百合の君(3)

百合の君(3)

 穂乃(ほの)は一日中お腹の子供と自分の行く末、蟻螂(ぎろう)のことを考えて過ごした。かわいそうに蟻螂は傷だらけの体できっと自分を追って山の中を彷徨(さまよ)っているのだろう。初めて山で蟻螂を見た時の、あの申し訳なさそうな、自らの存在を否定しているような瞳を思い出した。再び朝が来て、穂乃は脱出を決心した。早くここを抜け出して、蟻螂の所に戻らなくては。彼は私以外の人とは一緒にいられない。
 穂乃は立ち上がって戸に手をかけたが、ささくれに指を刺して止まった。日中から堂々と出て行って逃げられるわけがない。穂乃は再び腰掛け、夜を待つことにした。時間は止まっているのではないかと思われた。隙間から床に落ちる光の筋は、全く動かない。火はとっくに消えて、鼠色の灰がだんご虫のように光を避けて丸まっていた。いつしか涙は乾いて、腹が減ってきた。
 時間は腹の中で確実に進行していた。風が戸を叩く。反射的に振り返る己の中に怖れよりもむしろ期待を見出して、お前は犬か、と穂乃は自らの卑しさに腹を立てた。すると今度はいや自分のためじゃないお腹の子供のためなんだから仕方がないと言い訳する自分も出てきて穂乃は脱出ができなくなった。この村を出たら、しばらくは食べる物がないだろう。穂乃は蟻螂と暮らしていた小屋がどの方向にあるのかすら知らない。だから一度だけ食料をもらい、それから脱出するのがよい。そう結論付けて待っていたが、戸は開くことなく、その隙間から三度目の朝日が差した。
 拉致なんかするような連中が、食べ物なんか持ってきてくれる訳がない。穂乃はやっとそのことに思い至った。
 彼女は蟻螂と違い、尊重されないことに慣れていない。だからこんな簡単なことに気が付くのにまる二日もかかったのだが、なんにせよこのままではいけない。腹に赤子がいても夫と引き離されても、物を食わねば生きていけないのが人間だ。人はまだ悲しみを食べて生きていけるほどには進化していない。
 日の光に誘われるように、穂乃は小屋の戸を開けた。
 まともに見た太陽に、穂乃の視界は真っ黒になった。そして恐るおそる目を開けると、畑が見えた。作物は育っていないようで、枯れた草のようなものが萎びている。その向こうから聞こえるのは、女たちの声だ。女たちは穂乃の正面、畑の先の大きな屋敷の欅の下で、なにか作業をしている。何人かが穂乃に気が付き、指をさす。ちょっと恥ずかしいが女だけなら安心だ。
「ぬーむ、さらわれてきた奴が一番寝坊しとるわ」
 (しわ)だらけの顔が横に長い、白髪のおばあさんが最初に穂乃に話しかけた。茶色い麻の着物と相まって、人が好さそうにみえる。
「すいません」そのおばあさんの口調がいかにも親し気で、穂乃の身を案じてくれていることが分かったので、穂乃は素直に謝った。
「いやいや、長旅だったかの、ぬーむ」
「いえ、夜だったので、分かりません」
 さらわれた夜の悔しさが思い出される。必死に追いかけようとする蟻螂の顔も。叫ぶ声からこぼれる(よだれ)まで、はっきりとよみがえる。しかし、穂乃の心はそれよりもおばあさんの隣に置いてあるおじやの方に向かっていた。大根にねぎも入って、湯気に伴われたにおいが穂乃の胃袋を押し上げてくる。
「ぬーむ、腹が減ったかの」
「ええ、ここに連れてこられてから、まだ何も食べてませんから」
 穂乃はわざと連れてこられたという言い方をした。意図したことではなかったが、それによりこの村の人間には自分を養う義務があり、自分には食べ物を得る正当な権利があると伝えようとしたのだ。しかし、ここはそれほど甘い所ではなかった。というより、今までの穂乃の境遇は恵まれ過ぎていた。人間はまだ、権利の主張で腹がふくれるほど進化してはいない。
「ぬーむ、それじゃあ、手伝ってくれんかの、わしらもごく潰しに飯をやるほど豊かではないでの。男達が命懸けで取って来たものじゃて」
 穂乃は一瞬考えた。彼女たちを手伝うことは、あの盗賊達を助けることに他ならない。被害者であったはずの自分が、一転して共犯者になる。
「ええと、何をなさっているのですか?」
 非難めいた口調にならないよう、穂乃は声を引き締めた。
「もうじき奥噛(おくがみ)祭じゃからの。しめ縄を作っているんじゃよ」
 奥噛祭、その懐かしい言葉に、穂乃の心は少女に帰った。
 提灯の光が化けたような色とりどりの露店が並んでいる。金魚はその輝く(うろこ)を水中に妖しくうねらせ、菓子の甘いにおいの風が吹くたびに、いくつもの風ぐるまがくるくる回る。歩くたびに新しい世界が開けるようで、あまりの興奮に母の手を離しては叱られ、離しては叱られ、そうしているうちに母が正面の山影を指さした。
 頂上に突然、燃え盛る大きな炎が現れ、斜面をものすごい勢いで降りてくる。それも一つや二つではない。何百、いや何千とあろうか。それはまさしく天から降り注ぐ炎の滝だった。新たな年を前に、天から地に至るすべての物を燃やし尽くし、浄め尽くす神の姿だ。
「お祭りに、しめ縄を奉納しているのですか?」
 お祭りであれば盗賊の片棒は担がない、という言い訳が心をかすめる。
「そうじゃよ、ぬーむ、まあ山の上から下までじゃから、とてもわしらだけでは作りきれんがの」
「分かりました、やらせてください」言うが早いか穂乃は(わら)をよじり出した。が、難しかった。穂乃は今まで、農作業もしたことがなければ、藁をいじったこともない。普段履く草鞋(わらじ)がどうやってできるかなんて、考えたこともなかった。
「あんた、不器用じゃの」
「すいません」穂乃は真っ赤になって謝った。
「いやいや、いい子で安心したわい。おっかないのだったらどうしようかと思ってたからの」
 さらわれてきた私をおっかないだなんて。穂乃は思わず笑いだし、その拍子に腹が鳴った。

百合の君(3)

百合の君(3)

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-18

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