真紅の禁戒 第二章 戦闘同意手続終了

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
    ──マタイによる福音書10-34

 戦闘、同意。
 その戦闘を開始するには、先ず手続を経ねばならない。

 以下、【同意書】。
・世界に在る鋼の巨人、「理不尽」に従属しながらも、わが美と善を抱き決してそれから手を離さないうごき、理不尽に斃れ、頸元をそいつにぐっと圧しつけられながらも、魂の鎌首を全身全霊で挙げて、美をみすえ、善くうごきつづけるというくるしみをひきうけ、もしそれができなかったとき、絶対に自己を赦さず批判の鞭を与え、そして、そのうごきを絶えずうごきつづけることができますか?──同意。
・肉の裡に火を炎やし、勇気ある有機のうごきをしつづけることができますか?──同意。
・されば「わたし」に付着した余剰物をできるだけ剥ぎ落そうとする、観念的な、あまりに観念的なくるしみにくるしみぬくという「損ない」を被ることができますか?──同意。
・それが果して有意味であるか、みずからを良い方向へ導くか、まるで不可解の混沌のなかで生を台無しにする覚悟でそれに賭けんとする、脱落と墜落と失墜のうごきを、「全てそれでいい」と投げ遣りに愛する不可解へ、幻の絶対的な城へ跳びつづけることに同意できますか?──同意。
・死ぬ迄を生き抜くことができますか?──同意。

 これ等のうごきは、芸能界という理不尽きわまる環境で、世にも稀なほど充実していて、わたし、この環境にこころから感謝を捧げる者である。

  *

 ところで、遅ればせながらも自己紹介。
 わたし、その名を「鈴木直子」、公私ともに愛称は「ナオちゃん」で、みずからによってつけられた芸名、我ながら少女趣味的潔癖の薫るようなそれ、「紗希(すずき)なお」であります。この苗字は水樹の遺書にある失望の「紗」の砂と、そこへとび立たんとする「希」望からとったそれなのです。わたしはこんな自分の趣味を、如何にも愛らしいものと想ってもいる。サイトのプロフィールに書かれてある座右の銘は、「きちんと生きて、きちんと傷ついていく」。今更の、自己紹介である。
 つまりは、創と記す如く丁寧に、概念-少女的倫理に照らし浄く正しく、然るべく疵を負っていかねばならぬ、そう戒めている人間がわたしだということである。傷負わぬ頑丈な防衛を背に負うのが大人であるのなら、わたし、大人になる気はさらさらない。わたしは、神経をまっさらへ剥きたい、「悪」をまるで肌に徹していたみへ純化して、神経の隅々までそれを感受して、踏み外したひとの偽の悪い本性に、まるで世界をはじめて訝しげに眺める落ちてきた幼児のように愕き、慄き、傷つき、されば一度死にぞこなったわたし、その背にましろの「雪の制服」──澄む淋しさと見紛うほどに、清む死を照りかえすそれ──さっと羽織るように負って、ひとのこころの風景の、切なくも林立する透徹した美を夢みなければいけない。エミリ。わたし、貴女を愛しているよ。
 されば、美をみすえ、善くうごく。
 憧れへ、迸るままに舞踊する。
 心の底から一途に歌い、現実という仮の主人へ弓を吹き、理不尽を舞踊り、いつや、月夜に舞踏る。
 わたしの仕事は、アイドルである。足場なくファンに求められる虚像を演じ、ファンの喜びを増やし、悲しみを減らす職業だ。
 わたしは愛玩の道具である、というとぞっとする程自虐めくけれど、しかし、わたしのような疎外感を所有した人間にとって、自己と観念的な憧れを繋ぐ媒介となる「世間」なるものと、どうにか関係するための道具というのが何らかの仮面に自己を合わせることであるとわたしは考えていて、その虚栄性・演技性のようなものは殆どの職業にいえることであろう。職業とは、そのひとと社会を仲介させるある種媒介道具だ。わたしは職務にわたしの心身のシステムを合わせ最適化させる気はさらさらないが、だからこそその違和を銀に締め、背骨にわななかせ、その背骨を銀の倫理の硬質な芯へと変容させ、労働なるものを全力でやるつもりだ。
 わたし、その猫かぶりな仮面をさいごのさいごに不合理と砕き割り飛翔させるうごき、それが、「愛のうごき」ではないかしらとも疑っている者だ。
 わたしはわたしを実験台とするこの生き方を、この拙くも過剰で慎ましき内面戦争の叙事としての小説を、そのような結末にしなければならないという義務を負っている者だ。
 聴いて。
 セックスなんかの話じゃないよ。わたしの推測では、愛とは、もしそれがあるとするならば、「わたし」によりすべての装飾と肉を脱がせ、対象へ全的に投げだすものである。
 わたしへの注意。わたしの純粋への悲願はわたしのみに適用させねばならず、いうなればみずからを王国へ変容させる作業でもあるが、その純粋への意欲をもし集団へ適用させるならば、わたしはどこまでも国家主義的となりえるであろう。従って、わたしは孤独でありつづけなければならぬ。孤独でありつづけなければならぬ。
 わたしは、みずからを王国へ装飾するのだ。女王様は、燦りかがやく月硝子城(つきがらすじょう)
 すべてを脱ぎ肉からも脱獄した人間がそれでもなお人間であるということ、それを立証する為に、わたしは死ぬ迄を生きる。ひとの善心を信じるために、死にたいほどのくるしみに抵抗する。わたしの信仰を信じるに値するとみなすために、わたしは生き抜く。わたしが生き切ろうとするのは、生きることそのものが祈りであるからだ。
 わたしを世間と関係させるものは演技であり、仮面であり、それは淋しいことであるかもしれないけれど、しかし、わたしがこれまでしていたことと何ら変わりはない筈である。ということは、実はわたし、アイドルが性に合っているのかもしれない。

