二重連星掌編集

星が地に落ちた日

 目を覚ますと、そこは砂漠のど真ん中だった。
 一粒一粒が熱を帯びる黄色い砂が、身体中にへばりついて水分を奪っていく。乾涸びた唇を何とか開けて声を出そうとしても、喉はただ熱い息を空中に吐き出させるだけであった。
 ふと、半開きの目で空を見上げる。おかしい。僕はあそこにいた――空を飛んでいたはずなのだ。ちょうど今飛び去った鳥のような、すてきな翼を持った飛行機に乗って。角の丸い窓の外から、雲の上の青空の景色を見て、天国ってこんな感じかな、って笑いあったことも覚えている。――でも、誰と?
 思わず、僕はその身を勢いよく起こした。左手が、何かを掴んでいるような気がした。その手を開くと、黄金色の熱砂が風に吹かれてさらさらと零れ落ちていった。それに合わせるかのように、僕の微かな記憶も頭の中からばらばらと崩れていくのを感じた。怖くなって、立ち上がって走り出していく。おぼつかない足元が重い砂に引っ張られて何度も転びそうになる。その度に、僕の頭から抜け落ちていった記憶を埋めるかのように、新しい情報が、情景が、するすると入ってきた。そうだ。僕は飛行機に乗っていた。それは確かだ。でも、その飛行機は墜落した。撃ち落とされた鳥のように、青い青い空を真っ直ぐ綺麗に落ちていったのだ―――
 ついに、僕は足を掬われて転んでしまった。打ちつけた頭を少し上げて、周りを見渡す。では、大破した飛行機は?ばらばらになったその翼は?エンジンは?そして――僕が握っていたはずの、柔らかく愛おしい右手は?その手の主である君は、どこに行ってしまったの?
 答えは明白だった。みんなみんな、この砂漠をかたち作る化石の層になってしまったのだ。僕ひとりを置いて。途方もないものが、心をせぐりあげてきた。でも、渇き切った身体では、涙も、泣き声も、もう出て来てはくれなかった。
 ふと、僕は身体を仰向けにすると、もう一度空を見上げた。今度は開き切った目で、青空ではなく太陽を見た。厳しく照りつける太陽だったが、ひとと目と目が合った時のように、優しく微笑みかけてくれたような気がした。太陽はその優しさのまま、僕に静かに語りかけた。
『やっと、生まれてきてくれたね。愛おしい、僕の星の子。きみは、今這っているその地を、熱く焦がすために生まれてきたんだ』
 太陽の声は何かを発し続けているが、それは小さく、か細くなっていく。やがて視界もぼんやりとしていき、目を開いているのに、完全に何も見えなくなった。太陽の眩しさも、綺麗な青空も、空気と砂の熱さも、何もかもの感覚がゆっくりと自分から離れていったとき、僕の目は完全に閉じ切った。

星が宇宙に沈んだ日

 気がつくと、おれは宇宙に投げ出されていた。
 ひやりとしたものが辺りを包み、そこを重力に逆らった身体が通り過ぎていく。息はできないはずなのに、おれが口から何かを吐き出すたび、いちめんの星が揺らぐように瞬いた。
 だが、おかしい。微かな記憶を辿るに、おれは海の中にいたはずなのだ。どこか海の向こうの国へ行く途中、乗っていた船が突然に壊れ、そのまま沈んだ。多くの乗客のひとりであったおれも海に沈められ、ここまでかという諦念の中に意識を失った。そうして、今に気がついたところだ。
 とすれば、ここは海の中なのだろうか?たしかに、身体を包む冷たい空気のようなものや、おれが吐き出し続けている泡のようなものを見ても、ここは海中らしいと思うことができる。それでも――なぜか、おれの直感のようなものは、ここは宇宙だと言い聞かせてきた。
 ここは宇宙。おれが元々いた星からも、世界からも遠く離れた宇宙。あまりに距離がありすぎて、もう戻ることはできない。そういった感覚が頭を、心を埋め尽くすと、初めから力がかからなかった身体から全てが抜け落ちた。そしてそのまま、沈むように遠ざかっていく身体が、進行方向へと速度を大きくしていった。
 ――どこへ?おれの身体は、どこから、どこへ遠のいていくのか?おれは堪らず目を見開いた。視線の先に、眩いほどの白い光が四方八方に乱反射しているのが見えた。その光は、身体が進んでいく方向とは逆向きに小さくなっていく。鑑みるに、おそらく光があったところがおれのいた場所なのだろう。さらに瞳のレンズを絞ってよく見た。すると、白い光のそばに、青色の小さな光が、ぽつんと閃いたような気がした。一瞬間に見たその青は、力の抜けていたおれの身体に、心に再び希望を灯した。きっとあの青が、おれが乗っていた船だ。あの光の方へ、青の船へ行きたい。おれは、身体の向きを変えようと、必死に腕を掻き分けた。
 突然。白い大きな光が、視界を奪うほどにぱっと明るく輝いた。おれは思わず、目を固く閉じてしまう。その時、おれの脳裏に聞いたこともない声が響いてきた。
『これは罰だ。ちくしょうめ。泡となって消えるか、塵となって燃え尽きるか。せめて最期ぐらいは選ばせてやる』
 悍ましい声に、おれはなぜか再び目を開くことができなかった。身体は無重力に任せて、どんどん沈む。閉じた瞳の裏にまで及んだ白い光から、身体も、心も遠ざかっていった。

