童子叫根
くぐもった音は生理的に唯一つのことを連想させる。それを証明するが如く噴出した脳漿と血液が男のシャツを汚した。生臭いにおいが男、郭の鼻をつき少しのけぞった。二度は殴り確実に止めを刺さなければならないと考えていたが、女の瞳孔は早拡散をはじめその必要がないことを語っていた。しかし、いまだ痙攣を続ける女の後頭に玄翁を振り下ろした。
郭はようやく手の力を緩め、星空を切り取っている木々のこずえのほうを見上げた。幾分か経って自分の車のほうを見やり、やり残した仕事があることを思い出した。粗末な中古の日本車のトランクを開けると実家にあったスコップを取り出した。穴を掘り終えたのは夜明けの前だった。死んだ女の喉は絶叫を上げることはなかったが、その口は最後の叫びをかたどってゆがんでいた。
帰りの車内に刺す朝焼けは皮肉なほどだった。郭の車はまっすぐ北京に向かっていた。
こうなったのも不注意からだった。北京大学出のエリートだった彼が久々に郷里に帰ってきて、英雄の如く扱われたのがいけなかった。北京でそうしたように何度か買った女が、郭が北京に住んでいることを知るとぐずり始めた。田舎をでて都会での暮らしに憧れていたのである。勿論郭は一も二もなく断ったが、しつこく付きまとった挙句、脅迫まがいのことをいいだしたのだ。
彼はこの殺人がばれてしまうことはないと考えていた。田舎の遊女など、恐らく法令逃れの次女三女で登録もされていないだろうし、何より不真面目な警察がこんな山奥を捜索などするはずはなかった。案の定郷里ではうわさすら立つことなく一年が過ぎようとしていた。
ある日郊外を例の日本車、背徳の念から内装やら塗装を変えていた、が走っていた。北京の近郊では珍しく濃い霧が出始めていた。慣れている道では動じることがなかったが、いつまでも目印が見えてこない。霧はますます濃くなり、まるで車の周りをうねうねとうごめくように視界を覆っていた。不意に彼は肌寒さを感じた。車載のエアコンは故障して動かないはずなのにそこから冷気が断続的に漏れはいってくる。その寒気に対しスーツの背中はじっとりと濡れ、尋常ならざるものが彼の背後に迫ってくるのを感じ、自然とアクセルに力が入っている。突然に目の前に一本の巨木が飛び込んできた。ブレーキを踏むまもなくすさまじい衝撃とともに、車体前部が巨木にめりこんだ。
郭は生きていた。ほとんど外傷はなかったが、軽い脳震盪で足元がふらつく。しかしまどろむような意識の中でも、この場を去るべきだという念が、前へ前へと進ませている。濃霧はいよいよ彼を飲み込むが如くじっとりと彼の全身をつつみ、ぬらしていた。
視界の先に光が見えた。霧の乱反射でぼんやりとしていたが、その光のほうへ背に迫る恐怖心が向かわせていた。しかしその光は人家ではなく、一本の花だった。見たことのない鬼百合ほどの大きさの花で、なんとその花の異常に分厚い肉腫のような葉裏から霧が放出されていた。男はやにわ怒りとともにその花を引き抜いた。おそらく恐怖の根源たるものが、このように矮小な花で彼をあざけるが如くにゆれていたからだろう。一度に根ごと抜いてしまった。
その刹那恐ろしい金切り声が一面に響き渡った。恐ろしい空気の振動は郭の鼓膜を引き裂いてなお、彼の全身を雷撃の如くに駆け巡っていた。その根源たる存在は男の腕のなかにいた。郭は初めてのわが子を抱きながら絶命していたのだ。彼の目からは絶え間なく血液の混じった脳漿がほとばしっていた。
童子叫根