美少年憑き

 序

 少年の家には蔵があった。


 大きな日本家屋のお屋敷の、大きな庭の片隅に、小さな蔵があった。
 その蔵は、元は白くて綺麗な蔵だったのだろうが、長い年月と、生い茂る草によって、打ち捨てられた物置にしか見えなかった。
 実際、その蔵は開かずの蔵だった。
 重厚な木製の扉には大きな南京錠が掛けられていて、さらに、神経質なぐらいに取っ手を鎖でぐるぐると巻いてあった。一目で、中に入ろうとする人間を拒絶しているのだと分かる。
 少年は一度、父親にあの蔵が何なのか聞いたことがあった。その時、父親はこれ以上ないぐらい不愉快な顔をして、
「まだ知る必要はない。あそこには近づくな」
 とだけ、ぶっきらぼうに言った。
 少年の家庭は、少年が二歳にも満たない頃に母が死んでいる。銃で撃たれて殺されている。それ以来、親といえば父親しかいないのだから、父親の言葉は少年にとって絶対だった。
 それに、いつもは優しい父親がそこまで不快に思うなら、それは良くない建物なのだろう、少年は子供心にそう理解し、二度と蔵に近づくのをやめた。
 だが、その三年後。
 少年が十二歳になった夏休み、少年は再度、その蔵に近づくことになる。少年に近づくことを禁止した本人に手を引かれて。
 その日の父親はとても恐い顔をしていた。不快感と諦めが入り混じったような複雑な表情で、何も言わぬままにぐいぐいと少年の手を引いた。
 少年は最初、怒られるのだと思った。悪いことをした覚えは一つもないが、それでもそう思った。そして、お仕置きとしてこの蔵へ閉じ込められるのだと、理由もなくそう思った。

 少年の考えはほぼ当たっていた。

 ただ一つ違っていたのは、そのお仕置きの方法が少年の理解の外だったということ。

 いや、少年には折檻されるだけの理由はないのだから、お仕置きとは違う。ただの暴力だった。
 父親は、少年を蔵の中に連れ込んだ。不思議なことに、あれほど神経質に封印されていた錠も鎖もなかった。鍵は開いていた。
 蔵の中には何もない。
 木と漆喰の壁に囲まれた8畳ぐらいの空間に、あるのは積もったホコリだけだった。少しカビの匂いがする。
 しり込みして立ち止まる少年の腕を、父親は力強く引いた。不意に引っ張られたせいで足がもつれて転ぶ。少年の着ていた白い長襦袢がホコリで黒く穢れる。
 少年を無理やり立たせると、父親は引きずるように奥へと連れて行った。
 蔵の奥、壁際の床には、両開きの木製の扉。
 御札が無数に貼ってある。
 朱色の文字で書かれたその言葉を、少年は読むことができなかった。
 無数の御札で封印された扉を開けると、闇をたたえて地下へと続く階段。
 少年は入るのを嫌がったが、父親は無言のまま少年の手を引いて木造の階段を降りていく。ギシギシと木のたわむ音がした。
 長い階段を降りて、行き着いた先は真っ白な部屋だった。コンクリートの壁を白く塗った六畳ほどの部屋。
 それを照らす、電球ひとつの弱い明かりだけが光源のすべてだった。窓はない。閉じられた部屋。
 その部屋には、真新しいベッドと、剥き出しのトイレと、ボックス型の簡易シャワーが設置されている。
 それと、もう一つ。
 ベッドの上に、赤い首輪があった。
 無数の白い腕が絡みついた模様の刻印された、不気味な首輪。
 首輪の先には太い鎖がついていて、それはベッドの近くの壁に埋め込まれていた。
 両手首を拘束するための太い手錠も置いてある。
 少年は直感的に、その首輪と腕輪は自分に付けられるのだと思った。
 父親は、少年の背を強く押した。つんのめるように少年は部屋の中心に移動する。それから、父親は少年に向かって「服を脱げ」と低い声で言った。
 少年は震えながら首を横に振る。
 それを見た父親は一度だけ、大きな溜息をついた。一度だけの、悲壮な表情。
 ただ、その一瞬だけ。
 あとは無表情だった。
 つかつかと歩み寄り、少年の頬を容赦なく殴った。殴られた勢いで少年はふらふらとベッドに倒れ込み、次の瞬間には頬を押さえて泣き喚いた。殴られた意味も、この地下室に連れて来られた意味も、さっぱり分からなかった。
 父親は、泣き喚く少年の服を無理やり脱がした。
 少年の胸には、λ(ラムダ)の形の裂傷。
 何か、鋭く尖った物で切り刻まれた、傷痕。
 父親はその傷を睨む。深く、息を吐く。ベッドに置いてある首輪を手に取る。
 少年は大きく目を見開いて首を振ったが、飛んできた拳に逆らうことは出来なかった。
 首輪は少年の首に巻き付いて、小さな、それでいて頑丈そうな錠で止められた。
 両の手首の自由を奪うための、太い手錠も嵌められる。鍵がかけられる。
 手錠にはびっしりと、血走った眼球の模様が彫り込まれていた。


 それから父親は、泣き喚いて意味も分からないまま許しを乞う少年を、無言で犯した。



 一週間が過ぎた。
 少年は、あれからずっと地下室に閉じ込められたままだった。
 首輪に繋がった鎖が、手錠が、少年に逃げることを許さなかった。壁から延びた太い鎖は、上へ登る階段の手前で少年の自由を奪うように長さが調節されていた。
 部屋の中は自由に動き回れるが、部屋からは一歩も出られない。
 少年は、首輪によって白い壁の部屋に閉じ込められていた。
 食事は一日に二回、地下にいるので時間の感覚が分からないものの、多分昼と夜に一回づつ、父親が持ってくる。食事が済むと少年は理由もなく犯された。
 泣こうが、喚こうが、父親は許してくれなかった。
 許すも何も、初めてここに来た日以来、父親は少年と口を聞こうとしなかった。たまに「足を開け」だの、一方的な指示を出す以外、口を開かなかった。少年は、そんな父親に、ほぼ義務のように犯された。
 それは、ただの虐待だった。
 縛られ、叩かれ、モノのように扱われた。少年が嫌がろうがお構いなしだった。父親は、嫌がる少年を無表情のまま冷たい目で見下ろし、機械的に犯した。
 二週間も過ぎると、少年の瞳から意志の色が消えた。
 何も無い白い空間に一日中閉じ込められ、誰とも口をきくことを許されず、一日に二度、毎日欠かさず機械的に犯され続けている内に、少年の自我は崩壊寸前にまで追い込まれた。
 少年は虚ろな瞳のまま、一日中ベッドに座り込み、虚空をただぼんやりと見つめるようになった。父親が食事を持って来ても反応しない。食べようともしない。
 そうなってようやく、地下室の中に新たな物が増えた。
 それは、点滴の輸液パックと、輸液パックを吊るす銀色のイルリガードル台。
 消えていく命を繋ぐもの。
 父親は、ぼんやりとベッドに座る少年の腕に点滴の針を刺す。そうして、少年を無理やり生かし続け、無理やり犯し続けた。

 更に二週間過ぎると、不意に、少年の瞳に意志の色が戻った。それは、この状況に慣れ尽くし、少年が無意識の内に環境に隷属したことの現れだった。
 いつものように食事を持って、父親がやってくる。
 少年は、ここに閉じ込められてから初めて父親の顔を真正面に見て、「お父さん」と呼びかけると、

「         」

 と言った。

 その、瞬間に。

 少年は、全てを理解した。
 この状況も、この環境も、機械的に繰り返された虐待の意味も。
 父親はゆっくり頷くと、小さな鍵を取り出して、少年の首輪と手錠を外した。
 その後、小さな折りたたみナイフを取り出して、少年の左の手首を切り裂く。
 手首から流れていく血。
 赤いしたたり。
 世界を染めていく色。
 世界に、こぼれていく、苦痛。


「もう終わりだ」

「すまなかった」

 父親は、そう少年に声を掛けて、地下室を後にした。

 少年は、自由を得た。
 だが、全てを知った少年は、自由を得る代わりに父親への憎悪に縛られた。

 許せなかった。

 最後、伏し目がちに謝ったあの言葉と、

 罪悪感を隠しきれなかったその表情が、

 どうしても、許せなかった。

 どうしても、どうしても、許せなかった。


 許せなかった。



 その夜、父親が死んだ。焼死だった。
 警察に連絡したのは少年で、
「父親が、家の中で、燃えました」
 とだけ告げた。
 すぐに警察と消防が駆け付けたが、消防の方は必要なかった。一面畳張りの大広間で、父親がいただろうと思われる場所の畳が、真っ黒に焼け焦げていただけだったのだから。
 父親の死体は発見されず、結局、『変死』という見解で落ち着いた。
 そうとしか説明のしようがなかった。少年の証言した内容は、
「突然、父親が自分の目の前で燃え出し、跡形もなく燃え尽きた」
 だったし、現場の状況と科学的調査とを照らし合わせるに、そうとしか言えなかったようだ。
 少年の証言を裏付けるように、焦げた畳の付近から、高熱に晒されて溶けた、小さな骨のカケラがいくつか見つかった。
 翌日の新聞には、
『人体自然発火』
 の文字。
 しかしどの新聞も、『原因は不明』と結ばれていた。
 その記事を見た少年は、小さく笑う。
 乾いた瞳で。
 大人びた表情で。
 左の手首に巻かれた包帯に、血の色を滲ませながら。 

 清美

「ほら、好きにしていいんだよ」

 裸のままベッドに腰掛け、娼婦のように魅惑的に微笑む少年に、荒井真司(あらい しんじ)は背筋に微弱な電流を流されたような感覚を覚えた。背骨をゆるく伝っていく、背徳的な衝動。
 うふふ、と少年が笑う。
 吐息が鼓膜をくすぐる。
 欲望が脳を痺れさせて、真司の知性は麻痺していく。


 真司の別宅、元は妾のために建てた屋敷に、今は美しい少年が住んでいる。

 少年と真司の出会いは、まったくの偶然だった。
 一週間ほど前、その時住まわせていた女から、「門の前に少年が行き倒れてる」と連絡が入ったのが始まりだ。聞くと、空腹と疲労で倒れていただけのようなので、屋敷の中に保護したと言う。
 その夜、仕事を終えて妾宅へ行き、ベッドの上で女に剥いて貰った林檎を食べていた少年と目が合った瞬間に、真司は心を奪われた。
 薄紅色の着物を着た少年は、一言で言うなら可憐だった。少女のような華奢な手足に、白い肌、柔らかそうな少し長めの栗色の髪。髪の毛と同じ色の、色素の薄い瞳。どう見ても男の子には見えなかった。かと言って少女でもない。微妙なバランスで性を超越していた。あと何年かすればこのバランスは崩れてしまうだろう。その儚さゆえの美しさだった。
 少年は何やら挨拶をしていたようだったが、少年を食い入るように見つめていた真司には、その言葉は聞こえていなかった。ただ最後に、「清美です」と自分の名前を名乗っただろう言葉だけは聞こえた。
 真司は、美しいものが無類に好きだった。
 その理由は至極単純で、自分が醜いからだ。
 醜く、汚く、みすぼらしいからだ。
 真司にとって自分の容貌はコンプレックスでしかなかった。生来の醜さに、アトピー性皮膚炎のただれた皮膚も相まって、女性どころか同性からも見向きされなかった。それどころか、貶され、嘲笑され、罵倒さえ受けていた。
 悩んで、悩んで、悩んだはてに真司が導き出した結論は、容貌を帳消しにするぐらいの力を手に入れること、だった。
 そのために一心不乱に勉学に勤しみ、代議士になった。
 そして、充分な権力と財力を手に入れると、若い頃の鬱憤を晴らすように、美しいモノを貪欲に欲した。
 美術品も、女も、あらゆる手段で手に入れた。今、妾にしている女も私設秘書の婚約者だった女だ。それを、金の力と権力と脅迫で自分のモノにした。
 そんな男であったから、真司は、すぐに目の前の少年が欲しくなってしまった。
 美しいものはどんなことをしてでも手に入れる。そうでなくては、若い時の自分が惨めすぎた。
 欲しい──、その衝動のままに行動に移す。
 少年と会った次の日には、女を妾宅から追い出した。手切れ金の札束と、脅迫の言葉を叩きつけて、家から放り出した。
 そして、空になった家にどうやって少年を監禁しようか考える。
 が、それは難しいことではなかった。
 少年は、
「家出してきたから行くところがないの。お願い、ここにいさせて」
 と、すがるような目で言ったのだ。
 好都合だった。
 ただ、その他には金も物も受け取ろうとしなかったので、真司はどう言いくるめて性行為に及ぼうかと思いあぐねたが、それもすぐに叶えられた。
 女を追い出した夜、少年は真司の前でゆっくりと着物を脱ぎ捨て、肌を晒すと、「ボクはなんにも持ってないけど、それでも、おじさんにお礼がしたいの」と抱きついてきた。
 それ以来、真司と、清美と名乗る少年の関係は続いている。 

「どうしたの、ぼぅっとしちゃって。ほら、おいでよ。遊ぼう?」
 清美が真司に向かって、その細い両腕を差し出す。
 真司は、誘われるままに清美の腕の中に収まった。
 清美は真司の体を腕で絡めとると、ゆっくりとベッドに倒れ込む。
「俺みたいな醜いオヤジがそんなにいいのか」
 清美の薄い胸板に唇を這わせながら真司は言う。実際、五十に差し掛かろうという真司の体は、ぶよぶよにたるんでいたし、まだらに禿げていたし、皮膚は赤くただれており、醜かった。
 清美は小さく吐息を漏らし、胸を愛撫する真司の頭を抱く。
「うん、好きだよ。おじさんが好き。殺されてもいいぐらいに。ボクね、めちゃくちゃにされたいの…」
 清美の言葉を聞いた真司は、下卑た笑みを浮かべた。舌を胸から腹の方へ移動させ、少年の、白く柔らかな腹部を味わう。清美は、くすぐったそうに身をよじる。
 真司は、清美の身体に没頭した。 


 ギシギシと天井から音がする。
 妾宅の一階、応接間で、皮張りのソファーに座っていた新城 直之(しんじょう なおゆき)と長原 文彦(ながはら ふみひこ)は顔を見合わせた。
 二人は、荒井真司の私設秘書を勤めている。
「毎日毎日、お盛んなコトで」
 天井にちらりと目をやりながら、長原が失笑する。元ラガーマンである長原は、筋肉質な体を窮屈そうなスーツに包みながら、おおげさに『やれやれ…』というジェスチャーをした。
「しかし、美少年ってのはそんなにいいモノなのかね。こっちにしてみれば、仕事を放棄されるし、奥様には仕事のせいで家に帰れないと嘘をつかなきゃいけなくなるし、散々だ」
 長原は苦笑しながら、手に持ったコーヒーカップに口を付けた。「まさか、最近の仕事は子供とセックスすることです、なんて言えやしない」
「まぁまぁ、長原さん。どうせまた、すぐに飽きますよ。いつものことじゃないですか」
 新城が言う。もともと華奢な体躯の男だったが、最近さらに痩せてきたな…と長原は思う。やつれてきた、と言った方がいいのかもしれない。
 その理由も、なんとなく見当はつく。
「平気なのか、お前」
 ためらいがちに長原が言う。
「何がです?」
「あの少年の代わりに追い出されたのは」
 新城は顔をしかめる事で、長原の言葉を止めた。
「美香のコトですか」
「そうだ。実際、美香さんにしたって、先生が、『自分と添わないなら新城をクビにする』とか、そういう脅しがあったからそうなったんだろう? 最初は、レイプ同然に行為に及んだって聞いたぞ。恋人を取られて、婚約まで反故にされたってのに、よくお前はあんな男の下で働いていられるな」
「給料がいいもので」
 新城が自嘲気味におどける。痩せこけた顔で。
「長原さんは、今日はなんのご用で? まぁ分かると思いますが、上が終わるまで先生には会えませんよ。僕は、誰も通すなときつく言われてます」
 新城が話を変えたのに合わせて、長原はこの話題の不毛さを察し、「それなんだが…」と、大理石のテーブルに置かれたビジネス用の大きな封筒に視線を送った。
「俺は先生に言われて、子飼いの探偵にあの少年の調査を依頼してたんだが…」
 少年は、自分の名前を「清美」と名乗った以外、何も話そうとはしなかった。名字も、自宅の場所も、どうして行き倒れるようなことになったのかさえも。素性を何一つ明かそうとはしなかった。
「探偵から報告が来たのが今日。それが報告書だ」
 新城が封筒に手を延ばすと、長原はその手を制した。
「読む必要はない。大したことは書いてないのさ。要約すると、清美なんて名前の子供は存在しない、だそうだ」
「…存在しない?」
 新城が問う。
「存在しない、とまで言うと大げさだが、調べがつかないらしい。あの年頃の子供が行方不明になって、親が捜索願いも出さないのは不自然だから、まず警察の方を当たってみたが、清美の捜索願いは出ていなかったらしい。今は、手がかりを掴むべく地道に聞き込みをしてるよ。それはまぁ、中間報告書だな」
 長原がネクタイを緩めながら言うと、新城は「ふぅん」と納得したように呟いて、愉快そうに小さく笑った。「そうか…。やっぱりあの子供はそれなのか…」
 新城の呟いたその言葉に、長原は眉をひそめる。
「お前、何か知ってるのか…? どう考えても異常だぞ、あの子供。あの歳で、セックス以外したがらない子供なんて聞いたことがない。そして身元は不明。先生は仕事を放棄するぐらいあの少年に骨抜きにされてる。異常だ、異常。イジョウ」
 長原が、異常、異常と繰り返す。新城は肩をすくめ、長原をじっと見据えた。
「さぁ、ね。僕は何も知りませんよ。でも、あの子供が人間じゃないとしたら、どうします?」
 真面目な表情で言う新城に、長原は少々戸惑う。
「人間じゃないって…。そんなワケないだろ。じゃあ、あの子はなんなんだ? 妖怪か何かか?」
 長原の言葉に、新城は平然と、
「憑き物ですよ」
 と返した。
「憑き物…?」
 聞き慣れない単語に戸惑う。「それってアレか、犬憑きとか狐憑きとか、そういうのか? それじゃあ、先生はあの少年に憑かれてるとでも言うのか、新城」
 言ってから、長原は自分の言葉に妙に納得した。なるほど、確かに先生はあの少年に憑かれている。
「そうですよ長原さん。犬が憑き、狐が憑くなら、美少年だって人に憑くんです」
 そう言って、新城は愉快そうに笑った。

「美少年憑きですよ」
 
 ギシギシと音の続く天井を見上げ、新城はさらに笑った。 



 その頃。
 ベッドの上で絡む中年と少年の痴態を、ドアの隙間から覗いている少年がいた。
 橙色の着物を着た少年は、ベッドの上で行われている行為を憎々しげに睨んでいる。
 腕には、可愛らしいクマのぬいぐるみ。
 憎しみをぶつけるようにクマのぬいぐるみを強く抱き締めていた少年は、やがて、薄れるように音もなくその場から消えた。 

 清美

 カーテンの閉め切られた薄暗い部屋。
 無数の石膏像がベッドを取り囲んでいる。ギリシャ神話をモチーフにした、半裸の神々の像。
 美しく彫り込まれた男女の彫刻たちが、清美と真司の横たわるベッドを覗き込んでいる。
 視線の先に、眠っている清美がいる。
 天使のような寝顔。
 やすらかな吐息。
 もっとも美しいもの。
 生きていない石膏像たちが、生きている者の美しさを──生命の美しさを見つめている。
 その視線に促されて、清美が目を覚ます。
「夢を…見てたの」
 真司に話しかける。「ひさしぶりの夢。ぼんやりとした夢。昔の夢」
 もぞもぞと起き出した清美は、裸の体を隠そうともせず、ベッドから上半身だけを起こした。
 ベッド脇の、サイドボードの上に置かれたバスケットに手を延ばす。
 中から果物ナイフと梨を取り出して、切り裂くように乱雑に皮を剥くと、果肉を一片だけえぐり取って口に放り込んだ。少年の口には少々大きかった果肉は噛んだ拍子に果汁をこぼし、清美の口元を濡らして顎を伝い、太股に落ちた。
 清美は気にした様子もなく、口元を手の甲で拭うと話し続ける。
「そこも、こことおんなじで薄暗いところだった。ボクは、独りだったよ。逃げられないように首輪でつながれて、独り。ううん、違うね。父親と名乗る人が、毎日ボクに会いに来てたんだから」
「…父親と名乗る人?」
 ベッドに横になりながらタバコを吹かしていた真司は、ちらりと清美に視線を送った。清美の横顔が見える。清美は、ナイフと欠けた梨をバスケットに投げ捨てると、真司と視線を合わせた。小さく笑う。
「分からないの。あの人が本当に父親だったのか。あの頃のボクは生きているのか死んでいるのか分からないぐらいにぼんやりしてたし、それに、ボクの知ってる父親は優しい人だったもの。ボクを、無理やり犯すような人じゃなかったもの」
「それは」
 真司は口をつぐんだ。言葉が出なかった。
 この子は、今、なんと言ったろう。
 その言葉を信じるならば、清美はここに来る前、どこかに監禁されて実の父親から性的虐待を受けていたということになる。にわかには信じられない話だったが、清美が行き倒れていた事実と、すぐに体を委ねた事実と、素性を話したがらなかった事実を考えるに、それは真実なのだろうと思った。
 清美は、自分の家から逃げ出して来たのだ。
 酷い話だと思う。思うが、真司にとっては悪い話ではなかった。実際、真司がやってる事は父親がしたそれと変わりないのだし、清美の父親がやらなければ自分がそうしていただろう。むしろ、清美にここまで性の技術を仕込んでくれた父親に、真司は感謝しなければならない。
「だからね」
 清美は続ける。「あの人は父親じゃないと思うことにしたの。父親だけど、父親じゃない別の人なんだって」
 うふふ、と小さく笑う。「諦めたの。諦めたんだ。ぜんぶ」
 真司は、軽く頷きながらタバコを一口吸い、揉み消した。煙を吐く。
「その日のことだけは良く憶えてる。だって、その日にボクはボクになったんだもの。ボクの生まれた日だよ。忘れない」
 清美はそう言って、真司にしなだれた。真司のたるんだ胸にそっと頬を寄せる。
「ボクは、その日、父親の顔をじっと見つめて『お父さん』って呼んでから、こう言ったの」
 清美は首を動かすと、胸の上から真司の顔を見た。
 清美の瞳が銀色に輝く。とろけるような笑みを浮かべ、脳の奥底に直接ささやくように言う。


「ほら、好きにしていいんだよ」 

 マリュ姉

 憑き物筋──

 憑き物を使役し、他人にとり憑かせる家系の総称。

 近代化の波の中でその存在は零落し、埋没し、陰陽道よりもさらにアンダーグラウンドへと落ちていったが、僅かばかりの陰陽師が残ったように、憑き物筋も僅かばかり生き残った。そして、憑き物を扱う術を脈々と伝えていった。
 憑き物筋は憑き物を飼う。
 狗神使いは狗神を。
 管使いは管狐を。
 美少年使いは、美少年を。
 彼らは憑き物を操り、人を狂わせ、人を殺す。
 社会の裏側、人の闇に隠れる彼らは、誰にも気取られぬまま、人を狂わせ、人を殺す。



 障子が、す、と開いて、緋色の着物に身を包んだ少年が現れた。
 女性のような顔立ちの少年。
 肩まである長い黒髪と、雪色の肌と、艶やかな赤い唇が印象的だ。
「陽介さん、お客さんだよ」
 少年は甘い声でそう呟くと、煙のようにその場から消えた。
 黒一色に染められた着物を着た男──小鳥遊 陽介(たかなし ようすけ)が、座った座布団から障子に視線を移した時には、もう少年は居なかった。
 開け放たれた障子の先、縁側を挟んだ向こう側に庭が見える。
 たいして手入れもされていない庭は草木が乱雑に生え、風情も何もなかった。
 陽介が幼い頃は立派に庭として機能していたが、今は草が伸び、低木の枝が伸び、乱雑だった。荒れ果ててはいない。ただ、乱雑だった。打ち捨てられていた。
 それは、陽介が望んでそうしていた。
 庭の片隅にある、けして大きいとは言えない白い蔵が薄汚れていたため、庭もその程度で充分だと思った。
 汚い建物には汚い庭でいい。
 ぜったいに綺麗であってはならない。
 汚れていることを確認するために庭に目を凝らしていると、玄関の引き戸がガラガラと開く音が聞こえてくる。
 戸の閉まる音に続いて、「お邪魔しまーす」という若い女性の声。良く知っている声だった。
 玄関に赴こうかとも思ったが、家主の意向も聞かず、すでにお邪魔する気の女性を出迎えるのも馬鹿らしいので、黙って座っていた。
 陽介は女性と見知った仲だったので、放っておいてもここへやってくるだろうことは知れた。
 実際、渡り廊下を足早に歩く音が聞こえたかと思うと、すぐにその女性は開いた障子から顔を覗かせた。
 野良のシベリアンハスキーのような険のある目つき。だが、そのマイナス要素さえプラスの印象にしてしまえるほどの美人だった。
 体全体から漂う野性的な美を、黒を基調にしたゴシックな地雷系ワンピースで包んでいる。
 女性は陽介と視線が合うと、黒髪に赤メッシュなロングヘアをかき上げ、険のある表情をした。
「アンタ、仕事が遅いのよ! 本っっっっ当にグズね! 何をしてるの、さっさと殺っちゃいなさい!」
 女性は障子を締め、ずかずかと部屋に入ると、当然のように陽介の正面に立った。仁王立ちである。
 女性の叱責は続く。
「そりゃあ今回の依頼は小口よ。彼女をブタに取られたからブタを殺してくれだなんて、自分でリスクを負いたがらない安っぽい男にお似合いの安ぅーい仕事よ? だからこそよ! だからこそなの!」
 女性は、びしっと陽介に人指し指を突き付けた。
「だからこそ、こんな貧乏くさい仕事はちゃっちゃと終わらせて、次の仕事をする必要があると思うの! それなのにまぁアンタときたら! 清美を上手いこと荒井真司の所に潜り込ませてから、もう一週間よ? 仕事が遅いにも程があるわ! マリュ姉がアンタの会社の社長だったら、アンタは間違いなくクビよ!」
 放っておくと際限なく罵倒されそうなので、陽介は「マリュ姉さん」と女性の名前を呼んで、口を挟んだ。
「ちゃんとやってるさ。昨日、様子を見てきた。そろそろ終わる」
「…見て来た?」
 マリュ姉は怪訝そうな顔をしてから、「ああ」と一人納得した。「そういえば、見れるんだっけ。アンタの使ってる憑き物が見たモノは、アンタにも」
「荒井真司はダメだな。あそこまで憑かれたら、もう清美には抵抗できない」
 陽介が左手首の包帯を撫でながらつまらなそうに言うと、マリュ姉は「そんなことはどうでもいいのよ!」と喚いた。
「マリュ姉が言いたいのは、このグズ! アンタ! バカ! ってことなの! アンタの使う憑き物は仕事が遅すぎるのよ! 人を一匹殺すのに手間を掛けすぎよ! これはつまり、それを使ってるアンタが美少年使いとしては三流ってことよね!? しっかりしなさいよ!」
 一つ息継ぎをして、マリュ姉はさらに捲くし立てる。「聞いた話に寄ると、先代の使う憑き物はそれはもう優秀だったそうじゃないの! 一に殺す二に殺す、ぶっ殺すったらぶっ殺すって感じで!」
 マリュ姉の言葉に、陽介は目を細めた。聞き捨てならない言葉を聞いた。「…どうしてあんたが先代のことを知ってる」
 低い声が出る。「そもそもマリュ姉さん、あんた何者だ? 初めて会った時からそうだったが、ウチのことを知りすぎてるぞ。オレたちは仕事上のパートナーだろ。謎の女も結構だが、そろそろマリュ姉さんの素性を開かしてくれてもいいと思うんだが。オレは、マリュ姉さんの表の職業だって知らないんだ。あんた、何をしてる人なんだ?」
「峰不二子よ」
「それは職業じゃない」
 陽介は即答した。
 マリュ姉は媚びるような視線を陽介に送って、甘い声を出す。
「あらルパン。ひどいわ。信じてくれないの?」
「オレはルパンじゃない。あと、そのモノマネ、かなり似てるのがくやしい」
 陽介が言うと、マリュ姉は「練習したのよ」と笑った。


 陽介とマリュ姉の関係は、二年ほど前に遡る。
 突然来訪した年齢不詳の女は、値踏みするように陽介を見ると、「貴方が美少年使いね」と、その筋の人間しか知るはずのない呼び方で陽介を呼び、不敵に笑った。
「貴方の家系が憑き物筋だって知ってるわ。今日は、ビジネスの話に来たのよ」
 そう言って、女性は名を名乗った。女性は、「剛田マリュ子よ。マリュ姉でいいわ」と言った。とても本名だとは思えなかった。自分の本名さえ名乗れない人間の話など聞けない、そう言うと、マリュ姉は不機嫌な顔をして、「本名は長いから嫌いなのよ!」と怒鳴った。
「いいわ、そんなに聞きたいなら教えてあげるわ! ウチの母親、剛田って名字がやたら気に入らなかったらしくて、せめて子供には素敵な名前をつけようって思ったらしいのよね。素敵な名前ってなんだと思う? マリューアントワネットよ! 私の本名、剛田マリューアントワネットなのよ! ほとんどパクりみたいな名前のくせして、『マリュ』の部分で控えめに個性を主張してるのがいやらしいわ!」
 本気で怒っていたので陽介は素直に非礼を詫びた。
 興味本意からマリュ姉の話を聞くと、マリュ姉の持ってきたビジネスの話は、陽介にとって悪いものではなかった。
 要約するとこうだ。マリュ姉が仕事の依頼を受け、陽介が憑き物使いの力を使ってその仕事をこなす。
 依頼金は出所が分からないようにマネーロンダリングしてから陽介に支払うし、憑き物筋の存在が明るみに出ないようにアフターケアもする。その見返りに依頼料の四割をマリュ姉が貰う。そんな話だった。
 仕事というのは復讐代行で、復讐の手段は暗殺──。
 そんな仕事を取って来ると豪語するマリュ姉は明らかに心が病んでいたが、陽介も同じぐらい病んでいたので引き受けることにした。
 その話をした以外、マリュ姉は何を聞いてもはぐらかした。どういう素性の人間なのか一切話さない。ただ、仕事の話の途中、「運び屋とか用心棒とか、人に雇われる仕事って、手間のワリに儲かんないのよねー。揉め事ばっかりだし。その分、殺しはいいわ。仕事の件数は確かに少ないけど、個人営業出来るから儲かるわよ」
 と、さらりと言ったのを聞いたので、間違いなく裏稼業の人だろう。
「女は多少ミステリアスな方が魅力的なのよ」
 そう言ってマリュ姉は笑ったが、多少の『多』の方が多すぎるような気がした。普通なら信用するには足りないのだが、それでも陽介はマリュ姉を信用することにした。話をしていて分かった。マリュ姉には裏表がない。潔いぐらい裏しかなかった。それでは話せることも少ないだろう。陽介自身、裏側の話は他人に出来るものではない。
 実際、陽介の信用は間違っていなかったのだ。マリュ姉と仕事を始めてもう二年になるが、今のところ何も問題がない。信用を信頼に変えてもいい頃なのかもしれない、と陽介は思う。
 だが、時折、目の前にいる女性の素性を思って、ひどく不安になる事も確かだった。


「マリュ姉さんは、もしかして、その…」
 陽介は、峰不二子のモノマネを披露してご満悦のマリュ姉を見つめた。「もしかして、こっち側の人間なんじゃないのか。クロ、なんだろう?」
 クロ、というのは憑き物筋を表す隠語だ。
 陽介の言葉に、マリュ姉の顔から一瞬笑みが消えた。それから、珍しく困ったような顔をした。
「やっぱりそうなんだろう。道理でウチのことを良く知ってる訳だ。この業界は狭いからね。情報などその筋の人間には筒抜けだ。それなら知っていてもおかしくない」
「…バレちゃあ仕方ないかぁ」
 マリュ姉は一転して脳天気に笑った。「そうよ。あたしは狗神憑きの筋だったの」
「だった?」
「死んだのよ、狗神が。信じるかどうかは知らないけど、マリュ姉には昔、犬の尻尾が生えてたわ。それが消えたのが始まりよ。その瞬間に、マリュ姉の家系は狗神を使う能力を無くしたの。それからしばらくして、狗神自身が死んだわ。殺されたらしいのよ。詳しいことは知らない。ただね、尻尾を消したのは筋の本家の人間、狗神を殺したのは本家に出入りしていた無関係な一般人だそうよ」
 マリュ姉は『無関係な一般人が狗神を殺した』と言ったが、陽介にはそうは思えなかった。狗神がどの程度の力を持っていたのかは知らないが、陰陽師でも憑き物筋でもない普通の人間に、狗神が殺せるはずがない。まったくの無関係な人間だとは思えなかった。
 陽介の思惑をよそに、マリュ姉は続ける。「あたしの思い出すのも忌々しい本名だって、尻尾が生えてたことが大きいのよ。犬猫に付けるみたいな名前でしょう。実際、そのせいなのよ、多分」
「そんな人がどうし」「ストップ」
 どうして裏稼業なんかに、と聞こうとした陽介の言葉は、マリュ姉に止められた。「それ以上訊くんならアンタのことも話して貰うわよ。アンタだってマリュ姉にいろいろ隠してるじゃないのよ。例えば、アンタの筋はどうやって使役する憑き物を手に入れるのか、とかね。聞けば、一人一人違った憑き物を使役するそうじゃない。先代のとアンタのが違うタイプみたいに。狗神だったら常に一匹よ。それを代々継承するわ。アンタのところはどうなってるのかしら」
 マリュ姉の言葉は質問の形式を取ってはいたが、口調は聞きたくない調子だった。そして、それは陽介が話せないのを見通した上での発言だったから、マリュ姉はこれ以上自分の事を話したくないのだと分かった。
 陽介は押し黙る。
「今日は喋りすぎたみたいね。もう行くわ」
 マリュ姉がきびすを返す。
「仕事、早めに終わらせてよね。次の依頼者が復讐を待ってるんだから」
 小言を言いながら障子まで歩くと、不意に立ち止まり、振り返った。「ああ、そうだ。里桜(りお)に会ったわよ」
 思いがけない名前を聞いて、陽介の体が一瞬強ばる。「…里桜のことまで知っているのか」
 押し殺した声が陽介の喉から漏れた。マリュ姉は軽く陽介を睨んだ。
「最近知ったのよ。それにしても、アンタも知っててマリュ姉に隠しとくなんてどういうこと? アンタの他にも美少年使いがいるなら、最初からそう言いなさいよ!」
「マリュ姉には関係ないだろう。どうせ里桜は今、憑き物なんか使えないんだ」
「そうでしょうねぇ」
 マリュ姉はニィっと笑った。「アンタに憑いてるんだもんねぇ」
「…どこまで知ってる」
「大したコトは」
 マリュ姉は笑みを浮かべたまま言う。「アンタも病んでるわね。初めて会った時もそう思ったし、初めて仕事した時も人殺しに抵抗がなかったから病んでると思ったけど、まさかこれ程とはね。それとも、病んでるとかは関係ないのかしら。これは」
「ほっといてくれ。美少年使いは代々病んでるんだ」
 陽介が不機嫌そうに言い捨てると、マリュ姉は面白そうに声を上げて笑った。
「理由は聞かないけどね、そんなことをしたら憑き物を憑けられても不思議はないわよ。憑き物の名前、有希(ゆき)って言ったっけ。有希に殺されそうになってるのは自業自得ね」
 マリュ姉の言葉に陽介は答えなかった。ただ、「うるさい」と返す。
「それよりも、今度里桜に会ったら、有希を引き取るように言ってくれ。どういうわけだかウチの清美に惚れたみたいで、難儀してる」
 陽介が言うと、マリュ姉はさらに笑った。「惚れたって? 憑き物が憑き物に? しかも男同士で?」
 爆笑した。「どうなってるのよアンタの筋は。イカれてるわ」
 マリュ姉は笑いすぎて出てきた涙を指で拭いながら、「まぁ、アンタらにはお似合いよ」と呟いて、懸命に笑いをこらえた。陽介は、マリュ姉が笑い終わるのを不機嫌な顔でただ待つ。
 しばらく待つと、マリュ姉の笑いが治まった。
「ようやく治まったわ。笑い殺されるかと思った。じゃあ、今度は本当に帰るわね」
「ああ。とっとと帰ってくれ。仕事の方なら、明日…か、遅くても明後日には終わる」
「そう願いたいわね」
 マリュ姉は期待してないと言わんばかりの口調でぞんざいに言って、障子に手を掛けた。
 また振り向く。
 陽介を睨む。
「理由はどうであれ、アンタが里桜にしたこと、最低だと思うわよ」
 そう言い残してマリュ姉は出て行った。
 陽介は、何も言わなかった。
 ただ、言葉を飲み込むように奥歯を強く噛み締め、目を伏せた。
 里桜の顔を思い出す。
 幼い頃の、屈託なく笑う顔。
 思い出したが、言うべき言葉は、何もなかった。 

 有希

 夜。
 輝きの強い星たちが夜空を埋め尽くし、弱い光しか放てない星たちは闇に殺されている夜。
 庭で奏でられる虫の声を聞きながら、陽介は座布団の上であぐらをかいて本を読んでいた。『ヴィヨンの妻』とタイトルの打たれた小説に目を落としていると、ふと、部屋の空気が動いたのを感じる。
 すっと本から目を上げると、陽介の正面、壁際に、いつの間にか少年が一人たたずんでいた。橙色の着物を身にまとい、大きなクマのぬいぐるみを胸に抱いた幼い顔立ちの少年は、陽介を憎々しげに睨んでいた。
 音もなく現れた来訪者。
 突然の来訪にも陽介は微動だにしない。彼のことなら良く知っている。彼は、この世の理から生まれた者ではない