孤星の望遠鏡

 サンはひとりぼっちだった。父に用意された狭い部屋で、本を読んで、詩を詠んで、キツネやヘビのぬいぐるみと遊ぶ毎日。やがて一人遊びに飽きてしまったある日、サンは父のいる居間へ入った。父は備え付けの双眼鏡で、大きな窓の向こうの、一面に星々が散りばめられた青黒い空間を見つめていた。
 父の方は飽きることなく、遠くにあるであろう何かに焦点を定めてずうっと見ている。この家の周りを小さな惑星がいくつか通り過ぎても、双眼鏡を動かすことはなかった。サンが少し離れた居間の入り口からこっそり見ていても、居間に入ってソファーに腰掛けても、こちらを見ることもしない。見かねたサンは、手に持っていたヘビのおもちゃを握りしめて、きゅうっと音を出した。やっと、父は自分の方を振り向いてくれた。嬉しそうにヘビを何度も鳴かせるサンに、難しそうな顔をしていた父はそっと微笑んだ。
「ねぇ、何を見ていたの」
 サンは自分の向かいに座った父に問いかけた。赤い色のコーヒーで一服した父は、ちょっとした観測だよ、と答える。そしてカップをテーブルに置くと、再び立ち上がって双眼鏡の方へ行った。それから角度を調節して、高さも最小に変える。その行為を不思議そうに見つめていたサンを、父はやがて手招きした。
「君も、見てみるかい」
 サンの顔がぱっと明るく輝いた。ヘビをソファーに置きっぱなしにして、父の元へ駆け寄る。高さを最小にしても届かない双眼鏡だったが、父は丸椅子を台座の代わりに持ってきてくれた。それによじ登って、やっとふたつの目をレンズに合わせる。瞳は筒型の黒い空間を通って、丸い世界を見た。小さく丸く切り取られた空間が、無数の星の瞬きをもって目に飛び込んでくる。けれども特に目立つのは、その中心に据えられた大きな星。それは瞬きをしなかったが、黄金色の美しい肌を持っていた。しばらく見とれていたサンは、やがて父の方に顔をむけた。感嘆の笑顔に固まった顔。だが父は立ったままノートに書き物をしていて、またしてもこちらを見てくれない。それが少しつまらなくなったサンは、父に気づかれない程度に、双眼鏡の方向を少しずつ、少しずつ変えた。レンズに目を当てながら、難しそうなダイヤルを回すと、ぼやけた視界がクリアになる。すっかり様相を変えた丸い世界に、ふと一つの星が入り込んだ。
 その星は、サンの目も心もまるで奪っていった。星には所々薄いベールがかかり、そこから黄色や緑色のでこぼこした服が見え隠れしている。そして、何といっても一際目を惹くのは、星の表面のほとんどを占める深い青色の肌。その青は、サンもまだ目にしたことがなかった、唯一ともいえる美しい色をしていた。この星と同じように自分達のまわりを惑う星々も、はっきりとした青色は持っていなかったのである。
 自分と父がいるところの周りをゆっくり回りながらも、青い星たち自身がそれより速いスピードで回転していることに、サンはやがて気がついた。青い星が身につけているベールや服装がわずかに変わっていくのだ。こうやって青い星を見続けて、どれほどの時間がたったのだろう。サンは疲れてきた目を双眼鏡につけたままぐっと閉じると、何もない黒い空間を見て一呼吸置こうとした。そうして遠くを見たサンは、その先に小さな一粒があるのを発見した。それは青い星の延長線上にあって、青い星やその他の惑う星のように自ら輝きもしない、虫のように小さい存在だった。けれどもサンには、その小さなものがどうしても気になった。自分の力で見とめた青い星と同じように、自分で見て正体を確かめたい。はやる気持ちに応えるように、手すりを力強く握っていたサンの手に、ボタンのようなものが入り込んできた。サンは双眼鏡のレンズに目を、顔を貼り付けたまま、ボタンを目視することなくそれを押した。
 その時、双眼鏡は微かな機械音をあげ、サンの視界は眩しさに覆われた。黒い空間を浮かんでいた星たちが、流星群のような光線となってサンの瞳を焼き尽くしていく。それでもサンは、眉を顰めはしたが、瞼を閉じることはなかった。速度を上げて移りゆく視界では、あの小さな存在を見逃してしまうと考えたのだ。だが、それは杞憂に終わった。難しく唸る双眼鏡は、サンが見たがった対象を間近に写すと、その音を止めた。騒がしかった視界も、音とともにしぃんと静まり返った。サンはまたダイヤルを弄って、丁寧にピントを合わせる。その物体の正体に、サンは思わず言葉を失った。
 それは、ひとりの人間だった。いや、ふつうの人間ではないかもしれない。その人物は、宇宙服も身につけることなく、黒い宇宙空間を漂うように浮いているのだ。透き通るぐらい白い肌に赤い唇を見ると、もしかしたらもうその命は尽きているのかもしれない。けれども、冷たい空間に放り出されて凍りつくことなく、また星々にぶつかって燃え尽きることもなく、その姿を保っていることは不自然にも感じられた。
 人物を見つめ続けていると、それはやがて、ゆっくりと両の目を開いた。驚くことに、生きている。サンが思わずあっ、と声をあげると、父がじっとサンの方を向いたのにサンは気がつかなかった。それほどまでにサンは見とれていた。浮かぶ人物の瞳は、片目ずつ異なる色を持っていたのだ。右目は血のような赤、左目はガラスのような青。色違いの二つの目だが、両方とも何故だか冷たい。やがて、光のない瞳と、自分の目が見合ったような気がして、サンはどきっとした。そのまま、人物はサンがすぐ近くにいると感じているかのように、細い腕をサンの方にゆっくりと伸ばした。助けを求めているようにも見えるその姿は、どんどんサンがいるところから遠ざかっていく。思わず、サンも自分の手を前に突き出した――。
 何かから強い力で押されて、サンは台座から崩れ落ちた。途端に、現実に引き戻される。サンを転ばせた父は、その勢いのままに双眼鏡を叩いた。双眼鏡は半回転して、反対側の大きなレンズがサンの目前に迫った。彼の目は見開かれ、鼓動は止まってくれない。しばらく息を荒げていた父だったが、尻餅をつきながら呆然としているサンの方を向くと、慌てて固く抱き締めた。
「ごめんね。怖かったね。ぼくが、動かしてはダメって言わなかったから」
 その声も、体もわずかに震えているのを感じ、サンも腕を父の背中に回した。けれども、先程に目にした人物のことを、どうしても聞かずにはいられなかった。
「さっきね、ひとが浮かんでいるのが見えたんだ。あのひと、大丈夫なのかな」