  *

 アイドルの仕事とは、表面を美しく磨き、愛してくれるひとびとの喜びへの奉仕に徹し、自己を「商品」に剥いて往けばいくほどに、逆説的にその生き方が商品性から離れて往くという点において、ある種の芸術家のそれに、よく似ているよう。
「名声なぞ欲しくない、俺は大衆に迎合しない」とうそぶく、孤高の思想家ぶった堅物のそれよりも、みずからを戯画と示した芸術家の、内奥の領域を瑕つけ磨きぬかれた商品を、わたしは愛する。
 何故といい、けだしそれこそが天へ投げ放って銀の瞼を剥がし、仮の神なるものを引き摺りおろしえる作物であるから。
 ボオドレール。わたしはカイン。カインに奉仕しようとするカイン。仮の神へ弓噴く背徳の俗悪人。即ち、わたしはアイドル。ファンなるひとびとへの、奉仕の美。

  *

 デビューお披露目に遡ろう。
2020年7月6日。夕暮のどこかの時刻。
クリスマスイブを誕生日とするわたしは、まだ十八歳であった。其処は地下劇場であった。
 ややしか高さのないステージに、別のアイドルグループを推す男性たちが百人程度、なんだか壁は煤けていて、男性たちの熱っぽい体臭がステージの裏にまでむっと香り、如何にも地下の偏見どおりといおうか、アングラな領域だという感じがした。わたしは俗悪美を愛好しているので、むしろこの雰囲気は望ましい。抑々わたしはなぜかしら、体臭というものに嫌悪がない。信頼していない人間に肌を使用されるということに、なんら抵抗がない。肉と霊は、べつの問題だと考えているからであろうか。
 わたしたちは二番目だった。既にデビューしている一番目のグループがステージに上がり、観衆がわっと歓声をあげる。ここに立ち歓声を浴びた人間というものは、忘れることの不能な強烈な歓びをえるらしい。脳内からなにかの物質が迸るのであろう。わたしはなるたけ心のうごきを脳内物質で推測するよう気をつけている、それは心というものがきわめて100%に近く化学物質であると捉えているからであり、そして、残りのミクロ単位の「肉体ではない領域」をいつや発見するためである。
 わたしは前述の歓びをえてはならぬ。従って、わたしはそれから「わたし」を守護するために、銀を注ぎこまれた背骨をきっと立たせ、ひとの背にレリーフと構築されその聖性を表面に月影と浮ばせた突起、世にも美しい線を意識してその場にいるありとある人間と意識のなかで林立、そして、着せられた奇妙奇天烈な衣装に躰を防御し悉くを撥ねかえす決意に、ふたたび身をかためるイメージをした。
「ドキドキするね」
 と、ひと懐っこく愛嬌があるが幾分自分の話が長くわたしを辟易させるメンバー(彼女のアイドル的パーソナリティーは、大方これを活かすべきだと想われる、素でかわいいとことがある)、川野春子先輩が、緊張のしすぎによる笑みを浮べながら、わたしに話しかけてくる。
 やや悪いようにいってしまったけれど、わたし含め五人のメンバーのなかで、わたしとにこにこしながら会話してくれるのは、春子先輩のみである。
「はい、わたしステージに上がるの初めてです。春子さんも、やっぱり緊張するんですね」
 と、ふだんの習慣どおりに嘘をつかないように注意しながら、なるべく本心と言葉を通らせるように、しかし、相手への失礼のないように軌道を修正させて話す。わたしの平常の会話は、きわめて理念的であると想う。
 大森は、以前べつのアイドルグループで活動していたために、年下ではあるが先輩である。従って、彼女に対しては敬語で話すのが礼儀となる。