 憑き物。

 里桜という美少年使いが憑けて寄越した、異形の者。

 陽介が、「有希」と彼の名前を呼ぶ。有希は陽介を睨みつけたまま口を開く。
「どうして清美くんにあんなことをさせるの!? 陽介さんは清美くんを好きにしすぎだよっ!」
 怒声だった。
 陽介は本を閉じ、畳の上に置くと、面倒臭そうな視線を壁際にたたずむ少年に送った。
「それがオレの仕事だ。有希だってそうだろう。どうこう言われる筋合いじゃない」
 有希は、ぎゅっとクマのぬいぐるみを抱き締める。
「陽介さんが清美くんにそうするように命令したんでしょ!? ひどい、ひどいよ…!」
 憤る有希の声は、震えていた。「どうして清美くんがあんな醜いオジサンと、あんな…。あんなコト…」
「見て来たのか」
 何でもない調子で言う陽介に、有希は侮蔑の表情を浮かべた。
「見たよ! あんな醜いブタ、ぼくにやらせてくれればすぐに殺してみせるのに!」
「ほぅ」
 陽介が面白そうににんまり笑う。「それは残念だったね。オレが君を使えるなら君に行かせるんだが、悲しいかな、オレに使えるのは清美だけなんだよ」
「だからって、あんな男のところに行かせるなんてひどいよっ!」
「酷い? そうかな…」
 陽介は笑いながら目を細めた。「見て来たなら知ってるはずだ。アレは、悦んでいただろう?」
「そ、そんなこと…」
「ないとは言わせない。アレはそういうモノなんだよ。潔癖な君とは違う。アレのことならオレが一番良く知っている」
「そんなこと、ないよっ!」
 有希が叫ぶ。強く抱いたクマのぬいぐるみが、腕の中で押し潰れる。「陽介さんが清美くんに命令してるから、清美くんはそうしてるだけだよ! 悪いのは陽介さんの方だ!」
 有希の言葉を陽介は「ふん」と鼻で笑った。「じゃあ、どうするね」
 陽介の顔から笑みが消える。「オレは命令を取り下げるつもりはない。あの男を殺すまで清美にはあそこに居て貰う。君が出来ることは何もない。しょせん、君はオレに取り憑いている憑き物にすぎないんだからね」
 有希は陽介の冷たい視線を真っ向から受け止めて、「…あるよ」と呟いた。
「貴方を殺せば清美くんは自由になる。貴方の命令を聞く必要もなくなる」
 陽介は失笑した。「馬鹿なことを。オレが死ねば清美も消えてなくなるぞ」
「それでもいい! 清美くんがあんな目に合うぐらいなら、消えてなくなった方がいい!」
「子供のざれごとだな……」
 だが、それもいいかもしれない──その言葉は、唇から先には出ない。
「お前なんかっ! 死んでしまえっ!」
 感情の高ぶるままに有希がクマのぬいぐるみを陽介の方に突き出すのと、陽介が「美津里(みつり)」とそっと囁くのと、ほぼ同時だった。

 有希の持つクマのぬいぐるみの目が、突然赤く光った。光った瞳は、どろりと赤い涙をこぼした。
 クマの腹部に『獣』の一文字が浮かぶ。
 途端にクマの口が裂け、そこから鋭い牙が覗いた。クマのぬいぐるみは、まるで命を与えられたかのように短い手足をバタバタと動かし、そして、牙の並ぶ口腔をガチガチと噛み合わせた。

 陽介の背後には、空気から溶け出すように緋色の着物を着た少年が現れる。前髪を眉のラインで、後ろ髪を肩のラインで切り揃えた、日本人形にも似た少年は、色の白い涼しげな顔を有希に向けた。ふふ、と笑う。
「そこまでにしとくんだねぇ、有希ちゃん。それ以上やるっていうンなら、この僕が許さないよ」
「美津里ねえさん…!」
 有希は突如現れた和装の少年を睨む。「どうしていつもぼくの邪魔をするのさ!」
「有希ちゃんがこの人を殺そうとするのとおんなじ理由さぁ。僕ら憑き物は命令された以外のことは出来ない、そうだろゥ?」
 陽介の背後にたたずむ美津里は、そっと陽介の肩に手を置いた。「僕はこの人を守るように言われてるのさ。先代の主人からね」
「じゃあ、いいよ!」
 有希が叫ぶ。「みんな、死んじゃえばいい!」
 有希の言葉に呼応するように、短い手足を出鱈目に動かしていたぬいぐるみの腹部がボコボコと膨れ上がった。

 美津里は、「仕方の無い子だねェ」と呟いて右腕をぬいぐるみの方へ突き出す。

 膨れ上がったぬいぐるみの腹が内側から裂けた。
 血が吹き出し、中からピンク色の腸がこぼれた。
 こぼれた腸は、まるでそれ自体が独立した生き物のごとく蠢き、伸び、首をもたげる。
 腸の先端が裂けて、口が開いた。鋭い牙が覗く。唾液を垂れ流しながら、ガチガチと牙を噛み合わせ、蛇のような素早い動きで飛びかかって来る。

 美津里の突き出した右手の甲には、墨で書いた毛筆体の文字で『銃』と浮かんだ。
 途端に、美津里の白い腕は鉛色に変わり、細い指は溶けるように融合し、棒状に変化した。細い腕は更に細くなり、鉄と化す。一瞬の後には、右腕が出ていたはずの着物の袖からは、散弾銃の銃口が顔を覗かせていた。
 美津里の右腕の先端が一瞬光り、破裂音が響くと、ぬいぐるみの腹からずるずると伸びた、牙の立ち並ぶ腸の先端が弾けた。弾けた飛沫が陽介の顔に飛び、べちゃっと付着する。陽介は眉をしかめて顔を拭う。
 先を失った腸は、素早い動きで逃げるようにぬいぐるみの腹に戻っていった。ぬいぐるみの腹は、腸を収めると何事もなかったかのように塞っていく。
 有希が、苛められた子供のする恨みのこもった目で美津里を睨んだ。
「どうしたね有希ちゃん。僕は別に、本気でやったっていいンだよぅ?」
 独特の間延びした口調でそう言うと、美津里は左手で着物の衿をはだけた。白い胸があらわになる。
「だけどねぇ」
 美津里の胸に、『砲』の一文字が浮いた。「僕は有希ちゃんが思ってるよりずっと」ミチミチと肉の裂ける音と共に、胸の中央が内側から裂けて行く。裂けた肉から、ゆっくりと丸い筒が迫り出して来る。肉を押し分けて、鉄の円柱が伸びて来る。太く、長く、固く、円の中心に穴の開いたそれは、一目で砲頭だと知れた。
「…ずっと、強いンだよ?」
 まるで大砲に胸を貫かれたかのような異質な姿へと化した美津里は、有希に向けて涼しげに微笑んだ。胸から生えた大砲は、有希に狙いを定めている。
 有希は凶悪な面相で美津里をしばらく睨むと、クマのぬいぐるみを抱き直した。途端に、蠢いていたクマの動きは止まり、牙の剥き出しになった口が閉じた。
 元のぬいぐるみに戻る。
「…いいもん」
 有希はぷいっと顔を背け、すねた声でそう言うと、「みんな嫌いっ! 大っ嫌いだよっ!」
 大きな声で叫んで、空気に溶けるように薄れ、現れた時と同じように唐突にその場から消えた。


 有希がいなくなると、闘争の気配が薄れていった。
 張り詰めた空気が弛緩していく。
 陽介は後ろを振り向き、「手間をかけた」と声を掛けた。
 礼を言われた本人は、元に戻った腕でいそいそと着物の衿を正していた。砲身はすでに消えている。衿からは、なだらかな白い胸が覗いていた。
「礼には及ばないよゥ。僕はね、先代に命令される前から、貴方を守りたくてそばにいるンだよ」
 そう言って美津里は微笑む。「愛しているからね。母親のように」
 真剣な口調。
 嘘ではない──、陽介にも分かる。彼はずっと、母親のいない陽介の母親代わりだった。だが、その言葉が飲み込めない。嘘であればよかった。まだ、甘い嘘の方が飲み込める。
 陽介は、たぶん、真実を知っている。
 美津里に問いただしたことはないが、ほぼ、真相に辿りついている。
 目の前にいる、この、母のような顔をする少年が、陽介の母親を銃殺した犯人だということ。
 陽介が二歳にも満たないその頃に。
 実の母親を消して、自分が『母』に成り代わるために。
 ただそれだけのために銃殺したのだ。
 美津里ならやる。確信がある。この少年は、必ずそれをやる。憑き物。呪われた生き物。
 その思いが陽介の表情を複雑にする。
 美津里は陽介の表情を読みとって目を逸らし、「それはそうと──」と、話をそらす。
「なんだ?」
「いつまでこの状況を続けるつもりなんだい? 一応ああは言ってみたものの、あの子、たぶん僕より強いよ? 手ぇ抜いてるンじゃないかねぇ」
「まさか。どうして手を抜く必要がある」
 陽介が言うと、美津里は頬に人指し指を当てて首を傾げた。「本当は殺したくないンだろうさ。貴方を」
「そうだろうな。オレが死ねば清美は消える」
「違うよゥ。『貴方を』殺したく無いのさ」
「そんなわけないだろ。清美のことならともかく、オレを殺したくない、なんて。里桜はオレを殺すように有希に命令してるはずだ」
「まぁ、それはそうなんだろうけど。でも、有希ちゃんは清美くんを好きになったり、ずいぶん毛色の変わった子だからねぇ……」
 美津里は頬に当てた指を下ろし、悪戯を思い付いた子供がするのと同じ表情で、にんまり笑った。「ねぇ、こう考えたらすっきりしないかい。憑き物には使い主の性格が色濃く出るっていうのは分かるよねぇ?」
「ああ」
「もし、里桜くんが貴方のことを好きだったとしたら? それだったら、有希ちゃんが清美くんを好きになったのも頷けないかい? 清美くんは、魂の深い部分では貴方と変わりないンだし。有希ちゃんだって同じさ。里桜くんと一緒だよ。里桜くんが好きな人は有希ちゃんも好き、里桜くんが殺せない人は、有希ちゃんにも殺せない」
「やめてくれ」
 陽介は渋面した。「オレが里桜に好かれてるはずがないのは、お前もよく知ってるだろう」
「よく知ってるよ。貴方によく懐いてた頃の里桜くんをね。可愛かったねぇ。それに」
 美津里はふふ、と笑う。「貴方だって、難儀してるわりには有希ちゃんを殺そうとしないじゃないのさ。使役してる憑き物が死ぬと使い主は発狂するからねぇ。狂わせたくないンだろぅ、里桜くんをさ」
 美津里の言葉に、陽介は目を伏せた。魂の深い部分で同一というのはそういうことなのだ。憑き物の死は魂の死でもある。
 息を一つ吐いて、重々しい口調で言う。
「里桜がオレを殺したいって言うなら、殺されるべきなのはオレの方なんだろうさ」
 言い淀む。「……オレだって、昔、そうした」
 陽介は美津里を見つめる。美津里は真面目な顔で、「そんなことは僕がさせないよ」と言った。「母親だから」
「貴方を殺そうって人がいるなら、僕がその人を殺す。誰であっても、何があっても。どんな手段を使っても。たとえ僕が身代わりに死ぬことになったとしても」
 でもね──、急に悪戯っぽく微笑む。「そういうことになる前に、どうにか善処しようじゃないのサ」
 だから、せいぜい里桜くんと仲良くやっておくれよ、と美津里は続けた。「あなたと里桜くんは、今のところ世界で二人きりの美少年憑きの筋なんだからね。あんたらに死なれると、美少年使いの血脈が途絶えてしまうよ。この代でお家断絶、なんてことになったら、僕は先代に顔向けできないよゥ」
 一方的にそう言うと、美津里の身体はぼんやりと薄れていく。消えていくのだと分かった。
「美津里」
 陽介が呼びかける。美津里は陽介と目を合わせる。「お前はどこに帰る。清美も有希も、消える時は主の元へ帰る。魂と同化する。憑き物が帰れるところは、唯一、そこしかない」
 美津里の身体が透けて、向こうの壁がおぼろに見える。「だが、お前の主はもういない。お前は、どこへ帰る」
「貴方の心の中だよ。僕の主が貴方の心に付けた深い傷の中、そこへ僕は帰るのさ。僕の主への記憶が刻み込まれた、その場所へ、ね」
 小さな微笑みを残して、美津里は消え去った。誰も居なくなる。部屋が広く感じる。
 部屋の中はしんと静まり返り、思い出したかのように虫の鳴き声が聞こえた。
 陽介は、もう誰も居ない虚空を見つめながら、そっと胸を押さえ、「くだらない」と吐き捨てた。
 押さえた着物の下、その胸には醜く盛り上がったλ型の傷痕。
 消えることない刻印。
「…みんな嫌いだ。大っ嫌いだ」
 独りでそう呟いてから、その台詞は少し前に有希が言った言葉と同じであることに気が付き、陽介は笑った。

「こんな家なんて、絶えてしまえばいい」

 乾いた声で、笑った。 

 清美

 昼だというのにカーテンの閉め切られた薄暗い部屋。
 無数の彫刻がベッドを取り囲んでいる。
 ベッドの上では、清美の小さな体が太った醜い男に組み敷かれている。
 部屋の中に音はない。清美の漏らす切なそうな吐息だけが大きく響く。 
「はやく…ちょうだい……」
「お願いします、を付けろ。お前の大好きなやつだろ?」
 太った男──真司が右手に注射器を持ちながら、下卑た笑みを浮かべると、清美は潤んだ瞳で「お願いします…! もう我慢できないの…早く注射して……!」と懇願した。
 真司の持つ注射器の中には、覚醒剤を溶かした液体。
 真司はそれを、清美のペニスに突き刺した。びくん、と清美の体が跳ねる。小さな悲鳴が上がる。
 針を通って覚醒剤が流し込まれていく。清美の瞳からどんどん生気が失われ、正気を失っていく。
 その表情を見るたび、真司は興奮していた。他人の意志を自由にもてあそぶ悦楽。にやにや笑ってその様子を見ながら、清美の柔らかい腹を撫でた。薄い筋肉の下には、内臓。人間の中身を感じられる場所。
 真司のペニスが硬く張り詰める。清美の柔らかな体内に挿入しようと上体を起こすと、腹を撫でる指を清美の手がそっと包んだ。
 ちらりと視線をやると、清美が、視点の合わない瞳を潤ませて、真司を見つめている。
「ねぇ、今日はここに挿れて…」
 清美は自分の腹に真司の指を押し付けた。「ボク、知ってるよ。おじさんがボクのおなかを撫でるのは、本当は、ここに挿れたいからだよね…? おなかを裂いて、犯したいんだよね…?」
 清美の言葉に、真司はびくりと体を震わせた。
 その言葉は、真実を言い当てていた。

 真司が自分の異常な欲望に気が付いたのは、そんなに昔のことではない。

 容貌のコンプレックスから美しい物を望み、手に入れ、集めてきたが、それが何に繋がるのか自分でも良く分かっていなかった。美しい物を集めたからといって、自分の容貌が美しくなるわけではない。真司は、変わらずに醜いまま。何も変わらない。
 それなのに、どうして自分は美しいものに執着するのか。
 美術品を前に、美しい女を前に、真司は思い、考え、そしてある日、自然とその答えに行き当たった。
 答えは、ごく単純だった。

 美しい物を、

 壊して、

 しまいたかったのだ。

 美しさ、という、真司には決して手の届かないものを、壊し、陵辱し、辱め、醜い自分と釣り合うところまで墜としてしまいたかったのだ。
 それこそが、世の中の美しいものに対する、醜い自分からの復讐だった。

「じゃあ、そうして? おじさんに、そうされたいの。おじさんの好きなように、壊して、陵辱して、辱めて」
 清美は真司を見つめたまま小さく微笑む。真司はごくりと一つ唾を飲む。いつの間にか、清美の瞳に捕らわれて、視線を外せなくなっていた。
「し、しかし、それではお前は…」
 ひどく吃りながら真司は言う。優しい声が返ってくる。
「いいよ」
 清美の微笑みは崩れない。「ボクを殺して。死にたいの。ボクが生まれたあの日から、ずっと」
 清美は視線を外さずに、手探りでサイドボードの上に乗ったバスケットに手を延ばし、果物ナイフを取り出すと、ゆっくりと真司へ差し出した。
「だから、最後におじさんを気持ち良くしてあげる。おなかの肉でおじさんを締め付けて、柔らかい内臓でおじさんを包んであげる。気持ちいいよ、きっと。命を犯すのは、きっと、気持ちいいよ」
 真司は、清美の焦点の合わない瞳の中に吸い込まれていくような感覚を覚えた。頭のどこかでは少年の言葉に危険を知らせているが、意識の上にまで登って来なかった。頭の中がぼんやりしていく。思考が停止する。
 目の前の少年が誰なのか、ふと分からなくなった。
 いつからこの少年はここに居るのだろう。
 始めから居たような気がするし、居なかったような気もする。
 それどころか、ついさっきまで、この少年は存在していなかったような気さえした。
 この少年は誰だ?
 この少年は何者だ?
 ……分からない。
 何も分からなくなっていた。この少年の瞳の色は、最初からこんな色だったろうか。薄い銀の色。宇宙の闇に浮かぶ、荒れ果てた月と同じ色。思考の淵を溶かし、侵食し、狂わせていくかのような、こんな色をしていただろうか。
 少年の瞳が真司を捕らえて離さない。
 少年は目を細め、真司に向かって優しく微笑む。桜色の唇がゆっくり動いて、言葉を紡ぐ。

「ほら、好きにしていいんだよ」

 その瞬間に。
 真司の瞳から意志の色が消えた。
 真司は緩慢な動作で、少年の差し出したナイフを受け取る。
 ナイフの先を少年の腹に当て、皮膚の上を撫でるように滑らせる。滑らせたナイフの先は、へその上辺りで動きを止めた。
 一つ息を吸う。
 ナイフの刃を立てる。
 そして、少年の腹へ一気に突き刺した。
 少年の背中が弓なりに反る。
 ナイフは、驚くほどスムーズに人の肉を割った。
 真司は無言のまま。ぐっ、ぐっと、更にナイフを奥へと進入させる。その都度、少年の背は反り、悲鳴とも叫びともつかない短い声がその口から漏れた。
 真司はぞくりと体を震わせた。固く勃起していた。
 脈打ち、固く起立した性器は、射精が近いことを知らせてくる。ごくりと唾を飲み込む。
 早く挿れたいと思った。この美しい少年の体の中に肉欲を挿し入れて、内臓を犯し、血と精液で汚してしまいたいと。
 真司は少年の腹を左手で押さえ付け、一気に刺し込んだナイフを抜いた。
 赤い血が傷口から溢れ──

 溢れなかった。

 何かが溢れて来たが、それは血ではなかった。赤くはない。黒。黒だった。液体でもない。煤に似ていた。血ではない、別の黒い何かが少年の腹からざわざわと涌き出してくる。蟻塚を壊した後のように、黒く小さなモノが蠢きながら溢れてくる。少年の腹を黒く染めていく。
 真司は目の前の光景に驚愕し、「ひぃ!」と小さく叫んで、それでやっと意志を取り戻した。目の前の少年が誰なのか思い出した。
 慌ててベッドから転げ落ちる。床に尻餅をついたままずるずると後ろに下がる。
「清美…!」
 真司が少年の名を呼ぶ。清美は答えない。
 清美の腹から溢れた黒いモノは塊となり、ざざざ、と音を立てて清美の腹を伝い、シーツを伝い、ベッドを下りて床を走った。
 真司は情けない悲鳴をあげてさらに後ろに下がったが、逃げ切れるものではなかった。
 真司の足に纏わりついた黒い塊は、皮膚の上を走る。太股を走り、真司の突き出た腹を登り、胸でその動きを止めた。真司は慌てて黒い塊を手で払うが、落ちなかった。手応えがない。染みのように皮膚に張り付いていた。
 ベッドの上で、清美がゆっくりと上半身を起こすのが見える。
 清美は表情の無い顔で真司を見た。その瞳の色は、髪の毛と同じ、茶色だった。銀色ではなくなっていた。抑揚のない声で清美は言う。
「ボクはね、死ねないんだよ。死にたくても、死ねないんだ」
 清美は腹に開いた傷口に目をやると、そっと手を当てた。当てた手が下りた時には、初めから存在しなかったかのように傷口は消えていた。
「な、なんなんだお前は…!」
 驚いて、真司が叫ぶ。
 清美はにっこり笑う。「憑き物だよ」
「おじさんを、殺しに来たんだ」
 清美がそう言った途端、真司の胸に張りついていた黒い塊が動き出した。
 ざざざ、と、耳障りな音がする。
 なす術もなく見守る真司の視界の中で、黒い塊は一部は飛散し、また密集して、胸の上に広がった。意味のある形へと変わる。
 文字。
 それは、文字だった。 

 真司の胸には、『焼』の一文字。

「ねえ、真司さん」
 清美が微笑む。「あなたは、美しいものになるんだ」
 真司の耳が、ぶすぶすと肉が焼ける音を聞いた。胸の内側が熱い。胸に広がった文字から白煙が上がっていく。
「だって、炎は美しいから。人が原始の頃から見惚れてた、始まりの美だよ」
 焼けついて痛む胸をおさえようと手を動かした瞬間、真司の体は発火し、燃えた。
 一瞬のうちに火だるまになる。
 炎を吸い込んだ真司の口からは、もう言葉は出ない。白煙だけが口から溢れる。
 真司はふらふらと立ち上がって、炎を上げ、ゆらゆらと歩いていく。清美のそばへ。すがるように両手を伸ばしながら。
 清美は微笑みながら真司に駆け寄って、優しくその身を抱きしめる。
 炎が清美を燃やすことはない。
「綺麗だよ。浄化の炎を纏った真司さん、すごく綺麗……」
 火柱になって燃え上がる真司の胸に、清美は顔をうずめる。
「おめでとう、真司さん。ようやく、美しいものになれたね……」




 数分後。

 肉の焼けた匂いだけが、誰も居ない部屋に漂う。
 床には何かが焦げた跡。
 部屋には、誰も居ない。 

 アリス(1)

 どうして、こんなところに都合良く路地裏があったりするんだろう……。

 楠アリス(くすのき ありす)は、ぼんやりとそんなことを思った。世の中のすべてが自分に不利になるように出来ている気がして、ひどく憂鬱になる。
 見知った顔にこの路地に連れ込まれるまで、アリスは上機嫌だった。今日は日曜日で、義務で嫌々通っている中学校には行かなくていいし、外は気持ちのいい青空だし、何より、今日はアリスが楽しみにしていたゲームソフトの発売日だった。
 友達と呼べる人が一人もいないアリスにとって、テレビ画面に映し出される友情や、恋や、登場人物の葛藤だけが、アリスの孤独な心を慰めていた。アリスの手でふれることの出来る世界は、テレビ画面の中にしか存在しなかった。
 学校の中には、アリスがふれられるモノなど何もない。ただうつむいて、時間が過ぎていくのをじっと耐えるだけだった。うつむいていない時は、だいたい殴られているか、お金を脅し取られているか、その両方か、どれかだった。
 アリスは、ひどいイジメにあっていた。
 小学校を卒業して中学校に入ると、どういう訳だか不良グループというものがあり、クラスにも三人ほど不良グループに属している人間がいて、アリスはその三人に毎日のようにイジメられた。
 始まりは、男のくせに『アリス』という名前は変だ、というただそれだけの理由だった。不良という括りの人に共通する粗野な態度が恐かったし、アリス自身は金髪碧眼、名前に比例するように華奢であったから、その時は曖昧な態度をとった。
 思えば、それがまずかったのだと思う。気がつくと理由も無く殴られるようになった。持っていたスマホは壊され、お金を脅し取られるようになり、最近では、暴力で脅されて、不良たちのために万引きまでさせられるようになった。
 そんな人間と友達になろうなんて奇特な人はいない。
 アリスが中学校に入って一年と五ヶ月の間に、友達は一人も出来なかった。小学校の時に仲の良かった友人も、すぐにアリスの元から離れていった。
 アリスは、いつも一人だった。
 慰めてくれたのはゲーム以外にない。ゲームの中の世界だけがアリスに優しかった。
 日常的にお金は取られていくものの、それでも不良達の目を誤魔化してコツコツとお金を貯めた。なんとか今日の日に間に合うようにお金は貯まった。
 アリスは早起きして軽快な気持ちで街へ出かけ、そして、ばったりと会いたくない人に出会った。
「よぉ、アリスじゃねえか」
 アリスをそう呼んだ男は、名前を神竜 猛(じんりゅう たけし)という。丸坊主で、いかつい顔も恐かったが、まず名前が恐い。ヤクザみたいな名前だと思う。神竜と一緒にいた荻原 恭一(はぎわら きょういち)と沼井 隼人(ぬまい はやと)も、アリスを見るとにやにやと笑った。
 クラスの、アリスを苛めている人間が揃っていた。逃げる訳にもいかず固まってしまったアリスを、三人は飲食店と飲食店の間に出来た路地裏に連れ込んだ。アリスを壁に押しつける。
 路地裏は建物に日差しが遮られて薄暗く、さらに、これだけ奥の方に連れ込まれてしまっては、誰かが気づいて助けてくれることもないように思えた。絶望的な状況だった。
 ドン、と大きな音を立てて、神竜はアリスの顔の横に右手をついた。見事な壁ドンだった。恐怖しか感じない悪夢の壁ドンだ。
「アリスとこの辺で会うなんて運命的だなぁ。買い物か?」
 神竜が顔を近付けて言う。顔にかかった吐息がタバコ臭かった。アリスは答えない。顔を背けた。
 途端に、胸を殴られた。ごほっと息を吐き出して、アリスは反射的に体を曲げた。何度か咳き込む。神竜は、アリスの服を掴んで無理やり体を起こさせると、もう一度壁に押し付けた。
「俺らさぁ、遊ぶ金に困ってるんだよねぇ。持ってんなら貸してくれねえかなぁ。アリスちゃんはさ、金持ちだろう?」
 アリスは弱々しい声で、「持ってません…」と呟いたが、その程度の抵抗してみたところで結局無駄なことは知れた。どうせ、お尻のポケットに入った財布は抜き取られ、「あるじゃねえか」という言葉と共に、空の財布と拳骨が返されるに決まっているのだ。せっかく貯めたお金は取られてしまう。それを思うと、アリスは泣きたくなった。
「財布出せよ、アリス」
 神竜がアリスを睨み付けながら言う。取り巻きの二人はニヤニヤ笑っている。アリスが、諦めてお尻のポケットに手を延ばした、その時。
「アンタ、アリスっていうの?」
 場違いに明るい、女性の声が聞こえた。神竜達が振り向き、アリスもそちらに目をやった。見ると、路地裏の入り口の方から女性が一人やってくる。ローファーがアスファルトを踏む音が、建物と建物の間に反響する。
 薄暗くてよく解らなかったが、二十歳ぐらいの女性のようだった。特徴的な険のある目元。狼のようなキツい顔立ちだが、美人だ。地雷系と呼ばれ、る、黒地に白のフリルのついたワンピースがよく似合っていた。
 女性はにこにことアリスの方へ近づき、「アリスって、アナタね?」と聞いた。なんだかよく分からないままに、アリスは「そうです」と答える。
 途端に、女性は大きな声で笑った。「男のくせに変な名前ね! それ、漢字でどう書くワケ?」
「…カタカナです」
 アリスが言うと、女性は爆笑した。「あ、もしかして外国から来た人?」
「いえ、日本生まれ日本育ちです。日本語しか喋れません」
「ホントに面白い子ね! 気に入ったわ。お姉さんが助けてあげる」
 女性の言葉を聞いて神竜はアリスの服から手を離し、一歩前に出た。女性の正面に立つと、睨み付ける。
「変な格好のネエちゃんだな。イカレてんのか?」
「当然イカレてるわ。あと、この格好は地雷系っていうのよ」
 不敵に笑う。「地雷……いい言葉よね。地雷とか爆雷とか爆発、暴発、暴力、暴言、暴行……マリュ姉の好きな言葉だわ」
 ひるむことのない女性対して、神竜はさらに恫喝を強める。「うるせえよ! 怪我したくねえなら今すぐ失せな! 女だからって手加減しねえぞ!」
「同感ね。子供だからって容赦しないわよ」
 女性は短く言うと、神竜の右の膝をいきなりローファーのカカトで蹴った。「ぐっ」とくぐもった叫び声を漏らし、上体の揺れる神竜に、さらに容赦のないハイキックを叩き込む。パンチラも辞さない覚悟の、綺麗なハイキックだった。側頭部をしたたかに蹴られた神竜は、がっくりと膝をついた。
「いい位置ね」
 女性は冷たくそう呟いて、パンチラも辞さない覚悟の容赦のない前蹴りを神竜の顔の中心にめり込ませた。
 ミチッ、という、日常では聞き慣れない音がしたかと思うと、神竜は鼻血を吹きながらゆっくりと後ろに倒れる。女性は、どう見ても戦意を喪失している神竜を、さらにローファーのカカトで踏みつけた。それら全てが終わるまで、約十秒。女性は、信じられないぐらいに強かった。
 鼻を押さえて呻き声を上げる神竜を平然と踏みつけながら、女性は残りの二人に冷たい視線を送る。神竜が倒されるのを呆然と見ていた二人は、その視線に慌てて、やっと忘我から立ち直った。萩原が震える声で言う。
「こ、こんなコトしてタダで済むと」「思ってないわ」
 女性がふふん、と強気に笑う。「それに、済まそうとも思ってないわ。先に言っておくけど、謝っても許すつもりなんか微塵も無いからね」
 女性がそう宣言した後は、地獄絵図だった。
 アリスとそう変わらない華奢な体つきだというのに、女性は出鱈目なぐらい強かった。蹴り上げ、殴り飛ばし、踏み付ける。容赦のカケラもなかった。女性はどう見ても大人だというのに、子供相手に手加減をしたりなどしなかった。
 アリスは目の前の光景をぼんやりと見つめながら、『獅子は兎を倒すにも全力を尽くす』ってこういうことなのかなぁと思った。
 しばらく呆然と女性の鬼神のごとき所行を見ているうちに、さすがにやりすぎだと思い始めた。「もう許してください…」と流血しながら必死に哀願する沼井を、女性は自分の宣言した通りに、気にせず蹴り飛ばしていた。あんまりだと思った。放っておくと殺しそうな勢いだった。
 アリスは、「も、もういいですから! 行きましょう!」と慌てて叫んで、抱きつくようにして女性を路地裏から引っ張っていった。
 女性は後ろ向きにアリスに引きずられながら、ぐったりと地面に横たわる三人に、「次に会ったら覚えてなさいよ! その程度じゃ済まさないから!」と吐きかけた。まだやるつもりらしい。鬼のような人だ。なんて人に僕は助けられちゃったんだろう……、アリスは思う。
 路地裏を抜けて明るい所まで出ると、アリスはしどろもどろにお礼の言葉を告げた。
 女性はアリスのぎこちない言葉ににっこりと微笑むと、「いいのよ。気にしないで」と優しく言った。その表情はとても柔和で、どきっとするぐらい綺麗だった。理由もなく、本当は優しい人なんだろうなぁとアリスは感じた。
「あ、あの、本当にありがとうございました」
 アリスが、もう一度お礼を言ってペコリと頭を下げる。女性は優しい声で言う。
「気にしなくていいってば」
 にこりと微笑む。「どうせ、売った恩は今すぐ返してもらうんだから」
 女性の言葉に、アリスの表情が引き攣った。
 なんだか、すごく嫌な予感がした。


 あれからすぐに、アリスは強引に近くの喫茶店に連れ込まれた。
 本当はなんとか理由を付けて帰りたかったのだが、助けられた手前、帰るわけにもいかなかった。恩の押し売りだとアリスは思った。
 女性は、アリスの分まで勝手にコーヒーを注文してウェイトレスを下がらせると、「剛田マリュ子よ。マリュ姉でいいわ」と気さくに名乗った。
 変な名前だと思ったが、名前についてはアリスも似たようなものなので口にしなかった。助けられた時に、アリスの名前を「気に入った」と言ったのは、そのせいだったのかも知れない。
 アリスが、
「お強いんですね。あの、マリュ姉さんはどういう職業の人なんですか」
 と興味本意で聞くと、
「Vtuber、宝船マリュン12歳パイレーツよ。船長とお呼び」という答えが返ってきた。
 無理がある。
 そのキャラで収益化は無理がありすぎる。
 すごく嘘くさかったが、それを指摘すると怒られそうなので何も言わなかった。
 アリスが保身のために沈黙していると、ウェイトレスがコーヒーを二つ持ってきてテーブルに置く。
 マリュ姉はコーヒーカップを手元に引き寄せると、アリスの顔をじっと見て、
「アナタ、強くなりたいと思ったことはあるかしら」
 と切り出してきた。
 通信教育で格闘技グッズなどを買わされるのだと本能的に判断したアリスは、「えと、僕、お金持って無いから、高い教材を買わされても払えないです。それに、お母さんと相談しなきゃ」と答えた。
「バカ! なんでマリュ姉が子供相手に勧誘商法をしなくちゃいけないのよ! それに、そんな回りくどいことをしてお金を巻き上げるぐらいなら、最初から素直にカツアゲするわ!」
 怒りだすマリュ姉。
 マリュ姉は気を落ち着けるようにコーヒーをブラックのまま一口飲んで、続けた。
「そういうんじゃないの。アンタ、あの不良どもを倒せるぐらい、いいえ、あいつらがアンタに喧嘩を売ろうとも思わなくなるぐらい、強くなりたいとは思わないの?」
「えと、それは空手か何かの道場に入れってコトですか」
 アリスが言うと、マリュ姉は険のある表情をして、テーブルをコツコツと人指し指で叩いた。
「だから、そんなんじゃないんだってば! マリュ姉は今、イエスかノーかのシンプルな答えを求めているの! さぁ、どっち!? ちなみに、ノーって言ったら殺すわよ!」
 マリュ姉が大きな声で喚くので、周囲のお客さん達がこちらを見つめていた。アリスは周囲をきょろきょろと見渡してから、小さな声で「強くなりたいです」とポツリと言った。殺されたくなかった。
 マリュ姉が満足そうに頷く。「そう。それでいいのよ」
「でも僕、格闘技とかきっと出来ません。体つきだって、いい方じゃないし…」
 アリスが言うと、マリュ姉はニヤリと笑った。
「問題ないわ。マリュ姉がアンタに紹介するのは格闘技なんて野蛮なモノじゃないの。そもそも、体を使った力には限界があるわ。アナタ、その体ひとつでアメリカ軍の一個小隊と戦える?」
「…無理だと思います」
「でしょ? そこで、今の時代は憑き物が熱いのよ!」
 アリスには、その熱さが分からなかった。「憑き物? 憑き物って、あの、犬とか狐とかですか」
「そうよ」
 マリュ姉は自信たっぷりに答えた。「憑き物さえ使えれば、アナタみたいな貧弱な坊やでも強くなれるわ」
「帰ります」
 立ち上がった瞬間、テーブルの下でマリュ姉に脛を蹴られてアリスは再度座り込んだ。
 痛む脛をさすりながら、胡散くさい話だとアリスは思った。憑き物なんて迷信か何かだと思う。そんな物、あるはずがない。アリスが素直にそう言うと、マリュ姉は露骨にアリスを馬鹿にした表情を浮かべた。
「バカね。アンタみたいに、見る前から現実を決めてかかる愚鈍な人間ばかりだから、憑き物使いがのうのうと陰で暗躍してるんじゃないの」
「…本当にあるんですか。そういうの」
「あるのよ。アンタ、弟子入りしてきなさい」
 唐突な命令だった。アリスは一瞬、何を言われたのか分からずにきょとんとした。
「どうせ、話を聞いたって信じられやしないんだから、実際に見てきなさい。百聞は一見にしかずよ。そこは、美少年を他人に憑ける筋よ。犬や狐の代わりに、美少年を使うわ」
 さらに胡散くさい話になった。
 美少年を憑けるなんて聞いたことがない。
 仮にそれが出来たとして、美少年など憑けてなんになるというのだろう。そう思ったが、まずアリスが否定しなければいけなかったのはそこではなかった。
「えと、別に見てくるのは構わないんですけど、その、弟子入りってなんですか…?」
「弟子入りったら弟子入りよ。強くなりたいんでしょう?」
「そりゃあ、なりたいですけど…」
 歯切れの悪い返答をする。アリスの煮えきらない態度を見て、マリュ姉は不機嫌な顔をしてテーブルを拳でガツンと叩いた。コーヒーカップが受け皿の上で揺れて、ガシャンと音を立てた。
「じゃあ行くの! いいわね!」
「は、はいっ!」
 思わず返事をしてしまう。マリュ姉は一転して笑顔を作ると、「気持ちのいい返事ね」と笑った。アリスは、少しだけ泣きたい気分になった。
「とにかく、行って弟子入りしてきなさい。それが無理でも、どうやったら美少年使いになれるのか、とか、出来るだけ多く美少年使いの情報を探ってきなさい。マリュ姉じゃガードが堅くて聞き出せないのよ。その点、アナタなら」
 マリュ姉はじろじろとアリスの顔を見つめた。「アナタなら、まぁツラは合格ね。あの男の好みだと思うわ」
「え? なんですか好みって」
 マリュ姉の台詞に不安なものを覚えて問い返すと、マリュ姉は「なんでもないわ。気にしないで」とさらりと言った。「言うと、アナタが行きたくなくなるだろうから言わないわ」
 その台詞だけで充分行きたくなくなった。
「…あ、あのっ!」
 このまま流されるとひどく良くないことになりそうなので、アリスは必死に、喉の奥から拒否の言葉を吐き出した。
「僕、やっぱり行きたくないです!」
「なによ」
 マリュ姉は低い声でそう言うと、アリスを睨みつけた。とても恐い顔だった。「まさか、行きたくないなんて言うんじゃないでしょうね?」
「………………。」
 たった今、「行きたくない」と言った筈だった。
 が。
「そんなコト言ってません! 行きます!」
 反射的にそう言ってしまった自分に、アリスは自己嫌悪した。
 マリュ姉は、「そうよね」とにっこり笑う。「一応先に言っておくけど、マリュ姉のお願いを断ったらひどい目に合わすわよ。アリスくんは、あの男のところに行ってひどい目に合うかもしれないのと、今ここで、確実にマリュ姉にひどい目に合わされるのと、どっちが好みかしら?」
 そう言われては断れるはずもない。アリスは、本格的に泣きたくなった。

 アリス(2)

