとってはまさしく遠い話に思われた。
『――世界の窓。おまえにとっても他人事では無い筈だ。こちらへ。おまえに見せたいものがある』
 カミの手招きに応えて、セインは先に進む。誰も見る者がいなくなった窓の外で、またしても宇宙船が若い飛行士を置いて去っていく。そうして、ジオラマはかつて生きていた世界で起きた出来事の再現を何度も繰り返すのだった。

 それは隣の窓だった。外の景色を見て、セインは思わず息を飲んだ。
 それは見慣れた光景だった。凍らせた星をいくつも散りばめた空間、その暗い色。ただ広い宇宙空間のほんの一部を切り取った真円の窓、その中心で赤い光が不規則に点滅する。セインは恐る恐る中心に触れる。窓ガラスの冷たい感触が、指から伝わってくる。窓の景色は暗転しない。そのまま、色とりどりの点描を幾つも散らせた黒い空間のまま変わらないでいる。当然のことだ。それでもセインは安堵した。
 それは、セインの世界だった。セインがアヴァタールとして創造した、宇宙で構成された世界だ。
 しばらく見惚れていた。いつも見ている景色だが、自分のつくった世界というものはやはり格別に愛おしい。それが幾光年か離れた、この場所から眺めることができるとは。やがて望郷のようなものに駆られたセインの指は、星の座標を線で何度も辿り、それでも最後は中心の赤い光に帰結した。
 何かが肩に触れた。ゆっくり振り返るのを制するように肩を掴んで立つカミは、セインの耳元にいつもの優しい声で囁いた。
『おまえもアヴァタールだ。だから議会に呼び出した。このままでは、おまえもあいつに狙われてしまう。だが案ずるな。私が守ってみせよう。おまえも、アストライオスも』
「ありがとうございます。……でも、なぜ僕にここまでしていただけるのです」
 だって正直、不平等だ。それに、僕は神さまでもない。それなのに、カミに世界を与えられ、アヴァタールとなった。セインは窓の外を見つめ続ける。――改めてアヴァタールであることを自覚させられてしまうと、世界を所有し、つくり上げるということ、そして世界と事実上、命を共にするということに息が詰まってしまうのも事実だった。だから、自分の世界は父親とカミと同じく、宇宙をベースにしたものであるけれど、そこに生まれた星は氷とか岩石とか、おおよそ生命も生まれそうにない、単一の要素でできたものばかりになった。――あの赤い光がやってくるまでは。
『おまえは天文学的確率を司る』
 黙ったまま俯くセインの心中などわからないのだろう、カミは肩を掴む腕に、より一層力を込めた。
『天文学的確率。それは奇跡の数字だ。奇跡が起こる可能性を秘めた数字。私は見てみたくなったのだ。奇跡で動く世界を』
 セインは腕につけた天球儀型のコンパスを後ろ手のまま握りしめた。様々な宇宙現象を観測し、その頻度を調査する、というのがセインの役職であった。宇宙で起こる現象――超新星爆発やブラックホールの出現といったものは、通常、途方もない年月に一度訪れるのみである。コンパスはその奇跡の一度を拾い上げると、くるくると回りながらセインに知らせるのだ。――ちょうど今、回転の感触があった。カミが窓をなぞると、火球がエネルギーを辺り一面に撒き散らしているのが見えた。まさしく、星が生まれたところだ。セインが世界をつくり始めた頃から、コンパスの回る頻度は極端に増えていた。セインの世界では、生まれたばかりの宇宙であるということを鑑みても、何故だか宇宙的現象が頻発していたのだった。窓からセインの世界を見た神々たちが、すごい世界だ、珍しいものがたくさん見れる、と褒めてくれても、セインにはやはり実感が湧かなかった。――頻繁に起こる奇跡、それは奇跡といえようか?セインが周囲の神々に引け目を感じてしまうのも、その懐疑が一因であった。
 それでもカミは窓を再び、手繰るように器用に操る。
『そうして――あの宇宙船がやってきた』
 中心にあの赤い光が戻ってきた。景色が段々と光に近づいていくと、赤い光を発しているそれは小さな宇宙船であった。宇宙船は巨大な星の合間を縫って浮かびながら飛び続けている。だが、年季の入った船の船尾部には立派な穴が空いていた。噴射口から出る微かな炎とともに、塵のように小さい部品を撒き散らしながら僅かな推進力で進み続ける船は、それでも見えない程度に速度を落としていった。
 景色は船の表面へ、さらに近づいていく。一瞬間、窓一面が白く染まったかと思えば、また暗くなった。黒々とした冷たい全景が星の明かりひとつ映し出さないのにセインはひやりとしたが、やはり幸いにもワールドコードは現れなかった。それに、明かりがなくても気配は感じられる。夜目を効かせるように凝らして見ると、大きな荷物、広げられたトランプと酒とつまみ、そして――一対の操縦席で毛布に包まりながら静かに眠る二人の飛行士。
 この二人こそ、セインが自分の世界について抱える、最大の悩みの種だった。セインの宇宙には、生物は存在しない。そう調整したはずなのに。コンパスは回って、宇宙飛行士たちは突然にも出現したのだ。彼らを乗せる船は見知らぬ宇宙を、最初から壊れていた躰で今でも静かに飛び続けている。
 セインは、毛布から覗く顔を一つずつ見やった。機長席には浅い皺が刻まれた白髪混じりの初老の男。もう一方には、まだまだ青さの見える年若い男。先程の別の宇宙でも見たのと同じく歳差のある二人組だったが、口論をするでもどちらを置き去りにするでもなく、共に静かに眠っている。
『――あの二人は、元々アストライオスの世界に生まれた人間だった』
 セインは驚いたように振り向いたが、次にはもう納得していた。父からも聞かされていない、初めて知る事実だったが、絶望的ともいえる状況を前に眠ることしかできないような諦念と無力さを持った――そういった人間は父かカミの世界にしか存在しない。だからあの二人は、どちらかの世界の人物だろう。セインは予めそう推察していた。けれども――、
「世界間を跨ぐ移動は不可能のはずです」
『私もそう考えていたが、おまえのコンパスが回り、あの宇宙船が飛来した日。アストライオスの世界であの船に隕石が衝突した次の瞬間には、おまえの世界へ飛ばされていた』
 偶然、なんらかの力が発生したのかはわからない。だが、私は確かに観測した。カミは念を押した。
 セインはまた、窓の景色に向き直る。赤い尾灯をちらちらと発する宇宙船、それに乗り込む二人の「人間の」宇宙飛行士たち。人間に限らずだが、生物というものは僕たちみたいに、永遠ともいえる長い時間を超えて生きることができない。だから、自分の世界に生物が発生するのが嫌だった。生きるものの、生き抜いたその先を――知識としてしか知りえないその先を、実感するのが苦しかったのだ。
 それなのに、カミは懐にしまっていたものをセインに否応なく突きつける。それは飾り気のない白い紙だった。二つに折り畳まれたそれをセインが開くより早く、カミが口を開いた。
『これは遺書、という。若い方が遺したものだ』
「遺書?」
『ああ。死にゆく者が生きてゆく者に遺す手紙。それが遺書だ』
「では、二人はもう……」
 セインの手が震え、紙に皺が寄る。虹のような彩りを持ったカミの瞳が微かに震えた。アストライオスの姿こそしているが、セインにとっては初めて見るような父の顔だった。
『奇跡的にこちらへやって来たが、もう戻ることはできない。船も壊れている。二人も悟ったのだろう。このまま知っているようで知らない冷たい空間で、身が朽ちるまで永遠に眠るのだと』
 それは「死」を意味する。自分の世界に死という概念が現れてしまった。ありきたりな薄い紙一枚が、重く感じられた。
『アヴァタールたちが創造した世界の多くは、そこで起こった出来事を何度も繰り返している。だが、おまえの世界は違う。おまえのものには変化がある。多様な星がいくつも生まれ、何度も爆発する。そして、あの二人。いずれ朽ち、死にゆくものたちだ。おまえの世界には生死があるのだ。だから――あまり言ってはいけないかもしれないが、私はおまえの世界を気に入っている』
 そして、カミの達観は死を恐れず、哀しむこともないのだろう。それどころか、生の果ての変化と捉えている。――だからカミは、父の世界に発生した生物たちに、人間に肩入れしているのだろうか?父の世界を模倣した世界を創りながら、その世界の中心に超自然的な力を持たない人間を据えるほどに。人間の無力さは父から飽きるほど聞かされてきたが、そのまま死へと変化していく存在のことを、セインはほとんど知る由もなかった。けれども、自分の世界に人間が現れた以上、人間というものに、それが迎える死というものに向き合わなければならないだろう。それがセインには恐かった。
『案ずるな。私はすべてのアヴァタールたちを――世界を守ると誓おう』
 真剣な面持ちで手紙を握りしめるセインの肩に、カミの手がそっと置かれる。目を合わせると、その瞳の深い色に、セインは吸い込まれそうになった。ふと、セインの脳内にある考えが過った。――カミは、本当に恐くないのだろうか。神々を、世界を殺してしまう存在が出現した今、カミ自身も死の当事者だ。カミが屠られれば、彼が愛する人間たちも消滅してしまうはずだ。カミなら神殺しのことをどうにかできるだろうに、なぜ野放しにしているのか?其奴(そいつ)がもしカミも敵わない強力な存在だとしたら、カミのことは、カミの世界のことは誰が守るのだろうか?――深い瞳の奥に、真意を見ることはできなかった。
 二者の間に流れる暫しの静寂を破るように、ヒールの靴音が室中に響きながら近づいてきた。セインの肩越しにカミが相手を見ると、それはかつての議会で長を務めた女神であった。
 お取り込み中失礼致します、と囁きながら、女神は裾を持ち上げ足を折る。そしてカミとセインを交互に見ながら、声を顰めるようにして告げた。
「神殺しの者が逃亡しました。先程、アヴァタール一柱の突然死が確認されました」
 女神はカミの反応を見た。かつてないほどに大きく見開かれた目は、沈むように目線を落とす。女神もまた、瞳だけではカミの真意を読み取れなかった。張り詰め出した空気を破るように息を一つ吐くと、言葉を続けた。
「明日、裁判所にお越しください」
 カミとセインの世界視察はこれでお開きとなった。名残惜しそうに微笑むカミは、セインの手にある手紙を指さしながら最後に一言付け加えた。
『あの二人はすでに、おまえの世界に存在する者たちだ。それはおまえに託す。アストライオスに渡すよりはずっといい』