「するよー。久々だし、なんか膝破けすぎだし。やだなあ」
 大森のスキニーは、ダメージが幾らなんでも入りすぎている。それにピンクと黒のストライプのカットソー(然り、少女的というよりも、女児的なものを想起させる)、黒髪は眉までの前髪をそろえたツインテール。小柄で童顔だが体型のバランスのいい彼女に、よく似合っている。
 翻ってわたしの衣装はわたしを美しく装飾するには、わたしの骨格ストレートというものを理解していない。イエローベース春の肌の色にも合っていない。不服。わたしには自分はファッションセンスがあると自負することはけっしてできないが、ふだんわたしの美意識と独自研究によりアレンジされた「病みカワ(兵器としてのそれはむろん嫌悪の対象であるけれども、わたしは「地雷」という言葉の暗みの火花散るセンシティブな字面・音韻をどちらかといえば愛しているほうである、が、「系」で括ることは概念-少女的倫理に反しているため、よっぽど自虐的反抗をしたいとき以外は「病みカワ」という言葉を使用することにしている、わたしはふだん無口なほうであるが部屋で書き殴る文章においては大森の何倍も喋りすぎていて、これは屡々ブログの書き方に指摘されてきたわたしの傾向でもあろう、だがわたし自身より湧く正直な気質がありとある方向より射す自意識に揺らめき、この横にぶれていきながら劇しいグラフをえがくような文体を迸らせるのであるため、わたしはこれに従うほかはなく、されば…自制。)」を愛好しているために、「わたしには似合っていない」と殆どいいきれるのである。
「そろそろステージです」
 扉が開け放たれた。わたしは愛していもない男たちに躰を投げだすように跳びこみ、そして「わたし」を何ひとつ明け渡さない決意に貞操を固めた。…

  *

 二階堂奥歯、『八本脚の蝶』。
 わたしは高揚と自尊心向上を毀し、浄化させるようにこれを真夜中に読み耽った。「精神の浄化」という、不潔きわまりない概念を嗤いながら。わたしの自意識は、まるでいつもわたしの外側にある。
 わたしはこの書物を、水樹晶のブログで知った。危険な悪書。けだしそれであった。というのも彼女の言葉は、ある意味において、わたしを殺したのだから。はや以前のわたしにはもどりえない迄にわが身を砕き、破壊した。わたしはけだしそれゆえにこの書物に惹かれたのだった、絶世の殺意がこもり、ともすれば真白な爪で鋭く読者を剥ぎ殺すような言葉を、わたしたちは愛する。
 穢してください、利用してどうぞ。
 毀してください、殺して、いいよ。
 その悉く、わたしの「わたし」は撥ねかえすから。
 わたしはあなたの発情材(ポルノ)じゃない、ともすれば奴隷のようにわたしたちを堕とす「現実の理不尽」こそが、「わたし」を炎やす発火材(インフェルノ)だよ。盛りのついた不幸こそ、わたしをうごかす原動力。炎えあがってやる。炎えあがってやるんだ。つよく。冷たく。硬く。青々と。
 低潔に、なりたいのです。
 低潔に、なりたいのです。
 わたしたちが縛られ嬲られ躰を利用され尽くしてみたいというのと、われわれを性的に搾取しようとする男性の欲望を是認しないということは、けっして矛盾しないのである。なぜってわたしたちに、躰なんていらなかったのだから。躰があるということが、不気味きわまりないのである。躰と魂の関係、それ、いわく不穏。
 ポーリーヌ・レアージュ、『O嬢の物語』。
 共感? していません。「共苦」まで、レッスンしていきましょう。今宵は、以上。おやすみなさい。