 別れ際、マリュ姉から携帯電話を一台貰った。黒いハート型のバッグの中から掴み出された6台の携帯電話の中の一つだ。
「これ、使ってないからあげるわ」
 差し出された電話は、スマートフォンが主流の時代とは逆行したストレートタイプのガラケーで、いつ発売されたのか分からないぐらい古い機種だった。
「GPSがついてない、っていうのと、自分の名義じゃない、っていう部分が重要なのよ。私みたいな仕事をしてるとね」
 はい、どうぞ──とマリュ姉が電話を差し出すので、
「いりません」
 アリスはきっぱりと断った。危険を感じたのだ。知らない人から怪しい物を貰ってはいけない。
 マリュ姉が怖い顔で睨む。
「いります」
 怖すぎて受け取ってしまった。
 一緒に、住所が書かれた紙を貰った。憑き物使いの男の住所だ。
 行って、聞き出した事をマリュ姉に報告しなければいけないらしい。「裏切りは死を意味するわよ」とマリュ姉が怖い顔で言ったので、絶対に裏切れない。
 紙に書かれた住所は、少し遠い場所だった。同じ市内だが、郊外にある。走り書きで男の名前も書かれている。小鳥遊陽介、というのが男の名前らしい。小鳥遊という名字は、どう読むのかアリスには分からなかった。
 特殊な読み方だろうか。
 紙に書かれた住所の近くまでバスで移動し、あとは、電柱に張り出された番地をたよりに徒歩で進み、さほど迷う事もなくアリスは目的の場所に辿り着いた。
 そして、戸惑った。
 ここは、山だ。
 山の斜面の、入り口だ。
 進んでいるうち、民家が少なくなった辺りから不安に思っていたことが的中した。
 目の前には、うっそうと茂る木々と、舗装されていない土の道路。
 坂になっていて、上まで続いている。
 雑草が地面を覆っていたが、あきらかに人の手が加えられた痕跡があるので、ここが目的地への入り口であるはずだ。
 アリスは意を決して坂道を上り始めた。
 歩いてみると、雑草の上に、車一台分の轍があることに気づく。
 木々を見上げながらしばらく歩くと、急に開けた場所に出た。

 そこには、大きな日本家屋のお屋敷があった。
 憑き物、なんて言葉を聞いていたせいだろうか、宗教団体の集会所のような印象も受ける。
 それぐらい大きな建物だった。

 その大きなお屋敷が、長く続く黒い塀で囲まれている。
 木造の門があり、見上げると『小鳥遊』と彫られた表札が掛けてあった。普通の家だと思っていたアリスは、予想外に大きな建物に後込みし、もう帰ってしまいたくなった。
 気軽に入れるたたずまいではない。
 だが、ここで帰る訳にもいかない。マリュ姉の恐い顔を思い出して、アリスは一つため息をついた。
 よく考えてみると、知らない人の家に何と言ってお邪魔すればいいのだろう。突然「弟子入りしにきました」で話は通じるのだろうか。
 どう考えても気乗りしない。
 やはり帰りたかったが、このまま帰るとマリュ姉にひどい折檻をされるに決まっているのだ。神竜たちがボコボコにされていた場面を思い出すと、恐怖しか感じない。
 アリスは観念して、自分を勇気付けるように大きく息を吸うと、「よしっ」と呟いた。
 門は開いている。
 何も考えないようにして門をくぐり、小さな公園ほどもある前庭を抜け、玄関の前に立つ。チャイムがあったのでチャイムを押した。中の方でピンポーンと電子音が鳴るのを聞いた。インターフォンはなかったので、そのまま格子戸を横に開き、中に入ろうとして──

 アリスは、びくりと身をすくませた。

 開けた玄関の土間の向こう、一段高くなった床の上に、アリスを出迎えるように等身大の日本人形が置かれていた。まるで生きているかのようにアリスを見つめている。

 美しい──

 と、アリスは感じた。
 前髪を眉のラインでカットしたさらさらの長い黒髪、白粉をはたいたような白い肌、紅を引いたように赤い唇。身に纏っている緋色の着物。完璧な造形だった。日本人の美意識が、人の形をしてそこにあった。
 アリスは、目の前の精緻な人形を凝視しながら玄関に一歩足を踏み入れる。
「おやおや。子供が一人でこんなところに何用さね?」
 突然、男とも女ともつかない澄んだ声が聞こえた。その声に、アリスはまたも体をびくりと震わせた。声は、目の前の人形が発したように見えた。目の錯覚だろうか。声に合わせて、唇が動いたように見えた。
 アリスがじっと人形の顔を見つめていると、人形は小首を傾げて怪訝そうな顔をした。
「僕の顔に何か付いてるかい? それとも、君は言葉を喋れないのかね?」
 ああ、動いている。
 アリスは思った。
 この人形は動いている。
 喋って、動いているのだからそれは人間であるはずで、けして人形ではないのだが、アリスは人形が動いているのだと思った。目の前の人を人間だと思うには、あまりに命の匂いがしなさすぎた。倒せば、その白い肌は陶器のように割れて、砕けてしまいそうだった。
 ぼんやりと人形に見惚れていると、人形は困った顔をした。
「もしかして、知能が少々足りないのかねェ…。良く見れば、確かに惚けた顔をしてるじゃないのサ」
 人形はふむ、と呟く。「ホウキか何かで、叩いて追い返した方がいいのかねぇ…」
 人形が動き出そうとしたので、アリスは慌てて「あ、あの!」と声を上げた。このままでは、ホウキで叩かれてしまう。
 人形はアリスに視線を合わせると、「なんだ、喋れるんじゃないのサ」と呟く。
「それで、なんの用だい?」
「あの、えーと、その…」
 なんの用かと聞かれて、アリスは戸惑う。どうやって説明しようか慌てて考えたものの、結局口にしたのは、「弟子にしてくださいっ!」という短い言葉だった。
 人形は、驚いた顔をした。
「僕は弟子を取るつもりなんかないんだがねぇ。それに、弟子ってなんの弟子だい? 僕の仕事は、まぁ、陽介さんのために食事を作ることなんだが、それは調理師見習いになりたいってコトかね? 確かに、じゃがいもの皮剥きを手伝ってくれると助かるんだけど」
 アリスの言葉は、少なすぎてやはり伝わっていなかった。アリスはまたも慌てて言う。「ええと、陽介さんの弟子になりたいんです!」
 アリスが言うと、人形の顔から表情が消えた。何も言わず、半眼でじっとアリスを見る。その視線に、アリスは慌てながら説明を始めた。
「ええと、マリュ姉って人が、あ、その、剛田マリュ子ってお姉さんなんですけど、その人が、陽介さんが憑き物を使う人だから弟子入りして来いって」
 アリスは人形の表情をうかがったが、人形は何も言わなかった。「それで、ここまで来たんですけど…」
 やはり、人形は何も言わなかった。なんの返事も返ってこないので、アリスは不安になった。思えば、自分はとても見当違いなことを言っているのかも知れない。
 マリュ姉に脅されてここまで来てみたものの、そもそも、常識に照らし合わせるに、憑き物なんてあるはずがないのだ。
 よくよく考えてみると、自分はマリュ姉という知り合ったばかりの人の言葉を、どうして真に受けたりしたのだろう。
 いや、始めから真に受けたりなんかしていなかった。ただ、脅しに屈してここまで来て、常識的じゃない言葉を並べてみてるだけなのだ。言われた方にしたって、それは返答に困るだろう。
「そう…ですよね。そんなもの、ないですよね。ごめんなさい、変なことばっかり言って」
 アリスの声はだんだん小さくなっていく。涙目になる。「分かってるんです。イジメなんですよ、多分これも。僕はいつも、こうやってイヤなことをやらされてばかりなんです。いいです。ごめんなさい。もう帰ります」
 アリスは消えそうな声でぼそぼそとそう言うと、ぺこりと頭を下げた。帰ろうとすると、目の前の人形はおかしそうに笑った。
「僕はまだなんにも言ってないじゃないのサ。一人で慌てたり謝ったり、変な子だねぇ。いいよ、陽介さんに弟子入りしたいんだろう? ついておいでよ」
 人形がアリスに背中を向けて歩き出した。アリスは靴を脱ぐと、慌ててその背中を追う。
 どうやら話は通じたらしい。ということは、まるっきり騙された訳でもないみたいだ、アリスは思う。
 本当に、憑き物使いがこの屋敷にいるのだろうか。確か、マリュ姉は美少年を使うと言っていた。緋色の着物の背について歩きながらそれを思い返して、アリスは妙に納得した。
 例えば、この目の前を歩く人形。この美しい人形(性別は分からないが、多分少年なのだろう)にならば、アリスは取り憑かれてもおかしくないと思った。実際、アリスは少年を一目見た瞬間に惚けてしまった。なるほど、美少年は人に憑くのだ。
 そんな事を思いながら少年の背中について歩いていくうちに、いつの間にか縁側に出ていた。庭が見える。
 庭は、荒れ果てていた。元は立派な庭だったのだろうが、今は草が伸び、木が伸び、池は枯れ、荒れ放題だった。少し遠くに黄ばんだ蔵が見える。その蔵も、使っている人がいるのか疑問に思うぐらいに打ち捨てられていた。
 この屋敷の主は庭が嫌いなのだろうか。それとも、ただの不精なのだろうか。
 ふと、着物の背中が止まった。庭を見ながら歩いていたアリスはぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
 和装の少年は、閉め切られた襖の前に立つと、「陽介さん、入るよ」と中に声を掛けた。途端に襖がすぅっと開く。
 不思議な光景だった。少年は、襖に手を掛けてもいない。襖は、自然に開いた。中から開けたのだろうか、そうも思ったが、それならば襖を開けた人物の顔が見えなければおかしい。部屋の中まではアリスの位置からでは見えなかったが、襖を中から開けたのなら、その人物の顔ぐらいは見えるはずだ。アリスには誰も見えなかった。
「お客さんを連れてきたよ」
 少年は部屋の中に声を掛けると、一歩引き、脇に身を寄せた。中に入るよう、アリスに無言で伝える。
 アリスは、すすめられるままに中に入った。入ると同時に、背中の方で襖が閉まる音を聞いた。
 部屋の中は、六十畳ぐらいの広さだった。天井も高い。お寺の講堂のようだ、とアリスは思った。
 屋敷の主は牡丹模様の衝立を背にして、座布団にあぐらをかいていた。黒一色に染められた着物。なにもない広い空間の中で、闇がぽつんとうずくまっているように見えた。
 主はアリスの顔を見ると少々驚いた顔をして、「これはまた珍しいお客さんだね」と独り言のように言った。
「まぁ、そんなところに立ってないで座りなさい。オレになんの用があるのか聞こうじゃないか」
 主はそう言うと、上半身だけ後ろを向いて、何故だか背中の方に積んであった座布団を手に取り、自分の正面に放った。
 アリスは座布団の放られた所まで歩くと、座布団の位置を真っ直ぐに直してから座る。
「小鳥遊陽介だ。陽介でいい」
 主はアリスを正面から見ると、そう挨拶した。その時初めて、『小鳥遊』が『たかなし』と読むのだと知った。アリスはぺこりとお辞儀すると、「楠(くすのき) アリスです」と名乗った。
 頭を上げると、アリスは屋敷の主をまじまじと見た。
 陽介と名乗った男は、アリスとそう変わらないぐらいに痩せていた。身長はどうみても陽介の方が高いから、華奢というよりは痩せぎすといった感じだった。癖のある長めの髪を後ろで一つに束ねている。年の頃はよく分からなかったが、多分二十歳前後だろうと思う。この人が憑き物使いなんだろうか。
「それで? アリスくんは一体オレになんの用だね?」
 陽介が問う。アリスは、しどろもどろにここまで来た経緯を説明した。何度もつっかえながら説明し、話が終わると、陽介は酷く嫌そうな顔をした。「それで君は、馬鹿正直にこんな所まで来たのかね」
 陽介は一つため息を吐く。「君は、知らない人についていっちゃいけないと習わなかったのか」
 アリスは、陽介の言葉に「一応習いましたけど…」と曖昧な返答をした。陽介はアリスを軽く睨んだ。
「じゃあ、どうしてマリュ姉なんかについて行ったんだ。しかも、よりにもよって一番ついていってはいけない人に」
「それは」
 アリスは口を挟む。「僕はイヤだったんだけど、無理やりに…」
 アリスの言葉に、陽介は大げさにため息を吐いた。
「まぁ、気持ちは分からないでもない。オレも先日、無理やり買い物に付き合わされて荷物持ちをした」
 同情するように言って、陽介はアリスから視線を外した。顎に手を当てて斜め下を見る。「それにしてもあの女、憑き物筋の存在を明るみに出ないようにするって約束を忘れてるんじゃないだろうな」
 独り言だった。しばらくの無言の後、陽介は「……ん?」と呟いた。何か思い当たったようだった。視線がアリスに戻る。
「アリスくん。君はあの女から、憑き物筋の秘密を聞き出すように言われているだろう」
 アリスは返答に困った。その通りなのだが、それは言ってしまってもいいのだろうか。マリュ姉の恐い顔がアリスの頭の中をちらついた。
 アリスが困ってもじもじしていると、陽介はアリスの心を見透かしたように言った。
「あの女に義理立てするなんて無意味だぞ。君がいくらあの女に尽くそうとも、あの女は鼻にもかけない。報われない思いをするだけだ」
 陽介はそう言うと、にこりとアリスに笑いかけた。「大丈夫。君に危害が加えられないよう、マリュ姉にはオレから言っておいてあげよう」
 陽介はアリスを見据える。「君は、オレのことを探るようにマリュ姉から言われてるね?」
 アリスは陽介の笑顔を見て警戒心を解き、ゆっくりと頷いた。「そうです」
「やはりそうか…」
 呟くように言って、陽介は視線を足元に落とした。「それでわざわざ少年を選んで送ってきたか」
 少々困った顔をする。「マリュ姉には誤解されてる節があるからなぁ…。と、それにしても、オレを最低だと罵った人間のやることとは思えないな。これでは言ってることとやってることが違う」
 マリュ姉の倫理感なんて目的の前にはないに等しいか──陽介は憎々しげに呟いて独り言をそう結ぶと、アリスに視線を合わせた。「君はもう、帰っていいよ」
「…え?」
 思わず情けない声が出る。アリスは戸惑った。「あの、それってどういう…?」
「オレは弟子をとるつもりがないし、君に秘密を打ち明けるつもりもない。だから、君がするコトは何もない。そもそもこれは、憑き物筋の秘密をあの女に打ち明けないオレに対する脅しみたいなもので、君はいいように使われただけだ。もう帰ってしまっていい。帰って、何も教えて貰えなかったと報告するがいい。君がマリュ姉から与えられた役目はことに来ること自体で、秘密を探れるかどうかは二の次だから、そんなに怒られることもないだろう」
 陽介は長い台詞を流暢に言い終えると、口をつぐんだ。もう、何も言うことはないらしい。
「あ、あの…」
 アリスは声を上げる。陽介とマリュ姉はそれでいいのかも知れないが、苦労してここまで来たアリスにしてみれば、何も聞かずに帰らされてしまうのでは寂しすぎる。それに、あの和装の少年を見てからというもの、憑き物使いというのに少々興味も出てきていた。
「よく分からないんですけど、陽介さんは美少年を使うんですよね?」
 アリスは陽介の顔をじっと見る。「じゃあ、さっきの着物の子って憑き物なんですか?」
「そうだ」
 陽介がぞんざいな返事を返す。「アレは、見かけよりもずっと恐ろしいモノだぞ」
 美しいモノにはトゲがある、というコトだろうか。
 アリスには、あの少年の恐ろしい姿がまったく想像できなかった。あの少年ならば、恐い顔をしていても美しいと感じるだろうと思った。
「恐ろしいって、強いってコトですか」
 アリスはそう言ってから、言葉を選ぶ。「例えば、その、アメリカ軍の一個小隊と互角に戦えるぐらいに強かったりしますか」
「アメリカ軍? なんだいその変な例えは」
 言って、陽介は顎に手を当てて少々考え込む。「一個小隊ぐらいまでならアレの方が強いだろうな。まぁ、その時はとても人には見えない姿になっているだろうが」
「…人には見えない?」
 分からなかった。言葉だけを聞くなら、あの少年は体の形が変わるということになる。だが、そんなことは常識的に考えてあるはずがないのだ。それは人間の範疇を越えている。陽介はあの少年のことを憑き物だと言ったが、人間と憑き物は違うものなのだろうか。
 やはり、アリスには分からなかった。
 まず、憑き物という存在についてアリスは何も知らない。アリスの頭の中では、美しい人がイコール憑き物と呼ばれるのだと認識されていた。極めて常識的な思考の元に、憑き物という存在が構成されている。
「君には分からないだろうね。アレの本当の姿は君の常識の埒外だ。常識を越えてひどくおぞましく、そして、ひどく強い。呪いだよ。現実の物理法則に干渉してくる呪い。だから強い」
 陽介はそう結ぶと、アリスにぞんざいな視線を寄越して「さぁ、もういいだろう。秘密の開示はここまでだ。はやく帰りなさい」と投げやりに言った。
 アリスは、動かなかった。逆に、がばっと勢い良く土下座した。「お願いします! 僕を弟子にしてください!」
 一瞬の沈黙が流れた後、アリスの頭の上に「冗談じゃない! お断りだ!」という怒号が落ちた。
「オレは弟子をとらないと言ったはずだ! お前は美少年使いがどういうモノなのか知らないから、そんな安易なことが言えるんだ! いいから帰れ!」
 本気で怒っている。自分の発した言葉が相手の逆鱗に触れた。
 陽介の怒声に身がすくんだが、アリスは引き下がらなかった。ここで逃げてはいけないと思った。ここで逃げてしまえば、また明日からイジメられる日常に埋没してしまう。畳に額を擦り付けながらアリスは懇願する。
「僕は、学校でイジメられています。毎日、殴られ、蹴られ、脅されて、泣いてばかりです。悔しいです。力が欲しいです。アイツらを見返してやれるだけの、強い力が欲しいんです!」
「そんなのオレの知ったことか。それに、そもそも君には無理だ!」
「無理かどうか試してください! お願いします! どんな辛い修行にだって耐えてみせます!」
 アリスが叫ぶと、不意に長い沈黙が生まれた。不穏な空気を感じとる。しばらくの間の後、「…ふぅん」と陽介の冷たい声が聞こえた。
「顔を上げなさい」
 静かな声だった。アリスは体を起こし、陽介を見た。陽介は、小さく笑っていた。だが、アリスには、とても冷たい笑みのように見えた。
「いいだろう。君を美少年使いにしてあげよう」
「ホントですか」
 ああ──陽介はゆっくり頷いた。「君の適性を知りたい。少し、質問させて貰っていいかな」
「はい」
 返事を返す。
「君は、イジメられてると言ったね」
「はい」
「それは、性的なイジメも含まれるのかな」
「…は?」
「だから、皆の前でセックスを強要されたり、その体を性欲処理のはけ口に使われたりしているのかと聞いている」
「そ、そんなこと…」
 アリスは少し憤慨して言った。「そんなことをされるぐらいなら死にます!」
「結構」
 陽介は笑う。「そうでなくてはな。おめでとう。君は合格だ」
 静かな声でそう宣言すると、陽介は座布団から起き上がり、膝立ちでアリスの目の前まで近づいた。
 間近で陽介の視線を受け止めて、アリスは自分の体が強ばるのを感じた。恐かった。陽介の視線は、初めて見るタイプの視線だった。神竜のする、恐怖で人を支配しようとする視線でもなく、クラスの人のする、憐れみの混じった視線でもなく、まるでどうでもいいモノを見るような、感情の感じられない視線だった。陽介の感情が読めない。それが恐かった。
「君は、どんな修行にも耐えると言ったね」
 陽介の手が、そっとアリスの頬を撫でた。アリスは、びくりと体を震わせた。言葉が出ない。唾液を一つ飲み込む。言葉も無いままに、陽介の茶色い瞳をじっと見つめる。良くない事が起こりそうな予感がした。
 すぅっと陽介の顔が動いたかと思うと、いきなり唇を塞がれた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。息が出来なくなって、陽介と極近くで視線が合って、それでようやく、自分がキスされているのだと認識した。思わぬ出来事に呆然とする。
 頭の中を、マリュ姉が言った『まぁ、ツラは合格ね。あの男の好みだと思うわ』という言葉が駆けた。アレはこういう意味だったのかとやっと理解する。理解した途端に、アリスは慌てた。
 慌てて陽介の体を突き飛ばすと、座り込んだまま足と手を動かして、半円を描くように陽介の背中の方へ移動した。衝立を背にして、アリスと陽介の位置が入れ替わる。
 陽介はゆっくりと振り向くと、感情の伴わない顔で「師匠を突き飛ばすなんてひどいな」と言った。
「ど、どうしてこんなこと…」
 唇の感触の残る口を、アリスは手の甲でぐいと拭いた。「こんなの、修行と関係ないじゃないか!」
「関係ないどころか、これが修行だよ。君が耐えてみせると言ったモノだ」
 陽介は平然とそう言い切って、膝立ちのまま一歩アリスの方へ近づいてくる。「さぁ、逃げないで」
 アリスは慌てて、座り込んだままずるずると後ろへ下がった。体を下げるために後ろへのばした手は、陽介が座っていた座布団の上に置かれた。
 慌てていたせいか、座布団がずるりと畳の上を滑る。
 アリスは転倒しそうになり、急いで手を引き戻して畳につけた。つけた途端に、手の平が畳に触れる感触に違和感を覚えた。
 思わず視線を手に移す。陽介の座っていた座布団で隠れていた場所、手の下の畳は、歪んだ楕円の形で黒く変色していた。手をどけてよく見てみると、そこだけ畳が焼け焦げているのだと知れた。
「父親だよ」
 陽介の声が聞こえた。視線を陽介に合わせる。
「そこで死んだんだ」
 陽介が口元だけで笑う。冷たい声。「オレの父親は、その場所で、焼けて、焦げて、死んだんだ」
 その言葉を聞いた途端、アリスの背に悪寒が走った。
 ぞっとした。
 この人は今まで、自分の父親が死んだ場所に平然と座っていたというのか。
 初めて心の底から恐いと思った。陽介の冷たい視線を受けて、体が動かなくなる。この人は、自分とは住んでいる世界が違う。ズレている。憑き物とそれを使う人の住まう、日常とは少し離れた世界。アリスには想像もできない。理解できないモノには恐怖を感じるのだと、アリスは初めて知った。
 陽介が目前まで迫る。アリスは動けない。陽介の右手が首に掛かる。力が加わって、アリスは、そのまま押し倒された。首に掛かった陽介の右手に両手を添える。畳から見上げる視線の先には、陽介の醒めた瞳。
「君に、美少年使いになる方法を教えてあげよう」
 陽介は自嘲気味に笑った。「この部屋に来る途中、庭にある蔵を見たね? オレは子供の頃、あの蔵の中にいた。あの蔵は地下室に通じていてね。気が狂うぐらいに真っ白な部屋があるのさ。オレはそこに首輪で繋がれ、閉じ込められた。待っていたのは性的虐待さ。父親からのね」
 そう言うと、陽介はちらりと畳の焦げ跡を見た。独り言のように呟く。「…オレが殺した」
 視線をアリスに戻すと、続ける。「一日中真っ白な部屋に閉じ込められ、誰とも口を聞くことを許されず、ただ暴力を受け続けていると、だんだん自分というものが分からなくなってくる。耐え切れない虐待に、時間の感覚さえなくなって、自分が消えていく。自分と他人の境界が消えていく」
 陽介はそこで言葉を切った。「子供の頃に性的虐待を受けた子供が、その後に解離性同一性障害、いわゆる多重人格になるって話を聞いたことは?」
 アリスは答えない。陽介は続ける。「つまりはそれさ。二つに割れる。決定的に自分というモノが分からなくなると、自分以外のものが目を覚ます。その時、ふと意識が繋がる。自分が誰なのか分からないままにね。あの台詞を言ったのは、オレだったのかアイツだったのか、オレには分からない。でも、その瞬間に全て理解するのさ。自分に与えられた暴力の意味をね。全てはそれを産み出すために行われるんだ。それはオレの耐え切れなかった心の傷を受け入れて、産声さえ上げずに産まれててくる。心が二つに割れた後は、ミチミチと不快な音を立てて、分裂するように体も二つに割れる。それが、お前の欲しがっている力、憑き物さ」
 陽介は乾いた声で小さく笑った。「主から生まれ、主に憑く、一生逃れることのできない永遠の憑き物」
 アリスの首に掛かった右手に力が入る。陽介の視線がアリスを射すくめる。
「さぁ、アリス。お望み通り君を美少年使いにしてあげよう。あの蔵に閉じ込められ、オレの与える陵辱に耐えるがいい。お前が耐え切れなくなったその時、アレは生まれる。そして知るのさ。美少年使いは、ただ自分が産み出した憑き物に取り憑かれてるだけだってことにね!」
「や…」
 やっと声が喉から漏れた。その勢いでアリスは叫ぶ。「やだぁ!」
 陽介の右手を振りほどく、突き飛ばす、起き上がり駆ける。
 もう何も考えられなかった。目の前の男がただ恐かった。襖を開け、縁側に飛び出す。脇目もふらず逃げ出した。日の落ちかけた空が照らす茜色の縁側を抜け、廊下を抜け、アリスは必死に屋敷から飛び出した。
 背中も見ずにひたすらに家への道を駆け続けたアリスには、自分が屋敷の門をくぐり出た後に、無人の門の扉が音もなく閉まった事など、知るよしもなかった。



「……お戯れを」
 和装の少年は、アリスに突き飛ばされたまま畳の上に仰向けに寝転がる陽介の頭を、正座して折った自分の太股に乗せた。
「あの子にはどうしたって僕らを産み出すことなんて出来ないじゃァないのサ。あの子は小鳥遊の血族じゃない。心を割ってもただ気が触れるだけさ。里桜くんとは違うよ」
「分かってるさ」
 陽介は上から覗き込む和装の少年の顔を見つめる。「美少年使いになりたい、なんて、純心な顔で言うから、少し腹が立っただけさ。分かってる」
 ぜんぶ分かってるさ──、と続ける。「あの子は血族じゃない。でも、里桜は血族だった。だからオレが美少年使いにした。最低だ。それがどういうことなのか、よく分かっていたというのに」
「まだあの時のことを悔やんでいるのかい? あれは仕方のないことだよ。詮方ないサ。どうせ、里桜くんは貴方がそうしなくてもいずれ割れたよ」
「割らずに済む方法だってあったはずなんだ!」
 陽介は顔をしかめる。「里桜が血族でさえなかったら、オレだって、わざわざレイプしようなどとは考えなかった!」
「おやおや」
 美津里が困った子供を見るような顔で微笑む。「レイプとは人聞きが悪いねぇ。儀式だろぅ? 小鳥遊の血にあっては、僕らを産み出すための神聖な性の儀式さ」
「くだらない」
 陽介は吐き捨てる。「オレは、自分の手で美少年使いを作り出すことは絶対にしないと思ってた。オレが最後の美少年使い、それでいいんだと。だが、実際はどうだ? オレは結局、小鳥遊の血が累々と続けてきたことを繰り返しただけだ。唯一違うのは、まだ自分の作り出した美少年使いに殺されてないってこと、それだけだ」
「それはお父上に感謝するんだねぇ。先代が死ぬ間際に僕を貴方に憑けたから、貴方は有希ちゃんと戯れていられるンじゃないのさ」
「冗談じゃない」
 陽介は右手で顔を覆った。「本当なら、オレは殺されてやるべきなのさ。里桜に」
「本当でも嘘でも、それは僕がさせないよゥ」
 美津里が笑う。「自分の子が死ぬのを望む母親なんていない。僕も、おなじ気持ちサ。貴方が殺されるなんて、考えただけで怖くなる。守りきれなかった時のことを想像すると、恐怖だよ。怖い。怖いよ。すごく、怖い……」
 自分の感情を確認するように、何度も『恐い』と呟く。
 陽介は、そんな美津里の目を下からじっと覗き込む。長い睫毛の先が少し震えている。
 今なら、素直に訊ける気がした。
「…なぁ、美津里」
「なんだい?」
「オレの母親、オレが2歳の頃に死んだ母親の死因を、実は知ってる」
「…そうかい」
「銃で撃たれたんだってな。そして、犯人は目撃されてもいない。手がかりなんて一つもない。もちろんまだ捕まっていない。もう、時効だな」
「そうだねぇ」
「そういうものなのか」
 美津里は、困った顔をした。
 数秒の沈黙。
 それから、観念したかのようにぽつりと、
「……嫉妬、したのサ」
 と言った。
「嫉妬?」
「そう。嫉妬」
 僕はね──と、目を伏せる。「先代の中から、母親の人格を写しとって産まれたンだ。母親、それが僕という役割。僕という存在。僕がこの世界に生きていく理由」
 つらそうな顔。美津里は過去を、瞳の奥で、過去を見ている。
「貴方のお父上──優介さんは、綾乃さんという女性に恋をしたんだ。それは嬉しいことサ。優介さんに、幸せになれる道が見つかったんだからねぇ。自分のことのように嬉しい出来事さね。そして、二人は恋人同士になった。嬉しかったよ。やがて恋人同士は結婚して、夫婦になった。幸せになって欲しいって思ったねぇ。世界で一番しあわせになって欲しい、って」
 でもね──。
「そこからはダメだ。ダメだよ。貴方が産まれた。優介さんと綾乃さんは、父親と母親になった。ダメだよ。母親はダメだ。許せない。だって、それは──」

「僕の、役割なんだ」

 美津里の瞳から光が消える。眼球に貼り付いているのは、黒い闇。
「家の中に母親は二人もいらないンだ。貴方の母親は僕だけでいい。だってそうだろぅ? 僕は母として割られたンだ。そのために存在してる。僕から母親の役を奪っていくあの女は許さない。幸せそうな顔で母親をやっている、あの女は許さない。僕の母性を『偽物』にしていく、僕の存在を『いらないもの』にしていく、あの女だけは許さない」
 闇が、陽介の顔を覗き込む。
「僕たち憑き物は、君たちが儀式によって受けた心の傷だ。ひび割れてしまった、癒えることのない傷。その傷のことを忘れて幸せになろうだって? 許さない。許さないよ。僕は、母性という名の、深い傷なんだ」
 だから──

「撃った」

 そう言った瞬間、真っ暗な瞳から、闇が滴になってこぼれた。

「本物の母親に嫉妬して」

 闇の中から、ぽたぽたと落ちてくる涙。
 陽介の顔を黒く染めていく。

「わかってるンだよ。僕は『憑き物』で、君たちが幸せになるには『いらない存在』で、『本物の母親』にもなれない。わかってるンだ。生きてる価値なんてどこにもないンだ」

「美津里」
 名前を呼んで、陽介は美津里の顔に左手をのばした。柔らかな頬にそっと触れる。
「俺はお前を許さない。母親を殺したお前を、絶対に許さない」
「……うん」
 小さな声。
 陽介は、美津里の真っ暗な瞳を正視する。闇と向き合う。
「でも」
 息を飲む。絞り出すように言う。「憎まない」
 美津里の言葉が嘘であれば良かった、と陽介は思う。ただの言い逃れであれば良かった。それならば美津里のことを憎んで、恨んで、生きていけた。
 だが、美津里の言葉に偽りはない。
 彼はずっと、陽介の母親だった。
 どんな時でも陽介のそばにいて、守り、育て、時には叱り、愛情を注いで庇護してきた。
 それは今でもそうだ。
 母親を亡くし、父親を殺し、親のいない陽介を慈しんで育てていた美津里。
 その行動も、気持ちも、真実だった。嘘はない。
 だから──
 憎めない。
 恨めない。
 愛されていた。
 だからこそ、許せないけれど、憎めもしない。
 

 ありがとう──と、陽介は言った。


「今まで、育ててくれてありがとう」

 お母さん──。


 瞬間。
 美津里の瞳から、闇が消えた。
 こぼれていた黒い滴は明度を増して、透明になって、ぽたぽたと陽介の顔を濡らす。
 涙。
 泣いている。
 澄んだ瞳で。
 微笑みながら。
 頬に触れる陽介の手にそっと自分の手を重ねて、ゆっくり目を閉じる。
 泣いている。
 幸せそうな表情で。
「ごめんよ、今日はもう……」
 美津里の表層が薄れていく。体が消えていく。「幸せすぎて」
 傷がふさがっていく。
 憎しみが保てなくなる。
 憑き物は負の感情から産まれる。魂の底に澱む負の感情が揺らげば、表層も揺らぐ。
 揺らいで、揺らいで、一時的に存在を維持できなくなる。
 体の密度が薄れて、美津里がすっと消えた。
 頭を預けていた太股もなくなって、支えを失った陽介の頭部は畳に落ちる。
 左手は、美津里の頬に触れたかたちのまま。
 陽介の手首には、ナイフで切ったいくつもの傷。古いものと、新しいものと、混ざり合った傷痕。
 憑き物を呼び出すためにつけ続けた、血の触媒の痕。

 許さなくては、と思う。

 許したくない、いくつもの出来事を。
 父親を殺した自分と、母親を殺した美津里。
 父親にレイプされた自分と、そこから割れた清美。
 憎んでいれば、生きていられた。
 自分が被害者でいるうちは、憎んでいればそれで良かった。心の傷と向き合わなくても済む。自分と向き合わずに済む。
 だが、今では陽介も加害者の位置にいる。里桜に対して、父親にされたことと、まったく同じ暴力を繰り返している。
 揺らぐ。
 憎しみが揺らいでいく。
 父親も、自分と同じだ。加害者なだけではない。美津里を割っている。暴行を受けた証を。
 加害者であり、被害者。
 この小鳥遊の家が連綿と繰り返してきた、くだらないしきたりの、被害者。
 父──優介は、自分の人格の中から『母親』を割った。
 幼い頃の彼は、何を想って『母親』を割ったのだろう。何を託して、『母親』を外に出したのだろう。
 訊いておくべきだった。話し合っておくべきだった。
 人を殺す力さえなければ、陽介も、美津里も、話し合うという方法を選べたのかもしれなかった。
 多くの人がそうであるように、憎しみをぶつけ、話し合い、時間をかけて傷ついた自分を癒やすことができたのかもしれなかった。
 だが、陽介と美津里の憎しみには、刃がついている。ぶつけられると命を奪う、鋭い刃が。

 もう、遅い。

 許すには、遅すぎた。
 話し合うには、普通ではなさすぎた。


 陽介は、左手をゆっくりと下ろした。
 そのまま顔を覆う。目を閉じる。
 塞がりかけている手首の傷が、わずかに痛い。
 閉じた瞳から、ひとしずく、涙がこぼれる。
 陽介にはもう、純粋に悲しむ資格なんてない。
 だから、たぶん、傷の痛みのせいだ。
 胸が痛いのも、
 こぼれた涙が熱いのも、
 きっと、傷のせいだ。
 流した血のせいだ。

 ただ、それだけ。

 あとは何も、考えたくない。

 陽介

 「ほら、好きにしていいんだよ」

 真っ白な地下室の中、父親の顔をじっと見つめて自分がそう呟く声を、少年はどこか遠くに聞いていた。他人の声を聞いているようだった。
 実際、少年にはそれを言ったのは自分である、という感覚がなかった。視界がどこか遠い。見えている風景は同じなのに、それを認識する意識が一致しない。
 意識だけが一歩後ろにあり、まるで、自分がもう一人の自分の目を通して風景を見ているような感じだった。
 ああ、割れている。
 少年は思った。心が二つに割れている。
 いつからだろう。真っ白な部屋の中の、ひどくぼんやりとした時間の中で、少年は、自分の心を溶かし込むように発生したもう一人の自分の存在を感じていた。
 それが誰なのかは分からない。
 自分なのか他人なのかさえ分からなかった。
 今この瞬間まで、少年には『自分』というものがなかったのだから。
 だが、今なら分かる。
 これは、他人だ。
 自分ではない。
 自分の中にあるからといって、自分であるとは限らない。第一、虐待を受け続け、悲しみに暮れた自分の口から、「好きにしていい」なんて台詞が出るはずがないのだ。
 だから、これは、他人だ。
 他人だったから二つに割れたのだ。
 そう理解した瞬間に、少年は覚醒した。
 自分とも他人ともつかない、もやもやとした意識は綺麗に両断され、『自分』という意識が鮮明になった。
 一歩離れていた意識が、すっと本来の視点と重なる。
 途端に、心臓が一つ、どくんと音をたてて、体を震わせるほどに強く脈打つのを聞いた。それから、脳の細い神経を爪で引っ掻かれたような鋭い頭痛。
 そして最後。腹部に、ナイフを刺し込まれたかような突然の痛みを感じた。
 激痛だった。
 反射的に腹部を両手で押さえ、顔を歪めて腰掛けていたベッドに仰向けに倒れ込む。
 何が起こったのかよく分からないままに、少年は呻き声を奥歯で噛み殺しながら激痛に耐えた。
 ミチッ、と粘着質な音がした。腹部を押さえた指に、不意に何か当たった。何か、細い突起状のモノが、ミチミチと音をたて、蠢きながら少年の手を押し上げた。
 それは、少年の手の内側、押さえた腹部から伸びてきていた。
 おなかを押さえていた手を、突然、その突起状のモノに掴まれた。少年は慌ててそれを払うと、顔を動かして、自分の腹部に視線をやった。
 そして、信じられないモノを見た。