「きっと幻だよ。宇宙は、ときどきおかしいものを見せてくる。変な夢を見ないように、忘れた方がいい」
「ほんとうに?だって、双眼鏡が最初に見つけて、僕に見せてくれたんだよ」
 わずかにはにかみながら――それでもほぼ無表情で、サンの頭を優しく撫でていた父だったが、それでも真っ直ぐ見つめてくる子どもの不思議な言い分についに観念して立ち上がった。そのまま双眼鏡の角度をリセットすると、ボタンを押して電源を切る。そして、サンからは視線をわざとらしく逸らして、諭すように言葉を発した。
「あれは……悪いことをしたんだ。宇宙に投げ出されているのは、その罰さ」
「悪いこと?あのひとは何をしてしまったの?」
「ぼくの大切なものを奪ったんだ」
「それはいけないことだね。どんな――」
 サンは父が言う「大切なもの」のことをもっと知りたかったのだが、それ以上は聞かないでほしい、と最後に言われて、口を開くのを我慢した。
 再び、部屋の中に静寂が満ちる。父はサンの向かい側に腰掛け、記録を取りながらコーヒーを啜った。ふと視線を感じて顔をあげると、サンが澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめていた。父は思わず不思議そうな表情を浮かべてしまうと、サンは何かを欲するように訴えてきた。
「……ねぇ、ぼく、あのひととお話ししてみたいな」
 突拍子もないサンの言葉に、父はコーヒーを吹き出しそうになる。自分の子どもが"あれ"と――罪人と話したがっている。だが、それは何としても止めなければならない。あれと話すことが、せっかく仕立て上げた"いい子"にどんな悪影響を及ぼすか計り知れないのだ。けれども、いい子は――サンは完全に自分の世界に入り込んでしまっていた。これはサンの生まれつきの悪い癖だ。そんなうっとりとしたような調子で、サンは言葉を続ける。
「あのひと、どんなひとなのかな。とても綺麗な目をしていたよ。右と左で色が違うんだ」
「だから言っているでしょう。あれはいけないことをしたんだ。どんなに綺麗な目を持っていても、悪いやつには変わりはない」
 "あれ"の左右非対称の瞳が、サンの気に入ったらしい。だが、父はそんなことはまるで気にしてもいないようだった。今度は父の方が言葉を続けようとしたが、当のサンはというと、いつの間にか巨大な窓に全身をはりつけていた。そして、"あれ"をーー"あのひと"を見つけた方向の空間を、食い入るように見つめている。あのひとと同じ延長線上にある青い星は、自分たちがいる部屋に随分と近づいていた。その青を背景にして、サンは父の方にゆっくり振り向いた。そうして、何も言えなくなってしまった父
「世界にはぼくの知らないひとがたくさんいるんだね。ああ、ぼく、ぼくが見つけたあのひとのこと、もっと知りたい。あのひとと友だちに――」
 サンは言いかけて、口をつぐんでしまった。突然、父が大きな音を立ててカップを置いたのだ。カップの中で勢いよく揺れたコーヒーは、記録用紙にしみをつけた。自分の世界から急激に引き戻されたサンは、父を怒らせてしまったのだと咄嗟に理解した。いつもより荒い足音を立てて、自分の方に向かいくる父の姿を見ることができず、サンは両の目を固く閉じた。だが、足音が止まってしばらくしても、父は何もせず、何も言わない。恐る恐る目を開けて父を見ると、父はサンの後方、大きくなった青い星に視線を向けていた。その瞳は、悲しそうな、虚なような色を浮かべている。今度は父の方が、自分の世界に入ってしまったようだ。ゆっくりつま先を立てて、背伸びをしながら父の顔を覗き込むと、父ははっとして、サンの方を見た。その瞼が下に降りる目線のまま、父はやっと重い口を開いた。
「サン。僕は怖かったんだ。"あれ"みたいな悪いものとお話しすると、君まで悪い子になってしまうのではないかと思って」
 ぼそぼそとした父の言葉にも、苦しそうな声色が灯っているようだった。それでもサンは、なぜだか"あのひと"のことを諦めたくなかった。
「でも、じゃあ……ぼくがお友だちになって、何がいいことで、何が悪いことなのか教えてあげるんだ」
 珍しく強情を張るサンに、父は少し怯んだようだった。そして今度は、ソファーに置き去りにされた二匹のぬいぐるみを取り上げて、サンの目の前で遊んでみせた。
「ほら、君にはもう、友だちがいるじゃないか。キツネとヘビの友だち。それとも、もうこのふたりには飽きてしまったのかい」
「そんなことない!でも……キツネさんとヘビさんは、いけないこと、悪いことはしないでしょう」
 父はついに、何も言い返さなかった。ただ一人で何かを呟きながら、額を手で押さえている。サンはまた、窓の方に振り返って、青い星の、さらに向こうの彼方を見た。双眼鏡なしでは、"あのひと"の姿を捉えることはできない。けれども、今もこちらに手を伸ばし続けているのかと思うと、胸がきゅっと痛くなった。今すぐにでも迎えに行きたい。目と目を見合わせて、その声を聞いてみたい。なにせ、ぼくが、ぼく自身が見つけた君なのだ――。
 突如、まったく何の前触れもなく、警報音が鳴り出した。父は驚いて辺りを見回す。部屋の主である父でさえ、聞いたことがない音だったのだ。けたたましいサイレンの音は、徐々にプロペラやエンジンの轟音へと変化していった。はっとしてサンの方を見ると、なんとサンが立っている窓の向こうに、白い翼と骨を持った飛行機が出現した。機体は部屋を覆う厚い窓のガラスをことごとく割ってしまうと、大きな影を部屋の中に落とした。暗くなったサンの顔は、水色の瞳を爛々と輝かせて父を見下ろしている。
「サン!」
 父は出したこともないような大きな声で、子の名前を叫んだ。だが、サンはまるで聞いていない。警報音と機械音の中で、半ば夢でも見ているかのようにぼうっとして、揺れている機体を掴んで乗り込もうとした。その既のところで、父は素早く駆けていくと、サンの身体にしがみついて引き寄せた。そして耳元に口を近づけると、宥めるように囁いた。
「わかった。わかったよ、サン。明日の朝には、彼をここへ連れてこよう。それまで、いい子にして今日はお休みなさい」
 サンは一瞬だけ、意識を取り戻したかのような反応を見せると、自分を抱き寄せている父を真似てまた目を閉じた。室内を騒がせた飛行機は、幾つもの窓ガラスの破片を残したまま、いつのまにか消滅していた。泡のように、はたまた塵のように。

