ひとひらのヤシ
ひとひらのヤシ
冬の窓辺で一鉢のヤシがうとうとしていた。
秋のはじめ、おじいさんが室内観賞用ヤシを買ってきた。食料品店のレジ入口でカゴに入れた。おじいさんは自分の姿に夏を見たのだろうと、ヤシは買い物袋の中で思った。このヤシが窓辺のちいさな木製本棚の上に置かれてから二カ月が経つ。
ヤシに肩を寄せながら、一匹の犬も窓の外に流れる冬を眺めていた。
おじいさんを暖めるためにこたつ一台では足りなかったので、電気ストーブが部屋に置かれた。それからというもの、ストーブを背にしてうとうとしながら窓のむこうを眺めることが、ヤシと犬の日課となった。
窓ガラスにときおり前脚をふたつ突き立てて、犬は尾を振った。すると本棚もヤシも静かに揺れた。四肢マヒの者が、病室へ見舞いに訪れた子供がおもちゃで興じる音や揺れに安らぎ覚えるように、「動ける者」が起こす振動は、ヤシをうとうととさせた。
犬の鼻息で窓ガラスに煙った二つの円がふくらんではしぼむさまを、ヤシはいつも不思議に見守った。全身白毛に背中だけ茶まじりであることから、ヤシは羨望もこめてこっそりと、『雪景色』と犬を呼んでいた。
「クロ、潮時だ」とおじいさんが犬を呼ぶと、犬はヤシに鼻息をひとつ吹きかけてから走り去った。帰ってくると、犬はすこし土のかおりがした。
それがヤシを落ち着かない気持ちにさせた。
おじいさんの家は青い瓦屋根に木造一戸の平屋である。おじいさんと犬のほかにヤシが住んでいる。ヤシと犬の窓辺は入り組んだ海岸線を背にして西の山々を臨み、細い川に面していた。このちいさな港町では、甲板に打ち上げられた秋刀魚たちのように、名もなきありふれた窓辺のひとつだ。
おじいさんと犬が漁に出なくなってから数年が過ぎていた。
おじいさんの足で荒波に魚網を繰ることはもうできない。犬が操舵室のフロントガラスから魚群を探す必要も、もうない。
ヤシの部屋に並ぶ写真立てに、おばあさんの写真と並んで、おじいさんの黒潮丸の姿があった。夕陽に染まる埠頭で、その名に恥じぬ黒々とした船体を波間に傾けている。
「太陽は自分のことを知っているのだろうか」ヤシはカモメに訊いた。
「おてんとさまは何でもご存じ、だよ」くちばしをいちど灰色の空へすばやく振ってから、カモメは答えた。
ヤシが言い淀んでいるとカモメが言った。
「こないだ観賞用のバナナもおんなじこと言ってたよ。こんな暗くてひんやりしたとこでちっさい鉢に収まりながら、実もつけないんじゃ、おてんとさまに申し訳ない、とか」
カモメはヤシが真剣なことを確認してから「世の中、甘くないって、こと」と言って、羽をばたつかせながらヤシの周りを回った。
「現実ってのは、毒リンゴを食べた白雪姫が死んで魔女が高笑いしたとこで、ジエンドな物語、さ」
訊くともなくヤシはつぶやいた。
「みんな元気かな」
太陽に愛されたい。
たくさんの仲間とともに風にからだを任せてざわめきたい。
「雪に訊いて、みな」
そう言ってカモメは、湿った土のかおりを残して飛び去った。カモメの体はしだいに赤々として、太陽の中へちいさな音を残して溶けていった。
ヤシが目を覚ますと、隣で犬が濡れた背中をしきりに振っていた。電気ストーブがちりちりと水滴を焦がしていた。ヤシは『雪景色』の背中を愛おしく思った。
背丈が十センチの頃、昼夜を問わないせっかちで騒々しい雨の訪れに、ヤシは辟易したものだった。膨らんだ川面にこれ見よがしな悪意すらおぼえた。十五センチを超えた頃、ヤシははじめて、窓の外を赤茶色した落ち葉たちが手を振りながら川面へ舞い落ちていくのを見た。常緑であることの退屈さをヤシは思った。二十センチに届いた頃、ひとひらの雪がはじめてヤシの窓に手をついた。
灰色の空から地上へと、音もなくゆっくりと、白い幕が垂れてくる。
どこかでこどもの嬌声が上がった。「雪だ」と繰り返す。雲間から一条の光の帯が海の方へと差し込んでいる。太陽が地上を覗いているに違いない。
丁寧なしぐさで雪が窓辺にやってくる。おじいさんの家よりも、かもめよりも、西の山々よりも高いところ、垂れこめた灰色の雲の上から太陽に遣わされて地上へと降り立つ。
ひとひらの雪は太陽からの手紙なのか。配達者なのか。太陽の言葉、そのひとつひとつなのか。ヤシはひとひらの雪に太陽の意志を思った。
そして、慈悲を願った。
「ジャワもつらい、よね」
謎がもうすこしで解けそうな時の名探偵のようにヤシの前を行ったり来たりしながら、カモメが言った。
「ジャワ?」
「クロの前はジャワ、彼の名前」
自分は『雪景色』と呼んでいることを伏せてヤシは訊いた。
「つらい?」
「こないだ用を足しながらさんざん三島さんに首引っ張られ、てさ。いまさらながら、なわばりが気になるん、でしょ。知らなきゃいいことって、あるな」
カモメはヤシに言った。
