潮騒の向こうから

潮騒の向こうから

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 冬へと向かう海はシルバーグレイに泡立って重い。
あの秋の日のサーフ大会の面影はもう、どこにもなくて、だれもいない砂浜の向こうに火力発電所の建物が白く並んでいるだけ。
コロナ対策のために無観客の浜辺は、関係者のテントとプレハブ、わずかに許された応援団が身振りと拍手で寂しい声援を送っていた。
福島県南相馬市の北泉海岸は1年中いい波が来ると言われていたけど、3.11で壊滅してしまって、2021年10月9日、やっと第55回全日本サーフィン選手権大会(マルハニチロ)が開催されるまで事実上、見向きもされなかった。

 吹きすさぶ冷たい風音(かざおと)に混じって、遠い波間の奥から遥かに呼ぶ声がする。
優しくかすかに時に狂おしく。
立ち止まって耳を澄ますと、懐かしい悠煌(ゆうき)の声になって繰り返し繰り返し・・・・・・。
でも、彼が呼ぶのは彼女。
わたしではない。

 高校から持ち上がりで、親友の伊乃莉(いのり)がそっと、
「カレができたの」
と告げてきたとき、わたしはちょっと笑ってしまった。
彼女は真面目で地味で大人しいタイプで、自己主張もあまりしない目立たない子。
いつも隅っこでみんなの話を聞いている。
ゼミの口の悪い友達は陰で「亡霊みたい」と言ったりする。

「え~? 伊乃莉(いのり)、ホントなの? やったじゃん」
わたしの言葉に、彼女は小学生のようにちょっと恥ずかしげになる。
そんなところがなんとなくかわいい。

「うん、綺羅良(きらら)だけには教えとくね。サーフ・クラブの国府方悠煌(こうかたゆうき)くん」
「えええぇ? やだ、サーファー?」
意外すぎて、わたしの声が高くなる。
「ちょっと、ホントのホント? でも、どこで知り合ったのよ」
「う~ん、ええとね、廊下とかでけっこうすれ違うなぁって思ってたら、いきなり、『カレいるの?いないなら立候補していい?』って」
そういえば入学以来、なんの偶然か、国府方(こうかた)くんとはけっこう顔を合わせることはあった。
だけど彼に限らず、教室が近ければそんなことは普通にあるし、こっちはもちろん、向こうだって意識した様子はなかったのに。
「うっそぉ。なにそのアニメっぽいシチュエーション。で、伊乃莉(いのり)はなんて答えたの?」
「うん、とっさに返事できなくて黙ってた」
彼女らしいトロさにため息が出る。
「ま、想像つくわね。それで?」
「そしたら昨日、友達5,6人と来て『おれのカノ。よろしくな』って」
「ちょっ、目を離したスキにそんなことやってたんだ。ま、伊乃莉(いのり)さえ良ければガンバんなさい。あたしは陸上の渡辺くん追っかけるのに忙しいから、面倒見てあげられないけど」
言いながら、前廊下を数人の男子に隠れるように、そそくさと立ち去っていく彼を見かけたのを思い出す。
興味がなかったから気にもしないでいたけど、国府方悠煌(こうかたゆうき)は意外にマメなタイプだったのかも?
積極的な男子はわたしの好みだったのに・・・・・・。
  

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 そんな彼がいきなり脚光を浴びたのは、2020年12月6日の第49回秋季全日本学生サーフィン選手権で、びっくりするような好成績を収めてからだった。
今まではサークルの中だけで、
「けっこう上手い1年坊がいる。あいつ化けるかも」
とささやかれていたのに、突然メジャーになって他の学生たちの注目も集めるようになっていた。
「来年10月の55回全日本出場は鉄板だよな。それで海外こなしたら、2024年にはもう、あいつパリ・オリンピックかよ? ま、運と実力があればだけどな」
「ショートのメン(昭和63年1月1日~平成15年12月31日生まれ男子のクラス)で史上最年少とか言われんじゃね。将棋の棋士なんかでも、いきなり伸びるヤツっているじゃん。今から友達になっとこうか?」
冗談交じりの勝手な下馬評が、わたしのところにまで聞こえてきた。

 そのころには伊乃莉(いのり)はみんなの公認のカノだったから、わたしも彼女と一緒にクラブに出入りしていて、お熱だった陸上の渡辺くんが取り巻きたちに囲まれながら通っても、それほどトキメかなくなっていた。
一般的に、サーファーはサーフィンに対しても軽薄で浅い文化認識しかなくて、頭もパアで髪を金髪に染めたり、初心者やビジターにやたら威圧的で不寛容で、ドキュン並みに暴力的と思われている。
そういう人も確かにいないわけではないけれど、真摯に極めたいと思っている人たちは意外なほど謙虚で自省的で、自然や地域や他の海のスポーツ愛好家たちと、仲良く共存共栄を図りたいと願っていた。
だから、わたしは悠煌(ゆうき)が、物静かで優しくて目立たない伊乃莉(いのり)をカノに選んだ気持ちがなんとなくわかるような気がしている。
わたしとは正反対の彼女。
性格も生い立ちも。

 わたしの家は母子家庭で、母はエステ・サロンを経営している。
もちろん、スポンサーはいて、母は雇われママのような立場。
その人とは別に、本命と言っている若いホストがいて、もう、おばさんなのに、いつも嬌声を上げてその男にこびている。
身近に複数の男性がいないと生きられない性格。
そのくせ彼女が愛しているのは自分自身だけ。
同じ女性として本当に尊敬できないけど、わたしも遺伝なのだろうか、次々に目移りして伊乃莉(いのり)にあきれられていた。
ちょっと派手めで目立つ存在だから、言い寄ってくるカレにこと欠かないのが自慢だったけど、悠煌(ゆうき)と伊乃莉(いのり)の関係を見ているうちになんか空しいと言うか、自分が根無し草のように感じられてきたのは事実だった。
2人はいつもごく自然にお互いだけを見ている。
優しく穏やかに控えめに、決して目立つことはしないのに、互いの思いやりと愛情が透けて見えるのだ。