血とガラス、林檎と青星

 無機質な部屋も紅茶の香りに満たされるひととき。真ん中の丸テーブルで、ふたりが向かい合っている。その片割れ――サンは、テーブルに顔を半分くらいうずめて、立方体型の砂糖を積み上げていた。やがてシュガーポットを空にしてしまうと、今度は一番下の段から、砂糖を指で弾き始めた。器用な指はテーブルの上に砂糖をまばらに滑らせていく。だが、ある一粒が勢い余って向かい側のもう一人の腕の中へ飛び込んだ。さらに慌てて立ち上がったせいで、砂糖の塔はサンの反対側へ、倒れるように真っ直ぐ崩れていった。
 向かい側の君は頑なに目を瞑っていたが、砂糖を大量に浴びて、やっと瞳を開いた。サンがずっと待ち侘びていた瞬間だった。半ば興奮気味に着席すると、サンは相手を観察し始める。ーー髪には、柔らかいウェーブがかかっている。僕と同じだ。嬉しいな。服は、何だか不思議。元々かっちりきっちりした服なんだろうけれど、所々濡れているのはなぜだろう。そして、一番素晴らしいのは、なんといっても君の両の瞳!初めて見た時から素敵だったけれど、本物を真近で見るとほんとうに綺麗だ。この瞳、実は片方ずつ色が違う。一つは赤で、もう一つは青。遠くから見るとそれぞれ血のように、ガラスのように冷たく見えたけれど、今は林檎のような赤と……あの星、君をその延長線上に見た美しい星が纏う、美しい青。両目とも、前と違って少しだけ暖かく見えるのは、寒い空間からこの室に入って、よく眠ることができたからかな。それならいいのだけれど――
 瞳の中へ完全に吸い寄せられていたサンは、ふと相手と視線が合ったのに気がついて、やっと我に帰った。自分の方がずっと見ていたのに、相手が無表情で見つめてくるのには耐えきれなくて、誤魔化すようにして床に落ちた砂糖を拾い上げる。相手はしゃがむサンを横目でちらとだけ見ると、目の前に置かれたティーカップに焦点を定めた。再び沈黙が訪れるのを予感したサンは、床に集めた砂糖をそのままにしつつ、いくつか質問を投げかけた。
「君、名前は?」
「名前はない」
「そうなんだ……好きなものは?」
「さあ、何だろうな」
「えっと……あっ、クッキー食べる?」
「ああ、食べよう」
 相手はサンが差し出したボウルに手を伸ばしてクッキーを一枚取ると、ほとんど音も立てずに食べ始めた。サンはその仕草をまたじっくりと見始めた。
 そうして、ふたりは部屋の中に再び静けさが満ちてしまったのにはまるで気が付かなかった。

 また、しばらくの時が過ぎる。すると、相手の方からほんの一瞬だけ、サンと目を合わせてきた。それを見計らったかのように、サンはまた口を開いた。
「君の瞳って、とっても綺麗だよね」
 ティーカップを口に近づけていた向かい側の君の動作が、ぴたっと止まる。視線はサンの方に向いたままだ。サンが視線を逸らしたり、わざとらしく動いたりしても、微動だにしない。まるで、相手の周りの時間だけが凍りついてしまったようだ。サンは少し心配になって、どうしたの、と呟くような声をかけた。それでも相手は動かない。恐る恐る近づいて、そっと肩に触れたとき、相手の右手からカップが落ちた。カップはテーブルの角にぶつかると粉々に割れ、中身の紅茶は相手の服に広がってしみをつくる。サンはひやりとしたが、紅茶が冷めていたのが唯一の救いだった。大丈夫?と聞きながら棚からタオルを取り出す。すると、濡れたことなど今更、歯牙にも掛けないというふうに、相手の方からサンに話しかけてきた。
「おまえは、おれの目が綺麗だと言ったな」
「うん。ずっと、思っていたことなんだ」
「そのようなことを言われたのは、おそらく、初めてだった」
「ほんとうに?君の瞳は、美しくて珍しいと思うよ。右と左で、色が違うんだ」
 左右で色が違う?相手は怪訝そうな顔を浮かべる。そして独りでに、壁一面のガラス窓の方へと歩んでいった。サンがそっと近づいていくと、君は星が一面に広がる空間をじっと見つめていた。――いや、違う。よく見ると、君は自分自身の瞳を見ていたのだ。細い指がガラスに映る左右二色の瞳を撫で付け、瞳の鏡像はその目の持ち主を小さく映し取って微かに揺れる。だが、それもすぐに見えなくなった。君が瞼を伏せてしまったのだ。そのまま身を翻して、窓から離れていく。その刹那に見えた顔が、なぜだかとても淋しく見えて、サンは思わず相手の腕を取った。反射的に振り向いた顔は、やはり何かを憂いているような、困惑しているような色を浮かべていた。
「……何もわからない。おれはなぜここにいる?おれはなんだ?」
 震える声にしがみつくように、サンは相手の手を引き寄せて言った。
「君は僕が見つけた、星なんだ」
 出し抜けに声に出してしまったから、自分でも何を言ったのかわからなかった。けれども、君に伝えたいことが、次から次へと心から湧き出してくる。視点の定まらない愛おしい瞳をなんとか捉えると、今度は言葉を一つ一つ、大切に発した。
「僕は君を見つけた。君は僕に手を伸ばした。その手をどうしても掴みたかったんだ」
 白く、冷たい手を握る腕に力を込める。君の目が赤く、青く瞬いて、暖かく落ち着いていく。サンは幸せを噛み締めた。君を初めて見つけた時のことを思い出したのだ。初めて見つけて、感動を覚えて、強くねだったことがこうして叶っている――。
「……星くん。僕が最初に発見した星だから。ねぇ、君のこと、星くんって呼んでもいい?」
 また、突拍子もないことを言ってしまった。サンは口をつぐんで、相手の様子をしげしげと見る。いつの間にか微睡を顔いっぱいに浮かべていた相手は、ああ、とだけ答えた。何だか難解な表情だったけれど、悲しくも苦しくもなさそうだ。サンは安心してソファーに率いると、横にして寝かせてあげた。それから、ずっと口に出したかった憧れ――大切なひとの名前を、声にして発した。
「おやすみ……星くん」

はじめようか、天体観測

 白い岩の星が、美しく青い星に衝突した。
 一瞬で、青い星が赤い炎に包まれる。肌は溶け、煙と蒸気の混じった薄衣のようなものに覆われた。砕けた岩石も宇宙空間では塵にひとしく、それぞれが引っ張りあって集まっていく。
 この光景を、サンは望遠鏡越しに覗いていた。二つの星の変化の一秒一秒が、アストライオスがくれた万華鏡を覗いたときよりも、美しく目まぐるしい様相を見せて、しばらく何の言葉も口にしなかった。
 ふと、今度はある一筋の閃光が見えるのに気がついた。残光の軌道を見るに、橙色のひかりは青かった星の表面を跳ね返って、逆方向へ速度を上げて進んでいく。このひかりにもまた、サンは見惚れるほかなかった。いや、二つの星以上に見惚れていた。レンズ越しの光景を絵に描けたらどんなにか素敵だろうと思ったが、あいにくスケッチブックと画用紙を取り上げられてしまったので、今はそれができない。
 沈黙の流れる室で、珍しく星の方から口を開いた。
「今のは何だろうな。流星が衝突したように見えたが」
「星くんすごい。肉眼で見えるんだ」
「ああ。しし座の主星(レグルス)だった」
 主星(レグルス)。その名前を聞いて、サンは勢いよく振り向く。ちょうどその時、アストライオスが室内に入ってきた。サンは鼻息を荒くして言った。
「ねぇ、レグルスだって」
「ああレグルスだ。それがどうした?」
「星くん、覚えてる?僕の本の命題の……」
「サン。何度も言っているでしょう。君たちの本や命題は、君たちが生まれてくるための付属品(おまけ)でしかないんだ」
 アストライオスは笑みを溢したまま、望遠鏡のレンズを布で拭き取って蓋をする。見るからにしょぼくれたサンに、つとめて明るい声を出した。
「それより。君たちにお願いがあるんだ。――星空を完成させてもらいたい」
 これが、サンと星がアストライオスから請け負った仕事であった。

