―桜ノ鬼―
その昔。
他者の命を奪った罪人は、その魂が鬼になると言われていた。
伝承の中に言い伝えられて来た鬼は、その罪の重量に比例して、人の魂を喰らうようになる。
食尽鬼、
あるいは悪鬼と呼ばれた彼の存在たちは、生きて悪行を残し、死してなおその業を繰り返し続けた。
その蔓延る悪鬼の魂にたまりかねたのが、その凶刃に晒された先人たちである。
彼らは言った。
「鬼を封じねば、我らが生きることは叶わぬだろう。子々孫々に至るまで、悪鬼共を放逐しておくわけにはいかぬ」
その言葉に、ある声が飛んだ。
それが幾年もの先、鬼に魂を喰われるよりも辛い業を、たった一人の少女に背負わせるとも分からずに。
「人柱だ! 悪鬼共を裁くことのできる者を、守り神とするのだ!」
やがて、数年の後、人柱として見合う人間が現れた。
その者の名は桜と言い、霊的な悪鬼の存在を視認し、さらにはその手で触れることのできる、稀な資質を備えた少女であった。
そうして準備は整えられ、幾滴も流れる涙の中、儀式が執り行われた。
一人の少女の命を代償に。
多き人々の命を救うための、儀式が――
春の陽だまりに、少女はふと瞼を下ろした。
温かい、緩やかな風が流れていく。周りの木々が揺れ、若々しい葉がざわめいた。立てた膝の上で、柔らかい何かが手の甲に落ちるのを感じた少女は、その瞼をゆっくりと開く――
「……桜、か」
薄紅色の花びらを一枚、手にとって眺める。
淡い色彩に、少女はかすかな感慨を覚えた。それは遠い記憶が蘇ってくる時、誰しもが感じであろう、言葉にはできない心地よいもの――
「懐かしいな」
遥か昔、彼女もその名を呼ばれていた頃があった。次々と人々が死に、絶望が狂乱する最中、懐かしい彼女の父母が、そう呼んでいた。――桜、桜、と。
「……ふ」
自分にもそんな記憶があったのだ、そう考えると、何だかおかしく思えて来てしまった。その身を捧げ、とうてい人とは言えぬ存在になってしまったはずなのに。
「父様と母様、今は安泰の時代ですよ。清々しいほどに空は青ければ、生い茂る新緑も心地よい、さらには咲き誇る桜の木が見れるのです。皆の願いは、今や成就せしめられたと言えましょう」
祠の屋根に腰掛けた少女は、隣で花弁を舞わせる桜を見やり、次いで抜けるような群青色の空を見つめた。その昔、彼女の下にある祠には、鬼斬丸と呼ばれる石とともに人柱が捧げられたというのに、この平和が訪れた現代、その不吉な影はどこからも感じられない。
故にだろう、この鬼斬丸の存在が、数百年の歳月とともに忘れ去られてしまったのは。
「最近では私の使命もだんだんと廃れて来てしまった。父様、母様、私はいつになったら、皆の元に逝けるのでしょうね……」
風が吹き抜けると同時、桜の花弁が彼女を包むように舞った。長きに渡る悲哀、そのすべてを、俯いた彼女の表情が物語っている。
だが、その時だった。
桜の花弁に包まれる中、気付けば少女は、『誰か』の声を聞いていた。
「おねえちゃん、そこで何やってるの?」
声に振り向けば、視線を下ろした先に祠の高さと同じぐらいの背丈しかない、少年が立っていた。見上げるように、不思議と好奇心に満ちた瞳が向けられる。
「……お前、私が見えるのか?」
どれくらい久しいことだったろう、そう思うと、自然と目が見開かれた。
少年は答える。
それがさも、当然であるように。
「うん。何で?」
その一言に、胸の中に溜まっていた憂鬱が、どれほど晴らされたことだろうか。
首を傾げる少年に、少女――桜はこう答えていた。
何十年振りの、誰かとの会話として。
春を迎えた、その始まりの、一言目として。
「……わたしは桜。鬼斬丸の桜という。よかったら、お前の名前を教えてはくれぬか、少年?」
おにきり? と不思議がった少年は、だがすぐに笑顔を見せた。
純粋に、誰かと話すことを楽しいと思えている、そんな表情で。
「ぼくは三広、桜木三広だよ! ここで何してたの、さくらおねえちゃん!」
にっ、と笑ってみせる三広。
いつの間にか口元を綻ばせる、桜。
緩やかな春の季節の中、二人の出会いがどんな意味を成すというのか。
その結末が何を齎すのか、それは何百の時を過ごして来た鬼斬丸にさえ、分からなかった。
「で、今度お母さんとお父さんと一緒に、お花見に行くんだ! お母さんがいっぱいお弁当作ってってくれるって! すごい楽しみなんだ!」
でね、でね、と自慢げに話し続ける三広に耳を傾けながら、桜はのんびりとした雰囲気に当てられて、ふとあくびをした。ふわあ、と口を手で塞いでいると、不満そうに頬を膨らませた三広の顔が視界に映る。
「むぅ、ちゃんと聞いてくれてるの? さくらおねえちゃん! あくびなんかして!」
唇を尖らす三広に、桜は軽く笑いながら、その小さな頭に手を伸ばす。
ぽん、と頭に手を載せると、三広がぶーっと声を漏らした。
「はは、すまんすまん、三広。つい、陽気に当てられてしまってな」
「もうっ、聞いてくれなきゃつまんないんだから。昼寝ばっかしてると太っちゃうんだよ? さくらおねえちゃん」
「太る? ふふ、それはいかんな。気を付けなくては」
そうして、また話し出す三広に再び耳を傾け、桜は微笑んだ。
三広と桜が出会って、すでに三日。こんな調子で毎日会いに来ては、家族や友達、学校というものについて楽しそうに喋り出す三広との時間は、彼女にとって決して悪いものではなかった。
