イルニーシヤ
イルニーシヤという女性がいた。僕は知っている。その町の大通り沿いに並ぶアパートの、三階を借りていた女性だ。
三階には同じような部屋が三つあって、その一つが彼女の住まい、ふたつが貸家で、そのうち片方に僕が住んでいた。建物自体はイルニーシヤの叔母が管理していて、イルニーシヤは全五階建てのうち三階のみの収益を貰えるのだそうだ。(もちろん、その他に色々な叔母の手伝いをして。)
僕は毎月、家賃の徴収に叩かれるドアを開く度、数枚のお札と共に、余ったりんごや粗品として貰った布巾セット――赤、青、黄のチェック模様が一枚ずつ。可愛らしい――や、市場でやっている福引きの券などを彼女の手に押しつけた。
彼女は若くはなかった。四、五十ほどで、黒いヴェールを被った頭には、うすい生地越しに時折光を受けて白髪がちらついた。見かけるたびに黒いローブに黒い靴、黒い手袋を身に着けていて、それが一種の物語をつくったのだろう。アパートの住民や近所の人、彼女の叔母でさえ皆好き勝手に彼女の噂をした。
(叔母も、ある日ふとイルニーシヤが数十年来の嫁ぎ先から戻って来、言葉の一つも口にしないので、詳しいことは何も知らないのだそうだ。叔母さんは彼女に似ず大分お喋りだ。)
年がら年中、頭からつま先まで黒いのは、嫁ぎ先で夫を喪くしてきたからだとか、黒手袋をはめているのは酷いやけど痕を隠すためだとか--数年前、イルニーシヤの嫁いだ村で起きた火事と結びつけてのことだ--果ては、彼女は自分の手で夫を殺して帰って来たのだ、あれは愛のない結婚だった等と噂はでたらめに育ち、僕は早々に井戸端を抜け出してきたのだった。
*
その月末もイルニーシヤは僕のもとを訪れた。
僕はいつも通り家賃を渡し、買い物の時に試供品として貰った茶葉の小包を渡した。彼女は埃ひとつついていない黒い手のひらで、僕から封筒と小包を受け取った。
それだけが、僕と彼女が唯一交わる時間だった。終わってしまえばすることはなく、僕は黙って会釈した。すると、彼女はゆっくりと頭を下げた。その一礼と同じくして彼女のまぶたも瞳の上を下りていき、お辞儀を見せる頃には弧を描くように、長い睫毛とその影が彼女の目元を飾りつけた。
暗い昼間であったから、小さい窓しか持たない廊下は殆ど日が入らなかった。辺りには木造の湿った匂いが立ち込め、僕の部屋の白い日差しが、イルニーシヤを照らしていた。
イルニーシヤの瞳はとび色をしていた。イルニーシヤが姿勢を正せば、背丈は丁度僕と同じくらいだった。普段の暮らしの明かり程度では黒やこげ茶に溺れる瞳は、溢れるばかりの光の中で、 はっきりとなめらかな明るさを見せた。
腫れぼったい二重が、しかししっかりとした美しい筋を描いていて、彼女は見開いた双眸を僕にジッと向けると、改めて小さく頭を下げた。
*
イルニーシヤが死んだ昼も、葬儀の日も、ずっと雨が降っていた。
自室のベッドで、うとうととまどろんでいるうちに死んでしまったらしいと言う人がいた。あるいは日課の祈りを捧げているうちに、とも。いずれであれ、滅多に人と会う用を作らなかった彼女は偶然その日に叔母を訪ねる予定であり、彼女を急かそうとやって来た叔母が、ぬけがらとなったイルニーシヤを見つけたという次第らしかった。
斎場にかかりきりだった叔母は、僕が来たのをいいことに入れ違いで出ていった。
そこは、雨をしのぐための場所とでもいうように小さな場所だった。壁も床も白く、他に何もない。電球がか細い光を帯びてつるされていた。濡れた靴音が反響する度、その後に訪れる耳に痛いほどの静寂が強調されてしまう。
「唯一の肉親」である叔母の後ろ姿は容易く見えなくなって、まっさらな部屋には棺がひとつあるのみとなる。棺の蓋は開いて、綿と花の中に、イルニーシヤが眠っている。
僕は膝をついて、イルニーシヤの隣に屈んだ。ヴェールは脱がされて、白髪の束が露わになっていた。手は恐ろしいほど冷たく、僕は強く握り込んだ。
「母さん--」
後は、雨の音ばかりとなった。
イルニーシヤ