 星空?サンは一面ガラス張りの窓の向こうの空を見た。黒い背に色とりどりの点が散りばめられ、その一つ一つが光を放っている。窓の外には俗に言う宇宙空間が目に見えぬ果てまで広がっており、夜の地上からは点描が星として、星座を描いて見えているはずだ。満天の星空にも、欠けているところがあるのだろうか?
 サンの心中を察してか、アストライオスは困ったような目つきで優しく微笑んだ。
「地上から見上げる星空は綺麗だね。でも、宇宙的には完璧ではないんだ。僕が星を生み出した頃は、星たちはもっと強いひかりをもっていた」
 アストライオスが手を翳すと、ガラスの外の景色はたちまちに様相を変えた。細かいひかりの点は線となり、流星のように速度を上げて隣をすり抜けていく。いくつものひかりの筋がやがて再び点に収まろうとしたとき、しかし点は、目の前に突然現れた巨大なひかりの球に飲み込まれでもしたかのように見えなくなった。
 球は青白いひかりを四方八方に放ち、色味こそは氷のような冷徹さを感じさせる。だが、いざ触れようとすると、ひかりと同じ色をした炎が辺りのものを焼き尽くさんとでもするかのように吹き出していて、それを許してくれない。熱を肌で感じることはなかったが、強いひかりに眼までも焦がされそうだ。サンも星も、同じように眉間に皺を寄せた。
「眩いでしょう。美しいでしょう。これは、おおいぬ座のα星(シリウス)。僕の大陽の次に、強いひかりを持った星だ」
 アストライオスが嬉々として解説する。サンは振り向いてまだチカチカする視界を瞬かせたが、星の方はまだ、顔に手を翳しながらシリウスを見ていた。アストライオスはサンと目が合うと、指を鳴らした。途端に青白いひかりが遠のき、点からいくつもの光線になり、また点に戻る。外の視界は、今度はひかりを持たない星、白い岩石ばかりでできたちっぽけな星の岩肌へと近づいていく。
 そうして映し出されたのは、ある一人の少女だった。優しい青みを帯びた絹のような髪、しなやかに伸びた背丈。そうして注目すべきは、切れ長の瞼におさまっている双眸。それらは冷たく白いひかりを湛えながら、青い熱を持った炎のように揺れている。今度はサンの方が少女の眼差しに心を奪われていた。
「彼女の名は、シリウス」
 サンの背筋がぴんと伸びると、アストライオスと星を交互に見て目を細めた。
「さっきの星とおんなじ名前だ」
「そう。彼女はα星(シリウス)のひかりをその身に宿し、ひかりを生命源として生きている。彼女のような者を、僕は星人と名付けた」
 窓越しの視界はゆっくり動き出した。そこに見えるのは、学生風の若者たち。一人ひとりが違う色彩の瞳を持って、空を見上げたり、忙しく駆け回ったり、大人を問いただしたりしている。その誰もが神妙な面持ちで、きっと先ほどの星の衝突のせいで騒動が起きているためであろう。
 その瞳のひかりたちを、その色をサンは幾つも知っている。色とりどりに瞬く瞳のどれをとっても、望遠鏡越しに見たことのある星々と同じ色だ。あのお兄さんの暖かな橙色はうしかい座の主星(アークトゥルス)。あの泣いている女の子はうさぎ座の主星(アルネブ)の紅い瞳。思わず手を差し出してみる。けれども、窓ガラスに指が触れて、紅く滲む涙を拭うことはできなかった。望遠鏡をのぞいたとき、その先に見える景色はここから遠い距離にあるように、窓の外の景色も遠い世界で起こっていることなのだろう。でももし、間近で見ることができたら。窓の外の世界に行くことができたら。
「外に出てみたくない?」
 サンは思わず飛び上がった。ずっと景色を眺め続けている星の袖を引っ張って、ぶんぶんと上下に振った。星がサンの顔を再び見たとき、眩しいほどに晴れやかな笑顔がそこにはあった。
「星くん、お出かけだって!シリウスとか、星人たちに会えるかも!」
「おまえは行く必要はないのだが」
 声音が少し低くなって、アストライオスは小さくぼやく。そう言われても、サンは手を離さなかった。星の方も、アストライオスを眉ひとつ動かさずにまっすぐ見て、いつも通りの無機質な声で尋ねた。
「外出と、星空の完成と。何の繋がりがある」
 アストライオスは聞き終わるのを待たずに、また指を鳴らした。すると、外の景色にいる星人たちの身体が少しだけ、透けて見え始めた。星はシリウスを、サンはアルネブを見ていた。透明なシルエットの腹部と胸のちょうど真ん中あたり、それぞれの瞳の色と同じひかりを纏った塊が、ゆっくり回転しながら細い流れを出しているのがわかった。その放物線のような流れは上へ昇っていき、夜の色の空へと吸い込まれていく。
「今見てもらっているのが、星人の生命エネルギーの集約。いわば、魂だ。星のひかりは魂として、肉体に宿る。そうして、星人が生まれる」
 物語りを聞かせるように、アストライオスは伏目がちに優しく囁く。サンは父の顔に惹きつけられていた。瞳の隙間からは、アストライオスの真意を読み取ることができない。
 やがて流れは空中で一つにまとまり、眩いほどの輝きを放ち始めた。サンと星は感嘆を漏らしながら目を細める。まさに、いつも見ている夜空の星が一つ一つ形作られていく。いや、いつもの星空よりもずっと綺麗に、たっぷりの光量で瞬いている。その様子を見て、アストライオスは満足そうに頷いた。
「星人が――肉体がもつ星のひかりを、元の星に戻す。そうして星本体も、星空だって、本来の輝きを取り戻す」
「なぜお前が行かない?」
 星が珍しく口を開いたかと思えば、不思議そうに尋ねた。単なる疑問だが、アストライオスの癪に触ったのだろう。彼の眉毛も唇もぴくぴくと震えていた。サンはひりついた空気を裂くように、つとめて明るい声でわーっと叫ぶ。そうして、怒りはないらしい星の方を宥めた。
「いいじゃない、星くん。せっかく、外へ行けるんだ」
「だから。お前は行けないよ」
 アストライオスがかつてないほどに星に近寄る。その剣幕に、退かされたサンは慌てて割って入ろうとする。星も反射的に目をぎゅっと閉じていた。しかし――瞬きのような一瞬間の中でアストライオスは星の肩に手を置き、額を寄せた。何かを小さく唱えたようだったが、星には聞き取れなかった。ぱっと手を離されたとき、星は膝から崩れ落ちた。二人の様子を眺めていたサンは、すぐさま星に駆け寄ろうとする。しかし、アストライオスがそれを制した。
「大丈夫。すぐ制御できるはずだから」
 星の視界に文字通り、チカチカと星が飛んでいる心地がする。しかし段々と視界が慣れてくると、頭の中に多くの情報が流れてくる。瞬き、星の写真一枚。瞬き、星人が泣き喚いている様子。瞬き、別の色の星。瞬き、また別の星人が焦りを隠せない様子。瞬きをするたびに、勝手に写真や動画のような情報が処理されていく。アストライオスの腕をやっと退けて、サンは星のもとに駆け寄ると優しく肩を支えた。
「今。お前に星座の情報と、それに対応する星人の位置関係を全て流した。――お前は目が良いし、少し先の未来が見える能力がある。そうだな?」
 そうなの?と尋ねた。星は赤みを少しだけ取り戻した顔をして、何も言わずに頷く。アストライオスは淡々と説明を続けた。
「お前の能力と、星座、星人の情報を組み合わせて。星人の位置と行動を先回りすることができるだろう。それから、星の座標も。星のひかりを元に戻す時に重要だ」
 星への伝達が終わった途端、いつもの調子に戻って、アストライオスは二人を変わる変わる眺めた。
「まぁ、ということで。サンにも、星人の魂からひかりを抜き取る術をあげないとね。――仕事の内容、わかった?星人の行動を先回りして、サンが外に出る。星のひかりを抜き取って、空の星に戻す。簡単でしょう?」
 アストライオスは高い声で笑いながら、室をあとにした。星はサンから離れて立ち上がると、何事もなかったかのように星人の様相を眺め始めた。サンは自分にも新しい能力が与えられることに、内心では心配しつつ、外の世界へ行けることに期待を膨らませていた。
 こうして、二人の天体観測――もとい星人観測、および交流が始まっていくのだった。

