星の海

 夜が明けるのと同時に、籠もった熱が解放された。窓も開けずにずっと抱きしめ合ったままお互いを求め合っていたせいで、部屋は湿っぽい。
隣で寝ている姉さんは酷く疲れた顔をしているように見えたけれど、それでも満足そうに微笑んでいた。俺は何となく気まずくなってそっと視線を逸らす。そんな俺の様子に気付いたのかどうなのか知らないけど、姉さんは俺の肩に頭を乗せた。彼女の髪が肌に触れてくすぐったくて、ふと上を見ると綺麗な瞳と目が合った。
「……おはよう」
「……うん、おはよ。身体は大丈夫?」
「ちょっと痛いけど、大丈夫だよ」
 姉さんは腕を伸ばして俺の頭を軽く撫でた。それがどうにも心地良くて俺は目を閉じる。
「姉弟がこんなことしていいのかな」
 どこか自嘲気味に言うと、姉さんも昏く笑った。
「本当は駄目なんだよ。でも、しょうがないよね」
 ああ、どうしようもない。だって俺たちはもう戻れないところまで来てしまったのだから。
「……ねえ」
「ん?」
「わたし、いま、しあわせ。このまま死んじゃえたら、いいのに」
 姉さんがあまりにも淋しそうに呟くものだから、俺は思わずその肩を強く掴んでしまった。
「……駄目だよ、姉さん」
「……そうだね。ごめん」
 姉さんはシーツを引っ張って自分の身体に巻きつけた。窓が開け放たれているわけでもないのに、何故か彼女の周りだけはひんやりとした空気に包まれているような気がした。
「死ぬだなんてさ……そんなこと言わないでよ。俺はずっと、姉さんと一緒にいたい。やっと受け入れてもらえたのに、そんなのってないじゃん。俺のこと嫌いになったの?」
「……ごめん。もう言わない」
 姉さんは俺の胸に頬をすり寄せた。俺は姉さんを安心させるようにその身体を強く抱きしめた。
「好きだよ」
「俺も」
 このままお互いの身体の境界が無くなってしまえばどんなに幸せだろうかと考えながら、俺たちは再び口づけを交わした。そして再び一つになっていくのだ。溶け合ってしまえればいいのになって思いながら。
 俺たちのいる部屋はどこか薄暗くて、だから朝の光なんて届かない。
 たとえ届いたとしても、窓も開けずに愛し合う俺たちには関係ないけど。

 その数日後、俺たちは真夜中に海に行った。
 砂浜まで走りきってそこにぺたんと座り込むと、砂がひんやりとしていて気持ちよかった。姉さんは俺の手を握ったまま黙って水平線を見ている。海が誰にも知られず呼吸をしていた。
「……静かだね」
 世界には俺たちしかいないように感じた。俺と姉さんの二人しかいないこの閉ざされた狭い小さな世界はひどく心地よかった。
「姉さん、後悔してる?」
「してないって言ったら嘘になる。でも、今は幸せ」
 姉さんは前を向いたまま微笑んだ。俺もそれにつられて笑う。
「そう……なら良かった」
 俺はそのまま後ろに倒れた。砂が柔らかく身体を受け止めるのを全身で感じる。頭上を見上げると小さな空があった。星が、無数に煌やいていた。その全てがこれまでに死んだ人々の魂なのだと思うと。俺たちの星は、どこかにあるのだろうか。俺たちの器は。
「もうやり残したことはないね」
「うん、遺書もちゃんと書いた」
「私たちの関係については、親に言った?」
「言ってないけど、薄々察してると思うよ」
「だよね、心中とかしちゃうくらいだもんね」
 姉さんはぎゅっと俺の腕を掴む。俺もそれに応えるように彼女の手を握りしめた。小さくて冷たくて、白くてすべすべしている綺麗な手だった。指の震えを抑えてやるように、強く、強く握る。そのまま俺たちは静かに目を閉じた。潮騒が耳に響く。
 今夜もひどく冷えるだろうけれど、そんなことはどうでもよかった。
 柔らかな海の闇に包まれて、俺たちの魂は混ざり合い。
 一つになって星へ還る。
 手を繋いだまま立ち上がり、砂浜を踏みしめながら歩いていく。空の星がぼやけて見えなくなって、やがて消えた。
「ねえ」
「ん?」
「愛してるよ」
 彼女はとても嬉しそうに笑って、俺の頬に口づけをした。
「俺もだよ。姉弟としても、」
「恋人としても、ね」
 俺たちはゆっくりと目を閉じて、二人で、服が濡れるのも構わず波打ち際の中を歩いて、倒れこむように身を投げた。
 お互いの身体が密着して、そのまま深い海の底へと沈んでいく。俺はぎゅっと姉さんの身体を掻き抱いた。同じように彼女も震える手で俺を抱き寄せる。冷たい海中に呑まれていく中、この人のことだけを切に想う。水中で泡立つ空気の音が耳にこびりつく。これは皆の嘆きだ。俺たちと同じ罪を犯した彼らの。そしてさらに深く沈んでいき、俺は姉さんの身体を離すまいと更に強く抱きしめる。ゆっくりと、海底に向かって沈み続ける俺達の身体はどこか他人事のようにも感じられて。酸素が足りなくなってきたのか、息が苦しくなる。しかしそんな苦しみすらも今はもう何も感じない。ただ姉さんの身体と触れ合う感覚だけが全てだった。回らなくなった脳は徐々に機能を低下させていく。聴覚も触覚も全てがぼんやりとして、まるで夢の中にいるよう。
 真っ暗な視界の中、そっと姉さんの唇に口づけをした。冷たい唇の感触がやけにリアルで、そして温かかった。ありがとうと、彼女が囁いたような気がした。だって愛してるから、と伝えたいのに声が出ない。
 やがて酸素は尽き、心臓の鼓動がゆっくりと止まる音。意識が薄れていく中、俺たちはただぼんやりとお互いだけを見えない瞳に映しながら深く沈み続ける。
 深い深い海の底で、何もかもを捨て去り一つになった俺たちにはもう怖いものなど何もない。二人で共に過ごす短い人生は、その全てが幸福だった。そしてこれからは永遠の時を生きるのだ。
 この暗い海の底で。誰にも邪魔されないこの場所で、永遠に愛し合って生きていくのだ。それは何よりも甘美な願いで、俺たちは互いの手を取り合うように固く握り合いながら目を閉じた。もう何も考えられないし、感じたくないと思ったけれど、それでも最後までずっと彼女のことだけを想っていたかったから。姉さんのことだけを考え続けていたかったから。
 閉じた瞼の裏で、星が瞬いた。