 その夜、セインは眠れなかった。自宅に帰りたくもなかった。自分の世界を写す窓のそばで、立っては眺め、座りうずくまる、をずっと繰り返していた。皺だらけになった手紙を手に、引っ張り出してきた毛布に全身を包む。
 セインは胸元に手を添えた。緩やかな自分のいつも通りの鼓動の奥に、分刻みで不安定な拍子がいくつか聴こえる。それはあの宇宙船の赤い光の点滅、そして二人の飛行士の、ほぼ機能しなくなっていった心臓の音。大丈夫。宇宙船はまだ動いていて、二人の人間はまだ生きている。ああ、やっぱり僕は二人に、永遠に生きていてほしいのだ。でも――、セインはまだ手紙を開くことができない。
 思えば、なぜ自分はあの赤い光を、二人の人間が乗った宇宙船を世界の中心に据えたのだろうか?
 ――やはり、自分も心のどこかで、生というものに焦がれていたに違いない。ただ、その対極にある死というものを恐れ、忌避しているだけだ。生きるものの行く末は死である。生と死というものは反対側にあるはずなのに、いつも隣り合わせらしい。そういった生死という概念のことを知ったつもりでいた。だが――、脳裏にあの岩石頭が過った。彼奴(あいつ)こそ、死の象徴だ。彼奴(あいつ)が現れてから、死というものが実感として僕らのもとに現れてしまった。しかし、そうして死を間近に感じられるようになった僕らは、今まさに、()()()()()――?

 いつしか固く閉じていた瞼が、ぱっと見開かれた。
 セインは今になってやっと、自分の生を実感したような気がした。
 生きるものに死が訪れるように、だからこそ、死が生を息づかせるのかもしれない。
 セインは手紙につけてしまった皺をゆっくり伸ばした。これは、死にゆく者が生きてゆく者に遺す手紙。カミの言葉を反芻する。一枚の紙切れが、未だにこんなにも重たい。けれども、死に向かっていく人間がさいごに遺した言葉の生の輝きを、セインはどうしても知りたくなってしまった。
 遺書をゆっくりと開く。図書館の暗がりの中で、側に寄り添う窓の外、赤い光が電燈になって紙面が照らされた。若い飛行士との鼓動の律が、初めて調和した。

〈お父さん、お母さん。私のロケットは、いま隕石に衝突し、事故をおこしました。もう助かりそうにありません。もう一度お会いしたいと思いますが、それも無理なようです。しかし、あまり悲しまないで下さい。私は子供のころからあこがれていた宇宙に出られ、そこで死ぬのです。私は満足です。では、どうぞお元気で。さようなら〉

「さよなら」
 手紙の締めの一言を、セインは短く呟いた。拙い文字が、零れ落ちてきた水溜りに滲む。窓の外、点滅し続けている赤い光に縋るように、手紙を、遺書を胸に抱き留めた。
 セインは今、生きている。

第四話 屠りて釣り合うもの

 カミの図書館の西側、最奥部に突き当たると、壁一面が巨大な一枚の四角いガラスに覆われている。その外には、薄いヴェールのような白い靄に包まれた青い星があった。
 部屋の隅、窓の側に腰掛けながら、カミは天球儀を回すように腕を振るった。回転運動が止まると、その球の中心に据えられた場所が徐々に近づいていく。大小さまざまな形をした建物が乱立しているのがわかってくると、そこに群がって見えていたのは大勢の人間だった。
 人間は平行に何本も並ぶ白線の手前で、規律正しく静止している。やがて白線の上を行き交っていた大小様々な車輌の方が停止すると、赤いランプは消え、下の緑色のランプが点灯する。それに合わせて、人間はようやく動き出した。焦って走り出す者、親の手に引かれて拙く歩く子供、ゆっくり歩を進める老婆に、会話を弾ませる友人たち、そして、腕を組み微笑み合う恋人たち。緑のランプが点滅し始めると、白線上に残った人間の足は早くなる。そうして再び赤いランプが灯されると、白線の道の上では一瞬の静寂の後にまた車輌が駆けていく。
 この窓の外は、太陽世界の景色。他ならぬカミ自身がアヴァタールとして契約している世界である。
 カミはまた、腕を大きく振るう。次に景色として現れたのは、暖かい雰囲気の室内で料理を囲む一家の姿。また景色を回しては、降り出した雨をカバンで凌ぐ男、列車を待つ学生、大海にぽつんと浮かぶ船、そして小さな赤子を抱くまだ幼い褐色肌の少女。カミは景色が流れる度に手を止めて、一つ一つ微笑みをあげた。
 カミは殆どのアヴァタールたちと同じように、彼自身の世界を愛していた。ただ、他のアヴァタールたちと違うのは、カミは世界に一切の介入もしないということだった。
 彼はアストライオスの世界を気に入り、世界の成り立ちから模倣した。そうして、同じく地球が生まれ、人間が出現した。それからというもの、世界を人間の赴くままに任せてきた。そのためか、アストライオスの大陽世界と異なり、魔法や怪異といった超自然的なものが芽生えてこなかった。その一点のみの違いで、二つの世界の細部の仕組みは段々と乖離していった。怪異の御業とも思える現象は、科学の早急な発展により説明され、それでも魔法や空想、思考といった超自然的なもの――目に見えぬものを信じた者たちは作家として本を後天的に生み出した。
 カミは自身の世界以上に、人間のことが好きだった。魔法も奇跡もない世界で、それでも自分の頭と手足を頼りにして必死に生きていく人間たち。無力であっても世界を愛し、時には立ち向かおうとしてくる人間のことが無性に愛おしく感じるのだ。カミは天上の世界に住む神々にも、自分の導きがなくとも在り続けてほしい――()()()ほしい、と常々願っていた。これが、カミがある時から天上世界でも傍観を決め込んでいる理由であった。
 窓の外。電子機器を弄る子供の部屋に、目を吊り上げた母親が入ってくる。彼女の怒声をお供に一眠りしようと、目を柔らかく閉じる。そこに、聞き慣れたような甲高い靴音がした。半開きの目で見ると、地球のとある地点にいるはずの母親がそこにいた。カミは思わず飛び上がりそうになる。だが、意識がはっきりしてくると、そこに立っていたのはあの議長の女神だった。
『嬉しいことだ。おまえ直々に迎えに来てくれるとは』
 半身を起こして、伏し目がちに呟く。喉元まで出かけた怒りを何とか飲み込んだが、カミの目には不満を隠しきれない顔が写っているのに女神は気が付かなかった。だが、次にはもう呆れ顔で許してしまっているのは、目の前にいないはずのあなたの顔があるからだ。こうやって絆されてしまうのが、カミと対する上で良くないことであると女神は自覚していた。けれども、自制しようと努力してもあなたの前では――正確にはあなた自身ではないのに、どうしても気を許してしまいそうになる。あなたがいてくれれば、どんなに約束を破っても今なら許してあげられるのに――。
「そう、約束。今日の朝、裁判所にお越しくださるお約束でしたよね?アヴァタールを屠る者が脱走し、今も被害が少なからず出ている。非常事態ですよ」
 また一歩と近づいて、努めて落ち着いた声音でカミを詰めた。カミの眼が色を失って下に落ちる。女神は慌て視線と体勢を逸らした。カミは意を決したように立ち上がると、指を一つ鳴らした。背景にある地球が速度を保って回り、やがて静止しながら中心に寄っていく。するとある室内の様子が映し出された。そこは無人の法廷のようだった。突然、四方八方の景色を見慣れた仕事場のように変えられた女神は、驚きつつ踊るように辺りを見回した。
『わざわざ裁判所に行く必要はあるか?――ここでしよう。さあ、おまえの訴えを聴かせてほしい』
 被告席の方にわざとらしく寄りかかったカミの声色が妙に弾んでいる。いつの間にか弁護席に立たされていた女神だったが、無意識にもゆっくりと検察側の方へと歩みを進めた。
 これは貴方を訴えるために起こす、小規模ながら立派な裁判だ。そのことを貴方はわかっているのかしら。女神はまだ伏目がちに閉じられたカミの目を真っ直ぐ見据えた。当然ながら、あなたと同じ色の瞳だ。――私も、ちゃんとわかってる?――スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
 裁判官のいない法廷が今、開かれた。