もう数え切れぬほどの時間を一人で過ごしてきたのだ、むしろ三広の話を聞いているのは楽しい。彼が楽しそうに話すのを見て、忘れかけてしまっていたはずの過去を、また思い出すことができるからだ。
だが、同時に――
(……本当に、私はこの時代に要らなくなったのだな)
そう思うようにもなっていた。
楽しそうに、笑顔で語る三広を見て。
ゆっくりと流れる、今の平和な時代を見て。
もう鬼を斬る人間は、いらないのかもしれない。そんな不吉で、物騒で、禍々しいものは、この安泰な時代には、もう――
「……た、ほらまた! どうしたの? さくらおねえちゃん。ぼーっとして。もしかして、熱あるの?」
心配そうに覗き込んで来る三広に、桜は小さく首を振り、微笑んで見せた。
要らぬのなら、ただそれだけのこと。
そして、昔はそれが、必要だっただけのこと。
たった、それだけのことなのだ。
それ以上も、それ以下も、桜が考える必要など、どこにもない。それは今も昔も、何一つ変わることはなく。
「いいや、大丈夫だよ。それより、もう少しで日が暮れてしまう。明日のお花見、楽しんでおいで、三広」
朱に染まり始めた空に目をやり、そう言葉をかけると、三広は大きく頷いた。
その姿に、桜は胸のうちが暖かくなるのを感じた。
あったかい、そう、まだ小さかった頃に感じていた、それ。
「転ぶなよーっ」
走り去る三広の背を見送ってから、桜は小さくため息を吐いた。
これからしばらくこんな時間が続くのも、悪くはない、と。
玄関の扉を開けると、いつもは出迎えてくれる母がいなかった。
不思議に思いながら靴を脱ぎ、家の中に上がれば、重い沈黙が小さな三広の体に圧し掛かる。
「おかあ、さん?」
リビングに入り、椅子に座った母を見つけた三広は、振り向いてすらくれない母にそう声をかけた。だが、返事はなく、俯いたまま顔を上げてもくれない。
「どうしたの、おかあさん? 気分、悪いの?」
近づき、そっと母の顔を覗き込んだ。そこには、いつもの母の顔がある。ただ、その表情に生きている心地はなく、まるで絶望をそのまま塗り付けたような、苦しそうな表情があった。
「……あら、帰って来たの、三広」
「う、うん」
ようやくこちらを向いてくれた母に、三広は安堵した。よろよろと椅子から立ち上がろうとする母に、心配そうな顔を向ける三広だったが、次の瞬間、その表情を強張らせた。
「……ッ、……ッ!」
突然、頭を抱えた母が倒れてしまったのだ。うずくまるようにするその姿に、三広は慌てて膝を突き、声をかけた。
「お母さん!」
最近、母の調子がよくないことには気付いていた。どこか疲れているというか、悩みを抱えているというか、それでも時々だったが、ひどく暗い表情を見せることがあったからだ。
だが、ここまでひどい状態にある母を見るのは、初めてのことだった。
これではもう、疲れているという話どころではない。
「お母さん、だめだよ! もし病気なら、早く病院行こうよ! 明日のお花見なんていいから、ちゃんと休まなきゃ!」
頭痛がするのか、母は頭に手を当てたまま、顔を上げた。そのどこか虚ろな瞳に自分の顔が映っていることに気付き、何だか空々しいものを三広は感じた。
明らかに体調がよくない、そんなことは分かっているのに、けれども母は微笑んで見せる。弱々しく、けれど安心させるように。
「いいえ、大丈夫よ、三広。心配かけてごめんね。でも、明日だってお花見行くってお父さんと決めたでしょ? せっかくお休みとってくれたんだから、お母さんもがんばってお弁当作らなきゃ」
言いながら、ふらふらと立ち上がる母の姿を、三広はただ呆然と見ていた。それよりも、もっと大事なことが――そう思いつつも、キッチンに立つ母に、何の言葉もかけられなかった。
花見よりも何よりも、まず大事な家族の心配をするべきなのに。
「お母さん、」
「ん? どうしたの? 明日は三広の好きな物いっぱいお弁当に入れてあげるからね。楽しみにしてなさい」
「……」
「あ、そうだ。まだ晩ご飯まで時間あるから、先に何か食べときなさい。お腹空いてるでしょ?」
「……うん」
結局、三広が何かを言うことはできなかった。
母が何かつらいものを抱えているんだとしても、その母は、いつも通り、いつも通り優しくて、気遣ってくれる大好きな『お母さん』だったから。
だから――
その会話が二人にとって最期のものになるとは、一つも思わなかった。
悪夢の入り口に差し掛かる、その前までは。
夜、三広は一度目を覚ました。
明日が花見ということもあってなかなか寝付けずにいて、元々うつろうつろしていた状態だったのだ。いつの間にか眠り被っていて、ちゃんと寝る前にもう一度、トイレに行こうと思い、起きたのである。
一階へと降りる階段の途中、寝ぼけた頭で三広は明日の花見のことを思った。行けたらいいな、でもお母さん大丈夫かな、そんなことをもうずっと考えている。花見は楽しみなはずなのに、少しだけ、複雑な気持ちだった。
おかしな声が聞こえて来たのは、ちょうどその時である。
階段を下りると、誰もいないはずのリビングから不気味な声が聞こえて来た。まるで嗚咽のように震えたその声に、三広は思わず、足の動きを止めてしまった。
恐る恐るそちらの方を振り向きながら、何が起きているのかを確認しようとする。だが、扉の隙間から光が漏れている以外、何も分からなかった。もしかして母が、明日の弁当の準備をしているのだろうか?
