図書館
秋。
文化事業も目白押し。
南洋の島もご多分に洩れない。
その一つ一つを追い、木戸は記事を書く。
一昨日、占領期の軍政府が遺した写真の展覧会と、東京から訪れた劇団の公演について、論評も交え書いた。
きのうは、映画の上映会。監督の舞台挨拶があった。これは明日に予定される記者会見と併せて、後日紙面に載るだろう。
今日は図書館に来ている。読み聞かせボランティア講習会と、図書館の前身にあたる軍政府文化施設に関する取材である。
講習会は午前中いっぱいかかった。木戸も、参加者に混じって、取材がてら受講した。修了証を得た。
講師は、図書館司書の女性だった。うりざね顔の瘦身。声音は透き通って高い。木戸は清潔な印象を抱いた。
午後、書庫に入る。
古い館報や機関誌等を繙く。
案内は、午前中講師を務めたかの女である。名刺を交換。柏木潤子、と知る。
木戸は、前身の施設についてあれこれと質問した。
「詳しくは存知上げません。」
かの女は申し訳なさそうにうつむくばかり。
「こちらへは皆、期間を定めて赴任するものですから、日常業務以上の事を知る間もないのです。」
離島勤務の実情だ。ポスト待ちか。理由ありか。でなければ、評定上の義務的派遣である。
木戸にしたところで似たような境遇である。四十代半ばでの子会社への出向。左遷である。
書庫は寒い。
照明の落とされたなか、膝を突つき合わせ、文書類を繙く。
かつて館長を務めた、島にゆかりの作家が、施設の草創期に働いた一人の人物を讃えているのを館報創刊号に木戸はみとめた。
その名は、前身である文化施設発行の機関誌にもあった。当時の施設責任者がその働きを伝え、本土復帰の直前に急逝したことを悼んでいた。
「この方をご存知ないですか。」
木戸は潤子に訊いた。
「いいえ。」
「歴代の館長が名を挙げる人物ですが……」
「初めて見るお名前です。」
木戸は、ほかにもかれの名が載るものはないかと探した。
「ここに、その方のお名前が……」
本土復帰運動たけなわの頃、復帰協議会機関誌の観を呈した地元の文芸誌である。施設の運営理念について、その人は書いている。
掲載稿の多くが復帰運動を、政治を、世界情勢を語って声高である。悲壮である。その中にあって、その人の論稿は、秋の木漏れ日のように静かである。
復帰運動の時代についてはとかくその苛烈と劇的逸話が取り上げられがちである。
この人について掘り下げるなら、当時を知る新たな表情も得られるのではないかと木戸は考えた。
「この方をご存知の方が、いまも島におられないでしょうか。」
「館長に訊いてみましょう。」
潤子は、真っ直ぐ太郎を見つめて言った。
「館長は、島の高等学校の校長を務めたこともありますから、島に知り合いも多いのです。どなたかご紹介できるかもしれません。」
美しい澄んだ声である。
秋の声かと聞いた。
やさしい瞳だと思う。
∴
冬。
クリスマスも近い。
推薦図書のコーナーに、サンタクロースや柊をはじめ、赤や緑を装丁にあしらった季節関連本が並んでいる。
貸し出しもレファレンスもクリスマス関連が多い。そうでなければ、六十年前の十二月二十五日に「クリスマス・プレゼント」と占領国の外相が皮肉に語った、本土復帰関連が目立つ。
あの人はもう書き上げたろうか。
あの日、交換した名刺には、木戸晋作とあった。
あの人は、復帰六十周年の特集記事だと言っていた。
司書室に入った潤子は、正面の窓から覗く南洋の島とは雖も暦にたがわぬ照度の低い寒空を眺める。
窓景とは反対に、木戸を想う潤子の心は明るい。
心の温かそうな人だった。
記者にありがちな、図々しさ、灰汁の強さは微塵もない。むしろ記者らしからぬ奥床しさすら覚えた。攻撃追及の眥はない。共感探究を感じた。
そうでなければ、まるで名の知られていない人に関心を寄せたりしないわ。
それに、ボランティア講習を受講したりもしまい。
業務とはいえ、一日を共に過ごした潤子の木戸の見立ては、好印象に尽きた。
「柏木先生。」