「もう皆がわかっています。貴方が彼を生み出した。そうではありませんか?」
 彼。突然現れ、アヴァタールたちの命を狙う謎の岩石頭のことだ。彼が現れてからの天上世界は、混沌とした恐怖に満ちていた。彼は牢に囚われているが、未知の力を持った存在が自分たちの元へいつ現れるのかわからない。彼のことを対処できそうなカミは、捕らえたまま放置している。この状況に、誰もがある一つの仮説を立てていた。だがそれは、彼の存在以上に恐ろしく、口に出すのも憚られるようなことだった。だが、女神は違った。女神は彼の捕縛に関わる裁判員として、様々なことを調査してきた。彼に対して取り調べを行うこともあった。そうして、彼が牢から抜け出してしまった今、神々を代表してカミに対して訴えを起こしたのだった。
 神々を屠る者を生み出したのはカミである。口に出してしまえばもう後戻りはできない。唇が震える。だが、正義の名の下に、そして彼に倒されたあなたのために。女神は主張を続けた。
「彼は命令に従っているだけだと、何度も主張しています。では、彼を生み出し、命令を下す者は誰か。私からは、恐れながら貴方であると推測します」
『根拠は』
 すかさずカミの方から問いかけられる。いつも以上に威圧的な声音だった。
「彼は少ない情報からアヴァタールの弱点を読み取り、そこを突くようです。いとも簡単に神々の弱点を知り、それを突くものを創造し、屠ることができる者。そのような力を与えられるのは、貴方しかおりません」
『――ああ、そうだな』
 次は何を言われるだろうか、と身構えた女神だったが、カミはただ一言だけで済ませて微笑んだ。否定もされず、いとも簡単に認められてしまった。震えていた女神の膝からは力が抜けるような心地だった。
「貴方は彼を生み出したことを、お認めですか」
『ああ。だが、彼は必要な存在だ。アヴァタールとその世界を屠ることができるのは彼だけだ。――数多の小さき世界の存続のために、強大なひとつの世界を犠牲にする。言い出したのはおまえたちだぞ』
 確かに、あの日の議会で強大な世界の片方を犠牲にすると決めたのは自分たち神々で、カミはその議決の様子を見ていただけだ。だが、議決が出た瞬間に彼奴(あいつ)を生み出したとしたら、あまりにも早業すぎる。カミには可能なのかもしれないが。それに――、
「けれども、彼は議会前から存在し、アヴァタールたちを屠っていたようですが」
『おまえたちの前に現れる随分以前に、彼を生みつくったからな。それだけ、世界同士の均衡は崩れやすいものだ。彼が完成してからだったか、メティスの提案が出されたのは。私はおまえたちが、彼の存在を受け入れてくれると思っていたが』
 飄々とした口ぶりで話すのが、いっそ清々しい。結局、私たちに関係のない所で、カミは彼奴(あいつ)を生み出していたというわけだ。女神自身はアヴァタールではなかったが、女神が一番に愛する者の命を奪った存在を受け入れられるはずはない。それは他の神々たちも同様であろう。それなのに、愛するあなたの姿をしたカミが、憎き彼奴(あいつ)を受け入れてほしいと言っている。喩えようのない失望感が女神の心を覆った。
『私は言い訳をしているのではないのだよ、アストライア』
 いつしか女神に睨みつけられていたカミは、瞳の光を一瞬だけ煌めかせて、呟くように、諭すように言葉を溢した。
『強大な世界の主が私だとわかれば、彼から私を守ろうとする。可笑しい話ではないか?』
 神々を、力無き生物を含めた遍くものを等しく愛するカミが、神々の命を狙う兵器ともいえる存在を生み出した。それこそ可笑しい話である。女神はまた一歩詰め寄ろうと、靴音を冷たく響かせた。
 だが、ふいにカミが口元に人差し指を立てると、女神は静止することしかできなかった。ふと、背中の方の窓が一部分だけ景色を変え始めた。裁判官の席がカーテンのように捲れると、仄暗い部屋が写し出される。先ほど、電子機器を夜遅くまでいじって叱られていた子供の部屋だった。子供は電子機器を枕の片隅に、小さく寝息を立てている。その傍らには、母親が座していた。吊り上がった眉の顔は消え失せ、代わりに緩んだ口元を眠る子供の頬に寄せながら頭をゆっくり撫でている。女神はつい我を忘れて安穏な景色に見惚れていたが、やがて景色とカミの横顔を見比べるようにゆっくり観察した。その横顔から見える柔らかな瞳の色に、向こうの母親と同じくらい緩んだ口元。女神は初めて、カミの胸の内を垣間見ることができたような気がした。――ああ、貴方は全てのものを愛している。これは皆、以前から知っている確からしいことだ。
 だからこそ――、全てを守るために彼を生み出したとしたら?
 女神は脳裏に芽生えたある疑問を投げた。その声は優しく震えていた。
「貴方は、ご自身で犠牲になっても良いと?」
『そうだ』
「貴方は、貴方というアヴァタールを屠るために、彼を生み出した。そうですね?」
 今度は答える代わりに何度も首を縦に振った。珍しく声を小さく漏らして笑う。そのどことなく満足そうな顔に、確信を持って問うた女神であっても開いた口が塞がらない。
「けれども、彼は貴方だけではなく他のアヴァタールたちも襲い、犠牲が出ています」
『その理由はわからない。彼は私のみを狙う。そう設計したが、彼は謎の声を聞き、それを命令としてアヴァタールたちを自分の意志で屠っている』
 彼奴(あいつ)を生み出したのはカミであっても、アヴァタールたちを屠るよう命じたのはカミではない。新たな事実に、女神は身体中の力が抜ける心地だった。この真実をカミが最初から言ってくれれば、こんなにことが絡れなくて済んだのに。内心ではそう思いもしたが、見慣れた柔らかい微笑みでこちらを見つめ続ける顔に、またしても気を許してしまいそうになる。何より、貴方が真の犯人ではないことに、心底ほっとした。早く総動員を挙げて彼奴(あいつ)を探し出し、迅速な対処を行いたい一心になる。
 ただ――、女神の視線は続いてカミのその後ろ、窓の景色に移った。写り続けるほの暖かい寝室では、いつの間にか母親のほうも座り込んだまま目を閉じていた。次の言葉や問いを待つようにカミから眺められた女神は、籠りかけた口をやっと開いた。
「もし。もし貴方がいなくなれば。人間も消滅するのですよ」
『そうだな。それにしても珍しい。神であるおまえが人間の心配をしてくれるとは』
「貴方は。貴方はそれで良いのですか」
『良くない。だから、身勝手なことをひとつ言わせてほしい。たとえ私が消えても、私のつくった世界は存続してほしいのだ』
 初めて口にされたカミのわがままだった。都合の、虫唾の良い話だな、とカミは微かに笑った。その願いは、アヴァタールたちの誰もが思っているであろう、普遍的なものでもあった。
 カミは初めて女神に背を向けた。いつしか法廷は消え失せ、寝室灯の光が漏れる寝室の親子の景色もゆっくり遠ざかっていく。街並みもどんどん遠ざかり、雲の上を、成層圏を超えてやがて丸く大きな青い星が写った。
『アヴァタールの命が消えても、世界が存続する。そのような仕組みも考えたが、これこそ私の世界を犠牲にしなければ叶わないことかもしれない』
 カミの表情は女神には見えなかった。けれども、拳が固く握りしめられているのははっきりとわかった。身体が小刻みに震えている。ゆっくりと近づこうとした女神だったが、それを止めるようにカミはまた口を開いた。
『やはり死とは恐ろしいものらしい、アストライア。何かを遺したり、犠牲にしなければならないとしたら尚更だ』
 そう、貴方も恐いのね。私たちにはまだ未知数な、死というものが。だからこそ、本当は貴方も死にたくないし、貴方が死ぬことで人間が消えてしまうのも嫌なのだ。女神はカミの本心が少しずつわかってきたが、敢えて口には出さない。ただ、その背中をじっと見つめていた。ほんとうに、憎らしいほどにあなたと同じだ。でも今ではなぜか、目の前の震える背中はあなたのよりも小さく見えた。その背に縋りたくなったが、女神はじっと堪える。室内の静寂に、小刻みに足踏みするヒールの音だけが微かに響いた。
 ねぇ。あなたが死を迎えるとき。あなたも、恐かった?

 やがて、天上世界にも朝が来たようだった。図書館の各地から、楽しげな顰め声が聞こえてくる。少しの他愛ない会話を交わして、カミと女神はその場で別れることになった。だが、向こうの方から凄まじい剣幕の駆け羽音が近づいてきた。それは女神の部下である天使のものであった。天使の少女は女神を見つけると、焦り顔で訴えかけた。
「大変です、たいへんです。彼奴(あいつ)の目撃情報がありました」
 カミと女神は顔を見合わせた。そのまま、カミはいてもたってもいられないという様子で歩き出した。目をぐるぐるさせて飛び回る天使の腕を、女神は諌めるように取った。
「そう。そうなのね。一度落ち着きなさい。――それで、一体どこにいるの?その情報は誰から?」
「はい。セイン様からの情報です。彼奴は今――」
『セインだと?今、セインと言ったか』
 振り向きざまのカミに口を挟まれて、少女は羽根を勢いよく震わせて飛び上がった。
『場所は』
「は、はい。アストライオス様の所におりますです」
 カミの足取りがより速くなる。女神は天使に別れを告げて、駆け足でカミを追いかけた。
「アストライオスの世界への介入は不可能なはずでは?」
『ああ。だがあいつはやってのけた。私も向かおう』
 辿り着いた先は、先程までいた場所とは反対側、東側の壁。そちらの方にも巨大な窓があり、アストライオスの大陽世界が写し出されている。カミはどこからともなく鍵を一本取り出すと、空中に翳しながら何かを唱えた。女神が瞬きもしないうちに、橙色に燃える結界が現れる。カミは容易く潜り抜けたが、女神を通す前に結界は跡形もなく消え去ってしまった。なんだ、貴方は行けるのね。女神は膝をついたまま、呆然としていた。
『たとえ私が消えても、私のつくった世界は存続してほしいのだ』
 カミの言葉を反芻する。もしかしたら、貴方に会うのが最後だったかもしれない。後から追いかけてきた天使の手を借りて、女神はやっと立ち上がる。ヒールの片方が折れて、靴音はもう響かない。