そう思ったが、けれど三広はすぐにおかしいと思った。ではなぜ、母が『泣きながら』弁当の準備をしているのか。そんなこと、ありえるはずがない。
思考を巡らす中、結局何も分からなくて、三広はごくりと生唾を飲み下した。
一歩、一歩、と音を立てずに扉へと近づく。やがて、その隙間に目を当てて、中を覗き見た。
「……?」
だが、そこには信じられない光景があった。
リビングで、母がうずくまり、何かを呟いているのだ。必死に、ひどく苦しそうに、涙を流して。
「やめて……やめてやめてやめてっ、死にたくない、殺したくないっ、わた、わたしが、夫と三広を殺すなんて、あ、ありえな……」
よくは分からなかった。
だが、その声に重なるように、不思議な、重く圧し掛かるような声がどこからか聞こえる。
『ウソダ。キサマノウチニハドンヨクナサツイがコメラレテイル……コロシタイ、ジユウニナリタイトナァ』
「やめてっ!」
その掠れた声に、三広は息を呑んだ。――お母さん、何をしてるの。一体誰と話してるの……、と。
しかし。
「おかあ、さん……」
呟いた、その瞬間だった。
「ッ」
『――ダァレダ……』
ギロリ、とおぞましいほどに血走った瞳が、三広を捉えた。乱れた髪の奥、その双眸の中に信じられないほどの狂気が渦巻いている。つい数時間前までの母など、もうそこには、存在しないように。
「み、ひ、ろ……」
その震えた声に名を呼ばれ、ぞわり、と得体の知れない何かが背筋を駆け上った。
怖い、怖い怖い怖い、ここにいちゃいけない!
ゆらゆらと立ち上がる母を見て、三広の頭の中が、そう必死に叫んだ。
「三広……」
やがて、その血走った瞳の下で、不気味な唇が弧を描く。
――真っ赤な、笑みを。
「三広ッ、三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広三広ッ……!」
「……っ」
「みぃ、ひぃ、ろぉ」
「ひっ」
それからの行動は、もう判断と言えるようなものではなかった。ただ本能が叫ぶ通りに走り出し、逃げて、逃げて、自分の部屋に閉じこもった。あんなものは母ではない、これは夢なんだ、悪い夢なんだ、と自分に言い聞かせて。
やがて、布団の中で震え始めて、どれくらいの時間が経っただろう。気が付けば、外は朝になっていた。あれから三広の部屋に入ろうとする者はなく、また当然、三広から出ることもしなかった。
窓から朝陽が差し込み、鳥の声が聞こえ、大分落ち着いた頃、三広はしばらくして一階へと降りることを決意した。もう朝だ、今ならば、きっと母が弁当を作ってくれているに違いない。きっとそう、優しい、いつもの母に戻ってくれているはずに違いない。――そう、思って。
そして、階段を降り、リビングの扉を開いた、その時。
「……ひっ」
けれどもそれが、悪夢を越えた絶望への入り口だとは、三広は考えもしなかった。
「何で、何で、おかあさん、何で……」
季節は春。
血桜の華が舞い散る中、桜木三広は、十歳にしてかけがえのない、大事なものを失った。
首を吊った、その母の姿を目の当たりにして。
「うあ、あ、いやだ、いやだよ、おかあさああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん――」
「……三広、大丈夫か?」
雨が降っていた。ずぶ濡れになった髪が頬に張り付き、雨水を吸い込んだ衣服が三広の小さな体に現実の重みを伝えてくる。――もう母は、死んでしまったのだと。
「中に入ろう、三広。風邪を引いてしまう」
だが、傘を差してくれている父の言葉は、今の三広にとって残酷なものでしかなかった。通夜の会場に入る、それは紛れもなく、母が自殺したことを受け入れろと、そう言われているようであったから。
周りに見える人の数は少なかった。通夜、しかも自殺であるというならば、最後まで静かに終わることになるだろう。だがそれでも、三広はやるせない。母が死に、それを皆が知っているという事実が、今目の前にあってしまうことが。
ぎゅっと強く、三広は拳を握った。唇を噛み締め、頭の中には優しかった母の姿ばかりが浮かぶ。そして、――昨夜、母が泣いていた、あの時の姿も。
「……っ」
首を吊った母、けれどそれは、なぜこのタイミングでなければならなかったのか。それほどまでに、母は何かに追い詰められていたのだろうか。だとしたら、それは――
雨音に混じり、小さな声が、言葉を紡ぐ。
「……お父さん、お母さんは、本当に自殺だったのかな。本当に、自分で、自分から、死んじゃったのかな」
その問いに、父は驚いた顔を見せた。だが、すぐに呆れたような、そんな顔で答える。
「何を馬鹿なことを言っているんだ……母さんは、自分で、死んでしまったんだよ」
「でも!」
「でもではない! 三広、お前はまだ小さくて理解できないかもしれないが、母さんは――」
パチン!