  *

 しかし眠れなかった、わたしは昔からぐっすり眠ることができないのだけれども、今宵は、さらに目が覚めていたのだった。
 わたしは恋愛をしてはいけない人間であると、ずっと、そう想いこんでいた。
 わたしには恋愛の資格がないのだ、わたしはひとを愛しえないし、わたしはひとから愛を受けるにあたいしない。こんな意識は病める自意識を所有するうら若きひとびとが往々もつものであり、勿論われわれは恋愛をしえる人間に成長しえるし、或いはその病める精神の領域の治療を、自己によってだってすることができる。
 わたしは読書を好むほうであり、この問題を理念的な働きでもって克服するために、古典恋愛小説等でさまざまな恋愛を追求するにことかぎらず、愛についての思想書、愛しえる人間とはというような最新の研究、「生き辛さを克服する本」のようなものも幾百冊かくらいは読んできたと想う、そして、次のくるしい言葉がわたしの眼前にどぎつく明瞭とさせる働きを齎したのが、それ等の読書経験・思考経験であるにすぎなかったのだった、わたしは次の言葉を突き付けられるたびに身を折るようなせつなさに苛まれる、そのためにいくども、いくどもわが身を変えよう、考え方を代えようとこころみたのだけれども、しかし、そのぐらつく情緒の点のうごきですらも、わたしのこのまるで戒律めいた公理のような言葉を、厳然として屹立させることを促すのみなのだった。
 つぎの言葉というのは、これである。

 わたしにとっての「ひとと愛し合いえる生き方」は、わたしにとっての「わたしじしんの生きたい生き方」と対立し、それ等は、絶対に相容れられない。

 すべては、ここに尽きる。
 幸福を与え合う生き方を、みずから不幸に佇み不幸面する決意をしたエゴイストに、できるわけがないのだ。
 わたしの恋愛論を披歴する心算であるけれども、どうか、これを純粋性(ピュアネス)による言葉ではなく、根源の幼稚性より昇る叫び、或いは、それが余りに観念的な表現にすぎるのならば、「歌」として読んでほしい。おねがい。おねがいだよ。
 ピュアだね、だなんて、わたしは、絶対にいわれたくない。

 わたしは、「恋愛」というものを、なによりも特別で他と隔てられた恋人という対象を信じ、大切に大切にし合う関係それのみにおいて適用できる、きわめて厳密な状態のみを指す、きわめて限定的な名辞であると考えている。
 神秘と高貴の領域が馥郁と洩らす、ある種人間にとって最高度の情念の発露にして、最底辺の魂を揺らし合う素朴な関係を云う言葉だと考えている。

 愛の和訳。「御大切」。
 サン・テグジュペリという、平凡きわまることしか書いていない平凡きわまる小説家(これは小説家としての最高のつよみである)の言葉。「愛するということは、見つめ合うことではない。おなじ方向を向くことだ」
 殆ど俗説。愛すると信じるは、おなじこと。

 これ等の言葉はわたしにとって至極当然のものであり、このほかである筈もない。
 なぜといいわれわれの素朴なこころが、それを当然であると内的に判断するからである。そうではないかもしれない、けれども、そうであってほしい。それだけなのだ。
 わたしには人間にとっての絶対的な善悪が、すべての人間のこころにじつは組み込まれているような、そして、それは人間にははっきりと突き詰めたり辿り着くことはできない、けれども其処へ向かうことはできるような、其処の風景を見ることはできるような、其処でなる音楽を聴くことはできるような、そんな気がしているのである。そして、広義の愛というものは、やっぱり、善いものになりえると想う。善いものへ導き、誘い込み、軌道を整わせ、化学変化させないと、ほんとうは、「愛」とはいえないと想う。
 真紅の情念と青の理念と綾織る、美と善の落す翳の重なる処、其処に、愛の影が陰翳されているような、そんな予感がある。
不合理、神秘。わたしはこれ等を軽蔑するひとびとは、けっきょく、真実には辿り着けないのではないかと、倨傲にも、無謀にも、考えているのだ。

