笑顔
ピンクのエルメスで殴られた。
そのような噂で職場はもちきりである。
「法務のエース」磯山君が、「財務のアイドル」田中明子に殴られた。
結婚式場から直行した空港での出来事だという。
噂話にかしましい給湯室を、田中明子は何喰わぬ顔して通り過ぎた。
元来があっけらかんとした性格である。名にし負う、明るい娘である。
花咲くような笑顔。
あまりに眩しい。
だから笑みの放たれた後は、所在な気。どこか投げ遣りな風にも映る。
挙式当日の破局という醜聞の渦中にあって、当人はどこ吹く風と勤務している。
「田中さん。」
応接ブースから課長の声。手招きが見えた。
課長の向かいの長椅子には、子どもっぽい顔をした男が腰かけている。
「こちら、学芸の平木昇平君。」
男が会釈した。
「こちら、田中明子さん。財務から異動になったばかり。企画の新顔だ。」
会釈を返す。笑みがこぼれる。
愛想ではない。他人と面と向かえば、自然と笑ってしまうのは子どもの頃から。
男も満面の笑みである。
明子は驚いた。
初対面の男たちは大抵、笑顔の真意を探り、値踏みするかのような眼差しを送る。なにより今は職場の誰もが、かの女を渦中の人として好奇の目を向ける。ところが、この平木昇平という男は屈託ない。笑顔を笑顔で迎え入れている。その破顔が、底抜けの人の好さを明子に印象づけた。
「うちでいま、展覧会を準備しているのを知っているね。平木君には作品解説やらカタログ作りやらを手伝ってもらっている。うちの醍醐味を知るよい機会だ。ついては準備の窓口となって、平木君の手伝いもしてくれたまえ。」
二人は言葉を交わすでもない。
笑みを交わしたままである。
これまで数字とにらめっくらするばかり、内勤しか経験することのなかった明子にとって、昇平との仕事は新鮮だった。
会場設計、カタログ制作、グッズ企画など、渉外のため、外勤も多い。
かの女の笑顔は、仕事先の好感を招かぬはずもなかった。昇平の笑顔と相乗、仕事関係は和み、業務進捗に効果は大きい。
展覧会初日。
評判は芳しい。
会場を後にした二人は意気投合。夕食を共にした。明子が化粧室に立った時、ピンクのエルメスを小脇に抱えたさまは愛らしかった。
星明かりの夜道をそぞろ歩く。
足取りは軽い。二人して踊るかのよう。
光が差した。
こんもりとした杜が、赫々と輝いている。
「万燈会だ。」
昇平が明子の手を引いた。
「行こう。」
色とりどりの手作り提燈が何百ときらめきゆらめいている。
万華鏡の中を巡るかである。二人の誇らしい一日の終幕に相応しい。
帰路。車に乗っても万華鏡の恍惚は続いた。夜道は星空を疾駆するように思われるのである。
帰着は夜半に近かった。
車を停め、エンジンを切る。昇平は隣席の明子を振り返った。
かの女は放下の酩酊の態である。
顔をやや上向きに傾げ、か細い四肢を座席に投げ出している。
唇が、街灯の余光に照らされ、艶やかである。蠱惑的である。
昇平は身を寄せた。
かの女の瞳の星が翳った。
思わず、身を離す。
「今日はありがとう。おやすみ。」
明子が凝っと見つめている。何とも答えない。
車を降りる昇平を追う瞳は、星が滲み、潤んだ光を瞬かせている。
「意気地なし!」
昇平の背がはげしく痛んだ。
ピンクのエルメスで殴られた。
笑顔