父の言葉が終わる前に、三広は父の手を叩いていた。差してくれていた傘が飛び、涙の溜まった三広の瞳だけが、目の前の父を睨み付ける。
「お父さん、分かってない! お母さんが自殺するはずないんだ! 一緒にお花見行くって言ったもん! お弁当作ってくれるって、約束したもん! なのに……なのにお母さんが自殺するはずがないんだ!」
パチン!
今度は、三広が驚く番だった。不意に頬を叩かれたことに、三広は目を見開く。
でも、
「わがまま言うんじゃない。父さんたちが何を言ったところで、母さんが生き返るわけではないんだ。現実を見なさい、三広……」
「……っ」
でも、今の言葉を聞くや、涙が溢れ、やるせない気持ちが口を突いた。――嫌だ。お母さんは自殺なんかしてない、と。
「三広、」
「……いだ」
「三広、中に――」
「大っきらいだ! お母さんのこと信じないお父さんなんて、大っきらいだ!」
気付けば、勝手に体が動いていた。駆け出し、ただ走り、ただ泣いた。
「三広っ!」
父の止める声など、耳に入らなかった。走って走って走って、ただ走り続けて、不意に石に躓き転べば、また涙が流れた。
「お母さん、お母さん……」
何で自分を置いていったのか。もしかしたらまだ、呼べば来てくれるんじゃないか、そんな気さえした。
だが、その声は雨に流されるだけで、誰にも届きはしない。
やがて、果たしてどれくらいの時間が経ったかも分からなくなった頃、三広はある祠の前にたどり着いた。
その祠の上、濡れた桜の木の下で、大きな葉っぱを一枚、傘代わりにした少女が、驚いた顔でこちらを振り向いた。
「……どうした三広、お前、びしょ濡れじゃないか」
その少年は、降り注ぐ雨粒を眺めていた時にやって来た。
誰かの足音がすると思い、ふとそれが聴きなれた物であった事に気付いたのだが、どうしてこんな時間に……と不思議に思いながら、桜はそちらに目を遣った。早く帰さねば親も心配してしまうだろう、そう思ったのだが、三広の姿を見るや、その考えは瞬時に切り替わった。
傘も差さず、三広はずぶ濡れになっていた。俯いたまま唇を噛み締め、泣き腫らした目で見上げて来る。
「さくらおねえちゃん、お母さん、が」
やがて、その唇が何かを紡ごうとした、その時――
「三広っ!」
傘代わりにしていた葉を投げ捨て、桜は祠の上から飛び降りた。泥の上に倒れ込んだ三広を起こし、彼の名前を呼びかけるが、けれど何の反応もなかった。
それに驚き、桜はふと彼の額に手を当て、
「お前、この熱で、ここまで……」
一度舌打ちした桜は、すぐに三広の体を温められる場所を模索した。この子を連れて町まで降りようとも考えたが、地理をあまり理解していない上、霊体である桜の姿を目にできる人間は少ない。
そう考えると、この状況は絶望的だった。だが、不幸中の幸いと言うべきか、桜が三広に触れられることが、唯一の救いでもあった。
「待っていろ、三広。今少しの辛抱だ」
やがて、桜は三広から離れ、祠に祀られてある石に手をかざした。
その石の名は、鬼斬丸。かつて一人の少女とともに捧げられた、御神体である。
その前でふっと目を瞑った桜が、再び開いた、その時。
「顕現せしめよ、鬼斬丸」
そう呟き、一振りの刀を、彼女は強く握った。
目を覚ますと、赤い光が目に飛び込んだ。状況が分からず視線を巡らすと、ごつごつとした岩壁、ゆらゆらと揺れる赤い炎、それからようやく、見知った顔を隣に見つけた。
「さくら、おねえちゃん……」
呆然と呟くと、彼女は優しく、安心させるように微笑んでくれた。彼女の背よりも向こうでは未だに雨が降っている光景が見え、よく分からないが、ここに連れて来てくれたのは彼女なんだろう、と納得する。
「気がついたか、三広」
その声を聞きながら、三広は体を起こした。どれくらいこうして眠っていたのだろう、少し体の節々が痛む。
「……ここ、どこなの? さくらおねえちゃん」
「ん? ここはだな……」
一見すると小さな洞窟のように見えた。苦笑を浮かべながら、彼女は答える。
「まあ本来はいけないことだが、非常の事態だったからな、少し鬼斬丸の力を使って穴を開けたのだ。まだ冷えるが、今夜ぐらいはここで過ごせるだろう」
「おにきり? あな?」
何を言っているのか理解できない三広に、桜は変わらず苦笑した。そういえば、何でここに来たんだろう、と思っていると、何だか頭の中がぼうっと……
「……ろ、三広! 大丈夫か?」
「え、あ、うん、大丈夫」
桜に呼びかけられて、三広はようやく、自分の体がいつもより火照っていることに気が付いた。この感覚は、ずいぶん前に熱に浮かされた時とよく似ている。あの時は確か、母が看病をしてくれて……と、そこに至って、ようやく三広は思い出した。
――その母が、死んでしまったのだと。
「……さくら、おねえちゃん」
「ん?」首を傾げる桜に、三広は弱々しい声で言葉を継いだ。
「実はね、お母さんが、お母さんが死んじゃったんだ……今日、お花見に行くって言ってたのに、何で、何でお母さ、自殺なんか……」
堪え切れず、小さな瞳から涙が溢れた。本当は、今日は家族みんなで楽しく騒いでいたはずなのに。母の作ってくれた弁当を、父と、母と、三人で笑いながら囲っていたはずなのに。それなのに、何で――
「三広……」
状況を察してくれたのか、何も聞かず、桜は三広を抱き締めてくれた。火照った体に伝わる温もりが、まるで母のものと似ていて、思わずその胸の中でなきじゃくってしまう。何で、何で、とただ言い続けて。