 悠煌(ゆうき)は1年生だけど、他の先輩たちといっしょになって同期の子たちを指導する。
「テイク・オフは素早くね。一瞬で決める。目線は10メートルぐらい先。視界を広く保てばアクシデントも余裕で対応できるからね。中村みたいにボードの先を見るクセつけちゃうと、眩暈がして次の動作が遅れるだけ」
「野崎は高校からやってんだっけ? スムーズだけどガニマタが定番になっちゃってる。楽なんだろうけど、それやっちゃうといつまでも初心者って感じで美しくない。女子キャピされたかったら、後ろ膝を進行方向に引き付ける。そう、そう。いいね」
「程度以上の波のライディングって怖いよね。でも、沖に流されたり、ボード失くしちゃったりしない限り命に別状ないんだし。テイク・オフできなくてもワイプ・アウト(気後れしていると波にあおられて転倒する)だけでいい度胸付けになるよ。何事もレッツ・チャレンジあるのみじゃんか。フェード・アウトが一番ダメ」
こういうサークルでも裏では嫉妬が渦巻くけれど、彼は妬まれたとしてもそ知らぬふりで、ひとりひとりの難点を見つけて引っ張っていく。
フランクで偉ぶらないし、態度も言葉も如才ないから、
「おい、悠(ゆう)。ちょっと。これって、さぁ」
と、先輩たちも気軽に教わりに来るのだ。

 サーフィンは他県や国外への合宿や海外遠征がけっこうあって意外に交通費や滞在費がかかるスポーツ。
それだけに波を極めたいと考える学生が多く、メンバーは男子ばかりで今のところ女子の入部はない。
15名の部員の中には、インカレ(大学間の交流)を望む声もないわけではなかったけれど、デメリットも多いのでそのままになっている。
でも、すでにカノがいる部員もいるし、ギャラリーやグルーピーもいるので、男子ばかりの部のような殺伐感はなかった。


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「ね、彼女ぉ」
わたしに真っ先に近づいて来たのが、3年生の尾崎直也(おざきなおや)。
「悠(ゆう)のカノの友達でしょ。サーフィンやんない? おれ、教えるよ。ね?」
真っ茶っちゃの髪にピアス。
Tシャツの見えにくいところにタトゥのシールを張っている、典型的な遊び人。
波乗り技術の練磨より、自分が周りにどう見えているかを気にするタイプ。
当然、成績は振るわないけど、大会なんかでは自分の見せ所を心得ていて、キラッと光るライディングを必ず1箇所は入れてくる。
それでシロートの女の子などはコロッと騙されて、実力以上に人気者だ。
口が上手くて軽い分、明るくて面白いけど、それは表面だけのことで裏ではなにを考えているかわからない。
なんとなくわたしと似たタイプ。
類は友を呼ぶ原理で、彼はわたしに目をつけたのだろう。
「ヤだぁ。髪もお肌も焼けちゃってボロボロになっちゃうもん」
わたしは素っ気なく答えながら反応を伺う。
「あはっ。そんなのケアすりゃいいじゃん」
言いながら、値踏みするような目線が服の上から胸の辺りに集中する。
直也(なおや)の目的が透けて見えて、ため息交じりの笑いが出てしまった。
わたしが笑顔を見せたことで、彼が気をよくするのがわかる。
最初から簡単に釣れると踏んで近づいてきたのだ。
サラサラの茶髪をかき上げ、ワザと横顔を見せてピアスのあたりに手をやる。
女の子達からカッコいいと騒がれるキメのポーズなのだろう。

「直也くんにはグルーピーさんがいっぱいいるんだから、その人たちに教えてあげなきゃダメでしょ、じゅ・ん・ば・ん」
親が子供を諭すように言って、鼻の頭をつついてやる。
「ちょっ」
のけぞって避けるのを見ながら、さっと立ち上がる。
今までのわたしだったら、考えなしに誘いに乗ったことだろう。
男の子をいつも自分の周りに引き付けておくのはとても気分がいい。
でも、今は違う。
「話しかけてくれてありがと。じゃね」
まんざらでもなかった態度で背を向けた。
彼のような性格は基本、女はチョロイと思っているから、そのプライドを傷つけないようにしないと変に敵対してきたり、逆に粘着したりと後々やっかいなことになるのだ。
(ほんっと、なんであたしがあんな男の扱い知ってなきゃなんないのよ)
と、思ったけど、母を持ち出すまでもなく、わたし自身、直也(なおや)を責められないような男遍歴をしてきたのだから、自業自得かもしれなかった。
(まだ、18なのに、あたしって・・・・・・)
自分を振り返って非難する気持ちがわいたのにちょっとびっくりする。
同時に悠煌(ゆうき)と伊乃莉(いのり)の、お互いを信頼しきった笑顔が浮かんで心がざわめく。
(伊乃莉(いのり)はいつもそう。あたしにないものを持ってる。幸せな家もカレも。もう、なんなのよっ)
不意に湧き上がった苛立ちに自分でも戸惑いながらも、それを消し去ることが出来ない。
(伊乃莉なんかより、あたしのほうがきれいだし、女力もあるわ。悠煌(ゆうき)は絶対あたしのほうがいいに決まってる)
なんてことを考えているのだろう?
でも、わたしは自分が今までに何度も、それを意識したことを知っている。
高校からの親友にも平気で嫉妬する。
わたしはこういう女なのだ。