夏の溶解

「あつい…あついよぅ」
 日増しに強くなっていく暑さに、僕は何度も唸った。まだ日差しが柔らかい朝、下宿屋のおばさんに古い自転車を借りて、波止場まで漕ぎ出してきてから、どのくらいの時間が経ったのだろう。最初のうちは爽快に潮風を切って進んでいた自転車も、今では夏の空気の鈍い重さに負けるほどのろまになっていた。
「だから言っただろう。今日は酷暑日になるからやめておけって」
 後ろの方から、涼しい声がした。自転車の後ろには、僕の相棒にして協力者にして、そして一番の友達、星くんが乗っている。
「やっぱり暑いよねぇ。じめじめしているから、砂漠よりもやっかいだ」
「…こんな暑さになることは、おまえも予想できたはずだが?」
「だって…明日にはもう、この町を出るでしょう?最後に何か、思い出を作っておきたくて…」
「まったく。おまえの考えることは、いつも突拍子もないな」
 お小言を呟きながらも、いつも星くんはついてきてくれる。それが嬉しくて、ついつい頼みごとをしてしまうのだ。でも、こんな本心は照れ臭くて言ったことがない。僕は少し首を捻って、星くんの顔を見てみた。
「なんだ、危ないだろう。ちゃんと前を見ろ」
 僕は星くんにまた注意されて、しっかり前を向き直した。すると、視界に小さな家のようなものが飛び込んできた。その前には、看板らしきものがこじんまりと置いてある。目を凝らして看板の文字をよく見た。

『喫茶 ドルフィン』

「あっ。喫茶店だって。星くん、あそこに入ろうよ。僕、もう喉カラカラだ」
「そうだな。少し休もうか」
 喫茶店の建物のそばに自転車をとめて、僕たちはドアを押し開けた。備え付けてある風鈴が、うだる僕たちを手招きするように、澄んだ音を鳴らした。

夏の約束

「もし僕が命題を達成して、君の前からいなくなったら、星くんはどうする?」
 夏の盛りのある日。偶然見つけた避暑地、海が見える喫茶店で、おれたちはお互いにクリームソーダをつついていた。先にグラスを空にして、本を読んでいたサンの突然の質問に、スプーンを握っているおれの手が止まる。
「そうだな…命題を達成すれば、強制的に故郷に帰されると聞く。おまえが故郷に帰れば、おれ一人で任務を続けるしかない」
「でもさ、君は過去に行けないでしょう?僕たちが探している星人たちはさ、過去にたくさんいるよ」
 サンの思わぬ返しに、おれの手は再び止まった。サンが反論するなんてことは、今まで滅多になかったからだ。さらにサンは、おれの目をまっすぐ見つめてきた。これは真剣な話をしているのだと、すぐに勘づいた。何か言葉を返さなければ。おれは頭を巡らせた。
「…それは困る。確かに、おれだけで任務を遂行することは不可能なようだ」
「だけどね、僕、故郷に帰ってもいいかなって、最近思っているんだ」
 おれの身体中に、僅かな衝撃が走るのを感じた。命題が多くあり、一つに定まっていないおれにとって、故郷に帰るということ自体、遠い話だった。サンは、その遠いことを、目の前にある絶対的な任務よりも優先しようとしているのかもしれない。悶々と考えるおれに構わず、サンは狐のぬいぐるみを手で弄びながら、言いにくそうに続けた。
「……むしろね、この世界を壊したくないなって。だって、ここはとっても素敵で、君が」
 おれはついに我慢ならなくなって、サンが何か言いかけたのを、スプーンを乱暴に置いて制した。サンの手から、狐のぬいぐるみが転がり落ちた。
「さっきからおかしいぞ、サン。おまえは、命題をとるか任務をとるか、迷っているな?ならば答えは一つ。アストライオスの命令は、絶対だ。裏切ることは許されない。だから…」
 一瞬だけ、おれを見つめ続けるサンの瞳が、いつもより柔らかい光を帯びたように感じて、こみ上げた怒りが少しだけおさまった。まるで、おれが今から言わんとしていることをわかった上で、サンはその言葉をずっと待ちわびていたような顔つきだった。おれは…おれは何を言えばいいのだろうか。
「だから…お前がいなくなることも、許さない」
 途端に、サンの顔がぱっと明るくなったことに、おれはなぜだか、心の底から安心した。せっかくクリームソーダで涼んだ体が、ほてってしまっているのを今になって気づいた。それから、床に落ちたままの狐のぬいぐるみを、少しだけ悲しそうな表情を浮かべながら拾い上げるサンに、ごめん、と呟いた。サンは、ううん、と言って、
「じゃあ、僕、絶対に故郷に帰らない。ずうっと、星くんと一緒にいる」
 ぬいぐるみに口を埋めて、はにかみながら小さく宣言した。その様が妙に子どもっぽくて、おれも思わず小さく笑ってしまう。二つのグラスの中は、溶けてしまった氷と、まだ僅かに残っていたアイスクリームが混じって、星雲のような模様を描いていた。
 これが、サンとおれの、さいごの夏の記憶だった。