やがて、いくらか落ち着いた三広は、桜に事のすべてを話した。昨日帰った後、母が疲れていたこと、その夜、母が見えない誰かと話していたこと、そして朝、その母の死体を、見つけてしまったこと。
そのすべてを聞いた後、桜はただ何も言わず、じっと炎を見つめていた。「現れたのか……」とよく分からないことも呟いていたが、彼女が何を考えているか、三広が知る由はなかった。
ただ、やがて。
ぽん、と桜の手が、三広の頭の上に置かれた。
「がんばったな、三広。後はゆっくり眠っていなさい。お前が起きる頃には、もうすべてが終わっているだろうから。だから、ね」
す、と三広の視界が暗闇に包まれた。もしかしたら、桜が三広の目を手で覆ったのかもしれない。
だが信じられないことに、その一瞬の間に、急激な眠気が三広の意識を襲ったのだ。それはとても、人の意識では抗いがたいほどに。
「おやすみ、三広。そして、さよならだ」
薄れゆく意識の中、ただその声だけが聞こえた。
「さくら、おねえちゃん……」
ここで眠ってはいけない、そう頭では分かっているのに、体が言うことを聞いてくれなかった。
ただ気付けば、いつの間にか。
――その意識が、途絶えていた。
びちゃ、と踏み締めた泥が撥ねた。
降りしきる雨の中、桜木洋一は一人の少年を探していた。母を亡くし、その絶望に打ちひしがれているはずの少年――桜木三広を。
「……どこだ。どこにいる、桜木三広!」
暗闇の中、唸るような声が夜気に沈んだ。
昨夜、あの少年には母を死に追い詰める瞬間を見られてしまったのだ。それを言い触らしたところで信じる者などいないだろうが、早く探し出し、手元に置いておくに越したことはない。
一度捉えた獲物を、逃すわけにはいかないのだから。
「この父親の後、ゆっくりと味わうのだしな……」
しばらくはこの町に留まり、たくさんの人間を食い殺していくことに決めていた。その想像を膨らませ、洋一は哄笑を上げる。愉悦に歪んだ笑みを、夜闇に浮かべて。
だが、その時だった。
「……ん?」
ピタリ、と洋一は足を止めた。
山道を登っている途中、その先に人影が見えたのだ。この雨の中、しかも人気のない場所だというのに、誰かがそこに、立っている。
「誰だ、貴様」
声を荒げたのは、その相手が決して人間ではないと分かったからだった。――そこに立っている者は人外の者である、と。
しばらくして帰って来た声は、やはり予想を裏切らないものだった。
「……やはり、か。三広の両親は取り憑かれていたのだな、――悪鬼」
「……貴様、何者だ」
悪鬼、その呼び方を聞いて、洋一の顔が険しいものに変わった。雨に濡れた顔の中、剥き出しの犬歯が敵意を見せる。
「まあいい。あの小僧がこの場所のどこかにいることは分かっているのだ。……貴様を先に殺してから、時間をかけて見つけようではないか。ああ、興がそそられるぞ」
言いながら、洋一は唇を舐め、笑った。
それと同時、その背から黒い何かが姿を現し始める。初めは黒煙のようにも見えたそれは、徐々に人の頭部らしきものを作り、腕を作り、そして――口を、作った。
「さて、我の道を阻んだのだ。無論、覚悟はできているだろうな、小娘風情が」
その怒号に、雨に濡れた少女は言った。
ただ静かに、冷徹に。
「塵も残さぬぞ、悪鬼。それが、私の使命だからな」
目を覚ますと、洞窟の中には誰も居なかった。一緒に居てくれたはずの少女さえ、今はもういなくなってしまっている。
「さくらおねえちゃん、どこに……」
呟いた、その時だった。
ドオン、と地面を伝った振動が体を揺らした。小さな地震のようでもあったそれは、二度、三度と連続して襲ってくる。
地震じゃない、すぐにそう分かった。そして、もしかしたら外で何かが起きていて、そこにあの少女もいるのではないか、とも。
今は一人だけ、一緒に居て安心できる――鬼斬丸の少女が。
「さくら、おねえちゃん」
ぼうっとする頭を無理矢理に叩き起こし、三広は歩き出した。
必死に。
ただ、懸命に。
そうするべきだと、思ったから。
「貫け、鬼斬丸!」
濡れた大地が抉れ、飛び散る瓦礫の中、二つの殺気が交錯した。桜の手にする神刀――鬼斬丸の斬撃を紙一重でいなしながら、赤い口がせせら笑う。
「そうか。その大した腕、さすがは数千の鬼を屠って来た『守り神』と言うべきか。こんなところで相見えるとは思わなかったが、いいぞ、興が乗る。その殺意、その冷徹な瞳、決して地獄を垣間た者にしか叶わぬからな!」
嬉々とした声を上げる漆黒の鬼に、一際強い斬撃が放たれた。だが、それすらもかわされたのを確認し、小さな舌打ちが鳴る。
桜は今一度、おもむろに構え直した。
「口が過ぎるぞ、悪鬼。貴様と無駄口を叩いている暇など、どこにもない」
言いながら、桜はその切っ先を向けた。雨の雫が、その刀身を濡らす。
動きが止まった沈黙は、たった数秒のことであった。
「滅せよ、鬼斬丸!」
その猛進に、しかし赤い口はなおも笑う。
まるで子どもの相手をしているように、おかしそうに。
「……だが、まだこの程度か、鬼斬丸の使い手よ」
「はぁ、はぁ」
呼吸がひどく乱れていた。体を打ち付ける雨に体温を奪われ、意識が掠れてしまいそうなほどに、寒気が襲ってくる。
(どこに、どこにいるんだよ、さくらおねえちゃん!)
