わりこむ
割り込み、許せますか?
電車で通勤していた頃の話。ある朝、ホームで並んでいると、小学校三年生ぐらいの男の子が現れた。沿線にある私学に通っているのだろう、こざっぱりした制服に黒いランドセルを背負い、可愛い帽子をかぶっている。
列の後ろにつくのだろうと思って眺めていたら、こちらへ近づいてきて、あろうことか、平気な顔で私の前に割り込もうとした。
あまりに堂々とした様子に、思わずはいどうぞと入れてあげそうになるが、いや待て、これをそのまま許しては彼のためにならない。そう思って、列に入ろうとする彼の肩に手をおき、「割り込みは駄目だよ」と言った。
𠮟りつけるとか、そういった口調ではなく、淡々と。
男の子は一瞬、何を言われたのか判らない、という顔つきになって私を見たが、謝るということもなく、表情も変えず、ただ黙って列の後ろへと歩いていった。その平然とした姿を見ていると、人からとがめられるような事をしてしまったと恥じ入る素振りもなく、まるで、「いつもみんな列に入れてくれるのに、今朝は変なおばさんにあたっちゃったな」とでも言いたげな、当惑のようなものが感じられた。
私立の小学校に通う子供は、それなりにきちんと躾けられているのだろうと思っていたけれど、大きな勘違いだったらしい。
また別の日。これは勤め帰りだが、乗車するのは始発駅なので、並んでさえいれば座ることができる。ほぼ半時間の道のりなので、座席を確保できればひと眠りし、少しは疲れを癒してから帰宅できるので有難い。
その日は列の五番手あたりに並んでいたので、次に来る列車に十分座れるだろうという感じだった。そして列車到着のアナウンスが流れた時、お婆さんが一人、すーっと列の前方に歩み寄り、そのまま先頭の人の隣に立った。
おそらく七十代後半だろうか、通勤ラッシュには多くない年齢層だが、だからといって「はいごめんなさいよ」と真っ先に乗車してよいものだろうか。
たまたま、ではあるが私の前に並んでいたのは女性ばかり、それも四十代から五十代という勤め帰りの人たち。おそらく仕事と家庭、どちらにおいても多忙で疲れのたまる生活をしている世代である。彼女たちの座席獲得にかける執念も半端ではないと思われた。
加えて、場所は大阪。疲れマックスで列を作る浪速の中堅勤労女子が、この割り込み婆さんを無傷で通すわけがない。
そしてホームに列車が到着し、当駅始発のドアが開く。まずはお婆さん一歩前へ。そこへ先頭の女性がすかさず反撃・・・
と思いきや、彼女はお婆さんの背中にやさしく手を添えて、なんと先に乗車させているではないか。しかも、後ろに並んだ女性たちも、お婆さんがゆっくりした足取りで電車に乗るのを待っている。
私は己の心の貧しさを恥じた。浪速のお姉さま方は、お婆さんに己が母の姿を重ねたのかもしれない。大阪はやはり人情に篤い街らしかった。
そして月日は流れ、つい先日。
私はとある稽古事をしているが、大人のお稽古、特に中高年の女性が多いものはけっこうな割合で「しゃべり場」と化す。いやそれお稽古と全然関係ないでしょ、という私事を声高に語り続ける人が約数名。
先生がまた優しくその話に耳を傾け、「あらそれは大したものだわ」などと相槌をうつので、話は終わらない。まあ、機嫌よく過ごしてもらい、稽古を続けてもらうのが大切だから、先生も「作品には厳しく、素行は不問」という対応になるのだろう。
しかし必然的な結果として、諫められない人間は増長する。
仮におしゃべりマダムの横綱をAさんと呼ぶ。六十代半ばで子供たちは独立して一人暮らし。彼女ほど傍若無人という言葉の似合う人もないだろう、と思えるほど、Aさんは自分の思いついた時に、やりたい事をする。
他の人が先生と話していても、お構いなしに「来月のお稽古、何日でしたっけ」と割り込み、「観劇に行く予定があるんですよね。チケット取るの絶対無理っていうのを、友達が押さえてくれて」と語り始める。日頃の話相手に不自由している、寂しい人なのかもしれない。
そして先日、私が先生に作品を見てもらっている途中で、Aさんはいきなり先生の前に自分の作品を差し出した。
彼女の図々しさは十分承知しているし、たいがいの場合はひとしきり話が終わるまで待つのだけれど、さすがに度が過ぎるし、先生も「あらいいじゃない」などと相手しているのが気に障る。私は即座に無言で席に戻った。
Aさんは論外として、先生のこうした「大人の対応」の行き着く先は、他の生徒へのしわ寄せというのも空しい話。だからといって、負けじとAさんに割り込みでやり返す、などという真似は自分のプライドが許さないのである。
まあせいぜい他の「分別ある」生徒さんと、「なんか、普通に生活していたら出会えないような人がおられますよね」などと、嫌味くさい会話で気を紛らわせている。
わりこむ