百合の君(4)
足に触れる湿った土は、一歩ごとに沈み込み、そのまま魂まで飲み込まれそうだった。濡れた羊歯はふくらはぎを舐め上げ、天に響き渡る言語のない声は、こめかみの神経を啄んでいた。森は人のフィールドではない。樹上生活により天敵から逃れた霊長類は、いつの間にか人を排除していた。
喉が渇けば熊笹に置かれた露を飲み、腹が減ったら虫でも食べた。ただ死なないために生きていたが、その死を避けようとする大きな力には、まだ気づいていない。
蟻螂は歩きながら、その頃を思い出していた。破れた着物は血にまみれ、傷だらけの肌ともはや見分けがつかない。道の両側に畑が広がっているということは、いつの間にか人里に出たということらしい。あの畑の真ん中にある人形はなんだろうかといつも思う。人形でも磔にせねば足りぬほど、人の憎しみは深いのだろうか。
田畑で働く人は襤褸屑のような蟻螂に、憐れむような、あるいは蔑むような視線を送ったが、話しかける者は一人もなかった。死体になれば埋葬してくれるかもしれないが、まだ生きている厄介者に関わるのは誰だって御免だ。人が葬式をするのは死それ自体が伝染しないからで、もし死因が常に感染症だったら、葬式や弔問などという習慣は人間に生まれなかっただろう。
日が沈みかけてきた。蟻螂は立ち止った。もう歩けないし、歩いたところでどこにも辿り着けない。穂乃の顔が思い出された。さらわれた時の涙にぬれた顔。あれが最後の思い出じゃあ、死んでも死にきれない。そんな事を考え始めた時、正面から幾人かの騎馬武者が近づいて来るのに気が付いた。蟻螂に気付いても全く減速することなく、むしろそのまま轢き殺そうとしている。蟻螂は脇に避けようとして、やめた。このような卑屈な態度が、あのような盗賊を生むのだ。
どうせ死ぬのなら、こいつらを道連れにしてやる。
蟻螂は観察した。蟻螂はその気になれば、飛ぶ蜂の翅も見分けられる。左から二番目の馬の足が、少し重いようだ。蟻螂はそれに乗ったむさくるしい真っ黒な鎧の侍に狙いを定めると、轢かれる直前で跳び上がりその頭を目がけて蹴りを放った。
蟻螂はその瞬間をしっかり見ていた。侍は蟻螂が跳んだ時、明らかに驚いた。しかしそれも束の間で、冷静になると蟻螂の足に視線を移し、蹴りが命中する直前、上体を大きく反らした。蟻螂の足には、その髭をわずかに撫でる感触だけがあった。
蹴りはむなしく空を切り、次の瞬間引き絞った弓が一斉に向けられた。
彼は悟った。熊を殴り殺せる自分が、腕力で負けるはずがない。この間の盗賊やこの侍にあり、自分にない力は技だ。もし自分がそれを身につければ、穂乃を助け出せるかもしれない。蟻螂は急に死ぬのが惜しくなり、慌ててひれ伏した。何か言うべきなのだろうが、こんな時なんと言えばいいのか彼は知らない。だから代わりに額を地面に擦りつけた。痛い。痛いが死なないためにはやるしかない。
「この方を古実鳴国が主、喜林臥人様と知っての狼藉か!」
黒甲冑は狼藉されたのは自分なのに、中央の青っぽい着物をべらべら着ているだけの男を示して叫んだ。しかし、蟻螂はどうすればいいか分からない。ただ、ひれ伏すのみ。汗が腋毛を濡らして、二の腕を伝った。
蟻螂にとって、長い時間が過ぎた。額と鼻はもう地面と一体になってしまったようだ。はぐれた蟻が一匹、よろよろと蟻螂の鼻の穴に入った。
「私を、使ってください!」蟻螂は叫んだ。蟻は慌てて出て行った。「私に、戦いを教えてください! 代わりに、喜林様のために戦います!」
また、少し間があった。
「見事な跳躍と蹴りであったな」
喜林臥人の話し方は、人の肌を舐めるようで好きではなかった。
「はい、山で育って覚えました」
「その赤目は?」
「生まれつきでございます」
「まるで鬼だな……、よかろう、明日城に来い」
「城がどこか分かりませぬ!」
侍達は笑い出した。穂乃以外の人間と付き合ったことのない蟻螂にも、馬鹿にされているのは分かる。
「面白い奴よ、我らはこれから城に帰るゆえ、付いてくるか?」
「はい!」
「馬に付いてこられたら、仕官させてやろう」
臥人は馬を走らせた。蟻螂は追った。近すぎて馬糞をかけられた蟻螂は、道端の子供達のいい笑い者になった。
百合の君(4)