あの洞窟から出て、どれくらいの時間を歩いただろう、もう少しで山を降りようとする坂道にまで差し掛かっていた。
奇妙な光景を目にしたのは、その時である。重い足をまた一歩と動かそうとしたその時、
見知った顔の少女が、そこにいた。
浅く傾斜になったその下り道に、その少女と、よくは見えないが、倒れている男が一人。そして、その少女が駆け出し、向かう先に――黒い、ただひたすらに黒い、異形の姿が一つ。
まるで煙のように揺らめき、赤い三日月を口元に浮かべたその様は、悪魔のそれのようであった。
「何だよ、あれ……」
驚いているのも束の間、三広は二つの信じられないことに気が付いた。一つは、倒れていた男が父親であったこと、そしてもう一つは――桜の向かう先、黒い異形の尻尾が、幾つにも分裂し始めていたこと。
ただ猛進する桜が、それに気付いている様子はなかった。黒い体に隠れたその光景は、前方からでは気付けないのだろう。
一歩足を踏み出し、水溜りを踏んだ。
だがそれを気にしている暇はないし、迷っている暇もない。
三広は必死に叫んだ。
桜の足を、止めるために。
「危ない、さくらおねえちゃん!」
「……何!?」
不意に聞こえた声に、桜はピタリと足を止めた。
ありえない、なぜこんなところに来てしまっているんだ……混乱し始める頭の中を押さえつけ、前方に注意を払ったまま、横に視線を向ける。
すると、確かにそこには、あの少年の姿があった。
巻き込まないよう眠らせて来た、桜木三広の姿が。
「馬鹿者! なぜこの場に来た、みひ――」
だが、その声はすでに遅かった。
無数の殺気に当てられ、振り返ってみれば、前方から飛来する槍のような尻尾の数々。その一つ一つが、致命傷を与えるであろうことは明白であった。
「くっ」
三広を一瞥し、距離を置こうとする。だが、その一瞬が桜にとって命取りに違いなかった。軽く二十は越える槍が、桜がかわすや、軌道を変えて追尾してくるのである。やがて四方を囲まれた彼女に、逃げる場所などなかった。
強烈な破砕音が轟く。
その土煙の中、飛び散った血の音だけが鮮明に聞こえた――
「うそだ、うそだうそだうそだっ……さくら、おねえちゃん」
赤く染まる水の流れを、桜木三広は唖然として見つめた。無数の槍が突き刺さった土煙、その後方には倒れ付した父の姿。
どうすることも、今の三広には叶わなかった。
「さくら、おねえちゃん……」
やがて、ゆらゆらと揺らめきながら、先端を赤く染めた尾が抜かれ、宙を漂う。
声が聞こえたのは、その時だった。
「見つけたぞ、小僧」
驚いて振り向けば、黒い異形の姿が見えた。
だが、それは一瞬にして消えてしまう。気付けば三広は、その首を締め上げられていた。
宙に浮いた足が、虚しく空を切る。
「フン、貴様の父親はまだ中途半端だからな。まずは貴様を喰ってから、あの残り滓を片付けることにしよう。取り憑くことしかできぬ成熟した人間など、面倒だからな」
「うっ、ぐ、がぁ……」
ぎりぎりと喰い込む黒い指に、三広は呻き声を漏らす。必死に振り解こうと暴れ、その腕を掴むのに、異形はビクともしなかった。
「……しぶといな。早々に殺すべきか」
その呟きと同時、桜を刺したあの尾が一本、宙に浮上した。その鋭利な切っ先が、三広の心臓に向けられる。
「う、ぐ、ああああああ!!」
後はいつ殺されてもおかしくはない。三広は必死で暴れた。掠れ始める意識を、少しでも、少しでも保とうと……
(おかあ、さん――)
死んだ母を思い出す。優しくて、笑顔だった母を。そして、昨夜、狂ったように頭を抱えていた母の姿を。
「おかあ、さん……」
思い出したのは、その時であった。あの時、母に話しかけていた声を。母を追い詰めるように囁きかけていた、あの声を――
あれは――そう、今目の前にいるこいつと、同じ声をしていた。
「おまえが、おかあ、さん、を……っ」
悔しかった。今になってすべての真相に気付き、それでも何もできないことが、ひたすら悔しかった。この異形を一発でもぶん殴ってやりたい、そう思うのに、どんどんと体の力が抜けていく。
「おまえ、がっ……」
やがて、異形の手を強く掴み、意識が暗転しかけた、その時。
信じられない声が、聞こえた。
「……その手を離せ、悪鬼」
その声を聞いた時、思わず異形の手から力が抜けてしまい、少年の喉に空気が通った。むせ込む少年のことなど放っておき、異形はおもむろに首だけ振り返り、忌々しそうに呟く。
「まだ生きていたのか、小娘」
呆れたような声の先には、もう立ち上がるだけが精一杯だろう少女が、一人。その神刀を杖代わりにして、ようやく立っていられていた。
「……その手を離せと、言っているんだ、悪鬼!」
それでも、その少女は立ち上がった。震える足を地に突き立て、悲鳴を上げる体など無視して、その刀の切っ先を、こちらへと向けて。
「……よかろう。貴様がそこまで死に急ぐなら、止めを刺してやる」
少年に向けていた尾の一つを、今度は再び少女へと向けた。一秒となく飛び出したそれは、しかし一撃のもとに払われてしまう。
「ほう。まだ刀を振れるとは、大した小娘だ。鬼斬丸の使い手としては未熟だが、人間だった頃の器には見込みがある」
感心の声に、しかし少女は一歩、足を踏み出した。
血に塗れたその体を、雨が少しずつ洗い流していく。
「だが、所詮は人間の域でしかない。もう立っていることさえ、苦痛なのであろう?」
また一歩、だが少女は踏み込んだ。
「……お喋りはいい。その手を離せ。さもなくば、容赦はせぬぞ」
その言葉に、異形の纏っていた雰囲気が一変した。鎮みかけていた殺気が、一瞬にして膨れ上がる。
「……よかろう」
言うや、その黒い姿は少年ごと消えた。
再び現れた時は、少女と対峙するように立っている。むせ込む少年を左腕で捕らえ、そのこめかみに鋭く尖った爪を当てながら。
「この状況で貴様にできることはあるか。交換条件だ。貴様が死ねば、この小僧を解放してやろう。そこの残り滓とともにな」
生きて、とは言わないところに、異形は嘲笑を浮かべた。最初から返す気などないのだ、その、死体以外は。
だが。
「……いいだろう。その条件を、飲もう」
まさかそう答えてくるとは思わず、異形は笑いを堪え切れなかった。
(馬鹿か、この小娘は……! この程度のことも分からぬとは!)