「なわばりも何も、ないよ。どうせこうなっちゃえば、ね。だろ?」
ヤシが怪訝がっていることを確認してから「いまさら、しまは争えないって、こと」と言って、ヤシに向かってくちばしを突き出しながら左右に何度も振った。
「王子様がキスして白雪姫が生き返る物語は、ディズニーと夢の中だけ、さ」
まるで黒い巨人のように、雪雲が腕組みしながら港町に腰を降ろしていた。低く重く居座っている。川が寒さのせいで収縮した血管に見える。その凍えがここまで伝わってくる。
この大雪では船は出せない。おじいさんも犬も散歩に行けない。遠くでだれかが急ブレーキを踏んだ。降雪の壁の向こうで、スズメがいちど鋭く鳴いた。
「じゃ、快適な空の旅を」
言い終えると、カモメは海を目指してまっすぐ飛んで行った。遠くで一度、水のうなり声がした。海鳴りがしだいに近づいてくる。
おじいさんのいびきで、ヤシは目を覚ました。
ストーブの横で寝ていた犬が片目を重そうに開けてから、また寝息を立て始めた。
そして世界にヤシと雪だけが残された。
太陽は自分のことを知っているんでしょうか、ヤシは窓に張り付いたばかりの雪に訊いてみた。雪たちが一瞬降りとどまったように、ヤシには思えた。
雪はただしんしんと、沈黙をもって答えた。
川面が薄青色に染まりきらめいている。雪から解放された水は、海へと健康な音を立てて走っていく。金色の太陽に愛された真冬の昼下がり、犬は窓ガラスに前脚をふたつ突き立てて、いつもよりも気ぜわしげに尾を振っていた。何度か犬を叱ったものの、おじいさんもとうにあきらめて、こたつでいびきをかいている。
本棚とヤシは揺れて、心地よい揺れがヤシをまどろみへと誘う。
しだいに揺れが大きくなって、本棚から雑誌が数冊すべり落ちた。こたつの上のビール缶がこまかく音を立てる。おばあさんと黒潮丸の写真が怒るように震える。巨人につままれたように、おじいさんの家がきしむ。
おじいさんが寝ぼけまなこで、犬をきつくにらみつける。犬は荒波に耐えるように四肢を床に踏みしめて、主人をただ見つめ返していた。
揺れがいったん収まった時、おじいさんと犬は互いを問い正すように見つめ合った。澄んだ静寂の水面に、遠いどこかの悲鳴がひとつふたつと赤いしずくを垂らす。すると巨人が家の底に頭をぶつけたような衝撃があって、地面が激しく上下し始めた。おばあさんと黒潮丸は紙相撲の力士のように戸棚の上からにじり出て、おじいさんのそばへ落ちた。頭を押さえながら、おじいさんはこたつの中に潜り込む。暴れ馬になった本棚は本をすべて吐き出し、ヤシを床へと放り出した。
ヤシの鉢は四片に割れて土が飛び散り、仰向けになった根が中空をうつろに見上げた。倒れてくる電気ストーブを避けて犬が飛びすさる。ストーブがこたつとカーペットを黒く焦がして、灰色の煙とオレンジの炎がゆらゆらと立った。
おじいさんがこたつから顔を出してきしみ続ける部屋をうかがうと、倒れたふたつの写真立てが目の前にあった。
おじいさんは魚網を繰るようにすばやくおばあさんと黒潮丸の写真をつかみ、起立した。足元と進路を指さし確認してから、おおきく息を吐いた。かぶってもいない帽子のつばを整えた。大地の荒波に晒されながら、おじいさんは操舵室で舵を取っていた。
「クロ、潮時だ」甲板の乗組員に向かっておじいさんは命令した。
灰煙の中で、ヤシは犬が初めて吠えるのを聞いた気がした。遠いふるさとの熱風に強く吹かれながら、波が寄せては返す浜辺で、ヤシは太陽を近くに感じた。沖から大波の軍勢が近づいてくるのが見えた。自分のからだがしだいに退屈な緑から落ち葉のような赤に変わり、灰色を通り越して、白く輝きだすのをヤシは知った。からだが軽くなって太陽をもっと近くに感じた。そして、ヤシはどんどん冷たくなった。ヤシが浮き上がって灰色の雲を何度も突き抜けると、雲の上で太陽が待っていた。太陽が言った。
「ハイホー」
ヤシはひとひらの雪となって町に舞い降りた。
知らない町や人々、山々、沖の果てまでが、ヤシには与えられていた。ヤシは仲間たちとともに風に身を任せて、自由に世界を見はるかした。遠くには、春が見えた。
西の山々がところどころ夕陽を浴びて金色に照り輝いている。太陽が雲間から光の帯になって町を覗いている。雪たちが光の帯のなかで踊る。ヤシも踊る。町は光る雪を全身で浴びながら、ただ静かに呼吸している。ここには大地震などない。山々の影が、町をゆっくりと浸していく。
夕凪になずむ海が銀色に輝いている。沖からたくさんの船が航跡を引きながら港に向う。おじいさんの黒潮丸も波間を跳ねながら港へ向かう。
おじいさんの家が近づいてきた。
『雪景色』が窓辺で待っている。
窓ガラスに犬の鼻息で煙る二つの円を目がけて、ヤシは降り立った。犬の鼻先をヤシは悠然としたたった。泳いでまでみせた。(了)
ひとひらのヤシ