 壁も家具も白く、棚には本や小物がわずかに置かれているだけ。そんな無機質な室では、二名がテーブルを囲んで相対していた。一言も発さないお互いの元に、セインが淹れたてのコーヒーを運んでくる。そうして父親と招かれざる客人の前に一つずつ、丁寧に出すよう努めるが、指がどうしても震えてカップと皿が擦れ合う音を止めることができない。ふと視線を感じて客人を見ると、岩石頭の二つの宝石がこちらを向いて煌めいていた。すぐに目を逸らしたが、しばらく動くことができなかった。
「ありがとう、セイン。下がってていいよ」
 アストライオスに声をかけられて、セインは逃げるようにその場を去った。それでもどうしても気になって、ドアを少しだけ開けたまま聞き耳を立てた。
 コーヒーの香りが、雰囲気を心持ちだけ落ち着かせたようだった。岩石頭がカップを無い口に運ぶ。コーヒーは一口分だけ減っていた。アストライオスの方は、肘をついて相手を見たまま、やっと口を開いた。
「聞いたよ。君、僕たちアヴァタールを殺せるんだって?」
「ああ、簡単なことだ」
「皆、僕かカミのどちらかを君に殺させるって迷ってるみたいだね」
「いらいらすんだよ。太陽世界の方を殺すって決まったと思えば、そのアヴァタールがカミ様々とわかった途端に寄ってたかって邪魔ばっかする。――いっそ、お前をやってやろうか?」
「うん。そのつもりでお前を呼んだんだ」
 セインは思わずトレイを落としてしまった。廊下に金属音が響くが、幸いにも岩石頭が台を叩いて立ち上がった音にかき消された。トレイを取ろうとしゃがみ込んだが、どうしても立ち上がることができない。このままでは、父が屠られてしまう。でも、彼奴(あいつ)を呼び出したのは他でもない父自身だった。父は、死が恐くないのか――?おそるおそる、ドアの隙間からばれないように中を覗く。彼奴の嬉しそうな笑い声が耳鳴りのように障った。
「言ったな、お前。言質は取ったからな」
 後悔するなよ、と言いつつ、岩石頭の容貌はみるみる変化していく。
 頭の岩石から下は消え失せ、服のように身を包んでいた布がはらりと落ちた。残った岩石は炎に衣替えして、どんどん膨張していく。辺りのものが燃やし尽くされながら、アストライオスは後退りして壁にぶつかった。止まらない汗と唾を呑み込んで、最後の問いを巨大な恒星に成り果てたものに投げた。命を落とす寸前とは思えないくらいに、穏やかな顔つきをしていた。
「僕が死んだら、人間たちも滅亡する?」
「当たり前だ。世界ごと破滅する」
「良かった。どれだけ頑張っても、人間は湧いて出てくるんだ。いっそ、僕が消えちゃって創り直してもらおうと思ってね。頼んだよ、セイン」
 ――僕の遺志を継いで――。
 炎と煙で見えなくなったドアの方へ最後に目線を移して、アストライオスは満足げに微笑んだ。恒星が目と鼻の先に迫った、その時だった。
 白いものが、一筋の流星のように室の中に飛び出してくる。
 極限まで膨れた恒星は一瞬のうちに萎み、岩石頭と同じくらいの大きさになった。岩石は速度を得て、アストライオスが立っていたはずの場所に追突してくる。だが、そこにはすでにセインがいた。セインは隕石に身体ごと持っていかれて、溶けた壁の向こう、宇宙空間へと飛ばされていった。
 そこに、綺麗な円形の空間からカミが現れた。無重力に任せて何処かへと運ばれて行きそうなセインを、カミはしっかりと受け止めた。焦点の定まらない両目を少しだけ開けて見ると、傷ついた腹部から辛うじて笑い声をあげた。
「と……、とうさん。よかった……」
『何故……何故だ、セイン』
 虚な眼をはっと見開いた。極限での直感か、今自分を抱いている腕は父ではなく、カミのものだとわかった。その様々な色が混じった瞳は溢れ出る雫でさらに混沌とし、水滴が顔に落ちてくる。カミも泣くのだ。カミも死が嫌なのだ。今更、気づいてしまった。そして、自分の死を他ならぬカミが嘆いている。その事実が、なぜだかセインには無性に嬉しかった。
「貴方と同じです。人間が、命が愛おしくなった。だから、父を、父の世界を残したい」
 セインは懐から紙を二つ取り出して、カミにつかませた。それはカミがセインに託した、若い宇宙飛行士の遺書であった。もう一つは、眠れないまま窓辺で過ごしたあの夜、毛布の中で綴ったセインの日記の一頁だった。お守りとして千切って持っていたものだが、今となっては遺す手紙となってしまった。
「僕は、なぜこんな――手紙を遺すのか、わからなかった。でも、今はわかるような気がします」
 それからカミの手紙を掴む手を、そのままコンパスに寄せた。セインの胸の辺りから光が溢れ、足先を見ると徐々に消えていくのがわかった。
「天文学的確率は、ただの数字です」
『そうだ。そうだなセイン。だったら奇跡を起こしてみせろ』
 カミはコンパスのあった手首を掴み、祈るように目を閉じた。か細くなっていく鼓動、その奥に赤い光の点滅と、二人の人間の消え入りそうな心音が聴こえる。だが、ついに最後の指先まで消えてしまった。
 光を纏った青白い粉がカミの手から零れ落ち、ある文字列を空間に模った。

『Ua-9-196212』

 星だらけの小さき世界に現れた二人の人間。彼らの命、遺した手紙から、死を、生を知ることになった天上の者がその命を散らせた。
 奇跡を起こしたのは、まさしく彼らの方だったのだ。


 宇宙空間上で、カミは無重力に逆らって立ち尽くすように動くことができなかった。そこに、ひとつの影がゆっくりと近づいてきた。すっかり落ち着いて元の岩石頭に戻った彼であったが、カミの傍らに流れ出たワールドコードを見て絞り出すように呟いた。
「こいつ……アヴァタールだったのか?神でもないのに?」
 その声は震えていた。カミは初めて岩石頭の存在に気がついたという様子で、声がした方を向いた。だがカミが止めるより早く、彼はワールドコードをなぞって回収した。岩石頭の姿がまたしても変化すると、そこに現れたのは他でもない、セインの世界で眠りについていた若い宇宙飛行士だった。
 飛行士はゆっくりと振り向くと、なぜだか驚いた様子でカミを見ていた。だが、次の瞬間には――、
 あはははは!
 これまでカミでさえも聞いたことのないような、腹の底からの大きな笑い声をあげた。身を捩らせ、目は黒く細まり、口角が吊り上がる。それでも、涙目を大きく見開いたカミから、視線を外すことはなかった。
「やっと……()()()()()()。これでお前を殺せる」
 飛行士は懐から黒々とした銃を取り出し、「451F」と刻まれた弾丸を込める。カミは今度は無重力にその身を任せて、縦横無尽に飛び回る。だが、なぜか銃の照準から外れることが叶わなかった。無重力空間を真っ直ぐ飛ぶ一筋の弾丸はカミに迫りくる。既の所で、カミは回りながら弾を避けた。だが、わずかに足先を掠めてくる。すぐさま広がっていく炎を踏み消すようにしながら、なんとか脱いだ靴を宇宙空間に放った。
 それでも軽い火傷を負ってしまったカミは、アストライオスの室があった所へ何とか泳ぐように辿り着くと、床にへたり込む。飛行士はカミの方に近づいて行ったが、敢えて一発だけで止めにしたようだった。銃をカミの鼻先にちらつかせて、何かを思い出したように嘲笑した。
「お前らの世界に、こんな予言があったな。人類歴一九九九年、七の月。空から恐怖の大王が現れる――。あと二十余年ある。それまで待ってやる」
 大仰な戦線布告だった。瞬きもせずに自分をじっと見つめるカミの顔を舐め回すように見返すと、軽やかな足取りでその場を後にしたのだった。

第五話 恐れて愛すべきもの

 細い腕に収まったコンパスは、主人を失って動かない。それでも、新たな持ち主として受け継いだカミは、コンパスが視界に入る度に、セインのことを思い出さない日はなかった。
 しばらくは穏やかな日々が続いた。緊急の会議も開くべき議題もなく、罪人も死人の魂も珍しく暴動を起こすことがなかった。神々の一番の悩みの種であったあのアヴァタール殺しの岩石頭も、今ではすっかり鳴りを潜めている。しかし、これは嵐の前の静けさであると、カミだけが知っていた。
 セインがあいつに屠られてしまったあの日から、カミは太陽世界の窓から滅多に動くことがなくなった。そうして日々を食い潰してしまうと、岩石頭が告げた一九九九年、七の月まであと一週間に迫ってしまった。彼はきっと用意を周到に済ませたのちに、私の太陽世界を屠りに来るだろう。
 覚悟はできていた、はずだった。しかし――、窓の外を見ると、今日も人間たちが生まれ、活動の中に生き、死んでいる。小さな命たちが青い星のもとに咲き、刹那の年月を誇って散ってゆく。あと数日のうちに、カミの道連れになることも知らないで。
 ふと、カミはあの裁判の日に気に入って見ていた子供の寝室へと寄り道をした。その国ではあの日と同じ夜更け、だが子供は怯えるように目を見開いていた。傍らでは母親が、優しく宥めるように寝かしつけている。カミは小さな違和感を感じ始めていた。隣の部屋へ行くと、老夫婦が晩酌のあてにテレビを囲んでいる。その画面に映っていたのは、ある一冊の本を取り上げたトークショーの特別番組だった。色とりどりのテロップを凝視して、カミは信じられないという面持ちになった。

 ――ノストラダムスの大予言 来る恐怖の大王、一九九九年、空前のベストセラー!恐怖の大王、人類滅亡に備えて――

 ノストラダムス。確かに人類歴四〇〇年ほど前に、そのような名の預言者がいたような気もする。しかし、そもそも人間の予言というものはあまりあてにならない。だから文明や文化、占星術といったものが興隆し、それらが何かを予言するたびに、カミは娯楽としてそれを聞き流していた。その中でも最もたちの悪い部類の予言が当たるとは――、あいつの存在がすでに予言されていたとは、カミにも盲点だった。
 予言は当たり、人類だけでなく世界が滅びる。人類が「恐怖の大王」と呼ぶ岩石頭に、なす術もなく消滅してしまうのだ。刻一刻と迫る終末の日を前に、人間たちは恐れ、祈り、無力な備えをしようとする。人間たちよ、それでも抗おうとするのか。世界が終わるということは、おまえたちがどれだけ足掻こうと、その死には、消滅には何も遺すことができないということなのだ。
 カミは急に、頭部に、胸部に、腹部に、躰中に開いた穴が広がっていくのを感じた。しかし、どこを押さえれば良いのかわからない。この穴を開け始めたのは、紛れもなくセインの死であった。
 セインは父を庇って命を落とした。最期に私と同じく、人間が、命が愛おしくなったと言った。――私と同じ?私と同じく人間を、命を愛していると言うのなら、君はアヴァタールとして自分の世界にいる人間たちを、あの二人の宇宙飛行士を優先するべきではなかったか?当然、セインが命を落として光の粉になった瞬間に、セインの宇宙の星たちは爆発し、宇宙船は消え去った。セインの小さき宇宙は、神々(アヴァタール)が持つ世界のエネルギーの均衡を、僅かに整えたのみであった。それよりは、あのときにアストライオスか――、いや、私が屠られておけばエネルギーの問題も解決する。その方がより良いはずなのだ。それなのに、なぜ――。あの時に君を突き動かした衝動は、恐ろしいものを孕んでいるに違いない。
 カミはまた、コンパスに触れた。針が揺れて回って、やがてゆっくり静止する。針の一端、色が付いている方角には、本棚の整列があった。何かに呼ばれたような気がして、カミは重い腰を上げた。これも一つの衝動だった。あの瞬間にセインが抱いたものとは違う、ゆっくりと誘いくる衝動だ。けれども、セインのものと似ていることに、カミは気がついていなかった。
 その衝動に駆られて、一冊の本を手に取る。他の本と同じように、カミの手垢がつくほど読み尽くされた本だ。頁をぱらぱらと捲ると、二枚の紙がゆっくりと散るようにカミの足元に落ちてきた。屈んで拾い上げると、カミは目を伏せた。一枚はセインの世界にいた、若い宇宙飛行士の遺書。そしてもう一枚は、セインが最期にカミに掴ませた日記の切れ端。どちらも、カミの目に触れることなく敢えて忘れられていた手紙だった。
 カミは上手く息を吸うことができなくなっていた。躰中の穴から、正体不明の何かがせぐり上げて溢れてくる。それでも、コンパスの針はゆらゆらと揺れ始めていた。カミの中の衝動は、読んでください、と優しく諭す。コンパスを身につけている方の左腕、その指先が、折り畳まれた薄く重い紙を開いた。
 一枚目を捲ってすぐ、セインの拙い文字が目に飛び込んできた。文字の輪郭をなぞるように、カミの眼はゆっくり動いた。