九億四千万キロ宇宙の旅

 零
「まったく……いつ終わるんだろうね」
 久方ぶりの帰還に、サンが発した一言目は珍しく消極的な呆れの呟きだった。砂漠上で大破した飛行機、その開けっ放しの天板から半分だけ身を乗り出していつも通りの笑顔を見せる。
「ねぇねぇ、僕がいない間、探査瞳(レーダー)に引っかかったりしなかった?」
「ああ。反応なしだ」
 よかったぁ。サンは安堵のため息をついた。腹を空に向け直して、煤だらけの手で頬を抑える。汚れた顔の中にあっても、瞳は空と同じ色で煌めいている。
「このままじゃさ、王子さまに顔向けできないよ」
「……襲われたのか。敵兵に」
「……カミが言った通り、この世界にはいないのかな」
 おれの問いかけが聞こえなかったのか、あえて聞こうとしなかったのか。サンはか細い声でひとりぼやいた。
「もし」
 だから、おれは声を張って言い直した。真に聞いてほしくて、そしておれから聞きたかったことだ。サンは肩を一瞬間だけ飛び上がらせて、何も言わずに背を起こした。
「もしα星(レグルス)が見つかったら。それが異世界であっても、おまえは行くのだな」
 続けた言葉は、思った以上に声が出なかった。最後の方はサンが聞き取れたかさえ怪しい。だがサンはわざと掻き消すように、乾いた砂漠の空気に笑い声を震わせた。
「だいじょうぶだって!もちろん、星くんも一緒だよ。ねぇ、ここではない世界ってどこにあるのだろうね?きっと遠いところだ。メーターも振り切れちゃうよ」
 底抜けに明るく言いながら、サンはおれの手を握った。煤焼けして熱い感触が伝わってくる。それでも、サンの声はいつだって春の風のように暖かく胸に吹き抜ける。
「ね、だから、そんな顔しないで?」
 なぁ、おれはこの時、どんな顔をしていたんだ?

 一
 あいつがいなくなってから、わずか一年ほどで世界大戦(ごたごた)は終わりを告げた。
 それからまた、わずか十数年後のことだ。人類は宇宙にまで進出した。目覚ましい進歩のように思えるが、人類が空を飛べるようになって、重量級の兵器が空を当たり前に飛び交うようになった経緯をふまえると、宇宙へ行ってしまうのは秒読みだったのかもしれない。それでも、きっとあいつは驚いて自分のことのように喜ぶのだろう。
 そして、人類が初めて宇宙へ突入したこの年も終わりを告げようとしている。おれは机上に広げた新聞に軽く目を通した。人類初の宇宙飛行というのは半年以上経った今でも熱の冷めやらぬ話題のようで、新聞の一面を人工衛星が撮影した地球や、宇宙飛行士を讃える祝賀会の様子を撮った写真で飾られている。天井のない車上に立ち、大衆へ満面の笑みで敬礼を送る男。北の大国生まれのこの男は、宇宙船から地球を見て「地球は青かった」と評したらしい。地球を俯瞰で見れば当然のことを言っているが、地上の人類がそれを真に実感できるようになるにはもう少しかかるだろう。衛星が写し出した白黒の地球を眺めながら、おれは巨大な硝子窓の外、綺麗に整った球型の青い星――地球に目線を移した。
 この十数年間、ひとりになったおれは、茫然自失のままアストライオスに捕まった。部屋に監禁され、おれの本を隅々まで調べられた。それでも本には、サンの行方の手がかりとなるようなことは書かれていなかったようだった。その間に、おれの中に生まれたアストライオスを屠る衝動を抑えることができず、はじめて銃口を向けた。弾丸は確実に神の頭を撃ち抜いた、はずだった。けれども、おれが持っていた銃と弾丸では温度が足りなかった、らしい。
『物理的温度は確かに足りなかった。だが、おまえの奥底に眠る熱量。サンからもらった熱が、何よりも一番勝った。私はそう思っているよ』
 後方から声がした。聞き慣れた青い風のような声が耳を吹き抜ける。それは紛れもなく、サンの声だった。だが、おれは拳を固く握りしめて、あえて振り向くことはしなかった。()()()()()サンの声とは、どうしても込められた調子が異なる。サンの方は春の風のように暖かみがあったが、今耳奥に響いた方は背筋を撫でる北風のように冷たく、波がない。
『春風と北風か。おまえもサンらしいことを思うようになったものだ』
「読心はやめてくれ」
 途端に、胸をざわめかせていた一抹の不安のようなものは消え去っていった。
 柔らかい微笑みを絶やさないサンの姿形をとるそれに、おれは匿われている。天上世界の神々がカミと崇め奉るそれに向き合うと、なぜか神々に避けられたおれの周りの空気でさえもより一層張り詰める。サンと同じ、だが氷のように冷淡に響く声でカミは続けた。
『熱をもっと上げるのだ。おまえもわかっているだろう、サンからもらった大切な熱だと。熱を上げて、上げ続けて、そうしたら』
「……アストライオスを屠れるか」
 おれはカミの涼しい空色の瞳をまっすぐに捉えた。カミは目を伏せてふっと微笑する。その顔はなぜか哀しげな色を湛えていた。
『そう、かもしれない。熱を放つことができればな。しかし、屠らなくてもいいと思えるようになる可能性だってある。熱が燃え上がって、あらゆる恒星の温度も超えて、いつしかアストライオスのことを、かつて自分を傷つけた蝋燭の芯の燃滓にも満たないと思える日が来る。私はおまえに、それを期待しているのだ』
 カミの弁には、熱が段々と篭り始めていった。冷ややかな声で静かに語りかけているかと思えば、言っている内容を噛み砕いてみるほど暑苦しさを感じる。
『地球に行ってみるといい。おまえがあの星に滞在可能である期限はあと三、四十年ほどしかないのだよ』
「――ちょっと待て。それは誰が決めた?」
 地球滞在の期限があるとは、おれもサンも初耳だった。これもアストライオス、もしくはカミの気まぐれだとしたら、いやどちらであっても、なぜもっと早く言ってくれなかったのか。おれは心の底から目前のカミを責め立てたが、ご都合よく無視されてしまった。かわりに、こんなことを言った。
『不運にも、おまえたちは争いや流行病の絶えない時代の地球に生まれついてしまった。苦難の中でおまえたちは生き抜き、アストライオスの厳しい使命にも絶え抜いた。その最中にも、地球での気に入った場所、様々な思い出があるだろう』
 窓の外、青い星の中心に小さな島国がぽつんと据えられた。ちょうど自転をして、おれが生まれついた国を見せてくれたようだった。
 さいごの夏の日。目まぐるしく発展した都心部の、海沿いの喫茶店でクリームソーダを飲んだことをおれは思い出していた。バラの紅茶が好きだったおまえが、珍しくおれと同じクリームソーダを頼んだのは、今思えば少し不自然で地球を離れる前兆でもあったのだろうか。――いや、きっとあいつのいつものきまぐれだ。二酸化炭素の刺激と、アイスクリームの冷たさは舌にまだ残っている。
『地球に行くといい。サンとしたかったこと、してやりたかったことをおまえがやるのだ。アストライオスのことは心配するな』
 ゆっくりクリームソーダでも喫するといい。そうカミが付け加えたのを、おれは聞き逃さなかった。窓の方を睨んでいた視線をカミに戻したが、もうそこには何もなかった。
 クリームソーダ、か。一目見ただけで、あいつのことを思い出してしまうかもしれないが、さくらんぼの乗ったクリームソーダが恋しくなってきていたのも事実だ。まあ、地球に戻ってから考えればいい。おれは重い腰をようやく持ち上げた。