 手が、生えている。

 腹部から、手が生えている。二本。
 人間の手だ。手首から先が、まるで溺れた人間が水面から手首だけ出して助けを求めるように、少年の腹から生えていた。もがいている。
 少年は小さく悲鳴を漏らし、生えてきた手を払ったが、払いのけられるものでもなかった。逆に払いのけようとした手を掴まれてしまう。腹から生えた手に自分の手を掴まれるのは、恐怖以外の何物でもなかった。
 少年は掴まれた手を引き剥すと、これ以上は成す術もないことを知った。ただ見守るより他になかった。
 少年が強ばった顔で凝視する中、手首はするすると少年の腹から生えてくる。一つ呼吸する間に、肘まで伸びてきていた。少年の腹を切り裂くでもなく、皮膚から分裂するように伸びてくる。
 瞬く間に腕が覗いて肩が覗いた。肩に続くように丸まった背中が生えた。伸びた腕は折り曲げられて、少年の脇腹の横、シーツの上に置かれた。丸まった背中を起点に見ると、Mの字に近い体勢になる。
 それは、プールサイドに座り込んで水面に顔をつけた時の格好にそっくりだった。首から先は、まだ皮膚という水面の中にあって見えない。
 少年はじっと、首が上がるだろう位置、胸の上を見つめていた。
 Mの字に曲がった腕が一瞬沈んだ。何かを引っ張り上げるように力が入る。
 その次の瞬間に。
 胸の表皮を波立てて、勢いよく頭が跳ね上がった。
 瞬間、さらに痛みを感じた。少年の口からくぐもった悲鳴が漏れる。体が二つに裂かれるような痛み。思わずきつく目を閉じ、歯を食いしばった。
 一瞬の痛みが過ぎ去る。その痛みは、腹部の痛みさえも連れ去った。今までの痛みが嘘のように、ずいぶん体が楽になっているのを感じた。
 少年は大きく息を吐いて体を弛緩させると、おずおずと目を開いた。視界が広がる。広がった視界の中央に、男の子がいた。
 少年は、目の前に男の子を見た。
 自分の腹の上に、同じ年頃の男の子の上半身が生えているのを見た。
 栗色の髪の男の子は、少年の腹から上半身を生やしたままで、無邪気に笑っていた。
 今起こっている事実を受け入れられないままに、少年は呆然と父親に視線を送る。
 父親は少年の視線を受け止めると、無言で頷いた。慌てた様子など一つもなかった。
 少年は、その父親の顔に全てを察した。
 知っていたのだ。
 この人は、こうなる事を知っていたのだ。
 知っていたからこそ、自分を閉じ込め、陵辱し、割ったのだ。その理由は解らないが、間違いなく、これを産み出させるために。
 父親はゆっくりと少年に近づくと、少年に掛けられた首輪と手錠を外した。
 そして、白い着流しの懐から折りたたみナイフを取り出した。
 刃を立てると、少年の左の手首を躊躇なく切り裂く。
 一本の赤い線。
 溢れる血。
 苦痛。
 自分の命が世界にこぼれていく感覚。

 これは、儀式だ。

 少年は理解した。

 血が世界を覆っていく。
 流した血の量だけが世界を変えていける。

 僕らは、味わった痛みと苦しみの分だけ、世界に理不尽な変貌をもたらしていい。


「もう終わりだ」
 父親の声。

「すまなかった」

 謝罪の言葉。
 上っ面だけの。
 自分の罪悪感を押し付けるためだけの。

 父親はそれだけ言うと、折りたたみナイフを枕元に置いて、陽介の顔も見ずにに立ち去って行った。
 血の滴る左手首を右手でおさえたまま、少年は父親の背中を見送った。
 心の中にドス黒い何かが忍び込む。
 父親の背中が視界から消えると、ぎこちない動きで視線を元に戻す。もう一人の少年と目が合った。少年は、笑っていた。
「清美だよ。これからよろしくね」
 清美は陽介に笑いかけると、前触れもなく、薄れるように陽介の腹の上から消えた。
 陽介はしばらくの間、ぼんやりと白い天井を見上げると、ゆっくりと両足を引き寄せてベッドの上で丸くなった。腕で体を抱く。
「こんなことのために、今まで…」
 呟いたら、涙がこぼれた。
 意味の分からない虐待の結果が、これだった。わけも分からずモノのように扱われて、モノのように壊された果てが、この異常なだけの意味の分からない結末だった。
 この結末に意味が有るとは思えなかった。陽介は、こんな結末を考えてもいない。もちろん望んでもいない。こんなモノを生み出すためにこれまでの暴力があっただなんて、どうして知りえよう。
 結局、満足したのは父親だけ。
 父親の自己満足のためだけに、自分は何も知らされぬまま、あの少年と二つに割られたのだ。
 陽介は自分の体を強く抱いた。手首の血が体にこぼれるままに感情もこぼれる。「…許さない。絶対に」
 その言葉に答えるように、誰もいない部屋の中に、もう一つの声が響いた。

「じゃあ、殺しちゃおうよ」

 あの少年の声だった。「陽介くんがそれを望むなら、ボクが代わりに殺してあげる。だって、ボクは君から産まれてきたんだもの。君の嫌いなものは、ボクも嫌い」
 少年の、くすくす笑う声。
「だから、ほら、行こうよ。外へ」

 陽介は、ふらふらと外への階段を登った。 




「来たか」
 夜の帳が降りた薄暗い部屋の中、襖を開けた陽介をちらりと見ると、小鳥遊 優介(たかなし ゆうすけ)は落ち着いた声でそう言った。
「アレのことを説明してもらうよ」
 陽介は襖を閉めるでもなく中へ足を踏み入れると、線の細い体を白い長襦袢で包み、衝立を背にして座っていた優介に声を掛ける。
 優介は、正面に立った陽介を見上げると、
「憑き物さ」
 とポツリと口にした。ゆっくり立ち上がる。「ご苦労だった。嫌な思いをさせた」
「来ないで!」
 一歩前へ歩き出した優介を、陽介は拒否の言葉で止めた。自身は、おずおずと後ろに下がる。
「嫌な思い? そうだよ、信じられないぐらい嫌な思いをしたよ。嫌悪でしかなかった。意味も分からない暴力で、訳も分からずあんなモノと二つに割られた」
 優介と同じ白い長襦袢に身をつつんだ陽介は、自分の胸を押さえた。はだけた胸元からは見えるのは、λの形の傷。
 後ろに下がった陽介の背が壁に当たる。六十畳の空間の端と端で向かい合う父と子の間は、ひどく遠い。
「分からないよ、なんにも! どうしてさ!? どうしてオレに、あんなことを…」
 口元を押さえて首を降る陽介に、優介は冷たい視線を送る。
「それが、小鳥遊の血を受け継いだ者の定めだ。儀式だよ、アレは。儀式を行う年齢は、待っても十二歳までだ。それ以上になってしまうと成立しない。性、というものがどういうものか知ってしまうと、割れなくなってしまう。憑き物は産まれない。ただ気が触れるだけだ」
「憑き物? そんなもの、なんだって言うのさ! オレにあんなひどいことをしてまで産み出させたアレが、なんの役に立つっていうのっ!?」
 陽介が叩き付けるように叫ぶと、優介は困った顔をした。「…役には立たない」ポツリと言う。
 陽介は目を細める。
「憑き物にできるコトと言えば、殺し、ぐらいだ。役には立たない。なんにも」
「そんなモノのために…」
 言葉を押し殺すように言うと、陽介は握った拳を開いた。手の中には、父親からもらった折りたたみナイフ。「そんなモノのために、アンタは!」
 優介を睨み付たまま、叫んで、左の手首を切り裂いた。最初に父親が切りつけた、その場所を。
 止まりかけていた血が、再度あふれ出す。
 世界と、自分。
 皮膚一枚で隔てられていた空間を血で汚す。
 痛みが、血液が、現実という聖域を呪う。


 僕らは、流した血の量だけ世界を自由にしていい──


「清美、来い!」
 陽介の言葉に呼応して、こぼれた血の中から具現化する少年の姿。薄紅色の着物を着た少年は、にこりと笑う。
「陽介くんはね、嫌いなんだって、アナタが。ボクは別に嫌いじゃないけど、陽介くんが嫌いだって言うなら、ボクも嫌い」
 清美は優介を睨んだ。
「だから、殺しちゃうの」

 清美の言葉に、優介は苦笑した。
 苦笑しながら、左手にはめていた白い手袋を外す。左手の甲には、クレーターのような無数の傷。
 右手にはアイスピック。
 優介はためらいなく、左手の甲をアイスピックで突き刺した。
 血しぶきが飛ぶ。
 痛みがまき散らされる。
 それは、世界を呪い、世界に怪異を放つための儀式。

 血の中から、憑き物が溢れ出す。

「おやおや、物騒な子だねぇ」
 突然に間延びした声が響いたかと思うと、優介の前に緋色の着物が現れた。それは、瞬く間に少年のかたちをとる。
 陽介は清美の背中ごしにその少年を見て、息を飲んだ。思わず言葉が漏れる。「アンタも、そうなのか…」
 優介は、陽介の呟きを拾う。「小鳥遊の血を受け継いだ者の定め、そう言ったはずだ」
「分からないよ! じゃあ、アンタも同じ虐待を受けたんだろ! あんな嫌なことをどうして繰り返せるの!?」
 優介は答えなかった。謝罪の言葉さえない。それが陽介の気に触る。「清美、もういい。殺してしまえ!」
「うん。そうするね」
 清美はにこにこと頷くと、優介の方へ歩き出す。
「おおっと、待ちなよ」
 和装の少年が右腕を突き出して、清美を制止した。「それ以上近づくって言うンなら」
 少年の右腕が鉛色に変わる。溶けるように形を変え、細い筒になる。右腕が出ていたはずの着物の袖から、銃口が覗く。「可愛そうだけど死んで貰うよゥ?」
 清美はにこにこと笑ったまま、ゆっくりと歩みを進める。
「美津里、よせ。殺すな」
 優介が少年の肩を掴んだ。「憑き物を殺すことは、人格の一部を崩壊させるのと同じ意味だ。発狂させたくない」
「そんなことは分かってるサ」
 美津里と呼ばれた少年は、首だけ動かして優介を見上げた。「でも、あの子はやるつもりでいるんだよゥ? あの子を殺さなきゃ、旦那様の方が殺されちゃうじゃないのサ」
 清美の足は止まらない。「旦那様がなんと言おうと、僕はあの子を殺すよ。僕が守りたいのは貴方の命。そして、陽介くんの命。狂ってもいい。僕がずっとあの子の面倒をみるから」
「……そうか」
 優介の、押し殺した声。「分かった」
「じゃあ、せめて俺がやる。俺に殺される程度の憑き物なら、どの道、この先も生き残れない」
 そう言うと、優介は長襦袢の懐からリボルバー式の小銃を取り出した。美津里の肩越しに構える。
 清美は動じない。もう、部屋の中央まで移動していた。
 陽介は黙って壁に寄り掛かりながら、その様子を見つめている。
 銃の引き金に優介の指が掛かる。
 狙いを定めて。
 撃つ。
 パン、という乾いた音。
 清美の頭が、小突かれたように小さく後ろに下がった。歩みが止まる。
 一瞬の間の後、清美はゆっくりと頭の位置を直すと、二、三度、小さく首を振った。
「あやや。額に穴が空いちゃった」
 苦笑混じりにそう呟くと、何事もなかったかのようにまた歩き出す。
 その様子に、美津里が慌てた声を上げた。「旦那様、下がって! この子は…」
 一つ息を飲む。「この子は、良くないモノだ!」
 美津里は背中で優介を押して体を離すと、構えた右腕から二発、炸裂音を響かせた。銃口から火が吹き出て薄暗い室内を照らす。
 一発目の炸裂音の後、清美の右腕が肩口から千切れて勢いよく後ろに飛んだ。腕は、陽介の顔の横の壁にべちゃっと叩き付けられて、壁に墨のような黒い線を描いてずず、と落ちた。陽介は、無表情のまま、頬に掛かった黒い飛沫を手の甲で拭いた。
 二発目の炸裂音が響くと、清美の頭が、骨の砕ける鈍い音をたてて弾け飛んだ。顔を構成していたものが、ベチャベチャとした肉片に変わって辺りに散らばる。
 下顎から上は砕けてしまって残らなかった。歯並びのいい下顎の歯と、ピンク色の舌だけを残してあとはない。剥き出しの喉の入り口から、シャワーのように黒い煤のようなものが吹き上がる。
 頭と腕を失ってなお、清美は歩くことをやめなかった。
 美津里の顔が恐怖に歪む。
「な、なんなのサ、この子は!」
 泣きそうなほどに震えた声だった。
 美津里の背中から清美を見ていた優介は、視線を清美から外すと陽介に送った。目が合う。お互い、無表情だった。
 美津里が、慌てて左手を延ばし、着物の衿をはだけた。あらわになった白い胸の上には、墨で書いた毛筆体の文字で、『百目』と浮かんだ。
 途端に、美津里の胸といわず腹といわず、皮膚にびっしりと小さな穴が開いた。体中が、金属質な黒い穴で覆われていく。
 爆竹を鳴らした時のような破裂音。美津里の体に開いた無数の口から、無数の火花が散った。大量の弾丸が射出される。
 美津里の正面にあった清美の体にも、美津里の体と同じだけ無数の穴が開いた。
 清美の欠けた体はさらに肉を削られ、肘の先から左腕が落ち、なくなっていく。
 頭部と両腕の欠けた清美の体は、弾丸のシャワーによって下手なダンスでも踊るようにぎこちなく舞い、黒い煤のようなモノを捲き散す。穴だらけになった薄紅色の衣装がはらりと落ちる。やがて、清美はバランスを崩して、ゆっくりと畳に倒れ伏した。
 美津里の砲火が止む。
 鼓膜を震わす不快な破裂音が止むと、部屋の中は静けさを取り戻した。
 三者三様に、ボロクズのように黒い煤の海に横たわる清美の体を見つめていた。
 優介は、清美から壁に寄り掛かる陽介に視線を移す。
「…陽介、なんともないのか」
「なんともないよ」
 陽介は答える。「オレが狂わないか気になっているみたいだけど、残念ながらなんともないよ。だって…」
 ふふふ、と笑う。「ソレは、死なないんだもの」
 清美の体がびくんと動いた。
 両腕と頭部を失った体は、畳を擦るように何度も足を動かして、膝だけで体を立ち上がらせる。動く度に、体に開いた無数の穴から煤が溢れた。畳に落ちた腕が一つの生き物のようにびくびくと動く。畳にこぼれた大量の煤が、ざわざわと蠢き始める。
 美津里は、恐怖に引き攣った顔をして、へなへなと力無く座り込んだ。
「旦那様、逃げて…。こんなの、僕の力じゃどうしようも無いよゥ……」
 その声は、ほとんど泣き声だった。
 ざざざ、と音をたてて、畳に広がった煤が移動し始めた。それは黒い絨毯のように畳の上を走って、座り込んだ美津里の下を抜けた。その時、半分に割れた煤は、美津里の体の表面を登って胸の位置で固まり、その動きを止めた。残りの半分は優介の足元を黒く染め、足を登り、同じように胸で止まった。
 危険を感じた美津里の右腕が跳ね上がった。同時に、胸に張り付いた黒い塊がざざ、と動く音を聞いたが、美津里にはそれに構っている余裕がなかった。
 美津里の右腕は、清美に向けられていた。
「物理的に死ななくったって、死ぬほど撃ち続けてやれば同じこと! 痛みで死にたくなるまで永久に撃ち続けてやるサ!」
 だが、言葉とはうらはらに、美津里の右腕が火を吹くことはなかった。美津里の体は、突然に動かなくなっていた。
 その理由を、首も動かせない美津里は知ることができない。今、美津里の胸には、『禁』の一文字。
 成す術を失った美津里は、力なく「旦那様、逃げて…」と繰り返す。
 優介の胸に広がった煤も、ざざ、と動き始めた。
「待て!」
 陽介の声。
 煤は、ぴたりとその動きを止める。
 陽介は壁から背を離し、優介の方へ歩き出す。
 陽介が歩き出すと同時に、部屋の中央に立つ清美の体が再生を始めた。
 まず、千切れた右の肩と左の肘の断面から細い糸のようなモノが幾本も伸びた。神経を司る繊維状の細い糸が、するすると腕の断面から伸びていく。
 それは、細く束なり、針金で作った骨格のように腕の形を、指の形をとった。次に、神経繊維の束を貫くように骨が生えた。骨から染み出すにように赤い肉が生える、肉に寄生する回虫のように血管がざわざわと伸び、取り付く。皮膚が生え、細い指に小さな爪が生えた。清美は腕を取り戻す。
 陽介が清美のそばに歩み寄り、その肩に手を置いた時には、砕けた頭も大部分再生していた。
 頭蓋骨が生え、脳が涌き、空いた二つの穴を目玉が埋め、顔にまとわり付いた剥き出しの筋肉を皮膚が覆った。再生した頭皮から、元の長さまで栗色の髪の毛が伸びる。
 清美は顔を横に動かして、肩に手を置く陽介を見た。
「どうして止めるの?」
 陽介は清美の隣から歩き出す。「…せめて、オレがやる」
 右腕を延ばしたまま畳に座り込んでいる美津里の横を通り過ぎた。和装の少年の横顔は、恐怖に歪んでいた。
 優介の目の前に立つと、陽介は父親を見上げた。
 白い着流しから覗く胸が、黒く染まっているのが見える。見上げた父親の顔は、無表情だった。
 陽介は両手を延ばすと、小銃の握られた優介の右手を包んだ。指を這わせると、抵抗もなく小銃が陽介の手に渡る。
「…どうして今、オレを撃たなかったの。チャンスだったのに」
「自分の子供を殺したい親なんていないさ」
 それに──優介は少し表情を和らげた。目元が優しくなる。「お前の気持ちも分かる。ためらうことはない。俺も昔、そうした」
 陽介はなんの返答も返さぬまま、優介の腹に銃口を当てた
「…まだ、謝罪の言葉を一つも聞いてない。あなたが罪悪感をごまかす言葉しか、僕は聞いてない」
「陽介……。本当に、すまなかった……」

 パン、と乾いた音がした。

 優介は小さく呻いて、がっくりと膝をつく。右手で押さえた白い着流しの腹部が赤く染まっていく。
「謝るぐらいなら、最初からやらなければいいんだ」
 硝煙の上がる銃口を無表情に突き付け、陽介が冷たい声で言う。その銃口は、膝をついた優介の額の位置にあった。
「そうか…。そうだな、お前の言う通りだ。俺が悪かった、覚悟が足りなかった……」
 優介は苦悶に顔を歪めながら、押し殺した声で言う。
「俺は、全て分かっていてやったのだ。これがお前のためだと信じて」
「うるさいっ!」
 陽介が声を荒げる。腕に力が入り、銃身が小刻みに震えた。「この状況の、何がオレのためだっていうのさ!」
「美津里!」
 優介は陽介から視線を外した。美津里の背中を見ている。
「お前に新しい居場所をやる」
 言って、懐からアイスピックを取り出した。
 自分の左手の指を次々と突き刺す。
 噴き出す血。
 千切れる指先。
 突然始まった父親の奇行を、陽介は呆然と眺めるしかない。
 だから──
 その指が、素早く自分の口に伸びてきた時、陽介は対応できなかった。
 口の中に血だらけの指が突っ込まれる。
 剥き出しになった指先の骨が、陽介の舌に裂傷をつける。流れる血が口腔を通って体の中に注ぎ込まれる。
 吐き気が込み上げてきて、陽介は後ろに下がった。
 優介の左手が口から抜ける。真っ赤な血が糸を引く。
「美津里!」
 陽介の後方を見て優介は言う。「お前は陽介に憑いていけ。そのために今、血を飲ませた。俺が陽介につけた心の傷、そこがお前の新しい居場所だ。いいか、最後の命令だ。何があっても陽介を守れ。必ずお前の力が必要になる時が来る」
「アンタは!」
 陽介は叫ぶ。意味のわからない話を始めた優介の額に、乱暴に銃を押し付ける。
「どうしてオレと向き合わない!」
「お前にもいずれわかる」
 優介は視線を戻し、じっと陽介を見る。陽介の胸を見ていた。λの形に肉のえぐれた、その場所を。
 落ち着いた低い声で言う。
「小鳥遊の定めからは逃れられない」
 陽介の喉が、沸き上がる激情を飲み下すように、ぐ、というくぐもった音をたてて上下した。
 話が通じない。
 こんな状況になってなお、言葉が父親に届かない。
 陽介は、父親が自分を見ていないことを悟った。
 この人は、ただやりたかったことをやっただけなのだ。
 陽介の気持ちを聞くことも、尊重することもない。理由を話すことさえしない。
 自分の意志を押し通しただけ。

 だったら。

 もういい。

 オレも、自分のしたいことをする。


 ドス黒い感情が沸き上がってくる。
 衝動に支配された筋肉が力をみなぎらせた。肉の中に渦巻く行き場のない力は、陽介の体を小刻みに震わせる。止まらない衝動。
 殺人の、衝動。
 陽介は、体から、その衝動から目を逸らすように上を向いた。顔を歪めて、目をきつく閉じる。
 手には優介から取り上げた拳銃。
 一瞬の沈黙の後、一つだけ息を吸うと、陽介は震える人指し指を、ゆっくりと引いた。

 乾いた破裂音がした。
 小さな呻き声が聞こえた。
 どさっ、と、畳が重い物を受け止める音。 

 目を開け、天井見つめながら大きく息を吐いた陽介は、視線を落とし、ちらりと父親だったモノを見た。
 つまらないモノを見たような表情をしてすぐに視線を外すと、振り返って、清美に言う。
「……燃やしてしまえ」
 その声は、憑き物が落ちたかように落ち着いた声だった。 


 青い炎が人間を焼き尽くしていくのを、陽介は黙って見ていた。
 やがて、畳に黒い跡だけ残して全てが燃え尽きてしまった頃。
 陽介は、一言だけ、
「…くだらない」
 そう吐き捨てた。

 里桜

 虚ろな瞳をした少年が、青年に手をひかれ、ぼんやりと歩いている。
 クマのぬいぐるみを片手で抱いた少年の瞳には、何も写ってはいなかった。表情もない。ただ、青年に手をひかれるまま、ぼんやりと足を前に出しているにすぎなかった。
 少年の手をひく青年は、不快感と諦めが入り混じったような表情をして、土を踏み締めてゆっくりと歩いていた。青年の足の向かう先には、薄汚れた蔵。
 青年は蔵の前まで歩くと、立ち止まり、振り返って少年の顔を見た。変わらずに、少年の顔にはなんの表情もない。青年と目を合わせようともしない。少年の瞳には、青年の姿さえ写ってはいなかった。ただ、虚空を見ている。
「里桜…」
 青年は小さな声で少年の名前を呼んだが、少年は答えなかった。青年の言葉は、少年の耳に届いてはいない。
 青年はつらそうに目を細めて、今にも泣き出しそうな顔をする。もう一度少年の名前を呼んでみたが、やはり、少年は何も答えなかった。
 青年は小さく首を振ると、少年の手をひいてゆっくりと歩き出す。
 蔵の入口の扉を、できるだけ時間を引き延ばすように慎重に開く。
 そして。
 少年と青年の二つの背中は、蔵の中へと消えた。 




 中学校の詰め襟が壁に掛かった、六畳ほどの小さな部屋の中。
 ぱん、と乾いた音をたてて、里桜の平手が有希の左の頬を打った。
「どうしてお前は!」
 変声期前の高い声と共に返した手の甲で、さらに有希の右の頬も打つ。
 二発目の平手で、有希はへたりと倒れて絨毯の上に座り込んだ。叩かれて赤くなった頬を隠すように、胸に抱いたクマのぬいぐるみに顔をうずめる。小さく肩を震わせ、ぐすっ、とぐずる音。押し殺した泣き声。
 水城 里桜(みずき りお)は、細い声で泣く有希を冷たい目で見下ろし、構わずに怒声を浴びせた。
「どうしてお前は、陽介を殺せないんだ!」
 ぬいぐるみに顔をうずめて泣くばかりの有希に里桜は苛立ち、感情のままに言葉をぶつける。
「お前が本気でやれば、あの美津里とかいう邪魔者も倒せるはずだろ!? どうしてそれをしない!」
 有希は言葉を返さない。里桜はさらに苛々して、乱暴に有希の胸に抱かれたぬいぐるみの頭を掴むと、力任せに引き抜いた。有希の口から、「あっ…」という小さな声が漏れる。
「こんな物…」
 里桜はぬいぐるみを力一杯握った。握られたクマの頭は、指の形にぐにゃりと湾曲する。
 有希は泣き顔を上げると、膝立ちになり里桜の足にすがった。涙をこぼしたまま、「返して…。いじわるしないで…」と哀願する。
 だが、里桜はそんな有希を憎々しげに見るばかりだった。
「こんな物を、どうしてお前はいつまでも大事そうに抱えてるんだ! 僕はもう、捨てたというのに!」
 下から、おずおずとぬいぐるみに延びてくる有希の手を乱暴に払うと、里桜はぬいぐるみを投げ捨てた。
 ぬいぐるみは壁に当たり、落ちると、壁際に置かれていたゴミ箱に頭を突っ込む。
 有希はゴミ箱に目をやると、ぐす、と鼻を鳴らし、「大事なんだもの…」と呟く。里桜の足から体を離すと、四つんばいになって、のろのろとゴミ箱の方へ歩き出す。
 里桜は、無言で有希の背中を睨みつけた。
 あのクマのぬいぐるみと同じ形の物を、その昔、里桜も持っていた。それは、当時一緒に暮らしていた陽介という名の従兄弟が、里桜の八歳の誕生日にプレゼントしてくれた物だった。
 ぬいぐるみというのは、男の子が貰うには少々気恥ずかしいプレゼントだったが、それでも里桜は嬉しかった。兄のように慕っていた人から貰った、初めてのプレゼント。
 だが、そのぬいぐるみも今はない。一年前、里桜が十二歳になった夏に捨ててしまった。陽介という人間の匂いのする物は、全て。薄汚い蔵の、薄暗い地室で、陽介の手によって、訳も分からず有希を産まされたあの日に。全て。
 あの日以前のことは、ぼんやりとしか思い出せない。
 おぼろげな記憶を辿るに、始まりは数人の男達に車の中に押し込められ、連れ去られたことだったと思う。男達の顔は分からない。忘れてしまっていた。
 思い出したくもない記憶は、ところどころ壊れてしまっていた。
 だが、なぜだかこれだけはハッキリと分かる。
 その中の一人は陽介だった。その記憶だけはハッキリと有った。
 それから、どこへ連れていかれたのかはよく分からない。
 その男達が誰かも分からないままに、どこかも分からない場所で、拘束され、裸に剥かれて、里桜は輪姦された。
 大人の男に乱暴に扱われ、体の痛みもひどかったが、それ以上に心の痛みの方がひどかった。
 ひどいショックで行為の途中から呆然自失となり、それからの記憶がない。空白。時間の感覚も、自分が存在していたのかさえも記憶になかった。 
 あの日、有希を産んだ日、ようやく里桜は自分を取り戻した。意識が鮮明になったのを感じた。
 時間の感覚がなかったのでどれぐらい経ったのかは分からない。
 だが、やはり自分は裸で、体に痛みがあり、そして、目の前には陽介がいた。他の男達はどこに行ったのか、里桜が意志を取り戻した時にはいなかった。
 意識が戻った後、里桜はすぐに有希と二つに割れた。
 有希は、クマのぬいぐるみを抱いたまま産まれてきた。里桜が持っていた物と、まったく同じぬいぐるみを。
 訳も分からず陽介に視線をやると、陽介は目を伏せて、
「すまない。オレは、こうするより他に方法を知らない」
 とだけ言った。
 その言葉の意味も、なぜ自分の中からもう一人の人間が出てきたのかも、なぜ自分が襲われたのかも、里桜にはさっぱり分からなかった。
 だが、それでも一つだけ理解した。
 自分は、目の前の男を殺してしまいたいほどに憎いと感じた、という、そのことを。一つだけ。
 兄のように慕っていたこの男は、自分を裏切ったのだ。それも、一番ひどいやり方で。
 それ以来、里桜は、小鳥遊陽介という男を思い起こさせる物の全てを捨てた。
 それなのに、有希はあのぬいぐるみを──陽介から貰った物と同じぬいぐるみを、大事そうに抱いている。
 それが里桜の気に触った。
 それだけではない。里桜は、有希自体も嫌いだった。自分で望んで有希を産んだわけではない。望んでいない子供。
 実際には分裂するように二つに割れたのだから、厳密に言えば産んだわけではないのだが、それでも有希に父親というモノがいるとすれば、自分を輪姦したあの男達、ひいては小鳥遊陽介だった。それが里桜には許せなかった。あの悪夢のような出来事をどんなに忘れたくとも、有希という存在がある限り忘れることなどできない。
 里桜がちらりと目をやると、望まれない子供は、ゴミ箱の中からぬいぐるみを拾い上げていた。泣き顔のまま抱き締めると、少しだけ安堵の表情を浮かべる。
 その表情がまた、里桜の気に触った。あのぬいぐるみを抱き締めて安堵する有希が気に入らなかった。
 つかつかと有希のそばに歩み寄ると、しゃがみ込む。
 脅えた顔をして自分を見つめる有希の頬を、里桜はもう一度強く打った。ぱしん、と大きな音がして、有希の瞳から大きな涙がこぼれる。
 赤く腫れた頬を押さえて、有希は泣く。
「いたいよ……。そんなに、ぼくがきらいなの……?」
 里桜は冷たく、「嫌いだ」と返した。有希の瞳が大きく見開かれる。左手でぬいぐるみを抱いたまま、右手を伸ばして里桜にしがみつく。「ぼくをきらいにならないで…」
 涙声のまま哀願する。「ぼくは君から産まれてきたのに、君にきらわれてしまったら、どうやって生きていけばいいの…?」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら有希は言う。「ぼく、なんでもするから。だから、見捨てないで…」
 里桜の体を強く抱く。里桜の胸に泣き顔を押し付ける。「おねがいだから、ぼくを愛して……」
「だったら」
 里桜は有希を引き剥した。有希の言葉に胸の奥がちくりと痛んだが、その痛みから目を逸らすように冷たい声で言う。「だったら、次こそは陽介を殺すんだ。いいな?」
「…そうしたら、ぼくを愛してくれる?」
 おずおずと言う有希に、里桜は「ああ」と答えた。そっと、指先で涙を拭いてやる。有希は、涙で濡れた顔で嬉しそうに微笑むと、里桜に抱きついた。微笑んだままでまた少しだけ泣く。
「ぼく、がんばるから。次は、遠慮なんかしない」
 里桜は、有希の体を恐る恐るといった感じで不器用に抱き締めた。
 それから、少しだけ力を入れて有希を抱くと、口を開いた。
「お前は、今まで何をためらってた? どうして陽介を殺せなかった?」
 そう問いかけると、有希は一呼吸おいてから、「なんだか違うような気がするんだ」と言った。
「違う? 何が?」
 里桜がさらに問うと、有希は黙りこくった。言いにくそうに、もじもじする。「いいから言ってごらん」里桜の言葉に、有希は答える。
「よくは分からないの。でも、陽介さんは──」
 有希が、また言いにくそうに里桜の顔を見る。里桜は小さく頷いて続きを促した。「陽介さんは、悪い人じゃないような気がするの。確かに、ぼくが産まれた日には陽介さんが居たけれど、その前の、連れ去られた時のことに陽介さんは関係ない気がするんだ。里桜くんは陽介さんが居たって言うけれど、ぼくの記憶の中には陽介さんは居ないんだもの」
「そんなはずはない。確かに居た」
 里桜の口から冷たい声が出る。有希は少し脅えた顔をしてすぐに謝る。
「ご、ごめんなさい。きっと、ぼくの気のせいだよ。ごめんなさい。謝るから、きらいにならないで…」
 里桜が小さく頷くと、有希は安心したようにそっと微笑んだ。微笑んだまま、有希の体がゆっくりと消え始める。
「ぼく、次はちゃんとやるからね」
 その言葉と笑みを残して、有希は里桜の腕の中から消え去っていった。
 有希を抱き締めていた腕で、里桜はそのまま自分を抱き締めた。自分の体を抱いて、有希の言ったことは本当だろうか、そんなことを考える。
 だが、すぐに答えは出た。そんなはずはないのだ。
 あの頃の記憶はひどくぼんやりとしていて、他の男達の顔は憶えていないけれど、陽介の顔だけは鮮明に憶えている。あの時、確かに居た。間違いなかった。
 そう確認すると、途端に有希に対する嫌悪感に襲われた。
 結局有希は、陽介を庇いたいだけなのだと思った。あのぬいぐるみを大事にしていたように、陽介を大事にしたいだけなのだと。有希が今まで陽介を殺せなかったのは、ただそれだけの理由だったのだと。
 自分から生まれたモノが、自分の憎むモノを大事にしている。それが許せなかった。自分と同じ体験をした、自分と同じモノが、自分と違う価値観で動いている。それが里桜には許せなかった。
 そして、有希を愛することなど絶対に無理なのだと解った。これまで漠然と感じていたその理由、有希に嫌悪感さえ感じる理由を、里桜は今、はっきりと理解した。
 有希は、一年前までの自分なのだ。陽介を兄と慕っていた頃の、まだ、体も心も穢されてなかった頃の。
 そして、それは同時に、有希自身が『穢れ』そのものだという事も意味していた。現在の里桜と有希を分かつ事になった、あの悪夢のような出来事を種として有希は産まれてきたのだから。
 悪夢の胎内で育ち、『穢れ』だけを受けて産まれてきた、誰からも、自分にさえも望まれない、もう一人の自分。愛せるはずがない。愛されるはずもない。
 きっと、有希もそれを知っているのだ。だから、ああして、涙を流して、「愛してほしい」と懇願するのだ。
「……望まれない、穢れた子供」
 強く自分の体を抱いて、里桜は呟く。「お前は、一体誰に愛してもらえるっていうの…?」
 その言葉は有希にではなく、意識の底で漠然と感じている、自分に向けたの言葉だということに、里桜は気がつかない。
「僕にさえ愛されないのに、誰に…」 

 番外編 『鬼と砲華と』

 鎧戸の引かれていない縁側の廊下を歩いていた小鳥遊 優介(たかなし ゆうすけ)は、ふと足を止め、夜の庭に目をやった。
 丑三つの刻が草木を眠らせ、庭は風の抜ける音さえ聞こえなかった。草木は、闇夜の中でじっと息をひそめている。
 静寂。
 庭にある白い蔵も闇をまとわせて眠りについている。
 しかし、明日、朝日に照らされて草木が目を覚ます頃には、一緒に目を覚ましてしまうのかもしれない。
 その蔵が最後に目を覚ましていたのは六年前。優介が十二歳の時だ。それ以来、蔵は浅い眠りについている。
 だが、その眠りも長くはないのだと、優介は知っていた。蔵の眠りをさまたげようとする男がいる。弟の龍之介が、昨日、十二歳の誕生日を迎えたのだから。
 庭から目を離した優介は、また縁側を歩きだし、ふすまの前に立った。ふすま障子に張られた紙からは、ぼんやりと内側の明かりが洩れて、中の人間がまだ起きていることを知らせていた。
「お父さん、入ります」
 声をかけて、優介はふすまを開いた。
 中に入ると、着流し一枚でお膳の前にあぐらをかいている、中年の男の姿。男の隣には浅葱(あさぎ)色の着物に身を包んだ黒髪の少年が膝をおり、男の手に握られた盃(さかずき)に、静かに銚子を傾けていた。
「こんな時間に訪ねてくるとは、いくら親子といえども礼を失するンじゃないのかい」
 黒髪をかむろに切り揃えた少年は、優介の顔を見て冷たく言う。少年の名は美月(みつき)。人ではない。この小鳥遊の家が、憑き物筋として連綿と伝えてきた技より産まれた、憑き物の一人。どこにも存在せず、どこにでも存在する、人ならざる者。
 優介は美月の言葉に答えず、ふすまを閉め、男の前に丁寧に正座した。無言で盃を口に運んでいる男の顔をじっと見る。
「お父さん、龍之介を、美少年使いにするおつもりですか。俺と同じように」
 優介が単刀直入にそう切り出すと、小鳥遊竜介(たかなし りゅうすけ)は一笑に伏した。「愚問だ」
「どうしてです。俺がいます。小鳥遊を受け継ぐのは俺だけで充分ではありませんか。龍之介に定めを強いずとも……」
「アンタじゃ不足だってことだよ」
 そう言ったのは美月だった。「未だに先代の美少年使いを殺せていない腰抜けのアンタじゃ、小鳥遊の名を受け継ぐには足りゃあしない。出直すンだね」
 くすくすと笑って言う美月を、竜介が制した。
「それだけじゃない。もっと大事なこともある。憑き物を割るのは十二歳までが限度だ。それを過ぎたら割れなくなってしまう。と、なると、小鳥遊の当主としては、とりあえず割っておくのが賢明な判断というものだ」
「とりあえず……?」
 優介が眉根を寄せる。言葉に怒気が含まれる。「お父さんは、今、とりあえずで龍之助を虐待すると申しましたか」
「虐待とはなんだい、儀式じゃないのさ」
 美月が訂正する。優介は美月をじろりと睨んだ。
 憑き物は、性的虐待の果て、人格の一部が壊れる果てに産まれる。それが虐待以外の何物でもないことは、六年前に庭に立つ蔵の中、竜介の手によって憑き物を産まされた優介自身が、身を持って体験していた。それは、目の前にいる男とて経験しているはずなのだ。
 それなのに、竜介は微塵も臆する様子を見せない。
「抗争の続く今は、迷っている時ではない。おれが死んだ後、誰が龍之介を守る? お前か? 人の殺せないお前が、龍之介を守れると思っているのか? なら、答えはとうに出ている。龍之介には、自分の身は自分で守ってもらう」
 今現在、小鳥遊の血筋は狙われている。他の憑き物筋や陰陽士たちと、抗争を繰り返している。これは、小鳥遊の血が絶えない限り、もしくは他の勢力が絶えない限り終わらない、因縁の抗争なのだ。
 いつから始まったのかは分からない。一番最初、こちらの先祖の誰かが殺されたのか、それとも、こちらが他の筋の誰かを殺したのかは、はっきりとしない。
 だが、その恨みが報復となり、報復し報復され、報復が報復を呼んで、今ではもう、血で血を洗う以外に解決の方法がない。
 優介も、憑き物を扱えるようになってからは、その戦いに身を投じていた。
 ただし、まだ誰も殺していない。
 優介は、報復に報復を重ねるようなことは愚かだと思っている。だから誰も殺さない。威嚇して、力の差を見せつけて、逃がす。しかし、そんな努力も無駄に思えた。竜介は、優介が逃がした相手を追って、殺してしまうのだから。
 それに対して、間違っていると強くは言えなかった。
 自分達を殺そうとしてくる相手を返り打ちにするのは、身を守ることとしては正しいことなのだと思う。力が全てだとは思わないが、力で叩き伏せなければ、収まらないことだってある。
 そうは思っても、優介はその道を選べなかった。躊躇がある。優介は憑き物を使えるようになった今も、まだ一人たりとて殺していない。
 甘えなのかも知れない、とも思う。
 竜介が代わりに相手を殺してくれるので、優介は殺さずに済んでいるだけなのかも知れない。
 仮に竜介がいない時、龍之介が狙われたとしたら、優介はその相手を殺すことを選ぶだろう。逃がしてばかりでは龍之介を守りきれない。
「それなら」
 優介は言う。「俺が守ります。相手を殺してでも」
 その言葉を、ふん、と美月が鼻で笑う。「信用ならないねぇ。お坊ちゃんは分かってないよ。左手で誰かを抱いたまま、右手で誰かを殺すことなんて、できると思ってるのかい?」
「できるよゥ」
 不意に、間延びした声が響いた。優介の背中に突如現れたのは、緋色の着物を着た少年。さらさらの黒髪を肩まで伸ばした少年は、ふふ、と小さく笑う。「僕の左手は守るための力、僕の右手は戦うための力。僕はこの人から割れたンだ。この人にそれができないはずがないよ」
「美津里か」
 少年の名を呼んで、竜介は優しげに目を細めた。
「お前はいつ見ても綺麗だな、美津里」
「おや、ありがと」
 美津里は笑んでみせる。
 美月は竜介の優しく緩んだ顔を見ると、次いで美津里を憎々しげに睨んで、「……気に入らないね」と呟いた。
「アンタの出る幕じゃあないんだよ、美津里。引っ込んでな。とにかく、お屋形様は龍之介を割るって決めたんだ。今更どうこうなるモンじゃないよ」
「……本当ですか」
 優介は竜介を見つめる。竜介は、「小鳥遊の血筋としてはそれが定めだ」と返した。
「おれに抗うつもりなら力づくでこい、優介。血に濡れない綺麗な手では誰も守れんぞ。お前の二倍の年月を生きて、おれはそれを思い知った」
「考え直してはいただけないのですね……?」
「くどい」
 竜介の言葉に、優介の腹は決まった。
「では、俺の答えはとうに決まっています」
 優介はポツリと、それでもはっきりとした口調で言った。