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「つい、この前。12月19日だったかな。北東風(やませ)で、もろオンショア(海から陸に向かって吹く風。一般に乗りづらい)。うん、そう。九十九里の作田ってとこ。ブレイクもきつかったけど、悪条件でのロングライドのコツつかみたくて攻略したのよ。したら、いや~、カレント(離岸流)強くて。ビッチリ堤防に引き付けられる」
「怖えぇ~」
部長の小野田の話に1年坊主達が情けない声を出す。
うっかり堤防やテトラに叩きつけられれば命の危険もあるからだ。
「そう、怖えぇんだ。おまけに時々、でかい波も混じるんだけど、そいつが来ると沖に引っ張られる。も~、コンディションめたくちゃ」
ナゲットをほおばりながら遠い目をする。
「で、あっちゃぁ~神様って感じになってたら、周りになんかいるんだよ。サメじゃなくて、なん丸っぽいアタマのヒトっぽいモノ」
「え~?」
周りがザワめく。
「海坊主じゃね?」
「ドザエモン」
「自分の影って事もあるんじゃない?」
「イルカかスナメリって感じだけど・・・・・・」
女子の声も混じる。
今夜はクリスマス・パーティだから、学内の会議室を借り切って、グルーピーもいっしょになって楽しむ日。
もちろん、未成年のアルコールもある程度目こぼしされている。
「今時の水温でいるわけないよ。も~、ひたすら横にパドリング(ボードの上に腹ばって水をかく)。あの堤防、下にテトラが投入してあって渦巻いてんのが見えんだよ。とにかく沖に引かれたほうが安全って判断してさ。それでやっと生還。火事場の馬鹿力全開だったワ。おれ、しばらく作田は封印する。だって、怖ぇ~んだもん」

「あはは、いや~、災難でしたね」
別のグループにいた尾崎直也(おざきなおや)がハイボール片手に割り込んで来た。
「おれなんかこの間、女の子釣ってて妖怪に会っちまいましたよ。お、いいコじゃんって思ってお茶して、マスクはずしてもらったら、なんとまっかっかな口紅の口裂け女。いや、ホント、マスクは怖いっスよぉ。ねぇ、部長?」
彼らしい話にみんなが爆笑する。
直也はちらっと自慢げにわたしを見た。
「ね、2次会キャンセルしてさ、休憩しようよ」
サラッとささやいて、そ知らぬフリで去っていく。
休憩、つまりホテルに誘っているのだ。
わたしの周りにはわたし目当ての男子も複数いるから、彼らに先を越されたくないのだろう。

「ね、2人は2次会行くの? あたし予定できちゃったんだけど」
伊乃莉(いのり)と悠煌(ゆうき)にさり気なく聞いてみる。
「うん、わたしたちも2次会はキャンセルかな」
彼女が無邪気に答えてくる。
「綺羅良(きらら)も予定あるなら、1次でお別れだね」
なんの問題もない会話なのに、それが心に痛い。
伊乃莉は悠煌を独占してイヴをすごすのだ。
カレとカノなんだから当たり前なのにそれにイラつくのはなぜ?
わたしには直也のほかにも男子がいるのに、そのすべてを束ねても悠煌に代えられないと思うのはなぜだろう?

 揺れる心を持て余しながら、そういえば、とわたしは思い出す。
「あたし、自分の綺羅良(きらら)って名前、だいっ嫌い」
いつだったか3人で、子供のころのこんな話をしたのだ。
「うちの親って、すべてにいい加減なの。こんなドキュン・ネーム、娘が恥かくって思わなかったのかしら。綺羅良なんて漢字も難しいし。小1のとき、ホント苦労したんだから。バカ親」
うん、うんと伊乃莉もうなづく。
「わたしも綺羅良ほどじゃないけど、やっぱり難しいって思ったよ。普通の祈りって漢字だったらどんなによかったろうって。でも、お母さんに聞いたら祈ることって人間にしか出来ない崇高なことなんだって。だから自分のためにも、他人のためにも祈れる人になりなさいって意味なんだって。3文字は名前だからちょっと凝ってみたって。それ聞いてわたし自分の名前が、すっごくステキだなって思えた。幼稚園のころだったかなぁ」
「そりゃ、伊乃莉は意味があるからいいわよ。でも、問題はわたしよ。こんなの光ってるってくらいの意味の単純な形容詞よっ」
なんとなく声がとんがってしまう。
「う~ん、おれは綺羅良っていい名前だって思うよ。綺羅(きら)って白雲母のことなんだ。昔は障屏画って言って壁やふすま・衝立なんかに、絵を描いて装飾したのね。大名なんかは御用絵師に命じて金銀の豪華なやつを描かせたけど庶民はそうは行かない。で、白雲母をすりつぶして使ったんだけど、それがすごくいいんだ。光沢が上品で優しくて柔らかい。今でも上等な着物や帯に使われてるよ。綺羅良はその綺羅の良いやつってことだから最高の名前じゃね?」
「えっ? ふ~ん、そ、そうなんだ・・・・・・」
思いがけない悠煌の解説にちょっとびっくりして口ごもる。
どうせ母親にはそんな教養はないから、アニメキャラあたりから思いついた名前だろう。
それでも言われてみれば自分でもステキに感じられてうれしかった。
そのころからだったろうか、わたしの中で彼が急速に存在感を増したのは。
伊乃莉に対する単なる嫉妬や羨ましさを超えたなにかが芽生えてきたのは事実だった。 
今考えてみれば、それが愛情というものだったのかもしれない。