 眠れない夜は、本や手紙を読むといい。
 いつしか、カミが教えてくれたことです。僕は毎晩、寝る前には本を読んでいます。でも、手紙は読んだことがなかった。送り合う相手が中々見つからなかったから。
 でも、僕は今日、初めて手紙というものを受け取りました。それはカミがくれたものだけど、カミが書いたものではなかった。僕の世界にやってきた、宇宙飛行士の若い方の人の手紙だといいます。
 僕は、手紙を読むのがこわかった。宇宙船は僕の宇宙を彷徨っているけれど、その行く宛は、僕らには未知である「死」というものに向かっています。それがわかっていながら、なぜ手紙を遺すことができたのだろう。そう思いました。二人の人間の死を簡単に認めたくなかった、とも言えるかもしれません。

 でも、手紙には確かに重みがありました。実際の質量の問題ではありません。遺書というものは死にゆく者の手紙であるから、僕には重くて開くことができなかった。それもあります。
 でも、死の手紙の重みには、その人の生も、命の重みも含まれている。長い夜の中で、僕はそういう考えに至りました。
 そうしてやっと、飛行士の遺書を読みました。飛行士の生を、その重みを、僕は知りたくなったのです。それで、わかったことがあります。
 彼は、生きていた証を遺したかった。しかも、その相手は誰でもよかった。そうして自分の命と、死に意味を与えた。手紙を読んで、飛行士たちの鼓動を聴いて、僕はそう思いました。

 神さまたちや僕たちは、簡単には命を落としません。でもあの岩石頭が現れると、アヴァタールたちは簡単に屠られていった。そうやって、僕らはただ知っているだけだった、「死」というものへの恐怖を覚えた。
 でも、僕らアヴァタールは、命を落としても他の世界のエネルギーになるだけです。そうやって世界の仕組みに淘汰されるだけ。
 だったら、僕は飛行士のように、自分の命に、死に意味を遺したくなった。


 たった一、二枚の紙切れを持つ手が震える。
 死に意味を遺すとは何だ?おまえは父から愛されていた。弔いに来る優しい神もいる。そして、私も愛していた。だから皆、こうやっておまえのために涙を流すのだ。
 セイン、君が自分の死を以て、遺した意味とは何だ?心の中でそう問いかける。どこからか、セインの心が聴こえたような気がして、カミは辺りを見回した。
 ――父やカミ、愛する者たちに生きていてほしい。
 ああ、私と君とは、そこが同じなのか。コンパスの針の揺れが静かに止まった。私も、愛する者たちに生きていてほしいに決まっている。たとえ、その者がいつか死を迎えることがあっても、そのときがくるまでは命を燃やしていてほしいのだ。けれども、セインにはそれが叶わなかった。しかし、それだけではない。セインはその死を以て、カミが自身の命を捨てる覚悟を粉々に打ち砕いていた。やはり、もう少しだけ生きていたい。セインが最期に愛してくれた人間が、私の世界には何億の命として生きている。それを守ってくれたのも、やはりセインだったのだ。
 カミは躰中に蔓延る蟠りが、確信に変わるのを実感した。愛しき人間たちよ。おまえたちの命は、簡単には消させない。私はおまえたちが受けた生も、平穏な日々も、迎えるであろう死も、総て守ってみせる。
 カミは二通の手紙を懐に仕舞うと、今いる場所の反対側、大陽世界の窓の方へと足を進めていった。

 道中で、カミはあの馴染みの女神と鉢合わせた。その手には数種類の花が握られていた。カミと並んで歩きながら、女神は無言のままのカミに何を言えば良いのか迷っていた。だが、先に口を開いたのはカミの方だった。
『いい香りのする花たちだな』
「こちら、セインにと思ったのですが。どんな花が良いか迷ってしまって」
 カミは迷わず、一輪だけあった赤いバラを選んで手に取った。
「バラ、ですか。弔問には華やかすぎる気もしますが」
『彼は明るい色の花が好きだった。特に、赤いバラには首ったけだったよ』
 セインの空色の瞳と白い身なりを思い出しながら、なるほど、意外にもバラのような美しい赤が映える方だと女神は納得した。だが、それは単なる想像に過ぎなかった。思えば、女神はセインのことをあまり知らなかった。女神も好きな花が多かったから、花のことで話せることもあっただろう。これまで、他多数の神々と同じく、神でも無力な人間でもない、怪異のような存在にも関わらずカミの厚意で天上に置かれている少年だという、ただそれだけの認識であった。けれども、彼と話してみたいと思ったのは、父親を守ったという高潔な最期を迎えてからのことだった。セインがいなくなった今になって、その最期の高潔さだけを見て交流したがるのは、あまりにも浅はかで狡いことだと女神は自省した。
 カミは、彼の高潔さをわかって気に入っていたのだろうか。きっとそうだが、それだけではない。カミはセインが赤いバラが好きだということを当たり前のように知っている。私たち以上にセインのことをよくわかっているが、まだまだ知らないこともあっただろう。それでも、カミはセインを、そして私たちのことも、人間のことも受け入れて愛してくれている。だからこそ、あの岩石頭が、カミの世界を消滅させようとしているのを黙ってみているだけではいられないはずだ。
 両者無言のまま、大陽世界の窓にたどり着いた。岩石頭にこの世界が狙われたあの日から、主人であるアストライオスは行方知れずになっていた。だが、窓の外の地球はいつも通りの速度で中心にある恒星――大陽の周りを回っている。カミは胸を撫で下ろした。
 それも束の間、目の前の地球の雲が、大陽に当たる面から晴れていくと、地球上の様子がはっきりと写し出された。それを見て、カミは息を呑んだ。普段はどこかに潜んであるはずの怪異たちが、まるで存在を知らしめるかのように蠢いているのがはっきりとわかった。雨を降らせる龍は自らの身を傷つけながら暴れ回り、地が盛り上がるとどす黒い蛇のような、魚のような生き物が飛び出して溢れる。人間たちは逃げ惑うも、川から溢れた雨水、揺れ動く地盤に足を取られて転げ回っていた。
 大陽を背にして、黒い小さな影が赤と青の光を揺らしながら浮かんでいる。やはり大陽世界にもノストラ某の予言はあったようだ。彼奴(あいつ)が怪異を操り、暴走させているのか。今度はカミの不安が的中した。
 一方で、女神は傍目から大陽世界第三惑星で起きている惨劇を観察していた。女神にとってはまさしく遠い世界の出来事だが、怪異に命を奪われていく人間たちの姿には目を背けたくなる。カミも同じようで、両者の横目が合うとカミは女神に問いかけた。
『して、女神よ。真に最後かもしれないから、聞いておきたいことがある。おまえは世界の寿命を知っているか?』
 寿命。生ある者がいつかは迎える、命の期限のことだとは聞いたことがある。
彼奴(あいつ)――、失礼、あの屠殺者が現れてから、アヴァタールたちは命を落とすようになりました。そのときが寿命ということではないのですか?」
『いや、それはいわゆる突発的なものだ。まだ推測に過ぎないが、私たちアヴァタール、いや、すべての神々もいつか寿命を迎え、そのもとに死が訪れるのではないかと私は考えている』
 女神の背筋に衝撃が走った。私たち神々は、ある時点まで老い、それからは老いることも死ぬこともない。けれども、アヴァタールとなった神だけは突然に出現した彼奴(あいつ)に襲われて命を落としてしまうことがある。それが流布している認識だ。だが、カミが言うにはアヴァタールだけでなくすべての神々がいずれ死を迎えるということだ。これが事実なら、天上の神々が抱く概念が一斉に揺らぐほどの実相だろう。
『神々が世界を創造し、生を共にする契約をした時点で、その命はいつか終わりを迎えることが最近になってわかってきたのだよ。一例のはなしをしよう。あるとき、世界のひとつが自然消滅した。心臓(コア)が爆発し、エネルギーを散らせた』
 私があの岩石頭を生み出す前のことだ、とカミは付け加えて、言葉を続けた。
『一方で、私の世界の人間は住む世界の終わりを算出した。自らが発見した法則と生み出した技術――()()というものでな』
 科学は無力な人間が生み出すことのできた、世界に対応する為の武器だ。魔術や予言といった、超自然的なものをも凌駕するほどの新しさと正しさを持つ武器。熱く語るカミだったが、女神にはあまり理解が及ばなかったようだった。
「そんな……存在の終わりを自ら証明するなんて、悲観的なのですね」
『彼らは死という概念とずっと隣り合わせてきた。そういう意味では、我々にはなかった覚悟があるのだ。物好きな連中だよ。それに、人間たちのその研究が私の憶測を裏付けることになった。私の世界の心臓(コア)は太陽という恒星。太陽は膨張し、世界の全てを飲み込み、あと五十億年ほどもすれば白く消滅する。そのときが、真に私が寿命を迎えるときだと思うのだ。あと五十億年だ。私の世界は半分は生き続けてきた。私は、寿命を待とうと思う。今まで通りに世界が自然の流されるままに任せて、そうして――共に消滅する』
 五十億年。途轍もない月日に聞こえるが、天上世界の永い歴史に比べると短い方だった。そして今でも、五十億年の期限まで一刻、一秒と迫っている。寿命とはそういうことなのだ。カミの寿命が来るまでに、当然私は生き続けることなどできないだろう。そう思うと、女神は急に怖くなった。これが死への恐怖というものなのか。
『彼をなんとかしなければ。彼に会ってくる。正義の女神よ、彼の判決を』
「貴方が決めてください。貴方が生み出した彼が、罪もないアヴァタールたちの命を奪った。そうして今、人間たちが傷つけられているのですよ」
 カミは深く頷いた。その顔はやはり微笑みを湛えている。ほんの一瞬だけ、目の前のあなたに()()顔に、ほんとうにあなたの面影が移ったような気がした。女神はやっと解放されたように、カミの凝視から視線を外した。
 そのとき。窓の外の宇宙、星々が無数に散りばめられた空間に、一筋の白い光が貫いた。光は凍った星屑を、不規則に整列する惑星を蹴散らした。そして世界の心臓へ、大陽へ突き刺す一矢であるかのように向かっていった。
『セイン――?』
 いや、遺憾ながらセインであるはずはない。よく見ると、白い光は僅かに橙色を帯びていた。暖かい色の流星は、よく見ると大陽ではなく地球に到達していった。そうして、雲を突き抜けてそのまま見えなくなった。この一瞬間に、カミは景色に釘付けになってしまっていた。
 これは天文学的確率が起こした奇跡であろうか?――いや、残念だがこの予想も外れるだろう。それでも、カミはコンパスを握りしめ、今一度瞳を閉じた。大陽世界は私のものではない。だから、私の力ではどうすることもできない。カミはそうやって大陽世界のことも憂いて、このアヴァタール不在の世界の窓に寄り道した。だが、あの一筋は世界を成り立たせる多くの奇跡の果てであると、カミは直感的にわかっていた。奇跡に縋ってみても良いだろうか。瞼の裏では、セインが微笑みかけていた。
『セイン。ありがとう』
 私は、生きなければ。