「今宵、あなたを殺します」

 その言葉を聞いて、竜介は大笑する。「そうか、誰も殺せないお前が、龍之介を守るためなら力を振るうか。お前らしいな。百合香が死んで以来、龍之介の母親代わりはお前だったものなあ」
 百合香(ゆりか)、というのは優介の母親の名前だ。体の弱かった百合香は、龍之介を産んで何日もしない内に、病院のベッドで静かに息をひきとった。優介が六歳の時だった。
「膳を持て優介」
 そう言って竜介は立ち上がり、壁際に歩き出した。「憑き物同士の死合いを見ながら酒を飲むのも、一興だろう」
 優介は銚子と盃の乗った膳を持って立ち上がる。壁際に腰を下ろした竜介の隣に膳を置き、自身は膳を挟むようにその隣に座った。
「始めていいのかい?」
 美月の言葉に、竜介は盃を片手に、「叩きのめせ」と答えた。
 浅葱色の着物を来た少年は、美津里を見て、にぃ、と笑う。
「叩きのめせ、いい言葉だねぇ。ぼくはさ、初めて見た時からアンタのその小綺麗なツラ、ぐちゃぐちゃにしてみたかったんだよねぇ」
 一転、眉をつりあげる。声に怒気を孕む。「気に触るンだよ、アンタはさ!」
 赤い着物の少年は美月の視線を受け止めて、おやおや、と笑みをこぼした。
「あんたと同じことを考えてたとは思わなかったよゥ。僕もあんたは好きじゃないねェ、なにせあんたは」
 美津里が、ふん、と鼻で笑う。「性格が悪い」
 言い合った後、二人はとん、と畳を蹴って、軽やかに跳びすさった。間合いを取る。
 そして、人ならざる者同士の殺し合いが始まる。 


 美月の右手に、墨で書いたような毛筆体の文字で、『鬼』と浮いた。
 美月の右腕が突如、何倍にも膨れあがる。
 膨れあがったそれはぼこぼこと腕の中を流れて、手首を、手の甲を通って指先まで太く沸き立たせた。五本の指は内側に流れるモノを収めきれず、指先を割ってどろどろと黒い粘液をこぼし始める。
 こぼれた黒い粘液は、空気に触れると瞬時に固まって、氷柱のようなカタチを成した。黒い氷柱の上を新たな粘液がどろどろと覆って、固まって、どんどん太く、長くなっていく。その黒い塊は、鈍色の金属質な光を放つ。
 やがて、美月の腕も、指も、元の細さを取り戻した時──。
 美月の手には、身の丈をゆうに越える黒い金棒が握られていた。美月の身の丈より高く、身の幅よりも太い、2メートルを越える圧倒的な質量を持つ金棒の先には、鋭く生えた金属のトゲ。
 鬼という生物がいるとするなら、今、美月の細い指に握られているそれは、鬼の使う金棒に他ならなかった。
 美月は悪意を隠さない笑みを浮かべると、ブン、と、まるで竹刀でも振るように軽々と金棒を振ってみせた。
 風圧とともに、金棒を美津里に向かって突き付ける。
「誰にもそれが人だと解らないぐらい、ぐちゃぐちゃにしてあげるよ」
 答える美津里の右手に浮くのは『銃』の一文字。美津里の胸に浮くのは『砲』の一文字。
 右腕を散弾銃に変え、はだけた胸に砲頭を生やした美津里は、右腕を美月に突き付ける。
「力しか知らない馬鹿は、ほんと、頭が弱いとみえるね。銃と棒ではどっちが強いのかさえ解らないのかい?」
「試してみなよ」
 笑みを崩さずに言う美月に向かって、美津里は、
「じゃァ、お言葉に甘えさせてもらおうかねェ」
 と、右腕から三発、銃声を響かせた。
 美月は、それらを全て、平然と叩き落とした。キィン、と、鉄と鉄の触れ合う音がこぼれる。
 速かった。速すぎて見えなかった。太く長い、重々しい鉄塊は、羽虫が宙を飛ぶように鋭く動いて、黒い影だけを美津里の前にひるがえした。動きがまったく見えなかった。
 三発の銃弾を跳ね返した後、どさりと畳をへこませて振り下ろされるまで、美津里には金棒の存在が確認できなかった。
 美月は、美津里の唖然とした顔を見て高笑いをあげる。
「じゃあぼくも聞こうか。アンタは、銃と棒ではどっちが強いのかさえ、解らないのかい?」
 ふん、と美津里は鼻をならす。「小賢しいね。なら、これはどうだいっ!」
 美津里の体を震わせて、胸から伸びた砲頭が唸りをあげた。先から火花が散る。反動で、美津里は半歩ほど後ろに下がった。
「この程度っ!」
 美月は逆袈裟に金棒を振り上げた。それも美津里には見えなかった。美津里に見えたのは、まるで美月の前に透明な障壁が張られているかのように、空中で爆発した砲弾の炎だけだった。
 四散した弾頭の破片と、ぱらぱらと小さな炎の落ちる後ろで、美月がニヤリと笑う。
「もう満足したかね? ぼくはそろそろ、アンタをぐちゃぐちゃにしたいンだけど?」


「アレは──」
 竜介が言う。竜介の目は、戦う美津里を見ていた。「アレは綺麗だな。百合香(ゆりか)によく似ている」
 ぐい、と盃の中の酒を飲み干すと、竜介は優介の顔に視線をやる。
「お前は、母を割ったか」
 優介は何も答えなかった。憑き物は、自分の中にあるものを割って産まれてくる。
 龍之介が産まれ、百合香が死んで、それ以来ずっと母親がわりに弟を育てていた優介から、母に似たモノが割れてくるのは道理だった。
「お父さんは──」
 優介はポツリと言う。「お父さんは、平気なのですか。こうして、憑き物を産ませ、殺し合いに使っていくことが」
「平気だな。平気になった」
 竜介は平然とそう返した。「おれは力が欲しかったんだ。おれの父は──お前の祖父だな──、アル中で、破滅的で、精神を病んでいて、その上、憑き物を扱い、ひどく強い、どうしようもない男だった。おれの母親はその男に殺された。おれは父親を叩き殺すための力が欲しかった。だから、父親から美少年使いにされた時、おれは喜んだよ」
 銚子を持ち上げ、盃に注ぎながら続ける。「憑き物は力だ。力さえあれば守れるモノがある。その逆はない。力がなければ誰も守れん。おれがもっと早く憑き物を使えるようになっていれば、母を守れたかもしれないな……」
  だから──、言って、竜介は優介に盃を差し出した。優介はそれを受け取る。
「だから、おれはお前達を美少年使いにすることに、なんの疑問もおぼえない。憑き物を殺しに使うことにも疑問をおぼえない。憑き物は力だ。必要な時に使えなければ、守れないモノもある」
 優介は盃の上で揺れる酒精を一口飲んで、諦めたように、「聞かなければよかった」と小さく笑った。
「それでも、俺はお父さんと同じようには思えない」


 美津里の腕から、絶え間なく銃弾が射出されている。
 美月が、それを片っ端から払い落としていく。徐々に間合いを詰めながら。
 無駄だと解っていても美津里は撃たなければならなかった。時間を稼ぐ必要があった。胸の砲頭をしまうための時間だ。
 ずるずると、胸の裂け目の中に砲頭が姿を消していく。
「無駄なことはヤメて、そろそろぼくにぐちゃぐちゃにされなよ。大丈夫、いい子にしててくれれば痛くないように、一撃でその不愉快なツラァ、粉々にしてあげるからさぁ!」
 目に止まらぬ速さの弾丸を、目に止まらぬ速さで叩き落としながら美月が言う。ゆっくりと歩み寄ってくるその顔には、余裕の笑みさえ浮かんでいる。
 砲頭が胸の奥に収まった。裂けた肉が塞がる。美津里は、「よしっ」と小さく呟く。
 美津里のなだらかな白い胸に、代わって浮かぶのは『雷電』の二文字。生えてくるのは、雷の鉄槌。プラズマ砲。
 大きな体温計にも似たその砲身の内部で、小さな紫電がバチバチと舞っている。
 美津里が少し背を逸らせて、胸の雷神を解放しようとしたその瞬間、プラズマ砲の先端に横殴りの力を感じた。美月の金棒が、砲身に届く間合いに入っていた。
 右から加わった重い衝撃は、砲頭を粘土でもこねるようにぐにゃりとひしゃげさせ、同時に、余った力が美津里の体をくるりと回転させた。
 一回転して美津里はバランスを崩し、ぺたんと畳に尻餅をついた。見上げる目の前に、美月の勝ち誇った顔。
 とっさに右腕を上げたが、それも金棒によって乱暴に払われた。払われた右肩に激痛を感じ、美津里は顔を歪める。右腕がちぎれたかと思ったが、美月にとっては軽く払った程度だったらしい。右腕の散弾銃は、プラズマ砲ほどのダメージは受けていなかった。
 砲頭が右に九十度曲がったプラズマ砲は、一度引っ込めて修復しない限り撃てそうにない。だが、引っ込めてもう一度生やすまでに、美津里が生存している可能性はほぼゼロに等しかった。
 どさり、と金棒が畳に下ろされる。美月は引きずるようにして金棒を持っているが、それは重いためではなく、長いためであるのを美津里は知っている。まったく構えていないその状態からでも、美津里の頭を割るのは一瞬で済むのだ。
「さぁて、手間ァかけさせてくれたねぇ、美津里」
 美月は、美津里の前に立ち、意地悪く見下ろして言う。「最後に、何か言っておくコトはあるかい?」
「ないよゥ」
 美津里は答えた。座り込んだまま、左手を後ろについて体を支えると、筋肉の緊張を解くように両足を広げ、投げ出した。「やるンならさっさとやっとくれよ。僕は焦らされるのが嫌いなンだ」
「ようやく諦めたかい。初めて可愛い態度をとったじゃないか。これで見納めなのが残念なぐらいだよ」
 美月はゆっくりと右腕を高く上げ、黒光りする重々しい金棒を頭上に掲げた。「自分が死ぬ瞬間まで金棒の動きが見えないってのは寂しいだろう? ちゃんとそのツラが潰れるのを感じるように、ゆっくり殺してあげるね?」
「…ったく、最後まで性格の悪いコト」
「じゃあね、美津里」
「ああ、お別れだねェ、美月」
 二人が、そう言葉を交わした後。

 ぱん、と、小さな破裂音が響いた。

 美月の手から、金棒が落ちた。
 落ちた金棒は、自らの重さで畳を割って、突き刺さった。
 美月はきょとんとした表情を浮かべて、ゆっくりと金棒を失った右手を下ろし、心臓のあたりを押さえる。
 視線を下ろすと、胸にあてた手を離し、手のひらに血がついているのを見た。胸に開いた小さな穴を見た。
「なんだよ、コレ…?」
 美月の口元から、一筋、血がこぼれる。美津里に視線をやる。「美津里、アンタ、何を……?」
 美津里は、美月の視線を受け止めてふふ、と笑った。
「切り札、ってのは、最後まで持っとくモンなんだよゥ」
 そう言って、左手をつつ、と自分の股間にやって、小さく隆起した場所に指を這わせた。着物のその部分には、小さな穴。奥に銃口が覗いている。
「僕は男の子だからねェ、股間にも銃を一つ、隠してるのサ。まァ、ちょっと下品だったかね?」
 言い終えると美津里は笑みを消して、右腕の散弾銃を美月の顔に向けた。
「さよなら、美月」 


 美月の頭がぱんっ、と弾けた瞬間に、竜介は両手で頭を押さえると、呻き声をあげて前のめりに倒れこんだ。
 喉の奥から苦しげな声をもらしながら、膝をずりずりと動かして畳を擦る。
 両手で抱えられた竜介の後頭部を見ながら、優介は「お父さん……?」と声をかけた。だが、何が起こっているのかよく知っていたし、どうしようもないことも知っていた。
 頭部を失った美月の体が、音もなく四散する。美月は水色と白の、桜に似た大量の花びらに変わって、舞い散っていく。畳に突き刺さっていた金棒も、無数の黒い花びらに変わって崩れ落ちた。
 竜介の口から、クク、という声の裏返った笑い声がこぼれる。伏せていた顔をがばっと体ごと起こして、優介を見た。優介は思わず、びくっと身をすくませる。
 竜介は、狂人の顔をしていた。黒目が白くどろりと濁っていた。鼻水とよだれを垂らしながら、高く、笑いだした。
 高笑いをあげながら、竜介は機敏に起き上がり、駆けていく。部屋のふすまを開けもせず、突き破って庭へ下り、門の方へ逃げていく。竜介の笑い声が遠ざかっていった。
 優介は何が起こったのか知っていた。
 発狂したのだ。
 憑き物が死んだことによって。
 憑き物は、死ぬと主の元へ戻る。心の中へ戻る。
 儀式という虐待に耐え切れなくなった時に、すべての痛みを引き受けて産まれてくる別人格が憑き物である。その別人格が、死んだ瞬間、なんの準備もないままに主となる人格に入り込んで混ざり合うのだから、主はその人格と致死量の痛みを統合しきれずに気が狂う。
 美少年使いにとって憑き物とは、一番他人に近い『自分』でしかない。憑き物の死は、精神的な『自分』の死であるとも言えた。
「美津里」
 優介は憑き物の名を呼ぶ。「行って、楽にしてやってくれ」
 座り込んだままの美津里は、一つうなずくと、空気に溶けるように消えていった。
 深いため息を吐いて、優介は壁にもたれた。今まで柔らかかった心の中が、固く、硬化したような感じだった。
 父を狂わせ、父を殺し、これで良かったのだろうか。
 守りたいものを守るために、手を血で濡らすことは、正しかったのだろうか。
「平気だ…」
 自分に言い聞かせるように優介は呟く。「これも、そのうち平気になる」
 父親──竜介には竜介の信念があった、優介には優介の信念がある。龍之介だけは小鳥遊の血に染めない。守り抜いてみせる。
「……お兄ちゃん」
 不意に、細い声が聞こえた。視線をやると、壊れたふすまの陰からこちらをうかがうように、龍之介の脅えた顔が見えた。
「なにがあったの……?」
 パジャマ姿の龍之介は、おずおずと部屋の中に入ってくる。「ぼく、鉄砲の音で目がさめて、それで、怖くて……」
 優介は立ち上がり、龍之介のもとへ歩み寄ると、震える龍之介の体をそっと抱き締めた。
「鉄砲の音がしなくなったから、ぼく、来たんだ…。ねえ、お父さんはどこに行ったの…?」
 龍之介の視線を受け止めた優介は、ひとつ息を飲んでから、「……強盗が入ったんだ」と答えた。
「お父さんは、そいつを追っていった。警察に電話して、二人でお父さんが無事に帰ってくるのを待とうね」
 そう言って、龍之介の体を強く抱いた。優介が守りたい者は、声もなく小さくうなずく。
 一生かけて、弟を守りきろうと思う。
 小鳥遊の血から。呪われた定めから。
 だが。
 もしもこの先。
 弟だけではなく、未来の我が子が守る対象に加わった時。
 自分の力が及ばずに愛する者を守りきれなくなったら。
 守りきれないと悟ってしまったら。
 その時、自分は、どうするのだろう。
 愛する者に、小鳥遊の定めを強いるのだろうか。
 自分の身を自分で守ってもらうために。

『憑き物は力だ。必要な時に使えなければ、守れないモノもある』

 不意に、父親の言葉が頭をよぎる。
「大丈夫」
 優介は、龍之介にそっと声をかける。
「大丈夫だよ」 
 腕の中にある弟の体温を確かめながら、優介は天井を見上げた。
 そして、父親の言葉を打ち消すように、
「守ってみせる」
 と、呟いた。
 瞬間、ちくりと刺さる胸の痛みから、目をそらしながら。
 

 陽介(1)

 父親を殺したあと、陽介は、父親の弟の家の預けられた。陽介が十二歳の、九月の始めのことである。
 父──優介の死因は焼死であったが、骨も残らずに燃えるという、現実的にはありえない死に方であったため、誰も陽介を疑ったりはしなかった。他殺という線にもならなかった。突然の変死、それも事故に近い形の、という、曖昧な言葉で処理された。捜査らしい捜査もされず、すぐに打ち切られた。
 陽介にしてみれば、優介の腹と頭に残っていただろう弾丸も、一緒に燃え尽きていたのは幸運だった。銃は、庭にある蔵の近く、茂みの中に、それと分からないように埋めていた。
 優介の財産、屋敷などの固定資産や流動資産はそれなりにあったようなのだが、相続はともかく、資産を管理するには陽介は幼すぎたので、父の弟がその面倒を見てくれることとなった。
 父の弟は、名前を水城 龍之介(みずき りゅうのすけ)といった。
 父親に弟がいたことを初めて知った陽介は、少々驚いた。
「兄さんの子供なら俺の子供と一緒だ。俺は本当の意味の父親ではないし、突然、父親だと思えと言われても陽介くんは戸惑うだけだと思うから言わないけど、良い育ての親にはなりたいと思う。遠慮なく甘えてくれていいからね」
 そう言って微笑む龍之介は、兄の優介とは似ず、体格も良く、柔和な男だった。優介は痩せていて、いつも思い詰めたような顔をしていたので、兄弟でもずいぶん違うものだと陽介は思った。
 だが、その感想の意味を、陽介はすぐに理解した。
 龍之介は、小鳥遊の血にまつわる事を、小鳥遊の家が憑き物筋の家系であることを、まったく知らなかった。
 龍之介の家に世話になるようになってから、龍之介が何度か話してくれた情報を足すに、それは、優介が望んで龍之介に知らせないようにしていたらしかった。
「小さい頃、兄は俺に過保護でね。俺は兄に育てられたと言っても過言じゃないんだ。よく分からないんだが、兄はどうも父親を──陽介くんのお爺さんだね、毛嫌いしてた節があって、俺を父親から庇うようにしてた」
 きっと、優介が龍之介に過保護になったのは、優介があの蔵から出てきた後のことなのだろう。優介は、龍之介が同じ目に合わないように配慮していたのだ。
 父親が龍之介に手を出さないように。
 憑き物を、産ませないように。
「俺が十二歳の頃だったかな。突然、父親が死んだ。銃殺だった。殺されたんだ。犯人はまだ捕まっていない。犯人の目星さえついていないんだ」
 龍之介は突然と言ったが、陽介にはそうは思えなかった。それまで生きていた優介と龍之介の父親が、龍之介が十二歳になった時に死んだというならそれは必然だった。
 優介は、龍之介が小鳥遊の血に取り込まれるのを守ったのだろう。
 憑き物の力を使って。
 銃殺。
 緋色の着物を着た少年の顔が目に浮かぶ。
「それからの兄は人が変わったように俺に冷たくなってね。父の死が堪えたのかもしれない。嫌っていても、実は好きだったと言うのか、好きの裏返しで嫌いだった、というのはよくあることだしね。少し、おかしくなってしまった。口うるさいぐらいに、大学を卒業したら必ず家から出て行けと言うようになったし、早く結婚しろとも言うようになった。それも、婿入りして小鳥遊という名字を捨てろと。まぁ、名字の方は図らずもその通りになってしまったんだが…」
 その言葉で、優介がやりたかった事がほぼ知れた。
 優介の人柄は何も変わっていない。人が変わったように見えたのは、龍之介が優介の事情を、ひいては小鳥遊の事情を何も知らないせいなのだ。
 優介は、最初から一貫して龍之介を小鳥遊の定めから守るために動いていた。龍之介にだけは捨てさせたかったのだ、『小鳥遊』という名にまつわる全てを。
 そして、龍之介はそれと意識しないままに小鳥遊を捨てた。優介の願った通りに。優介は、龍之介を小鳥遊の定めから守り通したのだ。本望だったろう。
 しかし、亡き優介の意志を知ると、陽介は釈然としない想いにかられた。父親は、自分の弟は守ったというのに、陽介を守ってくれなかった。守らないどころか、自ら陽介に小鳥遊の定めを強いた。その理由が分からなかった。分からないままに、ただ、ただ悲しかった。自分は、弟と同じようには父親に愛されなかったのだろうと思った。それが悲しかった。
「そういえば、綾乃さん、陽介くんの母親も、何者かに撃たれたんだよ。きっと、俺の父親を殺した奴と同一犯だろう」
 ふと、緋色の着物を着た少年の顔が浮かぶ。
「なんだか嫌な話ばかりしてすまないが、陽介くんも気をつけた方がいい。小鳥遊の家は、何者かに狙われているのかもしれない。綾乃さんの葬式の時、兄さんにもそう言ったんだが、兄さんは『それはないよ』と言うばかりで取り合ってくれなかった。兄さんを見たのはそれが最後だ。それからは邪険にされて兄さんには会える状態ではなかったし。そうしている内に、兄さんも…」
 そう言った後、龍之介は陽介を抱き締めた。陽介は抱き返すことも出来ずに立ちつくす。
「次は、陽介くん、いや、俺だろう。俺が死ぬことになるかもしれない…」
 陽介は、すがるように自分を抱く龍之介の背中に腕を回し、おずおずと抱き返した。そして、安心させるように小さく微笑むと、きっぱりと言った。
「大丈夫、それはないよ」 


 龍之介の家庭はいわゆる核家族だった。優しい奥さんと、柔和な龍之介と、人懐っこい四歳になる子供。それに陽介が加わって、四人の家族になった。
 最初は新しい環境に戸惑ったが、龍之介や龍之介の妻、時絵(ときえ)が色々と気を遣ってくれたため、すぐに打ちとけることができた。
 それに、龍之介の子供、里桜が、人見知りもせず陽介にまとわり付き、陽介を年の離れた兄のように慕ってくれたことも大きかった。陽介を兄同然に扱う里桜に引きずられるように、家族の輪に加わっていった。
 だが、陽介がスムーズに家族に加われた一番の理由は、自分の部屋を与えて貰えたことなのだろう。これにはずいぶん助かった。清美や美津里が突然現れても困ることがない。話し声を聞かれることもない。小鳥遊の秘密が露見することはない。
 陽介は、龍之介の家にいた六年間、憑き物の存在がばれないように過ごした。
 一度、高熱を出して寝込んだ幼い里桜が、
「夜中に苦しくて泣いていたら、赤い着物を着たお人形さんみたいな子がずっと手を握っててくれて、それで安心して眠れた」
 と話し出したことがあって一瞬どきりとしたが、それぐらいだった。
 その時は、熱に浮かされて見た幽霊か何かだと思われて終わった。里桜もそう思ったらしい。陽介は一人、胸を撫で下ろした。
 龍之介の家で過ごした六年間は、平和だった。まったくの普通の家族。それが何より陽介には嬉しかった。
 ここには、小鳥遊の名に付随する物、憑き物も、あの陰惨な儀式も、何もない。それが普通なのだが、今まで小鳥遊の家で過ごし、父親まで殺してしまった陽介にしてみれば、ただそれだけのことが嬉しかった。
 小鳥遊の血、憑き物を生み出す家系の血はここにも流れているが、それでも、幸せな家庭は築けるのだ。
 小鳥遊という名を捨てさえすれば。
 優介が龍之介に小鳥遊の名を捨てさせた事は、間違いなく正しいことだった。
 小鳥遊も、憑き物も、美少年使いも、そんなモノはない方がいい。父親の守り抜いたモノの中に身を置いて、陽介はそれを実感した。そして、陽介もこの普通の家庭を守りたいと思った。
 確かに、そう思うと同時に、自分には小鳥遊の定めを強いた優介を憎くも思ったし、自虐的に、父の守りたかったモノなど壊してしまえなどと思ったこともあったが、それでも、陽介は守る事を選んだ。
 小鳥遊の家のことは自分の胸の中だけに止めておこうと思った。
 壊すことというのは、自分を兄と慕う里桜を、自分と同じ目に合わすことに他ならない。
 それだけは絶対にしたくない。自分のそばで愉しそうに笑う里桜の笑顔を、曇らせたくない。

 そうして六年を過ごし、何事もなく高校を卒業し、十八になると、陽介は龍之介の家を出た。
 小鳥遊の屋敷の方は、そのままにしておいてくれているそうなので、そちらに移ることにした。
 龍之介からは、
「大学の学費のことでそう言っているのなら、気にしなくていいんだよ。俺にだって陽介くんを大学にやるぐらいの甲斐性はあるし、兄の財産だって、ほとんど手付かずで残ってるんだから」
 と引き留められた。「それに、働きに出るんだとしても、ここに居てくれて構わないよ。六年も一緒に暮らしたら家族も同然だよ。いなくなると寂しい」
 そう言われたが、陽介は丁重に断った。
 六年一緒に暮らして分かったことは、自分はやはり小鳥遊の人間でしかない、ということだった。
 龍之介が言ってくれた通り、陽介は家族同然に扱って貰っていたし、陽介も龍之介や時絵のことを実の親同然に思っていたが、それでも、清美や美津里の姿を見ると、自分は結局小鳥遊の人間で、水城龍之介の家には居ない方が良いのだと思った。
 離れることを告げると、里桜に随分泣かれた。
「じゃあ、ぼくもそっちに行く。お兄ちゃんといっしょに暮らす」
 八歳の誕生日にあげたクマのぬいぐるみを抱き締め、そう言って泣く里桜を宥めるのに苦労した。
 その里桜の願いが現実的に叶うわけがないのだと分かっていても、里桜について来られるのだけは困る。
 陽介が龍之介の家を出たいと思った一番の理由は、里桜に関係したことだったのだから。
 里桜が大きくなるに従って、ある不安が陽介の中で大きくなっていた。
 それは、自分が父親にされたことを、そのまま里桜にしてしまうのではないか、という不安。
 六年という歳月を経ても、あの夏の日の穢らわしい記憶は陽介を解き放ってはくれなかった。
 今でも、憑き物を産むまでの性的虐待の日々のことを夢に見ては、うなされて夜中に飛び起きる。
 どんな理由があるにせよ、レイプはレイプだ。しかも、実の父親から。そんな記憶を抱えて、癒されるはずもない。
 強姦で心に傷を負った人間は、自殺未遂を繰り返すか、強姦の事実を平気だと思い込むために性行為を繰り返すか、大きく二つに分けられると何かの本で読んだが、陽介の場合は、そのどちらでもなかった。
 陽介には、強姦で負った心の傷を受け取って産まれたもう一人の自分がいる。陽介自身は、代償行為としての自殺や性行為に興味がない。
 思わないが、その感情を失った代わりに穴がある。憑き物に心を持っていかれたせいで出来た、ごっそりとえぐり取られたような深い穴。
 その空虚な穴に闇が澱む。
 心の闇が、救われたいと叫ぶ。
 陽介の心の奥底には、誰かを自分と同じ目に合わせたいという渇望が生まれていた。
 心に傷はなくとも、レイプされた事実は変わらない。そして、そのレイプは、ただの一方的な性欲処理としてのレイプではない。憑き物を産み出すための、性欲とは別の理由で行われたレイプ。その事実が新たな傷を作った。嫌らしい欲望に囚われた。
 結局、傷を舐め合いたいだけなのだと陽介は思う。
 憑き物を抱えて、憑き物筋という秘密を抱えて、誰とも同じ痛みを分かちあえないままに、一人で傷を撫でるのは辛すぎた。同じ痛みを分けあえる誰かが欲しい。救ってくれる誰かが欲しい。そうでなくては癒されない。
 しかし、そうして傷を舐め合うには、同じ傷を負った者が必要だった。同じ傷を負える人間、憑き物を産むことができる人間、小鳥遊の血筋の人間。


 丁度そばに、小鳥遊の血を受け継いだ子供がいる。


 ぞっとした。そう考えた自分に、陽介は嫌悪を感じた。
 それをされることがどんなに嫌か、身をもって知っているはずなのに、そう考えた自分が酷く嫌だった。嫌だったが、思いのままにそうしてしまいたい誘惑を打ち消すことは出来なかった。
 孤独な人間が一人で抱えるには、その秘密と傷は重すぎた。
 陽介は自問する。
 自分がされたことを同じように誰かに行ったとして、なぜいけない?
 自分はそうされたのだ。
 だったら、自分には同じことをする権利ぐらいはあるはずだ。自分が癒されるために、自分が救われるために、誰かを犠牲にしたっていいはずだ。
 身勝手なことを考えている自分に、それを実行してしまいそうな自分に、陽介は自己嫌悪した。
 里桜を自分と同じ目に合わせたくない。その辛さは自分が一番良く知っている。だが──。
 一人悩み、結局、陽介は里桜のそばを離れることを選んだ。そうしなければ、いつか自分の重たい感情に負けてしまいそうだった。
 離れることで、自分が最後の美少年使い、そうなるべきなのだと心に決めた。
 これからもこうして悩み、醜い心に押し潰されそうになることだってあるだろう。それでも、自分のような傷を負う人間を、これ以上小鳥遊の血筋から出してはならない。そう思った。
 こうして小鳥遊陽介は、龍之介の家を、水城里桜の元を去っていった。


 その決断を後悔する日がくるとも知らずに。

 陽介(2)

 龍之介の家から出て二年が過ぎ、陽介は二十歳になった。
 その間も龍之介の家とは交流があったが、クリスマスやお正月などの年間行事で家を訪ねる以外は、つとめて龍之介の家を訪れないようにしていた。
 里桜に会うと、どうしても嫌なことを考えてしまうので辛い、というのもあるのだが、仕事の事で親同然の龍之介に嘘をついていたので、それが後ろめたいという気持ちもあった。
 陽介は龍之介に、
「作家になりたいので、父の遺産を食い潰しながら小説を書いています」
 と言っていた。実際は書いていない。書いた小説といえば、嘘を補強するためだけに少々の枚数を書き、龍之介に見せた程度だった。
 本当の仕事など、龍之介に言えるものではなかった。
 まさか、「剛田マリュ子という怪しい女性と組んで、復讐代行を仕事にしています」などと言えたものではない。
 陽介が最後に龍之介の家を訪ねたのは、五月の始め、里桜の十二歳の誕生日だった。
 ささやかな誕生日のお祝いを嬉しそうに享受する里桜を見て、陽介も幸せに思った。
 このまま、何事もなく幸せが続いてくれるといい。
 自分は憑き物を産み、父を殺し、そして今は憑き物を使って他人を殺し、小鳥遊の定めに生きているけれど、そんな自分にも幸せを望む権利があるのなら、どうか、この家族だけは幸せであって欲しい。
 そう、思った。  



 その年の八月の終わり。
 陽介の元に一本の電話が掛かってきた。
「あ、ああ、陽介くん…。元気かい…?」
 古めかしい黒電話からは、龍之介の憔悴しきった声。
 何かあったのだということは、その声だけで知れた。
「どうしたんです? オレよりも龍之介さんの方が元気がないようですが。何かありました?」
 陽介が言うと、電話の向こうの龍之介は、「そう、それなんだが…」と言ったきり、黙りこくってしまった。
 陽介は言葉を足す。
「何かあったんですね。話してください龍之介さん。オレだって一応は家族のつもりです。オレに出来ることがあるならなんだってします」
 陽介が促すと、龍之介の大きく息を吐く音が電話口から聞こえた。それから、ポツリと龍之介の声。
「陽介くんは、虚(ウロ)、というのを知っているか?」
「…虚?」
 聞いたことがなかった。陽介は問い返す。
「里桜が生まれた日、出産祝いに来てくれた兄さんが言ってたんだ。もし子供に虚が出たら、小鳥遊の家に連れてこいと。兄さんが言うには、小鳥遊の血筋の者には、まれに虚が出るそうでね……その虚が、里桜に出たんだ」
「分かりません。虚ってなんです? 病気ですか?」
 陽介が聞くと、龍之介は悲痛な声で、「ああ、病気だ」と言った。
「話しかけても反応しない。虚ろな目で、ただ虚空をぼんやりと見てる。病気だ」
 龍之介の言葉に、心臓が一つ、どくんと打った。
 陽介は、思わず受話器を落としそうになった。
 頭の中に、白い蔵と、手錠と、首輪──そういった映像が断片的に浮かぶ。

 ──ああ、知っている。
 その状態の事なら、よく知っている。

「……陽介くん?」
 しばし呆然としていたらしい。龍之介の声で陽介は我に返った。
「そのことなら良く知ってます。子供の頃、オレにも出ました…」
 陽介は喉から押し出すように言葉を発した。「そ、それで、どうしてそうなったのか、心当たりは…?」
 そう問いかける声が震えているのが自分でも分かった。
 吐き気がする。
 陽介の頭の中に浮かんだ龍之介の顔が、優介の顔に変わる。意識せずに体が震えた。
 陽介は、一番最悪な事を考えていた。
 龍之介が里桜に手を出したのではないか、という、そのことを。
 龍之介の声が聞こえる。
「分からないんだ。一週間ぐらい前、里桜が夜になっても帰って来なかったんだ。探しにいって、すぐに夜道に座り込んでいた里桜を見つけたんだが、その時には、もう…」
 龍之介の言葉に陽介は安堵した。そうだ、龍之介が里桜に何かするわけがない。自分の時とは違うのだ。過去のフラッシュバックが自分の判断をおかしくしている。
「医者にも連れていったんだが、極度のショック状態とか、失語症とか、そういった言葉を並べるだけで何もしてくれない。時間に任せる以外に手の施しようもないと、そうも言われた。その時、ふと兄さんの言葉を思い出して…」
 龍之介は熱っぽく言う。「なぁ、陽介くんもそうだったと言うなら、治るんだろう? 陽介くんの時はどうやって治したんだ?」
 陽介は言葉に困る。
 結局、一呼吸置いて陽介が言った言葉は、
「すいません。それは小鳥遊の家の秘伝で、当主以外は知ってはいけない決まりです。龍之介さんはもう小鳥遊の人間ではないのですから、教えるわにはいきません。ごめんなさい」
 だった。
 しかし──と口を挟む龍之介に、陽介は優しく言う。
「里桜くんをしばらくこちらでお預かりしてもよろしいでしょうか。必ず虚を取り除いてお帰しします。オレを信じてください、お父さん」
 こんな時だけ龍之介を『お父さん』と呼ぶ自分に、陽介は自己嫌悪した。


 車で龍之介の家に向かった。
 家に着くと、憔悴して、青ざめた顔の龍之介に案内され、里桜と対面した。
 里桜は、陽介の姿を見てもなんの反応も示さなかった。
 八歳の誕生日に陽介がプレゼントしたクマのぬいぐるみを胸に抱いて、ただ、ぼんやりと天井を見つめていた。
「ずっと、そのぬいぐるみを離そうとしないんだ」
 龍之介の言葉。
 だが、その言葉は陽介に届いていなかった。里桜を一目見た瞬間から、陽介は、目の前の光景をはっきりと知覚していなかった。
 陽介の心は過去の記憶の中に飛んで、里桜の姿と、昔の自分の姿とを重ねていた。
 頭の中がぼんやりしていく。体の感覚が失われ、自分と他人の区別がつかなくなる。
 頭の中は乳白色の霧のようなモノで覆われ、何も見えない。何も感じない。時間さえ流れない。白。ただそれだけ。
 その中で、心に流れ込んだ白い虚の中で、やがて声を聞いた。意識の縁が溶けた生クリームのようにどろどろと動きだし、もう一人の自分の産声を聞いた。
 白くねっとりと流れるクリームの中から、ゆっくりと腕が伸びてくる。肩を捕まれる。もう逃げられない。取り憑かれたら最後、望んで割れたわけではないもう一人の自分から、二度と逃れることができない。 

「……陽介くん、どうした?」
 肩を揺する龍之介の声で、陽介は我に返った。
 目の前に広がった白い世界は霧散し、陽介は白昼夢から覚めた。現実感を取り戻す。
「……いえ、なんでもないです。ちょっとぼんやりしてて」
 右手で顔を覆い、陽介は二、三度小さく首を振る。
 しっかりしなければならない。目の前の里桜はまだ、あの白い空間の中に閉じ込められたままなのだ。この程度で自分を見失っていたら、これから先のことなんて出来るはずもない。
 虚を取り除くこと──
 つまり、里桜の人格が割れるほど徹底的に辱めることなんて出来るはずもない。
「じゃあ、里桜くんを連れていきます」
 陽介が言うと、龍之介は頭を下げた。「ああ、頼むよ。助けてやってくれ」
 頭を下げた龍之介を見て、やはり龍之介は小鳥遊の人間ではないのだと改めて思った。
 自分の言った言葉が何を意味するのか、龍之介は知らない。知っていたら、頼むはずがない。
「安心してください。必ず治してお帰しします」
 龍之介を安心させるため、少し微笑んで陽介は言う。
 そんな自分に、やはり自分は小鳥遊の人間なのだと思った。
 自分の言った言葉が何を意味するのか、知った上でそう言っている。
 ふと、頭の中に父親の声がした。父親を殺したあの日に聞いた言葉が、頭の中に浮いた。