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「・・・・・・」
軽く合図して直也(なおや)が先に立った。
わたしは少し距離を置いて、そしらぬフリでフェード・アウトする。
「エスケ取ったワ。綺羅良(きらら)のため」
タクシーの中で彼が胸を張る。
SKプラザは渋谷にある高級ラヴホテルでイヴの晩は特に込むから、前々からわたしがOKするのを見越して予約したのだろう。
結局、わたしは迷いながらも、直也の数いるカノのひとりとして付き合ってしまっていた。
目立つしカッコいいし、女子に人気のある彼。
そんな直也をアクセサリーみたいに身近に置いておきたい。
心のつながりなんかお互いにまるでなくて、ちょっとした隙間を埋めるだけの軽い関係。
本当は寂しくて空しいってわかっているのに、伊乃莉(いのり)と悠煌(ゆうき)のつながりこそ、本物のカレとカノって学習したはずなのに、わたしは安易な自分を変えることが出来ない。
「じゃ、タクシー代出すね」
「うん、頼むワ」
これでフィフティ・フィフティなのだ。
彼は女の子にも余計な金は使わない主義だから。

 2人でいちゃつきながらシャワーを浴びて出てくると、彼が小さな箱を差し出した。
ちっちゃな金色のリボンが付いている。
開けてみるとラメの入った限定色のマニキュア。
「おれの好みの色。つけろよ。おまえは特別だから」
「あ、かわい~い。ありがと」
ありきたりの返事をするものの、わたしは直也が複数の女子にコロンやルージュを手渡しているのを見てしまっている。
わたしにかけた言葉と同じことを言っている事を知っている。
ムード作りのためだけの小細工が、今夜はなぜか胸に刺さってうつむく。
いつもならため息だけで許せるのに、イヴだから?・・・・・・。

「・・・・・・あたし、やっぱその他大勢なんだね」
「は?」
見透かされて戸惑う彼を見ているうちに、自分がみじめになって涙があふれてくる。
この同じ時間に、伊乃莉(いのり)はきっと安心しきって悠煌(ゆうき)の腕の中にいる。
「えぇ~、なに泣いてんだよっ。めんどくせえ女」
顔をゆがめて吐き捨てる。
「やるの、やんね~の? おれ、おまえのために時間とってやってるんだぜ」
(うそ、自分がやりたかっただけじゃない。他の子たちに飽きて、わたしを選んだだけじゃない)
口には出さなかったけど、心が叫んでいた。

 全速力で服を着る。
このまま遊ばれたくないという初めての感情が、わたしを突き動かしていた。
「ごめ、あたし、今日ダメ。休憩代これで足りる? じゃね」
1万円札を放りだして、サッとドアに向かう。
「ちょっ、なんだよっ。わけわかんね~だろっ」
直也は怒鳴りながら、札だけはしっかりつかんでいる。
追いかけられて力ずくで引き戻されたくなくて、一気に外に飛び出した。
(あたし、なにしてんだろ?)
自分でも自分に戸惑う。
直也は追ってこなかった。
今頃、タバコに火をつけてクールにキメながら、他の女の子でも呼び出しているのだろう。
「ね、来いよ。エスケにいるんだぜ。そ。おまえとイウの思い出づくりってこと」
言いそうなセリフが浮かんで苦笑する。
駅前のタクシー溜りに向かって歩きながら、まつわりつくような彼の残り香を振り捨てる。
もう2度と付き合うことはないだろう。
なぜなら、そのあとすぐに、ヤリマンというウワサがキャンパスを駆け巡ったからだ。
ヤラなかったのにヤリマンなんて、だれが流しているのか考えなくてもわかる。
その程度の男なのだ。


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 新年の初乗りも終わり、2月の合宿も、新入生の勧誘にかしましい4月も過ぎて夏休みになった。
そのころのサーフ部は、10月の国内最大級第55回全日本サーフィン選手権大会(マルハニチロ)の話題で持ちきりになっていて、エントリー選手のだれもが全力で練習に励む毎日。
悠煌(ゆうき)も部のみんなといっしょに、会場になる福島県北泉海岸に入り浸っていた。
波に慣れておきたい、そんな願いから各大学は順番を調整しあって合宿を組む。
1,100人もの参加選手が予定されているのだから混雑を避けるための措置で、8月半ばにやっと巡ってきた10日間の日程をムダにはできない。
東、あるいは南からのうねりが入れば、グーフィー(岸に向かって左)のきれいな高波が砕け、ロングライドが可能になる。
「3歳からやってんだっけ? 国府方(こうかた)くんは力量あるね」
以前、プロ・サーファーのコーチがこんな評価をしたことがある。
「身長182で上背があるから重心が上がりがちなんだけど、安定した上半身で押さえ込んでる。体操の吊り輪か鉄棒選手みたいな体つきでしょ。みんな下半身にばかり神経がいっちゃうけど、たとえばリッピング(波頭でのターン)でエア抜く(大きく空中に飛び出す)時なんか上半身で強引に引き上げるのね」
確かに潮に濡れそぼったTシャツの下の筋肉は強靭でカッコいい。

 大会のために選りすぐられた部員たちは、だれもがチューヴ(波の巻いている部分)をくぐるが早いか、深いボトムターン(波の斜面の最下部での方向転換)から高いリッピング、エアリバース(エアを抜くと同じ)、大きな渦巻きのようなラウンドハウスカットバック(海水に手を入れ、そこを支点にターンする)を反復して練習している。
悠煌は時々、それに最高難易度のロデオフィリップ(逆上がりの要領でボードをつかみ自分の体ごとぶん回して着水する)を入れようとする。
プロでもめったに見られない大技で、日本人では宮崎の椎葉順プロが成功させたのみと言われていて、さすがに大学生レベルの技ではなく、スープ(波の泡立ったところ)に落ちてしまって1度も成功しない。
それでもギャラリーのローカル(地元サーファー)から、
「ひょ~、今年はレベル高いワ」
の、声が聞かれた。