司書室の扉を半開き、貸し出しカウンターから声かける同僚の顔が覗いた。
「お願いしていいですか。」
想いに耽っている間に、カウンターに列ができている。
離島の図書館。用向きに応じた専用カウンターはない。すべての用向きが貸し出しカウンターを窓口としている。
ようやく列が途切れた頃。
同僚がカウンターを離れ、一人残された潤子がまたぞろ思いをめぐらし始めた時である。
想いの影に重なる人影をみとめた。
遠くから辞儀をする。
木戸さん。
そのまま児童書の棚へ向かうのを、落ち着かぬ思いで潤子は見送った。
ほどなく、四半時も経っていない、想いの影が潤子の目の前に近づいた。
遠慮がちな声。
「サンタクロースって、いるんでしょうか?」
思いがけぬ問いに、緊張の緩むのを潤子は頰に覚った。
サンタクロースの存在の有無を図書館で尋ねる大人もいまい。
本の題名ね。
潤子の脳裏に、表紙の絵が浮かんだ。潤子も好きな本である。
「お待ちください。」
潤子は、木戸を真っ直ぐ見つめて応じると、蔵書検索を始める。
「申し訳ありません。生憎、二冊とも貸し出し中です。」
木戸の顔に困惑が浮かぶのを潤子は見逃さなかった。
「お一人は今週末が返却期限となっています。貸し出し延長の申請がなければ、週明けにはお貸しできます。」
木戸の表情はかたい。
「本土から取り寄せられませんか。」
本館の貸し出し状況を調べる。
「あちらに三冊ございます。二冊が貸し出し中ですが、一冊が貸し出し可能です。」
「いつ届きますか。」
「週明けの定期便になります。」
さっきも週明けと聞いて木戸の表情は曇ったのである。木戸が何事かを考える風に頭を垂れるのを目近に、潤子の胸は痛んだ。
咄嗟に言葉が出た。
「わたしの本でよろしければ、お貸しします。」
不躾に何を言っているのかしら。お節介が過ぎるわ。
羞恥に駆られるなか、それとは裏腹に、凝っと木戸を見つめる自分を、潤子は不思議に思う。
「お昼休みに取りに帰ります。午後にまたお越しいただけませんか。」
「そのようなことをしていただいてよろしいのですか。」
「はい。」
「申し訳ありません。助かります。」
出過ぎたことよ。業務を超えてるわ。
潤子の頭の中では火が燃えるようである。
「ご足労をおかけして申し訳ありませんが、午後にまたお越しください。」
言葉は淀みない。自分が自分でないように潤子は思う。
深々と辞儀をし退出する木戸の後ろ姿を見送るのである。
なぜあんなことを口走ったのかしら。
潤子は自らを訝しんだ。かねてない自分の大胆さに驚いていた。
∴
春。
桜がまぶしい。
城址の堀端を歩く。
堀端に沿って桜並木が続く。
爛漫とか絢爛といった形容は、本土に見る桜に相応しい。
暦の上で初春とは言う。冬のさなか、南の島で木戸はすでに桜を見ている。
年に二度、桜を知るのは妙なものである。
島の桜に爛漫とか絢爛といった形容は似合わない。粒の小さな緋色のそれは、南洋の緑に滲む。可憐である。健気である。清楚である。
緋寒桜と呼ばれるそれの枝ぶり、佇まいを記憶に辿って木戸は思い描いて、柏木潤子が思い出された。
飾りのない清らかさ。いかにも緋寒桜である。
あの日、午後あらためて図書館へ行くと、潤子はカウンターで待っていた。
礼を繰り返す木戸に、潤子は無言で微笑み、紙包みを手渡した。
原稿はその日に上がった。
月一回、記者の持ち回りによる、一面に掲載の論評である。
木戸は、潤子に借りた本を拠り所に、記者という仕事の一抹の希望を、逆説的に書いた。
記者という職業に対する、しかし自己批判というより、罵倒といった印象を多く与えた。
挑発的な文章は、読者にとどまらない、同業者に波紋を広げた。反発を招いた。
記事が紙面に載った六日後、夜道で木戸は襲撃に遭った。
犯人は同僚の記者だった。
二か月余り入院した。事件は起訴まで至らなかった。小さな島のこと、解雇も忍びない、同僚は謹慎と減給処分の上、配置転換となった。
春、太郎は本社の支局に転任した。
「まだ運があるようだね。その歳で子会社に遣られて、支局に来た奴はいない。」