 ここは大陽世界。その宇宙空間に岩石頭、もとい若年の宇宙飛行士が宇宙服も身につけないまま佇んでいる。暗雲に覆われた青い星を目前に、手操るように両手の指先を軽く動かしていた。
「やっと許可が降りた」
 何かを感じ取って、眉がぴくりと動く。両目で異なる色の瞳に、光が宿っていった。飛行士は地球を、大陽世界の宇宙をあとにして、呼ばれた方に吸い込まれるように消え去っていった。

 場所は移り、カミの図書館の窓側の壁、ある真円の窓際にカミは立っていた。窓の外に見えるのは、ちょうど円の中心に据えられた赤い光。それを発している無機質な素材の宇宙船は、凍りついた真空を詰めたような宇宙空間を静かに漂っている。
 カミは無意識にも、赤い光に手を伸ばしてしまう。窓ガラスに指先が触れると、景色は一面の黒に暗転して銀色の文字の羅列、「Ua-9-196212」のワールドコードを並べ立てた。カミがまたコードをなぞるようにして触れると、今度は宇宙船の内部を写した景色に切り替わる。宇宙船内では、二人の飛行士たちが望遠鏡を覗きながら楽しげに会話をしていた。カミは窓に触れてしまわないように気を配りながら、壁にもたれて二人の様子をしばらく眺めていた。
 この窓の景色は、遠い世界の出来事だった。かつては、二人はまだ遠いどこかに存在していた。しかし、二人はもういない。その事実が、未だにカミの躰中に開いている見えない穴をさらに穿って行った。目の前の窓に見えるのは、カミがつくったジオラマにすぎない。つくりものに成り果てた二人の飛行士は、見知らぬ世界で経験したことをただ物語のように繰り返すだけ。そこに生はなく、それがカミにはたまらなかった。落ち着かせるように、コンパスを握りしめてただ赤い光の一点を見つめ続けた。
 ふと、図書館の一部が陽炎のように揺らいだのを横目に感じた。その方に視線をやると、窓の外にいるはずの飛行士の一人、年若い男が現れた。しかし、カミは真っ直ぐな視線を、窓の方から外すことはなかった。飛行士本人ではないことをカミは十二分にわかっていたのだ。飛行士は赤と青の瞳を揺らめかせて、カミを見下すように嗤った。
「お呼びでしょうか、最高神サマ。殺られる覚悟はできたのか?」
 煽られ罵られても、カミは窓の前から顔一つ動かさない。飛行士が観念して、カミに大股で近づいていった。あと一歩踏み出そうとしたその瞬間、カミは相手に向かって懐から鋭いものを取り出した。それは小さな宝石で装飾されたペパーナイフだった。
「なにをするんだ。やめろ」
 飛行士は本能的に避けると、取ってつけたようなホルスターの銃をカミに向け、引き金を引く。ペパーナイフは空を切り、それでもなお対象に斬りかかろうとする。だが、怯えるようにかがみ込んだ飛行士の歪んだ顔に、ひとまず鋒を納めるしかなかった。飛行士は安堵したように引き攣った嘲笑を取り戻していった。カミは後ろ手を組むと、努めて優しい声色で話しかけた。
『おまえが神々を屠るのは、命令だと言ったな。誰の命令だ?』
「とぼけるなよ。どうせお前だろ」
『私はそのような命令など、一言も発していない。いかなる理由があろうと、私が神を屠るはずがない』
 私の信条の一つだ。カミは断言した。飛行士は鼻で笑いながら、大声で喚いた。
「お前の声じゃないのかよ!」
『おまえが誰かの声を聞き、それに従ってアヴァタールたちを屠ったと言うのなら、それは幻惑だ。おまえは惑わされて、衝動的にアヴァタールたちを幾千と屠っているということになる』
 鼻にかけるような態度の飛行士だったが、段々と焦りと不信の色が顔に浮かんでくる。脳内には聞き慣れた声、低い唸りのような声が響いていた。――殺せ。斃せ。殺っちまえ。命を奪え。蹂躙せよ。世界を創造した神を。そのためにおまえは生まれたのだ――。力を振り絞る事あるごとに何度も反芻した声だ。それが幻だと?おれはそれに惑わされているだけだと?ああそうか、最高神サマは総て正しいもんな。おれは正しいおまえに命じられたと思って、今まで殺ってきたのに。そうだ、だって――、
「お前がおれをつくったくせに!」
『ああ。だから、アヴァタールを屠るという使命感があまりにも強かったのだろう。おまえはその使命に支配されてしまったのだ』
 飛行士の手から銃が滑り落ちた。暴発した弾がカミの方に真っ直ぐ飛び出したが、カミは受け止めるでも避けるでもなく、弾を片方の手で強く握った。熱と炎を帯びた銀色は掌を燃やし出したが、カミは表情ひとつ動かさない。そのまま酸素を失って黒い鉄屑に変わり果てると、燃え続ける手からはらはらと零れていった。指先から、掌からゆっくりと燃え広がり続ける炎に包まれても、カミは微動だにしなかった。眼と口とが大きく開いたまま塞がらない様子の飛行機は、熱を持ったままの銃を拾い上げると、またしても銃を突きつけた。その手の震えを隠すように、勇んで声を発した。
「なぁ、おれは失敗だったってことだな?おれを消して、どうせまた新しい仕組(やつ)みでもつくるんだろう?でもな、新しい体制でも、待ってるのはきっと破滅だろうよ」
 地団駄を踏む子供のように、銃を振りかざす。炎が肩から首筋まで到達すると、やっとカミは飛行士へと歩んでいった。弾丸だった鉄屑と見分けがつかないほどに焦げ落ちていく片手を眺めながら、もう片方を鋭利なペパーナイフに変化させる。武器を持っているはずの飛行士の方が、不安定な足で後退っていった。
「どうせお前も、死ぬのが恐いんだろう?俺を見た神どもみたいにさ、恐怖で顔を歪ませて見せろよ」
 カミは薄く閉じていた瞳をかっと見開くと、赤と青に爛々と揺れる彼の宝石を覗き込んだ。
 ――恐怖の大王よ、おまえにわたしはどう映る?
 しかしそこには、未だに不安定な影しか見ることができなかった。
 彼の目前には、初めは何も存在してなどいなかったのだ。
 ただ、他の者から見れば、彼が銃口を向けた先にはいつもカミが在った。神を屠るという唯一の、彼の存在意義ともいえる使命に対する執着が、視えない標的に照準を合わせていたのだった。だが今、最上の標的は彼の目前に現れていた。それなのに彼の手は狂い、震えていた。照準を上手く合わせることができない。――ちくしょう、なんで今になって、見えるようになった?
 両者の距離は、触れられるくらいに迫っていた。飛行士はついに金を引くこともなく、両目をぎゅっと閉じた。カミはまだ燃えている。炎は首から上を残して、反対側の肩に移っていった。飛行士は熱を受け、額には冷や汗が滲んだ。頭上に何かが振り翳される気配がした。だが、いつまで経っても痛みも何も感じない。
 意を決して目を開いた。飛行士の頭に翳されていたのは、カミの燃えた方の手だった。灰になってもまだ熱く、黒い塊や砂が雪のように額に降り注いでくる。今度はカミの方が目を柔らかく閉じていた。その隙をついて、飛行士は回り込んで背中を取ると、銃口を向けてペパーナイフを持つ腕の方に照準を合わせた。だが、カミがこちらを振り向いてしまった。その顔は穏やかに微笑んでいた。
『そうか……。やはりおまえも、恐いのだな』
「はぁ?なぜそうなる」
 突拍子もないカミの言葉に、またしても引き金にかけた指が狂う。カミも諦めずに、また飛行士の方に歩み寄っていく。今度は逃げないように、部屋の角の隅へと足を進めた。
『あぁ、わたしも恐いさ。おまえのことがな。我々の誰もがおまえを恐れている。おまえは我々を屠ることのできる圧倒的な力で、愛すべきものに溢れる世界たちの消滅を引き起こすのだからな』
 カミの口から言葉が溢れて止まらない。飛行士はついに壁に背中をぶつけた。
『おまえは千を超える世界を、神を屠ってきた。そうして、世界の主である神々と、世界に存在していたものたちに恐怖を知らしめたのだ。死と滅びは、恐怖を生む。おまえは千を超える死と滅びの当事者として、その最果てを目の当たりにしてきたのだろう?その恐怖は、我々が屠られるときに感じる恐れとは、比べ物になどならないだろうな』
「やめろ」
 彼の顔が歪む。それは恐怖の苦痛であろうか。なおもカミの諭すような声が、飛行士の耳から伝わって脳内に響いてくる。
『わたしが最も愛するものたち――青い星の人間たちが、おまえのことを「恐怖の大王」と呼ぶ所以が、やっとわかった。おまえは神々が、世界が感じる最上の恐怖を背負う者なのだ』
「やめろって、言ってるだろ」
 そうだ、こわくない。おれは神も、こいつでさえも斃せるんだ。飛行士は金を引いた。だがその瞬間、頭の中にはあらゆる場面が過った。
 派手な化粧を落として看護服に着替える女が、生命データが書かれたカルテを整理している。別の場面では、銀の箱の前に多くの死体が転がり、それをブルドーザーを乗り回して片付ける男。また場面が移り、久々の地球への帰還に望郷心が抑えられず、何度も望遠鏡を覗く初老の宇宙飛行士――。それぞれ、今までに殺してきた世界で生きていた人びとだ。ワールドコードを得た瞬間に、世界の記憶が否応なく流れ、消すことのできないものとしてずっと苛んできた。それだけではない。おれがアヴァタールどもの前に姿を現すと、決まってする表情がある。そう、恐怖の顔、顔、顔。当然、誰にも歓迎されたことがない。アヴァタールの笑顔など見たこともない。けれども――。セインというやつ。あいつだけが、消える間際に満足そうに笑っていた。でもそれは、おれに向けたものではない。カミだけを見たまま、カミの腕の中で果てていった。
 わからない。あいつの世界にいた人間の姿になってみても、なぜ笑ったのかわからない。どうしてあいつだけが、おれを前にして恐怖しなかった――?
 カミは黙って待っていた。半身はゆるやかな速度で燃えて黒灰を残していく。飛行士は苦悶に顔を歪めながら、言葉を反芻するように呟いた。
「おまえがおれを生み出した」
『そうだ』
「それなのに、下劣な神々(やつら)のことだけ気にかけて。そいつらのくだらない世界ばかり気に入って。挙句、神でもないやつに贔屓して、無駄に世界を与えた。おれがそいつらを殺して初めて、おまえはおれを見た。それでもやっぱり、おまえは死んだやつの方に未練がましくとらわれる!」
 今度は銃口を、カミの背の向こう側、窓の方に向ける。セインの世界のレプリカが映る窓だった。カミは制するように腕を上げた。しかし、飛行士の指は引き金を引くこともなかった。
「おかしいよ、おまえ。世界もアヴァタールたちも消えてほしくない、自らもやっぱり死をおそれる。じゃあなんで、おれを生み出した?」
 胸の奥に抱いたまま、ずっと隠して仕舞っていた疑問だった。おれは神を殺すために生まれた。それなのに、最上の標的の姿は見えない。忌まわしい声はずっと責め立ててくる。他のアヴァタールたちを斃せば、いつしか胸奥の蟠りも消え去っていた。疑問に思い、焦燥し、命を奪ってやる、その繰り返し。だが今になってやっと、標的は目の前にありありと出現してきた。ずっと待ち侘びていたのに、どうして――、
 なんて悲痛な疑問だ。しかし、もっとも人間らしい疑問に支配されてしまった飛行士の声に応えるべく、カミは少し離れたところからやっと口を開いた。
『他の神々と同じように、私には死というものがわからなかった。だが、他の者と違うのは、私は人間の存在を通して死への恐怖を知ったということだ。私は人間をもっと知るために、アストライオスの世界を模倣した。そうして生み出した世界がいつしか大きくなり、他の世界を圧迫した。私ひとつの命で多くのアヴァタールたちを救えるのなら、私は差し出す。そう思っていた。だからおまえを生み出した』
 私を屠らせるために、強い力を与えて。だがその力は、カミではなく他のアヴァタールたちを狙っていった。カミにはそれだけがずっと疑問だった。そうして今、やっとわかった。だからこそ。
 恐怖しか知り得ることのできなかったこの者に、教え与えるべきものがあったのだ。
 カミは黒灰の塊になった指先で、コンパスに触れた。その瞬間、腹部まで及んだ炎はたちまち消え去った。熱さが全身に、見えない穴に沁み渡るが、カミはそれさえも受け入れるように飛行士を真っ直ぐ見つめた。
『しかし、私は生かされてしまった。この天上世界で最も愛すべきものにな』
「意味がわからないって、言ってるだろ」
『じきにわかるだろう。それが嫌なら――はじめから、私ひとりを狙っていればよかったものを』
「見えなかったんだよ!だからどうして今になって――」
『私が生み出したおまえだ。おまえの中に愛すべきものが芽生えるのは時間の問題だった。されど、それで苦しむとは。辛い思いをさせたな』
 飛行士はもう拒まなかった。諦念の表情の中、瞳だけはカミの顔をぎこちなく見つめ返している。その色は血のように冷え切った赤と、ガラスのように鋭い青の宝石。その奥に、カミは灼かなひかりをやっと見出したような気がした。
『――おまえは幾千もの恐怖に当てられて、芽生え始めた愛おしさという感覚がわからないようだ。無理もない。ゆっくり休みなさい。おまえに愛すべき感情が再び生まれるまで、しばしの別れだ』
 尖ったペパーナイフの指先で繊細に胸の辺りを突く。鋭い痛みが飛行士の全身に走ったが、叫び声を上げることもなかった。飛行士の顔と隊服は仮面のように剥がれ落ち、岩石頭が現れる。しかし間もないうちに、両目の宝石から赤と青の二色に染まった光の粒が零れ落ちていくと、カミの腕を包んだ。カミは焼けこげた方の腕で懐から瓶を取り出すと、空中に散った粒をかき集めて蓋をする。
 冷たいガラス瓶を頬に寄せると、いたいけな心音がゆっくりと鳴り始める。側の窓の外では、玩具のような宇宙船が赤い光を静かに点滅させていた。