 わたしは伊乃莉(いのり)を誘って、最後の3日間だけ合宿について行った。
もちろん部外者だから、ホテルも食事も別だけど、福島を離れる晩にはコンパが用意されている。
そこに紛れ込むのはOKだから、その時間帯に合わせて、ちゃっかりカノと合流する部員もけっこういる。
あの尾崎直也(おざきなおや)の実力では出場選手の枠には入れないから、鉢合わせする心配もない。
北泉海岸は海水浴場でもあるので、わたし達はホテルから借りたパラソルとワンタッチ・テントの中で着替えをした。
「え? 綺羅良(きらら)すごっ。過激~ぃ、眩暈しちゃうよぉ、でもステキ」
伊乃莉が素直に感嘆の声を上げる。
「そぉ? 伊乃莉こそ清楚じゃん。ワンピ似合うね」
お互いにお互いをほめ合うけど、彼女のサーモン・ピンクのワンピースは本当によく似合っていた。
股繰りの浅いちょっと古風なデザインが、そこはかとない気品を醸している。
(悠煌の好みなんだろ~な)
と思うと、ちょっとシャクだ。
でも、わたしはわたし。
ロングの髪をかき上げて高い位置で結んで、なめらかなうなじを見せると我ながらいい女。
燃え上がる夕日のようなオレンジと黒のグラデーションのビキニは今年の新作で、片ひものないデザイン。
泳いだら外れてしまいそうな危うい感じが好みだ。
周りの海水浴客の視線が集るのがわかる。
女性たちの羨望と男性たちの放心。
近くで波に乗っていたローカルのひとりが、わたしに目線を置いたままボードから転げ落ちた。
悠煌がわたしたちを見つけて手を振ってくる。
「ヒュヒッ」
指笛で存在をアピールしてくるのは小野田部長だ。
彼にはカノがいるから、あとで怒られてしまうに違いない。

 コンパは部員たちが泊まっている民宿の庭で始まった。
6名全員がカノや女友達と合流したから、総勢17人の大所帯。
「綺羅良は悠煌としゃべっててね。あたし、ちょっと手伝ってくる」
伊乃莉が言って席を立った。
民宿の本来の夕飯に加えてみんながいろいろ持ち寄ったから、テーブルを追加したり、箸やグラスや取り皿・調味料の調達、それに加えて焚き火台の設置で宿の女将さんはてんてこ舞いなのだ。
(チャンス)
わたしはさりげなくにじり寄って、気だるくテーブルにひじをつく。
「どう? 今日の水着」
「あ、いや、すごくいいんじゃない? 似合ってた」
彼の顔と言葉にテレを感じる。
「それだけ?」
「う~ん、綺羅ちゃんぽくってセクシーかな。みんな悩殺されてたよ」
「そう? みんなじゃなくて悠ちゃんは?」
聞きながらふざけたフリで手をつかみ引き寄せる。
腕が胸に触れたのをさらに押し付け、ギクッと動きを止める彼を意識して熱く見る。
友人関係を一挙に超えた行動、悠煌にこんなことをしたのは初めてだ。


               7


 本当はわたしは悩んでいた。
母のエステ店のオーナーが、2号店を出すという話を持ちかけてきていたからだ。
わたしに店長になってほしいと言う。
シロートがいきなり店長なんてお客をバカにしているけれど、小ぎれいで見た目が良くてセクシーなら、それだけで人は集まってくるらしい。
しばらく講師について技術を学びながら店の女の子を使えば、立派に通用してしまうのだそうだ。
「いいお話よ。に綺羅良(きらら)に向いてる」
母は軽薄に喜んでいるけど、大学との両立は出来ない。
もし、やめなければならなくなれば、伊乃莉(いのり)にも悠煌(ゆうき)にも今までのように会えなくなってしまう。
わたしは密かに彼が好きなのに、それを伝えることもなく別れなければいけないなんて・・・・・・。
こんなことは伊乃莉には相談出来ない。
わたしは本当は彼女ではなく、悠煌と離れたくないのだから。

 コンパのあの時、彼はわたしをもぎ離したのだ。
「お、河合ぃ、それじゃ火がつかね~よ。貸してみ?」
慣れない焚き火に苦心していた1年坊にかこつけてわたしから離れ、無事に火をつけて帰ってきたときには、さっきのことなど忘れたようにいつもの顔に戻っていた。
意思表示はわかっている。
友情を続けたいのだ。
でも、それじゃ、わたしの気持ちは?
やっと本物の愛に目覚め始めたわたしの想いは?

 そしてそのまま、エステも恋も結論が出ないままに秋になった。
第55回全日本サーフィン選手権大会(マルハニチロ)は10月9日から15日までの日程だから、悠煌は14日のエントリーに合わせて、3日前から自前で調達したホテルに移っている。
会場はコロナ対策で規制が厳しいので、伊乃莉とわたしはクラブの応援団といっしょにバスで当日着の予定。
「ね、伊乃莉。わたし、行けなくなったから。ひとりで行って」
いきなりのTELに彼女はびっくりする。
「えっ? どうしたの? 体調不良? 大丈夫?」
疑問符だらけの返事にちょっと笑う。
「うん、だいじょぶ元気よ。あとで話すけど、あたし大学やめる。今、決めたの。将来的にすっごくいい仕事が見つかったから。ね、ごめん、ひとりで行って。じゃね」
「は? 待って、綺羅良、ね、待っ・・・・・・」
そのまま話を打ち切ったわたしは、その時すでにたそがれの長距離バスの中にいた。

 このままで悠煌と別れたくない。
告ることすらしないまま離れ離れになりたくない。
そんなことは嫌だ。
もう、それしか考えられなかった。
彼に会いたい。
悠煌にすべてを話したい。
エステ・サロンのことも、学校をやめることも、わたし自身の心も。