「俺は、全て分かっていてやったのだ」

 陽介は頭を振ってその声を打ち消すと、里桜の手を引いて、龍之介の家を後にした。



 家に帰ると、自分の部屋の布団の上に里桜を座らせた。
 虚空を見つめる里桜。
 陽介は、ナイフで自分の手首を切り裂いた。
 横に裂けた傷口から血が溢れる。
 血が、憑き物を呼ぶ。
 目の前には、薄紅色の着物を着た少年。
 現れた少年に陽介は問いかける。
「お前は、他人の記憶を覗けるな?」
 その言葉に、清美は小さく頷いた。「覗けるよ。何を見ればいいの?」
 そう言って、里桜の前に腰を下ろす。
 里桜に反応はない。
 ぬいぐるみを抱いたままぼんやりと座り込む里桜の目には、何も映っていない。
「どうして里桜がそうなったのか、理由が知りたい。記憶を見てくれないか」
「わかった」
 清美は両手で里桜の頬を挟むと、視線を合わせた。
 清美の瞳の色が、茶色から銀色へ変わる。
 陽介は目を閉じ、意識を清美と同調させた。清美の見ている映像が陽介の脳裏に浮んでくる。
 陽介と清美は、体が分かれているとはいえ、結局は別人格でしかない。
 普通の多重人格者の場合でも、別人格が知覚した情報は基本となる人格の方でも知覚している。人格が幾つあろうと、記憶する脳は一つなのだから。人格を交代させれば、お互いに相手のとった行動を語る事ができる。
 大雑把に言ってしまうと、陽介と清美の状況というのは二つの人格が同時に発露している状態でしかないのだから、お互いの情報は共有され、人格交代の時間差なしで知覚できる。
 つまり、清美の見たモノは陽介にも見える。
 今は、清美が里桜の視点から記憶を見、それを陽介も見ている。
 里桜の記憶は、ひどくぼんやりとしていた。
 所々、断片的にはっきりとした映像が見えるだけで、全体的に霞がかかったように薄れている。
 細い手首に、手錠がはめられているのが見えた。裸に剥かれている。場所は……狭い所のようだ。ぼやけていて詳しくは分からない。壁にはめ込んだような余り大きくない窓が見える。その形に見覚えがある。車の窓だ。陽介は察知した。ここは多分、ワゴンか何かの大きな車の中だ。
 男が見える。
 顔はぼんやりとしていて見えない。だが、四人ほどいるのは確認できた。
「なんだか、よく見えないな」
 目を閉じたままで陽介が呟く。清美の声が聞こえた。
「里桜くんの記憶はずいぶん壊れてるよ。思い出したくもないんだろうね…」
 里桜の視線は、自分を取り囲む男達に注がれている。視点が小刻みに揺れる。震えているのだと分かった。
 やがて、男達の腕が無遠慮に伸びてきて──
 陽介はそこで目を開けた。これ以上見るのは耐えられなかった。
 清美は、まだ里桜の記憶を覗いていた。「乱暴されてる。そうすることで愉しむみたいに…。ひどい…」
 自分の視覚情報が最優先されるため、目を開けてしまえば清美の見ているモノは見えない。
 だが、もう充分だと陽介は思った。見たくない。
「もういい」
 陽介は不快感を隠さぬままに清美を止めた。それでも、清美は陽介の制止を無視して記憶を覗き続ける。
「陽介さんを呼んでる…。助けてって、呼んでる…」
 瞬間、陽介の体がぞわりと震えた。ぬいぐるみを抱いたまま、心を無くして座り込む里桜に視線をやる。

 この子は、オレに助けを求めたのだ──。

 そう思うと心も震えた。何も知らなかった自分を思うと、心が震えた。
 求めても助けられることのなかった里桜は、ただ、人形のように座っている。
「もういいんだ、清美。それ以上見るな」
 知りたくなかった。守らなければいけなかった者を守れなかった時のことなど、知りたくなかった。助けを求めていたのに、それにさえも気がつかなかった時のことなど、知りたくもなかった。
 全ては、もう、遅い。
 今さら、もう。
「里桜くんは、『お兄ちゃん、助けて…!』って、何度も陽介さんを呼んでる」
 清美は見ている。暴行を受けている里桜が必死で助けを呼ぶ様子を、清美は見ている。どれだけ見ても、そこに陽介は現れないというのに。
「もういい! やめろ! 聞きたくない!」
 陽介は叫んで、清美の肩を強く掴んだ。清美はようやく言葉を止め、ゆっくりと振り向く。陽介と視線を合わせると、ポツリと言う。

「その声も、今、途切れた」 

 陽介はうつむくと、ゆっくりと両手で顔を覆う。
 無力感に苛まれた。
 知らなかったのだから助けようもなかったのだが、それも含めて、ただ、無力感に襲われた。
 龍之介の家を出るべきではなかった、と思った。
 それで助けられたかどうか分からないが、それでもそう思った。
 後悔。
 里桜のそばを離れてしまったことへの、取り返しのつかない後悔。
 今だって、里桜は助けを求めているのだろう。陽介があげたぬいぐるみを離そうとしないのは、そういうことなのだ。
 更に無力さを痛感する。
 陽介は、里桜を助けることができない。
 暴行を受けていた時の里桜を助けられなかった上に、今の状態の里桜でさえ陽介には救えない。
 救う行為とは、里桜の意識を『こっち側』へ繋ぐ行為。
 里桜の意識を『こっち側』へ繋ぐ行為とは、里桜の人格を割る行為。
 里桜を美少年使いにする事でしか、陽介は里桜を引き戻せない。
 自分がそうであったように、その儀式の中には救いなどない。深い傷が残るだけ。暴行でしかない。
「清美」
 陽介は顔を上げると、低い声で清美を呼んだ。
 清美が陽介を見上げる。「なぁに?」
「お前は、記憶をいじれたな?」
「うん、なにが望み?」
「じゃあ、里桜に暴行した男の一人を、オレの顔にしてくれ」
 陽介の言葉に、清美は少し驚いた顔をする。「別にいいけど…。でも、どうして?」
「里桜を美少年使いにする。どうせ憎まれるなら、最初から全部オレのせいにする」
 悲壮な表情。「やり方を間違ってるのは知ってる。里桜の意志を無視してるのもね。でも、美少年使いがその力を最初、何に使うかも知ってるつもりだ。里桜に人殺しはさせたくない。心を病んで欲しくもない」
「里桜くんに乱暴した人達はどうするの?」
「オレが殺す」
 陽介は吐き捨てるように言う。「そいつらを殺しておけば、里桜が憎む対象はオレしかいなくなる。里桜に人殺しはさせない。絶対に。里桜を小鳥遊の血に染めたくない。オレは、小鳥遊にまつわるものを捨てさえすれば、幸せに生きられることを知った。オレにはもう無理でも、せめて里桜だけは普通に生きていて欲しいんだ」
「うん、わかった。陽介さんの言う通りにする」
 清美が頷く。「でも、記憶をいじれるほど深くまで入り込むには、二、三日ぐらい時間がかかるよ?」
「いいさ。急がない。オレはその間に、里桜に暴行した連中を調べて、始末する」
 陽介はそう言うと、清美を残して部屋を後にした。去り際、ちらりと里桜を見る。
 里桜は、変わらずにぼんやりと天井を見つめていた。
 陽介に視線が移ることはない。
 陽介は小さく首を振って、歩き出す。
 里桜を抱き締めて一晩中そばに居てやりたいと思ったが、そうしたところで里桜が良くなるわけではない。今は、自分の出来ることをするべきだと思った。
 まず、里桜に暴行した男達の素性を調べなければならない。
 男達の手がかりは何もなかったが、陽介には一つだけ頼れるものがあった。腕のいい探偵を一人知っている。
 高校の時に仲の良かった同級生が今は探偵助手をしており、その縁で探偵とも知り合いになった。
 シルクハットとタキシードで身を固め、いつでも紳士然としているその探偵は変人の類に入るが、自ら『名探偵』と名乗るだけあって腕は確かだ。彼に任せれはすぐに調べもつくだろう。
 陽介は玄関に繋がる廊下に行き、そこに置いてある黒電話を手に取ると、アドレス帳を確認しながら、『メフィストフェレス探偵事務所』へ電話をかけた。

 メフィストフェレス

「ああ、愚かな君の友人というのもやはり愚かなのかねファウスト君。この名探偵である私に人探しなどという些事を頼むなんて、発狂していると言わざるを得ないっ!」

 黒い皮張りの椅子に腰を沈め、室内だというのに黒いシルクハットを被った男、メフィストフェレスは大きな声で喚いた。
 喚きながら、鼻の下に『ル』の字に生えた髭をせわしなくいじる。これは、機嫌が悪いときの彼の癖である。サルバドール・ダリ似の外国人が行うと、髭をいじる姿も様になるなぁ…とファウストは思う。
 ファウストは女性である。メフィストフェレスに変なあだ名をつけられているが、純粋な日本人だ。
 黒髪をミディアムボブに切りそろえ、丸メガネをかけている。一見すると地味で、美人ではないが、グラマラスな体型と相まうと妙な色気がある。
 ファウストは応接用のガラステーブルに乗ったコーヒーカップを片付けながら、
「今回の仕事のどこが些事なのさ?」
 と呆れ顔をした。「陽介が探して欲しいって言った人物は、いつもみたいに家出した女の子とか、浮気の相手とか、迷子の仔犬とかじゃなくて、悪人なんだよ?」
 言いながら、つい先ほどまで友人が飲んでいたコーヒーカップをお盆に載せる。
 高校時代の友人だった小鳥遊 陽介から、この『メフィストフェレス探偵事務所』に電話があったのが小一時間前。
 電話を取ったファウストとの挨拶もそこそこに、陽介は、頼みたいことがあるのでこれから行ってもいいか、などと言う。
 勿論それが仕事であるから断る理由は無いし、友人の頼みならば尽力するつもりでもあったから、ファウストは二つ返事で了解した。
 すぐに行く、との言葉通り、陽介が事務所を訪れのが三十分前。
 ファウストが陽介と会うのは、実に一年ぶりのことだった。
 陽介は親の遺産を食い潰して作家の卵をしているので暇らしいし、ファウストも仕事の依頼の来ない時は暇なのだが、いつ来るのか分からない依頼人のために事務所を空けるわけにもいかず、会う機会がなかった。
 探偵であるメフィストフェレスに留守を任せることができればファウストも外出できるのだが、当のメフィストフェレスといえば、誰に対しても尊大な態度を取るので(それどころか、「さて、自分の問題を自分で解決しようとしない甘え根性丸出しの依頼人諸君」などと言いかねないので)、接客をさせるわけにもいかなかった。せっかく来てくれた依頼人が激怒して帰ってしまう。
 そんな事情で、ファウストが陽介と会うのも久しぶりになってしまっていた。
 友人に会えるのが嬉しくて、いつもより気合いを入れてメイクしてしまったのは内緒だ。
 普段の3割増しぐらい美人になったその姿を見て、メフィストフェレスが苦虫を千匹ほど噛み潰したような顔をしたが、さっくりと無視する。
 久しぶりに姿を確認した友人は、相変わらず痩せていて、動物性タンパク質が足りていなさそうだった。顔の造形は整っているものの、無造作にうしろで束ねた長髪と、現代の装いをまるっきり拒否した黒衣の和装が大きなマイナス点になっている。
 高校を卒業したあとの陽介は、ずっとこのスタイルだった。
 ただの変人だと思う。
 だが、変人と言うなら自分もそうなので、ファウストは気にならなかった。
 そんな当の変人は、ファウストの顔を見て「むむ。」と唸る。
「気のせいかな、前に会った時より綺麗になってる気がする…」
 陽介の言葉に、ファウストは「にひひひひ…」と笑った。メイクと着替えに時間をかけた効果が出ているようだ。容姿には自信のないファウストだったが、自分も女性というカテゴリーである以上、磨けば光る逸材だと信じたい。
「陽介の方は……変わってないね。初めて会った時から」
 ファウストが言うと、陽介は小さく笑って、「変わってないように見えてるなら安心だ」と答えた。
 ファウストが初めて陽介に会ったのは、自分の女性性を磨きも光らせもしていなかった高校時代のことだった。
 その頃のファウストは、形容するなら『苔のような』女の子だった。
 外見は、とにかく地味。カットを怠ったぼさぼさの長い髪で、丸メガネで、運動も苦手だし勉強も不得意だし、得意なものが何もなかった。
 それでも本を読むことだけは好きだったので、図書委員になっていつでも図書室にいた。
 ただ性格が地味で声も小さいため、本の貸し出し係のような人前に出る仕事はできない。
 ファウストは図書室の奥の奥、誰も来ない『郷土の歴史コーナー』の本棚と本棚の間に、苔のようにひっそりと生息していた。
 その場所で、誰にも知られず毎日をやり過ごすのがファウストの日常だった。
 そんな苔少女を発見したのが陽介である。
 ある日、本を取るための踏み台に座って本を読んでいたファウストに、
「あんた、誰だ…?」
 と声をかけてきたのが始まりだ。
 ずいぶんと失礼な言葉だと思ったが、陽介の視線が自分の背後に向けられているのを知ると、瞬時にドキリとした。
 こわごわと後ろを振り向いてみたが、誰もいない。

 でもたぶん、見られたのだ。
 油断してる隙に──。
 私の秘密を──。

 ファウストは恐る恐る、
「誰か、いたの…?」
 と聞いてみる。
 陽介はその言葉に、
「いや、いい。気のせいだった。暗い場所だから、君と影を間違えた」
 と答えた。
 人間として暗いのは分かっていたが、まさか影と間違えられるぐらい暗いとは思わなかった。そこまで暗黒物質じゃない、と思いたい。
 だた、その言葉を聞くに、ファウストの秘密はバレていないようだった。
 安堵して、ふぅ、と息を吐く。
 ファウストはその時、自分の秘密がバレていないと判断したが、実際はバレバレだった。
 それでも「気のせいだった」と言われてしまえば、その言葉を信じてしまうのがファウストである。
 根が単純で、空気が読めなくて、浅はか。冗談も通じない。それゆえに他人から騙されることが多くて、人と人との間で生きていくのが困難な性質。
 そんな人間が、他人に知られてはいけない秘密を抱えている。

 悪魔に取り憑かれている、という秘密を。

 苔少女が苔になっているのにも理由があるのだった。

 その日はそれで接触が終わったが、次の日から、学校ですれ違う度に陽介から声をかけられるようになった。
 おはよう、という、ただそれだけの何気ない挨拶。
 最初は戸惑ったが、ファウストにはそれが嬉しかった。なにせ、学校に友達がいなかったのだ。
 挨拶は親しい人にするものだ。
 毎日挨拶されたのだからかなり親しいわけで、かなり親しいということは親友というわけだ。
 親友ということは、一人では行きにくかった映画館に誘ってもいいはずだし、知らない人ではないのだから気軽に声をかけてもいいはずだ。
「明日、映画を観に行かない? 観たい映画があるの」
 ただの知り合いなのに、もう親友のつもりで声をかけた。まったく空気を読めていなかった。
 陽介は、名前も知らない人から親しげに映画に誘われて戸惑ったが、 「いいよ」と答えた。
 陽介は陽介で、ファウストに付き従う黒い影の正体が知りたかったのである。
 憑き物ではない、なにか別の、影に潜むもの。
 そんなものが学校に、それも図書室の奥にいたので興味を持っていたのだった。
 こうして両者の思惑は一致して、それ以来、ファウストと陽介の関係は「親友」として続いている。


「どうぞ入って入って。一客万来~☆ 爆熱歓迎~☆」
 怪しげな造語で歓迎の気持ちを伝えると、ファウストは陽介を事務所の中に招き入れた。
 陽介は応接用のソファーに座ると、少し離れたところに置いてある重厚な木製の机に視線をやった。
 そこにはメフィストフェレスがいる。
 窓を背に、皮張りの椅子に座ったメフィストフェレスも陽介を見てめていた。
 陽介が小さく笑う。
「お久しぶりです、メフィストフェレスさん。貴方もお変わりがないようで」
「愚問だな陽介君。君こそ、相変わらず死に切れない者や赤い着物を着た鉄の塊に好かれているようじゃないか」
 メフィストフェレスと陽介は、一年前、初めてファウストを介して会った時から、お互いに何かを知ったような──いや、まるで何年も前からお互いを知っていたかのような──そんなそぶりだった。
 何を知ったのかファウストには分からないし、メフィストフェレスに聞いても、「愚か」や「愚鈍」といった言葉で罵倒されるばかりで教えて貰えないのだが、まさか、陽介はメフィストフェレスの正体に気付いているのではないかと思い、ファウストは一人困惑する。
 嘘のような話だが、メフィストフェレスは、魔界からやってきた正真正銘の悪魔だ。
 あれは、高校1年生の夏休みのこと。
 古本屋で百円で買ってきた『優しいおまじない入門』という本に、『擦り傷を治すおまじない』などのおおよそ下らない記述に混じって、『悪魔を呼び出すおまじない』というものがあった。
 おまじないで悪魔が出てくるものかと、むしろ、おまじないで出てくる悪魔がいるなら見てみたいと、苦笑しながらもなんとなく試してみたところ、本当に悪魔が出てきた。
 それがメフィストフェレスだ。
 しかも厄介な事に、呼び出すおまじないは書かれていたものの、帰すおまじないは書いてなかった。その上、メフィストフェレスも異空間を繋げる術を知らないらしく、メフィストフェレスは魔界に帰れなくなった。
 そんな訳でファウストは責任を取らされ、メフィストフェレスの面倒を見ることになったのである。
 ファウスト、という名前だって本名ではないのだが、メフィストフェレスが執拗にそう呼称するので、仕方なく自分もそう名乗ることにした。
 いや、仕方なく──というのは半分ほど嘘だ。ファウストは自分の名前が嫌いだったので、喜んで偽名を名乗っている。自分の本名は、自分に似つかわしくない名前だという自覚がある。
 そして高校を卒業後は、推理小説を何気なく読んだメフィストフェレスの、
「さて、連続殺人事件においては見立てのためだけに意味もなく殺される役回りのファウスト君。私は探偵になることにした。それも名探偵に、だ!」
 という思い付きに流されるかたちで、探偵事務所を開いて探偵助手という身分になっている。
 メフィストフェレスは悪魔なだけあって数々の不思議な技を使い、探偵業のイロハを知らなくても仕事になっているのだから、あながちこの職業選択も間違いではなかったのだとファウストは思った。
 探偵業を始めてから多くの依頼主に会ったが、今のところ誰にもメフィストフェレスの正体はバレていない。
 容貌はドイツ人風──黒髪で彫りの深い顔立ち──であり、普通の白人にしか見えないのだから、日常生活を送る上では誰も悪魔だと分かりはしないと思うのだが──。
 それでも、陽介は初めてメフィストフェレスを見た瞬間から何かを知ったようだった。
 一目で正体が分かるなんて、そんなことがあるのだろうか。
 いや、普通の人間には分かるはずがない。
 そうファウストは思った。
 ファウストにしたって、メフィストフェレスが悪魔だと知っているから分かるだけで、そうと知らなければ、紳士然とした普通の外人、いや、変人、としか思わないだろう。
 そう納得して気を落ち着かせたファウストは、給湯室に下がってインスタントのコーヒーをいれた。戻ってくると、陽介の前に置く。
「それで? 頼みって何~?」
 対面するソファーに腰を下ろしてファウストが問うと、陽介は少し言いにくそうな顔をして、それでも、ゆっくりと言葉を選んで語った。
 陽介の話の内容に、ファウストは少々面食らう。
 陽介の頼みというのは、要約すると、「里桜という名の従兄弟が、四人ほどの見ず知らずの男に強姦された。そいつらを探して欲しい」だった。
 手がかりと言えるようなものは、「大きな車を足に使っている」ぐらいしかないようだったが、それでもファウストは頷いた。
「わかった、探してみるね」
 ファウストが返事をすると、陽介は安堵した顔で「頼む」と言った。「できるだけすぐに見つけて欲しいんだ」
 それに関して、ファウストは約束できなかった。ファウストは探偵助手であって探偵ではない。ただの素人と変わりがない。
 メフィストフェレスをちらりと見る。
 探偵としては素人と同じ、というのはメフィストフェレスも一緒なのだが、当の探偵はシルクハットを人指し指でくるくる回しながら、「愚問だ。誰に向かって言っているのかね」と尊大に言った。
 それを聞いた陽介は、満足そうに頷いて事務所をあとにした。 
 どうやら、陽介はメフィストフェレスを全面的に信用しているらしい。
 ファウストにしてみれば、こんな『尊大』で、『場所をわきまえずいつでもシルクハットとタキシードで身を固めている変人』のどこに信用が置けるのか、さっぱり分からなかった。


 陽介が帰ったあと、探偵はシルクハットを目深にかぶって、「ぐぅ」とか「むぅ」とか唸っていた。
 これは、仕事をしたくない時の態度だ。
 ファウストはため息をつく。
「陽介とは、すぐに解決すると約束したばかりでしょ? それに、相手は悪人、それも子供を強姦するようなひどい輩なんだからね。今すぐにでも探しにいくべきだよ」
 そう言うと、椅子に沈み込んだまま唸っていたメフィストフェレスは、大きな声で「それがいかん!」とわめいた。
「思えば、どうして私がそんなヘタレどもを探さなければならぬのだ! 子供を強姦するような輩はヘタレだ! ヘタレ攻めだ! そんな輩を探そうモノならヘタレ攻めが伝染る!」
 意味の分からない言葉を大声で並べ立てるメフィストフェレスに、ファウストはげんなりした。
 銀色のトレイにコーヒーカップを置く手を休めて、依頼人用のソファーに座り込む。
「そんなにイヤなら、あのときに断れば良かったのに」
「君は愚かさ120%だなぁファウスト君。断りたくても断れなかったから、こうして君に愚痴をこぼしているんじゃないか」
 メフィストフェレスはファウストを睨む。「君も厄介な友人を持ったものだな。彼の後ろで、赤い着物を着た鉄の塊が恐い顔をしていたので、私は断りたくても断れなかったのだ。断ったらどんなひどい目に合うか、知れたものではない」
「…赤い着物を着た鉄の塊?」
 そんなモノが居ただろうか。
「君の目は節穴、と言うよりはむしろ、眼球がはまっているのかどうか疑問なぐらいだから見えなかったろうがね、あんなモノとやり合ったら、いくら上流階級セレブ悪魔の私と言えども無事では済まぬ」
 メフィストフェレスは足元に立てかけてあったステッキを持つと、ステッキの先をファウストに向けて、「バン!」と言った。銃のつもりらしい。
 その行動の意味が分からなかったが、自称『上流階級セレブ悪魔』の言動をいちいち真に受けていても仕方がない。ファウストはさらりと聞き流した。
「でも、陽介もその人たちを見つけたあと、どうするつもりなのかな。レイプじゃ、訴えるのも大変だろうに」
 ファウストが目を伏せて言うと、「愚者。」と吐き捨てる言葉が聞こえてきた。
「君は友人のことも分からぬほどに愚かなのかね。君の友人は、それほど平和的なタイプではないよ」
 ファウストは顔を上げてメフィストフェレスを見る。思い当たったことを口にする。
「まさか、復讐、とか…?」
「それ以外に何をすると言うのだね?」
 メフィストフェレスはステッキを下ろすと、さも当然のように言う。
「そ、そんなのダメだよ…! やめさせなきゃ…!」
「君にその権利は無いよファウスト君」
 メフィストフェレスの口から、低音の、冷たい言葉。
「だが、まぁ安心したまえ。君の友達は何もしない。彼の痩せた体を見れば一目瞭然じゃないか。四人の男を相手に勝てるはずがない。だから、彼は何もしない」
「……本当?」
 ファウストが問うと、メフィストフェレスはニコリと笑った。
「ああ、神に誓ってもいい。彼は何もしない」
 彼は、何もしない──。
 わざと、彼以外の人物のことには言及しない。
 メフィストフェレスの言葉に、ファウストは安堵する。
 メフィストフェレスが悪魔だということを、ファウスト自身が一番わかっていないのだ。
 メフィストフェレスはシルクハットのつばを持つと、ひょいと脱いで、投げた。
 くるくると回転しながら飛んだシルクハットは、ファウストの手に収まる。
「中を見るがいいファウスト君」
 メフィストフェレスの言葉に従い、ファウストはシルクハットをひっくり返す。中には薔薇の刻印の押された封筒。
 開封すると、絡みつくイバラをデザインした便箋が入っていた。
「それが、君の友人の探している男達の素性だ」
 手紙に目をやると、四人分の見知らぬ名前と、住所。顔写真。車の車種とナンバーまで控えてある。
 ファウストが視線を上げると、メフィストフェレスはニヤニヤ笑っていた。
「友人に教えるかどうかは君に任せるよ。君が選びたまえ。見つからなかったことにしたって良いのだ」
 ファウストはシルクハットをメフィストフェレスに向かって放ると、
「とりあえず、この情報が確かなのか確認してくるね」
 そう言って足早に出かけて行った。
 シルクハットをキャッチしたメフィストフェレスは、帽子を被り直すと、椅子を回転させて窓の外を見る。
 もう外は太陽が沈み出し、夕暮れが風景を染めていた。
 メフィストフェレスは愉しそうに呟く。
「また、人が死ぬな。無慈悲に、無惨に、無意味に」
 メフィストフェレスの顔には、悪魔の笑み。 



 四日後。
 メフィストフェレスが座る机の前に立ったファウストは、机に新聞を広げると、新聞の上から、ばん、と机を叩いた。
「……これは、どういうことなの?」
 ファウストが、かけている丸メガネの向こうに見えるメフィストフェレスを睨む。
 ファウストの手の下には、
『国道を走る一台の車が、戦車砲のようなもので撃たれて横転。中には四つの焼け焦げた跡。焼け跡からは車の持ち主の男性と、その友人らのDNA型が検出されたが、詳しい死因は不明。人体が、跡形も残らないほどの高熱で燃えたようだ』
 という記事。
 メフィストフェレスはその記事をちらりと見て、「ふん」と鼻を鳴らす。
「ああ、物の道理が分からぬ愚かなファウスト君。私に聞かれても知る由もないではないか。私に聞くよりなら君の友人に聞きたまえよ」
「だって、貴方が……!」
 ファウストは激高する。「貴方が、大丈夫だと言ったんじゃないっ! 復讐はしないって!」
「そんなことは言っていないよ」
 メフィストフェレスが涼しい顔で言う。「私は、『彼は』何もしない、と言ったのだ。嘘はついていないよ。それとも、君の友人は戦車でも持っているのかね?」
 女性を口説く時のような低く甘い声で続ける。「まぁ、百歩譲って、彼が誰か他の人間に復讐を依頼したとしよう。それでも人体自然発火は無理だと思うがね。だから、これはまぁ、事故、みたいなモノだな。少しばかり悪意の籠もった事故だよ。犯人は存在しない。水面に写った月の如し、だね。見えているからと言って、そこに在るとは限らない」
「そんなことはどうだっていいのっ!」
 ファウストはもう一度、机に平手を落とした。「その男たちの住所を教えた時、陽介は私に、何もしないと約束したんだよ! 信用できないなら、しばらくそっちで生活してもいいとさえ言ったの!」
「だから、彼だってそう言ってるんじゃないか。『彼自身は何もしない』と。君との約束は守ってるはずだ」
「ちがうっ!」
 叫んで、ファウストは激情をこらえるようにうつむいた。無理に押し出した低い声で言う。「貴方も、陽介も、約束を破ったんだ。私を、裏切ったんだ…」
 ファウストの言葉に、メフィストフェレスは大げさにため息を吐いた。人指し指でシルクハットのつばを少し上げ、鋭い視線をファウストに送る。
「自分に酔うのは止めたまえよファウスト君。見苦しい。分かっていて道化を演じるのはピエロでしかないのだよ」
 ファウストがゆっくりと顔を上げる。メフィストフェレスは冷笑する。
「彼に男たちの居場所を教えたのは、君だ」
 切り捨てるようなメフィストフェレスの言葉に、ファウストは口元を押さえる。泣き出しそうな声で言う。
「私……そんなつもりじゃ…」
「嘘はいけないよファウスト君。君は、彼に男たちの居場所を教えたらどうなるのか、見当ぐらい付いていたはずだ。一番最初に復讐を疑ったのは君だよ。私は言ったよ、見つからなかったことにしても良いのだと。だが、君はそうしなかった。彼に伝えた」
「だって、まさか本当に…」
 口元を押さえたまま、ファウストは小さく首を振る。
 メフィストフェレスは冷たい目でファウストを見る。
「その発言こそが、君自身、どうなるのか分かっていた証拠じゃないか。こうなって欲しくなかったのなら、君は彼に教えるべきではなかったのだ」
 ファウストの目からポロポロと涙がこぼれる。「だって、私に、約束してくれたもの…。裏切るなんて……思わなかったから…」
「まだ道化に徹するつもりかねファウスト君。化粧の落ちたピエロなど醜悪なだけだぞ。約束? 信頼? 裏切り? そんなものは君の涙の意味とは関係ない」
 メフィストフェレスの言葉は厳しい。「被害者ヅラするのもいい加減やめたまえ。自分でも分かっているくせにそこから目を背けようとするのなら、私が二度と背ける事のできないようにしてあげよう」
 口の端で笑う。
「君の友人は銃だった。私は彼に弾を込めた」
 ファウストは涙で濡れた目を見開き、言葉を振り払うように首を振る。
 メフィストフェレスは告げる。

「そして、その引き金を引いたのは、君だ」

「君が間接的に、手も汚さずに、彼ら四人を殺したのだ」

 ファウストは、ただ、泣いた。こぼれた涙は新聞の上に丸く落ちて、紙に吸われていく。
 メフィストフェレスは立ち上がると、一転して優しく微笑み、腕を伸ばした。ファウストの頬をそっと指で拭いた。
「安心したまえファウスト君。君が関わることで発生した死、それにさえ耐え切れぬ君の脆弱な魂は、きっと、天国へ行くだろうよ」
 ファウストの涙は止まらなかった。涙の溢れるままにファウストは泣いた。
 メフィストフェレスの手が動いて、ファウストの髪を撫でる。
「そんなに死が恐いのかね。他人の死も、自分の死も、恐れることはないのだよファウスト君。皆、いずれ死ぬのだからね。死が肉を持つ者に与えられた業ならば、業によって死ぬのもまた定め。君の引いた引き金は悪業を持つ者のみを射抜いたのだ。君は正義だ。だから、妙齢の女性が子供みたいに泣くのではないよ」
「うん…」
 ファウストは思考を停止させてメフィストフェレスの言葉にただ頷いた。メガネを外してごしごしと涙を拭く。
「ねぇ、メフィストフェレス…」
 ファウストは言う。
 メフィストフェレスは答える。「何かね?」
「……天国って、いいところなの?」
 涙声でファウストが尋ねると、メフィストフェレスは鼻で笑った。「つまらん所だ」
「どうして……?」
 ファウストの言葉に、メフィストフェレスは大げさに肩をすくめてみせた。
「ああ……無知蒙昧なファウスト君。君はそんなことも分からないのかね。理由は簡単だ。私が居ないからだ」
 メフィストフェレスは悪魔的な表情を浮かべると、ニィと笑った。

「こんな風に悪魔にそそのかされない人生など、つまらないと思わないかね?」 

 陽介

 里桜を白い壁の地下室に閉じ込めてからの一週間、陽介は感情を殺した。
 そうしなければ何もできなかった。
 生気のない瞳で虚空を見つめながら、すがるようにクマのぬいぐるみを抱いている里桜を犯す作業は、滑稽以外の何物でもなかった。
 別に、陽介は里桜を犯したいわけではない。
 ただそれが、里桜にとって苦痛であろうからそうしているだけだった。苦痛を与え続け、里桜の人格を割るために腰を振っているだけだった。その行為は下らなかった。下らなすぎて、気を抜くと、泣きわめいて二度と立ち上がれなくなるほどの失望感だった。
 里桜と暮らしていた当時、陽介は、『もしかしたら里桜に手を出してしまうのではないか』と悩んだものだが、実際にその環境に置かれてみると、その考えはただの気の迷いなのだと知れた。できるはずもなかった。自分がされて負った傷を、どうして他人に与えることができよう。
 言葉もなく、ぼんやりとベッドに寝そべる里桜の姿に、昔の自分の姿を垣間見て、陽介は吐き気さえ覚えた。
 精神的外傷。
 虐待されていた状況の再体験。
 そんな状態で、しかも性欲と関係しないセックスにおいて、身体が反応するはずもなかった。陽介は、無理に勃起させるために薬に頼らなければならなかった。やりたくもない暴力を振るうために薬を飲むのは、下らなすぎた。やり場のない憎しみがドロドロと胸の内側に溜まっていく。
 陽介は、その時初めて、小鳥遊の血にまつわる全てのものを呪った。
 父親にされたこととまったく同じ暴力を六日間繰り返し、そして、七日目の夜、里桜が割れた。
 小鳥遊の血で作り上げられたもう一人の里桜も、クマのぬいぐるみを抱いていた。陽介が里桜にあげた物と、まったく同じぬいぐるみを。
 美少年使いになるということは、自らの人格を割って、それに肉体を与えることと同じだ。自分の中に無いものは割れてこない。
 陽介の父、優介は美津里を割った。
 陽介は清美を割った。
 里桜は、有希という名の少年を割った。
 多分それは、陽介と里桜が一緒に暮らしていた頃の、幸せだった自分を割ったに違いなかった。
 だが、それだからこそ、きっと有希は里桜に望まれないのだろう。自分の一部が肉を持ち、独立し、動いている姿を見るのは恐怖に近い。自分を客観的に見せられるというのは、嫌悪感以外の何物でもない。陽介は清美が嫌いだった。アレが自分の中から割れてきたことに、我慢がならなかった。それと同じ感情を、里桜も有希に対して持つのだろう。
「…すまない、オレは、こうするより他に方法を知らない」
 陽介は、ベッドの上で呆然としている里桜にそう声をかけた。
 そして、里桜の左太ももの内側を、折りたたみナイフで切り裂いた。
 溢れ出る血。
 こぼれていく苦痛。
 憑き物の門。
 虚構と現実とをつなぐ出入り口。
 これが、この儀式の終わりの証。
 太ももを傷つけられても、里桜は何も言わなかった。血を拭うことすらしない。里桜のそばにたたずむ有希は、小さく笑っていた。
 陽介が、用意していた服を手渡すと、里桜はのろのろと着替え始めた。有希は着替えを手伝おうと手をのばして、そして、したたかに頬を打たれた。
「触るな!」
 里桜が意識を取り戻してから、初めて言った言葉はそれだった。「誰だお前は! 僕はお前なんか知らない!」
 赤くなった頬を押さえ、泣きそうな顔をして、有希は薄れて、消えた。
 有希が消え去るのを見ても、里桜は何も驚かなかった。陽介にも経験がある。憑き物を産んだ後には、どこか感情が麻痺するのだ。それは、人格の一部が割れ、失われた反動なのかもしれない。
 着替えが終わると、里桜はおぼつかない足取りで出口に向かって歩き出した。陽介の顔を見ようともしなかった。
 擦れ違いざまに、陽介は里桜に声をかける。それは、言っておかなければならない言葉だった。
「お前を襲った他の人間は、みんなオレが殺したよ」
 里桜の足が止まる。
 しかし、陽介の顔を見ることはしない。
 陽介は続けた。「お前の産んだモノ、あれは、憑き物だ。小鳥遊の血筋の人間はあれを使役し、人を殺す。使い方はもう知ってるはずだ。憑き物は、もう一人のお前なんだからな」
 陽介がそう言い終えると、里桜は何も答えずに歩き出した。
 里桜が階段をのぼっていく音を背中で聞き、やがてその足音が聞こえなくなると、陽介は先ほどまで里桜が使っていたベッドに座り込み、ゆっくりと身を横たえた。
 酷く、疲れていた。
 陽介は両手で顔を覆うと、一言、
「…くだらない」
 そう吐き捨てた。 
 両手で隠した瞳から、涙が溢れて止まらなかった。


 それから三日間、陽介は自室に篭って、寝込んでいた。
 何もする気になれなかった。
 ただ、疲労だけを感じていた。
 夢を見ている時はあの地下室での悪夢を追体験していたし、起きている時は、どうしてこんなことになってしまったのか、それだけを考えていた。

 オレは、自分が最後の美少年使いになると決めたのではなかったか──

 昔、強く思ったその誓いは破られて、今ではもう無惨なほどバラバラになっていた。誓いの破片は、消えることなく心の底に突き刺さって、陽介を苦しめる材料にしかならなかった。 