後記一 そして星になる

 空中に軽く浮かぶ大小様々な塊が、纏った霧のようなものを蠢かせている。浅黒い肌、山羊のような角、尖った尻尾の先を持ったいわゆる悪魔たちが、それを檻に詰めて白い羽の天使たちに受け渡す。天使は「未審判」の判を押すと、顔色一つ変えずに馬車に積んでいった。
 ここは冥界。彷徨う魂が最初に行き着く場所だ。あてもなく浮かぶ魂を冥界の悪魔たちが捕らえて、天上世界に審判を委託する。それを指示するのは、冥界の神であるハデスだ。ハデスは色をつけた長い爪を振り翳しながら、飛び出しそうなほど大きい眼と尖った鼻を細部まで効かせている。仕事に手を抜くような悪魔などいれば、読んで文字の如く雷を落とすのだった。
 一瞬、全ての悪魔と天使たちの手が一斉に止まった。ハデスは待ちわびた怒号を降らせようとしたが、喉の奥で止めた。
 皆の視線の先には、カミがいた。ハデスの目前にも、正義の女神の姿で歩み寄ってくる。女神本人のよりもさらに冷たい色を湛えた瞳に見つめられて、ハデスは飛び上がる心地がした。
「よぉ、カミ様。珍しいこともあるもんだ、お前直々に来るとは。アストライアちゃんは元気か?」
『ああ、スピカなら最近、髪を切った』
「まじかよぉ。なぁ、お前も髪を短くしてくれよ。俺もアストライアちゃんの短いのが見てぇよ」
『おまえはアンタレス然り、長い方が好みだと思っていたが。――いや、どうでもいいだろう。約束の品を』
 ハデスは顔面から溢れそうな満面の笑みで手を揉んだ。こんな上司の顔を見るのは初めてだと、その場にいた悪魔たちの誰もが――天使でさえも思った。彼らをハデスが一瞬だけ睨みつけると、そそくさと仕事に戻っていく。そのまま、二柱の偉大な神は奥の方へと進んでいった。

 鎖と錠が複数かけられた扉の前にハデスが指を出すと、厳重な絡繰は次々に紐解かれていった。「出荷時期未定」と書かれた表札をカミはちらと見ると、ハデスの背についていく。
 ひんやりとした空気が二者の間を包んだ。両者を挟む棚には、小さな瓶がいくつも陳列されている。カミは瓶の札を一部分だけ確認した。そこに書かれていたのは、アヴァタールたちのワールドコードだった。コードに続けて、さらに長く書かれているものもあった。
「ここに仕舞うのは、アヴァタールたちのばっかだよ。アヴァタールと、そいつらの世界で生まれた生物の魂だ」
 ふと、何かに呼ばれたような気がした。ハデスの説明を横に、カミはある棚の前で止まった。棚には瓶が三つ、そのうち縦に細長い二つを手に取る。どちらも似たような色と形をしていたが、「Ua-9-196212-1」の方が「Ua-9-196212-2」よりも僅かに鼓動が速い。カミはゆっくりと棚に置き直した。では、もう一つの丸い瓶は――。恐る恐る、カミは手を伸ばした。
「あぁ、それだよ。探すの大変だったんだからな。あいつは神でも人間でもなかったからだろうな。旅してるみたいに彷徨ってたよ」
 ハデスの言葉は、もはや耳に入らなかった。カミは瓶を震える両手で包むと、その表面のガラスを優しく撫でた。瓶の中の魂は、雨上がりの夏の空のような爽やかな色を見せて煌めいている。これが誰のものであったかなど、札を見なくても明らかだった。カミがその名前を小さく呟く。魂を包む霧の一粒が赤く点滅し始めた。
 突然、瓶がカミの手中から消えた。ハデスが取り上げていたのだった。乱雑に振るたび、カミは声を上げた。
「たとえカミ様であろうと、ただではあげませんよ。お前、珍しい魂をもっているな。お前の手で作り上げたやつ。カミの折り紙つきだ、高く売れるぞ」
『いや。だれがおまえになど』
 次の瞬間には、今度はハデスの手から瓶がなくなった。カミは懐から、赤と青の色を持った魂の瓶を取り出すと、もう片方に持っている空色の魂とを見比べて目を細めた。女神の嬉しそうな顔を見たハデスは、新しい交換条件を考えなければならなくなった。
「うんうん、さすがに駄目かあ。うーん……うん?」
 何かがカミとハデスの間を通り過ぎ、またしても瓶が消えた。しかし、今度は二つの瓶だけではなかった。二者がいた室中の全ての瓶が消え去っていた。カミは空になった両手を茫然としたまま開けたり閉じたりしている。
「あいつ、やべぇな。さすが星神(トリックスター)サマだ」
 ハデスが目線を向けている方を見ると、そこには長らく行方知れずだったアストライオスがいた。
 彼は隠しきれない笑みを浮かべて、カミを見つめている。周りには千を超える瓶が浮かび、その一つ一つの蓋は開けられ、割られているのもあった。中に入っていた魂は、冥界の空を超えて飛び去っていった。
『アストライオス!』
 カミの怒号が、空を貫いた。ハデスの雷鳴の比にならないくらいの怒りであった。ハデスは耳を塞ぎ、仕事に勤しんでいた悪魔も天使たちもその場から消え入るように逃げ仰せていく。カミは地を蹴ると、空の方へ飛び出していった。
 アストライオスの胸に抱えられている二つの瓶を、カミは見ていた。それにめがけて鋭いペパーナイフを突き立てる。だが、その身を軽く浮かせるアストライオスは、空中で舞うように体勢を変えると、カミの燃え焦げている方の半身を蹴り上げた。僅かに崩れたカミの体勢、しかし尚も向かっていく。それを突いて、今度はアストライオスがカミの胸元に手を伸ばした。服ごと引きちぎって、現れたのは一本の鍵だった。大陽世界に通じる鍵を、アストライオスは一瞬躊躇いながらも口に入れた。やめろ、とカミが言うまでもなく、喉の奥へと飲み込まれてしまった。
 アストライオスは空色の瓶をじっと見つめると、コートのポケットに仕舞った。そしてなおも容赦なく、もう片方の瓶を見ていることしかできないカミに見せつけると、どこからか拾い上げた冥界の石を叩きつけた。しかし何度叩いても、瓶には傷一つつかない。今度はカミが笑う方だった。
『そいつの魂には、呪いをかけておいた。私にしか解けないものだ』
 アストライオスは近づいてくるカミを睨みつけると、空中に円を描いた。冥界の空に、不自然な色の穴が開く。そこへ、瓶を遠くへ放るように投げ入れてしまった。カミは果敢に門を潜ろうとしたが、小さすぎて入れない。そこに気を取られて、アストライオスはその場から光速で去っていった。
 あとに残されたカミもハデスも、自身の大切なものを彗星の如く奪われて、茫然自失の顔を浮かべるしかなかったのだった。