               8

  

 夜の北泉海岸は、すでに14日のショートボード大会の準備を終えていて、人っ子ひとりいない。
迫り来る台風19号の余波で、黒くて重いうねりが寄せているだけ。
わたしはためらわず、悠煌(ゆうき)のホテルに向かう。
会場に一番近いビジネスホテルだった。
ドアを開けた彼はさすがに少し眉をひそめた。
「ね、お願いっ。話があるの。非常識だってわかってる。あたし、大学やめる。もう、会わないからちょっとだけ聞いて。ね、入れて。お願い」
言葉も声も必死だった。

「・・・・・・いいよ。入って」
短い沈黙の後、少し微笑して言ってくれた彼の言葉に思わず涙をあふれさせてしまうわたしを見て、ただの話ではないと悟ったのだろう。
その場の雰囲気を変えるようにちょっとユーモラスに提案した。
「腹へってね? おれ、夕飯まだなんだ。なんか取るから綺羅(きら)ちゃんもどう?」
わたしは東京駅を出るときにシャンパンとオードブルを買い込んでいた。
悠煌に会って話すのに、シラフでは少し気が引けるのと、エステの店長になるわたしの前途を、彼に祝って欲しい気持ちからだった。
黙って紙袋を差し出すと、酒好きの彼は目を見張った。
「すげっ、本物の高級シャンペイン。大会前は禁酒だけど、ちょっと飲んじゃおうっと。冷蔵庫で冷やしてる間に話し聞くよ」
まるで伊乃莉(いのり)がいるときみたいに自然で屈託のない態度だった。
わたしはエステ店のいきさつと自分の希望をかいつまんで話して意見を求めた。
もう、気持ちは決まっているにもかかわらず・・・・・・。
「おれさぁ、1年のときから綺羅ちゃん見てて思うんだけど、ただ漫然とガッコ来てるでしょ。つまり、時間の無駄。おれ個人としてはエステの店長、正解だと思う。綺羅ちゃんってなにかとお母さんに批判的だけど、同じ職種の店長やれば歩み寄れるかも。ってか、いい面あると思う」
「でも、ライバルになって余計険悪になるかもよ?」
「あ、ライバルはいいよぉ。切磋琢磨ね。お母さんと売り上げ競ったり、いいとこマネたりさ。相手を認めると不思議に喧嘩にならない」
「ふ~ん・・・・・・」
気のない返事を返したけれど、わたしは自分の選択に自信を持った。

 「コップしかないけど、いい?」
適度に冷えたシャンパンをそそいでくれる。
「じゃ、綺羅ちゃんの前途を祝して」
わたしたちはミルクコップを高々と上げて乾杯した。
なんだかちょっとだけ恋人気分がして、アルコールが胸のあたりから全身に回っていくのがわかる。
「うん。いい酒」
ソフトサラミをつまみながら彼が上機嫌になっていく。
「綺羅ちゃんが来てくれて良かった。1人でいると明日の大会のことばっか考えて煮詰まりそうだったけど、今はすげぇリラックス出来てる」
楽しそうに言う言葉はわたしにとってもうれしかった。


               9


 穏やかに時間がたっていく。
でも、わたしは0:15の最終バスで東京に帰らなくてはいけない。
明日の朝、1番で北泉入りする伊乃莉(いのり)や部のみんなと顔を合わせるわけにはいかない。
まるで幻の鳥の羽根のようにたおやかで優しく、大切なこの時の流れ。
わたしには止める術(すべ)はないのだ。
「ね、悠煌(ゆうき)」
もう、悠(ゆう)ちゃんとは言わなかった。
「ん?」
ボトルをほとんど空にした彼が気だるく返事をする。

「わたしの気持ち知ってるよね。わたしが悠煌をどう思っているのか・・・・・・」
「うん。綺羅ちゃんはモテるからね。おれなんか好きになるのはただの気の迷いって思ってる」
「迷いじゃなかったら?」
「じゃ、なんかの間違いだよ。おれには伊乃莉がいるし」
許せないなにかが、至近で爆発した気がした。
「その名前っ、出さないでっ」
全身で激しく立ち上がっていた。
「いやっ、やだ悠煌っ。悠煌はわたしのもの、わたしは悠煌が好きっ」
廊下にまで響く声だったと思う。
同時にわたしは彼に身を投げていた。
「ねっ、抱いて。お願い。女のわたしから誘っているのよ。わたしに恥をかかせないでっ」
硬く締まった彼の筋肉がわたしを強く掻き抱くのがわかった。
でもその実、それは欲情からではなく、滅茶苦茶にむしゃぶりつくわたしの動きを封じるためのものだった。
「綺羅ちゃん、おれ、SEXってさ、神聖なものって思うんだ」
静かで確定的な声だった。
「愛がなきゃ、すっげえ寂しくて空しいんだよね。おれ、部長の小野田さんにそそのかされて、いっしょに風俗行ったことがある。相手は行きずりの名前も知らない子。終わって金払って、ああ、これってただの排泄だって・・・・・・」

 わたしには彼の言うことがわかり過ぎるくらいよくわかった。
心の隙間をSEXで埋めようとしてもそれはムダだ。
地獄の餓鬼が永劫に飢え続けるように、いくら快楽を求めむさぼっても、終わってしまえば前より寒い風が吹き抜ける。
「綺羅ちゃんが嫌がる名前、あえて出しちゃうけど、伊乃莉ともなにもやってない。軽いキスくらいかな。彼女とは将来的に結婚したいから初夜ってあるじゃん。そんときにまっさらの彼女を抱くために取ってある。子供が1番好きなものを最後まで食わない、あの心境かな。だから、綺羅ちゃんのことも抱かない。このまま最高の友達でいたいんだ」
わたしはうなづくしかない。