『お前にもいずれ分かる』

 不意に、父が最後に言った言葉が頭をよぎる。『小鳥遊の定めからは逃れられない』
「うるさい……っ!」
 頭の中の言葉を追い散らすために、陽介は小さく叫ぶ。父の言葉は今の状況を正しく言い表していて、それが気に入らなかった。
 声をあげず、陽介は「違う」と心の中で繰り返し叫んだ。それだけでは足りず、自分の胸を爪で掻き毟る。λ型の傷に血が滲む。
 定め。
 定めだというのか。
 里桜が美少年使いにならなければいけなかったのは、定めだったとでも言うのか。小鳥遊の血の匂いが周囲の人間を惑わせて、里桜をあんな目に合わせたとでも言うのか。
 そんな訳はない。あってたまるか。定め、運命、そんな言葉で片付けられてたまるか。定めや運命なんて言葉は、諦め、許すための方便だ。オレは小鳥遊の血のせいにして諦めたりしない、小鳥遊の血にまつわる全てのことを許したりしない。
 だが──。
 そう思っていい資格を、今の陽介は持っていなかった。陽介は結局、里桜を美少年使いにすることで、小鳥遊の血が繰り返してきた定めを守ってしまっていた。
 その事実が陽介に深い慟哭と疲労を与え、この三日間、活力のすべてを失ってしまっていた。
「陽介さん」
 不意に、少年の声が聞こえてくる。
 陽介が閉じた瞳を開けると、枕元に座り込み、上から覗き込むようにしてこちらを見ている清美の顔が見えた。
「ねぇ、陽介さん。外はいい天気だよ。お布団の中にいないで、外に出ようよ。もう三日もそうしてるんだもん。ボク、心配だよ」
「……えてくれ」
 陽介の声は、かすれていた。
「え?」
 清美は問い返す。
「消えてくれ」
 陽介は、はっきりと言った。清美は言葉をなくす。
「今はお前の顔を見たくないんだ。消えてくれ。殺してしまいたくなる」
「……うん、知ってる」
 悲しそうに目を伏せると、清美はぎこちなく微笑む。
「知ってるよ、陽介さんの気持ち。今、考えてること。陽介さんとボクは、同じ一つだもの。わかるよ。その悲しみも、苛立ちも、全部」
 だから──と続いた清美の言葉を、陽介はさえぎった。「だから、なんだ? お前にどんな『だから』があると言うんだ。オレの気持ちが分かるのなら消えろ。知ってるんだろ、オレがどんなにお前を嫌っているか」
 陽介の言葉に、清美は弱く頷く。懇願するように言う。「だから──だからこそ、もっとボクに甘えて欲しいの。美津里にするみたく。陽介さんのコトを世界で一番わかってあげられるのはボクだけなのに、どうしてボクにはなにも言ってくれないの。ねえ、ボクのこと、もっと、好きになってよ。もっと、愛してよ…」
 清美の手が、そっと陽介の頬にのびる。陽介は、頬に触れるよりも早く、その手を払った。
「お前は、言われなくてもぜんぶ分かってるだろ。お前とオレは一つなんだからな。それとも、そんなにオレの口から聞きたいのか、お前を嫌っているその理由を」
 清美は目を伏せたまま、小さく首を振った。言われなくても分かっている。魂を共有しているのだから、感じることができる。
 陽介が清美を嫌う理由はごく単純なことだった。
 自分が二人いるのが我慢ならない。
 自分の感情、思考、体験が全て筒抜けになる、自分と同じモノの存在が我慢ならない。
 そしてそれは、自分の内側から産まれたモノなのだ。
 陽介があの地下室で、従順と淫蕩を受け入れた瞬間に割れて産まれたモノなのだ。それが苦痛だった。清美という独立した意志と形を持って動く『それ』を客観的に見せつけられるのは、苦痛以外の何物でもなかった。殺してしまいたいぐらいに。
「……じゃあ、殺してよ」
 清美が言った。「死にたいんだ、ボク。陽介さんがあの時、ボクに割って寄こしたモノは従順と淫蕩だけじゃないよ。貴方はあの時、あの地下室で、全てを諦めたんだ。諦めて、ボロボロになって、あの男に殺されてしまいたかったんだ。貴方はそれも僕に寄こした。だから、ボクはいつでも殺されることばかり考えてる」
 清美は自嘲する。「憑き物としての力が、死ぬことを許してくれないけれどね。でも、代わりに死んで貰うことはできる。ボクを殺した人は、その身代わりに死ぬ。ボクは相手の意識に入り込んで、ボクを殺させて、そして、生き延びる」
 でも──、言って、清美は陽介の右手を握った。
「でも、一つだけ死ねる方法がある。貴方が死ねばボクも消えてなくなる。だから、ねえ、殺してよ。殺したいんでしょ? ボクを殺せばボクの力が貴方を殺す。それで、ようやく死ぬことができる…。貴方があの日、あの地下室で願った通りに」
 陽介の右手は清美に導かれて、清美の首にかかった。
 陽介はゆっくりと身を起こし左手を持ち上げると、清美の細い首を両手で塞いだ。
 清美は優しく微笑む。
「いいよ、そのまま締めて…」
 陽介が両手にぐっと力を入れた途端、陽介の後頭部にコツンと固いモノが触れた。
 陽介の背中から、「戯れもそれぐらいにしとくンだねェ」という、涼しげな声。
 振り向かなくても誰なのか分かる。美津里だ。美津里の銃に化けた右腕が、後頭部に当たっている。
 陽介は力を緩めた。
 清美が上目遣いで、陽介の後ろに現れた人物を睨む。「邪魔しないで」
「清美くんが一人で消えるっていうなら邪魔しないがねェ。この人も一緒に、って言うんじゃ話は別サ。この人の命は僕の命でもあるんだ」
 ここまでだ、そう思った陽介は、ゆっくりと清美の首から手を離した。その手は、清美の小さな手で止められる。陽介の手を包んで、もう一度首に押し付けた。
「そんな脅し、気にするコトないよ陽介さん。どうせ美津里には陽介さんを殺せない。陽介さんを殺すと自分も消えちゃうんだからね。ほら、続けて。ボクを殺してくれるんでしょ。それとも、おじけづいて死ぬのが恐くなっちゃったの?」
「そうじゃない、清美」
 陽介は呟く。「死ねなくなるのが恐いのさ」
 陽介の背中で、美津里が小さく笑った。「よく分かってるじゃないのサ」
 殺しはしないよ──、美津里はそう言うと、陽介の後頭部に押し付けていた銃口を滑らせて、陽介の肩に押しあてた。
「どうしても清美くんを殺すって言うンなら、僕としてはやることは一つ。そンなことができないように、この人の両手両足ぶっ飛ばして、ダルマにするだけサ。大丈夫、ちゃんと、死なないように手厚く看護してあげるよゥ? 生かさず殺さず、ね」
 美津里の言葉を聞いて、清美は苦々しく顔を歪める。
「じゃあ、ボクが直接、陽介さんを殺す」
「ふふ、やってみるといいサ」
 美津里は笑う。「そんな機会があったらやってみるといい。僕はいつでもこの人のそばにいる。清美くんは確かに強いけれど、それは憑き物としての力が使えればの話サ。自分が殺されなければ力が発動しない清美くんを取り押さえるぐらい、簡単なことだよ。殺されない限り、清美くんはただの子供と変わりないンだからねェ」
「…清美、今日は下がれ。美津里がいる限り、オレたちは死ぬことを許して貰えそうにない」
 陽介が言うと、清美は「…ふん」と不満をもらして消え去った。陽介の手が、清美の首のかたちに取り残される。ゆっくりとその手を下ろすと、美津里の銃口も肩から下りた。
「さあて、一段落したみたいだし、ご飯でも食べるかい、陽介さん。おなかもすいたろうに。寝込むのも結構だがね、ご飯ぐらいはちゃんと食べておくれよ。ここ三日、ロクに食ってやしないじゃないのサ。それとも、僕の作ったメシはマズくて食えないとでも言うつもりかね?」
 美津里の言葉に陽介は答えなかった。振り向いて美津里の名を呼ぶと、陽介は別の言葉を返す。
「小鳥遊の定めって、あったのか、オレにも」
 紅色の着物に身を包んだ美津里は、小首を傾げる。
「どういうことだい?」
「里桜が暴漢に襲われて美少年使いにならなければいけなくなったのが定めだとするなら、オレにも何かあったのか。そういったものが」
 詳しく言い直すと、美津里は瞬時、困った顔をした。
 一瞬の沈黙。
「……ヒルバコ」
 そう呟いて、陽介の顔色をうかがう。「聞いたことはあるかい? 思い出せないなら、この話はこれで終わりサね」
「ヒルバコ?」
 陽介が聞き慣れない単語を繰り返した、その瞬間に。
 胸に「λ」の形で残っている傷がひきつった。
 突き刺さるような痛み。
 冷や汗が吹き出す。

 胸の傷が、何かを封じている。
 思い出してはいけない何かを。

 この傷は少年の頃、あの蔵に連れ込まれた後にできたものではなかったか。
 思い出したくない記憶。
 失われた、「虚(ウロ)」の中の記憶。
 胸の傷に手を当てて呻く。
「オレの身に何があったんだ…。この傷は、あの蔵の中で父親から虐待された時にできたものだろ…」
「違うよ」
 美津里の心配そうな声。「違う」
「そのことを思い出してはいけないよ。幼い陽介くんは、自分の記憶を書き換えて、忘れ去って、三日三晩続いたあの地獄を乗り越えたンだ。精神が崩壊するのを防いで、生還したンだ。だから帰ってきたあなたは、何も憶えてなかったンだよ。すべて記憶の奥底に沈めて、最初から何もなかったかのように普段の日常を過ごし始めた。胸の大きな怪我さえ認識しようとはせずに、ね」
 そうだ、思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。
「だからこそ、貴方から産まれた清美くんもその能力を持ってる。記憶を書き換える能力。不死、という能力」
 思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。
「僕と優介さんはね、子供を守るのに失敗したのサ。愛する貴方を、守りきれなかったンだ。蛭神使いに、誘拐されてしまった」
 思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。
「だから──」
 思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。
「貴方を、美少年使いにすることに決めたンだよ。陽介くんが、敵対する勢力に殺されてしまわないように。自分の身を自分で守れるように」
 思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。
 ヒルバコ。
「陽介くんは、記憶を書き換えて生き延びただけあって、精神的にしぶとかった。なかなか虚(ウロ)にならなかった。貴方の父親があの蔵の中で陽介くんを徹底的に虐待しなくちゃいけなくなったのは、そのせいサ」
 思い出してはいけない。
 思い出してはいけない。

 蛭。

 ヒルバコ。

 蛭、
 箱。

「小鳥遊の血は狙われてるのサ、他の憑き物筋たち、陰陽師たち、多くの有象無象たちに。みんな欲しがってるんだ、呪われた血を。憑き物という虚構を具現化して現実にできる、創造の血を。だから僕らは───小鳥遊の当主は、憑き物を使って戦わなくちゃいけない。自分と、自分たちの大切な人を守るために」

 蛭を、使う、筋。

 蛭神使い──。

 小さな漆塗りの箱の中

 無数の蛭と一緒に閉じこめられて

 生かさないように、殺さないように

 一日中、気が狂うぐらいゆっくりと血を吸われ続けて

 泣きわめく口の中にも蛭は進入して

 耳の穴にも、鼻の穴にも、肛門にも、性器にも、次から次へと蛭が入り込んで

 胸には、ひときわ大きな蛭の、神が───


 陽介は胸の傷をおさえる。
 λ型の、大きな、噛み傷。
 ぐるぐると視界が回る。
 吐き気がする。
 血の気が引く。
 陽介の脳は、封じた記憶を思い出そうとしていた。自分が、蛭箱によって血を吸い尽くされて殺されようとしていた時のことを。深刻な精神的外傷を負った、その瞬間を。
「もう、おしまい」
 美津里は、泣きそうな顔をした。
 両手をのばして陽介の頬を包むと、ゆっくりと顔を寄せて、自分の額に陽介の額をくっつけた。
「思い出しちゃ、ダメ」
 瞳が潤んでいる。「あの時のことを思い出すと、僕も気が狂いそうになる。僕の愛しい子供が連れ去られて、僕の手が届かないところで殺されそうだったんだよ……」
 やめておくれよ──と美津里は言う。「もう二度と、僕にあんな思いはさせないでおくれ」
 涙をこぼしながら陽介の頬を撫でて、優しく笑う。「助けに行ったあの時、間に合って良かった。生きててくれて、良かった」
 その時、その憑き物は母親のような顔をした。
 陽介がもう忘れてしまった、母親の顔を。
「さあ、この話はこれでおしまい。つらい記憶を、思い出すのもおしまい」
 美津里は陽介の顔から手を離すと、自分の目尻に溜まった涙を人差し指で拭う。
 その表情を見たら何も聞けなかった。陽介の記憶は、また脳の奥底に沈んでいく。
「いいかい、陽介さん」
 一転して、美津里は厳しい表情を作った。「貴方は小鳥遊の当主だ。自分の血を、血筋の者を、龍之介さんや里桜くんを守る義務がある。その役目を助けるために、僕は先代から貴方を任されたのサ。何があっても貴方を守れ、とね。僕は陽介さんを守るよ。何があっても、どんなモノからも。例えば──」
 美津里は陽介から視線を外した。陽介の向こうを見ると、右手をそちらに伸ばす。伸ばした腕は、鉄に変わっていた。
「──例えば、そこにいる子からもね」
 陽介が美津里の視線を追うと、部屋の壁際に少年が一人たたずんでいた。橙色の着物に身を包んだ少年は、胸にクマのぬいぐるみを抱いている。

 憑き物。

 少年は陽介を見てにっこりと微笑むと、言った。

「里桜くんが、あなたを殺して欲しいんだって」


 こうして、陽介と里桜の新しい関係が始まる。
 それは、里桜が清美によって偽りの記憶を植え付けられることで発生した陽介に対する憎しみと、陽介が憎み、しかし従わなければならない小鳥遊の定めで織り上げられた、歪な関係だった。 

 里桜

 楠アリスは、中学校に入学してから一年と五ヶ月目にして、ようやく人並に平穏な時間を得ることができた。
 剛田マリュ子という恐いお姉さんが神竜たちをコテンパンに(いや、そんな可愛い表現ではなかった)やつけてから、イジメがぱったりとやんだのだ。
 ただその代わりに、『アリスはヤバい女に可愛がられている』という噂が学校に流れて、クラスメイトから恐れられるようになった。神竜なんかは、アリスに対して敬語で話すようになった。そのせいで相変わらず友達はできない。
 それが根も葉もない噂ならば弁解のしようもあるが、そんなに間違ってもいないので、アリスとしては弁解のしようがない。アリスは、マリュ姉に気に入られてしまったようだった。こう言ってしまってはなんだが、迷惑な話だと思う。
 いや、実際、迷惑なのだ。
 マリュ姉は微塵もアリスの都合を考えない。突然、「特撮ヒーローショーを見せてあげるわ。見たいでしょ、見たいに決まってる。今すぐきなさい」と電話がかかってきたり(マリュ姉が見たかったに違いないのだ。大人が一人で行くのが恥ずかしいので声をかけてきたに決まっている)、「腹が減ったわ。美味しいモノを食わせるお店に連れていきなさい、今すぐ。おごってあげるから」と電話がかかってきたり(大人が中学生にする電話じゃないと思う)、それはもう好き放題だ。誘い(というよりは命令)を断ろうとすると、暴力を匂わせる脅迫をされるので断れない。
 何より困るのが、それらが全て『恩』になっていることだった。どうやら、そういったことが積み重なって、マリュ姉に言わせればアリスはもう数え切れないぐらいマリュ姉に恩があるらしかった。迷惑しか受けてなかったと思うのは、気のせいなんかじゃないはずだ。
 マリュ姉に売られた恩ほど恐ろしいモノはない。いつか、絶対に恩の返済を迫られるに決まっている。アリスはマリュ姉に呼び出される度に、今日がその返済日なんじゃないかと、内心ビクビクしているのだ。またロクな説明もなしに酷い目に合わされるに違いない。
 前回、小鳥遊陽介の家に行って、酷い目に合って、逃げ帰り、マリュ姉に電話すると、「どうしてその地下室に監禁されてこなかったのよ! アンタ男でしょ! 人格崩壊ぐらい我慢しなさいよ!」と問答無用で怒られた。
 ムチャクチャだと思う。「今度会った時に、罰として踏むわよ」という言葉通り、次にマリュ姉に会った時には容赦なく踏まれた。その時だけスパイクシューズを履いてくるのだから酷い。
 よく考えてみれば、アリスはマリュ姉にイジメられているのだし、状況はあまり変わっていない気がした。
 むしろ、神竜よりもマリュ姉の方が恐い。次に何を要求されるかさっぱり分からない。
 いつか、知らない内に殺されるような状況に追い込まれるのではないか、とアリスは本気で思っている。新聞などで『行方不明』とか『人身売買』などの記事を目にする度、他人事ではない気がしてくる。あと、『鉄砲玉』も。これが一番他人事じゃない。マリュ姉の気分一つでどこに飛ばされるか分からない。
 しかし、それでも『学校でイジメられなくなった』ということだけは事実で。
 そのことに関しては、アリスはマリュ姉に感謝している。
 今日も、殴られたりお金を取られたりパシらされたりすることなく学校生活が終わり、平穏に放課後を迎えることができた。
 アリスは部活に入っていないので、放課後になればあとは帰るだけだ。学校指定の鞄に教科書を詰めて、がやがやと喧騒の入り交じる教室を出る。
 教室のある二階から一階に降りる途中、廊下でたむろしていた男子生徒二人が、「校門の前で、すごい美人が誰かを待ってるんだって」と話していたのを耳にしたが、どうせアリスには関係のないことなので、気にも止めずに靴箱に向かった。
 隠されたり濡らされたりナイフでナイキのマークを刻まれたりしなくなった靴を履き、玄関を出ると、さっきの男子生徒の言葉が関係ないどころか、アリスに大いに関係のあることを知った。
 校門の入り口に堂々と仁王立ちしていたのは、マリュ姉だった。
 帰宅する他の生徒の群れが、マリュ姉を避けるように半径3メートルで割れていて、アリスはモーゼが海を割る様子に似ていると思った。
 見ると、マリュ姉の背中には、外装がボコボコに潰れた黒塗りのベンツが停めてある。
 あの男子生徒も、「事故ったベンツに乗った地雷系美人が校門にいる」と言ってくれれば良かったのだ。そうすればアリスが思いつく人物は一人しかいない。それが誰か分かっていれば、アリスはマリュ姉が諦めて帰るまで、校舎の中に隠れていたことだろう。
 しかし、出てきてしまったのだから仕方ない。何より、目ざとくアリスをみつけたマリュ姉が笑顔で手招きしている。アリスは、諦めてマリュ姉の前に立った。
 アリスと同じように帰宅しようとしている生徒達が遠目でアリスとマリュ姉を見ながら、ざわざわと小声で囁きあっていた。「あれがヤバい女か…」と言ったのは、多分同じ学年の生徒だろう。
「あ、あの、こんにちは…」
 学校にまでやってくるとは、余程の用に違いない。アリスはおどおどとマリュ姉に声をかけた。
 マリュ姉は笑顔で挨拶に応じる。
「こんにちは。ところで、最近どう?」
「…え? どうって、何がですか?」
「神竜にイジメられたりしてる?」
 アリスが「してないです。むしろ敬語で話しかけてきます」と答えると、マリュ姉は満足そうに頷いた。「マリュ姉の再度の教育が効果を上げてきているようね」
「再度って…。あの後もまた会ったんですか」
「会ったわよ。住所を調べあげたもの。あたしに反抗した人間は、例え子供であろうと容赦はしないわ」
 平然ととんでもないことを言う。「まぁ、その甲斐あって神竜は今じゃマリュ姉の舎弟よ、舎弟。マリュ姉に忠誠を尽くすなんて、なかなか見所のある若者ね」
 神竜もきっと、暴力で脅されているに違いないとアリスは思った。一度見たことがあるが、マリュ姉はその華奢な指で、林檎を簡単に片手で割る。あれを見せられると、心の底にある小さな反逆心さえも消えてしまうのだ。小鳥遊陽介と同じように、マリュ姉もどこか特殊な力を持った人間なのだとアリスは思っている。
 目の前にいる、林檎を片手で砕く美人はにっこりと微笑んだ。「そのうち少年探偵団を組織するから、覚悟しときなさい。もちろんアンタも団員よ」
 最悪だ。
 嫌な話を聞いてしまった。今まで散々アリスをイジメていた神竜と一緒に少年探偵団をやらされるのは、恐怖以外の何物でもなかった。
「あ、あの、えーと、今日は、それを伝えに来たんですか…?」
 アリスが問うと、「そんなワケないでしょ、馬鹿!」
 と酷く怒られた。「どうしてマリュ姉が、そんな下らない組織のことをわざわざアンタに報告しに来なきゃいけないのよ!」
 下らないと思っているなら組織しないで欲しい、とアリスは思ったが、勿論そんなことを言えるはずもなかった。「じゃあ、どうして…?」とアリスは続ける。
「この学校の一年三組に、水城 里桜って生徒がいるの。連れてきなさい、今すぐ」
 いつもながら唐突な命令だ。アリスは後込みする。
「え…? でも僕、その人と面識ないし…」
「知ってるわよ。でもアンタと里桜が知り合いだろうが知り合いじゃなかろうが、そんなこと、マリュ姉に関係あって? いいからさっさと連れてきなさい。気の抜けたことを言ってると殴るわよ。まぁ、マリュ姉の本気のパンチ力は2キロぐらいだから、痛くないと思うけど?」
 マリュ姉のパンチ力が2キロだなんて嘘だ。
 前にゲームセンターに連れていかれた時、マリュ姉がパンチングマシンで測定したパンチ力は確かに2キロだったが、あの爆弾でも落ちたかのような轟音と、機械が歪んで金属質な悲鳴をあげた光景は忘れない。
 あれはどう見ても、測定不能としての2キロだった。
 その時アリスは、『ああ、神竜達を殴った時はちゃんと手加減してたんだなぁ…』としみじみ思った。
「ほら、何をグズグズしてるの! 殴られたくないならさっさと行きなさい! 歩くな走れ! 遅れる、それは死を意味する! いいわね!」
 少しもよくない。
 よくないが、
「は、はいっ!」
 と即答して、アリスはきびすを返した。慌てて校舎に向かって走り出す。
 玄関前で小柄な男子生徒にぶつかりそうになり、よろめいたが、構っていられなかった。体勢を立て直すと懸命に駆け続ける。
 アリスは、その時ぶつかりそうになった生徒こそ、水城里桜、その人であったのを知らない。
 結局アリスは、一年三組に行っても「帰ったみたい」と言われ、その後で一応校舎の中も探したが、里桜をみつけることはできなかった。
 マリュ姉に怒られる、いや、今度こそ殺される、とびくびくしながら校舎を出ると、校門の辺りは帰宅する生徒もまばらになり、そして、マリュ姉はいなくなっていた。停まっていたベンツもどこかへ行ってしまっていた。
 ただ、マリュ姉がいなかったからといって、アリスも帰ってしまっていいのか解らない。待っていなければ「どうしてマリュ姉の許可なく帰るのよ!」と、後で酷い折檻を受けるような気がした。
 そうだ、マリュ姉に電話すればいいんだ、とアリスは思い付いたが、携帯電話を家に忘れてきていた。いや、正確に言うと、マリュ姉から電話がかかってくるのが嫌で、忘れたふりをしてわざと持ってこなかったのだ。
 持ってきておけば良かったとアリスは思う。
 でもやっぱり、授業中に電話がかかってきて呼び出されるのも嫌だ。
 こうなってくると、持ってきても持ってこなくても不幸が降りかかる、呪われたアイテムだ。その存在が憎い。

 結局、マリュ姉に連絡する手段を持たないアリスはその日、夜九時になってようやく開き直り、帰る決意を固めるまで、帰ってこないマリュ姉を待ち続けることになった。 



 靴を履いて学校の玄関を抜けると、慌てて走ってくる男子生徒とぶつかりそうになった。
 その男子生徒が身をよじってぶつからずに済んだため、里桜は、何か大変なことでもあったんだろうな、ぐらいの感想しか持たなかった。
 歩き出すと、校門の前に女性が立っているのが見えた。腰に手をあて、胸を逸らし、堂々と仁王立ちしたその女性の顔に、見覚えがある。
 確か、剛田マリュ子という名前だ。
 数ヶ月前、帰宅途中に声をかけられ、近くの公園に連れて行かれたことがある。
 人のいない公園のベンチに腰を下ろすと、自分のことをマリュ姉と呼ぶ女性は、小鳥遊陽介と知り合いだと言った。そして、里桜に向かって、
「アンタも美少年使いなんでしょう?」
 と微笑んだ。
「里桜くんは、お金に興味ないかしら。その力を使えば、お金になることを知ってるんだけど」
 マリュ子のその言葉に、里桜は、「今は憑き物を使えない」と答えた。「小鳥遊陽介に憑いてる。僕をレイプしたあの男を殺すまでは、他のことに使うつもりはない」
 それだけ言って立ち去った。
 それ以来マリュ子に会うこともなく、諦めたのだと思っていたが、まさか学校にまで来るとは。
 また何か用があるのだろうか。
 里桜がマリュ子の前に立つと、マリュ子は一度、ちらりと校舎の方に視線をやった。誰に言ったのか、
「これは、あとでお仕置きね」
 と呟く。
 それからにっこりと微笑むと、「家まで送ってあげるわ」と里桜の腕を有無を言わさず引いた。里桜は無理やりベンツの助手席に押し込まれる。
 ちょっとした誘拐だった。
 マリュ子はハンドルを握って車を出すと、「高級車はいいわよー」と上機嫌で言った。「多少無茶してもまわりが避けてくれるし。まぁ、この車はヤクザから借金のカタに取り上げたモノだから、壊れたところでどうってこともないんだけど」
 まわりが避けるのは、この車の外装がボコボコだからだと里桜は思う。映画のようなカーチェイスでもしたかのような壊れ方だった。
「……僕になんの用?」
 世間話をするつもりもない里桜は、短くそう言ってマリュ子の言葉をさえぎった。マリュ子は「可愛げがないわね」と呟く。
「まぁいいわ。アンタ、この前マリュ姉に嘘をついたでしょ。なんでこう、美少年使いってヤツは隠し事をしたがるのかしら。アンタがあの男にされたのはレイプじゃなくて儀式じゃないのよ。憑き物を産むための。そこのところをちゃんと言ってくれないから、マリュ姉、あの男は少年にしか欲情しないただの変態かと思ってたじゃない。それを知ってたら、わざわざアリスを助けて恩を売って、あの男の元へ行かせたりしなかったわ」
「……アリス?」
「さっき、アンタにぶつかりそうになってた子よ。何をやらせても満足にできないんだから困るわ。そんなにマリュ姉にお仕置きされたいのかしら」
 赤信号に引っかかって、マリュ子は急ブレーキを踏んだ。ちらりと里桜の顔を見ると、それはそうと──と言葉を続ける。「アンタのこと、少し調べたわよ」
 里桜もマリュ子の顔をちらりと見たが、何も言わなかった。
「マリュ姉の手にかかれば、暴けない過去なんてないのよ? 『暴』の付く言葉のことなら、マリュ姉の得意とするところだわ」
 そう言って小さく笑う。「
まぁ、実際は悪魔に調べさせたんだけどね」
「悪魔?」
「そ、悪魔。数年前に、陽介を尾行してた時に知ったの。今度紹介してあげる。便利よ。お手軽だし」
 まるで便利グッズか何かのように言う。
 マリュ子は、メフィストフェレスに陽介と里桜の過去について調べてもらっていた。
 百万ほどの現金を支払って悪魔から貰った、薔薇の刻印の手紙。
 その中には、陽介が幼い頃、蛭神使いに拐われた時のことなどが詳細に書いてあった。
 ただ、そのあたりのことは、マリュ子もおぼろげに知っていた。
 なぜなら、蛭神使いを雇ったのはマリュ子達、狗神筋だったからだ。
 血が欲しかったのだ。
 小鳥遊の血が。
 美少年憑きの、憑き物を生み出す、創造の血が。
 
 それというのもすべて、狗神が死んだせいだ。

 マリュ子が18歳の時、突然、腰に生えていた尻尾が消えた。狗神使いの証である、犬の尻尾が。
 一族みんなが尻尾を失い、そして大混乱になった。狗神使いが狗神を失ってしまったら、これまで司ってきたすべての行いが立ち行かない。
 大人たちは毎日話し合って、二つだけ、方策を見つけた。
 一つは、狗神を身に宿して自殺した、狗神殺しの人間の肉体から、狗神の魂を取り出す方法。
 二つ目は、小鳥遊の血を輸血して、新たに狗神を産み出す方法。
 一つ目の方法はマリューアントワネットが、二つ目の方法は妹のアンナスタシアが試すことになった。
 二つ目の方は、すぐに結果が出た。小鳥遊の血は、アンナスタシアには合わなかったのだ。
 大きな貸しを作って蛭神使いから手に入れた陽介の血は、14歳のアンナスタシアを殺してしまった。

 美少年憑きの血を輸血して起こったこと──

 アンナスタシアの両手、両足が犬に変わって、それぞれ胴体を引きちぎって走り出した。
 最後は首も犬に変わって、それでも顔は可愛いアンナスタシアのまま、胴から千切れた。
 残されたのは、四匹の犬、一匹の人面犬、四肢と首が千切れた血だらけの胴体。
 失敗だった。
 その後、犬たちがどうなったのか、マリュ子は知らない。

 その頃のマリュ子はマリュ子で、人間の死体を食わされていた。
 狗神の魂が中に残っているかもしれないという、女性の遺体を。
 人間一人を小分けに切り分けて、肉、内臓、体液、すべてが毎食の食事だった。
 死体は日に日に腐敗していく。冷凍保存などできない。万が一、魂に影響があったら困る。
 当然のように食あたりを起こして、吐き戻すこともあったが、その吐瀉物すら食べさせられた。残すなんてもったいないことだ。
 10代の頃のマリューアントワネットは実家の宗教に洗脳状態だったので、頑張って食べた。聖なる行為だと自分を偽りながら。
 母親が教祖なのだ。母親が食べろと言うなら喜んで食べる。 アンナスタシアだって同じ気持ちだった。それで死ぬのだとしても、母が喜んでくれるならそれで良かった。認めてもらいたかった。褒められて、愛されたかった。母のことが大好きだから。
 ただ最後、女性の腐った頭部が丸ごと食卓に乗った時。
 母が笑顔で、
「マリュちゃん、今日も美味しくいただきましょうね」
 と言った時。

 洗脳が、解けた。

 腐って白く濁った眼球と目があった、その瞬間に。

 魔法のように洗脳が溶けた。
 死んで腐ったその女性が、マリュ子の恩人だったと今は思う。
 マリュ子は家から逃亡し、それ以来、実家には帰っていない。
 その後、実家がどうなったかなんて、見たくもないし知りたくもない。一瞬たりとも関わりたくなかった。
 ただ、人肉を食べた方法は正解だったようで、20歳になった時に狗神の力に目覚めた。
 それ以来、肉体の老化は止まり、筋力と嗅覚が年々強くなっている。
 
 メフィストフェレスの手紙には、陽介と里桜にまつわる、その後の実家のことも書いてあった。
 マリュ子が逃亡した後、今度は美少年使いの血ではなく、憑き物自体の血を求めて、集団で清美を襲撃したこと。
 そして、清美を殺した瞬間に呪いが撒き散らされて、燃やされて全滅したこと。
 それからはずっと没落状態であること。
 それでも再起を諦めきれず、もっと手懐けやすい憑き物を作らせるために、闇バイトで男達を雇い、もう一人の血族である里桜を強姦させたこと。
 その後、人手も財力も尽きて手詰まり状態であること。

 つまり。

 うちの毒母がぜんぶ悪いんじゃん、
 とマリュ子は思った。
 
 実家の罪が自分の罪だとは思わない。
 それでも、うちのクソババアがご迷惑をおかけしてすいません……という気持ちは多少なりともある。
 ので。
 こうして、ほんの少しの罪滅ぼしのために、里桜に会いにきていたのだった。


 赤で止まっていた信号が青に変わり、マリュ子はアクセルを踏み込んだ。
 車が急発進する。先ほどの急ブレーキといい、暴走車としか言いようのない運転だ。
「それで──」
 話を続ける。陽介と里桜の間にある誤解を、解けるものなら解いてやりたい。
 メフィストフェレスの手紙のおかげで、美少年使いの儀式のことも、だいたい理解できていた。
「アンタが美少年使いになった一年前のことを色々と調べたんだけど、アンタがあの男に感じている殺意は、逆恨みじゃないかと思うのよ。そりゃあレイプとしか思えないかもしれないけど、あれは、どちらかと言えば意識のないアンタを助けるためにやったことじゃない」
 里桜は鼻で笑った。「助ける? 集団で暴行された僕の、何を助けるっていうの?」
「……それはねー。うん」
 言葉を濁す。
 ごめんねー、元はと言えばウチの実家がねー、とは、言えない。
 言ってもいいが、こじれるだけだ。
 マリュ子は実家を出てから、薄汚い大人になっている。
「僕のことを調べたんじゃないの? あの男は、他にも何人か男を連れて、車の中で僕を…」
「ちょっと待って。アンタ、何を言ってるの? 陽介が、男を連れて……?」
 マリュ子は道路の端に車を停めた。顔を里桜に向ける。
「アンタが男四人から暴行を受けたのは知ってるわ。でも、その事に陽介は関係してないわよ。アンタが連れ去られてた時間、あの男はマリュ姉の買い物に付き合って荷物持ちをさせられてたんだから。アンタのところにいるはずはないし、アンタがそんな目に合っていたことさえ知らなかったはずよ」
「嘘だ! 他のヤツらの顔は覚えてないけど、あの男があそこにいたのだけは鮮明に覚えてる」
 里桜は少し声を荒げたが、マリュ子は動じなかった。淡々と説明を続ける。
「いないわよ。あの男がアンタの状況を知ったのだって、それから一週間ぐらい後、アンタの父親から電話をもらってからだもの」
「そんなはずは」
「あるのよ」
 里桜の言葉を、マリュ子は切って捨てる。「病院の記録によると、アンタはあの後、『過度のショックにおける知覚断絶状態』だったそうじゃないの。マリュ姉はアンタらの筋のことには詳しくないけど、多分それは虚(ウロ)ね。あの男はその状態からアンタを救い出しただけじゃない。まぁ、やり方は褒められたモノではないけど。アンタ、意識を取り戻した時に記憶がごちゃまぜになったんじゃないの?」
 里桜は何も答えなかった。頭の中を柔らかい何かに包まれて、ゆっくりと締め付けられているような感覚がした。
 ふと、有希が以前に言った言葉を思い出す。
 有希も、『陽介さんは関係ないような気がする』と言っていた。そうなんだろうか。
 いいや、そんなはずは無い。
 自分の記憶が間違っているなんて、そんなはずは。
 小さく頭を振って、マリュ子や有希の妄言を追い散らす。
 そんなはずは無いのだ。
 ならば、どうしてこれほどまでに鮮明に、あの男の顔を覚えているのだろう。あの男は、確かに、あの場所にいた。
 心の中ではっきりとそう確認すると、里桜はマリュ子に「ここまででいい」と一方的に告げて、車を降りた。背中にマリュ子の声が聞こえたが、無視する。
 しっかりと地面を踏みつけて歩きながら、今までが長すぎたのだ、と思った。今まであの男を殺せずにいたから、こんなにもすっきりとしないことばかりが増えていくのだ。
「明日…」
 里桜は独り呟く。
 次こそ陽介を殺してみせると有希は言った。明日、全て終わらせよう。陽介を殺してしまえれば、きっと、今まであった全てのことを意識せずに済むようになる。
 忌まわしい記憶を、過去の出来事に変えてしまえる。

 それでようやく、里桜は自分が虜われている全てのモノから解放されるような気がした。

 美少年憑き

 夕日が闇の天幕をひきながらアスファルトの下に沈んでいった頃、清美が戻ってきた。
 畳張りの自室、座布団の上にあぐらをかいて小説を読んでいた陽介は、目の前に不意に現れた影によってそれを知った。
「おかえり」
 陽介が顔を上げ、短く言うと、前に立つ栗色の髪の少年は目を細めた。
「荒井真司は燃えて、なくなっちゃったよ。きっと、ボクが何者なのかも本当に理解しないうちに。憑かれていたことにも気がつかないうちに」
 清美が誰かを殺すということは、清美が誰かに殺されるということ。
「気持ち良かったか」
 陽介が言うと、清美は「知ってるんでしょ。覗いてたくせに」と返した。清美の見るものは、陽介にも見える。
「うん、気持ち良かったよ。いつもそうだよ、体を合わせている時だけじゃない、殺される瞬間まで気持ちいいんだ。これで本当に死ねるんじゃないかと、淡い期待さえ生まれて胸が震える。だけど、足りないよ。足りないんだ。他人の指じゃボクは死にきれない」
 そう呟いて、清美は畳に膝を落とした。細い腕をのばして陽介にしがみつく。「貴方じゃなきゃダメなんだ。陽介さん、貴方じゃなきゃボクは満足できない…」
 陽介は、手に持っていた『グッド・バイ』とタイトルの打たれた本を脇に置くと、無言で清美の両肩を掴んで引き離した。清美は一瞬困った顔をしたが、諦めなかった。陽介の手を振り払うと、さっきよりも強く陽介の体を抱いた。
「ボクのことが嫌いなんでしょ、憎いんでしょ。じゃあ、殺してよ。ずるずると生かし続けるなんて残酷だよ。好きになってくれないなら、せめて、殺して」
 清美の気持ちは、陽介が一番よく知っている。元は一つだったのだから。エロスとタナトスを種に清美は産まれてきた。性と死、それ以外の価値を清美は知らない。
 陽介は、目を伏せて清美の顔を覗いたまま、無言だった。清美の体を抱き返すでもなく、ただ、無言。それは、背中に感じた気配が陽介に何も言わせなかった。
 背中に、何か、いる。
 この気配は、美津里の。
 殺気さえ感じた。もし陽介がその手を清美の首にかければ、即座に、肩口に鉄の押し付けられる感触を味わうのだろう。
 伏せた目をふと上げると、広い部屋の奥、壁際に、クマのぬいぐるみを抱いた幼い少年の姿が見えた。橙色の着物を着た少年は、陽介に視線を合わせると「殺しにきたよ」と、あどけなく笑った。


