愛しい言葉たちよ
おはよう。こんにちは。そして、ばいばい。どうして日本語にはたくさんの挨拶があるのだろう。ひとつあれば十分だと思ってしまう。
おはよう
はじめての彼女とはじめての夜を過ごした。
目を覚ますといつもとはうって変わって何か大きなものを手に入れた感覚がした。
セイを実感する。
「おはよう。」
彼女は目を覚まして言った。わたしの好きな言葉がひとつ増えた。
こんにちは
昼がきらい。
大多数の大人たちは朝に勝つことが当たり前であるという。でもわたしのはじまりはいつも昼だ。会うことのない朝。
昼はさも美徳であるかのように人々を眩しさで包む。うざったい。
昼を認めたくなくてわたしはいつもおはようと叫ぶ。こんにちはと聞こえる正午。今日も見ることのない朝。
いつになったらおはようと言えるのだろうか。
ばいばい
捨てる神あれば拾う神あり。
きっとこれは自分のいらないものは誰かに受け取ってもらうということわざだ。
自分のものを誰かにあげる。その代わりに自分は新たに素敵なものを手に入れるのだ。
買うことは好き。新しいものが手に入るから。
これまでのものとおさらばするチャンスだ。
変化。革新。
今までとは違うものが好き。ずっと同じは飽きてしまう。人間は好奇心のかたまりだもの。
けいちゃんは人形の私をいつも着せ替えしてくれる。
ピンクのワンピースを着ることもあったし、真珠のネックレスはピカピカ光ってきれいだった。
ときにはお化粧をしてくれることもあった。
ほっぺは赤く染まり、艶やかな口は今にも話し出してしまいそうに。
一通り遊んだ後はいつも「ばいばい」をする。
使ったあとは物が増えすぎて困るからお気に入りを残して誰かの元に渡すのだ。
私はいつもこれを楽しみにしている。
だって誰かにあげた分、自分は何かを手に入れることができるから。
新しいものはいつも「ばいばい」をした後に
持ってきてもらえる。
今日はけいちゃんがお買い物に行くらしい。
いつもみたくきっと素敵な装飾品を持ってきてくれるだろう。
今度は銀色の指輪かな、それともレースのスカーフかな。
そんなことを考えながら帰りを待っている。
エンジンの音がしてしばらくするとカランコロンとドアの開く音がした。
大柄のひとたちが数人入ってきて、
なにやら大きな箱を運び入れた。
今までにないほど大きくて私の胸は高なった。
中身はどんなにすごいものだろう。
銀色の指輪じゃなくて宝石かもしれない。
レースのスカーフじゃなくて純白のドレスかもしれない。
けいちゃんは箱に駆け寄って包みを開こうとしたが、開かない。
結局けいちゃんが大人たちにねだり、箱は解かれた。
中身は宝石でもなく、純白のドレスでもなかった。
私より素敵な装飾を施された大きな人形だ。
レースがふんだんに使われたドレス。
首には金色の懐中時計がぶら下がっている。
立派なのは装飾だけでなく精巧な表情だ。
毛流れの美しいまゆげ。
筋が通っていながら丸みを帯びた鼻先。
つぼみが咲いたような小さな唇。
なにより青く透き通った瞳は圧巻だった。
私がこの素敵な子と仲良くやっていけるのか不安に思っていると
けいちゃんは、
「じゃあもうこの子とばいばいしないとね」
少し悲しそうに言った。
この子、が私を指しているのに気づいたときにはもう遅かった。
私は黒くてみすぼらしい袋の中に押し込まれ
さっきの大柄な人たちによって運ばれた。
視界が狭窄する中けいちゃんの最後の言葉が聞こえた。
「ばいばい」
そうだった、人間は好奇心のかたまりなのだ。
愛しい言葉たちよ