呆れるとも蔑むとも定かでない、上司の言葉が出迎えた。
わが身を襲った出来事は、木戸の中で、島の冬を灰色に染めた。そこに紅く、緋寒桜のように、柏木潤子のすがたが添景を穿つのである。木戸が身をもって知った生々しい悪意を思えば、じっさい潤子は美しい思い出である。
記事の掲載された日、本を返しに行った。
お礼のチョコレート菓子を掲載紙と同封して紙に包んだ。
潤子はいなかった。
潤子の同僚、上司かも分からない、女性職員が険のある目で応対した。木戸が紙包みをあずけると、中身を触診するかに受け取った。
以後、何度か図書館を訪れた。
行けば、あの瘦身の清楚なすがたを、無意識に木戸は探した。しかし、潤子を見ることはなかった。
転任も決まるころ、いつしか潤子のすがたは、緋寒桜のように、木戸のこころに小さな紅を穿っていた。
∴
夏。
書庫は冷んやりとしている。
窓はない。照明は最小限。ここでは、蟬の声、来館者の気配すら遠い。
ここにいるだけなら、盆も近い夏の盛りとは思えない。やや埃っぽく黴臭いのはいただけないが、潤子はこの空間が嫌いでない。
蔵書は多い。島とは比べものにならない。
旧藩時代からの古典籍、旧憲法下の公文書等も収蔵する。利用者の幅は広い。
潤子はレファレンスを担当するから、厄介な問い合わせも多い。
いまも、旧藩時代の文書についてしつこい初老の男性に手を焼き、応対を代わったばかりである。
あの人は、全然違った。
木戸晋作を思う。
だから思わず、わたしの本でよろしければ、なんて口走ったのだわ。
あの時の心境を潤子は自分なりに整理している。こそばゆい悦びをあえて思い出さぬようするためである。
いらぬお節介をした、と悔やんでもいる。
記事を書いたことによって、木戸が夜襲に遭い、怪我を負ったのを聞いたからである。
出過ぎた真似をしなければ、あの人はテーマを変えて記事を書いたにちがいない。襲われることもなかった。わたしの所為だ。
木戸に本を貸したその晩、本土の妹から連絡があった。母が入院したという。翌朝、真っ直ぐ空港へ向かった。職場へは空港から電話を入れ、休暇を得た。しばらくは看病のため、島と本土との往き来が頻繁となった。
後日、同僚から木戸の紙包みを受け取った。翌日、新聞社に電話を入れると、木戸は入院とのことだった。夜襲に遭ったことは、噂好きの職員らの話を耳にして知った。
見舞いに行く勇気はなかった。
春が近づいた。
潤子に本館勤務の内示があった。
母の病を上司が取り次いだものと思われる。
いま、潤子はあの時の勇気のなさを悲しく思う。
かと言って、いま同じような場面を迎えたとして、やはり勇気に欠ける自分であることを自覚してもいる。
「あら。こんな所に隠れて。」
不意に、後ろで声がした。
同僚の女性職員が微笑んでいる。
「黄昏れるにはまだ早いわよ。これ、お願い。」
同僚は潤子に図書検索票を手渡すと、レファレンス・カウンターに繫がらない経路を取って返した。どこか立ち寄る積もりだろう。
検索票を繰りながら、潤子は請求図書や資料をワゴンに積んで書庫を巡った。
いまにも崩壊しそうな図書がある。
修復しなきゃ。
エプロンのポケットの手帖に書き込む。
最後の伝票は、本居宣長「源氏物語玉の小櫛」とある。
書棚に視線をさまよわせつつ検索票の整理番号を確認する潤子の瞳に、請求者欄の印字が映った。
キドシンサク。
矢で射抜かれたような心持ちが潤子を襲った。
あの人だわ。
露ほども疑わない。
同姓同名の赤の他人も思いのほか。
あの人が島で求めたのも、郷土資料、時事なら人間味あるもの、洋の東西を問わない古典。
あの人だ。
長年図書館に勤めて身についた直感。
「源氏物語玉の小櫛」を小脇に、潤子はワゴンを押す。
お礼を言わなくちゃ。
わたしのこと、覚えているかしら。
思いが駈け足で巡る。自然、足早になる。心がはやる。レファレンス・カウンターに繫がる扉が、向こうに仄白く見えた。
扉に手をかけた時、まぶしい光を潤子は覚った。
図書館