 すくなくとも、恋人を大切にしなければ、その関係性に対して恋愛関係という名辞を与えることを、わたしにはできない。
 そのほかの恋愛を、わたしは、殆ど搾取と支配と奴隷と性欲諸々への欲心による、たかが重力に従われて為される、とりわけ悪いものではないがけっして神秘と高貴の領域にない、たとえば食欲のままに食べてすぎている様子と、そうとおくはない領域にあるものだと、本気で考えている。
 恋愛関係という、非法的な約束。その関係における、不倫行為。わたしは他者のそれ等に関心はないが、ぜったいに、是認できない。

 ひとを、大切にする。
 わたしはこの主題によって、生涯を台無しにしてきたといっても過言ではないと想う。他者を大切にできないわたしを批判することを、他者を大切にするといううごきをすることに多大な思考を費やし多大な実践をしてもなにひとつこれという心・行為がわたしじしんに発見されえないわたしを批判することを、ほかの何よりも優先させてきたと、わたしは一種自恃をもっていうことができる。わたしの唯一の劣等感こそ「他者を大切にできないこと」であり、換言すれば、わたしはつよくやさしい人間の逆なのである。
 ひとを、愛せない。
 年齢-少女期、こんな悲劇のヒロインぶったインチキのべったり貼りついた言葉で自己をいくぶん見紛っていたが、注意ぶかくわたしじしんを凝視めるならば、「わたしは他者に大切にできない」というのが正確にちかい言い方なのでは、と、現在考えている。
 そして、わたしはついに、「自己無化」というおそるべき主題と邂逅したのだった、いな、これ迄のわたしのIDOLへわたしじしんによって名付けられたあらゆる余剰な名辞、「純粋な愛」「無償の愛」「自己犠牲」「滅びの美学」、そのような偽りの名辞をいたみをともなって貼っては削り、貼っては削り、ようやく、「かのような生と死のうごきとは、”自己無化”という名辞を与えられないことはないのではないか」と、渋々と、注意ぶかく、この名辞のまっしろな怖ろしさに慄きながら、わたしは判断して了ったのだった。
 わたしは、自己を抛る生き方を、志向する。
 自己を抛る生き方というのは、すくなくとも自己と他者との関係性において成立する「大切にする」という行為を、自分自身に適用することは不可能な状態へ自己を追い込むということではないだろうか。
 そして、わたしは自己を愛するようにしか他者を愛しえない種族である。それが人間というものなのか、そうではないのか、わたしには判断する資格がないのだけれども。なぜってわたしは、わたし以外に試しに代わってみることはできないのだから(嗚、わたしの生涯の悩みは、これ)。
 即ち、わたしにとり「恋人という対象を大切にする」というのが「恋愛」という関係を成立させる条件であるならば、わたしがわたしじしんとして生きつづけるかぎり、わたしは絶対的に恋愛不能者であることが明らかになる。「自己無化」への生き方を自己に課したわたしは、恋愛不能者でありつづけなければならないのだと結論させる。

 2020年、7月7日、午前三時。スコット・フィッツジェラルドいわく、魂の真暗闇の時刻。
 恋愛、禁止──同意。
 わたしの魂から、蕾の儘のよろこびが、劇しく静かないたみによって、剥がれる音がした。俗悪な音楽、乾きざらついたましろの風景。悲痛によって欲しいものを奪われ削がれたようなわたしの顔が、わたしの眼前に赫々とした。欲しかった。欲しかった。わたしは恋愛が、欲しかった。断念。失念。こんなものがわたしをつよくやさしい人間に導くだなんて、どこにも保証はない。ただ、賭ける。それだけであった。
 わたしは暗みの眸を吸われるように凶暴な瞳孔のみひらいた貌で、ベッドのうえ、唯、閉ざされた自己愛と独善の飛沫のようなかわいた涙ばかりが流れることをのみ、この決意による吐血だとし、自己に赦した。
 自罰。わたしはこのある種与えられたネガティブな性情を、克服するのではなく、利用してポジティブな感情・行為を構築しようとしているのだろう。なぜわたしがそれを選ぶか、きっと、この性情は治療できるものではないと、たとい治療したって、わたしの「わたし」を歪めるんだから、と、諦めているからではないかしら。

  *

 シモーヌ、わたしを赦さないで、なぜってわたしは、これを、破ったのだから。

真紅の禁戒 第二章 戦闘同意手続終了

真紅の禁戒 第二章 戦闘同意手続終了

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2024-05-15

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