「もう朝だよ、起きて。ほら、こんなにいい天気なんだから」
 とろとろと微睡む娘を、青年が優しい声で揺り起こす。カーテンの隙間から淡い朝の光が漏れて、娘はその眩しさに寝返りを打った。外ではさざ波が寄せては返す穏やかな音が聞こえてくる。
「……おはよう」
「おはよう。朝ごはんできてるから早く食べちゃおうよ。今日は姉さんの好きなトーストとコーンスープ、それに目玉焼き」
「ほんと?嬉しいなぁ、まったくこんな家庭的な弟を持って、私、幸せ。あ、でもその前に、お祈りしてきて良い?」
 娘は白い寝間着の裾を床に引きずり、髪をくるくると弄びながら家の外に踏み出す。裸足に芝生が絡みついて、少しくすぐったい。朝のまだ暖かくなりきっていない空気に、その身を晒す。浜辺に跪いた娘がそっと目を閉じ両手を組むと、辺りには静寂が訪れた。渡り鳥の鳴く声が遠くで響いている。ひんやりとした潮風が娘の髪を揺らし、白が舞い踊る。
『あの子たちね……心中しちゃったみたいなのよ』
 娘の脳裏に誰かの言葉がふとよぎる。思い出したくないのになと思いながらもその言葉は繰り返し頭の中に浮かんできた。でも、あの世界に私たちの居場所はもうなかったんだから、仕方ないじゃないか。
 娘はそっと目を開けた。視線の先には澄んだ海が広がっている。太陽に照らされて金にきらめくうねりが目に焼き付いて、瞼を閉じることさえできない。
「姉さん」
 声をかけられて振り返ると、彼の姿。優しげに微笑む彼は娘の手を取り立ち上がらせ、ぎゅっと抱きしめる。
「ここは、どこなんだろうね。誰が私たちを、ここで生かしているんだろう」
「分からない。父さんと母さん、探していてくれるかな?」
「遺書、置いてきちゃったし、もう死んだって諦めてるかも」
「そっか、そうだよね」
 彼の顔を見ることはできなかった。この手を取ってしまったことも、みんな私が選んだことだもの。後悔はしていないけれど、それでもどうしても時々辛くてどうしようもなくなる。私たちはもう帰れないんだと、その度に思い知らされてしまうから。
「もうきっと生きることも死ぬこともできないね」
「それでもいいよ」
「そうだね」
 ご飯、食べようか。

星の海

星の海

一線を越えた姉弟の行く末。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-05-26

CC BY-ND
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