 二
 生まれついた国の文化に則って、初めて年賀状というものを書いた。今年はおれが地球に滞在できる最後の年の瀬だった。年明けの形だけの祝辞とともに、メッセージを一口つけた。

 ――――――――――――――――――――――――
 今年もまたご一緒に九億四千万キロメートルの宇宙旅行をいたしましょう。
 これは地球が太陽の周りを一周する距離です。
 速度はマッハ93。安全です。
 他の乗客がごたごたを起こさないよう祈りましょう。
 ――――――――――――――――――――――――

 読み返して、一人でに笑いが込み上げた。第一、来年にはおれはもう地球にいないのだから、「一緒の」は嘘になってしまう。それから、送り先のあいつもとっくに地球から離れていて、宇宙のどこか、いやこの世界にいるかもわからない。カミに頼んで光速以上で宇宙に飛ばす手筈の、届くかもわからない年賀状だ。
『これはおまえから全人類に向けた、熱のこもった手紙にも思える』
 そうカミは嬉々として語っていた。だが、もちろんおれはそんな崇高な思想など持ち合わせていない。だから、保険として地球にいる人間にも一通だけ、年賀状を送ることにした。その送り先は――知り合った数名の魔術師はもう地球にいないし、未来ある者に託した方がいいだろう。

 四十年ほど前。戦後の傷から一変、日本の経済や文化が目まぐるしく成長する雑踏の中でアストライオスから逃げていた頃。冬と春の狭間の時期の夜明け前、西に傾きかけた空をぼんやり眺めると、久方ぶりに探査瞳(レーダー)が反応した。瞳が中心に捉えたのは、しし座領域の一等輝くα星(レグルス)。その夜、おれの目を通して月よりも明るく青白く輝き、やがて地上に迫ったような錯覚の果てに消えた。おれはあいつの命題「ちいさな王子」のことを思い出していて、それがしばらく頭から離れなかった。
 それから時を経て、今度は今から二年ほど前のこと。年が明けてすぐ、寒く暗い冬の朝の空気を、一筋のひかりが貫いた。探査瞳(レーダー)に捉えたものと同じ色のひかりは、地上に降り注いでやがて見えなくなった。おれは弾ませた息をしばらく止めることができなかった。あいつの期待(ねがい)通りだ。ほんとうに、小さな王子がこの世界に還ってきた。
 しかし、実感があっても確証は持てずにいた。まだこの世界に生まれて間もない赤子を調べる時間もあまりないだろう。
 それでも、あいつとおれが地球にいたという証を、この星に託せるのなら。おまえが思い続けていた小さな王子が、九億四千万キロメートルの宇宙旅行の日々を平和に過ごせるのなら。
「共に願ってくれるか、サン」
 東から日が昇る。橙色のひかりが暗かった世界を包み始めた。地上を無差別に照らす大陽はあまり好かないが、夜明けの柔らかいひかりに溶かされるのは悪くない。おれは目を閉じて、身体が蝋に、塵になって流されていくのに任せた。

 三
「浅葱さん、年賀状の仕分け終わった?」
「それがねぇ、萌黄さん。これまた、灯詞坊ちゃん宛のお年賀が一通あるのよ」
「まぁ、灯詞坊ちゃん?あかり様の?まだ二歳にもならないでしょうに」
「不思議ねぇ。送り主の宛名もないのよ。ほんと、不思議だわ」
「ねぇ、あやしくなぁい?――怪異のしわざだったりして」
「おぉ、こわい。そんなこと言わないでちょうだい。本当だったとしたら、当主さまに何と言われるか」
「捨てておしまいなさい。ほら、暖炉も燻ってちまってるわ」
「そうね。ほっ、と。くわばらくわばら」
 そうして、とある名家に送られた謎多き一通の年賀状は、儚くも暖炉の火に燃やされてしまった。けれども、長い間炉の中にそのままとどまり、燃滓にはならなかったという。

二重連星掌編集

✴︎参考文献✴︎
星新一
サン=テグジュペリ

二重連星掌編集

魔術師としてうまれた二つ星が、時を旅する掌編集。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 星が地に落ちた日
  2. 星が宇宙に沈んだ日
  3. 孤星の望遠鏡
  4. 血とガラス、林檎と青星
  5. はじめようか、天体観測
  6. 夏の溶解
  7. 夏の約束
  8. 九億四千万キロ宇宙の旅