後記二 『メトシェラ』

 神々(アヴァタール)を屠る者、あの岩石頭がカミの手によって消え去ってから、天上世界には真の平和が訪れた。神々は今まで通り自身の持つ力を使いながら働き、遊び、笑い合う。平穏な日々だけが幸福な天上世界に流れていく。
 しかし、天上世界の最高神だけは、冥界に行ったという日から今度は大陽世界の窓から動くことが滅多になくなってしまった。ただ「恐怖の大王」の予言が見事に外れ、無垢に喜ぶ人間たち、人類歴二千年を無事に迎えた地球上を血眼で眺めていた。
 正義の女神だけが平和な日々に浮かれることなく、またカミに物怖じすることなく、密かにカミに会いに行っていた。思えば、世界の二大巨頭――大陽世界も太陽世界も、結局残ってしまった。あの日、女神が議長を務めた会議では、結局何の結論も生まなかったのだ。――全く、カミはこれからの世界とアヴァタールの方々について、どうお考えなのかしら――。女神が会いに行ったのは、カミを早く現実に引き戻すためでもあった。

 図書館の東極に華やかで甘い香りが漂い始めた。今日も来たか。カミが振り返ると、赤いバラの花束を抱えた女神が立っていた。カミが会釈するように目配せすると、そばの棚に立ってひそひそ声で話していた二柱の若い女神たちが気を配って駆け出してきた。彼女らは女神から花束を受け取ると、大きい花瓶を探しに立ち去っていく。カミは地球探索を一旦止めて、女神の方に顔を向けた。相変わらず、優しいままのあなたの顔だ。
『毎日そんなに足労しなくても良い。バラも日増しに増えてはいないか?自然に咲かせておきなさい』
「結局、迷ってしまって。カミは何の花が一番お好きなのですか」
『何でも好きだ。育てた者が綺麗に咲かせたのなら何でも。だが――、やはりバラはいいな。セインが好きだったからひとしおだ』
 カミは側の卓の上、花瓶に一輪だけ刺してあったバラを手に取って微笑んだ。思えば、カミはこの一件が落ち着いてから、笑うことが多くなった、気がする。元々静かな性格で、いつ何時も顔に笑みを湛えたカミではあるが、最近は芯から笑っているような――。それは愛おしいあなたの顔を通してカミを見ている女神が見ても明らかだった。
 それだけではなく、厳格な雰囲気も女神の前では柔らかく親しげになってしまうのだった。それとも、本当は元々そのような性格だったのかもしれない。しかしカミ自身の自覚はないらしく、バラを花瓶に戻すといつも通りに話し出した。
『言い忘れていたことがある。彼は、あの者に屠られたのではない』
 彼、と聞いて幾つかの顔が思い浮かんだが、カミの手はその胸元にあり、カミ自身を指していた。幾らか間を置いて、女神はやっとあなたのことだと理解した。
 しかし、理解はできたものの納得が追いつかない。あなたは、あの岩石頭に倒されたのではなかったの?確かに、明確にその様を見ている訳ではなかった。女神は敢えて胸の奥に仕舞っていた、あなたとの最期の逢瀬のことを徐々に、ゆっくりと思い出していた。あなたの姿をしたカミは深く頷いた。
『おまえに話した、寿命を迎えた世界。あれが、彼の世界だったのだよ』
 女神の唇がわなわなと震え出す。女神にだけ世界の寿命のことを知らせた、その真の理由がわかったような気がした。しかし、納得にはまだ程遠い。
「どうして……。どうして、先におっしゃっていただけなかったのですか?」
『判決に支障が出るのではないか』
 カミの言葉が冷たく聴こえる。あの岩石頭へ、最期には冷酷ともいえる判断を下したカミだ。女神はまた、カミのことが畏ろしくなっていった。
『彼――ズヴェン、又の名をキファ。だが彼のほんとうの名は、メトシェラ。彼は星人として生まれたが、神としては古い方だった。アストライオスが生まれる以前、私は幾名かに虚の世界を与えたのだ。アヴァタールの仕組みを作り上げるためにな』
 あなたは――カミの世界運用のために使われた駒だと?カミへの不信感がどんどん膨れ上がっていくが、女神は一言も口に出すことができない。カミはただ淡々と説明を続ける。
『アストロフィーにいるときは、彼は星人としての生を全うし、世界には手をつけなかった。だがビッグバン以降、おまえと自らの世界を謳歌した。あとはわかるな?』
 カミが仰ったとおり、女神には十分にわかっていた。アストロフィーでの星人たちの大戦が終わった後、あなたが創ったという世界に招待された。そこは美しい花が咲き、清水が流れ、陽気は大地を優しく照らす。空には白く暖かな朝と黒く冷たい夜が交互に現れ、四季もまた巡り出した。本当に、美しい世界だった。だが、神々が新宅地の住人として足を踏み入れると、平穏は終わってしまった。元々小さかった地を巡る領土の奪い合いに、災害で失われることの多くなった作物の取り合い。小さな諍いは、やがて大きな戦争に発展していく。
 あなたの世界が踏みしだかれるたびに、あなたは生気を失ったようになっていった。この病気は、ずっと噂に聞いていた、アヴァタール殺しによってもたらされるウイルスが原因だと思い込んで、私はあなたから片時も離れずに側にいた。でも――、最近になって女神も見るようになった人間が、姿形を変化させていく現象――「老い」のその極致を思い出す。顔に何本も刻まれた深い線、白く染まる髪、曲がる腰、骨ばっていく身体。あなたが息を引き取った姿に、なにもかもそっくりだ。
 気がつくと、その最期のあなたの姿が目前に現れて、女神は黄色い声をあげて飛び上がった。
『世界の老い、そして寿命を迎え、命尽きる。アヴァタールたる神が途方もなく永い年月を経て辿り着く境地だ』
 私はそれを目指す。カミは嗄れた声を元の若く低い声に戻した。女神の瞳からは大粒の涙が落ちてきた。不思議そうなあなた、いや、カミの顔に何もかも嫌になって、側にあった花瓶を投げつけそうになる。しかし女神はぐっと堪えて、カミの顔から目を背けるようにした。もう、絶対に目を合わせない。そう心に誓って、女神はわざとらしく平静を装った。
「それは……アヴァタールたちは知っているのですか」
『知らない。言いもしない。おまえたちが自ら気がつくまでな』
 ――またそうやって、貴方は私たちを見下し、見捨てるのね。貴方はこの世の総てが愛おしいと宣うけれど。貴方があのひとに世界を与えなければ。少なくとも、こんなに早く命を落とすことはなかったのではないか。私たちのことも愛してると言うのなら、貴方がいう寿命、死の間際に助けてくれても良かったんじゃない?――
 女神の心中をやっと読み解いたのか、しかしカミは厳しい言葉を優しく無機質な声音で続けた。
『無力だと見下した人間とおなじ結末を迎えるとき。人間の愛おしさが、少しはわかるのではないか?』
 そう言って、カミは久方ぶりに大陽世界の窓を後にした。窓の外には、陽の光を受けて黄金色に輝く一面の砂漠。その上に、内臓が露出し、折れた翼の巨大な鳥――いや、壊れた飛行機が黒煙を上げていた。飛行機だったものの欠片の隙間から、人間だったものらしき身体の一部が見える。女神には、まだ()()()()()の愛おしさなど、理解する由もなかった。しかし、あなたの命を落とすことになった、世界の寿命のことについては、幾度も思考を巡らせていた。
 ――貴方の世界が終わったとき。数多の小さな世界は、強大な世界の脅威に晒されなくなるのだろうか?いや、おそらく貴方が終わったとき、全てのアヴァタールも、彼らに付随する世界も、そして私たち神々も、星人も、みんな一緒に消えてしまうのではないだろうか。このすべてが、傍観を決め込む貴方が思うままの、貴方に都合のいい世界。私たちはここであと五十億年をかけて、無干渉の糸に引かれて踊り続けるのだ――。

紙上で踊る

✴︎参考文献✴︎

星新一
「殺し屋ですのよ」-『ボッコちゃん』
「殉教」-『ようこそ地球さん』

「危機」
「ジャックと豆の木」
「気まぐれな星」
「対策」

「宇宙の男たち」
-『宇宙のあいさつ』

レイ・ブラッドベリ
『華氏451度』

紙上で踊る

世界のしくみと、生のはなし。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 前記 なもなきせかい
  2. 第一話 踊りて進まぬもの
  3. 第二話 喧騒にて鎮まるもの
  4. 第三話 遺して死にゆくもの
  5. 第四話 屠りて釣り合うもの
  6. 第五話 恐れて愛すべきもの
  7. 後記一 そして星になる
  8. 後記二 『メトシェラ』