「でも、伊乃莉がだれかとヤってたら?」
意地悪な質問にもクスっと笑う。
「いいよ、別に。彼女の問題だし。ただ、言わないでとは思うね」
少しため息が出た。
本当はこうなることを、心のどこかでわかっていた気がする。
わたしは無意識に彼を甘く見ていたのだ。
男なんて誘惑すれば、サカリのついた犬畜生のように手を出してくる、と。
伊乃莉の鼻を明かしてやりたい気持ちもあったに違いない。
わたしは本当に嫌な女だ。
「悠(ゆう)ちゃん、ごめん。ほんとごめんね。ちょっと変なっちゃっみたい。もうヤだ。あたし、なんでこうなんだろう」
自分に対する嫌悪が声の調子に現れてしまう。
「いんじゃね」
彼の唇が降りてきて、わたしのおでこにそっと触れる。
親がいとしい子供にするような、優しくて信頼感に満ちたキスだった。

 

               10


 わたしはなにか暖かいものの上で目を覚ました。
見上げると悠煌(ゆうき)の横顔が間近にあり、穏やかな目は薄明るくなった窓の向こうを見ていた。
わたしは彼の胸にしがみついたまま、帰りのバスすら忘れて眠りについていたのだ。
あわてて立ち上がる。
「やだ、ごめっ。疲れたでしょ、今日本番なのに」
「別に。サーファーなんて、徹夜でゲームとかフツーだから」
気持ちよさそうに伸びをする。
「綺羅(きら)ちゃんが膝で寝ちゃったんで、ビッチリ攻略考えてた。台風19号が近いから、ダブルオーバー(170センチの人を縦に2人積み上げた高さの波)がフツーだし、トリプル(3人積み上げた高さ)の波も来ると思う。チャンスだよ、おれ、絶対ロデオフィリップ入れるワ。ただ、主催者側が台風にビビって延期にしないかだけが心配」
ニッと親指を立てて洗面に立つ。
「げっ、目赤い。ちょっと酒臭いかな。ブレス・ケアしとこ」
マンガのようにトーストをくわえて身支度をする。
わたしは急いで熱いコーヒーを入れ、顔を洗って歯を磨き、髪を整えた。
鏡の向こうにはちょっと青ざめてはいたけど、いつもの顔のがわたしがいた。

「コロナ検査で集合が早いから、おれはもう行くね。綺羅ちゃんはそ知らぬ顔でみんなに合流すりゃいい。万障繰り合わせて来ましたって言や、伊乃莉(いのり)も大喜びだよ」
クルッとわたしの髪をなでて彼は背を向けた。
屈託のないいつもの態度だったけど、周りを安心させるような大きな自信が透けていた。

 迷いながらも足は会場とは反対方向に進んでいく。
風が強くなっていて、足に当たる砂が少し痛い。
雲は灰色に濁って、その下に砕ける波は汚れた灰緑色で不機嫌に見えた。
湾曲した浜辺の片隅、沿岸道路の下で風をよけると、大会開催のアナウンスがここまで届いてくる。
地元のTV局の実況アナウンスがスピーカーで会場に流れる仕組みになっていて、コロナ自粛の影響下、時間短縮のためにいきなり競技が始まる。

 >福島県南相馬市のみなさん、こんにちは。待ちに待った第55回全日本サーフィン選手権大会も6日目を迎え、本日は大会のハイライト、ショート・ボード決勝が行われます。実況はわたくし、三上俊之(みかみとしゆき)、お相手はプロ・サーファーの吉倉俊(よしくらすぐる)さんでお送りしたいと思います。吉倉さん、よろしくおねがいします。早速ですが、台風の影響は?<

 >はい、こちらこそ、よろしく。そうですねぇ、ま、実力者には万々歳ですが、上級者でも経験の浅い人はちょっと怖いなと思う人も出るでしょうねぇ。これだけの高波になってくると波が読めない。トライあるのみですから、とっさの判断が重要になってきます<

 >なるほどぉ<

 テンポのいい掛け合いで進行していく。


               12


 会場からは時折、拍手の音も聞こえるものの、接近する台風の余波でパラパラと小雨も降る、悪コンディションになっていた。
わたしは昨日のオードブルのビニール風呂敷を広げる。

 >あ~、雨降ってきましたねぇ<

 >はい。うっとおしいですが、台風本体の雨雲は海上にあるといいますから、ひどくはならないでしょう。それよりうねりが大きくなってきましたよぉ。日本では珍しいくらい分厚くて重い。こりゃ、モンスターと言っていいでしょうねぇ<

 >モンスター・ウエィヴですかぁ。大会は15:30終了ですから、トーナメント3人の残り1名のトライになるわけですね。国府方悠煌(こうかたゆうき)選手。シメは国府方悠煌選手です。この人は昨年の第49回秋季全日本学生サーフィン選手権でとんでもないスコアを叩き出しました<

 >ええ、そう。文字通り波に乗ってるヒトですよ。彼にとってこの台風は神の啓示でしょう。どんなライディングを見せるか。ま、学生離れした技を繰り出すでしょうねぇ<

 風が冷たさを増してきていた。
遥かに海上を見渡しても悠煌は豆粒ぐらいにしか見えない。
波は本当に大きくなっていて、砕ける轟で砂浜が少し揺れるのだ。

 >さぁ~、テイク・オフッ。いきなりチューヴライディング。鋭角のボトムターン、巻き始めの波のアタマでオフザリップ(リッピングの1種で大量の波飛沫を上げる技)、さあ、カットバック(方向転換して波のトップに向かう)から、おおおっ、フルローテーショ~~ン(高く飛んで360度以上回転するエアの1種)。初っ端から魅せてきましたねぇ<<