 ──美少年憑き。


 その言葉が陽介の頭の中をよぎった。
 狗神、狐、美少年────人に憑くケダモノ。
 誰よりも美しく、誰よりも醜い、一度憑かれたら二度とは逃れられないケダモノ。
 自分は憑かれているのでしかないと陽介は思い知っている。使役しているのではない、憑かれているのだ。
 自分の中に流れる小鳥遊の血に、このケダモノたちは取り憑いているのだ。
「ふふ、今日は豪勢だねェ。もう一人、お客さんが来てるよゥ」
 陽介の背中に立つケダモノがそう言うのに合わせて、たんっ、と勢いよく部屋のふすまが開いた。
 流れ込む夕闇とともに部屋に入ってきた少年の名前は、里桜。
 もう一人の美少年憑き。
「陽介、あなたを殺すよ。今日こそは確実に。そのために来たんだ。僕は今日、僕が死ぬか、あなたが死ぬか、どちらかしか選ばない」
 そう言ってふすまを静かに閉じると、里桜はクマのぬいぐるみを抱いた少年、有希の隣に立った。きつい目つきで陽介を睨む。
「有希とふたつに割られてから、落ち着かないんだ。頭の中が落ち着かないんだ。どうして僕の知ってることと他人の知ってることが違う! みんな、嘘ばかり言って!」
 里桜は片手で頭を押さえると、小さく首を振る。
「……もう、それならそれでも構わない。嘘だろうが本当だろうが、僕にはどっちだって構わない。ただ、あなたが許せないんだよ! 僕をあの地下室で割ったあなたが!」
 叩きつけるように叫んだ後、里桜は有希の肩にそっと手を置いた。確認するように小さく言う。「有希、やってくれるな?」
「うん…。ぼく、がんばるね」
 有希が里桜の顔を見つめてうなずくと、陽介の胸からも声がした。「そういうことなら──」
 腕の中から見上げている清美と視線が合った。清美は、すねた顔をしていた。「そういうことなら、ボクは有希ちゃんの方につくよ。貴方が死ねばボクも死ぬ。それはボクの思い描いていたのとは少し違うけれど、貴方がボクを殺してくれないなら、もう、それしかないもん…」
「おやおや、随分とみんなに嫌われてるみたいじゃないのサ」
 美津里の愉しげな声に、陽介も苦笑して、「どうやら、そうらしいな」と呟いた。
「どうするンだい。里桜くんはともかく、憑き物が二人相手じゃァ、さすがに僕でも荷が重いよゥ?」
「美津里、オレを甘く見てるな?」
 言って、陽介は左手で清美の体を抱いた。「ほら、これで清美は封じた。後は有希一人だろ、任せたよ」
「それは有り難いねェ。一番面倒な子を任せるンだからサ」
 美津里の皮肉を聞き流しながら、陽介は清美を抱いたまま立ち上がった。空いている右手で座布団と本を取る。取った座布団の下には、黒く焼け焦げた跡。
 陽介は一秒、その黒を見つめた。そっと呟く。「オレは、小鳥遊の血にまつわる全てのこと、全ての定めを許さない」
 視線を外すと、部屋の側面、ふすまから見ての正面の壁に歩き出す。「いいか美津里、有希を殺すな。お前も有希に殺されるな。ここで、先代が次代の美少年使いに殺されるという、連綿と続いてきたこの悪習を断ち切る。里桜には誰も殺させない」
「おやおや、小鳥遊の御当主様は難しいことを簡単に言ってくれるねェ。まァ、ご期待に添えるよう頑張ってみようじゃないか」
「頼む」
 壁際まで歩いた陽介は、振り向いて、壁に背をつけた。「オレらはここで見学だ」と呟いて、清美に座るように促す。清美がぺたんと畳に腰を下ろすと、陽介も座り、自分の右隣に座布団を敷いた。里桜に視線をやると、とんとんと座布団を叩く。
「こっちに来いよ、里桜。美少年使い同士の闘いは、憑き物同士の闘いだ。憑き物が負けることが美少年使いの死だ。オレらはただ黙って、どっちが勝つか見てるだけさ、邪魔にならないようにこっちへ来いよ。ここが特等席だ」
 陽介の言葉に、里桜は一瞬ためらったそぶりを見せたが、有希の、「里桜くんは安全なとこにいてよ。ぼくの後ろにいるより、そっちの方が安全だよ」という言葉に押されて、壁際に座ることを選んだ。ただ、座布団の上には座らなかった。陽介から距離をとるように、座布団の隣に腰を下ろす。歩き出してから座るまで、陽介の顔を見ようともしなかった。
「有希、いいよ、始めて」
 里桜のその言葉が、死合いの始まりを告げた。 


「ごめんね、美津里ねえさん。今日ばかりは、ぼくにも負けられない理由があるんだ」
 有希が、抱いていたクマのぬいぐるみを両手に持ち、掲げた。
 途端に、クマのぬいぐるみはその両目から血の涙をどろりと流し、牙の並んだ口を開け、短い四つ足をじたばたと動かし始めた。ガチガチと牙を噛み合わせながら、しだいに膨張していく。
 膨らんで、膨らんで、膨らんで、風船のように丸々と膨張したぬいぐるみの腹部は、やがて、ばつん、と音を立てて弾け飛んだ。中から溢れ出す血と一緒に、何かがこぼれ落ちようとしていた。肉。それは、肉だった。赤黒い、肉の塊だった。
 小さなぬいぐるみの中に収まっていたのが信じられないほどの大量の肉が、血と一緒にどろどろと腹に開いた傷口からこぼれ落ち、べちゃべちゃと畳に跳ねた。
 畳には肉が溜まっていく。溜まった肉はぞわぞわと蠢いて、くっつき合い、離れ合って形を整えながら、うず高く積もっていった。
 あれだけ膨らんでいたぬいぐるみがぺらぺらになってしまった頃には、その肉は、3メートルほどのケモノの姿へと変わっていた。赤黒く分厚い筋肉を血でてらてらと光らせたその四つ足の生物は、皮をそがれ、筋肉の剥き出しになったクマによく似ていた。
 ケモノは伸びて背を逸らすと、牙の並んだ口腔を裂いて大きく口を開け、びりびりと空気を震わす産声をあげる。
 開けた口はだらだらと唾液をこぼしながら、そのまま有希に向かった。鋭く尖った爪のついた前足で有希の体を乱暴に押さえつけると、牙の剥き出しになった口で有希を頭から噛んだ。裂けた口はカバのように広がって、有希の上半身をまるごと口腔の中に消した。
 ケモノは有希の腰を噛みつけたまま、飲み込みやすいようにその首を天井に向けた。逆様になった有希の細い足だけが、じたばたと空を切ってもがいていたが、それもすぐに口の中へ消えた。
 有希が腹の中に収まると同時にケモノは一つ吠え、膨らみ、さらに質量を増していった。赤黒い筋肉はより厚みを増し、体積を増し、畏怖さえ感じさせた。
 ばつん、と、ひときわ大きな肉の弾ける音が響く。
 筋肉の剥き出しになった胸が裂けて、そこに大きな口ができた。鋭い牙が覗く。その後、体中から肉の弾ける音。
 ばつん、ばつん、と音を発して、血しぶきを飛び散らせる度、四つ足に、胴体に、首に、背中に、無数の口腔が開き、ガチガチと顎を鳴らした。
 音の去った後に現れたそれは、まさに怪物だった。
 ケモノは後ろ足で立ち上がる。立ち上がったケモノは、5メートルある天井まで届く大きさだった。
 ケモノが威嚇の雄叫びをあげると、胸に開いた口があんぐりとその牙を開けた。暗闇になった口腔の奥に、白くぼんやりと、目を閉じた有希の幼い顔だけが浮いている。
 有希はゆっくりと目を開けると、美津里を見据え、くすくすと笑った。
「ごめんね、美津里ねえさんを食べさせてもらうよ」 


 ただ呆然と、赤黒い肉が形を成していくのを眺めていた美津里は、全てが終わった後、高笑いをあげた。自分の体が、肌が、とてつもなく大きな恐怖に震えるのが心地よかった。
 美津里は一度、陽介が父親を殺す際に完膚無きまでに叩きのめされている。その時に恐怖という感情を知って、自分が消えてしまうことも恐怖に属するものであると知った。
 消えたくないということは、生きていたいということ。そして、生きていたいと感じるのは、恐怖に晒されている時だった。美津里は、恐怖によって自分の『生』を確認する。
 だから、畏怖さえ感じる肉の塊と化した有希を見た時、肌で感じた恐怖感が心地よかった。
「いやいや、見事だねェ有希ちゃん。じゃあ僕も、本気でやろうじゃないのサ」
 言って、美津里は両手で赤い着物のえりを掴んで、はだけた。白く、肉付きの薄い上半身があらわになる。
 美津里の肢体には、墨で書いたような毛筆体の文字が浮かびあがる。額に角、背中に翼、右腕に回天、胸に雷電。
 浮かびあがった文字は肉とともに、ミチッ、と粘着質な音を立てて割れた。美津里の体に眠る鉄塊が目を覚ます。
 額を割って、黒光りする細い鉄の筒が伸びた。
 背中から、パイプオルガンのように段差の付いたパイプがせり出し、背中の左側と右側に一列ずつ並んだ。肩の方から順に低くなっていくその鋼鉄製の翼は、全て散弾銃の銃口を覗かせていた。
 白く細い右腕は、黒く変色して太い円筒へと変わる。握った指は融けて一つとなり、円の断面と化す。その円の断面には、時計の数字のように十二の穴が規則正しく口を開けた。元は手首だった辺りから円筒が二度回転し、機械音を響かせる。それは、回転式機関砲、ガトリングガンだった。
 美津里の胸がミチミチと内部から裂けていく。裂けた傷跡からは、大きな体温計のような物体が顔を覗かせた。体温計の先に開いた穴の奥では、バチッ、とエネルギーを音に変えて、紫電が舞っている。美津里がひとたび力を解放すれば、そこから紫電の束が光線となって放出されるのは明確に見てとれた。
 額に銃の角、背中に散弾銃の翼、右手に機関砲、胸にプラズマ砲を生やした美津里の姿は、まさに異形だった。かろうじて人のカタチをした鉄の塊だった。
 美津里はぶん、とガトリングガンを振って、艶やかに笑む。
「さァ、いこうか有希ちゃん。僕の本気を見せてあげるよゥ」
 そして、ケモノと異形との殺し合いが始まる。 


 ケモノが吠え猛る声で空間がきしんだ。
 ケモノが身震いすると、剥き出しの筋肉がぼこっと動いて、背中から、四つ足から、腹から、数十本もの肉柱がずるずると伸びた。肉の先には鋭い牙。
 伸びた肉は蛇のように鎌首をもたげて、ガチガチと牙を噛み合わせて身をくねらせながら、一斉に美津里に襲いかかった。
 美津里はそれらを、額のツノから連続で射出される弾丸で、腕の回転銃で、背中から襲いかかってくる肉柱は背中の翼で、次々と撃ち落とした。銃弾で落とされた肉は四散して、血と肉片を美津里の周囲に巻き散らす。
 だが、一つだけ撃ちもらした。逃した牙は、美津里の生身の左腕に喰らいつく。
「まずは左腕から、だね」
 有希の声。
 左腕を肉に飲まれても、美津里は慌てなかった。喰らいつかれたまま、冷静にガトリングガンで掃射してその肉を弾き飛ばす。
 ぶん、と左腕を振って残った牙を振り落とすと、きらきらと輝く左腕を前に突き出して言った。
「僕を食べたいならお金を払いな。でも、安くはないからね?」
 美津里の左腕には『金剛』の二文字。皮膚の表面に生えたのは、ダイヤモンドの鱗。地球上でもっとも硬い宝石の名前。
「さて、もう終わりなのかい、有希ちゃん。僕はまだまだ物足りないンだけど?」
 血と肉片に囲まれて、美津里が艶っぽく笑う。
「冗談でしょ、まだ始まったばっかりだよ。美津里ねえさんの銃弾が尽きないように、ぼくも尽きることを知らないもの」
 ケモノの肉がボコボコと沸き立ち、再生を始める。ケモノはすぐに失った肉を取り戻し、肉の柱を伸ばし、無数の首をもたげた。
 美津里が形のいい眉をしかめる。「再生とは厄介だねェ…。有希ちゃんを直接殺せればなんとかなるンだろうけど、殺しちゃダメ、ときた。こうなったら──」
 美津里の胸のプラズマ砲から、轟音をあげて稲妻がほとばしった。ケモノの肩に当たった紫電の束は、ケモノの肉を豪快に、内部から破裂させた。ケモノは血をまき散らしながら、のけぞって吠える。
 胸のプラズマ砲の先から小さく煙をあげた美津里は、ふん、と笑う。「こうして、再生するよりも早くその肉ゥひっぺがして、有希ちゃんを丸裸にしちまえば、僕の勝ちってことになるのかね」
 ケモノの肉が再生していく。しかし、傷が深すぎるせいか回復が遅い。ケモノの胸の奥で、有希の顔が憎々しく歪む。
「美津里ねえさんなんか、死んじゃえっ!」
 獲物を求める牙が素早く動き出す。美津里のプラズマ砲は次の雷を充填していく。
 そして、また、肉と銃弾の奏でる不協和音が響く。 



 陽介がちらりと里桜に目をやると、里桜は口元を手でおさえて、少し、震えていた。
 里桜の目は、ケモノと化した有希を見ていた。
「怖いのか?」
 低い声で陽介が言うと、里桜はゆっくりと顔を陽介の方に向けて小さく頷いた。口から、震える声がもれる。「あ、あんなものが、僕の中から出てきただなんて……」
 陽介はゆっくりと腕を伸ばして、手の甲で里桜の頬をそっと撫でた。「すまない、アレをお前の中から出したのは、オレだ」
「……どうしてさ」
 里桜がぽつりと呟く。「どうして、あんなモノを僕の中から出さなくちゃいけなかったのさ」
 里桜の問いに、陽介は困った顔をした。
 何十年も前に、陽介も同じ問いを発した。
 首を横に振る。「分からない。どうしてなんだろうな。定め、だったのかな。嫌な言葉だな、定め」

 ──俺は、小鳥遊の定めに従ったまでだ。

 父親の言葉を思い出す。今、同じようなことを言っている自分に、陽介は嫌悪を感じた。
「分からない…? 分からないってどういうコトさ!? 僕にあんなコトをしたあんたが、分からないって!」
 陽介は何も言わなかった。言えなかった。うっかり心情を吐露してしまった自分を悔いた。
 陽介は自分で望んで、里桜に恨まれる役を買ってでたのだ。最後まで完璧に悪役をこなさなければならない。悪役をこなして、そして、殺されずに最後まで悪役で居続けなければならない。
 陽介は自分の辿ってきた道をよく知っている。
 まず、自分を美少年使いにした者への憎しみに駆られる。その憎しみを殺人によって満足させた後は、心の中で守ってきた何か大事なものが壊れてしまうのだ。
 壊れた部分に残るのは、大きな傷。その傷が膿んで組織が破壊されていくと、痛みに鈍感になる。人の死さえ痛みとして感じなくなる。
 陽介は今、人殺しを仕事としている。それは、人の死を痛みとして感じられないからこそできることなのだ。
 しかも、憑き物の力によってそれが行われるのだから、陽介の手は血に濡れない。より鈍感になっていく。
 里桜には同じ道を辿らせたくなかった。だから、陽介は恨まれ、そして、恨まれ続けることを選んだのだ。里桜の記憶をいじってまで。
 里桜の記憶を改竄したのは、そう考えたからだった。
 自分のしたことが正しいとは少しも思わなかったが、憎む対象は一つ、それも打倒できないほど強大な力を持った一つであった方がいい。陽介が殺されない限り、里桜は道を踏み外さない。
「あ」
 と、左から清美の声。「この勝負、有希ちゃんが勝つよ」
 里桜から視線を逸らして、目の前の肉と銃弾の飛び散る闘いに目をやる。
 一見して、美津里の方が有利に見えた。プラズマ砲はチャージに少しの時間がかかるものの、それでも有希の再生能力を上回る。確実にケモノ本体の肉を添いでいた。
 しかし、有希の繰り出す、肉柱の再生速度は揺るがない。
 どれだけ撃ち落としてもすぐに再生し、左右から、頭上から、背中から、絶え間なく襲いかかってくる。美津里はプラズマ砲を撃ちながら、肉柱を撃ち落とすのに必死だった。
 左腕は防御できるが、その他は生身だ。気を抜けば鉄ごと喰いちぎられる。銃弾や砲身以外に再生能力を持たない美津里には、一つのミスが致命傷になりかねなかった。
 清美の視線を追って、陽介は清美の判断の正しさを思い知った。
 ケモノの腰から尻尾が一本伸びていた。
 先に牙のついたヘビのようなその肉の尻尾は、弓に引きしぼられる矢のごとく張り詰めて、美津里の一瞬の隙を狙っていた。立ち上がったケモノの背中に隠れたその尻尾は、横から見ている陽介達の視界には入るが、正面に立つ美津里の位置からは見えないだろうことは、容易に想像できた。
 有希と美津里の闘いは続いている。
 何度目だろうか、肉柱を全て撃ち落とした隙をついて、一瞬、美津里の銃声が止んだ。胸のプラズマ砲が唸りをあげた。
 ───まずい。
 と陽介は思った。肉柱を撃ち落とされた時が有希の隙、その隙に乗じてプラズマ砲を撃つ時が美津里の隙。
 ケモノの尻尾がびくんと跳ねて、動き出そうとしていた。美津里は気づいていない。
 陽介は畳を蹴って立ち上がり、駆け出した。 

 『最後に、もう一つだけ間違おう』

 状況を察してすぐさま駆け出した陽介は、尻尾が美津里に届く寸前、間に合った。
 体を美津里の前に滑り込ませて、尻尾の先でガチガチと噛み合う牙に立ちはだかる。 
 美津里に喰らいつこうと襲いかかる牙は、代わりに陽介の上半身に喰らいつく────
 はずだった。
 陽介が痛みを覚悟した瞬間、障子が、たんっ、と勢いよく開いて、
「陽介っ!」
 と叫ぶ女性の声が響いた。
 同時に、陽介と牙の前に深紅の薔薇の花が現れる。
 襲いかかるケモノの牙が薔薇に触れた瞬間、花が弾けて花びらが舞った。
 深紅の花びらが障壁と化して尻尾の勢いを止める。
 ただの、舞い落ちる花びら。
 薄く脆いはずのそれが、分厚い壁のような強度を持っていた。
「陽介、大丈夫っ!?」
 悲鳴混じりに名前を呼ぶ女性は、恋緒 漣恋(こいお れんれん)。陽介の高校時代からの友人だ。
「落ち着きたまえよファウストくん。この私が助けに来たのだ、無事に決まっているだろう。だから、殺し合いの場での軽挙妄動はつつしんで貰いたいのだがね」
 ファウストの背中を守るように立っているのは、黒いタキシードの悪魔、メフィストフェレス。右手の人差し指と中指の間に、深紅の薔薇を一輪、挟んでいる。
 ファウストはメフィストフェレスの忠告も聞かずに、陽介の元へ駆けつけようとしていた。
「今、助けるからね!」
 なんの力も持たないファウストが、まったく空気も読まずに闘争の中心に飛び込んでくる。
 その無礼な来客に、真っ先に反応したのは有希だった。
「邪魔しないでっ!」
 ケモノの肉柱が二本、首をもたげる。一本はファウストへ、もう片方はメフィストフェレスに狙いを定めている。
 肉柱の牙が大きく口を開けて、ファウストに襲いかかった。
 メフィストフェレスは頭部以外を黒い影に変えて、走り出したファウストを背中から包み込む。
 影に変化したメフィストフェレスは、ファウストごとふわりと浮き上がって牙の突進を避けた。
 だが、有希の放ったもう一本の牙がその動きに対応していた。
「ふん」
 牙の挙動を確認して、メフィストフェレスは冷笑する。
「この私が、こんな化け物屋敷に一人で来るとでも思っているのかね?」

 障子の薄紙の向こうに影。
 すっ、と動いて、もう一人、来客が現れた。 

 メフィストフェレスに襲いかかる牙より速く、その来客は宙を飛んだ。
「どりゃぁぁぁぁ!」
 という、ひどく女性的じゃないかけ声と共に。
 来訪者は、ケモノの牙がメフィストフェレスに届く寸前、必殺を思わせる勢いの跳び蹴りで肉柱を蹴り飛ばした。
 蹴り飛ばされた尻尾は右に跳ねて、ちょうどその場に立っていた陽介を打ち据えて壁まで弾き飛ばした。ふっ飛んだ陽介は壁に背中を強打して、ずず、と落ちる。息が詰まって何度も咳き込んだ。
 来訪者は尻尾を蹴った反動で後ろに宙返りし、血と肉の散らばる畳の上にべちゃ、と着地した。顔をしかめる。
「なによこれ! 悪魔に呼び出されて来てみれば、なんなの、この地獄絵図は! 夜だってのに外にまで銃声は響いてるっていうし、信じられないことばっかりよ! あんたらの社会常識を疑うわね!」
 マリュ姉だった。
 来た早々、すでに怒っている。
 マリュ姉は左右を見渡して、獣と化した有希と鉄の塊になった美津里ににそれぞれ視線をやると、「この化け物どもは誰よ!」と喚く。
 この状況でも、マリュ姉はいつものマリュ姉だった。
「どうしてみんなで邪魔ばっかりするのっ!」
 有希はひるまずそう叫ぶと、肉柱を一本、マリュ姉に向ける。
 牙をガチガチ噛み合わせながら襲いかかってくる肉柱を、マリュ姉は平然と左手一本で受け止め、
「狗神の力、ナメんじゃないわよ!」
 そう言って右の拳で打ち落とすように殴り飛ばした。
 殴り飛ばされた肉柱は、畳で一度バウンドすると、よろよろと帰っていく。
「なんだかわかんないけど、この勝負、マリュ姉が預かるわ! 文句のあるヤツは遠慮せずに前に出なさい、ぶっ殺すわよ!」
 マリュ姉は腰に手をあて、周囲に威嚇の視線を送る。誰もがみな、突然現れた、人のカタチをした暴力に呆然としていた。
 約一名、ファウストを除いて。
 ファウストはメフィストフェレスの影から抜け出して、畳に倒れ込んだ陽介の元にしゃがみ込む。
「ねえねえ陽介、大丈夫? まだ死んでないよね? 平気だよね?」
「漣恋……」
 壁に背中を強打した時に流れた涙を拭きながら、弱々しい声で陽介が言う。「どうして、ここに……?」
「メフィストフェレスが、今夜、陽介が死ぬって言うから。慌てて助けに来たんだ」
「どういうことだ…?」
「ずうっと黙ってたけど、メフィストフェレスはね、悪魔なんだよ。悪魔の中でも死を司る悪魔───死神なの」
 陽介がメフィストフェレスに視線をやると、当の死神は、「不愉快だっ!」と叫んだ。
「君の寿命が今日で尽きるのを察知して喜んでいたら、喜びすぎてうっかり口を滑らせてしまったのだ! それを聞いたファウストくんは当然、君を助けに行くと言って張り切り出すし、ああ、最悪だ! 今日は最悪の日だ! タイムマシンがあったら過去に戻って、数時間前の私をくびり殺してやりたいっ!」
 どうやら、死神のうっかりミスのおかげで命拾いしたらしい。陽介は安堵する。確かに、美津里を庇って有希の牙に噛みつかれる寸前、自分に訪れるだろう『死』を感じていた。
「ありがとう、漣恋」
 お礼を言うと、ファウストは丸眼鏡の奥の瞳を細めて、「にひひひひ」と笑う。彼女の、本気で嬉しい時の笑い方だ。
 次いで、マリュ姉に視線をやる。
 目が合うと、マリュ姉はキツイ目つきで陽介を睨んだ。
「あたしはね、今日はここに、戦いにきたんじゃないの。推理を披露しにきたのよっ!」
「推理…?」
「そうよ、推理よ。もしもあたしらが止めに来なければ、ここで殺人事件が起こるはずだった。その事件についての真犯人を暴きにきたの。誰が、何をしたせいでそうなったのかを、ね」
「どういうことだ…?」
「つまり、こういうことよ!」
 微塵も臆することなく、マリュ姉は有希の横を通って陽介の元へ歩み寄る。
 そして、座り込む陽介の前に仁王立ちしてから、腰をかがめ、陽介の胸元をぐい、と掴んだ。
「あんた、清美の力を使って里桜の記憶をいじったわね?」
 顔を近付けて陽介を睨む。
 陽介は目を伏せて、何も答えなかった。
 里桜が息を飲んで、その様子をじっと見ている。
「どうりで里桜の記憶と現実が噛み合わないはずだわ。あんたは多分、里桜に虚(ウロ)が出てた時に清美を憑けたのね。そして記憶をいじって、自分がさも全てを仕向けたように見せかけた。どう? 違う?」
 陽介は答えない。
「その後、あんたは里桜を襲ったヤツらを全員ぶっ殺してるわね。これで、残った犯人はあんた一人。どういうつもり? そんなに里桜の恨みを一身に集めたかったのかしら。やってもいない罪を被ってまで」
 マリュ姉は陽介の胸元を乱暴に引き上げて、無理やり立たせた。
「まぁいいわ。それがあんたなりの思いやりからそうしたんだとしても、結果がこれなら、あんた、馬鹿よ。馬鹿だわ」
 そう言って、マリュ姉は拳を固め、陽介の頬を殴り飛ばした。
 陽介は呻き声さえあげずに、ゆっくりと畳に崩れ落ちる。
 マリュ姉は「この馬鹿っ…」と吐き捨てながら、倒れた陽介の顔を容赦なく踏んだ。
 陽介の隣でそれを見ていたファウストが、目を丸くして、「綺麗な足に踏まれて役得だねー?」と呟く。
 メフィストフェレスはその様子をニヤニヤ笑って見ている。「いい気味だ」と、まったく悪意を隠さない笑みだった。
 陽介の顔を踏みつけているマリュ姉は、里桜に向き直った。
「あんたはどうする、里桜? あんたのことを思ってやったにせよ、こいつは無断であんたの記憶をいじるという、もの凄い馬鹿をやったわ。殺されて当然だと思うのよ。だけど、あんたはまだ未成年じゃない? さすがに未成年に人殺しさせるわけにもいかないし、どうかしら、あんたがまだ憎いって言うなら、マリュ姉が代わりにこの馬鹿を踏み殺して、コンクリに詰めて海に沈めといてあげるけど?」
 里桜はマリュ姉の視線を受け止めると、次いで畳の上にのびている陽介に目をやって、
「本当に、陽介はあの日、あの場所にはいなかったんだね……?」
 と訊いた。「本当はあの日、陽介のことを呼んだ気がするんだ。僕の記憶違いかもしれないけど、『助けて』って、そこにいない陽介を呼んだ気がするんだ」
 その言葉に、マリュ姉は、「それが事実よ」と答えた。
「こいつはその日、あんたの傍にはいなかったわ。その日はマリュ姉に荷物持ちをさせられてたって言ったじゃない。あんたの記憶、他は正確だけど陽介の部分に関してだけは信用おけないわよ。そうよね、清美」
 マリュ姉が清美を見る。畳に伏した陽介の顔を心配そうに覗きこんでいた清美は、顔を上げ、小さくうなずく。「そうだよ。里桜くんの記憶に、ボクが手を加えたんだ」
「じゃあ」
 里桜は困惑した表情を浮かべながら、それでもしっかりとマリュ姉を見た。
「じゃあ、少し、考えさせて…。突然、自分の記憶の方が嘘だって言われても、どうしていいのか分からない……」
 その言葉に、マリュ姉はにっこりと微笑む。
「そう。良かったわ、とりあえずでも大事な金蔓を殺さずに済んで。まったく、あたしたちが来るのがあとちょっと遅かったらどうなっていたことか。ほんと、二人とも無事で良かったわ」
 振り向いて、有希と美津里にも声をかける。「そっちの化け物どももね。無事で良かったわ。化け物でも命は大事よ。金になるもの」
「なんだい、そのヘンな理屈は……」
 呆れた顔で美津里は言って、武装を解いた。ゆっくりとはだけた着物を直す。
 もう、戦いを続ける空気ではなかった。
 有希も、まとっていたケモノの肉から割れるように分離して、クマのぬいぐるみを掲げ、ケモノをその中に吸い込んでいった。
 そして、闘争は終わりを告げる。
「……あれ? ボクのことは心配してくれないの?」
 清美が言ったが、マリュ姉は、「あんた、死なないじゃないのよ」と返した。ふん、差別だ、と清美はそっぽを向く。
「あんたも、いつまで寝てるつもり?」
 踏みつけてる本人が、ようやく、陽介の顔から足を上げた。陽介は小さく頭を振りながら、もぞもぞと身を起こし、壁にもたれる。
「マリュ姉のパンチ、すげえ効いた…。さらに踏みつけるとか容赦がなさすぎる…。頭がくらくらする……」
 頬を押さえて陽介が呟くと、「それでも手加減してあげたんだから有り難く思いなさい」という声。
「さて、一段落したみたいだし、あたしは帰るわ。こう見えて忙しいのよ。あたしは帰るけど、あんたらは、ちゃんと話し合うのよ」
 マリュ姉が障子に向かって歩き出す。「人間にとって大事なことは、話し合うことと、信頼関係と、あとはお金よ。お金は人間を裏切らないわ。困った時はお金で解決なさい」
 そこまで言って、「あ、お金と言えば──」と立ち止まる。振り返って、畳に目をやる。
「肉片は消えたみたいだけど、血がついてるじゃない。これは代えなきゃダメね。後で回収屋に連絡しとくわ。とりあえず立て替えておいてあげるから、お金は後払いで貰うわよ。血のついたストッキングの代金と一緒にね」
 あと──、マリュ姉は腰に手を当て、胸をそらした。
「人間にとって大事なことをもう一つ忘れてたわ。『恩』よ。これ、恩よね。あんたら全員、マリュ姉に恩ができたんだから忘れたら承知しないわよ。いつかこれに見合うだけのモノを返済してもらうから、覚えておきなさい」
 そう宣言して、マリュ姉は立ち去った。
「ではファウストくん、私たちも帰るぞ。こんな辛気くさい場所にいると身も心も腐る」
 メフィストフェレスがファウストの手を取った。
「もう、誰も死なない?」
 見上げて尋ねるファウストに、メフィストフェレスは、「今夜はもう、この辺りで魂が移動する予定はないな」と答えた。
 うん、そっか──満足そうにうなずいて、ファウストは歩き出した。
「もう帰って寝るー。ねむいー」
「なあファウストくん。今まで人智を超えた殺し合いに巻き込まれておきながら、急に眠くなれるその神経はどこから来てるのかね? 理解に苦しむな」
「ここに助けに来る前から眠かったんだよ……」
「さらに理解に苦しむな」
 言いながら、メフィストフェレスは体を影に変えた。ファウストに覆い被さって闇の中に包むと、黒い翼を伸ばして羽ばたく。
「では、死から疎まれた者たち。良い夜を」
 ふわり、と浮き上がると、夜の中へ飛び去って行った。
 取り残された美少年使いと憑き物達は、嵐が去った後のような静かな部屋に取り残される。
 さっきまでの、ぎすぎすした空気が嘘のようだった。
「……まったく、こうなってくると、必死で戦ってた僕らが馬鹿みたいじゃないのサ」
 美津里が苦笑する。「ほんとだね」と有希が相づちをうつ。
「しかし、陽介さんの周りにいる人たちって、でたらめな人ばっかりだよね…」
 清美がそう言うと、誰とは無しに小さく笑い出して、美少年使いと憑き物達は、静かな部屋の中、くすくすと笑いあった。
 初めて、みんなで顔を見合わせて。



 それから二ヶ月後───。
 秋の夜。
 寝つけなかった陽介は布団から抜け出し、縁側に腰を下ろして夜空の満月を眺めていた。
 そうしてぼんやりと、今までのことに思いをはせる。
 あの日以来、陽介の日常生活に、少しの変化ができた。長く途絶えていた里桜との交流が、また始まった。学校が休みになる週末となると、里桜が陽介の家に泊りにくる。
 それは、里桜が陽介と話し合うためにそうしているのだった。今までのこと、美少年使いのこと、憑き物のこと、小鳥遊の血のこと。里桜が知らなかったそれらのことを話し合い、これから先のことを考えようとしていた。目を逸らさずに、全てを受け入れようとしていた。
 強い子だな、と陽介は思う。
 自分には昔、できなかったことだ。今でもきっとできないのだと思う。
 陽介は結局、小鳥遊の定めに反発していながら、少しもそれから外れることができなかった。父を殺し、自らも美少年使いを作り、殺し合いまでした。定めを嫌っていながら、深く定めに囚われていた。
 里桜が素直な感性で小鳥遊のことを受け入れていくのを見るたびに、陽介はそれを思い知る。
 今日も里桜が泊りにきていた。
 里桜が泊りにくるようになってから、もう一つ、変わったことがある。
「ぼく、ピーマンきらいー。にがいー」
 食卓についた有希が、ピーマンの中に詰まった肉だけを取り出して食べている。
「こら。ちゃんと食べないと大きくなれないよゥ」
「ぼくは大きくならないからいいんだもん」
 でも──有希が言う。「里桜くんは食べないとね? 大きくなれないもん」
 有希の言葉に、「う…」と里桜が固まる。里桜もピーマンが嫌いだ。有希が苦いから嫌いだと言うなら、里桜の理由もそうなのだろう。
「有希ちゃんも食べなきゃダメだよ」
 清美が箸でピーマンの肉詰めを掴んで、有希の口元へ運んだ。「ほら、美味しいよ」
 清美のすすめに観念して一口食べた有希は、もごもごと口を動かして、「やっぱりにがいー」と呟く。
「おやおや、清美くんは有希ちゃんにべったりだねェ」
「うん。だって、有希ちゃんはボクの子供みたいなものだから。ほら、ボク、有希ちゃんが産まれる前に里桜くんの頭の中に入ったじゃない。その時に、ちょっとだけ、ボクの意識が混ざったんだよ」
「そっかぁ。それでぼく、清美くんのことが好きなんだね」
「そゆこと。ボクも有希ちゃんのこと、大好きだよ」
「なぁ、ちょっといいかな」
 陽介が口を挟む。「あのさ、いつも不思議に思ってるんだけどさ、どうして、憑き物のお前達まで一緒に飯を食う必要があるんだ? 食べなくても平気だろ?」
 里桜が差し出した茶碗にご飯をよそいながら、美津里が笑う。「いいじゃないのサ。ご飯はみんなで食べた方が美味しいよゥ」
 美津里の言葉に清美が続いて、
「それにほら、ボクらだって、もう少し人間らしく、ねっ?」
 と微笑んだ。 

 あの一日を経て変わった少しは、随分大きな少しなのだと、陽介は思う。
 周囲を包む空気が変わった、ただそれだけのことなのに。
 殺伐とした空気はどこかに消えて、今は、なんだかひどく優しい。

 不意に、すっとふすまの開く音がして、里桜が顔を出した。ぎしぎしと古い縁側をきしませて歩み寄ると、陽介の隣に腰を下ろす。
「起こしちゃったかな?」
 陽介が声をかける。里桜はいつも、陽介の隣に布団を敷いて眠っていた。部屋を抜け出した時に起こしてしまったとしても、不思議はない。
「ううん。なんだか目が覚めて。横を見たら、陽介がいないから」
「そうか」
「陽介は?」
「ああ、なんだか寝つけなくてね」
 それっきり、二人、しばらく無言だった。
 ただ並んで、夜空に浮かぶ満月を見ていた。
「……悪かったな」
 先に口を開いたのは、陽介だった。「記憶をいじったこと、まだ恨んでるだろ」
「ううん、いいんだ」
 里桜は首を振る。「変な話だけどね、あの日、自分が本当だと信じていたことが全部嘘なんだと分かった時、なんだか、どうでもよくなっちゃったんだ。肩の力が一気に抜けたら、恨みとか憎しみとか、そういうものまで一緒に抜けちゃったみたい」
 小さく笑って、続ける。「陽介のしたことは間違ってたよ。あの時、マリュ姉から嘘だと教えられなければ、僕は陽介を殺して、陽介と同じ道を辿っていたと思う」
 けど──、里桜は陽介の手に、自分の手を重ねた。
 そっと握る。「けど、記憶をいじられてなければ、その時も同じ道を辿ったよ。自分の身に起こったことへの恨みと憎しみと、人を殺せる力を抱えたまま、自暴自棄になって。怖いよね。歪んだ心のまま、誰かを簡単に殺してしまえる能力があるなんて」
 里桜の指は、少し震えていた。
「だから、結果的には正しかったんだよ、陽介のしたことは。今こうやって普通にいろんなことを考えられるのは、陽介が間違ってくれたおかげだよ。陽介が僕の憎む対象になってくれたおかげ、そう思ってる。人生ってきっと、正解を選ぶことだけが正しいわけじゃないんだ」
 陽介は里桜の顔を見つめて、その手を握り返した。
 小さく「ありがとう」と呟く。
 里桜は照れくさそうに、「でも間違いは間違いなんだからね、反省してよね」と言った。
「……ねぇ、陽介は最近、楽しい?」
「楽しい……? ああ、うん、そうだな。楽しいよ」
 確認するように、陽介はもう一度「楽しい」と呟く。楽しいなんて感覚を、久しく忘れていたような気がした。
 陽介のその言葉に、里桜が微笑む。
「僕もね、最近、なんだか楽しいんだ。昔、一緒に暮らしてた頃に戻ったみたいで。あの時みたいに、今もなんだか幸せで、楽しくって。ねえ、知ってた? 僕は幼い頃から、陽介に恋をしてたんだよ」
 突然の告白に、陽介は面食らう。
 里桜はそんな陽介の表情をじっと見ると、「ほら、やっぱり知らなかった」と笑った。「鈍いんだから」
「僕ね、色々考えたんだ。美少年使いのこと、憑き物のこと、小鳥遊の血のこと。そして出た答えは、僕らが最後の美少年使いになるのが一番いいってことなんだ」
「それはオレも考えたよ。だけど、うまくいかなかった。里桜をそうしてしまった」
「今度は大丈夫だよ」
 里桜は自信ありげに言う。「だって、小鳥遊の血は僕らの代で絶えちゃうんだもの」
「……どういうことだ?」
 陽介が言うと、里桜は「相変わらず鈍いなぁ」と返した。
「ねえ、もう一つ、間違ってよ。陽介が僕にした間違いは許してあげる。だから、罪滅ぼしにもう一つだけ間違って。僕は昔と同じように陽介をずっと好きでいるから、陽介も僕だけをずっと好きでいて」
 陽介は一瞬、何を言われたのか分からずにきょとんとしたが、すぐにその意味を飲み込んだ。「でも……」
「でも、は、いらない」
 里桜の瞳は、まっすぐ陽介を見つめている。「すぐに好きになって、とは言わないから、でも……なんて言わないで」
 真剣な声。「YES、以外の返事を聞きたくないから」
 その言葉に陽介は苦笑する。ずっと交流がなくて忘れていたが、里桜のこういう、押しの強いところは昔のままだ。
 そして、里桜が意地を張りだした時の陽介の返事も、昔と変わっていないのだった。

「里桜がそれで幸せなら」

 お互い、返事はもう、知っていたはずだ。
 にっこり笑って、里桜が陽介の胸の中に飛び込んでくる。
「ねえ、間違おうよ、一緒に。他に正しい道があるんだとしても、それでも、ずっと僕のそばにいて」
 微笑む里桜を、陽介はぎゅっと抱き寄せた。
 抱いた里桜の背中の向こうに、金色の月が浮かんでいる。
 夜空に浮かぶ月を見上げながら、陽介は、「そうだな…」と、小さな声でそっと呟く。

「最後に、もう一つだけ間違おう」

 正解を選ぶんじゃなくて、幸せを選ぶために。



 陽介と里桜の様子を、障子の影から憑き物たちが覗き見ている。
 じっと様子を見ていた三人の憑き物は、陽介と里桜の顔が重なったのを確認すると、
 ふふふ、
 と、幸せそうに笑って、その場から消えた。

美少年憑き

美少年憑き

狗神、狐、美少年──。 それは、人に憑くケダモノ。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  序
  2.  清美
  3.  清美
  4.  マリュ姉
  5.  有希
  6.  清美
  7.  アリス(1)
  8.  アリス(2)
  9.  陽介
  10.  里桜
  11.  番外編 『鬼と砲華と』
  12.  陽介(1)
  13.  陽介(2)
  14.  メフィストフェレス
  15.  陽介
  16.  里桜
  17.  美少年憑き
  18.  『最後に、もう一つだけ間違おう』