やがて、少女はその手に持った刀を短く持ち直し、切っ先を自身の胸元へと向けた。
そこで脈打つ心臓を、貫くために。
その最期、少女は言った。
泣き出しそうになる少年を見て、心配ないと、そう言い聞かせるように。
「三広、少しの間だけ、目を瞑っていてはくれないか? すぐに、お前を自由にしてやるから」
「いやだ……いやだよ、さくらおねえちゃん! ……さくらおねえちゃんまで死ぬなんて、絶対にいやだ!」
「……三広」
そうして、何かを悟ったように少女は微笑(わら)った。
その瞳の先に、何か大切なものを、みているように。
「目を、瞑っていろ。これから起こることを、お前は絶対に見るな。見ては、いけないんだ」
「……さくら、おねえちゃん」
まるで急かすように、異形の爪が少年に突きつけられた。
やがて少女は、その刀を強く、強く自分の胸元へと――
「待っていろ、三広」
――突き、刺した。
数瞬、少女の体が倒れ、赤い血が流れる水に織り交ざっていく。沈黙の後、かすかに漏れた笑い声は、異形のものだった。
「フ、フフ、ハハ、アッハッハッハッハッハッハッハ! やった! やったぞ! この我が鬼斬丸を確実に殺した! これで我の邪魔をする者はどこにもいなくなった! 鬼斬丸さえも手に入り、我は! この我は! この地で最強の鬼になるぞ!」
絶望に打ちひしがれる少年など気にも留めず、ただその哄笑が響き渡った。幾重にも、幾重にも木霊して、少年の鼓膜を震わす。
「そんな、そんな、さくらおねえちゃん、」
母が死んだ。
さらにはもう一人、また、目の前で――
「いやだ、いやだいやだいやだ! いやだよさくらおねえちゃん! 起きてよ! 起きてよ!?」
ただひたすら叫び、ただひたすら涙が溢れた。
その上から、非情な声が降ってくる。
「無駄だ、小僧。あの小娘はもう死んだ。心音も聞こえぬからなァ……これで我は、貴様らを片付けるだけだ」
赤い口が、少女の死を嘲るように笑った。
それが許せなくて、悔しくて、やるせなくて、少年は唇を噛み締める。もし、もし自分にこんなやつぐらい殴り倒せるほどの力があれば、そうすれば、母だって、少女だって、死なずに済んだかもしれないのに――
それ、なのに。
「そういうことだ。早々に死ね、小僧」
やがて、少年のこめかみに向かい、異形の爪が風を切った。その切っ先が近づいて来るのが、感覚として分かる。
――もう、終わりだ。
一秒もない、だがすぐに、そう諦めた。もうすべてが壊れてしまったのだと、今さら取り返すことなど、自分にはできっこないのだと。
だが、その時だった。
そんな彼の頭を叩き起こす声が、聞こえた。
「待っていろと言っただろう、三広。まだ諦めるな」
「……さくら、おねえちゃん?」
信じがたい光景を目にして、異形の手がピタリと止まった。
(何がどうなっている……なぜ、なぜ――)
「死んだはずの貴様が、起ち上がるのだ!」
自らの胸をその神刀で貫き、死んだはずの少女がどうしてか今、悠然と立ち上がろうとしていた。
死んだはずなのに。そのはず、なのに。
「鬼神、降ろし」
だが、少女は事もなげにそう言った。
体に刺さった刀を抜き、その血を払いながら。
「その昔、鬼の狂気に晒された人々は、彼らを守るための『守り神』を作った」
血が雨で流され、少女の足が地を踏み締める。
一歩、さらに一歩、と。
「その『守り神』として選ばれた少女と、御神体の鬼斬丸は数百年もの間、幾千の鬼を切り伏せ、その生き血を啜った」
「や、やめろ、近づくな! それ以上近づけば、こ、この小僧を殺すぞ……!」
ふと、少女の足が止まる。
だが、次の瞬間、その姿はなくなっていた。
「なら、自然だとは思わぬか? 鬼斬丸にたくわえられた鬼の魂たちを、体に宿すことができるのは」
「……ひっ、ぃ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」
気付けば、目の前に少女が現れ、次の瞬間には左腕に激痛が走っていた。またも消えた少女より、その腕を見れば、ぼたぼたと黒い血が滴る断面が見え――その、左腕を肩から斬り落とされている。
「きっ、きさ、貴様ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
その怒号に、周囲の雨が弾け飛んだ
「大丈夫か、三広」
あまり雨の当たらない、密集した木のその下。
桜は異形の手から奪った三広を降ろし、傍らに彼の父親を寝かせると、再び刀を持ち直し、立ち上がった。
「お父さん!」