 >いやぁ、すごいな。日本でもこういう大学生が出る時代になったんですねぇ。怖いこわい、自分も精進しなきゃって思います< 

 >いやいや、吉倉俊(よしくらすぐる)プロもお若いときから頭角を現した方ですから。多くの先輩方を震撼させたんじゃないですか? さぁ、また行きますよぉ。バックサイドから強引なエアリバース。高い、高い、高さがあるっ<

 >う~ん、国府方くんは世界に通用するんじゃないですかね? 波もほとんどトリプルと言っていい。化け物だぁ。モンスター・ウエィヴの上に化け物が乗ってる<

 >あはは、そりゃコワイですねぇ。でも、こんな感じで急速に伸びる人って、どこの世界でもいるんですねぇ。さぁ、持ち時間5分を切りました。もう、この時点で追従する選手はいませんから、これで打ち止めですかね? あ、えっ? 行きます、行きますよ、吉倉さん。乗る気です、すごいスタミナです<

 >いや、この加速は狙ってる。アレですよ、アレ、アレ。やった、出たっ、ロ~デェオ・フィリップゥゥ~~<

 >成功、成功だっ。初めて見ました。その名はロデオフィリップ。最高難易度の幻の大技ですっ<

 一瞬の間を置いて会場が沸き返る。
マスクの下でだれもが感嘆の声を上げていた。
周りの、とにかく音のするものを見つけて叩く音が潮騒を超えて響いてくる。
わたしも無意識のうちに、被っていたビニールをはずして思いっきり振っていた。
「すごい、すごいよ、悠煌」
なんだか興奮と感動で熱い涙が込み上げてくる。
過去、1度も成功しなかった大技中の大技を、悠煌はこの大舞台で成功させて魅せたのだ。

 >南相馬TVをご覧のみなさま、わたくしは今、大変感動しています。日本人ではわずかに宮崎県出身の椎葉順プロが成功させたのみの幻の大技ロデオフィリップを、ひとりの若き大学生がわたしたちの目の前で見せてくれたのです。彼の名は国府方悠煌(こうかたゆうき)くん。この輝く金字塔は長く日本のサーフィン史上に刻まれることでしょう<

 >素晴らしい。本当にいいものを見せてもらいました。成功の瞬間はプロのわたしですら体が震えて息が詰まってしまって。間違いなく歴史的快挙です。早くインタビューが聞きたいですねぇ<

 >そうですね、そろそろ国府方悠煌(こうかたゆうき)選手の姿が砂浜に見えるはずなんですが・・・・・・どうしたのでしょう<

 アナウンサーの声が不安そうに変わる。


               13


 わたしは手にしていたすべてを振り捨てて走っていた。
会場へ、1秒でも早く会場へ。
速く、速く。
息が切れ、足がもつれて砂の上に激しく転ぶ。
それでも湿った砂浜から立ち上がる。
(ううん、会場は違うわ)
遠くにはためく大会旗を遥かに見やったわたしは、身を翻して海を目指した。
(そうよ、なにを間違えてるんだろう? 悠煌(ゆうき)は海じゃない。海にいるのよ)
冷たい波飛沫が風にあおられて顔や体を叩く。
寄せ波が膝を浸して砂を舞い上げ、引き波が強く足をすくおうとする。
それでももがくように前に進む。
そうしなければ悠煌は2度と帰らない気がした。

 台風の去った翌日、まだ波騒ぐ近くの海岸で真っ二つに折れたボードが見つかった。
サーファーとボードをつなぐリーシュコードは千切れていて、その先に彼はいなかった。
捜索は海上保安庁も出動して丹念に続けられたけれど、なんの手がかりもないまま、やがて打ち切られてしまっていた。

 わたしは今も浜辺をさまよう。
あの大会のアナウンスが熱く心を揺るがし、最後の朝にわたしの髪をなでたその温もりが、おでこに感じたあのキスの感触とともにいつも幸福によみがえる。
彼を独占して彼の胸に眠ったささやかな1晩の思い出が、暖かい陽だまりのように寄せていく。
潮騒の向こうから声を上げて、彼が呼ぶのはわたしではないけれど、今のわたしは知っている。
愛にはいろいろな形があるのだ。
悠煌のくれたそのひとつにこんなにも満たされる。
想い出に生きるわたしは、風に遊ぶシャボン玉のように日々の中を浮遊する。
はかなく、かそけく、そしてもろく。

 わたしの踏む砂はもう形を変えず、わたしの触れる波はわたしを濡らすことはない。
陽はわたしを透かし、雨はそ知らぬ顔で落ちていく。
通り過ぎる風はただ海辺の木々を揺らし、わたしの足元に影はないのだ。
もう眠ることはなく、同じ風景を見続けても飽きることもなく、どれほど走っても息切れもしないわたしは、あの日、悠煌とともに波に消えた。
ただひたすらに時は途切れ、濃密な思い出だけが輪廻するこの世界を、わたしは喜びとともに受け入れ、浸りきる。
もし、声無き声を聞く人がいたとしたら、ただひとつの言葉を知るだろう。
『悠煌、ありがとう』
と。

潮騒の向こうから

潮騒の向こうから

大学1年の綺羅良(きらら)は、同級生で親友の伊乃莉(いのり)のカレ、国府方悠煌(こうかたゆうき)が気になっている。 自分の名前の「綺羅良」が大嫌いだった彼女は、悠煌(ゆうき)の解説で、意外な名前の良さを知る。 興味が愛情に変わった彼女は、持ち前の女力でアタックするがカレは中々動じない。 天才サーファーの国府方悠煌は、大大会で学生初の大技「ロデオフィリップ」を成功させるも、そのまま海に消えてしまう。 必死で海に走る綺羅良・・・・・・。

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-22

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