意識がない状態で雨に晒されていたのだ、父親の安否も気になるところだが、今はそれよりも先に片付けねばならないことがある。
父親を呼びかける三広の姿を見ながら、桜は一度微笑み、そして次の瞬間――
その姿を、消した。
「小娘、貴様、覚悟はできているのだろうなッ……何百と殺し尽くそうが、この恨み晴らされぬぞ!」
雨足がさらに強まり、その中に少女と一匹の異形は立っていた。
周囲の雫が細切れに弾けるほど、殺気に満ち満ちた状態で。
そんな中、不意に異形の目には、降り注ぐ雨がひどく、ひどくゆっくりに見えた。
「……うるさいぞ」
一瞬、聞き間違いかと思った。そんなにも低く、高圧的な声が、この少女の口から出るとは思えなかったからだ。
だが。
「戯言はもう聞き飽きた。即刻――、死ね」
気付けば、視界が奇妙なことになっていた。
景色が反転して見えるのだ。――立ち尽くした自分の体の背後に立つ、少女の姿さえも。
「な、あ……」
数瞬して、ようやく事の状態が理解できた。
斬られたのだ。
その、首を。少女の持つ鬼斬丸によって。
(ば、馬鹿な……っ、何も見えなかった、何も見えなかったぞ! 何がどうなっているのだ! 先までの速さとは、比べものにならないではないか!?)
「ア、アア……」
ただ驚くばかり、何もできずにいると、
不意に、
ビチャ、と目の前の泥を、少女の足が踏んだ。
視界に映るその光景が、これ以上ない恐怖を湧き上がらせる。
「ま、待て……我は、我はまだ、こんなところで、」
「貴様、三広の母はどうであった。貴様の声に抗ったのではないか? 貴様に頭の中を掻き回されようとも、必死に立ち向かったのではないか?」
「……ッ」
それからは、ただ一瞬の出来事だった。
振り上げられる刃が、
その刀身に彼の異形の姿を映し、
そして――
「燃え散れ、悪鬼が!」
「や、やめ」
――突き、刺した。
「やめろオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!」
エピローグ
「そろそろ、桜も散ってしまうかな」
鬼斬丸が祀られてある祠の上、その屋根に座った桜は、隣の木をみやり、どこか寂しそうにそう呟いた。数日前と比べれば、ずいぶんと花びらが寂しくなったものである。
「――桜は儚いがゆえに強く、美しい。昔、そう言っていましたよね、父様。私の名は、そんな桜のように強く咲き誇って欲しいからなのだ、と」
幼い頃、今と同じくらいの時期にそんなことを教えてもらったことを思い出し、ふと桜は小さく笑った。もう、もうずっと前のことだというのに、どうしてだろうか、最近になって身近に感じるようになった気がする。
それもすべては――
「さくらおねえちゃん、聞いて聞いてーっ!」
不意に聞こえた舌っ足らずな声に、桜はつい笑ってしまった。
また今日も来てしまったのだな、と。
「どうした三広、そんなに慌てて」
はぁ、はぁ、と息を乱しながら、三広は、
「お父さん、今日退院するんだ! もうおそいけど、一緒にお花見行こうって!」
「……ふふ、そうか」
三広の母が亡くなり、原因にあった悪鬼を滅して、もう三日が経った。
あの時のせいで体調を崩してしまった彼の父は入院、三広自体も熱が悪化して寝込むなどあったが、どうやらもう、三広の周りは上手く回り始めているらしい。そのはしゃぎようを見ながら、つい桜も微笑ましく思ってしまう。
だが。
「しかし、もうここには来るなと言っただろう、三広。ちゃんと言うことは聞くものだぞ?」
「えーっ、いいじゃん、さくらおねえちゃん!」
唇を尖らす三広に、桜は呆れたように小さくため息を吐いた。
鬼斬丸と悪鬼、その深い歴史の裏にもう彼を巻き込まぬよう、そして人外の者にこれ以上近づかぬよう、桜は三広と会うことを禁止したのだが、それも結局、彼が寝込んでいた二日で終わってしまったのだった。
彼が子どもでいる間――桜の姿が見える間は、ずっとこうして相手をしなければならないのかもしれない。
本当は、それもやっぱり、悪くはないのかもしれないと思っているのだけれど。
「三広っ」
これからしばらくは続いてくれるだろう、この楽しい時間。
数百年を生きた鬼斬丸の人柱は、その時間をくれる一人の少年の背を、笑って見送った。
「お花見、楽しんできなさい!」
その一瞬、三広が驚いたような顔をする。
そんな桜の姿に、今はもういない母の面影が重なったことは、この先もずっと、彼女が知ることはない。
三広は満面の笑顔で、頷いた。
「うんっ!」
―桜ノ鬼―